01
「不動の郷<ふどうのごう>、ですか?」
「草隠れ、雨隠れ、そして我が木ノ葉隠れ、三方の里に囲まれた観山<かんざん>にあって唯一人の住む郷だ。名前くらいは聞いたことがあるか?」
綱手が言うのに、カカシは小さくうなずいた。
明日にはナルトも退院するという朗報を聞いたばかりだった。早速祝いをと去りかけたカカシを呼び止め、綱手は火の国にあって火の国ではない土地の話を始めた。
任務である──カカシは身構える。
観山とは、その名が示す通り、戦時は物見に使われた山である。火の国を始め、忍の里を有する三国の境に位置する雪山で、三国に跨るがゆえに支配権も曖昧なまま、未開拓の地として知られている。
ただ全く人家がないわけでもない。頂近くの僅かな台地には、五十戸足らずの郷村があった。これを不動の郷と呼んでいた。三国と交流を保つために、三国どの国にも隷従しないと中立を唱え続けている郷である。
「確か……中立を証明するために、草、雨、木ノ葉から、それぞれ監視役を招き入れたはずですよね。誓いの火が頂上にともって十六年、今でも三国からは観山の頂に火が見える」
「その火が昨夜消えた」
カカシは綱手の苦々しい表情を見返した。
火が消えた。つまり中立の誓いを揺るがすような何かが、郷で起こったのだ。
「不動の郷については、ちょうど二日前、郷の監視役である硯家<すずりけ>の者が木ノ葉へ戻ってきたばかりだった。そいつの報告では、観山で音隠れの忍を見たらしいんだが──」
では相手は大蛇丸か。カカシは次を待ったが、綱手は眉根を寄せるばかりで言葉がない。
「……大蛇丸、ではないのですか」
「わからん」
「どういうことです?」
「自来也によると、例の木ノ葉崩し以前には、確かに音で観山を掌中にする動きもあったらしい。あの山は三国間に跨っている。目の良い者がいれば、三つの隠れ里を監視することもできる。だが木ノ葉崩しは既に成された。今この時期に、ただですら遠く離れた観山の制圧を音が急ぐ必要はない──要するに不自然なんだ」
カカシは音隠れの里と観山の位置関係を思い浮かべる。火の国を何事もなく横断したとしても、麓まで四日、山頂に到達するには更に三日がかかる。
「……任務内容は?」
「不動の郷の現状把握を。万一音の侵入があるなら迎撃部隊を出すことになる、見極めを頼む」
「了解しました」
「今回はSランク任務の扱いだ。四人小隊編成で、部隊長に、はたけカカシ。以下二名は、はたけカカシによる暗殺戦術特殊部隊からの指名を許す」
カカシは思わず目を見開いた。
暗殺戦術特殊部隊、通称暗部は、顔と名を捨て極秘任務を遂行する火影直属の部隊だ。いくらカカシが元暗部の肩書きを持っていようと、正規部隊に籍を置く今、小隊で組むべき相手ではない。
綱手は強引に続ける。
「なお、残る一名を、不動の郷より帰還した中忍、硯イチフミとする」
「五代目──」
「出発は今晩。お前には今更暗部の人名リストなどいらんはずだ、できるだけ早くに編成を決めろ」
「五代目」
綱手はとうとう苦い笑みを零した。
「……すまんな、カカシ。貧乏籤を引かせる」
「どういうことなんですか」
「恐らく、不動の郷は音隠れと手を結んだ。報告は虚偽の疑いがある。硯イチフミを名乗るくの一は、音の息がかかった間者だろう」
カカシは腹から溜め息をついた。
「……私に、不動の郷に行き着くまでに、硯イチフミから情報を引き出せと?」
「その通りだ、察しが良いな」
暗部をつけるということは、決してカカシの指揮下に暗部が入るわけではなく、硯イチフミに対する監視が目的なのだろう。場合によっては道中での抹殺もありうる、綱手はそう言いたいのだ。
暗部が暗部の仕事を行うのであれば、当然面も外さぬのだろうし名も明かすこともしない。綱手が四人小隊と言ったのは、あくまでカカシだけが知る事実で、硯イチフミには、今回の任務が二人一組のものとして伝わるはずだ。
カカシの肩が落ちた。
「……貧乏籤も良いとこですね。道中は敵と二人きりじゃないですか」
「すまん。本来は全て暗部の仕事なんだがな、相手に怪しまれないために正規部隊の顔が欲しかった」
「それで私ですか」
「お前は有名どころでわかりやすい」
大迷惑だ、カカシはぐったりとうなだれる。
02
不動の郷は遠い。
地図でも確かめてみたが、国内とはいえ、距離では国を一つ跨いで砂隠れのある風の国に行くのとほとんど変わりがない。更に雪山を登らねばならないから時間は倍かかる。二人一組で行動しろというのも厳しい条件だった。手荷物の無駄は許されないし、もう一人が味方でないのであれば、カカシは単独行動を強いられているのと同じだ──いや、まだ純粋に単独行動の方がましである。
とにかく旅支度から手間取って仕方がなかった。上忍待機所にある寄宿舎へ戻り、必要な物資を揃えているうちに午後になる。
明日からまともな食事が期待できないのだから、今日に限っては昼食を抜くのもまずいのだ。この時間のない中に食堂へも向かわねばならないことに思い至って、カカシは片付かない荷物の中心で困り果てて頭を掻いた。
そんな時である。机の上に置きっぱなしになっていた飴玉の袋に目が留まった。
買っておきながら自分ではひとつも食べていない。それはナルトのためのものだった。
深夜に動くことの多いカカシは、どうしても病院の規則正しい生活リズムに合わせることができない。それでナルトの顔を見に行った時には、せめてもの証として、飴玉を置いて行くようにしたのだ。
ナルトは明日、木ノ葉病院を退院すると言う。
もうカカシが飴玉を携帯する必要もなくなってしまった。しかも今晩からの任務を考えると、旅立ちを見送ってやることも難しいかもしれない。
「──…………」
時間がないとわかっているのに、どうにも見過ごすことができなかった。飴玉をポケットに一握り分詰め込むと、カカシは自室の窓から飛び降りた。
待機所から木ノ葉病院までは近くだ。カカシの足ならば一呼吸のうちにナルトがいる病室の窓辺に着いた。
窓から別れだけ告げるつもりが、いざ中を覗いて見れば、とうのナルトは腹を出して眠りこけている。
時刻はちょうど二時だった。
昼食で腹が膨れて眠くなる時間帯かもしれない。カカシはそっと苦笑して部屋に滑り込む。
いつもなら一つだけを枕元に転がした飴玉を、今日は一握り分、ナルトの額の上にかざし、手を開く。
コツ、コツ、コツコツ──
「ん、うー……?」
顔の上を固体が転がり落ちる感触に、ナルトが目を覚ますのはすぐだった。
「カカシせんせぇ……?」
寝ぼけ眼でぼんやり見上げ、舌足らずにカカシを呼ぶ。
「ナルト、早く気配読めるようになろうなー?」
忍がそんなに無防備でどうする。注意するつもりで額を小突いたら、その指を嬉しそうに握り込まれてしまった。
「きょうはおこしてくれたんだー……」
やんわり微笑むナルトはかわいすぎた。カカシは苦笑い、指は握らせたまま、甲で頬を撫でる。
「自来也さまに連れていかれちゃう前にもう一度会いたかったんだ。次にオレと会う時は、お前も背が伸びてたりするのかな……」
「……え? ……えっ!」
驚いたように起き上がり、何事かを言いかけたが、ナルトは結局言葉を飲み込んだ。
任務なのかと尋ねたかったのだろう。だが尋ねられたところでカカシも答えることはできなかった。今回の任務は請け負ったこと自体を隠さなければならない種類のものである。ナルトも理解し始めている。忍が持つ情報は、本来己の一存で口外できるものではない。
「そっ、かぁ……あー……えーと、うん! きっと先生がびっくりするくらい太ってるってばよ!」
太る?
背が伸びると言った言葉の返しにしては変な気がしたが、カカシは深く考えなかった。ナルトはベッド脇を振り返ると、台上にあったものを掴んでカカシに押し付けた。
「これ、先生にやる!」
飴玉が二つ。恐らくいつかの夜にカカシが枕元に置いていったものだろう。微妙に不恰好な包み紙の結び目が、一度は開かれたものであることをカカシに教える。
「……いたずら付き?」
ナルトは楽しげにするだけだ。
「きっと先生が困った時に役立つってばよ!」
「困った時ねぇ……」
「ソナエあればウレイなしって言うだろ?」
ナルトがわざと明るく言っているのがわかった。普段は幼いくせに時々大人びた気遣いをするのだ。
けれども今日はそれに助けられた。カカシは黙って飴玉をポケットに入れる。
「じゃあね」
最後と決めてその頭を撫でたら、何だか手の下のやわらかさがいとしくてたまらなくなってしまった。
多分ナルトにもカカシの名残惜しさは伝わってしまったのだろう。途中まで笑っていたはずの口元が、こらえ切れずにへの字に変わる。
「つ──次に会うのは三年後……?」
弱い声が答えをねだった。一度は問いを飲み込んでくれたのにカカシのせいで台無しだ。
「……やっぱり口寄せ契約しとく?」
「それは……しねーってば」
「そう?」
「オレ口寄せ得意じゃねーもの。間違って呼んじゃったりして、先生の任務が失敗したらどうするんだってばよ」
本当にどうするのだろう。カカシ自身は後悔しないと思うのだが、ナルトは長く気に病みそうだ。
確約できないことは言いたくなかったのに、元気を失った子供をそのままにできなかった。
「……もしかしたらもう一回くらい会えるかも」
即座に喜んだナルトと目を合わせるのが恥ずかしく、言ったあとはカカシも全速力で病室から抜け出した。
つい長居をしてしまった。さっさと食事を終え、旅支度を済ませなければならない──
硯イチフミの資料にも目を通しておきたかった。
カカシは硯家のことを良く知らない。かつては名家と知られた一族らしいが、近年では名を聞かなくなっている。
今は考えている時間も惜しい。
カカシは溜め息をつき、それでもナルトと会ったことでいくらか気持ちを軽くして、待機所へと馳せ戻った。
03
夕刻、里を一周する障壁の門前で、カカシは初めて硯イチフミと対面した。
硯イチフミは、木ノ葉から支給される忍服ではなく、布の端切れを寄せ集めて蓑にしたような、一風変わった墨色の忍装束を身につけていた。
くノ一と聞いていたから女に見えたが、何も知らずに会ったなら男と思ったかもしれない。
彼女はカカシと目線がそう変わらぬほど背が高く、身体は棒切れのように薄く硬い印象で、面差しにもやわらかさがなかった。しかも、くノ一にしては珍しく顔以外全く肌を見せていない。黒々とした眼、きりと上がった眉、後ろで棒状に束ねた髪、目をひく特徴も女性らしさとはかけ離れたものばかりだ。
「硯イチフミです、はたけ上忍」
彼女は凛然とした様子で頭を下げる。
あまりに気安さがないので、さすがのカカシも鼻白んでしまった。更に当然の顔で最も畏まった呼び方をされてしまうと、こちらもイチフミではなく硯の名で呼ばざるを得ない。
どう考えても警戒されている。この相手から情報を引き出すのかと先が思いやられたが、とにかく定例通りに諸々の確認作業から始めた。お互いの武具を晒し合い、はぐれた時のための電信方法を決め、休憩の間隔と進む速度を話し合う。
最後に任務内容を繰り返した。
「もう硯も聞いているかもしれないが──昨夜以降、観山から中立の証である火が消えた。オレたちの任務は、不動の郷の現在を探ること。硯の報告からすると、今回の異変は音忍と関係しているかもしれない。だが万一道中で敵と鉢合わせすることがあっても戦闘は避ける。こちらは二人きりだ、それを忘れないでくれ」
「はい」
硯の返事にカカシもうなずき、篝火の焚かれた門を通り抜ける。里の警備を信用できるのは門までだ。ここからは極力人目につかぬよう道を選ばねばならない。
恐らく暗部の二人もどこからかこちらを見ていることだろう。カカシは不動の郷に着くまで彼らとは接触を断つつもりでいた。
「はたけ上忍」
硯が口を開いたのは、門を出るや否やのことだった。
「五代目さまが不動の郷をどうお考えかご存知か」
まさか硯から話し出すとは思っていなかった。カカシは気負わぬそぶりで振り返る。
硯は怒りに似たものを双眸にひそませていた──怒りだとカカシが感じたのは、もしかしたら彼女の瞳に映った篝火だったかもしれない。
「何の話?」
カカシがとぼけたなら、その瞳の炎は更に色を深めたように見えた。硯は冴え冴えとした声音で言った。
「硯家は、不動の郷に移り住んで十六年になります。私は観山の火は命に代えても守り抜くようにと言われて育ちました、それが木ノ葉のためだと教えられた。だが、実際の木ノ葉では不動の郷など知らぬ者も多い。もしや五代目さまも、観山の守りなど必要ないとお考えか」
「なぜそう思う?」
「はたけ上忍は素晴らしい戦歴をお持ちだと聞く。それは良いのです、しかし私は経験もない名ばかりの中忍、こんな私を任務に組み込んで──観山の守りを大切に思わぬから、たった二人きりの任務なのではないのですか。それとも音が侵入したという情報は信用できませんか」
カカシは苦笑う。
「そうじゃない。さっきも言った、オレたちは不動の郷の現状を確かめるだけだ」
「敵の侵入をみすみす見逃すか──木ノ葉に観山はいらぬのか」
「硯。五代目は観山の守りを軽んじているわけじゃない」
「信じられぬ」
「本当だ、里から離れた場所にも観山を監視している班がある、だから火が消えたことはその晩のうちに五代目に知れた。そして今朝にはオレたちに任務が来た。二人一組でいるのも、人数が少なければ少ないほど隊列に無駄が出ないせいだろう。人数が多ければ移動速度を上げるのも難しい。全てはできるだけ早く不動の郷へ着くための配慮だ」
硯はそれでも納得できない様子で唇を噛んだ。
無理やり会話を打ち切ったカカシは、何も知らぬふりで移動を始める。
どうも綱手の情報と噛み合わないのだ。
「もしも……観山が木ノ葉に必要でないのなら」
思いつめたらしい硯の呟きが耳を掠める。
彼女が音の間者なら、不動の郷が木ノ葉で軽んじられようと関係ないはずだった。もしかすると綱手の情報が誤りなのかもしれない。ならば暗部にも早まったことはしないよう警告しなければ──
何だか初っ端から面倒だらけだ。
カカシは胸の内で許される限りの溜め息をついた。
やはり情報を疑う必要があるらしい。
カカシがついに暗部の一人を注進役として木ノ葉へ送り返したのは、旅立ちから三日が経った昼のことだった。 既に目前には観山が迫っていた。
火の国最果ての村を出たあとは、物資を調達できる場所もなく、人の手が全く入っていない樹海を北上しなければならなかった。樹海にはいくらか外敵に対する罠もあると言うので、土地鑑のある硯が前、カカシが後ろで、ひたすら麓を目指していたのだ。
ある時だった。硯が突然立ち止まり、厳しい表情で地の一画を見つめた。
「……どうした」
カカシが尋ねると、硯は「足跡が」と呟き、指まで覆っていた墨色の手甲を外した。カカシはその手を目に入れた途端、息を飲まずにはいられなかった。
硯の手は墨色をしていた。いや、皮膚の表層は恐らく白い。黒く見えるのは皮下にある血管のせいだ。
彼女は苦無で己の手を一閃、ぱっと墨色の血を散らし、宙に文字を描いた。
残像は瞬く間に消えてしまったが、カカシは確かに「開」の文字を見た。すると、今の今まで藪にしか見えなかった場所が、端から黒く染まっていく。
すぐに硯の言った意味は知れた。
一面黒塗りになった草の上に、点々と元の色が覗いている場所があるのだ。人の足跡だった。それも人の重みが乗ったはずの草に全く傷がない。
そんな歩き方ができるのは、チャクラを足下に溜めることのできる忍だけである。
「この場所に仕掛けがあることは、不動の郷にいる全ての忍が知っています」
硯が硬い表情で言う。
「草も、雨も、木ノ葉も、観山を守るのは同じこと。私たちは情報を交換し合って生活をしてきました、間違っても私たちにまつわる者が硯の墨を踏むわけがない」
「……足跡がつけられたのはいつかわかるか?」
「私が木ノ葉へ向かう時に罠を新しくしたので、少なくともそのあとに」
足跡の種類は二人分。
たまたま二人分の足跡が地にあるが、相手が忍なら地面を歩くとも限らない。
「……急ぎましょう」
硯の顔色は心なしか青かった。
麓に出ればいよいよ雪の心配もしなければならない。観山頂上の不動の郷まで、天気に恵まれたとしても二日はかかる──
カカシはひそかに暗部へと文を飛ばし、二人のうち一人は木ノ葉に帰還し、綱手にこれまでの経過を報告すると共に、不動の郷への別働隊を要請するよう指示した。
04
木ノ葉病院を退院したナルトは、自来也が身を寄せていた温泉宿に一緒に泊り込むことになった。とはいえ、実は自宅が目と鼻の先だったりする。そんな距離でどうしてわざわざ宿に泊まらなければならないのかと尋ねたら、自来也はこう答えた。
「お前、三食をカップ麺で過ごしとるそうだのォ? 今ワシが泊まっている部屋が宿の離れでのォ、小さいが台所がついていて囲炉裏や冷蔵庫まである。どうせあとしばらくは無茶な修行もできん、ちょうど良い機会だから料理でも覚えろ」
カップ麺は美味しい充分腹は膨れるとわめいたが、「料理も修業のうちだ」の一言で押し切られてしまった。何より、ここぞとばかりに自来也は言うのである。
「カカシは太った相手が好きだぞ? カップ麺じゃ太らんだろ?」
お前、ちんちくりんのままでいいのか?
「カ──カカシ先生は、そんなことで相手を差別しねーってばよ!」
「差別するしないの問題じゃない、好きか嫌いかの問題だろうが。カカシに嫌われてもいいか?」
「きっ……嫌いになんて……っ」
カカシは生涯味方でいてくれると約束した。きっとナルトを嫌いになんてならないはずだ。
必死でそう思うのだが、自来也は人を小馬鹿にした目で「かわいそうにのォ……」などと呟く。元々自信がない部分を責められ続けたナルトは、挫けるのも早かった。
そんなわけで毎夕自宅近くの商店街をうろつくのが日課になってしまった。魚屋に行って魚と睨み合い、肉屋に行って肉と睨み合い、八百屋に行って野菜と睨み合い、スーパーに行っておびただしい食材の数々に圧倒され──何だかわからないが本当に疲れ果てて帰ってくる。
宿では暇そうな自来也が待ち構えていて、 「商店街で大蛇丸にでも会ったかぁ?」 揶揄して腹が立つことばかりを言うのである。修行と言うから喜んで来たのに、修行らしいことは何一つさせてくれないのだ。
這う這うの体で買ってきた魚の切り身を前に、ナルトは今晩も特大の溜め息をつく。
「とりあえず魚は食べやすい大きさに切れ、野菜も適当に切ったら寄せ鍋にするぞ」
出来上がってしまえばそれなりにナルトも食べるが、包丁を持つのも、鍋を使うのも、食器を洗うのも、とにかく料理をすると構えることから面倒くさい。
ただ、自来也も言うように、確かにカカシはナルトが太ることを望んでいる節があった。最後に病院で会った時にもそんなことを言っていたし、ナルト自身もカカシに太ると宣言してしまっている。
「うううっ、あれって約束だよなぁ……」
やっぱりラーメンだけでは太るのは難しいのだろうか。
まな板の前でナルトが唸っていると手元に影が落ちた。
自来也が後ろに立っている。料理を急かす気か、ナルトは恨めしげに彼を振り返った。
「……まだ何も切ってねぇ」
「見りゃわかる」
「じゃあ何だってばよ?」
「まぁその……余計なことだとは思うんだがのォ。お前、カカシと何か約束したのか?」
「約束、て言うか……まぁ……。何で?」
質問の意図がわからずに首をかしげると、自来也は気まずい様子で頬を掻いた。
「いや。カカシについては、ワシもちぃっとばかり気になっていたことがあってのォ」
「気になってたこと?」
「ああ。あいつはどうも人より自分の命が軽い」
え?、と、ナルトは知らず喉を震わせていた。自来也は苦笑って語る。
「忍なんぞ今日生き抜いたところで明日は屍、命を張った任務も己のためじゃない、生き抜けば人の脆さを見る、死ねば世の儚さに遭う。自分が軽くなるのはわかる、血濡れた我が手に触れぬものが一番美しいからのォ──そしてカカシは特にその気質が強い」
自来也は呆然と聞き入るナルトの頭を乱暴に撫でた。
「こんな話はまだお前には早いかのォ……まぁ、ワシは約束はカカシの支えになるかもしれんと言いたいだけだ。あいつは意外と真面目だから、約束と言うなら、少なくとも果たすまでは死ぬ気にはならんだろう。たまに死んだ方が楽だと思う任務もあるからのォ……」
ナルトは束の間本気で言葉を失った。なのに自来也は妙に嬉しそうに言うのである。
「しかし、あのカカシが約束のォ……契約ならまだしも約束か。ワシや綱手が相手なら、曖昧に誤魔化すばかりで決して確かなことは言わんぞ、あいつは」
大事にされとるのォ──
ナルトは腹から重いものがこみ上がってくるのを感じた。それは重く苦く熱い、悲しいとも嬉しいとも区別がつかない感情の塊だ。
カカシに大事にしてもらっている。とは、ずっと感じていた。感じていたけれども──だって、言葉に形はない。約束は今こうしたいという意志で、いつか破られてもナルトは全くかまわなかった、いや、いっそ嘘でもかまわなかった、そういう気持ちでカカシと約束を交わした。生涯を誓うものから、他愛ないたった一瞬で済むようなものまで、いくつも。カカシは最初こそ渋るが、ナルトが「絶対だってばよ」と念を押すと、最後にはいつも「絶対ね」と答えてくれた。
あんまり惜しみなく与えられるから、それが特別なことなのだと気付かなかった。
もっとたくさん約束すれば良かったのだろうか、それとも逆に控えるべきだった?
「……どうしよう……」
ナルトはひどく混乱した。
「どうしよう……っ、エロ仙人、オレ……!」
大事にされれば嬉しい、けれどナルトはカカシを同じだけ大事にできているだろうか。
だって何も気付いていなかった。カカシがくれた約束の意味など何も。
サスケの顔が脳裏にちらつく。上手く大事にできなかった友人──あんなに呼んでも手は届かなかった。カカシがサスケのようにいなくならないと誰に言えるだろうか。ナルトはまだ弱いままで、カカシと向き合うことがあったなら、きっと一瞬で振り切られてしまう。
カカシがいなくなる──
考えただけでナルトの足は震え出す。
カカシを連れ去る者は、音か、暁か。
それとも、死か。
「ナルト? おい、どうした?」
がたがたと身体全体を揺らし始めたこちらに、自来也が慌てたように背を屈め視線を同じくした。
ナルトはすっかり血の気を失っていた。
「強くならなきゃ……早く……オレ……」
半ば錯乱していたかもしれない。恐怖ばかりが一気に膨れ上がって、ただ自来也の羽織を引き千切りそうなほど縋ったことだけを覚えている。
「エロ仙人! なぁ、オレ今すぐ強くなんなきゃ! 料理より早く修行しねーと……っ」
「おい、本当にどうしたんだ、落ち着け!」
「エロ仙人、頼むから……っ!」
その夜は、自分でも良くわからないほど、カカシの名を呼んで泣いてしまった。最後は自来也も困り果て、手ずから具沢山の味噌ラーメンを作ってくれたくらいだ。
一晩寝て我に返ると、さすがに恥ずかしくなった。
自来也にも謝った。
「まぁ……いろいろあるわなぁ」
言葉少なに苦笑った自来也は、その日からナルトに新しい修行を与えてくれた。
05
カカシが里から姿を消して八日。
自来也はそろそろ出発の準備にかかったらしく、日中良く出掛けるようになった。その間、ナルトは放っておかれるわけだが、一人の時は入院生活で衰えてしまった筋肉を取り戻すための運動をして過ごしている。ストレッチをしたり、森を駆けたり、川で泳いだり。決して特別なことではないが、必要なことである。本当に身体が動かなくなっているのだ、一時間も森を駆ければすっかり息が上がってしまう。
「ちょっと休憩……」
火影岩の上で大の字になった。
里の空は今日も良く晴れていた。
ナルトは目を閉じ、息を整えることに集中する。
どくどくと波打つ血流が穏やかになっていく。それと共に、里で起こるいろいろな音が耳に届くようになった。かすかな喧騒、風の音、空を行く鳥の声──
カカシもどこかでこんな音を聞いているだろうか。
思えば胸が痛んだ。ナルトは両腕を組んで顔を覆い、日の光から己を隠した。
自来也とカカシの話をして以来どうしても駄目だった。分別のない感情が胸で渦を巻く。大事にしたい相手は目の前におらず、もしかしたら今にも奪われかけているかもしれず──与えられるものに無自覚だった自分が悔しくてならないのだ、知っていたらもっと大事にしていた。
大事に──
「……ううん。きっとできなかったってばよ……やり方わかんねーもん」
悔しいのは結局そういうことだった。何をしたらカカシを失わずにいられるのか、ナルトには全くわからないのだ。
今そこにある手がずっと同じ位置にあると限らないことは、サスケが里を抜けた時に知った。全身全霊をかけても届かない声はある。
「……どうしよう」
今、カカシの声が聞きたくてたまらない。あれほど口寄せ契約はしないと言い切ってしまったけれども、今はそれすら後悔しそうだ。
あの長い腕で抱きしめられた日が恋しい。彼独特の、のんびりとした口調で名を呼んでほしい──
「……ナルト?」
突然の声は、まさしく心臓を射抜くタイミングである。ナルトは泡を食って跳ね起きた。
「うわっ、何だぁ? びっくりするだろ」
シカマル──だった。
火影岩の天辺に登りきったばかりだったらしく、四つん這いでそこにいる。
びっくりしたのはこちらである。ナルトは脱力して再び地面に倒れてしまった。
「……ずいぶんへこんだツラしてんな。この前は急に元気になったくせに、今度はどうした?」
今日は友の気遣いも心に沁みる。
「……シカマル……」
「……何だよ?」
「シカマルぅ……」
「あァ?」
「シーカーマールー……」
名を呼ぶだけで話し出さないこちらに、シカマルは舌打ちし「面倒くせェ」と呟いた。それでもそのまま放り出すわけでもなく、ナルトの隣に胡坐をかき、同じ空を見上げてくれる。
「……で? 何だって?」
やっぱり沁みる。ナルトは苦笑った。
言葉はするりと口から滑り出た。
「すっげー好きな人がいるんだってばよ」
「はぁ? 恋愛相談かよ?」
「レンアイ? 違うってば、上手く言えないけどそういうのよりずっと大事な人だってばよ。一緒にいるとすげぇ楽しくて、その人が笑ってくれるだけでオレまで滅茶苦茶幸せになるような」
それのどこが恋愛じゃないのかわかんねぇよ、とシカマルが苦々しい声で言うので、ナルトは全然違うってばよサクラちゃんの話じゃねーもん、と返しておいた。
シカマルは多くを反論せず、溜め息だけで先を促す。ナルトは己の中を一生懸命打ち明けた。
「オレってば、その人のこと大事にしようと思ったんだ。いっぱいやさしくして、いっぱい笑ってもらおうと思ったんだ。その人、オレのことすごく幸せにしてくれるからさ、それとおんなじくらいのもの絶対返したいって思ったんだ。でも……」
カカシを思う、特別な約束をたくさんくれた人。
「全然追いつかねぇんだってばよ。貰うばっかりで全然返せねぇの。そういうのはダメだって……ずっと思ってて、今度こそちゃんと返したいのに、返し方がわかんねぇんだってばよ。何にもできなきゃいなくなっちゃうかもしれないのに……大事にできる方法がわからないんだ」
「あー……ナルト、ちょっと待て」
「まだ説明終わってねぇってばよ」
「いいから待て」
遮られたのが恨めしくて隣を睨むと、シカマルはすっかり疲れた様子で肩を落としていた。
いつの間にそんなことになっていたのだろう。ナルトは身体を起こし、彼と同じように胡坐をかく。
シカマルは特大の溜め息をついて言った。
「とりあえず大体のことはわかった。悪いがそれ以上は聞きたくねぇ、聞かせたきゃ本人にしろ、多分そいつが綺麗さっぱり解決してくれる」
「でも──」
「だから待てっつーの。お前が思い詰めてんのはオレにもわかったし、変な思い違いしてんのも良くわかったから」
ナルトは驚いてシカマルに向き直った。
「思い違い? 変な?」
シカマルは重々しくうなずく。
「大事にされたから自分も大事にするんだっていうのは、わからねーでもねーんだ。でも大事にできないからいなくなるっていうのは多分違う」
「違う? どうして?」
「どーしてって言われると……」
シカマルはしばらく眉を寄せて考えていたが、急に真剣な顔を作ってナルトと視線を合わせ、深々と頭を下げた。
「し、シカマルっ?」
「この前の作戦でさ、お前ら大怪我してただろ。あれ全部オレの責任だ、悪かった」
唐突に何を言い出すのだ。しかもシカマルに責任はないはずのことだっただけにナルトは慌てた。が、慌てるこちらを見越していた素早さでシカマルは頭を上げる。その顔は笑っていた。
「ってふうにな、たとえオレ自身が後悔してて本当は土下座して謝りたいと思っても、実際にそれやったら、お前ら全員困るだろう?」
「あ──当たり前だっ! つーか、シカマルは全然悪くないだろ!」
「まぁ、オレが悪いか悪くないかは置いとくとして──とにかく、お前の大事にしたいっていう気持ちが、今オレがしたのと同じことだったらどうする?」
「お、同じ? 同じって……」
「お前は別に謝って欲しくない、でもオレは謝りたい、謝らなきゃ自分の気が済まない、だから謝って自分だけ満足する──相手はそんなこと望んじゃいないのに」
あ!、と、ナルトは目を見開いた。
「お前のこと大事にする相手なら余計にさ、お前から見返りが欲しいなんて思ってねーんじゃねーの?」
「で──も、さ?」
「でももねーって。大事にするんなら今お前にできる方法でやればいい、それ以上を頑張る必要はねーよ」
当然のことを話すようなシカマルの横顔を見ていたら、何だかだんだん気持ちが楽になってきた。
やっぱり今でもどうやってカカシに気持ちを返せば良いのかわからないけれど──例えば野菜を食べることだったり、太ることだったり、口寄せに慣れることだったり、カカシがこうしたら良いとナルトに言ったことを頑張ったなら、少しは喜んでもらえるだろう。
一度にたくさんが無理なら、少しずつを集めていけば良いのだ。そうすれば、いつかは絶対にカカシがくれたものにも追いつくに違いない。
「……シカマル、オレ頑張るってばよ」
「いや、だから頑張る必要は──」
「オレが今やれることから。頑張る」
シカマルは小さく目を瞠り、それから笑った。
「頑張れ。応援する」
「サンキュ」
ナルトが笑い返すと、彼はやっと肩の荷を降ろしたかのように背伸びをした。
「まーでも……オレもほっとしたかなー。ちょっと前までサスケばっかりだったし、お前」
お前の傍にはちゃんと他にもいるんだせ?
何でもないことのように付け足され、ナルトは一瞬相槌を打つのが遅れてしまった。
「そうそう──変な話聞かせるからこっちの話ができなかっただろー? やっとネジが起きれるようになったらしいぜ。お前が里を出るって話をしたら、一回顔が見たいって言い出してさ。キバとチョウジももう動けるから、他の同期も巻き込んで、みんなでメシ食わねーかって。二、三日のうちに集まることになってんだけど、お前出て来れそうか?」
すぐには声が出せなかった。
けれどもここで大げさにするのは違う。それだけはわかったから、ナルトはどうにか普通に笑ってうなずいた。
カカシに話したいことが増えてしまった。
カカシはもしかしたらと言っていたけれども、旅立つ前にもう一度会って、ちゃんと気持ちを伝えたい。
頑張るから、傍にいて。
とてもわがままな願いだけれど、彼ならきっと笑ってうなずいてくれる気がする。
06
観山は噂に聞いた通り雪の深い山だった。夜は吹雪になるのでどうしても移動速度が落ちたが、案内役の硯がいなければ、もっと時間がかかっていたに違いない。
極力休憩を少なくして山道を登り三日目の昼だった。
木立も雪で山に同化する中、ところどころに目印らしき赤い旗が見え始めた。
「あと一時間も歩けば郷に着きます」
硯の表情がいくらか和らいだのを見て、カカシは最後の休憩を取ることに決めた。
観山の要所には、不動の郷の忍が山を巡回する時に休憩所として使うらしい横穴があった。どこも土壁に土床の洞穴だが、暖房器具が保管してあり、水や保存食の貯えもあって、今回の強行軍では本当に救われている。
今日の天気はいくらか穏やかだ。粉雪はぱらつくが、空には晴れ間も見えた。ただ手足は常に雪を触る、どうしても身体は凍えた。横穴に入った途端、筋肉が緩んで四肢が勝手に震え出す。指先に息を吹きかけながら、とにかく二人で薪を組んで火をおこした。
カカシが雪を煮沸させて白湯を作ろうとした時のことだった。うっかり鍋の柄を忍服に引っ掛け胸ポケットの口が開き、ナルトにもらった飴玉が転がり出た。
飴玉は硯の靴元へ。硯がそれを拾い上げる。
「ああ、ごめん……」
普通に受け取ろうとしたなら、彼女がえらくまじまじと見ていたので、カカシの手だけが宙に浮いてしまった。最初は上忍が飴玉を携帯しているのを訝しんだのかと思ったのだが、どうも様子が違う。
「……硯? それ大事なものなんだけど」
控え目に言ったなら、初めて我に返ったような顔をしてカカシに飴玉を返す。
「申し訳ありません! つい……珍しくて」
「珍しい?」
驚いた。しかも、なかなか表情を変えなかった硯が、見目にもわかりやすく困っている。彼女はおどおどと言葉を足した。
「あの……不動の郷は物資が少なくて。そういう菓子の類は見る機会がないのです。外から帰って来る者が時々土産を持って来てはくれますが……どうしても菓子よりは米だったり稗だったりで」
「そうか……不動の郷は農作物が?」
「はい。なかなか育ちません」
カカシは己の手に戻ってきた飴玉を見つめた。
ナルトがカカシのためにわざわざくれたものだ。人にやるのは惜しい気がしたけれど──
「……硯」
カカシは彼女に飴玉を投げた。ナルトに貰ったのは二つ。そのうちの一つならきっとナルトも許してくれる。
「あの……はたけ上忍? これは……」
「あげるよ。オレもう一個持ってるし」
「そ──そんな!」
「いや、大層なものじゃないから。木ノ葉に帰れば山ほどあるしね。それにちょうど昼時だ、糖分もしばらく取ってないから身体にも良いと思う」
どうぞ?
カカシが重ねてすすめると、恐らく興味もあったのだろう、硯はぎこちない手つきで飴玉の包みを開いた。しかし開いて再び表情が変わる。驚き、それから微笑み、ずいぶんやわらかな声音で彼女は尋ねてきた。
「はたけ上忍、これは生徒からの貰いものですか?」
言われて思い出した。ナルトのいたずら付きの飴玉だったのだ。
「あー……すまん、何か変になってた?」
ナルトは困った時に役立つと言っていた。そんな飴玉、カカシには見当もつかない。
すぐに硯の手元を覗き込もうとしたら、なぜだか彼女は即座に飴玉を包み直してしまった。そしてもう一度カカシに差し出す。
「これは、いただけません」
「えっ……」
「いただけません。貴方が食べるべきです」
カカシは飴玉と硯を見比べた。
「きっと貴方を大好きな生徒さんなのでしょう?」
そこまで言われるとは思わなかった。
さすがにくすぐったい。カカシはこちらの手に戻ってきた飴玉を、素直に譲り受けることにした。
「……とてもやさしいこなんだ」
思いが自然と口を突いた。
「この前、傷の手当てをしてもらったんだけど、痛くないようにって凄くやさしく触られた。普通の医者だってあんなにやさしくしてくれない……手当て受けながら嬉しくて、オレどうしても顔が笑っちゃってねぇ。あのこは痛くないのかって不思議がってた」
「そうですか」
カカシは苦笑い、飴玉を大切にポケットにしまう。
「ま、いろいろ問題も多いんだけどね……」
硯も微笑む。
彼女がなおも何かを言いかけた刹那だった。
ずぅぅぅん……──
重い振動が観山全体に轟いた。
カカシと硯は一瞬にして緊張し、外の様子に全神経を集中させる。しばらく耳を澄ましていると、どうどうと土砂が流れる音がした。近くで雪崩が起こったらしい。
「……郷では普段から音を出すか?」
「いいえ。あり得ません」
「そう。身体は温まらないが休憩はここまでだ、急ごう」
やっと火が増し始めた焚き火に雪をかけ、二人は横穴の出入り口に向かう。雪崩のせいで雪に閉ざされていたが、手っ取り早く火遁の術で穴を開けた。
辺りはまだ滑り落ちる雪で足元がうねり続けている。
足場は最悪に近い。チャクラを爪先に練ることで駆け跳びながら、カカシは傍にいたはずの暗部を思う。
気配が消えているのだ。恐らく無事ではいると思う。しかし苦労はしているかもしれない。道を見失っていなければ良いのだが。
事態の急変でお互いが張り詰め合うようだった沈黙を、唐突に打ち破ったのは、硯の一言だった。
「──はたけ上忍、すみません」
カカシが振り返ると、彼女は覚悟を決めた面持ちでこちらを見つめていた。
「私は嘘をつきました。観山で音忍を見たという報告は偽りです」
何となくそんな気はしていたのだ。カカシは驚かなかった。郷へ向かう速度も落ちることはない。こちらの冷静さに安堵したのか、硯は口早に先を続けた。
「ただ、音が観山を攻めてくるという噂はずっと前からありました。郷の者は皆怯えていた。そこで私たちは──不動の郷に移り住んだ忍たちは、その噂を利用することを考えた」
「利用?」
「はい。はたけ上忍はご存知でしょうか、不動の郷が中立を宣言して十六年になります。草、雨、木ノ葉から集まった忍たちも、皆同じく十六年共に生活してきました。共に観山の雪を見守り、共に貧しい食料に耐え、共に外敵に備え、共に戦い……共に中立の火を守ってきた。出身が違おうと、いつしか私たちは家族になった……たかが十六年、けれども十六年です。私などは、子供の頃木ノ葉で過ごしたことこそが既に曖昧、記憶を占めるのはただ雪に埋もれた不動の集落ばかり」
硯は丸みのない頬に陰のある微笑を浮かべた。
「私たちは疲れてしまったんです……草だとか雨だとか木ノ葉だとか、肩肘を張ってお互いを牽制することに。郷が中立であることには賛成ですが、中立を宣言し続ける限り、私たちはやはり草、雨、木ノ葉から来た忍であり続けなければならない」
「……音を利用と言ったな?」
「はい。音に制圧されたふりをして、三国からの干渉を退け、不動独自の隠れ里を作る計画でした。私が木ノ葉に偽りの報告を持って行ったのは、木ノ葉から他の隠れ里へ情報を広げるためです」
「実際に音とのつながりは?」
「ありません」
「もう……偽りはないか?」
「私の命を懸けても」
カカシは黙ってうなずいた。
今後の不動の郷への扱いは綱手が決めることだ。中立を宣言し続けるかどうかも、国同士が集い議論して決めるしかない。
今カカシたちにできるのは不動の郷の現状を知ることである。硯が秘匿するべき計画をカカシに打ち明けたのは、郷が真実に不慮の事態に見舞われている証だった。
しかも、最悪の事態かもしれない。
「硯、こちらも話さなければならないことがある」
カカシは出発前の綱手とのやり取りを伝えた。
「五代目は不動の郷は音と手を結んだと言っていた。お前たちが木ノ葉に流すはずだった情報と食い違いがある。心当たりがあるか?」
「いいえ! 第一報は私がもたらすはずでした、そんな情報はまだどこにも──」
「だとするなら、誰かが故意に捻じ曲げたことになる」
硯が息を飲んだ。
誤報が木ノ葉に届き、綱手が硯を捕らえ、不動の郷が孤立した場合、ひとつだけ利益を得る場所がある。
音だ。
不動陥落の報が木ノ葉から他里へ流れれば、三国が一斉に警戒を強めて不動への援助を打ち切るだろう。郷は貧しい。他からの援助がなければ、一冬も越せはしない。平和的に決着をつけるなら、音はそこで援助を申し出れば良いのだ。
そして、平和的解決を望まぬなら──
三国が警戒に竦んだ隙に、一息に郷を突く。情報の上では不動は既に音の指揮下、三国からの応援はない。
「そんな……じゃあさっきの地鳴りは!」
悲痛な硯の声に、カカシは無言で駆ける足を速める。
彼方に濃い色が見え始めていた。雪でかすんで未だはっきりとは確認できないが、集落と思しき箇所の上空に黒煙が棚引いている。
不動の郷が燃えていた。
07
一年中融けることのない根雪が水溜りに変わっている。
もうチャクラを練る余裕もなく、硯がびちゃびちゃと泥を跳ね上げ駆けるのを、カカシは悲しく見つめていた。
「シャクロウ!」
全身を泥水で濡らした忍が、倒壊した障壁の門前に倒れ伏していた。男は雨隠れの額当てを腕に巻いている。硯は彼を助け起こし、その顔を覗き込み声もなくうなだれた。
男の頚動脈は裁たれていた。胸は血で汚れ、泥水と見えた水溜りは、カカシの足先を赤く染める。
たった五十戸足らずの集落だった。
障壁近くの家屋は既に黒こげになって煙を上げるのみだ。
雪を避けて精一杯こしらえていただろう小さな畑もぐちゃぐちゃになっていた。その脇には子供がおもちゃのように蹴散らされ、少し離れた場所には老夫婦が折り重なって事切れ、必死に逃げたらしい若い娘も古樽の前で冷たくなっていた。
郷の最奥にある郷士の館は未だに炎の中だ。そこへ向かう道筋には、戦い敗れた忍の骸が点々と転がっていた。
ひとつひとつの顔を歩きながら確認し、蒼白になって唇を噛みしめていた硯が、とうとう震える息を吐き、足を止めた。
「……はたけ上忍」
「……うん」
「任務は、不動の郷の現状を探ることですよね」
「うん」
「戦闘は避けろと」
「……うん」
彼女の墨色の忍装束が風に靡いていた。
焼け落ちる柱が火の粉を噴き上げる。その向こうに人の気配がある。およそ十余り。勝ちを確信しているらしい敵は、足音も呼吸も潜めてはいなかった。
ふと、硯がカカシへ竹筒を放った。
栓には封印札が貼られている。軽く振ると水音がする。
「それは私の血墨です」
言いながら、硯は蓑のようだった忍装束の上着を脱ぎ去った。ぴったりしたアンダーシャツから覗いた両腕は、やはり墨色をしている。
「硯家の血墨は硯の者にしか作れませんが、その血墨を使った術は誰にでも使えます。もしも観山の中で何か困る罠に出会ったなら、その血墨で開くの文字を書いてください。きっと助けになるはずです」
「……硯」
硯はかすかに笑ったようだった。
「自業自得です……私たちは、事実はどうであれ、心の内で己の里を裏切った。そして不動の忍となりました。ならば不動のために命を賭すのが条理」
それに──と、眼前の炎を決然と見据え、彼女は言う。
「観山の火は──私たちが守り続けた火は、こんな火ではない……!」
駆け出す痩身。その苛烈さに一瞬の遅れを取った。
後を追おうとした足元にすかさず手裏剣が飛ぶ。カカシは後ろに下がらざるを得なかった。
「待て、硯! 木ノ葉にはもう応援要請が行っている、数日の内に──」
「いらぬ! ここは不動だ、木ノ葉ではない!」
「硯!」
「郷を崩す! 命が惜しくば離れていろ!」
彼女の掌中の苦無が己の襟首を掻き斬った。
墨の飛沫が宙に噴き上がる。
大輪の花さながらに広がったそれは、まるで一粒一粒が意志を得たもののように空を翔け、炎に焼け落ちる館のはるか上空に巨大な墨文字を描いた。
──砕。
瞬間、地面が沈んだ気がした。
ごぉぉ、と、例えようもない山の声が轟く。
自ら炎に飛び込んだ硯の身体はもう見えなかった。カカシは異様な大気の震えを感じ、次いで地面の奥底から突き上げてくる揺れを知覚する。
「まずい……」
ここにいたら間違いなく大きな災害に巻き込まれる。
硯をこのままにしていくのか──葛藤はあった。たった数日ではあったが、彼女はカカシの部下だった。
しかし。
「……カカシさん」
背後に立つ影がある。
鳥の面をつけた暗部の忍である。影は二度カカシを呼んだ。それは決断を迫り、任務を思い知らせる声だった。
「……ああ、わかっている」
カカシは宙に呟いた。
わかっている──
忍が己の判断ばかりで動いてはならないことくらい。
08
硯の術で砕けた観山は、頂上の形を変えていた。尖った塔のようだった形状が平らになり、真っ白だった雪が土砂に塗れ、赤茶色になった。だが、それもほんの数日のうちに再び降り積もった雪で掻き消える。不動の郷も、今は土の中である。……敵の生存はわからない。
カカシは依然として観山に足止めされていた。
木ノ葉から応援が到着し、任務は偵察を兼ねた警護に移り変わっていた。既にカカシの役割は終わっていたが、再び木ノ葉から別の指揮官が駆けつけるまではと引き止められていたのだ。
それでも、明日にはその任から解放される。
里を出て十三日が経とうとしていた。
深夜、見回りを終えて焚き火の傍まで戻って来ると、自然と深い溜め息が漏れた。
カカシは疲れていた。雪山の気温に慣れないせいか、ここ数日ひどく手足が重いのである。多少気も滅入っているのかもしれない。焚き火を見るだけで、あの日の不動の郷を思い出す。
硯の横顔を思い出す。
「…………」
苦いものがこみ上がり、カカシは気を紛らわすために白湯でも作ろうと小鍋を取り上げた。
それで思い出した。
胸ポケットの中に、ナルトにもらった飴玉がある──
日々忙殺されてすっかり忘れていた。飴玉を見た硯が急に態度を軟化させたから、その時はすぐにも確認したいと思ったくらいだったのに。
カカシは落ち着かない心地で飴玉を取り出した。
元はカカシ自身がナルトの枕元に置いていったものだった。本当にどこにでもあるような、包み紙の両端を捻じってある小さな塊だ。
かじかんだ手でそうっと開いてみる。
ナルトのことだし、くだらない冗談でも書いているんじゃないか。そんなことをぼんやり考えながら。
しかし、カカシの予想は翻された。
いや、やはり包み紙に文字はあった。あったけれども、それは冗談などという代物ではなかった。
カカシ先生へ
このアメは、先生の元気を百倍にします
先生がケガしないで帰って来れますように!
「ふ……ふふっ」
何だか顔が笑ってしまう。
どうしてくれよう──さっきまで疲れて苦いもので溢れていた身体が、急にいとしさでいっぱいだ。
カカシは飴玉を口に入れた。ひどく甘かった。それにどこかあたたかい──まるで小さな灯火が胸にともったみたいに感じた。
甘いと幸せになると笑ったナルトの顔を思い出す。
「本当にねぇ……」
飴玉ひとつで人は幸せになれるものである。
カカシがナルトにもらった飴玉は二つ。もう一つは未だポケットの中に残っていたが、しばらくは勿体なくて食べられそうにない。
里を出て十三日。明日で任が解かれるなら、急いで帰れば二十日以内には帰還できる。
ナルトがまだ旅立っていないことを祈った。
会って、とにかく抱きしめて、ただいまと伝えたい。