何かの気配が動いた気がした。しかし自来也が引き戸を開く間にそれは失せてしまった。侵入者かと室内を窺ってみても、何のことはない、寝台の上には子供が一人、まだ起き抜けらしいぼんやり眼で朝日を眺めている。
ナルトを呼びかけた自来也は、だが不意の香気に口をつぐんだ。病院内には様々な匂いが充満しているが、覚えのないものだった。
これと似たものを一度だけ嗅いだことがある。
雲隠れの忍が使う幻術の香──
思わずナルトに目を移した。ナルトは戸口にいる自来也に未だ気付く様子がなかった。いくら起き抜けで頭がはっきりしないとはいえ反応が遅すぎないか。
「ナルト!」
「わぁっ!」
たった一声でばたばたと身動く子供がいる。
心配は無用の長物だったらしい。
「驚かすなってばよ!」
「驚かしとりゃせん、普通に入ってきただろうが」
「部屋主が気付けないんだから普通じゃないってばよ!」
ナルトの能天気さを見ると、自来也の嗅いだ残り香の方が幻だったようにも思えた。そもそも幻術は精神攻撃だ。ナルトがその攻撃を受けていたとしたら、今ほど元気にしてはいられない。
改めて部屋を見回しても、特に不審に感じるものがなかった。自来也は溜め息をついてナルトと向き合う。
「変わりはないか?」
「うん?」
「そうか……」
本人がそう言うならそれで良いのかもしれない。
どうもこの子供のことになると、自来也も心配が行き過ぎてしまうのだ。うっかり余計な手を出して、出したことに後悔したりする。ついこの間も三年間の修行を約束したばかりである。九尾を腹に入れた子供の相手など、ただですら面倒も多いと言うのに、放っておいていつか何かに押し潰される姿を見たくない。
困ったものだ──実は今日も、綱手に会いに行くつもりが足が勝手にこちらを向いた。
ひそかに自戒する自来也など知らぬまま、ナルトは思い出したように枕元を探っている。
「あった!」
一瞬表情を明るくし、次に何とも悔しげに眉を寄せ、手にしたものをじっと睨んだ。
ナルトに似合わない複雑な反応だった。自来也も興味を引かれて覗き込む。
子供の手の中には、赤い包み紙の飴玉がひとつ。
「何だ?」
「アメだってばよ」
「見りゃわかる。それがどういう意味かと訊いている」
「……カカシ先生が」
なぜか恥ずかしげにカカシの名を口にしたナルトは、苦笑って続けた。
「昨夜カカシ先生が置いてったんだ」
「カカシが? 飴をか?」
「せっかく来てくれてもさ、寝てると起こしてくれないんだってばよ。だから来たっていう証拠だけ」
証拠で菓子を置いていくのか。何ともむず痒い印象があるが、ナルトは気にせず早速包み紙を剥ぎ飴玉を口に入れてしまった。
まだ起き抜けだろうに無頓着なことだ。自来也など朝から甘いものは食べる気がしない。
ナルトは飴で頬を膨らましつつ背伸びをし、次いで床に下り立つと着替えを始めた。
先日会った時よりもずいぶん動きが軽い。九尾は順調にナルトの身体を治癒しているらしい。
「あっ、エロ仙人ヒマ? お湯もらってきてよ!」
「お前、ワシを顎で使うか」
「だってオレもう服脱いでるもの。いいだろ、給湯室はすぐそこだって」
「身体くらい水で拭け水で」
「水で拭いたらこの前バアちゃんに怒られたの! 熱出してんだから、ちっとは自分を気遣えってさ」
それを聞いてしまうと自来也も動かざるおえなくなってしまった。
怪我をして以来ナルトはしばしば発熱する。綱手によると、九尾が尋常ではないスピードで人の細胞を再生しているために起こることだそうだ。発熱する時はかなりの高熱になるが、一晩過ぎればあっさり平熱に戻る。そしてその後は復調が著しい。
「ゆうべは熱が出たのか?」
「うん。でも、もう全然いいってばよ!」
顔全体で笑うナルトは、確かに発熱の苦しさなど覚えていない様子である。
「それに、ゆうべはさ……」
言いかけ、視線を己の腹に落とした。表情こそ穏やかではあったものの、ナルトが見たそこはチャクラを練れば赤い封印式が浮き上がる場所だ。
「ゆうべ、どうした?」
自来也は何でもないふうを装って問い返した。
ナルトは腹に手を沿え微笑む。
「すっげー良い夢見たんだ」
「夢だと?」
「うん。いつも熱出る時は息も苦しくて、眠ってても嫌な夢見るんだけど、昨日は違ったんだってばよ」
それこそ夢を見ているような口調で語るのだ。
「最初はいつもと同じで苦しかった。真っ暗で寒いとこぐるぐる走っててさ、なのにそのうち暖かくなって、オレの身体ぼんやり光り出して……気がついたら、この辺りから花びらがふき出してるんだってばよ」
今は白いばかりの痩せた腹を、ナルトはゆっくり撫でさする。
「桜みたいなピンク色の花びらだった。そんなのが風に乗ってどんどん飛んで行くんだ」
「……腹から、か」
「うん。暗かった場所が明るくなって、オレ、いつの間にか木ノ葉の里を見下ろしてた。それで花びらも里中に降ってさ……全然知らないじいちゃんやねぇちゃんが、下で嬉しそうに騒ぐんだってばよ」
ナルトは何とも言えない笑みを浮かべた。
「キレイだって。みんなで花びらを見るんだ」
自来也には返す言葉がなかった。
それは子供の願望か──はたまた九尾の古い記憶か。
九尾の妖狐を初めとする尾獣たちは、遥か昔、神と崇められた。現在でこそ妖魔として認識されているが、元は人に禍をなすばかりのものではなかった。過度に恐怖し敵対を選んだのは人の方だ。人知を超えた力を無理に制御しようとし、更には戦いの道具にした。
ナルトはそういった事情を何も知らされぬままいる。
深刻に考えるこちらをよそに、子供は至って楽しげにうそぶいた。
「カカシ先生のせいかも」
言葉にはそれ以上の意味はなかっただろう。ただ自来也の中には閃くものがある。
あの幻術の残り香は──
「……そうか、カカシか」
「うんうん、エロ仙人もそう思うだろ? きっとカカシ先生がいたから良い夢見たんだってばよ」
木ノ葉で一般的に幻術と呼ばれるものの多くは、視覚的な錯覚を利用するもので、相手が意識を保っている状態が必須条件になる。写輪眼による催眠もその一種だ。
だが雲隠れの幻術は違った。香を媒体にすることで、意識のない相手にも作用する術である。
他の木ノ葉の忍では扱えない術だが、カカシなら使うかもしれない。何しろ忍術に関しては器用な男なのだ。
「……忍術に関してだけだがのォ」
「へ? 何が?」
「聞き流せ。湯をもらってくる」
「やった! ありがとだってばよ、エロ仙人!」
自来也は木桶を預かり病室を出た。
はたけカカシという男──
通路の窓に背をもたれ、自来也は肩越しに里を見下ろした。まだ朝も早い時間だが、道を一本隔てた茶通りには既に人の流れができつつある。
実は、自来也がカカシとまともに顔を付き合わせたのは近年になってのことである。
しかも、カカシに関するほとんどの知識は、カカシの亡き父サクモと、またカカシの師匠であり自来也の弟子である四代目火影から聞き及んだものだ。本人と面識がないわけではなかったが、その頃のカカシは子供で、忍としての才は飛び抜けていたものの、自来也にとってはわざわざ語り合うような相手でもなかった。
縁があって共に行動したことも一度だけ。
だから、自来也のカカシに対する印象は、ほぼそのたった一度の共同戦線によって作られたものだ。飄々と見えてクソ真面目、カカシを一言で表すならこうである。
ナルトの話を聞いていると今はいくらか丸くもなったようだが、当時は常に他人と距離を取りたがっている節まであった。相手を嫌ってのことではなく、情が深いからこそ関わりを絶とうとしていたのではないかと思う。
自来也がそう推測する理由は、行動を共にした時の会話に由来している。
当時、カカシは二十に届いたばかりだった。元々口の重い男だったが、笑顔で当たり障りなく人をかわす方法を覚え、ほとほと己を漏らしにくい男になっていた。
遠ざかるなら遠ざかるで放っておいても良かったが、やはりサクモや四代目火影の顔が過ぎると、自来也も知らぬふりはできなかった。
九尾襲来の事件以降、師を失ったカカシは個人任務の多い暗部に所属していた。限界での命のやり取りが習慣化したためか、カカシの心技体は張り詰めるばかりで、隣に立つだけで息苦しい心地がしたものだ。
それで、任務遂行後、自来也は無理やりカカシを引っ張って温泉宿で酒宴を開いたのだった。
それこそ見知らぬ者も交えての大酒宴だ。宿を貸切りにした上で、呑めや歌えやの大騒ぎが三日三晩続いた。最後はザルに近い自来也でも朦朧となったくらいであるから、誇張でも何でもなく、その宿その村にあったおおよその酒を呑み干したのではないかと思う。
当然カカシは無事に済むわけがない──当然だ、一度盃についだ酒は呑むまで許されない。自来也が付きっきりでそうしていたので、カカシが呑むたびに自来也も返杯を受けたが、とにかく酒宴は続きに続いた。
そんな状態で二晩も明かすと、さすがにカカシも根負けし始めた。復興の進む木ノ葉の里に思うこと、忍の体勢に思うこと、他者に思うこと、己に思うこと──それまで自来也に語った、通り一遍の回答がぐらついた。
話を引き出すにつけ不器用な男だと思えた。
カカシは何より自身に価値を感じていなかった。技師と称されようが、肝心な時に大切なものを守れぬなら、千の技も万の技も塵と一緒だと苦笑ったほどだ。
特に耳に残った言葉がある。
「腕の長さを測るんです」
さっぱり合点の行かない自来也に、カカシは自分の右腕の長さと左腕の長さを諳んじた。
「両腕で囲えるものなら身体で庇うこともできる……忍術なんか関係ない、オレにはこの大きさが限度です」
カカシはその頃、暗部でも飛びぬけて優秀な忍として認められていた。だが何度要請を受けても責任のある立場にだけは立とうとしなかった。辞退答弁は明快で、部下を死なす者が上に立つべきではないとそれだけの主張だ。
詰まるに、はたけカカシは潔癖で臆病なのである。
自来也の認識は長くそんなふうであったから──
だから、下忍の担当上忍になったと知った時は驚かされた。ついに趣旨変えしたかと調べてみれば、部下にはうずまきナルトがいると言うではないか。
ナルトをカカシに任せたのは三代目火影だろう。今の木ノ葉で貧乏籤を貧乏籤と知って捨てないのはカカシくらいだろうし、それ以前に、広く実力を認められている忍でなければナルトの後ろ盾は務まらない。
ナルトの敵は、時に味方の中にも潜んでいるのだ。
カカシはナルトと関わることで何を見つけ、何を考えたのだろう──長くしがらみを敬遠していた男が、珍しく自分で選んだしがらみは、黙って立っているだけで首の絞まるものではなかったか。
「花びらの夢、のォ……」
それがカカシが施した幻術であるなら、呆れるほど意味がないと自来也は思う。意味はないが、ひどくあの男らしい。術にかかったナルトすらいつか忘れるであろう、ただ一夜の悪夢を取り除くための幻だ。見返りを期待しない者にしか作れはしない。
かつてのカカシの言葉が蘇る。
「腕の長さを測るんです」
あの臆病な男が、と、自来也は苦笑った。
そもそも自来也が里に帰還した時点で、カカシはナルトを放り出してしまっても良かったのだ。音と暁の件でナルトを預かると言った時も、カカシが何も訊かなければ、自来也はその後のナルトの面倒を見るつもりでいた。
ところが、あの男は「いつまでですか」と尋ね返してきた。
──いつになったらナルトを返してくれますか?
自来也はひどく感慨深くその問いを聞いた。そして、思わずカカシの二の腕の長さを目算してしまった。
あの男は、本気で己の腕の中にナルトを囲う気でいるらしい。いつか子供は成長すると知っていても、せめて腕に囲える間は、飴玉でも意味のない幻術でも、できる限りのものを与え続けるのだろう。
木桶に湯を溜めて病室に戻ると、すっかり寝間着を脱ぎ切ってしまったナルトが「遅い!」と文句を垂れた。
「すまんすまん、勝手がわからんでのォ」
「スイッチいれて蛇口捻るだけだろー!」
「まぁそう言うな」
ナルトは未だ口で飴玉を転がしている。それを機嫌良さそうに頬の裏側に押し当てながら、湯で絞ったタオルで身体を拭っていく。
一時期は痛々しい有様だった背中にも、もうほとんど傷痕が残っていない。これなら修行も始められそうだ。綱手にも相談して、できるだけ早い時期にナルトを伴い木ノ葉を離れよう──そこまで考えた自来也は、ナルトに里を出ると告げていなかったことに気がついた。
「……のォ、ナルト」
「んー?」
「お前、カカシが好きか?」
質問は深く考えてのことではなかった。しかしナルトの反応は極端だった。タオルを取り落とし、肩を硬直させてぎくしゃくと自来也を振り返った。
「……え……?」
「カカシが好きか」
「え。あ、……うん」
うなずいておきながら羞恥に上半身全てを赤くする。尋ね方が不味かったか、自来也もこそばゆい心地になる。
「エビスの時は、教わるならカカシが良いとごねたと聞いてのォ。今度のワシとの修行は里をしばらく出ることになる。ごねられても聞いてはやれん、カカシと会うなら今のうちに会っておけ。今の木ノ葉にあいつを暇にしてやる余裕はないぞ」
「わ、わかった……」
ナルトは赤くした顔をうつむかせながらうなずいた。
今日はどうもカカシの名に対する反応がおかしい。そう言えば、飴玉のことを話した時も奇妙な突っかかり方をしていた。
そそくさと身体を拭き直すナルトに、自来也はもう一度直球な問いを投げてみる。
「──カカシと何かあったか」
ぼとり。タオルが落ちたのは二度目だった。
「ななななな何にも!」
何にもないってばよ!、更に真っ赤になった顔で言い募られても否定に聞こえない。
なるほどなるほど。自来也はうなずき、あまり性格のよろしくない笑みを口元に刻む。
「ナルト、お前、早くでかくなれ」
「何の話だってばよ!」
「カカシの好みの話だ。ああ見えてヤツは太った相手が好きでな、もしお前がヤツの腕が回らないくらい太ったなら、泣いて喜ぶと思うぞ?」
「ふ、太る……?」
図らずも、まさに先日、ナルトはカカシに太れと言われたばかりだった。
「太る……」
困り顔で己の身体を見下ろすナルト。
自来也は、いつか子供とカカシの間で交わされるだろう調子外れの会話を想像し、喉を鳴らして笑い続けた。