昼食時の学生食堂と言えば、平日は目も当てられぬほどの混雑であるのだが、土曜日であればそうでもない。
三蔵は適当な時間を見計らい、学内に三箇所ある学生食堂の内で、何度か八戒と会ったことのある、軽食中心の食堂に立ち寄っていた。生憎と、待ち合わせを伝言してきたはずの八戒の姿は見えなかったが、長く探すこともせずに窓際の席に腰掛ける。
人が少ないとは言え、学生たちが昼食を取っている最中だ。館内には、換気も間に合わぬままに、煙草の煙がうっすらと立ち込めていた。
三蔵も一本目の煙草に火をつけた。昼の陽光は窓辺にさんさんと降り注いでおり、清潔なテーブルの板目を、大理石のように輝かせている。その照り返しに目を細めながら、軽く肩の力を抜く息をついた。
平和な毎日だった。
仕事の滞りはなく、面倒ごとに巻き込まれることもなく、ただ朝から大学に来て、夕方には家に帰れば良い生活だ。何かのきっかけがなければ、悟空が未来から来たのだということすら思い出さずに一日が終わる。
特に、三蔵が意思表示して以来の悟空は、以前のように本との睨み合いに時間を費やすことがなかった。本は手元に置いてありもするのだが、三蔵が絶えずちょっかいをかけるせいで、読み進められずにいるらしい。
一日でもそっとしておけば、彼の混乱も、とっくの昔に収まっていたのだろう。
しかし、じっと見ているだけでいちいち涙目になったり、慌てて顔を真っ赤にしたりする反応が、三蔵にとってはたまらなく楽しかった。結局、彼の気持ちが追いついていないことを知っていて、わざと際どい触れ合いを繰り返している。
悟空は泣きそうになるたび、種を植えたばかりの鉢植えを持って、風呂に非難していた。おかげで、自宅の風呂場からは、良く三蔵への悪口が聞こえてきてもいる。
彼と己が抱えている問題を忘れたわけではないのだ。
けれども、忘れてしまったからと言って、すぐに都合の悪い出来事が起こるわけでもなかった。悟空には話さずにいるが、三蔵は、悟空が望むなら、このまま彼を居候させ続けても良いとすら思っていた。
何事もなく日々をおくれるのならそれが一番良い。少し前までは、平穏な毎日に退屈していた自分が、今はてらいもなく願う。
本当に――多分願っていたから。
三蔵は、こちらへ向かってくる八戒の姿を見つけた時、不意に揺らいだ視界に驚いた。
一瞬、例の予兆かと思った。
しかし、瞬きして目を凝らしたあとは、全くそういった素振りはなく、もしかしたら、ただ単に陽光のせいで輪郭がかすんだだけだったのかもしれない。
「お待たせしてすみませんでした」
傍まで辿りついた八戒が、いつもの顔で笑う。
三蔵は喉まで上がった違和感を無理やりなかったものにし、曖昧な挨拶を彼へと返した。
昼食を取っていないと言う八戒に付き合って、三蔵も自販機でカップコーヒーを購入し、改めて席についた。
向かい合わせの席でホットサンドを手に、食にはうるさい知人が苦笑する。
「相変わらずコーヒーですか。胃が荒れますよ?」
「人のこと言えるのか」
注意を促しておきながら、八戒のトレー上にも同じくブラックコーヒーが並んでいた。三蔵が指摘すると、彼は目元を緩めて言葉を付け足す。
「僕は食べながら飲んでますから。あなたがコーヒーだけ飲んでるから言ってるんです。そうじゃなくても、気苦労の多い仕事をしてたんじゃなかったですか?」
確かに理事長職も順風満帆な日ばかりではない。
三蔵は肩を竦めるだけで応えなかった。八戒は三蔵のことしか言わなかったが、実は彼自身も皇族などという面倒な立場にいる。穏やかな顔をしておいて、彼にだって目が回るほど忙しい時期はあるのだ。
とどのつまり、カフェイン中毒はお互い様だった。三蔵は早々に彼の軽口に付き合うことをやめた。
「それで」
ハイ、と、八戒は笑う。
「お前の話はなんだ」
度の入っていない眼鏡の奥の瞳が、束の間、困ったように伏せられた。
「僕は……そうですね、どう話せば良いんでしょう。とにかく先に断っておきますが、物事に対してそれほどこだわった見方をしていないつもりです」
彼の前置きを聞いた三蔵は、思わず眉間に皺を寄せた。
「……何の話がしたい?」
意図を掴めずに問いかける。八戒は更に迷いを隠さぬ様子で息をついた。
「上手く言えないんですよ。とりあえず、先にこれでも見てくれますか?」
そう言って左手を差し出した。
別にどこか変わったことがあるわけでもない、ただの左手だ。しかし、彼の手のひらには、小さなメモ書きのように、黒ペンで書かれた文字があった。
悟空、と。
文字を読んだ三蔵は、驚いて彼を見る。
八戒は苦笑した。
「ここまでしないと忘れてしまうんですよ」
三蔵には、彼に言うべき言葉がなかった。こちらが意図的に黙ったことに気付いているのかいないのか、彼は己の考えを確かめるように用心深く続けた。
「前にも言ったことがあると思うんですが、僕は、人の顔と名前を覚えることについては、とても自信があるんです。立場上、一国の要人に会うことも多かったですし、幼い頃から当たり前に義務付けられてました。けれども、どうしてだか、この名前だけは覚えられないんですよ。聞いた瞬間は確かにわかっているつもりなんですけどね。多分、顔も見れば思い出せるとは思います。でも――」
八戒は左手の文字を指でなぞり、三蔵を窺い見る。
「三回です、三回も名前を聞いて、三回とも忘れました。四回目はこの前、図書館で彼自身から聞いて、この文字もその時にこっそりメモしました。それ以来、文字が消えるたびに毎日書き換えてます。でも、そこまでしても一瞬忘れることがある……」
オカルトじみてますね、彼は笑い、だが真剣に言った。
「先日、あなたが僕に言ったことを覚えていますか」
「…………」
「忘れるというのは何なのかと。そんなふうに言いましたよね?」
真っ直ぐに問われ、三蔵は思わず息をついた。
「お前には関係ない」
「知ってますよ。でも、こんなに忘れっぽいと、さすがに落ち込んじゃうじゃないですか」
「安心しろ、お前の頭は正常だ」
「理由は?」
「ねぇよ」
「だとしたら、ただの物忘れということになりますね」
「そうだな」
「信じられません」
「…………」
「新種のアルツハイマー病とでも言いますか?」
いつになく強固な姿勢で詰め寄られる。彼と口論するつもりのなかった三蔵は、このまま席を立って議論をうやむやにしてしまおうかと思った。しかし。
「あなたが教えてくれないのなら、あの子に同じことを尋ねてみるしかありません」
八戒は言った。
会話上の駆け引きであることは明らかだったが、三蔵は内心煮えたぎるような思いだった。
「あいつには寝耳に水だ」
冷淡に言い捨てる。八戒が口元だけで微笑んだ。
「そうかもしれませんね。あの子、三蔵にすごく懐いていましたしね。僕の言葉だけでは信じてくれないかもしれません」
「ただの物忘れだと言っている」
「過保護な上に強気ですね」
嫌味なくらいににっこりと笑った男は、おもむろに自分の胸ポケットを探ると、三蔵の見ている前で、そこからボタン状のものを取り出した。
「これ。何かわかりますか?」
嫌な予感がした。三蔵はじろと男の顔をねめつけた。
こちらの視線を受け流した八戒は、次にそのボタンに口を寄せ、頭の痛くなるような台詞を吐くのだ。曰く。
「悟浄、出てきてください」
見れば、学生食堂の端の端、今まで隠れていたらしい目立つ赤頭が、機嫌良く手を振ってやって来るではないか。
三蔵はとうとう空を仰いだ。
「……ったく、暇人ども」
「お褒めに預かり恐悦至極」
八戒が人の悪い笑い方をした。
間もなく悟浄がその横に到着し、小型のレコーダーらしきものをちらつかせる。
「こ・れ。あの小僧に聞かせたら泣くかもよ?」
「……お前ら大学から除籍されたいか」
「いやん、三蔵さまってばオーボー!」
「ほんっとに過保護ですね、僕ちょっと泣けますよ」
「うるさい、死ね」
はーっと、近年稀に見ぬ重い溜め息をついた三蔵は、とうとう質の悪い連携プレーに匙を投げた。
「……言っとくが、聞いたからってお前らにどうこうできる話じゃねぇぞ」
その言葉に、八戒は満足げにうなずき、悟浄はふんとせせら笑った。
「どーこーの話じゃねーっつの! あのガキのせいでなぁっ――見ろ、これを!」
突き出された彼の拳の上には、油性マジックと思われる極太の字で「悟空」と書き付けてあった。
「だってあなたも忘れてたじゃないですか」
一人平然としているのは八戒だけである。悟浄のそれも、どうやら八戒の仕業らしかった。
「とにかくだ、さぁ話せ! 幽霊だろうがオニ・悪魔だろうが、俺が解決してやろーじゃねーの!」
そんなふうに騒がしく意気をまいた悟浄は、早速三蔵の隣の席に音を立てて腰を下ろすのだ。
態度が感に触ったが、こう見えても彼は、何でも屋で巷に名を売っていた。小賢しいことから小器用なことまで、意外に幅広い芸を持っていることを、三蔵も知らぬわけではなかった。
「……三蔵」
再び八戒が促すのに、苦く舌打ちしながら。
まさか、彼らによって、落ち着きかけていた日常が砕かれるとは思いもよらなかった。それとも最初から砕かれるべき平穏だったのか。
「……クソ」
八戒と悟浄にはもちろん、平和ボケしそうだった己も腹立たしい。
悟空を引き止めておきたいと思うことと、現状の解決策を模索することは別問題だったにも関わらず、忘れてしまうところだった。
三蔵は瞬時に腹を括ると顔を上げた。
「――聞かせてやらんこともないが、ただで話してやれるほどどうでもいい話でもない」
意識して居丈高に言い放つ。
目の前の彼らには、確かに利用価値があった。八戒は国交事情に精通し、悟浄は闇取引に慣れていた。未来に戦争が起こると言うのなら、彼らの方が己などよりよほど情報収集術に長けているはずだった。
三蔵は、話をすること自体には躊躇いがなかった。突っ込んだ事情を話そうとするなら、三蔵の能力についても言及しなくてはならないだろうが、この際それも甘んじて受け入れよう。ただし、洗いざらいを話す代わりに、彼らからは相応の見返りが欲しかった。
事情を話して相手を納得させて終わりでは、やっていられないのだ。
「とりあえず、先に教えてやれることはこれだけだ」
八戒や悟浄が真剣にこちらを見る中、できるだけ固い調子で言葉を続ける。
「――悟空は未来から来た。お前らが覚えていられないのがなぜなのか、はっきりしたことはわからない」
それで?と八戒が目で尋ねるのを、思い切り無視した。隣では悟浄が難しい顔で沈黙している。
「ええと……」
切り出したのは、八戒が先だった。
「ちょっと確認ですけれども」
「なんだ」
「今のあなたの言葉を信じる信じないは別にして、全然言葉が足りていない気がするんですが」
「だろうな」
「だろうなって……それで終わりですか」
「ああ」
三蔵の様子から、駆け引きのにおいを感じ取ったらしく、悟浄が軽く口端を歪めた。
「信じらんねぇって言ったら?」
「別に。それでこの話は終わりだ」
「こっちにはコレがあるんだけど?」
彼は小型レコーダーをひょいと振って見せた。三蔵はそれにも無反応で受け流した。
八戒が溜め息をつく。
「わかりました、とにかくあなたは詳しく話してくれないんですね。別にそれならそれでもいいですよ、僕はただ彼の名前を忘れたくないだけで――」
「忘れてもいい」
彼の言葉の上から被せるように言うと、さすがに腹に据えかねたような、空寒い笑顔が返ってきた。
「あなたはそうでしょうが、僕はそうではありません」
「関係ねぇだろ」
「僕のプライドの問題なんです」
「知るか」
切って捨てると、ますます凄みを増した笑みが、辺りの空気を冷やした。
「……重ねて言いますが。僕は、彼の名前を覚えられない自分に腹が立ってるんですよ。別に、三蔵があのいたいけな少年を囲おうが強姦しようが妊娠させようが、笑って見過ごしてあげます。しかし、端で見ていた大人の義務として、あなたの犯罪を一生覚えておいて、できればその暴君ぶりを末代まで語り継いでやりたいので、かわいそうな彼の名前を忘れない方法を教えてくださいと――僕が言いたいのはそれだけなんです」
八戒の言葉を追っていた三蔵は、束の間真剣に言葉を失った。悟浄はとっくの昔に派手に吹き出している。八戒はその後も滑らかに言葉を継いだ。
「それともなんですか? 彼の名前を忘れない方法は、やっぱり今みたいに何かにメモしておくしかないと、あなたはそう言いたいわけですか? だったらいっそのこと一昔前のヤンキーみたいに、僕ら二人とも、腕に一生消えない彫りこみでも作ることにしましょうか」
「そりゃ一生もんの恋人みてーだわ」
ひゃっひゃと笑いながら悟浄が茶化す。
「なぁなぁ、猫かわいがりしてる相手の名前が、全然関係ねー野郎の腕に彫り込まれるのってどんな気分?」
奴は悪乗りして、手の甲に油性マジックで書かれた悟空の名に口付けた。
ビジュアル的にも、さすがに面白くはなかったが、三蔵は無表情に切り返してやった。
「文字とあいつは別もんだ。安心しろ、一生消えそうになかったら、俺が腕ごと切り落とす。そうすりゃお前らに言われるまでもなく立派な犯罪者にもなれる、せいぜい末代まで語り継げ」
八戒は呆れたふうに息をついたが、悟浄は更に楽しげに笑った。
「なぁ、お前もさぁ、そろそろいいんじゃねー? 一体何がどうなって、こんなことになってんだよ?」
「別に」
三蔵は静かに返した。
「おいおい」
苦笑する悟浄を眺め、そうして黙った八戒に目をやり、三蔵は再び口を開く。彼らの言い分は聞いた。今度はこちらの主張を宣言する番だった。
「――お前たちこそどうしてだ」
「あん?」
「なぜそうまでして覚えていようと思った? 忘れた方が楽なはずだ。実際、お前らが悟空のことを忘れようが、俺のことをどう思おうが、俺自身はどうでもいい。ただの興味本位ならこのまま退いとけ、それでしばらく俺に近づくな。悟空を見ても話しかけるな。あいつもお前らには近づかせない。無理な接触を図るな」
悟浄の顔から笑みが消えた。
八戒も至極真面目な顔でこちらを見ている。
「いいか。あいつはまだ、自分が人の記憶に残らないことに気付いていない。中途半端に覚えてるお前らが、中途半端に近づけば、余計なことに怯えて慌てる」
「余計なこと、ですか……?」
八戒が慎重に尋ねた。
「渦中にいるのは彼ですよね? それに三蔵――もしも、彼が未来から来たせいで僕らの記憶に残らないのだとしたら、あなただって僕らと条件は同じはずでしょう? 僕らが彼を忘れてしまうように、あなたも彼を忘れないと言い切れますか」
三蔵はいつかの朝の自分を自嘲し、答えた。
「忘れない」
少なくとも、二度と悟空の前で醜態を晒すつもりはなかった。簡単なことだ、忘れられないくらいに、己の生活の中に彼ごと取り込んでしまえばいい。
黙って話を聞いていた悟浄が、思い出したように胸ポケットから煙草を取り出す。彼は、それに火をつけるでもなくしばし手の中で弄び、ずいぶん経ったのちにようやく低い呟きをもらした。
「つまり、関わる気ならとことん付き合えって、そういうことだな?」
三蔵は答えなかった。
向かいの席の八戒が、すっかり冷めたコーヒーで舌を湿らせ、もう一度こちらの顔色を窺いながら話し出す。
「……この前、彼に三蔵への伝言をお願いした時ですが、図書館で少し話しました。彼が本を探していると言うので、一緒に書庫を回ったんです。水質関連に……動物の生態系関連。植物の分布や栽培法、それから大気汚染についての本や、電気工学の本。どれも、まずあの年齢の普通の少年が読む本ではありませんでした。けれども、そのことを訊くと、彼は必要なものだからだと言いました。僕はそれを変だと思ったんです……」
三蔵には、八戒の言わんとすることが何となくわかっていた。
「……俺も話したぜ。戦争が原因で地球がガタガタんなって、その時に、今ある便利なもんを残そうとするなら、前もって地面の中に埋めるのがいいんじゃねーかって、さ。そういう話――」
悟浄が苦く笑った。
「つまり、そういうことなんだろ?」
未来に戦争が起こるんですか、八戒が茫然と呟いた。
* *
はっと気付けば、先に時計を確かめた時から軽く一時間も経過している。悟空は慌てて手元の本に視線を落とした。時計は一回りしたにも関わらず、本のページ数は一ページも進んでいないままだった。
つい特大の溜め息が出る。ここ最近は、朝も昼もこんな調子で、何だかわけがわからない間に時間が過ぎていた。そのくせ夜だけは奇妙に記憶が鮮明なのだ。
理由はわかっている。
昼は一人で、夜には三蔵がいるからだ。
ほんの数日前までは、本を読んだり調べた事柄をノートにまとめることで、一人の時間の大部分が潰れた。しかし今はそうではなく、知らぬ間につらつらと三蔵のことを思い出しては、ぼうっとしている。食器を洗っていても、洗濯や掃除をしていても、ふとした瞬間に彼を思い、手が止まった。
こんなことではいけないと思う。読むべき本はまだ山ほどあり、知識はそれにも増してまだまだ足りてはいなかった。
錯覚してはいけないのだと、悟空は現状を忘れそうな自分に何度も言い聞かせた。悟空はいずれ未来に帰らねばならない。せっかく与えられたチャンスなのだから、その時のためにも、できるだけ多くの情報を蓄えておくのだ。
未来の惨状を思い出し、何度も胸に誓う――誓ってはいるのだ、本当に。
けれど三蔵を思うと、何もかもを押しのけて彼が中心になった。自分で自分のことが上手くコントロールできない。常に心が浮き立つようで、思考は千々に乱れた。なお悪いことに、その状態でいることはひどく心地よかった。
楽しいし、嬉しいし、幸せだ。
少しでも長く彼の傍にいたいと、ひそかに願ってしまうほどに。
上の空のまま息をついて、悟空はついに本の文字を辿ることを諦めた。
そろそろ三蔵が帰ってくる時間だった。
夕食の準備はまだ修行不足でできないが、下準備と風呂焚きくらいは毎日自分がしようと決めている。今日は確かしじみの味噌汁を作るという話を、三蔵としていた。彼が帰ってくる前に、しじみを水につけて暗い場所に置いておくようにとの指示を受けてもいた。
「……今日こそちゃんとしよう」
悟空はふと火照る頬を押さえて呟く。
夕べの話だ。パスタを茹でておけと言われて、その通りに頑張ったのだが多少量を茹ですぎてしまった。帰ってきた三蔵に「こんなに誰が食うんだ」と呆れられ、罰としてキス三回をせしめられた。
どうしてそれが罰なのかという悟空の訴えは全く聞き入れてもらえず、死ぬほど恥ずかしい思いをしながら、彼のキレイな顔に自分から三回キスをした。あとはどうにも顔を合わせづらく、彼が夕食ができたと呼びに来るまで、まだ一向に芽を出さない鉢植えと一緒に、風呂場に立てこもっていた悟空である。
三蔵には日々いじめられている気がする。にも関わらず、悔しいほど幸せなのだ。詐欺としか思えない。
彼の悪口を言う相手も見つからないので、悟空は日々プチトマトの鉢植え相手に甘い愚痴をこぼしている。ガーデニングの本で、話しかけると早く苗の芽が出るという話を見た覚えがあった。ならば、始終悟空の声を聞いているあの苗は、絶対にもう一日二日の間に芽を出すに違いなかった。
キッチンに入り、冷蔵庫からしじみのパックを取り出し、水をはったボールに貝を入れる。
今日はたったこれだけの下準備である。
間違いはないかどうかをしつこいほど確かめ、悟空は最後に、ボールを「暗い場所」と思われる棚の隅にしまい込んだ。
それから風呂場へと直行する。
まず、昨日の残り湯を、風呂底の栓を抜いて捨てた。
途中で思い出してプチトマトの鉢を持ってくる。これも数日のうちに習慣になってしまいそうなことだった。
「風呂って、やっぱり疲れとれるよなー」
掃除用のスポンジで浴槽の汚れを擦りながら話す。悟空は自然と笑みを浮かべていた。
「なぁ、俺ってもしかして三蔵の家族みたい?」
プチトマトがそうだねと相槌を打った気がした。
「だよな。自分でも不思議な気はするんだ。前にさ、本当の家族といた時だってこんなことしなかったのに、三蔵のためだとしたくなる」
悟空が一緒にいて嬉しいから、彼もそうだといいと思わずにはいられない。
汚れを水で流し、改めて風呂に栓をつけた。
熱湯と水、それぞれの蛇口をひねる。悟空は、瞬く間に湯気の立ち込める浴槽脇にしゃがむと、湯が溜まっていくのを見ていた。
ほんの数分で湯船は充分な嵩になる。
そうして、湯加減を確かめようと水面に手を近づけた悟空だったが、不意に、指先にかすかな違和感を覚え、冷水を浴びせられた心地になった。
慌てて、水面すれすれだった指を、もう一方の手で押さえる。
――嫌な感覚だった。
ちりと何かが摩擦する感覚だ。かつてから付き合い慣れていたはずの、静電気が指を弾く痛痒さ。
まさかと思う。そして「まさか」と焦った自分に更に驚いた。悟空は真っ青になった。
こちらに来てから、一度もその感覚には見舞われなかったから、すっかり忘れていたのだ。この力が現れない限りは、未来に帰ることも難しいと思っていた。だから今、過去に留まることは、悟空の中でも必然だった。
しかし、力が現れてしまえば状況は一変する。
帰らなければならない。
悟空は握り合って強張った両手を、恐る恐る解く。
指がかたかたと震えていた。湯にもう一度触れるのが怖く、とにかく蛇口を止めようと、別方向へ手を延ばしかける。
だが二度目の衝撃が、その手をも宙で固まらせた。
水は――相変わらず流れているはずだった。
けれど音がしない。水蒸気も動かない。水面は波紋に波打ったままの状態で凍っており、水嵩が増すこともなかった。
止まっていた。何もかもが。
悟空は唾を飲み込んだ。そのままぎゅうっと目をつぶり、自分も息を止める。
一、二、三――
どのくらい数を数えた頃だったか、蛇口からどうどうと溢れる湯の音が鼓膜を打った。
緊張の緩んだ悟空は、その場にへたり込む。
上手く考えがまとまらなかった。ただ、三蔵に早く帰ってきてほしいと思った。
玄関の呼び鈴が鳴った時、悟空はまだ風呂場でうずくまっていた。続いて、ドアの鍵を開ける音やノブを回す音がする。間違いなく三蔵だった。彼を待っていたにも関わらず、悟空は出ていくことを一瞬ためらった。
まだ指先が震えている気がした。上手く笑えなければ、敏感な三蔵は異変に気付いてしまうだろう。
普通に考えれば、力が発動したことも、時が止まったことも、話さずにいてはいけないことなのだ。しかし、悟空は、できることなら解決を先延ばししたいと願っている自分に気付いてしまった。
ふらつく足で、のろのろと立ち上がる。
悟空が玄関につく頃には、三蔵は既に靴を脱ぎ終わっていた。
「……おかえり」
「ああ」
「あの……」
変に思われたくないという強迫観念が、かえって喉から言葉を奪う。
ところが緊迫した空気は続かなかった。顔を合わせるやや否や、三蔵が、悟空の目の前に、白いビニル袋を突き出したせいだ。
中に入っているものは鉢植えだった。葉を豊かにしならせ、茎は添え木に従って美しく育ち、黄色い花までつけている。それは、先日花屋の店頭で見た、プチトマトの成長した姿だった。
「な、に? どうしたんだ、これ?」
「八戒に聞いた」
「えっ?」
「トマトはかなり気温に左右されるらしいな。今から種を植え付けても、茎だけなら成長するだろうが、実はつかないかもしれないと言われた」
「えっ……そうなの?」
「梅雨前に実がなって、梅雨の間で育つそうだ」
「そうなんだ……」
「実がつくとこも見たいだろ」
「うん。そりゃもちろん……」
鉢植えを受け取る。悟空にそれを渡し終えると、三蔵はさっさと中に入っていってしまった。
いつもながらにものすごく素っ気ない。
確かに素っ気ないのだけれども。
「三蔵」
ちょっと泣きそうだ。彼のあとを追って部屋に入った悟空は、ソファーに上着を脱ぎ置いている彼の、Tシャツの布地を小さく引っ張った。
「アリガト」
普通に笑えてしまった。
三蔵の存在は、まるで幸福な魔法のようだった。
言わなければならない。
簡単に着替えると、早速キッチンに立つ彼の隣で、悟空は一生懸命気持ちを落ち着けた。
もしかしたら、このまま黙ってしまえば、隠し続けることもできたのかもしれなかった。ただ、それは彼に対して、ひどい裏切りである気がしてならなかったのだ。
悟空は彼に甘えっぱなしでいる。年下であるとか、特異な状況で出会ったとか、理由はいろいろあったし、実際金銭も持たない悟空は、彼に放り出されれば生きていけない状態でもあった。
けれど、どれほど感謝し、礼を返したくとも、悟空には己の身ひとつしか持ち物がない。
自分にできることといったら、結局たったひとつしか思い浮ばないのだ。
彼に誠実であること。
何はできなくとも、せめてそれだけは貫きたかった。
「……三蔵」
悟空が話しかけると、彼は砂抜きした貝を水で洗いながら、目だけで言葉の先を促した。
彼の手元を流れ落ちる水。彼と己の力を橋渡ししたのは、この「水」という物質だったのだろうか。
「さっきね、風呂わかしてたんだけど……」
水に触ったらね。
そんなふうに言葉を区切ったら、何だかやっぱり泣きそうになってしまった。どうか、本当は言いたくないのだということに、彼が気付かなければ良い。
「……静電気が。出て。多分あれ……予知の前兆のやつだった……っ」
三蔵が思わずといった具合に手を止め、こちらを見た。
「ずっとなかったから……もしかしたら、こっちに来るだけで力使い果たしてショートしちゃったんじゃないかとか、いろいろ考えてたんだけど……とにかく戻ったみたいだから……それで、俺、あの……」
沈黙が落ちた。
しばらくは水の流れる音ばかりが続いて、悟空はどうにも顔を上げていられず、その水ばかりを見ていた。
告白すべきことはもうひとつ残っている。
バンドエイドで隠された、右手の人差し指を強く意識した。悟空の不安を裏付けるには、この傷が治癒しないことも話さなければならなかった。
言葉を探して喉がひりつく。悟空は何度かあえぐように呼吸をし、再び口を開こうとした。
しかし実際には、三蔵の言葉の方が早かった。
「――今日、八戒と悟浄と、話をした」
突然替わった話題についていけず、言おうとした言葉を見失う。三蔵はこちらの反応にかまわず続けた。
「お前が未来から来たことを話した。それから戦争が起こるらしいことも話した。やつらはお前に協力するそうだ。お前が帰った時に必要な情報を、今から調べてやると言っていた」
悟空は、八戒が皇族であり国際事情に詳しいことや、悟浄が何でも屋家業で名を売っているらしいことを、淡々と話して聞かされた。八戒は軍事関連を、悟浄は投下されそうな爆弾の性能を、それぞれ立場を利用して探ってくれるのだと言う。
確かに、爆弾がどこに投下かされるか、どんな性能かを知れば、ある程度の被害状況は予測できる。実しやかに囁かれた、核による大気感染の伝染病の真偽もわかるし、水や土が本当に汚染されているのかどうかも判断できるかもしれない。
けれども、悟空は次第にたまらない気分になった。
ひどく胸が痛かった。
八戒や悟浄に、三蔵が話したことが嫌だったわけじゃない。彼らの事情を全く知らなかったことも、驚きはしたがそれだけだった。
つらいのは、三蔵が当然のことのように、悟空が帰ると言ったことだった。
もちろん悟空だって帰るつもりでいる。必死で本を読んでいたのも、知識を頭に詰め込んだり、本の内容をノートに書き写したり、トマトの種を植えたのだって、未来へ帰った時のことを考えたからだ。
それなのに、いざ彼の口からはっきりとした言葉で聞かされると、心が痛くてどうしようもないのだ。
――用が済んだらさっさと帰れ。
彼のあの素っ気ない口調で、そう言われているみたいだ。
本当は傍にいたくてたまらないのに、いらないのだと拒絶されている気になる。
「……帰るんだったら奴等の情報を待ってからにしろ」
彼はそんなふうに話をまとめた。
悟空は茫然と立たずんだ。結局、怪我のことは告白できず、黙ったまま彼の隣にいるしかなかった。
しばらくして流しの水を止め、棚から鍋を取り出しながら、三蔵は思い出したように付け足す。
「夕飯食ったら少し付き合え」
心はぼろぼろだったのに、普通にうなずいて笑えた自分が不思議だった。
そのあとの夕食も普段通りに食べ終えた。
どこかが麻痺したような状態のまま、悟空は彼に従って外へと出掛ける準備を整えた。
三蔵は車を持っていたらしい。大学へ行く時はバスを使っていたから、一緒に暮らしていて全く気付かなかった。
重そうなキーをジーンズのポケットに入れる三蔵を、全く知らない人物のように遠く感じている。
「出るぞ」
言われるままに歩いた。
マンション地下の駐車場で、見知らぬ車に乗り込む。
中は慣れない香りがした。
間もなく、窓から見える景色が変わり始めた。流れる町の光を、無感動に眺めながら、悟空は震えそうな息を、一度ついた。
お互いが特に会話を望まぬまま、車はただひたすら走り続けた。どのくらい経った頃だったか、悟空は、車外を流れる景色に、時々見覚えのある建物が混じることに気がついた。
もしやと思って、標識に目を凝らす。
案の定、見慣れた地名が指し示されていた。
「……三蔵。目的地どこ?」
緊張せずにはいられなかった。答えは聞く前からわかっている。わかっていて尋ねたのだ。悟空は三蔵の意図が知りたかった。
「お前の住んでいたと言う町だ」
悟空と同じく彼のそれも固い声だった。三蔵は言った。
「お前の言った未来と、俺が見ていた風景は同じものだったはずだ。だが、それが、本当にこの世界の辿る未来なのか保証がない」
「どういうこと?」
「平行世界という言葉に聞き覚えはあるか」
「……うん」
「お前のいた世界と、この世界では、似ているようで全く違う可能性も、ないわけじゃない」
では、三蔵は確かめたいのだ。悟空は胃が重くなるような感覚に陥った。
「……どうすれば……?」
掠れそうな声を押し出す。彼は少し考えた様子で首を横に振った。
「ただ見て確かめればいい。車に乗ったまま町を一通り走ってみるだけだ。見覚えがあるならそう言え」
「……でも」
悟空に見覚えがあるだけでは何の保証にもなりはしない。それがわからない三蔵ではないだろうに、彼はこちらの言葉を遮るように再び首を振った。
「込み入ったことをさせるつもりはねぇよ、大人しく座ってろ」
彼が、何のために気休めにしかならないような確かめ方をさせるのか、悟空には全く理解できなかった。だが確かに確認は必要なことではあった。悟空に未来があるように、三蔵にも未来がある。例えば、彼が、一年後、爆弾が投下される時のために様々な準備をしたとして、迎える未来が全く別のものであるなら、そういった準備は全て無に帰すことだってあり得るのだから。
そう。同じ未来が待っている場合でも、未来を予め知っている彼なら、変えることだってできるかもしれない。
「……三蔵」
呼びかけた声が、今度こそ震えた。
「未来、違ってた方が嬉しい……?」
肯定されたら絶対泣いていたと思う。
彼は「余計なことを考えるな」と苦い口調で吐き捨て、苛立ったように車のスピードを上げた。
馴染みの町は、やはりどこもかしこも見慣れた建物ばかりだった。悟空はそのひとつひとつを確認し、何も問わない三蔵に、思い出す限りの思い出話をした。
そうして町を一巡りしたあとは、最初に三蔵が宣言した通り、車はあっさりUターンして元来た道を帰り始める。
悟空はひどく疲れていた。
いくら言葉を交わしても、昨日までの甘さが嘘のように、硬質な空気はお互いの間で滞り続けている。
結局、帰りの道は、行き以上に無言になった。望んでいないのに沈黙を作ってしまうのが嫌で、悟空は目を閉じ、眠っているふりをしていた。
ところが予定外の早さで車は停車する。
「……悟空」
名を呼ばれ目を開けると、見たこともない場所が見えた。
「ここ……?」
「外に出るぞ」
降り立った場所は、どこかの施設に付属したパーキングエリアのようだった。整備された区画を横切り、しばらく行くと広い遊歩道らしき地域に出た。
街灯で皓々と照らされた細い道は長く続いており、その両脇には樹木が乱立している。
「……真っ直ぐ行けば博物館がある」
三蔵が話すでもなく説明した。もちろん、もう陽も落ちてずいぶん経つから、博物館自体は閉館しているが、その周囲には閑静な公園があることと、以前にこの近くに彼が暮らしていたことなどを、彼は歩調と同じくらいゆっくりした口調で語った。
彼の話を聞きながら、悟空は不思議な気分になった。
今夜は、悲しかったり苦しかったり痛かったり緊張したりと、散々なことばかりが続いていた。だが、こうして一緒に歩いていると、三蔵も悟空と同じくらい疲れているのが伝わってくるのだ。
あれほど色を失って聞こえた声が、今は驚くくらいにやさしく聞こえる。
ふと空を見上げた。
街灯の光が邪魔して良くは見えないが、今夜は雲のない空だった。明かりが少なくて、もっと広い場所に出れば、綺麗な星空が見えるだろう。
果たして、悟空の立てた予想は当たった。
三蔵が案内した公園は広大で、敷地の中央まで歩くと、全く地上の光に邪魔されていない、美しい星空が見ることができた。
しばらく、悟空はぽかんと上を見上げていた。
未来の夜空もちょうどこんな感じだった気がする。なかなか地下から地上に出る機会がないので、何も障害のない場所でまともに見たことはなかったのだが、とにかく小さな星までもがくっきり肉眼で見えて、どれが北極星だとかオリオン座だとか、簡単なことがわからなくなるのだ。
「今の季節だとおとめ座が見える」
不意に隣で言われた。
しかも、おとめ座などと、悟空の知識では一生発見できないような星座である。思わず何もかも忘れて、単純に彼を尊敬した。
「三蔵、すごい」
真剣に言うと、彼は今夜初めて笑ってくれた。
「お前より二回も多く受験してんだ。いく何でも、それくらいは覚える」
「そんなもん?」
「ああ。最も、そんなもん覚えても、何の役にも立たねぇと信じてたがな」
「そんなことないよ」
「お前の話を聞いてから、俺もそう思った」
三蔵は大きく息を吐き出し、天空を仰いだ。
「とにかく全部……俺が持ってるもんで、価値があるもんなんかひとつもねぇと、ずっと思ってた……」
彼の口からそんな言葉を聞くとは思っていなかった。悟空は驚いて彼の横顔を見る。空を見ていたはずの三蔵は、気付くと真っ直ぐに悟空を見下ろしていた。
「未来が違っていた方がいいかと訊いたな?」
彼の瞳は、これ以上もなく真剣だった。
「同じでいい。変えられるとしても変えるつもりがねぇ」
どうしてと訊いてしまっていいだろうか。明確な答えを聞かなければ、悟空は都合良く解釈してしまいそうだった。
未来が違っていたら会えなかったかもしれない、とか。
同じ未来ならいつか再会できるかもしれない、とか。
「三蔵」
問いたい欲求は素直に声に表れてしまったらしい。名を呼んだ途端、彼の口端に意地悪な笑みが浮かんだ。
「わけは勝手に考えろ」
悔しくて彼の胸を叩こうとしたのだが、反対に手を取られ、指の一本に口付けられる。
――ずるい。
これでは何も文句が言えないではないか。
彼のことがすごく好きなのだ。本当はとっくに、何より優先してしまうくらい、好きで好きでたまらない。
できるなら、ずっと彼の傍にいたかった。
「俺さ、本当に……犬とか猫とか。そうじゃなかったら、せめて女の子だったら良かった」
わざと冗談のように明るく笑った。
「そうしたら三蔵にもらってもらえたのに」
協力して欲しいことがあるのだと悟空が言った時、三蔵は黙ってうなずいてくれた。
もしかしたら、三蔵もわかっていたのかもしれない。驚くほどいろんなことに聡い彼だ、悟空が思いつく方法を考え出せぬわけがなかった。
二人で近くの水飲み場に向かった。
ちょうど洗面器くらいの大きさの、一人用の洗い場だった。小石や落ち葉などで排水溝に仕切りを作り、縁から溢れるまで、洗い場一杯に水を貯める。
悟空は片手をその水に浸し、もう片方を三蔵に握ってもらった。
しばらく意識を水面に集中させる。
これまで、自分で起こそうと思って力を出せたことは一度もなかった。しかし今ならできる気がしていた。悟空を未来に返そうとしているのは、悟空自身ばかりではない。三蔵も協力してくれていたし、また、おそらくこの過去の世界も、悟空を異質なものとして認識しているはずだった。
指を差し入れた波紋で揺れた水面が、徐々に静かになる。そして。
ぴり、と。
錯覚ではなく、水の上で小さな火花が散った。
三蔵が息を飲み、悟空がそちらを向くと、彼もすぐに意識を水面に集中させてくれた。悟空は待つだけで良かった。
夜空を映した底の浅い水が、少しずつ色を変えていく。
砂色の光景があった。
砕けたコンクリートと、埃ばかりの乾いた地面。
見えた瞬間に、嬉しいのかも悲しいのかも区別できない、喉を突き上げるような感情が込みあがる。
水に浸かった悟空の指は消えていた。
もう少し深く差し入れてみると、やはり濡れた部分がどんどん消えていく。
試すだけのつもりが、知らない間に引き込まれていた。途中で三蔵が悟空を引っ張って水から離さなければ、きっと無意識のまま未来へ飛んでいたに違いない。
夢を見ていたように瞬きして我に返った悟空を、三蔵はひどく切実な目で見ていた。
「……まだやることが残ってる」
固く握られた彼の手が汗ばんでいた。
その手の強張り方が、まるで悟空に帰るなと言ってくれているみたいで、緊張が切れてしまったあとは、とうとう彼に抱きついていた。
家に帰って、二人ともに何だかどうしようもない気分で、もつれ合うようにして同じベッドに入った。
何度交わしても口付けはせつなく、固く抱きしめれば抱きしめるほど、お互いが違う人間だということがわかって悲しかった。
誰より近くで互いの鼓動を聞きながら、ついに一睡もしないまま、その夜は明けていった。