くやしいほどお天気 -mellow mellow05-

 もうすぐ来る、きっといつもの遅刻なのだから。
 一晩中開かぬ窓を見て何度唱えただろう。会いに来ると約束をしたカカシよりも先に朝日が見えた時は、さすがにナルトも愕然とした。
 結局そのまま朝の検診を受けなければならなくなる。
 朝の検診と言うと、普通は極簡単な触診で終わるものだ。ところが今日に限って綱手専用の検診室に呼ばれてしまった。しかも自来也まで顔を出すではないか。
 こんな時に眠っていないのはまずい。ナルトはできるだけ下を向いて顔を隠したが、目ざとい綱手を誤魔化し通せるはずもない。
「……お前、寝てないな」
 確信を持って言われてしまう。と同時に、彼女の拳がナルトの脳天へと振り下ろされた。
「いってぇ!」
「これじゃ正確な診断ができん! 睡眠不足はチャクラの流れも変質させる。それに、人の治癒能力が最も活性化するのは睡眠中だと言っただろう。せっかく治りかけているんだから、治癒を遅らせるようなことはするな!」
 綱手が言えば、苦い顔で自来也も言うのである。
「阿呆。せっかく軽い修行を始められるよう綱手に診察を頼んだっつーのに……いくらお前が阿呆でも、今だけは身体を治すことが務めだとわかっていると思ったがのォ」
 もちろんナルトも良くわかっていた。だから動けるようになっても自分勝手な判断で病院を抜け出したりはしなかったのだ。
 けれども昨夜はカカシが来ると言った。
 ナルトが眠っているとカカシは声をかけず帰ってしまうから、前もって来る日を教えてくれと、起きていたいからと、ねだってねだってやっと取り付けた約束だった。
 その晩に──カカシは来なかった。
 綱手も自来也もナルトの心配をするから怒っているのだと知っている。だが、今のナルトにとって大問題なのは、なぜカカシが昨夜来なかったかということなのである。
 任務が長引いているだけなら良い──いや、絶対そうに違いないのだけれど。
「……バアちゃん、あのさ」
 きっと何でもない、そう思いつつも、ナルトは黙っていられなかった。カカシは時間にはルーズだが、一度取り付けた約束を違えるような人物ではない。
「昨日、カカシ先生って任務だったんだろ?」
「カカシ?」
「うん。あのさ、その……カカシ先生まだ帰って来てねーのかな」
 綱手は意味が通じぬ顔をしている。先に話題に反応したのは自来也だった。
「カカシと約束でもしていたのか?」
「う、うん……」
「昨日か?」
 こんな問いにうなずけば、もしかしたらカカシにまで綱手や自来也の小言が行ってしまうかもしれない。けれど他にカカシの安否を知る方法もないのだ。ナルトは正直にうなずいた。
「夜に来てくれるって言ったんだってばよ。でも……」
「それで寝ずに待っていたのか?」
 眉をひそめたのは綱手だ。
 自来也は逆に微妙な表情になった。怒っていないこともないのだろうが、何かに思い当たったらしい、腕組みをして息をつく。綱手が「カカシを待つなら寝て待てば良いだろう!」と小言を重ねるのを制し、面倒くさげに頭を掻いた。
「エロ仙人、何か知ってるのか?」
「いや……ちと確認をな。それは約束だったのか? もっと曖昧なもんじゃなく?」
「約束だってばよ、絶対来るって言った」
「ほー、絶対のォ……カカシがのォ……」
 根気強く説明が始まるのを待ったが無駄だった。自来也は綱手に向き直り、カカシのことを取りなすと、明日改めて診察を行う約束を取り付ける。
「今日は仕方がなかったが、今晩はきっちり寝て身体を休めておけ。音も暁ものんびり眠ってやり過ごせる相手じゃない、多少回復したなら僅かなりとも修行を始めるぞ」
 それはナルトが聞きたかった返事ではない。もちろん修行を始めることに否やはないが、カカシの安否はどうなったのだ。
「エロ仙人! カカシ先生は──」
「そうがなり立てるな。そろそろ来る」
「えっ?」
 自来也の言葉を証明するように、いつの間にか綱手も出入り口を向いていた。そうしてナルトが気配を探るよりも早く、外から引き戸が開かれる。
「すいません、ナルトがここに……」
「カカシ先生!」
 思わず突撃していた。ナルトは軽々と受け止められることを疑っていなかった。しかし今日に限って勢いは死なない。相手の揺らぐ身体に驚いて振り仰ぐと、その忍服のあちこちが汚れており、下顎には刃物で斬られた痕まであるではないか。
 血は固まっているが無傷でないことは明らかだった。ナルトは即座に離れようとした。
 が、後退した先もまたカカシの手の中なのだ。
 いつかのように振り仰いだナルトの頭を、揺るがぬ位置で支える手のひらがある。その指がかすかに後ろ髪を梳くのを感じ、ナルトは己の手が彼にしがみ付くのを止められなかった。
「ち──遅刻にもほどがあるってばよ!」
「ごめんごめん、ちょーっと深い落とし穴にはまっちゃってねぇ」
「お、落とし穴って……」
 カカシが至っておっとり笑うので嘘とも本当とも思えない。無理に怒ったふりをしたものの、ナルトは早速言葉を失い唇が震えそうになる。
「大丈夫。みんな怪我してないから」
 つまり任務は遂行され、彼と班を組んだ者は無事であると言うことなのだろう。それはわかるが、ではカカシ自身はどうなのか。
 ナルトの疑問は綱手が代弁してくれた。
「つまりお前一人が負傷したわけか?」
「血は固まってます、怪我のうちには入りません」
「主観だらけの報告だな」
「そんなつもりはないんですが。とりあえず事情は記録班に聞いて下さい、私は──」
 綱手はカカシの言い分を最後まで聞かず、踵を返すと薬箱を引っ張り出し、ナルトに突き出した。
「手当てしてやれ。もう血は固まってるそうだし、専任の者を呼び出すまでもないらしい。お前が適任だろう」
「五代目、本当に──」
「ナルト。この男が何と言おうと、しっかり傷全部に消毒液をふりかけろ」
 もちろんナルトにとっては渡りに船だ、薬箱をきつく抱き込む。
「いいか、服の下にも傷がある。事務局に行って患者用の検診衣を借りて、汚れた忍服は引っぺがしてやれ。やるなら徹底的にだ、手加減するな」
「了解だってばよ!」
 二人のやり取りに、カカシは遠慮がちに手を挙げる。
「あのぅ……ご存知だとは思うんですが、私の場合、既成の薬は匂いが強すぎて、鼻が……」
「だそうだ、ナルト。遠慮なくやれ」
 多分綱手はナルトを気遣ってくれたのだ。火影の名でカカシを留め置いてくれた。
 もはや白旗を揚げるしかなくなったカカシに、ニシシと笑って見せる。
 笑顔は上手く作れたはずだ。怪我一つにいちいち深刻な顔をしていたら忍などやっていられないのだから。
「じゃあ服からだってばよ、カカシ先生! まずは事務局に出発!」
「ハイハイ……」
 こうして二人で綱手の部屋を去りかけた頃、しばらく黙っていた自来也が口を開いた。
「カカシ、最近腕の長さを測ったか」
 ナルトには意図の読めない質問だ。だがカカシは心底驚いたらしい。その反応の正直さには、自来也の方が苦笑ったくらいだった。
「なんだ? 自分で話しただろうが」
「そう……でしたか?」
「別にそれ自体はどうでも良い。しばらく測っていなければ測ってみると良いと思ってのォ」
 カカシは声もなく自来也を見返した。
「ワシの記憶違いでなければ、お前、あの時よりも身長伸びとるぞ」
 腕も少しは伸びたかもなぁ。
 最後に謎めいた言葉を足し、自来也は「さっさと行け」と煩いものにするように手を振った。カカシは黙って一礼し、ナルトは神妙な顔を見せる彼を複雑な心地で見上げていた。

 ひとまず綱手の指示通りに検診衣と呼ばれるものを借りてみた。
 検診衣は浴衣に似た一枚布の衣で、要所を紐で留め置くタイプの寝間着だ。元々病人が医師の検診を受けやすいように作られたものであるから、襟口も袖口も開きやすく、忍服に比べれば恐ろしいほど無防備だったりする。
 普段から隠す部分の多いカカシは、この寝間着も見るや否や嫌な顔をした。
「本当にそれに着替えるの? ここで命狙われたら死んじゃうかも」
 不吉なことを平気で言うのが悔しい。しかも室内に入ろうとしたら「そんな狭いとこで薬の匂い嗅いだら鼻が曲がる」などと、これまた困ったごね方をされ、ナルトは早々に短気を起こす。
「だったら外に行くってばよ!」
「ええぇぇ……外には刺客が」
「いても先生一人くらいオレが守る!」
「ええぇぇ……?」
 逃げようとするカカシを引っ張りどやして、ナルトがやって来たのは屋上だった。
 今朝の空はたいそう晴れ渡って美しかったが、徹夜明けのナルトの目には沁みる色をしている。もちろん夜通し激務をこなしただろうカカシも同様で、屋上に繋がるドアを開いた途端、二人共に光の洪水によろめいてしまった。
「……ナルトぉ。忍は暗いとこにいるべきだと思う」
「うっさい!」
 ナルトも内心引き返すかと迷ったが、あんまりカカシが非協力的なので意地になって突き進んだ。
 わかってはいるのだ、カカシが本当にその気になればナルトの手など簡単に振り切ってしまえる。不平を口にしながらでも従ってくれるなら、即ちナルトは尊重してもらっていることになる。
 だから、少しはやさしくしようと思うのだけれど。
「うわ、視界が黄色い……ナルトの頭も黄色いねぇ。お前意外に目にやさしくないよ、見てるとしぱしぱする」
 などと地味に腹が立つ感想を聞かされ、気遣う機会もできる傍から消えていくのだ。
 幸い、屋上に人はいなかった。
 ただ今日は、人の代わりに洗濯物が幅をきかせている。一面を使って右から左へロープが張られ、漂白されたシーツとタオルが大量に干されていた。
 それは普通に見れば極々平和的な風景だ。涼やかな風が洗濯物を揺らしている──鼻をくすぐる洗剤の透き通った香り──陽に照り輝く白い布たち。どれもほのかな平穏を連想させるものである。
 しかし、カカシの感想はこんなもの。
「う……匂いキツイ。白も目が痛い。ナルト、せめて風上に回って。……ここって影ないの?」
「もーっ! 先生、文句ばっかり言うなー!」
「黙るより良いかと思って」
「黙ってる方が良い!」
 とにかく目が痛い影が良いとカカシがうるさいので、干されたシーツの影に隠れた。洗濯物が近いと匂いもつらいらしいが、これに関しては、どうせ薬を使うのだから一緒だとナルトが押し切る形になる。
 落ち着く場所が決まると、カカシは早速足を投げ出し座り込んだ。次には、はー……っと、長い溜め息。その背の曲がり具合に疲労が見て取れ、ナルトは着替えを急かす言葉を飲んだ。
 今更ながらに、カカシを屋上に引っ張って来たことが悪いことに思えた。
 眩しいだけではない、ここには身を横たえられる場所がない。毛布でも準備していれば頭くらいは保護できたが、それもないのだ。辺りに山とあるシーツも干されて間もないから全部濡れている。
「…………」
 ナルトはぺたりと尻をついた。
 座ってみるとナルトにとっても屋上の床は硬かった。完治しきれていない怪我を微妙に刺激する硬さなのである。
 きっとカカシも居心地が悪いに違いない──彼が黙ったのはそのせいではないのか。先に黙れと言ったのはナルトだったが、実際に沈黙ができると気弱な考えばかりが頭を過ぎる。
 ふと──頭を伏せていたカカシが、片目にナルトを映した。黙ると困るでしょ、瞳がちらりと笑みを乗せる。
 悔しいことにこちらの心の浮き沈みも予想の範疇らしい。ナルトは頬を両手で叩いて迷いを飛ばし、その勢いのままカカシに向き直った。
「さ、着替えるってばよ!」
「えー……本当に?」
 寝間着は受け取っておきながら、彼ののらりくらりとした態度は相変わらずだった。
「先生、早くっ。着替えないと手当てできないだろーっ」
「できるよ。首でしょ?」
「バアちゃんは服の下も怪我してるって!」
「どこも痛くないよ?」
 埒があかないのだ。とうとうナルトの方が痺れを切らして、彼のベストのジッパーに手を出した。
 カカシはこれすら諾々と受け入れる。屋上に来た時と同じで、嫌がるわりに抵抗がなく、強いるナルトこそ本当に良いのかと戸惑った。
 人の服を脱がすというのも案外恥ずかしいのだ。結局ベスト一枚がナルトの苦心の成果になった。
「シャ、シャツは自分で脱げってば」
 幼い時期を孤独に過ごしたナルトは、基本的にスキンシップが下手くそだ。年の近い友人ができたのは最近で、イルカに出会うまでは一人の大人もナルトに触らなかったし、それより昔に生活を手助けしてくれた者たちも、命令を受けたからナルトの世話をしただけだった。
 幼少がそうだったせいか、どうしても人との距離感が掴めない。どんなふうに話せば気持ちは伝わり、どこまでなら触っても許されるのか。相手の反応を探りつつ手を伸ばし、許されて更に伸ばし、時には慌てて引っ込め──
 一事が万事そんなふうなのに、しばしば言うこととやることが一致しないカカシが相手なら、疑心暗鬼にならない方がおかしい。
 そもそもカカシの場合、ここまでかと手を出すと大抵もっと先に許されるラインがある。
 ということは、一度手を出す段階で迷ったものが、更に伸ばす段階で二度迷わされる、ということである。
 カカシといると心が跳ね回るのはこのためだった。当然ナルトは二倍浮き沈みさせられ、二倍やきもきさせられる。
 きっとカカシの表情が読みにくいのも悪いのだ。
「結構重いでしょ、それ」
 何やらいろいろ仕込んでありそうなベストを抱えるナルトに、楽になったと言わんばかりに肩を回しながらカカシが微笑む。
 ナルトは素直に、嫌がっていたけれども本当は脱ぎたかったのだろうと考えた。そうであるなら、今度こそ自分で着替えてくれるかもしれない──だが期待は儚い。カカシはやはり動かず、おもむろに後ろに倒れ、床に寝転んでしまう。
「まぶし」
 言うわりに仰向けのまま。
 ナルトとしては、彼の着替えも傷の手当ても急ぎたいが、硬い床に直接当たる頭も気になった。ベストを枕として渡そうにも忍具で凹凸が激しい。
「……カカシ先生」
 もっと傍でも許されるのか。
「枕、いる?」
 ぽんぽんと自分の膝を叩く。少しだけ断られる覚悟もした。
 カカシはくすぐったそうに笑うと、腹ばいで移動し頭を寄せてくる。そうするカカシも楽しそうだったが、ナルトはもっと嬉しくなってしまった。
「額当て取っていい?」
 今度は気負わず言えた。カカシもさらりとうなずく。
「いいよ。マスクは、怪我したとこ血で固まっちゃってるから、適当に切って」
 痛くするなよー、と、いささか怯え気味に付け足された言葉に、ナルトは力強く大丈夫と答える。
 怪我の手当てだけは自信があるのだ。一人暮らしを始めて以来、何もかも自分でしなければならなくなり、おおよその処置は覚えた。
 あまり大っぴらには言えないが、里人の大多数がナルトと九尾を同一視している。石を投げつけられるようなこともあったから、昔から生傷が絶えなかった。
 もちろん今は石なんか避けてしまえるし、任務や演習でこしらえる怪我がほとんどである。ナルトの手当ての的確さは、友人連中の間では重宝される特技にもなっていた。これこそ怪我の功名と言うものだろう。
 いつだったか、チョウジの怪我を手早く処置してシカマルに驚かれたこともある。その時も慣れていて良かったと思ったが、カカシの傷を触っているとなお強く感じた。
 最初は不安げにしていたカカシも、ナルトの手に危ういところがないと知るや、静かに目を閉じる。
 脇で真っ白なシーツが揺れていた。
 はたはたと軽い音。かすかに香る洗剤の匂いが気分を丸くさせる。カカシの重みもやさしくて、ナルトの指は自然と繊細になった。
 傷に障らぬよう丁寧にマスクを切り、血がこびりついてしまっているところは、濡れタオルで少しずつ湿らせて取り除く。
 カカシが笑う。
「? 先生?」
「……ん。いや」
「痛い?」
「逆。気持ち良いなって」
 ナルトも笑った。
「丁寧にしてるもん」
「ね。もっと不器用だと思った」
「シツレイだってば」
 布の繊維を残さぬよう気をつけて、今度は傷の上を拭った。もう少しでも深ければ致命傷になっていてもおかしくない箇所だ。深刻にしてはいけないと思いつつ、どうしても眉間に皺が寄ってしまう。
 雰囲気で察したか、カカシが薄く目を開いた。ナルトはタオルを畳み直して誤魔化す。話題も改めてみる。
「そう言えば、腕の長さって」
「……ん?」
「エロ仙人が言ってたやつ」
「あぁ……。ナイショ」
「えーっ」
「恥ずかしーの」
 カカシが言うと嘘くさいのはどうしてだろう。
「エロ仙人には話したんだろ?」
「覚えてないんだよね。あの時かなぁ……それともどっかで盗み聞きされたとか」
「先生、ウカツだってばよ」
「あの人はオレよりずーっと凄い忍なの。今だってオレたちの話聞いてるかも」
「えっ!」
 そんなことを言われると気になるではないか。言葉に釣られて辺りを見回すと、「すぐ慌てる」と人差し指で鼻を弾かれた。
「忍ならもう少し落ち着つきなさいよ」
「だってさぁ……」
「ま、もし自来也さまが本当にいても、お前に見つかるような人じゃないから。心配するな?」
「ほんっと先生、シツレイだな」
 それなりに毒舌を吐かれている気がするのにカカシとの会話は楽しい。カカシの声がのんびりしているせいかもしれない、どきどきするが受け答えは急がなくて良い。
「──ちょっと染みるってばよ?」
 断りを入れて消毒液を傷に乗せる。
 痛がるならまだしもカカシは笑った。タオルで拭いていた時もそうだったが、ずいぶん不思議なところで笑う。カカシ自身も自分で予想外なのか、微妙に困った様子でいるのがおかしかった。痛くないなら別に良い、ナルトもわざわざ理由は問わずにいた。
 何だかカカシに触っているとやさしくしたくなる。
 無事下顎の消毒を終えてほっとした。傷口も開かなかった。あとは簡単にガーゼで保護しておけば充分だった。
 心配もいくらか減って、冷静にカカシを見つめ直すと、マスクで覆われていなかった皮膚がうっすら黒ずんでいることに気がつく。
 泥かと思ったら煤だった。火攻めに遭ったのか、それとも逆に火を使って攻めたのか。
「……先生、顔も拭く?」
「んー?」
「煤ついてる。タオル、もう一枚あるってばよ?」
 んー……、ぼんやりと返事をしたカカシは、目も開けずに「拭いて?」と続けた。
 屋上に来る前は刺客がいるなどと物騒なことを言っていたわりに警戒のかけらもない態度である。ナルトは呆れつつも新しいタオルに持ち換える。
 汚れは皮膚上にとどまらなかった。髪にも泥が付着して乾いてしまっている。ナルトはまず顔の煤を拭き取り、次にせっせと髪の泥を落とした。
 何となく既視感があった。最近似た経験をしたのだ。
 任務で迷い犬を探した時のことである。見つけ出したものの犬は盛大に汚れていたので洗ってやったのだった。
 ナルトの手で綺麗になっていく銀髪は、どうしてもあの時の犬の毛並みを彷彿とさせる。しかも、タイミング良くカカシが寝返りを打ち、ナルトの膝と手に頭を擦りつけたりするから──あの犬も確かこんな仕草をした。気持ちが良いと言葉にできない代わりに、ナルトに身振りで伝えたのだった。
「……先生、なんか犬みたい」
 うっかり呟いてしまう。
 途端にカカシが色違いの両目を開けた。
「お前こそシツレイだね」
 その一言だけなら怒らせたとナルトは焦ったに違いない。しかし続きはこうだった。
「犬っていうのは、もっとこぉーんな──」
 と、言いながら上体をもたげたカカシは、次の瞬間ナルトの腹に鼻面を押し付け、長い両腕であちこちをぐしゃぐしゃにしながら、全身をくすぐり出す。
 ナルトはたまらず奇声を上げた。
 うひゃっと驚いて、ギャーと叫んで、助けてと笑った。
 笑いすぎてすぐに呼吸が苦しくなるが、逃げても逃げてもカカシの腕の中である。このままではカカシの気が済むまでおもちゃになる──奮起したナルトは逆襲に出た。逃げていたところをしがみ付いて、一生懸命彼の脇腹をくすぐる。
 しかし、カカシにこたえた様子はなく、逆にナルトは鼻に噛み付かれて返り討ちにされた。
「コラーっ」
 さすがにちょっと痛かった。
 何とかカカシの手から抜け出し、酸素を取り込んで、涙目になりながら怒鳴ったら、今度は噛まれた鼻先を舐められた。驚く間もなく、頬もぺろりとやられる。
 確かに犬ってこんな感じ──
 妙な納得が怒りを逸らす。
 カカシは終始笑い続けており、その楽しげな表情を目にすると、ナルトはくすぐられて苦しかったことや、鼻を噛まれて痛かったことがどうでも良くなってしまった。
 この人が好き。唐突にそんなことを思う。
 一緒にいようと、身体全部でナルトに伝えてくれる人。
「も……うひゃっ、コラっ……っ」
 その後も、顔中噛んだり舐められたりで、あとはもう笑うしかなくなってしまった。
 やたら懐かれて、ナルトはそれこそ犬にするみたいにカカシの頭を撫でてやる。すると更に頬を擦りつけられたりして、好きという気持ちが一気に膨れ上がった。
 ぎゅーっとしがみつく。
 カカシも笑いながらナルトを受け止め、最後は二人でくっつき虫みたいにお互いの手足を絡ませた。
「も、腹いてーってば……っ」
 ナルトが息を整える間もカカシは笑い続けている。その頃になって、どうやら彼は苦しいのに笑いを止められないでいることに気がついた。もしかして笑い上戸?、今の今まで知らなかった事実を、ナルトはひとつ手に入れる。
 やっぱり好き。
 気持ちが溢れてどうしようもなかった。ついカカシに習って、一番近かった彼の顎下を舐めた。ところがそこは先ほど消毒液で拭いた箇所だったらしく、ナルトは即座に「からい!」と悲鳴を上げざるをえなくなる。
「バカだねー」
 舌を出して顔をしかめるこちらに、カカシはまた笑って。当然のことのように、彼自身の舌で消毒液を舐めたナルトの舌を慰撫した。
「──ん?」
「──え?」
 事件に気付いたのは多分二人同時。
 思いがけないほど近距離に相手の瞳が見えた。写輪眼って本当に赤い、なんて、ナルトがぼんやり考えられたのはその時までだ。
「あ、ごめん」
 一応大人らしくカカシが先に謝った。しかし。
「……キスしちゃった」
 続いた言葉はなかなか衝撃的で、ナルトの全身を瞬間沸騰させる。
 もうカカシが怪我をしていようがしてなかろうが関係ない、思いっきり突き飛ばした。ナルトはすぐにも無人のどこかへ逃避するつもりでいた。が、立ち上がり、方向転換した途端、目の前が真っ白なもので塞がれる。
 それがシーツだと気付くのが遅れた。
 走り出そうとした勢いは殺せず、ナルトは派手に洗濯物の列に突っ込んだ。華奢なロープで支えられていたそれらは激しくたわみ、揺れ動き、端の結び目がほどけたらしく、一呼吸のうちに全てが宙へと放り出される。
 青空に翻る鮮やかな白を、ナルトは呆然と見るしかなかった。
 屋上中を敷き詰めていた洗濯物は、間もなく、ことごとくが地面へと落下した。
「──…………」
「──…………」
 初めは二人して無言だった。指ひとつ動かすことなく惨状に見入っていた。
 ぐふっ、と、変な声が聞こえたのは、しばらくしてだ。
 はっとナルトが視線を巡らせると、カカシが口を抑えて肩を震わせている。
「も、もう、いっかい、あらい、なおさなきゃ、な……」
 どうにか言ったのが最後だった。カカシは忍とは何ぞやと討論したくなるくらい盛大に笑い出した。
「せ、先生、ひどっ……誰のせいだってばよぉ!」
 必死に訴えても聞いてくれない。
「ごめ……っ、ごふん……ま、まって……っ」
 本当に息も絶え絶えになって笑い続けるカカシに、ナルトは泣きたいような暴れたいような気分になって、銀髪が揺れる頭をぽかりと叩き、うさ晴らしをした。