JOKER JAM chapter2

 一日が長い。ここ2,3日は特にそうだ。快斗は窓際の席で机に突っ伏したまま、たらたら続く小説の朗読を聞いている。
 外は素晴らしい快晴だった。風もいい感じである。今日の天気は何もかもが心地よく、清涼で、屋内で授業を聞いているのが馬鹿らしくなるほどなのだ。
 早く放課後にならないかな、朝から何度となく思っている。学校なんかつまらないし、何より、外には会って話したい人物もいた。
 今頃は向こうも授業中だろうか。昨日は思わぬことに時間を食ってしまったから、今日は静かな場所で待つことにしよう。快斗はその時を思ってあれこれ計画を立てる。一番の楽しみは、彼が快斗を見つけた瞬間の表情を想像することだった。
 少しだけでも笑ってくれたら満足なのだ。
 性懲りもなくまた来たと、呆れ半分でもいい。唇の端がわずかに上がる程度でも、きっと快斗は舞い上がるくらい喜ぶだろう。手加減や遠慮のない会話も気に入っていた。コナンは、今までに快斗が持った友人とは一味も二味も違う存在だ。一度敵対していたことも幸いして、相手の優れたところを素直に尊敬できたりもする。
 本当のところ、友人というより好敵手に近いのかもしれない。だから妙な気兼ねもいらなくて、彼といる間は最も偽りのない自分になる。
 盗一は、この状況も予想していたのか。
 予想していたからこそ、コナンに協力してもらえと、あんなふうに言ったのだろうか。
 快斗がその夢を初めて見たのは、もう一ヶ月以上も前のことになる。
 最初は父が出てきた夢、くらいの認識でしかなかった。それが、日にちを追うごとにどんどん具体的になっていったのだ。始めは目が覚めた瞬間に内容など忘れてしまっていたのに、十日後には、一言一句を間違うことなく思い出すごとができるようになっていた。
 夢の中の盗一は、怪盗KIDの姿をしている。
「私は今、パンドラの元にいる」
 何がどうなってそうなっているのか、一言も説明はない。まるでビデオの映像みたいに、夜毎同じ台詞は繰り返された。
「パンドラは持ち主を選ぶ宝石だ。お前はもうすぐ彼女に選ばれるだろう。ただしその力をお前が望まないなら、一刻も早く捨てることだ。彼女は美しいが、清純ではない。力を望まぬ聖人を嫌い、権力や名声を好む強者だよ。気をつけろ快斗、パンドラはお前を虜にしようと必死だぞ」
 それから盗一は、KIDを私に返してくれ、とも言った。
 元々、怪盗KIDは盗一が始めたゲームだった。世界の様々な美術品を鮮やかに盗み出し、しかし盗品はすぐに正当な持ち主に返されたし、時には弱い者に分け与えられもした。その名声も栄光も、中傷すらもが、本来盗一が手に入れるべき財産だ。
 だからKIDを返してくれ、父は深く微笑みながら語ったのだ。盗一はきっと快斗の迷いを知っていた。そんな言い方をしながら、息子が歩むはずだった別の人生を、もう一度取り返そうとしてくれたのだ。
 そして賭けを持ち出した。
 快斗と一番付き合いの深い幼馴染でもなく、他の友人でもなく。意外なことに、父が賭けの対象に選んだのは、敵対関係にあったコナンである。
 しかし、賭けの内容を考えるなら、それは妥当な人選だったのかもしれない。なぜなら、あのコナンが、犯罪を犯罪と知りながら快斗の応援などするわけがなかったからだ。
 今では快斗も賭けに便乗している。結果がどうなろうとも、コナンと一緒にああだこうだ話している時間は楽しかったし、楽しければ、パンドラを手に入れるためのリスクにも目をつぶれると思った。
 早く放課後になれ。何度目かの願いを心で呟き、真っ青な空を眺める。ヒコーキ雲が快斗の眼前で一筋流れ、眩い光を白く弾いていた。

 休み時間。のたのたと身を起こしていると、固い表情で傍らに佇んだ小泉紅子と目が合う。
「……ちょっといいかしら?」
 紅子は校内でも1,2を競う美女だった。成績も常に上位ランク、スポーツ万能で家柄も良い、いわゆる女王様タイプだ。少しプライドが高すぎるのが玉に瑕で、同性に敵を作りがちであったが、付き合ってみれば決して悪い人物じゃない。正義感は強いし、責任感も強い。快斗も紅子を嫌いではなかった。ただ、彼女はしばしば快斗を怪盗KIDに見立てた台詞を吐く。快斗がそれを隠そうとしていることを知っていて、だ。
「……何だよ?」
「いいから、少し付き合って」
 だらだら起き出す快斗の腕を掴むと、紅子は強引に教室を出た。
 一体どこまで歩く気なのか。生徒のひしめく廊下を抜け、階段を下り、昇降口を横切って別学年の棟へ続く、渡り廊下へ出る。これ以上先へ行くと、短い休み時間内では教室に戻れなくなれそうだ。
「おい、待てってば!」
 引っ張られていた腕を引っ張り返す。紅子がようやく足を止めた。
「ここまで来たら充分だろ?」
 咎める快斗に対し、やり場のない憤りをこらえた目をした紅子は、まるで食ってかかるように詰め寄った。
「正直に言って。指輪に心当たりある?」
「指輪?」
「そう。どんなものでもいい。おもちゃの指輪でも、紙縒りの指輪でも、指輪の形をしたものなら何でもいいわ。多分そんなに高価な指輪じゃないはずなの。心当たりない?」
 いつもなら適当にはぐらかすこともできたはずなのに、今日ばかりは紅子の妙な気迫に押されて敵わない。快斗は言われるままに思いを巡らせたが、これといって意識に引っかかるものはなかった。もちろん、これまで盗んだものの中になら、指輪など五万とあるし、中には未だに快斗の手元にあるものもある。紅子が言う指輪はそのどれかなのかもしれないが、数も多いそれらの中から特別にどれと限定するとなると難しい。
 思い悩む快斗の表情を読んだらしく、紅子は短く溜め息をついた。
「そう……心当たりがないならいいの。ただ気をつけなさい。その指輪はとてもわがままだわ。もしかしたら、あなたの命を手に入れようとするかもしれない」
 はっとした。紅子が言っているのは、パンドラのことではないのか。
 快斗はKIDとして、何度か紅子の裏の姿と接触している。彼女は自称魔女なのだ。そしてその力も、侮れるものではない。不思議な薬を作り出す技術もあるし、箒に乗って空を飛ぶこともできる。
 当然、未来を見通す占いも良く当たった。過去に1,2度こうして助言を受けたこともあったが、快斗が助言に従ったか従わなかったかは別にして、その時もことごとく紅子の予想は的中していた。
「もっと詳しくわかるか? どんな指輪とかって」
 慌てて問う。紅子は苦く首を振った。
「私にわかるのは、指輪の形をしたものってことだけ。それから、猫が関わってくること」
「ネコ? ネコって、にゃーって鳴く猫?」
「ええ」
 ますます心当たりがなくなった。快斗が思わず宙を仰ぐ。
「……わけわかんねぇ。とりあえず指輪に気をつければいいんだな?」
 礼を言ったあとも、紅子の固い表情は変わらなかった。その表情を見ていると、さすがに彼女の占いがどんなものであったのか気になりはしたが、結局快斗は何も聞かずに教室へ戻ることにする。
 占いの結果よりも、今は気になることがある。
 盗一が導き、紅子までもが示唆した。パンドラは、思ったよりも近くに存在しているのかもしれない。

 午後になって、いよいよ落ち着かなくなった快斗は、とうとう三日連続の自主早退を決め込んだ。途中、幼馴染の青子に捕まったり、担任に捕まったりと、妨害がなかったわけではなかったが、出任せとはったりを駆使して乗り切る。後は裏門からこっそり出さえすれば、完全な自由が待っていた。
 今にも小走りになりそうになるのを努力して抑える。コナンの学校が終わるのは一時間ほど先だが、真っ直ぐに向かわずにはいられない。今日は一日目と同じく、毛利探偵事務所付近で待っているつもりだった。昨日みたいに下手に子供のいる公園などにいたら、どんなことで時間を取られるかわかったものじゃない。
 とは言うものの、この時間どこへ行くにも制服は目立つ。快斗は手っ取り早く建物の影で私服姿に早変わりした。荷物は適当なコインロッカーに放り込んで身軽にする。
 喉が渇いたので自販機で缶ジュースを買った。そのまま表通りを歩いていると、不意におかしな光景を発見してその場に釘付けになる。
 ちょうど車道を挟んだ向こう側なのだ。ガードレールで車から守られた遊歩道を、ふらふら歩く女性がいた。
 薄い綿のドレスは、どう見てもパジャマかネグリジェの類だ。ソバージュの髪も梳かしてなどいないふうで、顔半分をばさりと覆っている。足元もちぐはぐの、スリッパとサンダルを片方ずつ。どこかの入院患者にしては付添いの姿がない。
 明らかに病人だった。精神的に錯乱している人物なのかもしれない。彼女とすれ違う人々も同じことを考えたのか、大回りして避けていく。
 快斗はしばらく考えた。KIDである時ならともかく今は普通の人間だ、いかにもわけありな見ず知らずの人物に手を差し出すほどの度量はないし、警察も面倒も偶然も奇跡も当たり前に怖い。でも見て見ぬふりはしたくないのだ。せめて近くの交番に連れていくくらいなら――
 決心して、とりあえずガードレールを飛び越えた。車の走る隙間をぬって車道を横断し、まだガードレールを乗り越える。
 女はすぐ目の前だった。
 ところが、快斗が肩を叩こうと手を延ばした瞬間、
「――いらっしゃいました!」
 奥の脇道から、エプロンを付けた使用人風の女性が飛び出し、夜間着の女を見るなり背後に叫んだのだ。
 同じ脇道からは、すぐに何人かの男女が駆けつけた。やはり皆一様に使用人風で、中にはスーツを着た身なりの良い老人もいたが、言葉遣いは慇懃極まりなく、同じく仕えている身分の老人に見えた。
 それらの使用人に遅れ、最後に現れたのが、セーラー服の少女だ。ショートカットの、活発そうな少女である。中学生くらいだろう、短いスカートにルーズソックスという出で立ちが、いかにも今時の女の子という感じだった。
 その一団はあっと言う間に女を取り囲み、近くに寄せた車へ乗せようと大騒ぎする。
「お母さん、言うこと聞いて!」
 セーラー服の少女が言った。
 快斗はその騒動を、すぐ後ろで眺めていた。察するに、女は病床を抜け出た貴婦人らしい。精神異常であるのは快斗の想像通りで、ちらっと見えた手首にも、自殺未遂の痕が何箇所か残っていた。
 多くの使用人たちに取り囲まれても、女はまだ弱々しい抵抗を続けている。ガードレールに手を絡めたり、車道を走ろうとしたり、一体何を求めての逃走だったのか、ひどく懸命に彼方へ手を延ばそうとする。
 快斗はそれらをじっと見ていた。とうとう力尽きてうなだれた女が車に乗せられても、ずっと目を逸らせぬままでいた。
 そうして、使用人たちが慌しく車に乗り込み、今にも発車しようとした時、またしても車内では一悶着が始まるのだ。今度は悲鳴も聞こえたし、内側からはガラスも叩かれた。外を目指す女の手のひらは、後部座席の窓に必死ですがりつき、見るもの全ての憐れを誘う。
 ただ、そこから不意にこちらを向いた女の目は。
 狂気、だった。
 途端、快斗と同じく、この光景に囚われていた野次馬の何人かが、焦ったように目を逸らす。
 けれど快斗は見ていたのだ。おそらく、その場にいた誰よりも真っ直ぐに、女の目の奥底を直視していたに違いない。
 だから彼女も快斗に気付いた。一瞬重なった視線に驚いたのは、快斗よりも彼女の方だった。
 それでもすぐに唇は動く。ためらいながら、はっきりと。
「フ・ツ・カ・ゴ・ノ・ヨ・ル」
 ――二日後の夜。
 女を乗せた車は、それを最後に急発進した。咄嗟にナンバーを記憶したのはいいが、何のためにそうするのか、快斗は自分で自分の機転に戸惑う。
 まさか二日後の夜に彼女を訪ねていくわけにもいくまい。何しろ快斗と彼女は見ず知らずの関係だ。慈善で狂女の気まぐれに付き合うには、動機が足りなさ過ぎる。
 しかし――
 快斗は、すっかりぬるくなった缶ジュースをゴミ箱に放る。それから両手をポケットに突っ込んで、人通りの少なくなった道を歩き始めた。
 とにかくコナンに会おうと思った。今の自分はひどく混乱している気がした。

 快斗が毛利探偵事務所の前に着いたのと、コナンが帰ってきたのはほとんど同時刻のことだ。こちらに気付いたコナンはかすかに微笑み、しばらくの間、快斗をものの見事に有頂天にした。
 けれども、そこから場所を変えようと二人で歩き出した矢先、快斗はあの少女の姿を見つけたのだ。
 ショートカットにセーラー服。先ほどの狂女を母と呼んでいた、あの少女である。しかも彼女は、こともあろうか、毛利探偵事務所の呼び鈴を押した。一度、二度、応答がないのに痺れを切らし、早速二階への直接通路へ足を進めている。
 快斗の様子を不審に思ったコナンが、その視線を追って少女の存在に気付く。
「……知り合いか?」
「いや……何でもない」
 そう答えはしたのだが、実際は気になるなんてものじゃなかった。数分後、快斗は心ここにあらずのまま、先ほどの出来事をかいつまんでコナンに話すことになる。
 話を聞いたコナンは興味をそそられた顔をしていた。
「二日後って言われたんだな?」
「ああ」
「それでお前は、その女の名前も、家の場所も知らない、と」
「その通り」
 コナンは少し考える素振りを見せた。
「……なぁ、お前、工藤新一の友人ってことで演技できるか?」
「あ?」
「言っとくけど、多分俺の幼馴染はしつこいぜ。新一どこにいるのかって、何度も聞いてくる。それ全部に上手い嘘つける自信あるか?」
 コナンの意図はすぐに読めた。彼は、快斗を新一の友人として、事務所の中に案内してくれるつもりなのだ。
「……そういうことなら大丈夫。はったりと嘘は得意だから」
 知ってるだろ?、言えば苦笑するコナン。
「んじゃ、決まりだ。間違っても変なことに情報使って、俺の信頼台無しにすんなよ?」
 言われて、ふと驚いた。信頼してもらっているのだ、自分は。
「……サンキュ」
 ぽろりと礼が出る。コナンは渋い顔をした。
「礼はいい。いいから約束しろ」
「裏切らない、絶対」
 言葉にひとつうなずいて、コナンはさっぱりと笑って見せる。
「行こう。お前の話しはまた明日な」
 明日も会いに来れる。彼からの約束は、快斗をいたく幸せな気分にした。

 事務所のドアには、やはり来客中の札がかかっている。快斗はコナンに促されるまま、すぐ隣にある別室に足を踏み入れた。同時に隣の話し声も聞こえてくる。入口は別々だったが、元はこの部屋も応接室の一部だったらしい。仕切りは擦りガラスと薄い板だけだ。どうりで隣の声が良く通るはずである。
 コナンはまず蘭に声をかけた。新一の友人だという男と表で会ったから連れてきたと、適当な嘘を、隣にいる小五郎やセーラー服の少女にも聞こえるように言っている。蘭姉ちゃんやおじさんにも訊きたいことがあるみたいだから、こっちで待ってるね。全く完璧な子供しゃべりに、快斗は影で小さく吹き出した。
「しょうがねぇなぁ……、すいませんねぇ、お嬢さん。どうか気にしないでやってください。どうせ向こうからはお嬢さんの顔も見えませんし、多分聞いても何のことやらはわからないでしょうから……」
 小五郎の声だ。快斗はじっと耳をすました。コナンが椅子を引っ張ってきて、隣に腰掛ける。快斗と同じく、隣を盗み聞きする顔は真剣そのものだった。
「わかりました。でも別に大丈夫です。今更隠すようなことはないですし、家の近所に住んでる人や、あたしの友達たちも、うちの事情は良く知ってますから」
 歯切れの良い声だ。あのショートカットの印象に違わず、彼女は快活な少女のようだった。受け答えにしても、運動部の生徒の話し方に似ている。
「それよりも、毛利さん。お嬢さんはやめてもらえませんか? これでも、あたし、猫山家を代表してここに来たんです」
「こ、これは申し訳ありません。つい、その……猫山由香さん、でしたな。あなたがあんまりお若いもので」
 十四、五の少女に対して小五郎の方がおどおどしている。快斗は思わずコナンと顔を見合わせていた。いくら何でも、少女はちょっと場慣れしすぎだ。
「では由香さん、そろそろ依頼内容の方をお願いできますか」
 小五郎が場をとりつくろって咳払いした。由香は瞬間言いよどむと、重い溜め息をつく。
「単純なもの、なんです。父を、猫山秀次を探して欲しいんです」
「探してほしいということは……失礼ですが?」
「はい。父は半年くらい前に失踪しました。母や、古くから家に仕えている者たちが、父の出身地や馴染みの会社、不動産などの心当たりを探してみたんですが、どうしても見つけることができなかったんです。そうしているうちに、母はどんどん精神的にまいっていったみたいで、今では心の病気にかかっています」
 小五郎が言葉に詰まって沈黙する。
「猫山家というところは、あたしが言うのも変なんですけど、とても変わった家なんです。家業にしているのも、代々猫山の土地になっている山のいくつかを、農業や林業に携わっている会社に貸し出すことで、特にどこかの会社へ勤めたりするわけじゃありません。元々が普通のサラリーマンだった父にとって、じっと家にいるだけでお金が入ってくる生活は、楽どころか、おもしろみのない退屈な生活だったみたいです」
 聞けば、猫山秀次は婿養子として猫山家に入ったらしい。資産家の家とは言っても、実際全ての業務を行ってきたのは執事の松本という人物で、秀次は入籍後も家業の仕事を任されることはなかったと言う。元商社マンで、日々あくせく働くことに慣れていた秀次にとって、何もすることのない毎日は物足りないなんてものではなかったのだろう。
「父は真面目な人でした。お酒も煙草も、あたしが知っている限りでは、遊び方さえちゃんと知らないような父だったんです」
「そんな秀次さんが、半年前にいなくなったと」
「はい。父は趣味でいろんな石の採集をしていたので、最初はみんな、また石を発掘しに行ったのだろうと呑気に考えていました。けれども、三日たっても四日たっても、一週間たっても父は帰ってきませんでした。警察に捜索願を出してはみたんですが、良い知らせもないままで……」
 由香の声が小さく震えた。
「そのうち、今度はだんだん母の様子がおかしくなっていったんです。始めのうちは、今したことを忘れるとか、不意にぼんやりするとか、その程度のことでした。でも今では、あたしの顔もわからないみたいなんです。何度か自殺まで謀って……父の名前ばかり、呼んで……」
 小五郎は由香の気持ちを察し、静かに話を遮った。
「わかりました。依頼は受けさせてもらいます。ただ秀次さんを探すにあたって、いくつかお願いがあるんですが?」
「できる限りのことはします!」
「ではまず秀次さんの写真を何枚かいただけますか。それから、日を改めてでも結構ですから、秀次さんが使っていた部屋や、猫山さんが持っている土地のリストを見せていただきたい。あなたの家の他の方にも話を聞いてみたいし、また秀次さんのご友人にも話を伺いたいので、しばらく私が自由に動けるよう取り計らっていただきたいのです」
 小五郎はてきぱきと続けた。最近こそ殺人事件や強盗事件に首を突っ込むようになったが、それ以前は、こういった調査や人探しの依頼の方が圧倒的に多かったのだ。
 快斗とコナンは別室でほっと溜め息をついた。とりあえずは、これで快斗が出会った女の持つ背景が掴めたことになる。
「……ややこしいな」
 コナンが呟いたので、快斗も思わずうなずいた。
「結局、二日後の意味はわかんねぇままか……」
 あの時、快斗はなぜだか助けを求められた気がしたのだ。だから、もしや二日後の夜に事件でも起こるのかと予想したのだが、どうやらそうでもない。由香の話からいくと、猫山夫人を脅かすのは夫人自身の狂気だけである。
「……気にすることないんじゃないか?」
 コナンが言う。
「その女の人に必要なのは、旦那だけだ」
 快斗もそう思った。夫人の目は、確かに何かを訴えてはいたけれど、快斗に期待している目ではなかった。おそらく衝動的に口走っただけなのだ。となれば、やはり二日後の夜に深い意味はない。
 そう分析しつつ、狂った女の形相が脳裏に焼きついて離れないのもまた事実ではある。しばし黙り込んだ快斗を、コナンが心配そうに眺めていた。

 由香が事務所を出た直後から、コナンが言っていた通り、快斗はすさまじい質問攻撃に襲われた。
 何しろ、毛利蘭は工藤新一の幼馴染だ。幼馴染というものは、下手をすると親よりも詳しく物事を覚えているもので、彼女が主張するに、新一の友人を名乗る人間は少なく、黒羽快斗という名前はその中に含まれていないはずだということなのだ。
「新一の友達をあたしが知らないはずないんだもの」
 蘭は自信を持って言い切る。これには、快斗も、コナンですらまいってしまった。
 最初のうちは、最近ある事件を通して知り合ったと嘘をついて何とか誤魔化すこともできたのだが、これがまた、どこで会ったのか、やら、その時新一は何を言っていたか、やら、とにかく一つ答えるたびに次の質問が飛んでくる。
 このままでは絶対にボロが出る。悟った快斗は、何とか蘭を話術で誘導して、幼い頃の思い出を語らせるよう仕向けた。
 幼い頃の新一なら、当然快斗は出会っていないわけで、蘭に何を尋ねられても素直に知らないと答えることができる。快斗自身は矛先が逸れてほっとしたが、今度はコナンが慌てていた。何しろ、幼い頃の失敗談や冒険談がことごとく暴露されていくのだ。逆の立場だったら、快斗だって焦ったことだろう。
 でも、実際、コナンが恥ずかしがるような話はほとんどなかった。きっと蘭にとって新一は、幼い頃から人に誇れる存在だったに違いない。その話し方からも、彼女の新一に対する思いは推し量ることができた。
「――それでね、ずぅっとサッカー選手がいいって言ってたくせに、突然探偵になるって言い出して。優作おじさんの暗号を解けなかったのがよっぽど悔しかったのね、次の日から毎日推理小説づけ。信じられる? 小学五年生の子供が、死亡推定時刻の見分け方の本読んでるのよ、もう嫌になるったら」
 聞けば、コナンにとっても父の存在は重大だったらしい。快斗だって、盗一がマジシャンではなかったら、今頃ただの平凡な高校生だったかもしれない。子供の視点からでは、大人が皆スーパーマンに見えるという良い例である。コナンの場合も快斗の場合も、一番近くにいたスーパーマンは、父親だったのだろう。
 彼女の話に気が済むまで付き合ったおかげか、最後には蘭も、思った以上に友好的になってくれた。快斗の方も、これ以上追求されないうちにと、話が一段落したのをきっかけに、早速挨拶して事務所を出る。
 蘭の姿が目の前からなくなると、一気に肩の力が抜けた。表通りへ直接つながる階段を下りながら、快斗はひどく疲れていた自分に気がついた。
 実は、己の初対面の印象の良さを、密かに自負している快斗である。鍛え抜かれた営業マン並のすっきり笑顔は、どんなに気難しい相手にでも通用したし、また話術にも自信はあった。だから、蘭と話すのも小五郎に会うのも、本当は全然苦にならないはずだったのだ。
 でも実際はへとへとになっている。ふと自分の認識の相違を変に思ったが、今までもこんなものだったような気がしないでもない。ならばどうして今回だけこんなに疲れた気がするのか――緊張していないつもりが、実はがちがちだったと思い知るくらいに。
 あれ?、と思う。
 こんなふうに、上辺だけの笑顔で他人と話すことには慣れていたはずなのに、と。
 そんな時だった。階段の上から声が降ってきた。
「待て待て。さっさと帰んな、バカ」
 振り向かずともわかる、コナンである。こんな物言いを快斗にするのは、コナンしかいない。
 快斗は振り向いて、それから唐突に悟った。
「――あ、お前のせいだ」
 つい思ったままが声になった。コナンがむっとした表情になる。
「何が俺のせいだよ。俺何もしてないだろ」
「違う違う、そうじゃなくって……でもいいや、忘れてくれ」
 茫然と呟いた。だって、コナンのせいなのだ。上辺だけの笑顔が苦痛になったのも、無難な受け答えが苦痛になったのも。
 毎回毎回、あんまりにも手加減なしの会話を続けていたから、今の今まで気付かなかった。
 快斗がコナンと話をする時、一度だって偽者の笑顔はなかったように思う。偽者の言葉も、なかった。初めから一番正直な自分で対峙していたのだ。ポーカーフェイスとフェイクが大得意だった、この快斗が、である。
「……奇跡みてぇ……」
 コナンが更にいぶかしげにな顔になる。でも今は、快斗だって自分の感情で手一杯だ。上手い言い訳も考えつかない。
 そのうち、沈黙に焦れたコナンの方が話し出した。
「とりあえず、明日のこと言いに来た。明日、土曜日だろ? 学校休みだし、お前の方が良かったら、図書館で待ち合わせしないかと思って」
 快斗は何とか理解する。まだ頭の半分は自失したままだったが、残った半分で一生懸命答えを考えた。
「図書館か。別にいいけど、何で?」
 幸い、的外れな答えではなかったらしい。コナンはゆっくりうなずいて先を続ける。
「昨日、お前が言ってた宝石のこと調べてて思ったんだよ。あのパンドラって石な、変な力あるかないかは別にして、本当にそんなふうに……化学的にだぞ、宝石の中にまた別の宝石ができることがあるとしたら、石の種類も限られてくるんじゃないかって、さ。それ調べようと思ったら資料足んねーし……」
 言葉を追っていた快斗は素直に驚いた。実は、今の今まで考えたこともない話だったからだ。
「すげぇ……。俺はビッグジュエルの中のひとつだって聞いたから……」
「全部盗めば、いつかはパンドラに当たるだろうって? お前、それ、かなり無謀って言わねーか?」
「そう……かも。言われたことねぇけど」
 やはり茫然と呟きつつ、思わず苦笑してしまう。
「……なぁんか、お前すげぇよ。お前がいるだけで、俺が問題だと思ってたもん、みんな解決しちゃいそう」
 聞いたコナンも笑った。楽してんなよな、続く憎まれ口も、ひどくあったかい。
「それじゃ、明日な」
「おう、明日な」
 そんな言葉で別れた。
 階段を降り立った快斗が目にしたのは、星のひとつもない、けれど優しい色をした夜空である。この空の下、多くの人間たちが息をしているのと同じように、パンドラもどこかで眠っている。雲を掴むような存在だったそれが、今ではずいぶん近くにあるのを感じずにはいられない。最初は盗一と快斗だけで目指していたものが、コナンの手を借り、着実に姿を現そうとしているのだ。
 ただ少し気になるのは、猫山家の騒動だった。
 快斗がKIDになることをやめた以上、今更パンドラと関係のない騒動に首を突っ込む必要はないが、あの狂った女の訴えを無視することはできそうにない。それに、紅子が言っていたことを思い出すと、なかなかに意味深長でもある。
 猫に気をつけろ、彼女はそう言ってはいなかったか。
 もし「猫」が猫山家の猫ならば、やっぱり無視するわけにはいかないはずだ。いくら迷っても、快斗は結局、二日後の夜に猫山家を訪れるだろう。
 さし当たって、明日はコナンと会うことができた。
 別れた瞬間から次に会う約束を楽しみにしている。あっちもこっちも問題だらけのこの状況で、コナンと会って話している時間だけが、快斗を穏やかにしてくれていた。

 * *

 お母さん。
 少女は呟く。だが、いくら呼びかけても、もう答えなど返ってきはしない。
 お母さん、由香よ?
 うつろな瞳は、実の娘の向こうに何を見るのか。
 狂った女のやせ細った指が、小さく空を掴んだ。そして彼女は、その手をゆっくりと頭上に掲げるのだ。
 彼女の指には、安い石の指輪がひとつ。
「そんなにその指輪が大事?」
 何度も繰り返される光景に、少女は低く問いかける。
「お父さんは、お母さんを捨てたのよ?」
 言葉など理解していない顔で微笑む母。夢見る瞳には、もしかしたら彼女の夫が映っているのかもしれない。
 彼女は夫にすがる代償に娘を捨てた。その夫が残した指輪が、彼女に何をもたらすものだったのかも知らず。
 大した価値もない安い宝石は、くすんだ緑色をしている。けれど、その石を、由香はずっと人を不幸にする石だと思っていた。
 なぜなら、父はそのために母を捨てたのだから。
 そして由香は。
 この指輪のせいで、母を失わなければならないのだ。
 薄い刃を持つ剃刀は、今夜もまだ誰に気付かれることもなく、寝室の引き出しにしまわれている。