JOKER JAM chapter1

 授業が終わった放課後でも、教室はおもちゃ箱をひっくり返したような大騒ぎだ。何に驚くって、静かにしろと言われて静かにできない子供の習性に驚く。これじゃ、さぞかし教師も大変だろうと思うのに、実際は、どっかのテレビ局のお兄さんお姉さんばりに忍耐強い。多少子供が言うこと聞かなかろうが、気にしないどころか一緒になってわぁわぁ騒ぐ始末である。
 江戸川コナンは、半ば達観しまくって、うるさい教室に溜め息をついた。隣でも、例の二人組が、昨日のアニメがどうの、野球がどうのと声を張り上げている真っ最中であった。
「だから今年はタイガースだって言ったじゃないか!」
 元太は机の上に胡坐をかいてふんぞり返る。昨日のナイター中継の話なのだろう。つい先日からの俄阪神ファンのくせに、大威張りで夕べの阪神タイガースの勝利を自慢している。
 それに対し光彦はジャイアンツファンだった。ボロ負けした手前、どうも遠慮がちであるが、負けずにしつこく食い下がっている。
「そんなことありませんよ、僕は信じてます! 松川も清水も橋野も、今年こそはやってくれます! 優勝は絶対ジャイアンツで決まりです!」
 いつもなら、もうそろそろ歩美のとぼけた合いの手が入って、二人の口論も事なきを得るのだが、今はその歩美が日直のせいでいない。おかげで元太と光彦は、いよいよ熱を込めてタイガースだジャイアンツだと世話しない。
 コナンは仕方なく二人の間に割って入ることにした。横では、騒ぎなど爪先ほども気にしていない様子で、灰原哀が本を読んでいる。
「なぁ。ここにいてもつまんないし、俺たちも職員室行ってみないか?」
 言った途端、二人の口論がものの見事に止まった。結局、歩美がいなくてつまらなかった元太と光彦なのだ。歩美がいる職員室への遠足は二人にとって魅力的に違いなく、もう一声かければ、すぐにでも腰を上げそうなのは見え見えだった。
 もう一声、コナンは早速口を開く。
「それに――」
 廊下に展示された化石の標本もまだ見てないし、そう続くはずだった言葉は、飛び込むような勢いで教室に戻ってきた、歩美の声に遮られた。
「大ニュース、大ニュースよぅ!」
 頬を真っ赤にしながら、彼女は教室中に叫ぶ。
「来週から、このクラスに教育実習の先生が来るんだって! 男の先生で、写真見せてもらったんだけど、芸能人みたいにかっこいいの!」
 残っていた生徒たちが、それぞれの歓声を上げた。凄まじかったのが女子の一団で、あっと言う間に歩美を取り囲むと、きゃあきゃあはしゃぎまくって大変である。
 しかし、これでおもしろくないのは元太と光彦だった。せっかく待っていたのに、とうの歩美は自分たちそっち退けで教育実習生に夢中なのだから。
「……帰ろうぜ」
 憮然とした表情で立ち上がる元太。光彦にもコナンにも哀にも視線を合わせず、さっさと教室を出てしまう。光彦にしても同様だ。僕も帰ります、そう言ったっきり、とぼとぼ歩いて出て行った。
 コナンはしばらく迷ったが、哀が行ったら?と目配せしたのをきっかけに、傷心の元太たちを追うことにした。哀がこのまま教室に残るのなら、歩美が一人で帰ることもないと思ったからだ。
「あたし、先生の名前も聞いちゃったの」
 こちらの有様にも気付かず、歩美はひどく楽しげな顔で女子たちと騒いでいる。
「クロバカイト先生って言うんだって!  聞くともなしに聞きながら、コナンは急いで教室を出た。

 追って出たはいいが、元太も光彦もすっかり落ち込んでいて言葉もない。いつもの別れ道でも、じゃあなも何もなく帰っていってしまった。これでは一体何のためにコナンが後を追ったのかわからない。結局、ほとんど口もいけないまま、気付けばすっかり一人である。
 歩道橋の上だった。真っ直ぐ東西に延びた道路の向こうには、茜色に染まった太陽が座っている。下では、ひっきりなしに行き来する車のボンネットまでもが赤みを帯びていて、しばらくコナンの目を和ませた。
 もうすぐ梅雨も来ようかという季節なのに、今年はどうも肌寒い。天気が良くても風が冷たかったり、気温が低かったりして、気候が一定しないのだ。今も、不意に寒さを感じてコナンは肩を震わせた。子供は基本的に体温が高いというけれど、一度成長した身体はそうではないのかもしれない。寒さがこたえるわけではなかったが、多少もどかしい気分になるのは常だった。
 工藤新一が江戸川コナンになってどれくらい経ったのか。時折本気で子供になる瞬間を除けば、コナンは相変わらず新一として生きていた。おかげで、小学校はかったるい限りだったし、幼馴染宅とはいえ居候しているのも肩身が狭い。日常生活にだって不満はたくさんある。いつも子供らしく演技しなければならないのも憂鬱で、元太たちと一緒にいるのに疲れる日もある。
 ほんの何人かには新一として接することができても、他に対してはとにかく気を張って相対しなければならない。それがもどかしいのだ。だって気兼ねなしに笑うこともできないではないか。それは確かに、昔から人付き合いが上手い方ではなかったけれど。
 でも最近は、人付き合い以前の問題になっていた。コナンは決して本音で話すことをしなくなったから。
 だから必要以上に疲れる。今日だって、元太たちに対する上手い慰めの言葉なら、結構考え付いたのだ。ただそれを言うはずの新一と、コナンの身体の大きさが不釣合いだった。元太たちが不審に思うはずがないことは承知していたが、真実味のない慰めなどどうしても使う気になれなかったのだ。
 気にしすぎなのかも、と、いつも思う。
 現にコナンは上手く世渡りしている。これで大丈夫なのだと、いつも思う。
 それでも急に疲れがどっと押し寄せる時があるのだ。今みたいに、どうしても工藤新一に戻りたいと願う時もある。
「……あぁ、クソ……」
 仕方ないだろ、無理やり溜め息をついてやり過ごす。こんな日が何日も続かないことを祈りながら、茜色の太陽を振り切り、コナンはとにかく歩き出す。
 ぶんぶん唸る車の群れに、免許取るの遅れそうだとぼやいたりして。
 重かった足取りを気合で駆け足にした。歩道橋の階段を目一杯駆け下りつつ、もう一度空を振り仰ぐのだ。
 ふと、肌寒い風が襟足を掠める。
 早く夏になれ。高飛車に命令する、自称十七歳。

 走って帰った勢いのまま、毛利宅へ飛び込もうとしたコナンは、ふと立ち止まらずにはいられなくなった。事務所の入口前に人がいる。十六、七の男だ。小五郎の依頼人にしては少々若すぎた。それに何だかわけありふうだったので、コナンはつい観察体勢になる。
 だぼだぼとしたパーカーにブルージーンズという出で立ち。男はガードレールに腰掛け、探偵事務所の看板辺りの窓を見上げて動かない。何だか横顔に見覚えあると思ったら、新一の頃の自分と似ていた。ただ、新一と違うのは、無造作に跳ね回ったような髪や、明るい表情が、男に不思議な愛嬌を与えていることだ。顔立ちも体系もシャープで見栄えが良いくせに、どことなく人好きのする資質が滲み出ている。
 コナンがしばらく様子を窺っていると、突然男はしかめっ面になり、次に両手で顔を覆い 「あぁぁっ、クソッ!」と、わめくではないか。
 どうやら何か落ち込む理由でも抱えているらしい。ぶつぶつ呟く言葉までは聞こえないが、苛立ちを抑えることができない様子である。眉をハの字にしたり、逆ハの字にしたり。口元もヘの字になったり、膨れたりと忙しい。驚くくらい表情が豊かで、端で見ていたこちらが唖然としてしまったほどだ。
 結局、警戒心もすっかり萎え、コナンは帰宅ついでに男に話しかけてみることにした。
「ウチに何か用、お兄さん?」
 あ、と振り向いた顔が、途端に残念無念とうなだれる。
「クソ……会っちまったよ、おい」
 何だ何だと戸惑うコナン。初対面の人間にこんな反応をされる覚えは全くないから当然である。
 ところが男は続けてこう言うのだ。
「あと五分待って来なかったら、このまま帰るつもりだったっつーのに……」
 察するに、どうやら声をかけてほしくはなかったのだろう。コナンはまじまじと男を見上げながら分析する。視線に気付いているのかいないのか、男はいよいよ大げさに眉を落とした。
「大体何話せばいいんだか……俺は顔見るだけで一苦労なんだぜぇ?」
 ごちゃごちゃごちゃごちゃ。男の独り言は続く。
 コナンは黙ってそれを聞いていたのだが、ある時唐突に思いついた。
「――ボクに用があるの?」
 それまでこちらの反応などおかまいなしだった男が、不意に視線を上げる。
 初めて真っ直ぐに目が合った。男はやはりそれがコナンだと知っている目をしていた。
「……お兄さん、誰?」
 問いに返ってくるのは沈黙だけだ。けれど彼はすくっと立ち上がり、続いてぐんとしゃがんで視線の高さを子供と同じにする。それから困ったように髪をがしがし掻き回し、一度短い溜め息をつくと、改めてコナンを見た。
「よぉ、ぼうず」
 どこかで聞いた呼びかけだ。覚えはあるのに、どうも上手く思い出すことができない。
「……俺のこと、わかるか?」
 男の問いは、いくぶん遠慮ぎみである。もしかしたら、考える時間をくれるためにわざとそうしたのかもしれなかった。コナンはじっと彼の顔を見つめる。確かにどこかで会った気はするのだ。と。
「――あっ」
 思わず声が出た。
 思い当たった。
 あんまりにも馬鹿げた答えだ。まさかとは思う。でもそれ以外の人物なら、コナンの記憶に残っている可能性は極めて低い。
 まさかまさか。その人物を思い浮かべてしまったから、我知らずじりじりと間合いを取ろうとしてしまう。
 もちろん相手もコナンの様子に気がついた。窺うようだった瞳に、楽しげな色が加わったのはその時だ。
「正解」
 まだ答えてもいないのに、奴はそう言った。コナンももう疑えない。彼は、怪盗KIDだ。
 一体何だって急にこんなところに現れたのか。しかもいつもの衣装もなしに。
「……それ、変装か」
 訊いてはみたが、まともな答えなど期待してはいなかった。しかし奴はあっさり笑ってみせるのだ。
「いや。すっぴん」
 フェイクかもしれない。コナンは用心深く睨みつける。KIDがまた笑った。奴は大抵にやけた顔をしていたが、モノクルやシルクハットがなければ、それはひどく無邪気な嫌味のない笑い方に見えた。
「信じろって。俺、もう泥棒はしないかもしれないし」
 ……何を言っているのだろう。
「何なら確かめてくれてもいい。昨日、中森警部には宣言しといたから、多分もう警視庁の人間ならほとんど知ってると思うぜ?」
 意外なくらいに誠実な目がこちらを見つめ返す。疑わなければと思いながらも、コナンは半分彼の言い分を信じてしまっていた。
「……んで、何の用だよ?」
 もうそう切り返すしか仕方なかった。KIDは、やっぱり笑って問いに答えた。
「お前に協力してほしいことがあってさ。あと、俺の身の上話とか聞いてもらおーかと……」
 今度こそ呆気に取られる。すぐには何と言っていいのかわからず、結局ずいぶんたってから憎まれ口を叩くという手段を思い出したのだ。
「アホらし……何言ってんだよ、お前」
「って言われてもなぁ……何かそういう話になってんだよ、シナリオ通りにいくと」
「シナリオ?」
「そ。俺もお前も、この話の登場人物なわけ」
 彼の言葉は意味不明だ。コナンが眉間に皺を寄せると、同じように難しい顔をしたKIDが、少し言いにくそうに言葉を付け足した。
「演出家は俺の親父」
「え?」
「お前と俺には出会う理由があったんだってさ」
「え?」
 聞けば聞くほど話がわからなくなりそうだった。
 困り切って対処に迷うコナンを、KIDは控えぎみに、まるっきり普通の少年の顔で眺めていた。

 とりあえず荷物を置きに毛利宅へ帰ったコナンは、蘭に夕飯時までと約束して外へ出た。そのままKIDと連れ立って、近くで一番落ち着いて話せる、川沿いの土手道へと向かう。
 土手はほぼ無人状態だった。ベンチなどのちょっとした設備が整っている向こう岸には、子供たちの姿も見えたが、コナンが選んで下りた場所は芝生の道が一本延びているだけで、せいぜい犬の散歩にやってくる人間が精一杯のようなところである。
 コナンは適当に立ち止まった。KIDも特にこだわったふうもなく、その場に腰を下ろす。
 KIDの話は飾り気もなく始まった。
「俺が泥棒やってたのには理由があってさ、親父が殺されたんだよな、八年前に」
 いきなりな話でコナンはぎょっとしたが、KIDには特別意図するところはなかったらしく、淡々と語るのだ。
「それで何で親父が殺されたかって言うと、ある組織の邪魔したからっつーんだ。俺は良く話がわからなかったから、とりあえず親父になりすますことを考えた。つまり怪盗KIDだ。お前、俺の親父知ってる? 黒羽盗一ってマジシャンだったんだけど、そいつが初代怪盗KIDだったんだぜ?」
 そう言えば、怪盗KIDはなぜか八年前に一度姿を消してしまっていたっけ。元々最初に彼が登場したのは十八年前だと言うのに、実際会ってみれば妙に若いし、タフだしで、コナンはずっと違和感を感じていたのだ。
 しかし、目の前にいる男が二代目だというのなら納得もいく。しかも、今でもなお名声の高い奇術師、黒羽盗一の息子である。マジックの腕が一流なのもうなずけた。
「……お前、本名はなんていうんだ?」
 コナンは極自然にそう尋ねていた。KIDは小さく笑って、
「黒羽快斗。今更警察沙汰にはするなよ?」
 冗談にもならない。コナンがふんとそっぽを向く。
「するか、バカ」
 途端、にかっと笑う、年相応のKID。
「口悪ぃな、ガキ。ムカつくだろ」
「ムカつくのはこっちだ。お前捕まえんの俺だって決めてたのに……クソ、今すぐKIDになれよ」
「なれるかよ。せいぜいあのオヤジ支えて陰の名探偵してろ、俺も応援してやっから」
「いんねーよっ。クソ、つまんねー!」
 とうとう彼が吹き出した。初めて声を上げて笑う彼を見た。コナンは、自分の中で、既に怪盗KIDがただの犯罪者ではなく、黒羽快斗という個人で認識されたことに気付いていた。
「それで……協力って何だよ?」
「ん? ああ……」
 笑いながら、快斗はずいぶんリラックスした様子で地面に長く足を伸ばす。けれど、なかなか続きを話そうとしないのだ。向こう岸でサッカーをしている子供たちに目をやったまま、当初の目的を忘れたみたいに深呼吸したりした。
 本当は、彼が黙っているなら黙ったままでも良かった。多分コナンにとって面倒な問題を持ちかけられそうな予感がしていたからだ。ただ、心のどこかで、彼がわざわざ姿を晒してまでコナンに話しにきた内容に、どうしようもない興味が湧き上がるのを抑えることはできなかった。きっと途方もない秘密違いない。初代怪盗KIDの正体を前置きにしたくらいなのだから。
「……なぁ。俺、あんまり時間ないんだけど」
 話を急かす意味でも言ったのだが、快斗は逆に全く関係ないことで含み笑いをした。
「そっか。夕飯までに帰るんだっけ」
 そんな言い方をされると悔しいではないか。しかし、ガキだと言わんばかりの視線に反論したくとも、コナンには反論する言葉がない。ごちゃごちゃ言い訳して、万一こんな男に弱みを握られることになったら、それこそ後悔先に立たずである。
 ところが快斗はあっさり指摘した。
「大体さ、お前っていつまで子供のままなんだよ?」
 一番避けたかった問題だ。それに答えがあるならこっちが知りたい。
 だが、やっぱり快斗は知っていたわけだ。コナンが実は十七歳の、工藤新一であったことを。覚悟はしていたが、何とも悔しい展開である。
「俺だって、好きでこの姿なんじゃねーよ」
「ふぅん。ならどういうわけだよ?」
「……お前に話すことじゃないだろ」
 いささかむっときて言葉尻がきつくなった。それでも、つい最近まで敵だった相手にしては、ずいぶん友好的な態度で接していたつもりなのだ。
 快斗は苦笑していた。少し残念そうに見えたのは、コナンの気のせいだろうか。
「……明日」
 不意に、彼は吹っ切れたみたいに言った。
「さっきの続き、明日言うよ」
 一瞬、何か間違ったことを聞いた気がした。おかげで言葉に対する反応が遅れる。
「……って、ええっ? お前、明日も来る気か?」
「ん」
「何しに」
「話しにだろ」
「ええっ?」
 派手に驚くコナンに対し、快斗は一向にマイペースである。よいしょと掛け声をかけて立ち上がりながら、飄々と呟いてみせるのだ。
「……もうちょっとゆっくり話してみたいじゃん、お互い……」
 勝手なことを言うなと怒鳴っても良いのに、コナンの口から文句が出る気配はない。
 そうして初めて気付くのだ。久しぶりに、どんな演技も偽りも必要なく、誰かと話すことができたという事実に。
 何だかひどく決まりが悪い。焦って口調を荒くするのだが、コナンの手の内は全て快斗にばれている気がしてならなかった。
「お前っ、謎だけ残して帰んなよ! シナリオって何の話だったんだ!」
「――あ。それも明日」
「もったいつけんなっ!」
 快斗が笑う。何がそんなに楽しいんだと不思議になるくらい、明るい表情で。
「じゃあな、名探偵くん」
 そりゃ俺の名前じゃねーよ、わめくのに、もう立ち止まりもしない。快斗は笑顔のまま背を向ける。
 そう言えば、KIDがこうして人並みに帰る光景を初めて見た。いつもは煙みたいに消えてしまって、歩く姿も走る姿も見せはしなかったのだ。ついぼうっと背中を見送ってしまったので、我に返った時には、遠すぎて呼び止められもしない。
 でもしばらくすると彼はこちらをひょいと顧みた。
「パンドラって宝石」
 何のことやらわからないコナンに、快斗は大声で告げる。
「俺がずっと探してたモノ!」
 だから何がどうなっていると言うのだ。コナンは再び文句をつけようとして、そのまま声を飲み込んだ。
 快斗が一度大きく手を振った。多分――多分、彼は今、さっきまでそうであったように、無邪気な顔で笑っている。夕陽で逆光になって良くは見えないのだけれど、きっとそうだ。
 どうしてだろう、コナンは思う。
 まるで彼がもう一人の自分に見える。新一の時であっても、絶対にあんな笑い方ができる自分じゃないと知っているのに、この瞬間だけは、彼と自分が似通ったものに見えて仕方がなかった。
 ひどくせつない思いで唇を噛む。茜色の空の下、同じく茜色になった背中が、遠く遠くかすんでいった。

 翌日、昨日の宣言通り、快斗はコナンに会いにきた。
 とは言っても、昨日とだいぶ趣きが異なっている。顔を合わせた場所は小学校近くの公園だったし、何より快斗はそこで下校中の子供たちを相手に、マジックを披露していたのだ。
 同じく下校中だったコナンが、そうしている彼を見つけたのは全くの偶然で、たまたま歓声を聞きつけた歩美が「手品師のお兄さんがいる!」と手を引いたからだった。
 快斗は子供たちに囲まれながら、次々と珍しいマジックを繰り出していた。全てに仕掛けがあることは誰もが知っているのに、知っていてなお人を驚かせる鮮やかさである。シャボン玉が手のひらから絶え間なく出てきたときは、さすがのコナンも見とれてしまった。快斗は確かに一流のマジシャンなのだ。
 歓声と拍手一杯のショーの後、快斗はようやくコナンの姿に気付いたようだった。歩美や元太や光彦を始めとするたくさんの子供たちにあれこれ質問を受けながら、ちらちらこちらを窺う目に、半分照れが滲んでいる。コナンはとりあえず集団を離れ、傍のベンチに腰掛けた。しばらくの間は、快斗も自由に動けそうにない。
 夕べ、パンドラという宝石について調べてみた。
 阿笠に連絡を取って、父のファイルにそれらしき宝石の記述がないかも確かめてもらったし、インターネットで様々な組織の情報を呼び出してももらった。しかし、目ぼしい情報はほとんど出ては来なかった。唯一見つかったと言えば、伝説上のビッグジュエルに、そんな名前がついているとかいないとかという、胡散臭い話だけである。
 結局、快斗から直接話を聞かなければ何もわからない。
 彼に協力するしないはともかく、話だけでも聞いてしまわなければ、気になって他が手につかなくなりそうだ。まんまと罠に嵌められた気がしないでもないが、この際目をつぶることにする。
 何より、おもしろそうな話である。昨日の快斗の話を基盤に考えてみると、ある組織があって、そいつらは目的のために人殺しも辞さないような悪の権化で、初代怪盗KIDはその悪に立ち向かったせいで殺された、と、こうなるわけだ。しかも、快斗がパンドラという宝石を探していることを考えれば、悪の組織が狙っているのもまさしくそれで、宝石には、様々な犯罪を犯してでも手に入れる価値がある、偉大な秘密が隠されている、ということになりはしないか。
 まるで安っぽいテレビドラマみたいだ。けれども、その登場人物が怪盗KIDとなると、コナンにはどうしても笑い飛ばすことができないのである。
 怪盗KIDという奴は、コナンにとって非現実の象徴みたいな敵だった。
 頭が良くて狡猾で、抜け目もなくて、どんな窮地もすぐさま幸運に変える。もし絶対に負けない悪役が存在するのなら、きっと奴みたいな敵を言うのだと思う。大体、奴の犯罪には悪意がないからいけない。捕まえてやるのだと気負っていても、心の底から憎めるような相手ではないのだ。時には、こちらの窮地にも、さり気なく手を差し出すような奴だから。
 そんなKIDが追いかけているパンドラだ。コナンの好奇心を刺激して当然ではないか。
「コナンくーん」
 歩美たちが向こうで手招きしている。哀はとっくの昔に帰ってしまったというのに、歩美たちは、快斗からマジックを習うのだと、必死になってじゃれついていた。コナンは相変わらずベンチに腰掛け、一人二人と輪から離れていく子供たちを見ている。
 快斗から遠ざかる子供の顔は、皆感動できらめいていた。人を楽しませる技術は一種の才能だ。そう言えば、怪盗KIDもひどく一般大衆に好かれていた。
 未だ輪の中心にいる快斗は、少しだけ困った顔で、それでも楽しげに子供たちと話していた。
 本当は、盗みなどよりこちらの方が快斗の望んでいる姿ではないのか。コナンはふと考え、何だかやりきれない思いで溜め息をついた。

 やっと快斗が解放された頃には、もう六時を回っている。最後まで残っていた歩美たちも帰り、小さな公園も、すっかりいつもの穏やかさを取り戻した。
「つっかれたぁ」
 ベンチにどすんと腰掛けた快斗は笑っている。
「悪かったな、こんな時間まで待たせちまって」
 別に待っていたわけじゃない。突いて出ようとした憎まれ口をぐっと抑える。余計なことを言ったら、快斗の満足げな表情を壊しそうだ。
「お前、こんな時間まで外にいていいのか? 家の人、心配してんじゃねぇ?」
 確かに今頃蘭は心配しているかもしれない。これから快斗の話を聞いていたら、もっと帰りは遅くなってしまうだろう。電話でもして連絡を入れていた方がいいのかもしれないが、不思議とそうする気は起こらなかった。
「……いい」
 結局、コナンに言えた返事はそれだけだ。快斗は、ふぅんとだけ答えて、暮れ始めた空を見上げた。
 すみれ色の雲の切れ間に、一番星がひとつ。
 小さな沈黙が落ちたと同時に、公園のあちこちで丸い水銀灯に光が灯る。辺りがふわりとした明るさに包まれたので、コナンは何となく顔を上げた。
 すると、空を見上げていると思っていた快斗が、じっとこちらを見ていたことに気がつく。
「……何だよ?」
「別に?」
「じゃあ見るな」
「仕方ないだろ、目が勝手に動く」
 何を言っているのだか。コナンは小さく笑う。快斗はそんなコナンにゆっくり目を細めた。
「……なんか、バカみたいだろ、俺」
 奇妙に悲しげな声が言う。
「本当は、もっと悪役っぽく決めるつもりだったのに……」
 コナンはそっと深呼吸した。
 快斗が自分を利用しようとしているのは知っていた。もちろん、簡単にそうさせてやるつもりなどさらさらなかったが、今こうしていると、そういった意地やプライドがひどく無意味なものの気がしてならない。快斗とは、もっと別の付き合い方をしてもいいのではないかと思うのだ。だって、こんなにお互いが近い。
「別に……動機なんかどうだっていいだろ?」
 コナンはひっそり呟く。
「お前が話さなきゃなんねーこと、さっさと話せよ」
 快斗が静かに笑った。さんきゅ、と、唇だけが短く動く。そして彼はようやく話し始めるのだ。パンドラのこと、それを狙う組織のこと。
「世界中に名のある宝石はいくつもあるけど、その中でたったひとつだけ、特別な石がある。そいつの見かけは普通の宝石なんだが、月光にかざすと、内側に埋もれてたもうひとつの宝石が赤く輝くらしいんだ。それがパンドラだ。パンドラには不思議な力があると信じられていて――話自体はもの凄い眉唾もんだろ? けどそれを狙ってる奴らは信じてやがんだ、パンドラに、不老不死の力があるってな」
「本気か……? 滅茶苦茶ウソくさいぞ、それ?」
「だろ? でも実際そのために俺の親父は殺されてる。笑って済ませる話じゃない」
 横顔に一瞬だけ酷薄な影が混じった。多分、快斗にとっての父親は、彼の人格を決定するほど重要な存在だったに違いない。その存在を、あるかないのかわからないたったひとつの石のために壊され、彼はひどく腹を立てていた。その怒りこそが、八年前に消えた怪盗KIDを蘇らせたのだろう。
 コナンは苦く視線を逸らす。
「それで、その組織の実態はわかってんのか?」
 問いに、快斗が盛大な溜め息をついた。
「いや……。かなり大きな組織らしいってことしか知らない。それに奴ら、集団では行動しないみたいだな。呼び合う時もコードネームみたいなもん使ってて、どうも尻尾が掴めない」
「コードネーム……」
 ふと、コナンに薬を盛った組織のことを思い出した。あの組織でもコードネームみたいなものが主流で、決して本名では呼び合っていなかった。
「例えばどんな名前だった? 酒の名前とか?」
 つい勢い込んで訊いてしまったのだ。快斗が少し驚いた表情でこちらを向いた。
「スネイクとかドッグとか、俺が会ったことある奴はみんな動物の名前使ってたな」
 別の組織だろうか。彼の言葉からだけでは、どちらとも言えない。
 急に黙ったコナンに、今度は快斗が首をかしげる。
「……酒って、何でそう思った?」
 コナンはついに観念する。快斗からはここまで込み入った話を聞いているのだ。今更自分だけ逃げるつもりになれない。
「……俺を子供にした組織が、そうなんだよ」
 彼は納得したように一度二度とうなずいた。
「へぇ。似てるってわけだ、お前と俺の敵が」
「ああ」
「確かになぁ。俺が知ってる奴らも、そういう馬鹿なクスリ開発したっておかしくない奴らだけどさ」
 話の深刻さとは反対に、二人冗談のように笑った。
 しばらくそうした後、コナンは時計塔を見上げる。辺りの暗さにやっと気付いた顔で、快斗が大きく背伸びをした。
「……そろそろヤバイ?」
「だな」
 昨日とはずいぶん違う素直な答えに、快斗がハハっと笑った。
「しょーがない、続きは明日!」
「またかよっ!」
「いいじゃん。明日もこの男前に会えるぜ」
 アホ、コナンが毒づく。
 それでも快斗は笑っていた。何を考えているのだろうと思ったら、
「俺は嬉しいけど?」
 平然と言ってのけるのだ。
「お前といるの、結構楽しいし」
 そんな言葉は生まれて初めて聞いた。反射的にかっと体温が上がった気がしたが、何とか無視してそっぽを向く。今が夜で良かった。熱を持った頬を、コナンはぐいと服の袖で拭うことで誤魔化す。
「んじゃ、また明日な」
 快斗は昨日と同じく笑って手を上げた。その姿に、慌てて我に返る。
 言っておかねばならないことがあった。嫌味でも何でもなく、今日子供たちの中で笑う彼を見て思ったこと。
「お前、泥棒よりマジシャンの方が合ってたぞ!」
 けれどもそれを聞いた途端、快斗の瞳は大きく揺れたのだ。もっと言葉を続けるつもりでいたコナンは、それ以上何も言えなくなる。
 快斗を傷つけたと思った。
 小さくうつむいた彼が、掠れるような声で言う。
「……俺もそう思う」
 言うくせに、彼はどうして苦しげな顔をしたのだろう。
 問いかける言葉もないまま、コナンは彼の背中を見送るしかなかった。