はじまりと終わりのうた

 プチトマトの鉢植えには、いつの間にか双葉が出揃っている。季節外れにも関わらず、全部の種が発芽したことについて、悟空は、三蔵の悪口をいっぱい聞かせたからだと笑ったものだ。
 八戒と悟浄に協力を頼んで、ちょうど一週間が過ぎた、日曜日だった。
 三蔵は、近くの水族館に悟空を連れていく約束をしていた。八戒からチケットをもらったのがきっかけだ。
 午後の夕食時には彼らと合流する予定もある。どうやら悟浄の方の調査に目処がついたらしい。地球を半壊させるほどの兵器は、威力が絶大だからこそ、情報もある程度公開されている。
 八戒の方は、調査内容が国益にも影響するせいか、なかなか捗る気配を見せなかった。これは最初から彼自身も言っていたことで、時間をかけたとしても、いつどこで爆弾が投下されるか、結局わからぬままにその時を迎えてしまう可能性もあった。
 しかし八戒は違った方向から助力を申し出た。
 この近郊に、一箇所だけ、地下に小型の核シェルターを作った研究所があるそうなのだ。八戒は三蔵にそこを買い取ったらどうかと言う。もちろんその研究・開発には莫大な費用が掛けられていて、今三蔵が所持している財を――大学の権利やその土地、マンション、車、とにかく全てを一切合財投げ打っても、見合う金額が作れるかどうかわからない。
 先日、悟空にかつて住んでいた町を確認させたが、気休め程度の確認だった。一年後、本当に地球が壊滅を迎えるかどうかの保証はない。一切を売り払ってシェルターを購入したとして、実際に使うことがあるのかどうかも怪しかった。
 それでも、その時が来ることを信じるなら、戦禍の中で物資を安全に保管する、充分な設備とスペースが必要だった。
 悟空には、こんな話は聞かせていない。
 聞かせなくてもいいと思っている。三蔵が家財全てを売るつもりだと言ったら、彼は間違いなく止めるだろう。未来が変わる可能性まで説いたかもしれない。
 だが、三蔵は全て無駄でもかまわないと思っていた。悟空が欲しがった物資を、そこに蓄えてしまえるだけで満足だった。
 植物の種やら本、自家発電装置、生地の厚い毛布と、いくらかの生水や活性炭、非常食。
 もしも己の未来が、彼が生きる時間につながっているのなら、それらはいずれ彼を助けることになるだろう。
 昨夜遅く、悟空の心当たりの場所に、小さなタイムカプセルを埋めてきた。極々ささやかな物資を金属の箱にまとめ、無事人目につかぬよう地中に隠したあと、悟空はひどく改まった様子で頭を下げた。
「本当に……いろいろありがとう……」
 彼がこの世界でやるべきことは、もはや悟浄がもたらす情報を耳に入れるだけだ。
 三蔵は、決して彼を引き止めるようなことを言わなかった。一度抑えを失ってしまえば、おそらく二度と悟空の主張を聞き入れてやれない自分を知っていた。
 
 彼を助手席に乗せて車を走らせるのも、きっと今日が最後になる。
 悟空は、いつかの気まずかった夜を払拭するように、しきりとはしゃいでいた。話を聞いてみると、子供の頃から持っていた特異な力のせいで、人が多く集まるような公共の施設へ行くことを極力避けていたと言う。
「絶対、アシカショー見る!」
 力いっぱい言い切るから、つい笑えてしまうではないか。
「……くだんね」
 口先だけのからかいにも、彼は律儀に反応する。
「そう言うけどさ、ずっと見たかったんだよ!」
「残念だったな、アシカはいねぇよ」
「ウソ!」
「ホントだ」
「え、ウソ、ほんとに?」
「本当だっつってる」
「だって……水族館だよ、アシカショーじゃん……」
 助手席で、本気で気落ちしたふうに座席に沈み込む彼を盗み見、三蔵は苦笑いしながら、現地に着くまで秘密にしておこうと思っていた情報を付け足した。
「……アシカは今、古いらしいぞ」
「えっ?」
「ちょっと前からイルカショーになってる」
「イルカ? じゃあ、やっぱりショーやってんの?」
 一瞬単純に喜びかけた悟空は、しかし、三蔵が笑っているのを見ると、すぐにふくれっ面になった。
「……どうしてそうやって、ひねくれた言い方しかしないんだよ?」
「さぁ?」
 とぼけると遠慮なしに肩をどつかれた。
「三蔵が笑ってるとムカつく!」
「ゼイタク言うな」
「うるさい! もぉ一生黙ってていいから!」
「黙ってりゃ泣きそうな顔するくせ」
「うるさいぃぃっ」
 こっちが運転していてハンドルから手を離せないことを良いことに、悟空は三蔵の髪を掻き回してめちゃくちゃにした。
 バックミラーで己の惨状を確かめ、三蔵はあとで覚えてろと適当な脅しをかける。これで十分ほど待っていれば、悟空から、こちらの髪が普通に見ることができるよう、直しをかけるに違いなかった。
 ――もっといろんな場所に連れていってやれば良かった。
 前触れもなく、何度も唐突に襲ってくる切なさを、三蔵は、エアコンを切って窓を開けることで誤魔化した。五月の心地よい風は、即座に車内の隅々までを駆け巡る。
 隣では、悟空が天候の良い青空を見上げていた。
 緑が少なく、排気ガスとコンクリートの塊ばかりの町は、それでも彼を幸福そうに微笑ませた。
 
 水族館は、休日だけあって、家族連れと見学旅行中らしい子供の大群でごった返していた。
 悟空は、着いた足でそのままイルカショーの観覧予約券を購入しに行った。三蔵はと言えば、館内の喫煙コーナーでしばらく一人の時間を過ごす。
 以前ならば、人込みの中にいるだけで憂鬱になった。けれど今は少しもそれを感じない。
 いつの間に世界はこれほど鮮やかだったのか。
 人も、光も、風も、空も。有形のものも無形のものも。
 何もかもが鮮明で、いちいち三蔵を驚かせ、すっかり鈍りきっていた心を刺激した。三蔵はこれまで、精神的に満ち足りることを知らなかった。目を開けば当たり前に見えていたのは、擦れてくたびれた色だけだった。
 だが、今は全てが存在意義を持ったものに見える。
 ――どうしてくれる?
 悟空は帰っていく。すぐに三蔵は一人に戻る。未来はいつかつながるかもしれない。だが、その間に訪れる孤独が、一体どんな重さで己にのしかかるのか想像がつかない。
 どうしてくれるのだ。
 向こうから悟空が駆けてくるのを、たまらない気分で見ていた。
「三蔵、三蔵! 三時からのチケットが取れた!」
 笑って、嬉しげにこちらの腕を取って歩き出す。その手のあたたかささえ、既に三蔵を縛っているのに。
「すっげぇ楽しみ! な、イルカって人間の言葉わかるってほんとかなぁ?」
「…………」
「三蔵? どうかした?」
「……いや。目がくらんだ」
「ああ……あの窓すごく眩しいよね。平気?」
「ああ……」
 彼はいなくなる。そして自分は一人になる。
 手の中に残るのは、二度と振り返る気にもなれないくらいの、きらめくような思い出ばかりかもしれなかった。
 
 館内をふらふらと歩いている時に、三蔵の携帯電話に悟浄からメールが入った。
 簡単に内容を確かめた三蔵は、小さなクラゲが浮いている水槽に見入っている悟空の表情を窺った。
 悟浄からのメールには簡単な報告が書かれてあった。
「あとで奴から直接話すらしいが……」
 彼にだけ聞こえるよう声をひそめ、三蔵は言った。
「爆弾が投下された直後なら、大気中にも、何か変な作用持った塵が混じっていてもおかしくはないそうだが、一年も経てば雨で洗い流されるらしい」
 こちらを振り仰いだ悟空は、思わぬ幸運を発見したように目を輝かせ、息を飲んだ。
「それって……」
「だが、だからこそ水には注意が必要だ。一度煮沸して蒸留すればまだ安全かもしれない」
 声も出せずにうなずく。彼の瞳にはうっすらと涙が溜まっていた。
「投下された場所が日本でなければ、土壌もそれほど汚染されないそうだ……島国で良かったな」
「……海がどこにあるか、まだ俺知らないんだけどね?」
 悟空は笑った。
 未来の日本が、爆発の衝撃で地形まで変えているらしいことは、三蔵も前もって聞いている。ひたすら一方向へ進めば、いつか陸地が途切れる場所も発見できるのだろうが、悟空たちには、そこまでの長旅に耐えれるだけの食料や物資がないのだ。
 歩くしかなければ、多く移動することも叶わない。
「でも水や食料の保存ができるようになれば……きっといつか……」
 水槽に目を戻し、悟空は呟く。
「良かった……まだみんな生きていけるよね……」
 彼の瞳は未来を見ていた。
 三蔵は静かに目を逸らし、そっと息をつく。
 
 イルカショーは、子供と一部の大人と悟空に大盛況だった。
 特に悟空は、その頭の良い動物に魅せられてしまったらしく、八戒と悟浄との待ち合わせまで、自由になる時間の全てを、縦にも横にも巨大なイルカプールの前で過ごしたくらいだった。
 イルカ専用に作られたそのプールは、二階建ての水族館の、地下二階から地上二階まで、計四階層分を丸々突き抜けた造りになっている。
 真っ青な水の中を、それこそ無尽蔵に、飛ぶような速さで曲線の生き物は通り抜けた。
「……キレーだ……」
 溜め息混じりの賞賛を、三蔵は何度聞いたか知れない。
 しかし、いいかげんそれらにも見飽きて、人通りも多い水槽の前に立ち止まっているのが苦痛になった頃のことだ。
 水の中で決して止まることのなかったイルカが、ふと悟空の前に集まり始めた。
 脇で見ていた子供たちも、それを連れていた大人たちも、同じように不思議な光景に目を奪われた。
「……さ、三蔵……っ」
 喜んでいいやら怖がっていいやら、思わずこちらの手を握ってしまったらしい悟空は、水槽の向こうのイルカと視線を合わせて、逸らすに逸らせなくなっている。
「ど……っ、どうしよ、なぁっ、どうしたらいい……っ?」
 尋ねられても三蔵にだって判断できない。
 そのうち、水族館の専属ダイバーらしき人物が向こうに現れ、いくらかのイルカを誘導して行った。
 最後に残ったイルカは、ひどく不思議そうな、まるで悟空を人間ともわかっていない素振りで眺めている。
「……手でも振ってやれ」
 半分冗談で言ったのだが、それをそのまま試した悟空は、返ってきたイルカの反応にまた驚いていた。
 イルカは、悟空の胸元あたりのガラスに、小さく頭を擦りつけたのだ。
 挨拶みたいだった
「すっごい……!」
「――…………」
「今、俺、イルカと話した気になった……!」
 三蔵にもそう見えた。
 イルカは人間よりも敏感な生き物だと言う。もしかしたら、悟空がこの時間の人間ではないことを、特殊な感覚で察知していたのかもしれない。
 忘れられない光景ばかりが増えていく。
 いっそ引き止めてしまえばいいと思わなかったわけではない。
 三蔵が言えば、きっと悟空は本当にこちら側へ残ってしまう気もしていた。それでもそう言わなかったのは、悟空が真実に「帰りたい」と願っていることを知っていたからだ。
 帰るなと言えば、悟空は己を曲げて三蔵の言葉に従う。彼は三蔵に対して過ぎるほど従順で、そして三蔵は、そこに付け込むことのできる自分に気付いている。
 万が一にでも、未来に帰らず残った悟空がいたとすれば、必ず後悔するだろう。
 出会った頃のように、あちらの世界を思って、彼が拒食症じみた状態に陥らないと誰が言える?
 引き止めれば、三蔵は悟空を飼い殺す。
 そういう意図がなかったとしても、結果として残るのは、矛盾を山ほど抱え込んだ、望まぬ形で結びついた自分たちに違いなかった。
 
 
 多分、その時三蔵はひどくぼんやりしていた。
 閉館間際の水族館のパーキングは、家路を急ぐ車で、舗道という舗道が混雑していた。悟空が何度も立ち止まりながら、見晴らしの悪い場所から、車の行方を探っていたことを覚えている。
 だが、反対に三蔵は上の空で、ほとんど車など見えてはいなかった。
 己の車に向かう道すがらだ。舗装された徐行運転地域を、悟空が先、三蔵が後ろの位置で、ゆっくり歩いていた。
 事故はそんな時に起こった。
 脇から現れた車の鼻面に、三蔵は全く気付いていなかった。もう一歩踏み込んでいれば、間違いなく衝突していたことだろう。それを防いだのは悟空だ。
「――三蔵!」
 瞬間、悟空の声で我を取り戻していたが、己では一歩も動けなかった。三蔵は、咄嗟に駆けつけた彼にかばわれる形で地面に尻餅をついた。
 腰は打ったが、結局己に怪我はなかった。
 対して、悟空はアスファルトに手のひらを打ちつけ、傷は浅いが、大きな擦り痕を作ってしまった。
 すぐに、車の主が駆け下りて来て、平謝りした。
 相手は年配の女性だった。彼女は悟空に水族館の医務室へ行くことを薦めたが、悟空は強固に拒否する。
「平気。……ただのかすり傷だから」
 確かに彼を病院に連れていくのは得策ではなかった。身元を問われれば、苦しい偽りを続けることになるからだ。
 ところがもちろん相手側は納得しない。三蔵は彼女の言い分に従う素振りを装いながら、医務室ではなく、館内の洗面所に向かうことを考えた。まず傷口の泥を落とすことが先決だった。付いてくるという相手をなだめすかし、とにかく大丈夫だからと、二人だけで館内に引き返した。
 その傷は、見かけは確かに、擦り傷でしかなかったから。
「……すまない」
 足早に館内に向かう途中、呟いた三蔵に、悟空は少し血の気を失った顔で、それでも笑って首を振った。
 
 もう閉館を迎え、一般客の全く見えなくなった水族館で、まず係員に話をつけ、玄関脇の洗面所を借りた。
 係員は悟空の傷口を確かめ、清潔なタオルと、ティシュボックス一箱を親切で持ってきてくれた。
 その頃には、悟空の手の怪我は、指先まで血が滴るほどになっていた。擦り傷にしては出血が多いと、三蔵も何となく思わないでもなかった。だが、洗面所についた悟空は、すぐに手を洗い、その血を綺麗に洗い流す。
 彼の手には、再び浅い傷が顔を覗かせた。
「……大丈夫か?」
「うん、平気。ちょっとじんじんするけど……」
 これ、汚しちゃっても平気かなぁ?
 タオルを指差し言うので、三蔵はうなずいた。水族館の名前が大きくプリントされた、広告用のタオルだ。おそらく係員も返せとは言わないと思った。
 だが、ここでも悟空は極普通の様子で奇妙な行動を取った。洗った傷口に、そのままタオルを押し当てたのだ。
 さすがに変な気がした。
「おい。絆創膏もらってくるから、タオルは外してろ。血で固まるぞ」
 しかし悟空は首を振った。
「平気。多分、すぐ止まるから……」
 確かに、三蔵の見た傷は浅かった。腑に落ちないでもなかったが、言われてしまえば納得しないわけにもいかなかった。
 二人は、すぐに水族館から出た。
 その頃には、既にパーキングの混雑はほぼ収まっており、三蔵の車の他には、水族館職員のものらしき車が、何台か残っているだけになっている。
 車に乗ったあとも悟空の口数は少なく、顔色は悪かった。事故寸前の光景を横で見ていたのだから、多少は仕方ないことだったかもしれない。それでも三蔵は気になって、運転中、何度となく彼の横顔を盗み見た。
 そうしていて、彼の右手の人差し指に、まだバンドエイドが巻かれているのが目に入ったのだ。
 その傷は、あんまり直りが遅い気がして、以前に一度訊いたことがあった。
 悟空は、本の紙で切った場所と同じ場所を、包丁で切ったと言っていた。三蔵と違って右利きの彼は、当然包丁を右手で持つくせに、どうやって切ったんだとからかうと、言葉に詰まって唇を噛んだものだ。
 あの時は、まだ悟空も包丁など扱い慣れてはいなかったし、不自然には思わなかった。
 けれども。
「……その傷」
 今日は、妙に気になる。
 悟空が不思議そうな――少し怯えたようにも見える表情で、口を開いた三蔵を見た。
 タオルは、相変わらず新しい傷口に当てられたたままだ。
「その、指の傷だ。まだ治らないのか?」
「あっ……うん。大体治ってるんだけど、何かに触るとちょっとだけ痛い気がして……」
 目は逸らされた。表情は笑っているのに、言葉が上滑りしているのは気のせいか。
 彼の緊張と不安が空気を通して伝わってくる。
「……悟空」
「なに?」
 何も言わないでと訴える目に、三蔵は更に不審を強めた。
 だが、彼が怯える理由がわからなかった。結局どうとも言えぬまま、三蔵は視線を前に戻す。
「……いや。途中で薬局に寄る。絆創膏でちゃんとガードしておいた方がいい」
「だ、大丈夫だよ……もう止まるし」
 そう言うわりに全く布を取り払わないことを指摘しようとして――
 三蔵は目を瞠った。
 車は運転中だった。慌てて車道の脇につける。
 悟空はそうした三蔵を、今や恐怖にも似た色を浮かべながら見つめていた。
 三蔵の視線は、彼の、新しい怪我を覆ったタオルに釘付けだった。幾重にも畳まれ、決して少ない量では湿らないはずの布が、彼の手の下で、少しずつ赤く変わっていくではないか。
「お前……!」
 悟空が弱々しく首を横に振る。
「平気だから……気にしないでいいから……」
 まだ抵抗しようとするのを抑え、無理やりタオルを奪った。布はぐっしょりと湿っており、掴んだ三蔵の手にまで赤い色を移した。
 悟空の手のひらの傷は、確かに浅いままだった。
 しかし血は、三蔵の見ている目の前で、全く止まる気配も見せずにじわじわと溢れていくのだ。
 手首を取って上に引き上げても止まらない。
 とうとう悟空が引きつるように泣き出した。
「どういうことだ……?」
 三蔵は蒼白になって彼を問い詰めた。悟空は首を振るばかりで決して自分から言葉にしなかった。抑えの布を失った彼の手からは、もはや鮮血が滴るばかりである。
 三蔵は己の上着を脱ぎ、彼の手をもう一度布地で覆った。そうして再び車を動かし、車道へ戻る。
「……病院へ向かう」
 唸るように言ったこちらに、彼は消えそうな声で呟く。
「ダメだよ……だってこれ病気じゃねーもん……」
 助手席のシートの上で小さく身体を丸め、悟空は悲しく慟哭した。
 
 
 人目につかぬ工事途中の敷地内に、車で乗りつけた。
 工事現場も日曜日は休日らしい。辺りに人の気配はなく、大きな鉄鋼が、一箇所にいくつも積み上げられたまま放置されていた。
 その場所で、悟空は三蔵に、あの右手の指にあった傷を晒した。
 やはり浅い傷だった。おそらくは、本の用紙で切った当時のままの傷。
「……ずっと変だと思ってたんだ」
 話し始めた悟空の声は、嗚咽を堪えて何度も大きく波打った。
「でもね、何度か……俺の周りだけで時間が……止まる、ことが……あって……それで何となくわかった」
 三蔵は彼の告白をただ聞いていた。
「俺……俺だけ、多分、ここで止まってるんだと思う。本当は……周りが動かなくなるんじゃなくって、俺が……ここの時間と一緒に動けないんだ……」
 だから傷は治らない。
 悟空は言う。その言葉がどれだけ三蔵を突き動かすか知らぬまま。
「でも……わかっても、三蔵にずっと言えなかった……だって言ったら帰れって言うだろ……?」
「――当たり前だ!」
 気付いたら怒鳴っていた。
 彼がびくりと身を竦めるのを見ても止まらなかった。その細い肩を、車のドアに突き押して貼り付ける。血で染まった痛々しいばかりの手を、残酷に捻り上げた。
 ひどく凶暴な思いが、毒のように己の内を巡りながら、彼へと流れ出すのを感じる。
「お前はここへ何しに来た? 俺に未来で生きる方法を探したいと言わなかったか? あっちの仲間を心配して泣いただろうが。未来に帰ったら、太陽の下で仲間と植物の種を育てると――俺に言ったのは、お前だろ!」
「だって……!」
「だってじゃねぇ! 知らなきゃ言ってやる、お前にとってここは危険だらけだ! 傷が治らないだけが問題じゃねぇ――お前の顔や名前も! もしかしたら、誰も覚えていられないかもしれねぇんだ!」
「……どういうこと……?」
 悟空は茫然と三蔵を見上げる。
 あぁやはり何も気付いていなかったのだと。彼のその表情を見た三蔵は、彼の無防備さに腹が立って腹が立って仕方がなかった。
 傷つけばいいと、唐突に思う。
 悟空など三蔵と同じくらいに苦しがって泣き喚けばいい。
「どういうこともねぇよ、ただ残らない、そういうことだ。毎日顔を合わせてた俺ですら、一瞬お前の名前を呼べないことがある」
 ここは――!
 三蔵は激しく窓を叩き、言った。
「この世界は! 本当はお前を消したくってしょうがねぇんだ!」
 言葉の意味と事実に、悟空が震えた。
「でも……だって……」
 
「だって……それでも本気で帰りたいなんて、思えるわけないじゃないか……」
 彼は心から吐き出した。その思いを。
「……三蔵はここにしかいないのに!」
 
 眩暈がした。
 彼の口からそれを聞いた途端、三蔵の身体からは、ものの見事に毒が抜ける。
 押さえつけるばかりだった手が、たちどころに力を失った。
「――……さ……?」
 こちらの変化を敏感に感じ取ったらしい悟空が、不安げにせわしない瞬きを繰り返す。
「クソ……」
 三蔵はどうにも堪えきれずに呻き、目の前の身体を、己の両腕で掬い上げた。血が服につくのも、車につくのもかまえなかった。
「……そういうことは……もっと早く言え」
 そうすれば、怪我などさせないように大事にくるんで、部屋に閉じ込めて、三蔵だって一歩も外に出ずに、真剣に彼を囲うことだってできたのだ。
「さん、ぞ?」
「……お前、これ計画じゃねぇのか」
「なに……なにが?」
「こんなじゃどうやったって囲えねぇだろうが」
「かこ……う? 何言ってんだ?」
 彼を抱きしめたまま、笑いたいような泣きたいような気分で溜め息をつく。
 ようやく決心もついた。
 悟空はやはり未来へ帰るべきだった。
 
 身を起こし、まだ何が何やらわかっていない顔をしている彼の頬へ、ささやかなキスを落とす。それから、ドアに押し付ける時に脇に放ってしまった己の上着で、再び彼の怪我を包み込んだ。
「――泣き止め、すぐだ。それから集中しろ」
「なに……? 三蔵、何すんの?」
 悟空を抑えつけていた窓に己の指を当て、三蔵は彼の疑問に答えぬまま、目を閉じ、じっと意識を集中させた。しばらくすると、悟空が近くで息を飲む音がした。
 目を開く。
 窓ガラスには、三蔵が思い描いた通り、未来の荒廃した風景が映し出されていた。
「――……さ……っ!」
 途端にもがいて、その場を動こうとする悟空を抱きしめる。
「あまり動くな。出血多量で死にてぇか」
 言えば悟空は逆切れした。暴れて三蔵の腹を殴り、顔を引っかき、とにかく今にも窓に触れてしまいそうな位置から逃げ出そうとした。
「ヤだ! ヤだヤだヤだヤだ! まだ帰りたくない―― 帰りたくない! まだ俺ここにいるんだってば! 帰りたくなきゃ帰らないでいいって、前に三蔵言ったじゃん!」
「前と今じゃ事情が違う。帰れ」
「ヤだーーーっ!」
「悟空」
 一度舌打ちして、それこそ噛み付くように口付けた。キスと言うにはあまりにも乱暴で、途中でこちらの舌は噛まれたし、三蔵も噛み返したりした。それでも次第に悟空は大人しくなるのだ。
 お互いどこもかしこも傷だらけで、最後のキスは、苦くて甘い、きっと二度と誰とも交わせないキスになった。
「……ひど、い。迷惑なら迷惑って言ってくれた方が全然ラク……」
 悟空はまだ勘違いをして泣いていた。
「バカか、お前は。ここでじっとしてたら死ぬんだろうが」
「平気だもん、このくらいの血で死ぬわけねーじゃん!」
「菌が入ったら死ぬかもな」
「わかんないだろ!」
「大体、誰も迷惑なんて言ってねぇ」
「言ってないけど! そうだと思うじゃん、俺、迷惑しかかけてねーのに!」
「そう思ってんなら恩返ししろ、今すぐ」
「どうやって? どうすんだよ、こんなの! 一生かかっても返せないかもしれないのに!」
「だったら一生かけろ」
 再び切れそうになりながらも、悟空はもどかしげに三蔵を見た。
 三蔵は、噛んで含めるように言い切った。
「迎えに行ってやるから。一生かけろ」
 言葉を聞き、意味を考え、改めてこちらを見つめ返した悟空は。
 年端もいかぬ子供のように、しばらく顔も隠さず泣き通し、そうして力いっぱい三蔵に抱きついた。
 
 窓ガラスの上で指が重なる。
 血まみれの手が、それでもなお愛しくてならなかった。
 その手が、小さな火花を振りこぼしながら、少しずつ窓に映った風景に溶け込んでいく。
 三蔵は、もう声もなく消えていく彼を見ていた。
 最後に見せた一瞬の表情は、泣いていたのか笑っていたのか。
 唇が、確かに一度、言葉を作ったことだけが鮮明だった。
 
 待ッテル。
 
 一人になった車内で、三蔵は疲れ切って息をつく。
 ふと、胸元で携帯電話の着信音が鳴った。
 三蔵は惰性でそれを耳に当てる。相手は八戒だった。
「……ああ、俺だ。遅くなったが今から行く……」
 何かあったんですか、そんなふうに訊かれて何も言えなかった。
「……いや何も。……ただ――」
 その名を口にしようとした時、喉が無様に震えた。
 二度と彼の名を呼べなくなるかもしれないと、その時の三蔵は漠然と思っていた。