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快晴の空は眩いばかりだ。
八戒は、厨房の天窓から空を見上げ、ゆっくりと息を吐いた。悟浄が朝からから揚げなんてものをこしらえてくれたおかげで、八戒が担当する、今朝の朝食メニューのその他分は、ほとんど手間のかからぬ質素なものになってしまった。あと作ると言ったら、トーストかにぎりめしかのどちらかである。
少し早いが、そろそろ悟空を起こしてくるのもいいかもしれない。思っていたら、その当人がひょっこりと顔を出した。
「おや、今日は早いですね」
話し掛けると、明らかに心ここにあらずの挨拶が返ってきた。せわしく動く視線で、すぐに三蔵を探しているのだということも知れる。八戒はつい苦笑した。悟空がこちらを向いたので、自分の知っている情報を教えてやることにする。
「三蔵なら、表に出ていきましたよ。朝食前ですから、多分もうすぐ帰ってくるんではないでしょうか」
「そっか。……一人で出てったのか?」
「ええ」
「危なくねーの?」
危なくないわけがない。この町はどこもかしも不自然だらけだ。昨夜一晩何もなかったからと言って、即座に単独行動を取っても大丈夫だという保証ができたわけではない。
もちろん、そんなことに無頓着な三蔵ではないはずだった。常の彼なら、まず一番に慎重になったに違いないのだから。
しかし。
「……三蔵はこの町を気に入ったんですかねぇ」
八戒が呟くと、悟空もうなずく。
「良くわかんねーけど。しばらくこの町にいるって言ってた」
「三蔵が、ですか」
「うん」
どうも三蔵の様子がおかしい。悟浄にその話をしたら、気まぐれなんじゃねーの?、などと軽い返事が返ってきたのだが、八戒にはそうは思えなかった。
八戒の知る三蔵は、少々短気なところがあっても思慮深くて、決して後先を考えずに行動を取るような男ではなかった。となれば、こんなどこから見ても怪しいばかりの無人の町に滞在することも、彼の中では意味があってやっていることだと思うのだ。
「……でも」
「ん?」
「──いえ、何でもありませんよ。そろそろ朝御飯にしましょう。悟空、悟浄と三蔵を呼んできてもらえますか?」
「うん」
食事と聞いて悟空が急に元気になった。子供はいつでも変わらず満面の笑顔だ。
厨房から駆け出していく後ろ姿を見送って、八戒は小さく溜め息をつく。
まるで胸の中に棘でも刺さっているような感覚だった。その違和感が気のせいではないことを、八戒は既に確信していた。
どこからかふらりと戻ってきた三蔵と、二度寝していた悟浄を交え、いつもと同じく素晴らしい騒がしさで朝食は済んだ。
食事中何度も行き来した八戒の視線に、気づいていないわけはないだろうに、やはり三蔵は何も言わない。
煙草を一人で調達しにいくという悟浄に、厭味なくらいに気をつけろと注意して、悟空と二人で厨房の片付けをする。
三蔵はまだ食堂に居座ったまま、どこから持ってきたのか、新しくもない新聞をつらつらと読んでいた。
そんな彼を厨房から覗き見るにつけ、何とも言えない気分になる。あれはもしかしたら八戒を待っているのかもしれない。
何を考えているのか──
「……八戒?」
突然呼びかけられて振り返ると、洗剤で泡だらけになった手のまま、悟空がこちらを見ている。
慌ててやりかけの仕事を続けた。さすがの八戒も、悟空の心配げな表情だけは得意ではなかった。だから三蔵の態度についても、彼には何も問わないつもりでいたのに。
「三蔵がどうかした?」
あっさり問われて上手い返事ができなくなる。彼はこんな時本当にこちらがびっくりするほど敏感だ。
「……朝メシの時も見てただろ?」
困ったような顔で訊いてくる。照れ隠しなのか、洗剤のついた手で頬を掻くから、髪やら肌やらに泡が垂れて滲んだ。
思わず苦笑する。問いに答える前に、まず濡れタオルで悟空の汚れたところを拭ってやる。
「……髪、だいぶ伸びましたね」
「ん……。本当はちょっとうっとうしい」
「少し切ってあげましょうか?」
「うん。八戒の暇な時でいーよ」
何でもない会話に紛れてそっと息をついた。実のところ八戒は、悟空に三蔵の話をするのが苦手だった。彼の三蔵に対する信頼があんまりにも真っ直ぐで、それを少しでも傷つけそうな言葉に対して、当の悟空よりも過敏に反応してしまうのだ。
できれば彼らにはずっと今の関係でいてほしいと思う。本当は些細な波風ですら立ててやりたくはなかったのだけれど。
「……三蔵、様子変じゃないですか?」
金の瞳が小さくまたたいた。
「……変じゃない。と、思うよ」
自信なさげに言って、
「どうしてそんなこと訊くんだ?」
不安そうに唇を噛むから、それ以上聞かせたくなくなる。
「いえ。悟空がそう言うのだったら、僕の気のせいですよ。気にしなくていいです」
「本当に?」
「ええ」
それでも彼の表情は晴れなかった。八戒は話題を逸らそうと口を開きかけ──
「でも」
そう言う声で遮られた。悟空は呟く。
「でも……いつもよりやさしー」
それは果たして悟空にとって悲しいことだったのだろうか。
彼は、喜んでもおかしくないようなことを苦しげな口調で呟いて、小さく笑ってみせた。
何かが起こっている。八戒は何度も確信する。
悟浄は何も言わなかった。三蔵は何か隠している素振りを見せる。悟空は漠然と不安を感じているようだ。これはやはり八戒の思い過ごしなどではない。
ふと、悟空の顔色が悪いことに気がついた。けれど八戒は何も言えなかった。彼は、何かを忘れたくて仕方がないみたいに、一生懸命食器を洗っていた。
後片付けが終わって、とにかく八戒は三蔵と掛け合うつもりで食堂に入った。しかし当然隣には悟空もいる。あれこれ考えを巡らせていたら、八戒が策を弄するまでもなく、三蔵が悟空を呼び止める。
「ほら」
彼は子供に手のひら大の箱を手渡した。
「……何だっけ?」
「昨日お前がほしがってたもん」
「えっ?」
悟空は慌てて箱の中身を確かめる。
「ポケットゲーム!」
沈んでいた今までが嘘のように明るい表情になった。端で見ていた八戒までもが、思わず吹き出してしまうほど、彼は喜色満面する。
そんな子供を前に、三蔵は平然と言った。
「悟浄に遊び方聞いてこい」
鮮やかな手腕だった。悟空は子犬さながらに喜んで、食堂から駆けていく。
八戒は半分呆れて笑った。
「今朝一人で外に出たのは、あれのためだったんですか?」
「んなわけあるか。ついでだ」
「何のついでだったんでしょうねぇ」
三蔵は答えない。あんまり微笑ましいので、それ以上八戒も突っ込まなかった。
「……お茶でも煎れますか?」
「いや」
「そうですね、さっき食べたばかりですものね」
三蔵の向かいに腰掛けると一息つく。煙草を吸いたい気もしたが、結局八戒はただ黙ってそこにいた。
沈黙の会話、というものがあるとしたら、三蔵の沈黙こそがそれである。決して視線が交わるわけでもなく、表情が変わるわけでもないのに、黙っている三蔵からは、いつでもこちらの問いに対する答えが見て取れる気がするのだ。
八戒だって、本当はたった今まで、この町に留まり続ける理由を聞き出してやろうと思っていたのに、彼の仏頂面を見ていたら、その行為自体が馬鹿らしくなってきてしまった。
三蔵はもう決めている。
もしかしたら、この町には大層な危険があったりするのかもしれない。反対に、やはり人がいないだけで人畜無害な場所なのかもしれない。前者でも後者でも、とにかくどれだけ得体の知れぬ場所だったとしても。
八戒が何を言っても、彼はここに留まるのだと言い切るだろう。
「……言いたいことがあるんならさっさと話せ」
答えを得た後で何を問えと言うのか。八戒は苦笑してうつむいた。
「いえ……。お昼はどんなものにしましょうか。僕あんまり料理のレパートリーないんで、相談に乗ってもらえると嬉しいんですけど」
途端に三蔵は不機嫌になる。
「……んなことは猿と相談しろ」
「そうすれば良かったですよねぇ」
呑気に笑いながら席を立った。三蔵が苛立ったように舌打ちする。
相手の様子に少しだけ気が晴れた。こっちは昨日から変だ変だと考えていたのだから、これくらいの意趣返しは許されるべきだ。いくらか溜飲を下げた八戒は、最初に比べると、格段に軽くなった足取りで食堂を後にしようとした。だが。
「……八戒」
低く呼び止める声に、立ち止まる。
「……本当は、てめぇだって悟浄だって気づいてもいいことなんだ」
「……どういう、意味ですか」
唐突に頭が冷えた。三蔵に問い返しながら、八戒は、既にその答えが己の中に存在していることに初めて気づいた。
振り返る。
三蔵の横顔に答えはなかった。けれどもその彼に触発され、己の頭が目まぐるしいほど思考をこねくり回すのを、感じずにはいられない。
奇妙な既視感だった。いつか──あれはいつのことだったのだろう、八戒は、これと似たような会話を彼と繰り返しはしなかったか。
いや、あれは目の前の彼ではなく──
「悟空は」
まるで何かに操られたようにその名を口にした。内心で驚きながらも、八戒は次の三蔵の答えを冷静に思い出す。
そうして記憶は再生されるのだ。
「あいつは気づかなくてもいい」
三蔵は言った。
「……俺には、気づかないようにしか、してやれることがねぇ」
* *
自分の分と八戒の分の煙草で四カートン。これだけあれば、ひとまず数日間は口寂しい思いをしなくても良くなる。
悟浄は、無人の雑貨屋から拝借してきたそれを手に、町の広間の噴水脇で、ぼんやりと時間を過ごしていた。
八戒の心配をよそに、今日も町は極普通に生きている。妖怪の気配もなければ、疫病の気配もなかった。他と違うのは無人だということだけで、町には依然として、空と同じに澄み切った空気が漂うばかりである。
「……やっぱ取り越し苦労じゃん」
今は隣にいない友人に呟く。
三蔵だってこの町を危険ではないと判断したからこそ、滞在しようという気になったのだろう。確かに八戒の言うように不自然な素振りもあったが──腐ってもあの三蔵である。好んで面倒事に首を突っ込むようなことはまずない。
適当に結論付け、噴水の縁に寝転んだ。見上げる空は、これ以上もなく晴れ渡っていた。
「いー天気だこと……」
呟きの後を追うように、どこからか己を呼ぶ声が聞こえてくる。
悟空だ。
何か良いことでもあったのか、全開の笑顔で駆けてくるから、こちらも笑ってしまった。それでも何となく知らない振りをして目を閉じていると、しばらくして一生懸命揺する手に苦笑させられることになる。
「悟浄、悟浄ってば。なぁ悟浄。悟浄っ」
「あぁ、はいはい、聞こえてるっつーの。うるさい小猿ちゃんだこと」
言いながら、その頭を押さえつける。手荒い対応にむっとするのはほんの一瞬で、悟空はやっぱり笑顔のまま、悟浄の眼前に小さな箱を突きつけた。
「……何コレ」
「ポケットゲーム!」
「ふぅん。盗んできたのか?」
同じように代金を払うこともなしに煙草を調達してきた自分は棚に上げ、悟浄は相手が返答に困る問い方をする。しかし子供はけろりとしたものだった。それどころか、問うたこちらがどきりとするほど、幸せそうな笑い方をして、
「違うよ、三蔵がくれた」
あ、そ。
悟浄にそれ以外の何が言えただろう。
けれどふと思う。
「あー……ってことは……」
無人の町だ。店は開いていても売る人間はいない。
思わず吹き出した。
「あいつ万引きボーズ?」
しばらくはこのネタでからかえるかもしれない。人非人な考えで頭が一杯になっている脇から、悟空になぁなぁと服を引っ張られ、ようやく起き上がる。
「これの遊び方教えて」
「ハイハイ……」
彼らは、全くもってかわいらしい二人だった。
悟浄は三蔵のことを真剣にクソ坊主だと思っている。奴の説教で極楽に行ける人間がいるのだとしたら、ぜひともお目にかかってみたいものだと思うくらいだ。三蔵の称号は得ていても、奴ほど僧失格な男はいないだろうし、人間としても破綻した男だと断言できる。
しかし悟空の信頼している三蔵は、悟浄の知っている三蔵とは、ちょっとばかり違うらしい。と言うか、悟空に向き合っている間だけ、三蔵がちらちら常とは別の側面を見せるのだ。
決してやさしいわけじゃないだろう。それでも悟空の道しるべをかって出るのは、いつでも三蔵だった。奴は、誰がどうなろうと知ったことかとうそぶきながら、悟空が関係した時ばかりは、わかりにくい気遣いを見せ、子供じみた独占欲を見せた。
「こう? これでいい?」
「そーそー、そんな感じ」
小さなゲームに子供と夢中になりながら、悟浄は内心で苦笑する。
こんなふうな二人だから──八戒の危惧を深く考えてやりたくはないのだった。
太陽が真南にかかり始めていた。
「……そろそろ昼飯だな」
悟浄が振り返ると、さっきまでゲームしか見えていなかった悟空は、しっかり電源を切っていつでも宿へと帰れる体勢を整えている。
つくずく優先順位のはっきりした子供である。何は置いてもまず食欲らしい。
「早く行こーぜ、昼メシ何だろー?」
「ゲンキンな小猿ちゃん」
「猿ってゆーな!」
「えー? だって正直者なんだモン、ボク」
どつき合いながら町を歩いた。相変わらず路地は静かだ。己の声と悟空の声ばかりが反響するようで、悟浄は何となく視線を泳がせていた。
あの家の軒先には洗濯物すら干してあるのに。
あの道からは今にも人が飛び出してきそうなのに。
危険はないにしろ、この町は確かに異常だった。知らず溜め息をついてしまった悟浄は、それに気づいた悟空から、問いかけるような視線を受ける。
「……ちょっと、な」
適当に誤魔化そうとして止めた。悟空の目が、どうにも切実な色を帯びたからだった。
「やっぱ変だと思ってよ……」
何が?、悟空が問う。
「この町が、だよ。人いねーのに、人がいる気配があちこちに残ってる。こういうのはやっぱ普通じゃねーだろ」
「そうかな……」
「そーだって。人いねーとこに町なんかできねーだろ、普通」
そうかな、再び聞こえてきた悟空の相槌が、妙に不安定だった。思わず振り返ると、目に飛び込んできた紙のような顔色に、飛び上がるほど驚くことになる。
「おい、お前……っ」
咄嗟に手を差し伸べた。まるで待っていたようなタイミングで、悟空の身体がぐらりと傾いだ。
焦った。
悟浄は決して悟空との付き合いが短いわけではなかったが、彼がこんなふうに具合を悪くしているのは初めてだった。地面に倒れこむ身体を慌てて捕まえる。何がきっかけだったのか、既に気を失っている子供の姿は、更に悟浄を混乱させた。
そして、衝撃は次の瞬間のことだ。
彼に触れた場所から、電気のようなものが悟浄めがけて一斉に突き刺さった。
──それを、何と形容すべきだったか。
ただ、その瞬間から己の手は瘧にかかったように震え出し、しばらくは上手く呼吸すらできぬほどの精神的な痛みに苛まれた。
つらいとか、悲しいとか、寂しいとか。その時悟浄を襲っていたのは、言うなれば負の感情そのものだっただろう。それから強烈な渇望。何に対して、とかではなく、まるで手に入らないとわかっているものへの憧憬のような──
「……悟空……?」
どうしようもなくて、呟いていた。
真っ青な顔色で、今にも消えてしまいそうに弱った子供が己の腕の中にいる。
悟浄はもはや笑ってやることもできなかった。ともすれば、噛みしめた奥歯の隙間から、弱い泣き声すらもらしそうになりながら、やっとのことで震える息を吐き出すのだ。
「……そーか……お前……」
やっと思い出した。
全ての答えは、最初から己の中にあった。
* *
気がつくと薄暗い天井が見えた。驚いて起き上がる。傍には三蔵の姿があって、彼と目が合った途端、悟空はどうして己がここにいるかを思い出した。
そうだ──昼間、悟浄と広場で話していて、急に眩暈がしたのだ。そして──
「……昼メシ、食ってない」
きゅるる、と腹から情ない音が聞こえた。脇にいた三蔵が、思いっきり馬鹿にした、これ見よがしの溜め息をつく。
「元気そうだな」
「元気だもん。なのに、何であんなんなったんだろー、俺……」
アホか、三蔵はまた嘆息した。
「元気じゃねぇからなってんだろ」
「でも」
元気なのだ、本当に。
思ったが、悟空もそれ以上言い募ることはしなかった。倒れはしたけれど、今は全く気分も悪くないのだ。それならば原因など深く考えても仕方ないと思った。
悟空は無意識のうちに問題を追求することを避けていた。例えば、もしここで三蔵がこちらの体調について質問したりするなら、無理にでも倒れた原因を考えていただろう。だが、彼が次に口にした言葉は、全く別のものだった。
「もうすぐ夕飯だ。それまで我慢しろ」
結果、思考は中途半端なまま放り出される。悟空の注意は、あっさりと別のものへと移ってしまう。
「……そう言えば、何かうまそーな匂いがする」
「ああ……、鍋らしいな」
「ナベ? 久しぶりじゃねー?」
「まぁな」
「何ナベ? キムチっぽいかな?」
「俺が知るか。行きゃわかんだろ」
「そーだな!」
欲求に押されて跳ね起きた。やはり身体のどこにも異常は感じない。
悟空は笑って振り返る。
「な、早く行こう」
言うのに、今度は三蔵が動かなかった。
無視されているわけでもない。彼の目は悟空を見ている。唇が引き結ばれているにも関らず、どこか物言いたげな雰囲気だった。
「三蔵……?」
彼がこんな表情をするのは珍しかった。普段はそれほど感情を乗せない瞳が、その時ばかりは、ひどく真摯な気配を漂わせている。
迷って、けれど結局そっと近づいた。
悟空には、三蔵が悲しがっている気がしてならなかった。もちろん原因など知らない。それでも伝わるものはある。三蔵は何かを悲しんでいる。彼がそんな素振りを自分に見せるということは、原因は、多分悟空自身にも関係していることなのだ。
おずおずと彼の手を捕まえる。
拒絶はなかったので、そのまま指を絡めた。三蔵の手はひんやりと冷たい。けれどずっとそうしていると次第に熱が生まれる。絡んだ指先から、互いの鼓動も伝わってくる。
ふと、三蔵の、つないでいる反対の手が、悟空の髪を梳き上げた。何度もそうして、やがて頬を撫でる。彼の手はそのまま頤を伝って耳の後ろに辿り着き、頭ごと悟空をゆるく引き寄せた。
いつの間にか、これ以上もなく三蔵の近くにいる。目の前に彼の端正な顔があって、己の前髪が彼の吐息で揺れるくらいだ。いつもなら多少恥ずかしがった距離だったかもしれない。でもその時の悟空は、すっかり三蔵の瞳に見入られ、碌にものも考えられない状態だったのだ。
だから、最初のキスはまるで儀式のように厳かだった。
前髪越しの額に彼の唇が触れる。次は目許。こめかみ。頬と鼻と。
頼りない接触は奇妙にせつない。
すぐに堪らなくなって彼にしがみつく。決してひどいことをされているわけではないのに、胸が痛くてならなかった。
「……さんぞー……?」
答えはない。それでも瞳は悟空を見ている。
頬にキス。耳に、顎に。
何度も何度も繰り返されるそれらは、果たして三蔵にとってどんな意味のあることだったのか。
やさしくて、温かくて──おおよそいつもの彼には似つかわしくないほどの甘さは、唇に重なった時ですら変わらなかった。
ひどく穏やかな口付けだった。
離れた時には、何だか涙が出てしまいそうになって、悟空は慌てて笑って誤魔化さねばならなかった。そうして、もう一度唇に触れてくれた彼を、今度は自分から引き寄せ、分け与えられる束の間の熱に酔う。
こんな気持ちを何と言うのか知らない。
ただ、彼とずっと一緒にいたいと心から祈った。その願いが叶うなら、他のどんな願いも叶わなくていいと思った。
まだ口付けの余韻の残った足は、固い地に立っていてもふわふわとした感じで落ち着かない。悟空は三蔵に連れられ食堂へと入った。衝立の向こうの厨房では、悟浄と八戒が鍋の用意に勤しんでいたが、そちらへ行く余裕もなくイスに腰を落とす。
三蔵が悟空の隣に座る。
本当に変な話だが──その頃になって、急に顔が火を噴いたように真っ赤になった。
思わず食卓に突っ伏した。三蔵はやっぱり何も言わないままだったが、悟空の方は、しばらくは彼の顔を正面から見れそうにはなかった。
そうこうしているうちに、厨房ではすっかり夕食の準備が整ったらしい。悟空がしつこく沈没していると、八戒が湯気の立った土鍋を大切そうに持ってくる。
後からきた悟浄がカセットコンロを整えた。彼はそれからまた厨房へと取って返し、今度は両手一杯の食糧を抱え、鍋のセッティングが終わった台に、不思議な食材の山を作った。
プリンに大福、スナック菓子にヨーグルト、グミキャンディ。リンゴ、みかん、パイナップルに、果てはマンゴー、椰子の実まで。どこからどう見ても、ぐつぐつ煮立っているキムチ色の鍋とは無関係な食材ばかりだ。デザートだと言うには大雑把な置き方である。何しろ食卓には鍋用の取り皿とレンゲしかなく、プリン類や、果物を食べるためのフォークも小皿の類も用意されてはいなかった。
悟浄と八戒が笑っている。それはどことなく薄ら寒い笑い顔で、三蔵のことだけで頭を一杯にしていた悟空も、とうとう不審に思わずにはいられなくなる。
「……何か、変じゃない?」
とりあえず尋ねてみたが、悟浄も八戒も笑うだけだ。三蔵を見れば、こちらは恐ろしく不機嫌な仏頂面になっている。察するに、今から始まるのは、常のような美しい夕食ではないのだ。
「今晩の夕食は闇鍋です」
案の定、八戒がそんなことを言い出した。間髪入れずに席を立った三蔵を、悟浄が咄嗟に羽交い絞めしている。
「どこに行くんですか、三蔵。せっかく僕らがあなたと悟空のために作ったのに」
それは聞き捨てならない。
「俺と三蔵のため?」
問えば、寒気がするほどやさしい笑顔が返ってくる。悟空はその時始めて八戒を怖いと思った。
「そうですよ。もちろん悟空はいらないなんて言いませんよねぇ? お昼も食べてないそうじゃないですか、だったら昼の分も鍋を食べてくれると嬉しいですよ」
「あの、でも、ヤミナベって……」
「闇鍋を知らない? そうですか、いえいえ、とっても楽しい鍋のことです。心配いりません」
何だかちっとも信じることができないのはどうしてだろう。確かに腹は減っていたが、目の前のキムチ鍋にはかなりの危険を感じる。
三蔵をイスに押さえつけながら、悟浄も笑った。
「闇鍋っつーのはな、それぞれ持ち寄った材料をとにかく鍋にぶち込んで、部屋暗くして食う鍋のことなんだよ。ロマンチックだろ?」
本当だろうか。でもだったら三蔵はどうして口を押さえられているのだろう。まるで悟浄の言葉の訂正をしようとして、邪魔されているみたいではないか。
「そうですよ、悟空。闇鍋は伝統的な素晴らしい鍋なんです。これを皆で食べれば、もれなく親睦が深まるという、神様ですらありがたがる鍋なんですよ」
「そ、ぉなのか? でも俺、食材なんて何にも用意してきてないよ」
「ダイジョーブ」
見事に悟浄と八戒の声がハモった。
「ここにこぉんなスバラシイ食材があるじゃないですか」
彼らがここ、と言ったのは、例の怪しげな食糧の小山で──
ようやく意味を察した悟空は、さぁっと顔色を青くした。
「あの、でも、何か……ナベに入れるにはちょっと難しいよーなもんしかないんだけど」
「どこがですか?」
「えっ……だから、リンゴとか、プリンとか……普通、ほらっ、ナベって言えば肉とか野菜とかがメインじゃねー?」
「そぉんなこと!」
八戒の笑顔は凶悪だった。
「悟空、リンゴもプリンも好きでしょう?」
好きだが、キムチ鍋に入れたいわけではない。
「ほら、グミキャンディだってポテトチップだってあるんですよ?」
それも好きだが、キムチ鍋に入れたいわけではない。
けれども悟空に発言の権利はなかった。あの三蔵ですら八戒の妙な気迫に押され、むっつりと口をつぐんでいる。
楽しげにしているのは悟浄だけだ。八戒に喧嘩を売っても勝てそうにないので、悟空は彼の方を恨めしげに見上げた。
悟浄がかかと高笑いをする。
「まぁ、何つーの? てめーらの都合だけで俺ら引っ張り回したツケだと思って諦めな」
意味がわからない。しかし三蔵が何も言い返さないところを見ると、悟浄の言は口から出任せというわけではないのだろう。
何かしただろうか。無人の町に宿泊したことか。だが、たったそれだけでこんな報復を受けるのもおかしい。悟空はぐるぐると考えたが、どうにも原因を見つけることはできなかった。
「それに……俺、明日この町から出るし」
悟浄が何でもないことのように続けた。重大発言だった。なのに悟空以外の誰も驚いた素振りを見せない。
「まぁしばらくは顔合わせることもなくなるだろーし、送別会の意味も兼ねて、な」
「……何でてめぇの送別会に俺が出なきゃならん」
「やだわー、もう三蔵サマったら。水臭いこと言っちゃいやん」
「殺スぞ」
「いやぁん、乱暴ォ」
マジ殺ス、三蔵は早速発砲している。
突然のことで言葉もない悟空は、そんないつも通りの彼らを茫然と見ていた。とても一緒になってふざけられるような心境ではなかった。
悟浄がいなくなる?
どうして?
「……悟空」
八戒がそっと肩を撫でた。
「大丈夫、すぐにまた一緒に旅できますよ」
「……でも……」
「大丈夫。信じてください」
何を?
問い返したかったけれど言葉が出ない。八戒の瞳が何もかも了解したように、やさしく和んだからだ。
「大丈夫ですよ、さぁ笑って。また逢えるとわかっていれば、何も悲しいことなどないでしょう?」
でも──でも。
でも。
「悟空」
再度促され、やっとのことでぎこちなく微笑んだ。そうしなければ、八戒が困ると思った。本当は全然納得などしていない。けれど、彼らがわざと別れを湿っぽくしないためにこんな演出をしたのだとすれば、ここで悟空が笑えなかったら台無しになる。
その夜の夕食は、かつてないほどマズイ味だった。食堂を真っ暗にして、己のレンゲに引っかかったものは全て平らげねばならず、まさしく努力と忍耐を強いられる食事であった。
それでも彼らと出会ってから一番楽しい夕食だったかもしれない。派手にわめいて、怒って、笑って。ひとつも悲しいことはなかった。何を食べても何を話しても楽しくて、食事が終わった時には嘘のような満腹感でしあわせな気分だった。
……楽しすぎて、本当は少しだけ泣けたけど。
暗闇だったから、きっと誰も悟空の涙に気づかなかったに違いない。
時間は止まってなどくれない。
本当はこのままでいられるわけがないことを、悟空こそが最も理解していたのだから。