3
悟浄の姿は、悟空が起きてきた時点でもう宿から消えていた。いつものように満腹になるまで朝食を取って、それから食器の後片付けを始める八戒の手伝いをする。
やっているのは普段と変わらないことなのに、ひどく静かですぐに居たたまれなくなった。悟浄がいないだけで変わるものなのだと、本当は無理にでも笑い飛ばしてしまえば良かったのだろう。けれどそうすることもできないのだ。「誰か」が傍から「いなくなる」。考えるだけで、嫌な予感が喉元を締め付けるようだった。
悟空ももはや気づかぬわけにはいかないところまで来ていた。
己の中には、自分でも驚くほどの生々しい傷がある。それは触れようとするだけで激痛の走る大怪我だ。
あれは、本当に夢だったのか。
何もかもを失う夢。もっと詳細に覚えているような気がするが、そうだとしても思い出したくない。だから悟空の中で、あの夢はあやふやなままだった。覚えているのは、三蔵たちに良く似た仲間が出てくること。それらが突然己をおいて逝ってしまうこと。気が狂った方がいいと思うほど悲しかったこと。
……悲しくて悲しくて、なのにどうして自分は生きているのだろうと思ったこと。
やっぱり深くは考えたくなかった。
途中まで夢の内容を反芻して、悟空はさっさと努力を止めてしまう。
怖い。
あの夢を認めてしまうと、今ある何もかもを疑わねばならなくなる。三蔵がここにいて、八戒と悟浄がいて。それでいいではないか。悟浄はいなくなってしまったけれど、いつかまた会えるのならそれで──
あれは夢だ。
弱い──弱くて、大切なものを守る術を知らないままの己の──
「……悟空?」
心臓が跳ね上がった。
慌てて顔を上げた。八戒だった。おまけに自分の両手は泡だらけだ。水道も出しっぱなしで、洗いかけの食器も中途半端なまま。
「あ……ごめん」
謝りながら食器の泡を落としてしまう。ついでに自分の両手も洗って、ようやく一段落つかせる。動揺もあらわなこちらをどう思ったのか、八戒は何を問うわけでもなく、そっと苦笑してみせた。
「……この後何か用事がありますか?」
「えっ……ううん」
「だったら髪を切ってあげましょうか」
昨日そんな話をしていた。確かに髪は邪魔なくらい伸びている。反射的に彼の申し出にうなずいた悟空は、しかしふと我に返らずにはいられなかった。
「……八戒?」
何だろう、ひどく怖い。押し寄せてくる不安は尋常なものではない。
不安──それとも予感だったろうか。
八戒に促されるまま歩きながら、悟空は無意識のうちに三蔵を探していた。彼はまだ食堂の一角で古い新聞を読んでいる。後片付けを済ませたこちらに気づいた素振りはない。だが、例えこちらに気づいていたとしても、三蔵が悟空たちを呼び止めることはしなかったかもしれない。
そうだ。
だって三蔵は最初から何も訊かなかった。彼は最初から知っていたのだ。
──三蔵。
それでも認めたくなくて悪あがきをする。こんな悟空を見たら、彼はまた不機嫌そうに眉を吊り上げる。でもそれでもいい。
確かな約束も、思い出も、何もほしくない。ただそこにいてくれるだけで良かった。この声が届いて、同じものを見てくれるだけでよかった。
名前を。呼んでくれるだけで嬉しかったのに。
「外へ……行きましょうか」
「……うん」
「話したいことがあるんです……」
静かな声が決定的な言葉を告げる。
それをきっかけに、突如始まる眩暈を根性だけで押し込めて、悟空は何とか顔を上げた。
この眩暈の原因も、もう解ってもいい頃だった。一度目も二度目も三度目も、結局は全部同じ理由で起こっていたのだから。
世界が崩壊する音が聞こえてくる──
宿の表にイスを持ち出す。使っていないベッドからシーツだけを剥ぎ取って首に巻きつけた。鋏は八戒が町の床屋から失敬してきた。相変わらず通りは無人で、太陽と青空だけが寒々しいほど光り輝いていた。
悟空はひとつっきりのイスに腰掛け、後ろ髪に櫛を通す八戒に背中を向ける。
こうしていると、不自然なくらいに音の少ない町だった。そう言えば、悟浄も昨日一人っきりで空を見上げていたっけ。彼はあの時に違和感を感じたのかもしれない。そして八戒は、最初から疑問を口にしていた。
この町はおかしい。
確かにそうに違いないのだ。なぜなら、この町は。
「……僕が悟空の髪を触るの、初めてですね」
「うん……」
「身体の具合、悪くないですか?」
「うん……」
涙が出そうだった。悟空の声の淀みを感じたのか彼は唐突に櫛を置き、代わりに手持ちの煙草にゆっくりと火をつけた。
細い紫煙が立ちのぼる。
彼を困らせている自覚はあった。彼は優しいから、きっとどういうふうに言えば悟空が傷つかないか考えてくれているのだ。
知っている。本当はずっと知っていた。彼らを本気で夢だと思うことなど、できるわけがないではないか。
悟空は小さく笑った。せめて今だけでも上手く笑えていればいい。
「……八戒もどっかいっちゃうの?」
声が無様に震える。後ろでは、彼が息をのむ気配がした。やっぱりそうなのだ、悟空はまた悲しくなって笑う。
「俺、ヤダって言ったらダメなのか?」
そう言うと、今度は彼の笑う声が聞こえた。仕方ないとでも言いたげな、ひどく優しい溜め息も。
「ダメではないと思うんですが……」
「ですが……何?」
「……ちょっと困ります」
「……うん」
「僕も悟浄も、悟空のことがすごく好きですよ。それだけじゃ足りませんか?」
「わかんない……」
「そうですね……。髪、切りますよ?」
「うん」
しゃき、しゃき、しゃき。小気味いい音を響かせながら、悟空の髪だったものが少しずつ地面に落ちていく。
しゃき、しゃき、しゃき。
まるで降り積もった思いを断ち切られているようだ。途中から泣きたくてどうしようもなくなって、とうとう目をつぶってしまった。その間も鋏の音は揺るぎない。
音に紛れて、囁くような声が聞こえる。
「……もう少しだけ長く一緒にいれたら良かったですね……」
「うん……」
涙が、落ちた。
多分、おおよそのことは今悟空の思っている通りだろう。
この町は──世界は、おそらく悟空自身の願いで出来上がっている。夢なのか現実なのかは定かではないが、作り上げているのは悟空の力だ。だから、この世界自体が揺らぎそうな言葉を聞いたり、少しでも悟空が不安がったりすると、直接悟空の身体に反動が返ってくる。慣れない眩暈や体調の悪さがその場限りのものだったのは、悟空の疑問がその場限りだっただけにすぎない。
それでも、今ここにこうしていてくれる八戒や、悟浄や、三蔵が一体何なのかは良くわからなかった。もしかしたら、悟空の他にも、この無人の町を支えてくれている力があるのかもしれない。だって、もしも彼らまでが悟空の創造の賜物だったとするなら、こんなふうに望まぬ別れを告げられることなど、まずありえないはずなのだ。
一番の願いは、彼らと共に在ることだった。
そして、誰よりも「彼」と。
「……なぁ、訊いていい、八戒」
「……三蔵には訊けないことですか」
その名を耳にするだけで震えた。
もちろん、本当はその人物にこそ答えてほしい問いだった。けれど問うだけの勇気が己にないこともわかっている。
しゃき、音と共に髪が落ちるのを、悟空はどうしようもない心境で眺める。
「……三蔵は……最初から知ってたんだろうなぁ。どーりで妙にやさしーと……」
言葉が続かなくなりそうで慌てて笑った。
「そうじゃなくって。俺ね、俺……八戒がいなくなるのも、悟浄がいなくなるのもすげぇヤダ。けど、三蔵がいなくなるのはもっとやだ。どうやって引き止めてたらいいだろうって、今だって考えてる。悟浄も八戒も、ちゃんと俺にさよなら言わせてくれるのに……俺やっぱり言いたくない。三蔵がもし言いそうになったら、耳塞いじゃうかも……。ねぇ、どうして俺だけここにいなきゃいけないんだろう……? どうやったらここから違う場所にいけるの……?」
最後の一房を裁きおえた八戒が、そっと鋏を置いた。最初と同じようにゆっくりと髪を梳きながら、彼は少しだけ笑ったようだった。
「ワガママですねぇ、悟空は……」
「うん……」
「待ってて下さい」
ぱたぱたと、シーツを掛けた膝に涙が落ちた。
「大丈夫。すぐに逢えますよ」
欲しいのはそんな約束ではなかったけれど。
首に巻きついていたシーツを景気良く外される。青い空に滲む布の残像が目に痛かった。全てから解放されても悟空は動くことができず、やわらかく頭を撫でられても、笑顔さえ浮かべることができなかった。
そうして、前を向きっぱなしだった悟空の瞳に八戒の背中が映り、彼はそのまま、少しずつ少しずつ道の向こうへと遠くなっていくのだ。
「……天ちゃん……っ」
叫んでいた。
くわえ煙草の八戒が、一度だけ手を振った。
悟浄と八戒のいなくなった町には、やっぱりひどく穏やかな風が吹いていた。地面に散らばっていた己の髪が風に浚われて飛んでいくのを、悟空は一人、イスに腰掛けたままぼんやりと見つめている。
どのくらいの時間が過ぎただろう。
後ろに良く知った気配を感じて、せつなくてたまらなくなった。
本当に──どうしてこんな時まで、心の底から好きだと思わなければならないのだ。
「……いつまでもバカ面してんな」
この顔の原因の半分は、間違いなくそう言う三蔵のせいだった。わかっているのだろうか、彼は。いや、きっとわかってはいないだろう。悟空ですらたった今気づいたばかりだった。
悟空は、彼のせいでここにいる。
彼の瞳があって、声が聞こえてくるから、奇蹟みたいな力も出せる。無人の町を安定させるための眩暈には慣れなくて、別れもつらくて、何だか泣くことぐらいしか満足にできないというのに、彼が傍にいるから、なりふり構わないワガママも出るのだ。
彼のせいで生きている。
痛くても苦しくても。
「……八戒、行ったよ」
「ああ」
「三蔵は……」
三蔵は。
上手く歯の音がかみ合わなかった。聞き返されるのが怖い。悟空はすぐにありったけの力を掻き集めて笑った。そうして振り返り、彼の何もかもを見透かしてしまいそうな綺麗な瞳を、真っ向から受け止める。
「なんか腹減った! 今晩何食う?」
目を逸らしたのは三蔵の方だ。何でもいい、彼の唇がそう動くのを待って、悟空は立て続けに弾んだ声を出す。
「俺、中華がいーな! どーせ暇だし、肉まん売ってる店、探しに行ってくる!」
「……ああ」
怖くて怖くて怖くて。
他に何も考えられない。ニセモノの笑顔もいつまで持つのか予想がつかなかった。
悟空は三蔵から逃げるように駆け出していた。無人の町は、どこまで行っても当たり前に人には出会わない。こんな場所に一人でいなければならないのは、ただそれだけで寂しい。けれど、町のどこかに彼がいるのだと思えば──会いに行けば会うこともできるのだと思うと、一生会わなくてもいい気がした。
「ごめん……ごめんなさい、ごめんなさい……ゴメンナサイ」
謝るくらいなら最初からするなと言う声が聞こえてくるようだ。
とにかく走って走って、結局町外れの河原まで来る。足元なんか当然少しも見ていなかったので、悟空はすぐに石に足を取られて、頭から水に突っ込んでしまった。
ばしゃん、と、大きな水しぶきが上がった。河の水はひどく冷たく、長く浸かっていると風邪をひきそうなほどだったが、なかなか動く気になれない。
それでも何とか頭を起こして、水の中に座り込む。
髪の毛の先から涙のような水滴が水面に落ちた。悟空はずいぶん長い間、そのまま動くことができなかった。
* *
見え見えの強がりを吐いて走り去った悟空を、三蔵は溜め息をつきながら見送った。
結局何をしてやることもできそうになかった。悟空の表情は笑っていても泣き出しそうに歪んでおり、知らない振りをすることですら一苦労したのだ。
あの顔を見てしまえば、彼が全てを思い出そうとしていることなど容易に想像がつく。せっかく、悟浄と八戒が、これ以上悟空の身体に負担が出ないようにと身を消したのに、これでは本末転倒だった。
この町は悟空の力で成り立っている。それはつまり、悟空がこの町の存在を疑ってしまったら、町は存在しなくなるということだ。
三蔵はそのことに誰よりも早く気がついていた。己が玄奘三蔵であることと同時に、金蝉童子であったことを記憶していたせいだ。八戒や悟浄などは天界のことなど綺麗さっぱり忘れていたようだが、三蔵は──忘れたくても有り余る後悔がそれを許さなかった。
己は、最期の瞬間の、悟空の目を覚えている。
信じたくないと、あの子供は全身全霊で言っていた。失ったら狂うと、瀕死の重傷を負ってものも言えない状態だった金蝉に、必死で訴えた。
一度も人に頭を下げたことのない自分が、あの瞬間だけは、何度謝ってもいいと思ったくらいだ。悟空の叫びはそれほど悲痛だった。今までに何度も己の名を連呼されることはあったが、あれほど──魂を揺すぶるような声で名を呼ばれたのは初めてだった。
なのに結局一度も返事をしてやれなかったのだ。後悔は尽きない。何より、闘う術を持たなかった自分が一番悔しい。
玄奘三蔵になって、ひとつ気づいたことがある。
おそらく自分は、いつかこの姿に転生するのだ。同じように天蓬や捲簾も、猪八戒、沙悟浄として生まれ変わる。彼らとの出会いは必然だ。何度の転生を繰り返してこの姿になるのかはわからないが、おそらく彼らと出会えたその世こそが、己が転生しなければならなかったことに対する、ひとつの回答になるだろう。
では悟空はどうなのか。
あれは大地から生まれた子供だった。厳密には、神でも人間でも妖怪でもない。もしも一度命を失ってしまったら、何かに転生できるのかどうかもわからない。
だから。
俺ガイイトイウ時以外ソイツヲ外スナ。
そう、だからあの時、もう一度いつか巡り会うために、金蝉は悟空を狂わせてやることができなかった。
守ってやるふりで、結局自分こそが一番の無理をあの子供に強いていると思う。
けれどそれでも傍にいようと思ったのだと言ったら、悟空はどんな顔をするだろう。
三蔵は、悟空の願いを誰よりも正確に理解している。
あの子供に必要なのは、未来の約束でも、やさしい言葉でもない。ただ傍にいること、それだけだ。
叶えられるものなら叶えてやりたかった。せめて己が、己としての記憶を覚えていられる間だけでも。
陽が西に傾こうとしていた。
悟空は飛び出して行ったきり戻ってこない。三蔵は溜め息をついて立ち上がる。きっともう傍にいられる時間は残り少ない。悟空の創ったこの町に、三蔵たちが呼び寄せられたのには理由があった。その説明をしてやるためにも、時間は有効的に使いたい。
ゆっくりと歩き出す。影が後方に長く棚引いた。
悟空はまだ忘れているに違いない。そういうところは、どんな状況になっても変わることがない悟空なのだ。変なところで抜けていて、時々こちらが疲れるほどボケまくる。
けれど今回ばかりはそのボケに助けられるかもしれない。
誰もが彼のための幸福を祈った。小さな奇蹟が寄せ集まって、結果として三蔵が今ここにいる。
「誰も」の中には、ナタクと観世音菩薩を始め、二郎真君や西海竜王もいた。もしも悟空がそれを知ったなら、天界で暮らした日々の記憶も、きっと悲しいばかりじゃなくなるだろう。
今は一人になっても未来はそうではないことを。
悟空は知るべきなのだ。
* *
冷えた水が、己の体温を奪っていくのをぼんやり感じていた。
もうすぐ夜が来る。夜が来て、朝が来て。一人きりでその瞬間を向かえるのかと思うと、どうしようもなく寂しかった。思わず三蔵の名を呼びかけ、悟空は慌てて口を引き結ぶ。そんなことをしてはいけないのだ。自分から彼の元を離れてきたではないか。もしかしたら彼は探しに来てくれるかもしれないけれど。そうしたら、また何かを言われる前に離れなければならない。
二度と彼との別れを繰り返したくはなかった。彼の目を見る時間を失っても、声を聞く時間を失っても、そこから居なくなられるよりは全然ましだ。
悟空は空を見上げた。そこには輝く太陽があって、その金色が彼を鮮明に思い出させる。
あの色さえ見えるのなら、視力を失ってもずっと光を見ていたい。そんな馬鹿げたことをふと思う。
「……ああ、でも、紫色も……見たいなぁ」
何となく呟いた。特に意識して言った言葉ではなかった。だからその言葉に答えが返ってきた時は、文字通り、心臓が飛び出るほど驚いた。
「紫ならここにある」
弾かれたように振り返って──
何も言えなくなった。
大好きな瞳と、大好きな金色。
反則だ。逃げなければと思うのに、そんなふうに真っ直ぐ見つめられて、目を逸らせるはずがない。
三蔵が、そこにいた。
「……水浴びに服着てるバカはいねぇんじゃねぇのか」
そんなことを言いながら、彼までもがざかざかと底の浅い河の中へ入ってきた。
強い腕にぐいと引き上げられ、すっかり冷えて機能を忘れていた膝を酷使される。半分彼に寄りかかりながら岸まで歩いた。いつもは悟空の方が高い体温が、今日ばかりはそうではなく、腕を掴んでいる彼の手のひらからは、びっくりするくらいあたたかな熱が、悟空の身体へ染みとおるようだった。
そうして岸に辿り着くと、今度は濡れていない彼の袂が、ずぶ濡れの悟空の頭を乱暴に拭う。
「濡れるのはお前の勝手だがな。お前に振り回されるこっちの身も考えろ」
ごめん、言葉は不思議なほど素直にもれた。
「……三蔵も、髪、濡れてるよ?」
「誰のせいだ。お前が拭け」
とは言っても悟空の全身は濡れ鼠状態だ。三蔵のように服のどこかが乾いているわけではない。仕方ないので、雫の垂れた彼の前髪を片手でそっと掻き上げてみた。少しだけ袖口で水気を拭きとって、それでも足りずに毛先に唇を寄せる。
「……乾いたか?」
「……ううん」
「下手クソ」
うん、そっと笑う。
笑って、何度もそこに口付けて、口付けながらとうとう泣いた。不意に彼の頭に抱きついた悟空を咎めることもなく、三蔵はゆっくりと嘆息した。
「……できねぇ無理してんじゃねぇ」
「うん」
「時間は少ない。勿体ないと思うなら、勝手にあちこち動くな」
「うん……」
「思い出したか?」
「うん……」
「忘れてるな」
「うん……?」
何だか問いが変だ。思わず顔を上げると、三蔵は泣き顔の悟空を不機嫌そうに見やり、また袂でごしごしと擦る。
「痛い……っ、痛いって」
「じっとしてろ」
本当に痛かったので、とにかく暴れた。何とか三蔵の腕から逃れた悟空は、胸を撫で下ろしながらも訊き返す。
「忘れてるって、何だよ?」
三蔵はまた溜め息をついた。どうやらひどく呆れているらしいことはわかるが、悟空には身に覚えがない。いささかムカっとしながら問いを口にすれば、彼はわりにあっさりと口を割った。
「ナタク太子のことだ」
ナタク。
──ナタク?
悟空は本気で慌てた。
そうだ、ナタクだ。何と言うことだ、名前を聞くまで忘れていた。
そうではないか。あの転送装置で悟空はここへ来たのだ。記憶を奪われるとか言っていたのに、己はちゃんと天界での記憶を持っている。別れ際、ナタクが何とかすると言っていた気がしたが、まさか。
「……本当に?」
いや、待て。
「違う、あのオバチャン……!」
「クソババァにも、礼は必要だぞ」
「えっ?」
「転送装置いじってやがった」
絶句する。あの時彼女は、そんな素振りなどちっとも見せなかったのに。それどころか、まるで敵みたいな台詞を吐いて、ナタクを挑発していたではないか。
しかし三蔵は言う。
「お前は、良くも悪くも唯一の存在だったってことだ。転送装置は一から存在を作り直すことで記憶の消去を図るが、お前の場合は、下手をすると全く別の存在を作り上げてしまう危険があった。だからババァは、ナタク太子が騒いでいる間に、装置の設定を切り変えた。お前はお前のまま地上に転送されたはずだ。だから記憶は失われることもない」
だが悟空は何も知らずに、願いに任せてこの町を作った。そうすると、ここは、次元の狭間なのかもしれない。天界でも地上でもない、だからこそ金蝉たちを呼び寄せられた、不安定な場所。
「……じゃあ、三蔵は……」
本物、なのだろうか。それとも悟空の空想? 金蝉ではないのに、金蝉の記憶を持つ彼。彼だけではなく、八戒も、おそらく悟浄も天界の記憶を持っていたに違いない。
不安に揺れた悟空の目を、三蔵はじっと覗き込む。
「これは未来の俺の姿らしい」
思わず息をのんだ。彼は静かに続けた。
「誰の力でこんなことが起こったのか、俺にもわからん。だが、これを願った誰かがいたはずだ。お前でもなく、俺でもなく。そいつの願いが力になって、こういう奇蹟を起こした。願ったのはババァだったかもしれんし、ナタク太子だったかもしれん。天蓬や捲簾あたりだった可能性もある。当然もっと他の奴だったかもしれない。お前も考えれば、心当たりがないこともないだろう?」
上手く頭が回らなかった。それはつまりどういうことだろう。
どういうことだ?
だってあの瞬間──金蝉がいなくなった瞬間、誰もかもが敵になったと思ったのに。
「……これだけ甘やかされても、まだ足んねぇか?」
わからない、わからない、わからない。
それでも金蝉がいないのがつらかった。他の誰がいなくなっても、あそこまで悲しいこともつらいこともなかったはずだ。
彼を探した。彼だけでいいと思った。
他はわからなかった。
……わかろうと、できなかった。
「金蝉……」
思いが言葉にならない。
己がやっていることがワガママなのだということは、充分自覚していた。それでもいいと思った。なぜなら金蝉がいなかったから。彼だけが悟空にとっては唯一で、そういう彼を奪われてしまったのだから、多少のワガママくらい通してもいいと思わずにはいられなかったのだ。
でも、そんな話を聞かせられてしまったら、ワガママを通してはいけない気になる。
三蔵は、金蝉の未来の姿だと言った。ならば、悟空が待っていさえすれば会える可能性はあるのだ。八戒も悟浄もそうだろう。彼らはいつかあの姿に転生する。悟空がそれを待っていさえすれば。
いつか。きっと、必ず。
不意に大気が震えた。
三蔵が宙を見据える。悟空も身構えずにはいられなかった。些細な震えは、時期に無視できないほどの振動へと変化していく。
「……これって」
悟空の呟きに、三蔵がこちらを振り返る。
ひどく──彼に似合わぬくらい、穏やかな眼差しをしていた。
それだけで気づかすにはいられない。別れの時が来たのだ。この町の崩壊の時が。
「……ヤ、だ。待て、待てよ。ずるいよ、金蝉! こんなのってずるいだろ!」
彼は悟空に信じるべき希望をくれた。けれど引き換えにされるのは、彼と一緒にいることのできる、この世界なのだ。
たまらずに叫ぶ。揺れる地面に足を取られながらも、必死に彼にしがみ付いた。
「だって俺……俺、やっぱり……!」
ずっと傍にいたい、言葉は最後まで声にはならなかった。三蔵が悟空の唇に口付け、これ以上のわがままを塞ぐ。
ずるい。悟空は真剣に泣きたくなった。
しかも唇を離した三蔵は、今まで見たことがないくらい綺麗に微笑んで、待ってろと囁くのだ。
一番好きな声でそんなことを言うのはずるい。彼は絶対にその効力を知っていて、そうしているのだと思う。
これでは悟空は従うしかない。彼が待っていろと言うのなら、本当にどれだけでも待つことはできるのだ。
その間の一人がつらくても。
例えば傍に誰もいなくても、味方をしてくれる人物はたくさんいるのだと教えてくれた人がいるから。
「金蝉……」
呟いた、それが最後だった。
悟空の視界から何もかもが掻き消えた。
そうして全てが暗転し、かすかな金色の気配が闇に溶けたと同時に、悟空の意識も暗転する。
もう一度出会うための孤独が始まる。
★
★
★
暗い……またか
やっぱ誰もいないんだろうなぁ……ちぇっ
……あ
うそ、うそうそ本当に?!
本当に?
「よっ、やっとまともに会えた」
どうしてお前がここにいるんだ?
「うん。何か良くはわからないんだ、俺も。
でもちょっとムリしすぎたらしい。しばらくここにいるかも」
そーなのか? なら俺もここにいよっかな。
「お前はダメ」
なんで?
「だって、行くとこ決まってるじゃん」
そーだっけ
「そーだよ。お前がいかなきゃ、俺がここにいる意味がないだろ」
どーして?
「ああ、もう忘れてやがる。お前のために!ムリしたんだよ、俺は!」
え……っ、それって、もしかして……
「会えただろ、ちゃんと。あいつらと」
……うん
「良かったな」
うん。ありがとう、ナタク
でももしかしてお前、これからここで一人になるのか?
「そーかも」
そーかもって……軽く言うなぁ
「そんなもんだよ。俺はお前みたいにワガママじゃねーもん」
わぁるかったな! でも寂しいだろ、こんなとこに一人じゃ
「うーん……いつ出れるかもわかんねーしなぁ……」
……そうなの?
「うん」
俺、ここにいようか?
「いらない。お前は早くあっちに行けよ」
でも……
そうだ!なぁなぁ、いつか俺が迎えに来るってのはどう?
「えーっ! だってお前すぐ俺のこと忘れるじゃん」
今度は忘れない!
「信じられねーもん」
忘れないったら!
「うーん……」
わかった! じゃあ、これやる! 俺がお前迎えに来るまで持ってろよ!
「これって……記憶?」
うん。全部じゃないけど
「大切にしてたんだろ?」
うん。でも、これだったら忘れずに取りにこれるだろ
「かもしれねーけど……ムリしなくてもいいんだぜ?」
うん、平気。だって、名前だけ覚えてられればいいんだ、俺
「悟空?」
いーんだ。金蝉に、ちょっとだけ仕返しすんの
あんなにスキだって、俺だけ覚えてたら悔しいじゃん
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