分厚い雲が空を覆っていた。降水確率九十パーセントの雲だ、灰色でどことなく圧迫感がある。
コナンはその雲を見上げて、傘を持っていくべきか置いていくべきかで悩んでいた。昔から手に持って歩くというのが嫌いなのだ。梅雨の時ですら傘を携帯していなかったのもしょっちゅうで、良く幼馴染の傘にもぐりこんでいたのを覚えている。
しかし今日はさすがに持っていくべきかもしれない。今は良くても、午後あたりからは必ず降ってくる。湿気をたっぷり含んだ空気も肌に絡みつくようだ。こんな日に傘を持っていかないのは馬鹿だけだな、コナンも思う。
そしてコナンは――手ぶらで家を出た。
快斗と待ち合わせの約束をした図書館は、ここから十五分ほど歩いた先にある、私立図書館だった。規模はそう大きくなかったけれど、子供が少ないことと、かなりの数の専門書が揃っていることが、コナンが良く利用する理由だ。
それに、図書館に向かって延びた小道が、アカシアの並木道にもなっていて綺麗だった。今はそのアカシアにちょうど白い花が咲く時期で、距離にしたら二百メートルくらいだろうか、両脇に延々と美しい光景が続く。
大通りを横切ったコナンは、帝丹小学校がある方向へ向かって歩き出した。図書館は小学校の裏手側で、高台にある有名私立高校への通り道にある。
土曜日の通学路は、いつもと全く違う穏やかさだ。わめく小学生もいなければ、大声で笑い転げる高校生もいない。すれ違うのは車と大人たちばかりで、コナンは何となく自分が幼い子供の姿をしていることを悔しく思う。よそ見をせずに進もうと思うのに、やっぱりすれ違う人間と自分の身長を比べてしまうのだ。
子供はつくずく不便である。速く歩きたくても歩けない。走っても遅い。頭の中身も子供であったらこんなことは考えなかったのだろうが、大人というのは――成長した身体というのは、ただそれだけで優れている。
早く手に入れたいと思う。
できるだけ早く、同じ速さで動くことのできる身体がほしい。そうでなければ、一番一緒に動きたい相手とも一緒に行動できないままだ。
曇天の空が重い。コナンは深い溜め息をつきながら、小学校を大きく迂回した。
ごちゃごちゃ取り留めのないことを考えていたせいで、気付いたらいつの間にか並木道である。
コナンはまた吐息する。けれど今度は憂鬱だからではない。
煉瓦造りの四角い図書館に向かって延びた一本道だ。道の両脇には、白く小さな花を鈴なりにつけたアカシアの列がある。
アカシアの花は、白い蝶が二つの羽を折りたたんだような形をしている。花のまま潔くぽろぽろ散ってしまうのも印象的で、コナンに言わせてみれば、桜などよりもよっぽど憐れを誘う樹木だった。雨に濡れたからといって泥まみれになることもなく、泥の中でさえなお白い花を咲かせるのだ。
コナンはゆっくりと歩いた。憂鬱だった気分を深呼吸で一新し、これから調べなければならないことへと頭を切り替える。
何はともあれ、パンドラだった。
元々これはコナンの事件ではなかったけれど、今では他のどんな事件よりも気になって仕方ない。なぜなら、もしこれが快斗の手に入ったら、彼は本当に怪盗KIDとなって盗みを働く理由がなくなってしまうからだ。
以前に快斗が言っていた通り、どうやらKIDは警察に廃業宣言してしまったらしいが、コナンはあまり信じてはいなかった。というか、快斗と話していると、何となくではあったが、彼がまだKIDとして動きたがっている雰囲気を感じるのだ。
単に泥棒がしたいからとか、そんな馬鹿げた未練ではないのだろう。コナンにもわかる気はしていた。怪盗KIDは特別な泥棒だった。美術品を盗むだけではない、時には正義の味方も買って出たし、探偵役も買って出た。そして何より、彼は誰よりも優れたマジシャンだった。変幻自在の神出鬼没。常に大観衆の揃う舞台で戦い、無様な負け方は絶対にしない。
しかし――もしも快斗が語った話が全て真実だったなら、KIDはパンドラを手に入れたと同時に存在理由を失う。コナンは、その時の快斗がどんな選択をするのかが知りたかった。
まだ戦ってみたい気も充分にある。KIDが自分が知る中で最も手強い敵だと思うのは、未だに変わっていない。ただ、もう以前みたいに迷いもなく彼に挑むことはできなくなりそうだった。今のコナンは、黒羽快斗個人に好意を持っていたからだ。
図書館は今日も人の出入りが少ない。
快斗はもう来ているだろうか。
煉瓦の短い階段を上りながら、ふと空を見上げた。
まだ雨の降る気配はない。
司書のいる入口を通ると、検索用のカードケースと数台のパソコンが設置されたスペースがあって、その後ろは広く学習用に解放されている。午前中だということもあって利用者はまばらだ。ちらほら人の顔も見えたが、快斗の姿はなかった。
コナンはそのまま脇の階段へ向かった。書庫は二階にあって、一階と同じ広さの空間に、本棚がずらりと並んでいる。
案内表を頼りに地学のコーナーを探そうと思ったのに、改めて見ると地学なんてコーナーは設置されていないのだ。つまりそれだけ蔵書の数が限られているということだろう。端から全ての棚を見ていくわけにもいかず、コナンはとりあえず化学のコーナーに向かうことにした。
化学の棚は、部屋の最も奥まった場所にあった。
何の気なしにひょいと覗き込めば、そこには快斗がいるではないか。いつものようにラフなジーンズ姿で、でも眼鏡なんかをかけて、立ったまま分厚い専門書のページを捲っている。
何だかすぐに声をかけることはできなかった。それでも人の気配を感じたのか、快斗はふと顔を上げた。
目が合った。途端に明るく微笑む彼。コナンには絶対に真似できないような、ひどくやさしげな瞳で、よう、なんて声をかける。
「俺ここ使ったことなかったけど、わりと本揃ってるのな。こんなに分厚い鉱物の本見たの初めてだぜ?」
手に持った本を軽く上げて笑う。
こうして見ると、快斗は恐ろしく華のある男だった。顔も整っていて、確かに背も低くはないが、そういった見かけだけの問題じゃない。例えば同じ格好をした人間百人の中に紛れていたとしても、必ず人の目を惹くような男なのだ。
きっと女には一生困らないな、コナンはどぎまぎした心を隠して、全く別のことを思う。
「……早かったんだな。何かおもしろいことでもわかったか?」
思わず目を逸らしてしまったが、快斗はコナンの内心に気付いた素振りは見せなかった。おもむろに何冊かの本を棚から引き出し、あっち、と、高所の本を取るための踏み台を指差す。
「わかったことはわかった。とりあえずあの辺に座って話さねぇ?」
キャスター付きの踏み台は、気を抜くとすぐにずるずる動きそうだ。ひとつしかないそれの、右と左に背中合わせで座り合って、コナンは快斗が手渡した本にざっと目を通す。
「お前が昨日言ってた、宝石の中に宝石ができることがあるのかって話だけど、やっぱり実際あるみたいだ。ほら、良く石の原石の内部には、でっかい亀裂や空洞ができてることがあるだろ? 原理はあれと同じだ。空洞の代わりに、液体や固体が入ってることもあるって話」
一体いつからここに来て調べていたのか、快斗は本も見ずにすらすらと説明していく。
「それで、宝石の含有物が固体だった場合な。母体の石と同じタイプの場合もあるし、全く違うタイプの場合もあるんだってさ」
写真集を手に取った彼は、ちょうどその証明にもなる宝石の写真を開いて見せた。
解説文を読めば、今聞いたのと同じ説明が言葉を変えて書いてある。写真は、無色のダイヤモンドの中に、赤いガーネットの小さな塊が浮かんでいるものだ。ダイヤモンドは炭素の化学組成を持っているのに対し、ガーネットは、カルシウムやアルミニウム珪酸塩の化学組成を持っているのが一般的らしい。備考欄を見る限りでは、二つの石は比重も違うし、硬度も違う。
「……つまり、母体の石と含有する石との間に規則性はないって、そういうことか?」
一番の要点を確かめると、快斗は溜め息をつきつつうなずいた。
「そういうこと。結果として、パンドラはどんな石の中に入っていてもおかしくないってわけだ」
それでは結局何もわからなかったということではないか。コナンも思わず溜め息をつく。
けれど快斗は、そこから声を弾ませて続けた。
「でも、これ調べてて一個わかったこともあるんだぜ」
そちらを向けば、活き活きとした目が楽しげに細まった。
「要するに、母体と含有物の二つがひとつになった宝石があるわけだろ? でも、それは月光に透かしてみないと区別がつかない。ということは、母体の石と含有物の石ってのは、同じ色してる確率が高いってことだよな? おまけに、月光に透かしたら中の石は赤くなるって言うんだから……」
ようやくコナンにも話が読めた。
「そうか、パンドラは変色する石なんだ……!」
快斗がうなずく。
「変色する石ってのは、はっきり言ってそう多くない。しかも、赤くなるヤツなら滅茶苦茶特殊だ」
快斗が先ほどの写真集を更に捲った。
「これ」
そのページを指差し彼が笑う。
アレキサンドライト。コナンでも耳にしたことがある宝石の名だ。ダイヤモンドほどポピュラーではないが、希少性ならはるかに上を行く。
アレキサンドライトは、クリソベリル――和名で金緑石というが、その一種で、硬度が大きく耐久性も優れた宝石である。白昼の下では緑色をしており、電球などの白熱光の下では、赤みを帯びた色になるのだ。
「……俺は不老不死の力がどうのって話、全然信じらんねーからさ。実際にある宝石の中から、パンドラに似たもん見つけただけかもしんねーけど」
快斗は、束の間、少しだけ弱気な顔を見せた。それでも強く言い切るのだ。
「でも、何となくこれだって気はする。アレキサンドライトは緑色の石だし、ビッグジュエルの中で同じ色をした石を調べていけば、何とかなるかもしれないだろ」
「……いいんじゃないか?」
コナンは小さく微笑んだ。途端に、快斗の表情が劇的に明るいものに変わる。
「うん、いいだろ」
無邪気な顔で笑う。百点満点もらった子供みたいだ。胸を張って真っ直ぐに頭を上げて、何も怖いものなどないと、彼は瞳を輝かせる。
「……お前、すごい」
思わずコナンは言う。快斗はまた笑った。
「すげぇのはお前。全然動く気なかった俺を、こんだけ動かしたのはお前だぞ?」
それはそうだったかもしれない。しかしコナンは彼にきっかけを与えただけだ。動いたのが快斗なら、考えたのも、気付いたのも快斗本人だったのだから。
「すごいな……」
もう一度呟く。
コナンは不意に泣きたくなった。突然のことで必死に堪えたけれど、衝動はその後もしつこむコナンを捕らえて放さない。
だって、まるで一人置いてけぼりにされた気分なのだ。
快斗にとって、本当はコナンなどという人物は必要ではないのかもしれない。本当は、敵としても役不足だったのではないだろうか。彼はとても頭の回転の速い男だ。充分な力もある。正しさも持っている。そんな男に、子供の姿をした自分は恐ろしく不釣合いだった。頭の中身も――真実には、自分で自負するほど性能の良いものではないはずだ。更には、今のコナンには強い力も、彼と同じ速さで歩ける自信もない。
「……どうかしたか?」
快斗がふと問いかけた。コナンは弱く首を振って、
「外……。出るか」
悲しく笑った。
灰色の空からは、小さな雨がぽつぽつと落ち始めている。朝からいつ降るかいつ降るかという天気だったにも関わらず、どちらも傘の用意はなかった。しかしコナンも快斗もそれについて何も言わない。ただ二人で小降りの雨の中をゆっくり歩いた。
アカシアの枝が揺れる。そのたびにはらはら落ちる花は、蝶が舞い落ちるようだ。快斗が花のひとつを拾い上げ、手の上で転がした。コナンは少しの間見上げ、それからすぐに足元へ視線を落とす。
「……アカシアの花言葉」
快斗がぽつりと零した。
「純愛っていうんだけど」
言ったっきり、いつまで待っても次の言葉がないからそちらを向いた。快斗はコナンがそうするのを待っていたようで、目が合うとふわっと微笑むのだ。
「アイシテル、なんてハズカシイ言葉、本気で言ったら口がふやけそう」
つい笑ってしまった。
「何の話だよ?」
訊けば、快斗はまた微笑んで言うのだ。
「さぁ? 何の話でもいいかと思って」
「え?」
「……黙ってると寂しそうだから」
一瞬声が出なくなりそうだった。先ほどからずっとコナンの内を支配している憂鬱が、突然マグマのように熱く膨れる。普段は決して表に出ない汚い感情が、今にも喉からあふれ出しそうだ。
快斗はどうしてこんな気遣いができるのだろう。あんまりさり気なくって、恩着せがましくもなくって、今の劣等感に囚われたコナンにとっては、かえって余裕綽々の台詞に聞こえてしまう。
とても悔しかった。
それから、自分自身が嫌でたまらなかった。
コナンの感情に比例するように、鈍色の空から降る雨が次第に激しくなっていく。快斗が気にして空を仰ぐのと、コナンがとうとう口を開いたのは同時だった。
「……余裕だな」
最初は呟き程度の大きさだ。それもスコールさながらに強くなった雨音に消され、快斗までは届かない。
だから快斗は相変わらず空を見ていた。湿った前髪を掻き上げて、明るい瞳のまま空を見ていた。
「すごい余裕。お前って、誰と一緒にいてもそう?」
もう一度、コナンは少し大きな声で呟く。快斗が初めて気付いたようにこちらを見る。視線が真っ直ぐに重なった。その瞬間、コナンは自分が脆く壊れ出していることに気付かずにはいられなかった。けれども、もう止まらないのだ。
止まらない。叫びは正確に喉を貫く。
「お前、誰と一緒にいてもそうなのかよ? いっつも一段上から人見下ろして楽しいか?」
生まれて初めて故意に人を傷つける言葉を吐いた。
でも、目の中にまで降ってくる雨のせいで、快斗がどんな表情をして聞いたのか良く見えないのだ。コナンは限度を失った。自分の言葉でどれだけ彼が傷つくのか全くわかっていなかったくせに、歯止めなどいらないと決め付けた。
「大体、最初っから気に入らない! どうしてお前、俺んとこ来たんだよ、何が目的だったんだ! 気ぃ許させてうるさい敵消しとこうって、そういうことだったのかよ? だとしたら、俺はお前の罠にまんまと引っかかったわけだよな。楽しそうなふりも、やさしいふりも、もうたくさんだ! 俺なんかといて、お前が楽しいわけないじゃんか、今も昔も俺はお前の敵だっただろ!」
本気でそう思っていたわけではない。それでも言葉は止まらなかった。
「……お前が何言ってるのか、ちっともわかんねぇよ」
快斗が低く呻いた。
コナンにだってわかっちゃいない。実際のところ、言いたかったのはこんなことではないのだから。
けれど快斗を睨みつける。既に唇や指先は震えて力がない。コナンに残っているのは、眼差しの強さだけだ。だから瞳の輝きだけで、精一杯快斗に戦いを挑む。そうしてできればすぐにでも、自分が彼を傷つけたのと同じくらい、彼に傷つけ返してほしかった。
中途半端な共鳴では、もう満足できない。
対等な関係でいられないのなら、いっそのこと切り捨ててしまいたかったのだ。
「……わかんねぇっ」
コナンの眼差しの強さに騙された、快斗はとうとう怒鳴り返す。
「わかんねぇんだよ、何言ってんだよ! 楽しいふりってどんなだ、やさしいふりってどんなんだよ! もしお前に俺が楽しそうに見えたんなら、そん時俺は楽しかったんだよ! お前気遣うのも、別に意識してやってるわけじゃねぇし、どっかが勝手に動いて勝手にやさしくなってんだよ! 俺に責任ねぇよ、そんなん。悪ぃのはお前だろ、お前のせいで俺がこうなってんだから!」
「勝手なこと言うな! これだけ頭のいいヤツが、人に影響受けるかよ!」
「受けんだよ、バカ! 大体、そんなに計算ずくで動けるようだったら、最初っから独りで行動してたんだ!」
「じゃあ今からそうしろ!」
売り言葉に続くのは、買い言葉が定石。典型的な破綻への誘導に、我慢強く付き合っていた快斗も切れた。
「――いつまでガキみたいなこと言ってんだ!」
びくりと肩が跳ねる。思わずコナンは小さく震えて、険しい表情をした彼を見上げた。
「……クソ。お前、俺に何言わせたいんだよ? お前なんかいらねぇって、そう言わせたいのか?」
――雨が。
ひどく冷たいのだ。雲もひどく灰色なのだ。それがどうしてこんなに悲しいのだろう。アカシアの花は変わらず綺麗に散っていくのに。快斗も。変わらずそこにいるのに。
どうしてこんなに悔しいのだろう。自分が子供の姿をしているという、ただそれだけのことが。
「……工藤新一に戻りたい」
他にどうすることもできずに呟いた。途端に快斗がひどく驚いた表情になる。
コナンは更に言い募る。一度口にしてしまえば、真実は涙のようにぽろぽろ零れた。
「戻りてぇよ……そしたらお前にこんなこと言わずにすんだ……お前にいろんなこと気ぃ遣わせずにすんだ……コナンのままじゃ……お前と同じ速さで歩けもしないだろぉ……っ」
しばらく、快斗からの答えはなかった。黙ったままの彼を見上げているのはつらく、コナンは短く息を吐いて視線を逸らす。すると、濡れそぼった髪から落ちる雫が何度も目の中に入って、顔を伏せずにはいられない。うつむくと泣いてしまいそうなのだ。でも今は、何もかもがコナンの意志に逆らって動いている。
快斗もである。
目の前が急に陰になったと思ったら、彼がしゃがみこんでコナンを覗き込んでいるのだ。こんな顔を近くから見られたくはないというのに、目が合った途端、横にそむけることもできなくなる。
快斗は微笑んでいた。
「……何言ってんの?」
とてもやさしい声だった。
「俺、お前といると本当に楽しいよ?」
不覚にも、コナンは何だか感動してしまった。ちっとも飾りのない単純な言葉に、人の心を打つ力があるなんて信じられない。でも快斗の口から聞いたこれは、すごくやさしくて、すごく誠実だったのだ。
重苦しい感情で一杯だった心がすうっと軽くなった。ようやく普通に快斗を見ることができ、コナンはそっと溜め息をつく。
こちらの雰囲気の変化に、快斗も安心したようだった。笑った顔がいたずらっこのものになっている。
「……なんか、お前が相手だったら言えそうな気がする」
「……何の話だよ?」
「愛の話」
冗談そのものの目で快斗が笑う。はあ?、と意味がわからず呆けるコナンに、彼は器用にも、その瞬間だけ真剣になった。
「アイシテル」
沈黙。
お互いの目が、真っ向から相手を見返して。
直後、コナンは盛大に吹き出していた。快斗の言いようも真剣な顔も、おかしくて仕方なかった。快斗も同じように笑っている。今までの重苦しさはどこへやら。スコール並の景気の良い雨の中、腹を抱えて大爆笑だ。
「口ふやけるんじゃなかったのかよ!」
笑いながらコナンが文句を言うと、
「ふやけてるふやけてる、ふにゃふにゃよ?」
快斗の答えがまたツボなのだ。これはしばらく何を聞いても笑ってしまいそうだ。脇腹や頬の筋肉は痛むのに、意思とは関係なしに笑いはこみ上げる。
けれど、コナンが涙まで流してひぃひぃ言っていると、不意に快斗が近づいて、ちょん、と――まるで当然のことみたいに、唇に唇を押し当てた。
「な?」
うつむいた快斗が言う。
「ふにゃふにゃっしょ?」
そんな問題じゃない。驚きのあまり笑いも引っ込んだ。コナンは瞬きすら忘れて彼を見つめる。
その快斗はそっぽを向いたまま、長くこちらを向こうとしなかった。
帰り道、奇妙な沈黙はどこまでも続く。二人とも話すタイミングを失いっぱなしなのだ。話題をあれこれ考えながら信号待ちしていても、足に猫がじゃれついたり、その飼い主らしき浮浪者に謝られたりと、調子を狂わせるようなことばかりが起こる。
「カナ、カナ」
浮浪者が猫を呼んだ。
そう言えば、コナンたちはお互いの名前すらまともに呼んだことがない。今更どう呼べばいいのかなど、とても聞けないというのに。
やっぱりKIDと呼ぶのは困るだろうなあ、コナンは思う。コナンだって工藤新一の名で呼ばれたら困るのだから、お互い様ではあったけれど。
本当に何もかも調子外れな二人だった。
――恋をしていたことに、今更気付くなんて。
* *
日曜日も雨だった。
昨日濡れねずみで帰ってきたおかげで、蘭からは「一人で外出禁止令」が出ている。別に昨日だって一人だったわけではないけれど、どう説明したらいいのかわからなかったから黙っていた。ただ、コナンさえ出て行こうと思うのなら、毛利宅から抜け出すことは簡単だろう。蘭も小五郎も、今日は人のことなど構っていられないふうに、朝から慌しく動き回っているのだ。
蘭は園子と映画を見に行く予定だった。ついでに洋服を買いに行くとかで、帰りが遅くなるのだと言う。それで朝から夕食の支度なんかをしている。コナンは出前でも取れば良いと思うのだが、蘭は生真面目にも家事には決して手を抜かない。
一方、いつもは昼まで寝ているはずの小五郎が、どうして朝っぱらから動き回っているかと言えば、だ。以前に依頼のあった、猫山家へ招かれているのが今日なのである。
昨日、ちょうどコナンが快斗と会っていた頃、小五郎は、昔馴染みの刑事と会っていた。元同僚だったよしみもあって、その刑事が少しばかり骨を折ってくれたらしい。猫山秀次の件を取り扱っている部署から、ほんのわずかだが情報を回してもらったそうなのだ。
それによれば、失踪直後、秀次は何度か都内で目撃されているようだ。喫茶店、ビジネスホテル、コンビニ、公園、いくつか場所は上がっているが、全て猫山家付近である。憶測だが、もしかしたら秀次は何度か家に帰ったこともあったかもしれない。しかし、失踪から一ヶ月後、秀次の姿はぱったり見えなくなった。
だが、おもしろいのが、秀次の同級生の話だ。
秀次は自分の妻にベタ惚れだったのだ、と男は話した。そんな秀次が妻を捨てて失踪したのなら、よっぽどのことがあったに違いない。そう言えば、何か不思議な連中と酒を飲んでいたところを見たことがある。その連中は頭から爪先まで真っ黒な衣装を着ていた、と。
昔馴染みの刑事から聞いた話の中で、小五郎がくさいと睨んだのは、やっぱりその真っ黒な衣装の連中だった。
だから今日の猫山家訪問でも、小五郎はそれとなく秀次の交友関係について聞き込みをするつもりでいるらしい。いつになく捜査が順調に進んでいたから、小五郎の気合も入っているというわけだ。
蘭と小五郎がそれぞれの理由で身支度を整えている頃、コナンはと言えば、ぼうっとしているしかなかった。時々事務所の窓から表通りを眺めるけど、期待する人物が現れる気配はないのだ。自分から連絡しようにも連絡先がわからない。
向こうも、猫山家の問題は気にしているようだったから、ちょっとくらいなら教えてやってもいいと思ったのだけれど。
「コナンくん」
蘭に呼ばれてはっとする。見れば、彼女はすっかり準備を整え、外へ出る寸前であった。
「いい? 外へ出る時は誰かと一緒に、必ず傘を持って出掛けるのよ?」
「わかったよ、蘭ねぇちゃん」
良い子のお返事をすると、彼女は満足顔でうなずいた。そのまま、夕食の手順と火の元の注意を繰り返し、蘭はようやく部屋を出て行く。
そろそろ小五郎も用意が済みそうだ。もう一度窓から下を見下ろし、そこに誰もいないことを確認すると、コナンはくるりと振り返る。
「おじさん」
小五郎はネクタイを締めながらこちらを向いた。
「ボクも一緒に行っていい? 大人しくしてるから」
始めこそ小五郎はああだこうだうるさいけれど、そのうち諦めて一緒に連れていってくれることだろう。
一人でいるのはつまらない。それに、一人でいると余計に誰かのことばかりが気になるのだ。
アホ快斗。
ぽつり呟くコナン。
急に変なことするから、普通に会えないじゃんか。
猫山邸は、ちょうど米花町を見下ろす丘の上の一等地に、どっしりと構えられた洋館である。周囲は飾り格子でぐるりと取り囲まれ、邸内には石畳の小道が館に向かって延びていた。
その小道を、コナンは小五郎の後をついて歩いている。雨は相変わらず強くもなく弱くもなく、石畳を行くコナンの靴先を濡らしていた。
小五郎が少し改まったふうに咳払いをした。玄関だ。重そうな両開きの扉の片方は既に開かれており、分厚い絨毯の敷き詰められた贅沢な室内を覗かせていた。
「……呼び鈴はない、か」
小五郎が軽く溜め息をつく。しかし思い切りよく大声を張り上げようとしたその時、玄関脇の小部屋の戸が開き、家人らしき人物が顔を出した。
姿を見せたのは白髪の老人だ。長いチェーンのついた眼鏡をかけ、仕立ての良い黒のスーツを身にまとい、真っ直ぐに背を正したその老人は、突然の来訪者に驚く素振りもなく、笑顔で一礼する。
「当家に何か御用でしょうか?」
小五郎が慌てて自己紹介をした。すると老人は得心がいったように何度かうなずいた。
「毛利様でいらっしゃいますか、由香様から聞いております。本日は雨の中をご足労でございました。どうぞお入り下さい。いろいろ手順はおありでしょうが、まずはお茶でも召し上がって、お身体を温めてください」
慇懃極まりない。しかもこちらに有無を言わせない強引さだ。老人は、口を開こうとした小五郎を抑え、にこやかに笑って付け足した。
「由香様はしばらく戻られません。ですから、しばらくの間は私がお相手させていただくことになるかと思います。遅くなりましたが、私は松本と申しまして、この家の執事を務めているものです」
つまり、実質上、猫山の所有地を管理している人物である。コナンは由香の話を思い出し、なるほどと息をつく。どうやらつわものの老人らしい。
結局、あれよあれよと言う間に応接室に通された。本来なら早速聞き込みに回りたいところなのに、小五郎は紅茶のカップを持って、松本の世間話に付き合わされることになる。
昼食まで挟み、気付けばもう昼過ぎだ。とうとう痺れを切らしたコナンは、松本にトイレの場所を聞いて、いかにもそれらしく部屋を出た。なぜだかわからないが、松本は小五郎に家の詮索をされたくはないような気がしていた。そうでなければ、こんな時間まで引き止めることはないはずなのだ。
とりあえず、その辺りの部屋を見て回ることにした。扉はほとんどが開け放たれており、中に入らずともその部屋が何に使われているのかは区別がつくようになっている。
書斎、客室、食堂、テラス。ずいぶん歩いたが、使用人の姿はない。由香の話からいけば、少なくとも三人以上はいてもおかしくないはずなのだ。厨房も覗いてみた。それから二階に上がって、また客室がいくつか並ぶ。奥の数部屋は扉が閉まったままで、中がどうなっているのか確認できない。人の気配はないままだ。
コナンは廊下に立ち往生する。
一体何をすればいいのかわからなかった。大体が、依頼の内容も人探しである、思いっきり専門外だ。コナンが思いつくことといったら、聞き込みか、秀次の部屋を探るかであるが、別に殺人事件があったわけでもない家を勝手に捜索するのも気が引けた。
扉の閉じられた部屋に踏み込まないのも、そのためだ。話に聞く猫山夫人に会ってみたくないわけではなかったが、こちらもコナンが興味本位に立ち入る問題ではない。相手は心の病に陥っている、どうしても勝手が違う。
かといって、何もしないでいるのも苦痛だった。することがないと、頭はどうしても別のことに付きっ切りになるのだ。
別のこと――快斗のことに。
あっさり捕らわれそうになったので、焦って振り切った。コナンはまだ、自分のその感情を素直に受け入れたくはなかった。何より相手は自分と同性である。これを問題と思わずして何を問題にすればいいのか。
どこかで三時を告げる柱時計の音が鳴っていた。コナンは部屋の探索をあきらめ、とぼとぼと元の応接室へ戻っていく。
再び顔を合わせた松本は、迷いましたか、と、全てを見通した目で笑っていた。由香の姿は相変わらず見えない。小五郎もすっかり松本にほだされた様子で、今では仕事のことさえ忘れて麻雀談義に花を咲かせている。
この分では夜になっても捜査の進展はないに違いない。コナンがいっそ自分だけ先に帰ろうと考え始めた頃、待ちに待った由香がやっと姿を現した。
制服姿のところを見ると、クラブか何かで学校へ行っていたのかもしれない。彼女は帰ってくるなり、さっさと松本に退室を命じ、小五郎を促して立ち上がる。
「由香様……!」
慌てたように呼び止めた松本の姿が印象的だった。それにも構わず、由香は二階の奥へと足を進める。
そして扉の閉じられた部屋の前まで来ると、
「ここが父の部屋です」
コナンが開けることをためらった部屋の扉を、あっさり開いてみせたのだった。