快斗は猫山家の軒先に片膝を付くと深呼吸した。
もう陽は暮れてしまった。そうでなくとも、今夜は雨が降っていて視界が悪い。通りを横切る人間が快斗の姿を見咎めることもなければ、猫山に仕える使用人たちに見つかることもなさそうだった。
ふと邸宅を見上げれば、ここから見える範囲で明かりがついている窓は三つしかない。そのうちのひとつ、一階の端は使用人たちが使っている休憩所で、二階にある後の二つは、それぞれが、秀次の私室に由香の私室である。
猫山邸の内部なら、昨夜のうちに調べておいた。猫山夫人が眠っている部屋の位置もわかっている。
夫人の部屋は、秀次の私室と扉一枚でつながっている。快斗の予定では、秀次が失踪してしまった今、部屋は常に無人の状態であるはずだったから、そこを夫人の部屋への渡り道にしようと思っていたのだが……
さて、困った。皓々と明かりのついた秀次の部屋を眺め、快斗はしばらく途方に暮れる。
何しろ、正面から会いに行く口実がない。夫人の主治医になりすます手も考えたが、昨日の今日での付け焼刃はさすがに苦しい。同じ理由で、猫山の使用人になりすますわけにもいかなかった。執事の松本という人物が書いた日誌を拝読させてもらったのだが、使用人は五年も前から変わりがないようなのだ。どの使用人にしてもお互いのことは熟知している。つまりは、数日程度の知識しかない快斗が、姿だけを似せて飛び込もうものなら、すぐにも怪しまれること必至なのである。
だから困った。何とか秀次の部屋から人が出ていかないかと願っているが、当分はそんな気配もない。
どうも昨日あたりから運のない快斗だった。ケチのつき始めは、やはりコナンとのやりとりだろうか。
……いや。あれはあれで嬉しかったりもした。問題はその後だ。
キスを、した。
半分は衝動的なもので、半分は確かに快斗が望んだものだった。快斗はコナンを好きなのだ。とても。自分ではあまり気付いていなかったけれど。
けれどあれがきっかけで、何だか上手く話すことができなくなりそうなのだ。一緒にいるだけでひどく楽しかったのに、それすら息苦しくなるような、奇妙な緊張感が生まれつつある。あれほど安らいだ気分で対峙していたのが嘘みたいだ。昨日の帰りなんか、お互いの呼吸ひとつにどぎまぎして大変だった。
今ですら、思い出すだけで落ち着かなくなる。コナンのあんな目や顔を、値前に真っ向から見ることのできた自分が信じられないくらいだ。
こんな自分を戒めるためにも、今晩はここへ来たのだ。コナンのことを考えていると、自分がやらなければならないことを忘れてしまう。
パンドラを手に入れること。最優先事項はそれなのだから。
快斗は息をついて、もう一度邸宅を眺める。
秀次の部屋に変化はない。こうなってしまえば、快斗が選ぶことのできる道はひとつしかなかった。
怪盗KID。
快斗は慣れた動作で早変わりする。本当は二度とこの姿になることがないのではないかと思っていた。それでも機会ができれば、簡単に便乗してしまうのだから世話はない。KIDは自分で思っていたより深く快斗の一部だった。快斗にとってのKIDは、もはや泥棒するしないで語れる価値ではなかったのだ。
一度手放そうと決めて初めて気が付いた。KIDは、快斗の誇りだったのである。
白い衣装を身に着けた自分を見下ろし、苦笑いで溜め息をつく。
あんなに賭けの勝敗などどうでも良いと思っていたのに、どうすれば良いのだろう。盗一を裏切るなどもってのほかだ、勝たなければ、快斗は二度とKIDに扮することはできなくなる。
「……負けらんねーよなぁ……」
少しだけ笑った。瞼の奥で、ちらちらコナンの姿が見え隠れする。彼が気障な泥棒の存在を望んでくれない限り、快斗に勝ちはない。
今夜が終わったら、もう一度コナンに会いに行こうと思う。まだ父との賭けの話を彼に伝えていない。それを伝えた上で、快斗はコナンにKIDを応援してくれるよう頼むのだ。あの真っ直ぐで潔癖なコナンが、泥棒の応援なんかするわけないとわかっていても。
少し雨足が強くなったようだ。白い衣装に泥はねなど付けないためにも、このままここでじっと待っているわけにはいかない。
結局は秀治の部屋しかないのだ。明るい窓を仰ぎ、快斗は不敵に微笑む。
ところが、その窓の桟に、右腕に仕込んだロープを投げようとした瞬間、
「――だ、誰か!」
中から悲痛な叫び声が漏れた。
嫌な予感のする一瞬だった。快斗は早々にロープを投げ、手っ取り早く窓の鍵を壊して秀次の部屋へ侵入する。
部屋はもう無人だったが、たった今まで誰かがいた痕跡があちこちに残ったままだ。石の収集家だった秀次の持ち物である、トパーズの標本やら、水晶の結晶やらが、不規則に散乱していた。昨日は脇に退けられていた書類の山までもがばらされている。
「お、奥様!」
またしても悲鳴だ。多くの足音も聞こえる。隣の部屋に人が集まっている気配があった。しかし、そちらへ続いているはずの扉には、向こう側から新しく鍵が掛けられているようで、快斗が前もって用意していた鍵だけでは進むことができそうにない。廊下へ続く扉にしてもそうだ、いくら叩いてもびくともしない。
残る進入通路は、陸続きのテラスになっている窓だけだった。退路の確保が一番厳しいそこを、快斗はやむなく選択する。
こちらの窓から隣の窓を仰げば、異変はすぐさま目に飛び込んだ。擦りガラスが、内側から飛び散った赤い液体に濡れているのだ。
まさかとは思った。
「加奈子様!」
悲鳴交じりの声が、更に高く快斗の耳に響く。
それは猫山夫人の名なのだろうか。そう言えば、彼女の手首にはいくつももためらい傷らしきものが残っていた。
嫌な予感が現実になりそうだった。快斗はある程度覚悟を決めて、その窓の前に立つ。
窓には鍵がかかっていない。引けば、その扉は簡単に手前へ動くだろう。今も赤いものが伝うそれを、快斗はとうとう外から開く。
目に入った光景は、凄絶だ。
絨毯を色濃く染めた、おびただしい血溜まりの数。壁にもベッドにも、赤い染みは至るところに点在していた。
狂った女はちょうど快斗に背を向ける形でたたずんでいて、未だ剃刀を握って放さない。その両手首からは、止め処ない血液が滴り落ちているというのに。
「……加奈子さん?」
快斗はひっそりと呼びかけた。
どよとざわめいた戸口では、この家に仕える使用人たちがたむろしている。快斗はそちらを見たわけではなかったが、次に恐ろしく聞き知った声を耳にし、内心ぎくりとしたのは言うまでもない。
「……怪盗KID?」
大人の声とは明らかに違う高いトーンの声。
どうしてこんな時にと、後ろめたい思いで一杯になる。こんな姿をしてこんな場面に登場するなど、彼が猫山の情報を与えてくれた時の信用を考えれば、絶対に裏切りに違いないのだ。
快斗はそちらを見ることができなかった。自分の選んだ手段を間違いだとは思わなかったが、今はどうしても、コナンの真っ直ぐな瞳を見つめ返すことはできそうもない。
そっと息をつく。そうして改めて夫人に声をかけるのだ。
「加奈子さん……?」
ゆらりと、彼女は、まるで斜めに身体をかしがせるようにして振り返った。
暗い瞳には狂気が揺れている。頬に瞼に、その白い夜間着すらにも血の跡は滲んでいる。しかし彼女は、その姿をして微笑んだ。
「お待ちしてましたわ……」
加奈子には快斗がわかっていたのだろうか。それとも、そうやって声を掛ける見知らぬ相手なら、誰でも良かったのだろうか。
ふらふらと近づく彼女。まずは剃刀を取り上げなくてはと構えた快斗に対し、それを察したかのように充分な間合いを取った状態で、もう一度笑う。
「駄目ですわ……これは渡せませんの……」
剃刀の柄ではなく刃を握り締め、別の一方の手を快斗に差し出す。
「でも、これを……」
彼女は手の中から何かを零した。やはり血染めのそれは、小さな石付きの指輪らしい。
快斗がそれについて問う暇はなかった。夫人は、こちらの手に指輪が転がったのを少しだけ満足げに見つめ、幸せそうに溜め息をつく。
そして。
「――奥様!」
快斗はその瞬間の全てを見ていた。
ためらうことなく首筋に刃を当てた加奈子は、思い切りよく斜めに手を引く。直後、しゃっと、何かおかしな水音を立て、そこから大量の血液が噴き出した。血、血、血。どんなに美しい色だったものも、あっと言う間に紅に濡れていく。
KIDの白い衣装すらも――飛び散る飛沫は、快斗の頬にまで刻印を打ち付けた。
長く、誰も動くことはできなかった。
それでも、血の海の中に一歩踏み出した人物がいる。
「……返して」
由香だった。由香は、崩れ落ちた加奈子の身体を迂回し、燃えるような瞳でこちらを睨みつける。
「返してください、指輪を」
言葉なら理解できていた。ただ、手も足も呪縛にかかったように動くことができなかったのだ。快斗は目で見ることしかできなかった。由香が迫ってくるのを、茫然と眺めていることしかできなかった。
「――KID!」
咄嗟に叫んだコナンの声は、一体何のためだったのか。
けれど快斗の呪縛は解けた。由香の手をかすめ、開け放たれた窓からテラスを目指し、一気に階下へと飛び降りる。
雨が一斉に快斗めがけて降りしきった。血で汚れた頬が洗い流され、衣装の染みもどんどん薄れていく。
心臓は、今頃になって早鐘を打つのだ。
あの情景は何だったのだろう。混乱する頭で必死に考える。狂った女は幸せそうに自害した。由香は母親の死を悼むより先に指輪を望んだ。一体どうなっている。この指輪は何なのだ。
快斗は目立つ衣装を変えることすら思いつかないまま、突き当たった公園で立ち止まった。
雨が降っていた。そっと握り締めていた手をほどくと、その手の上で血染めだった指輪が洗われていく。
傷だらけの指輪だった。おそらく日常で使用していたものなのだろう、美術品としては価値がないにも等しいほどだ。プラチナのリングに直接石が嵌めこまれており、デザインは悪くはないが、その石も冴えない安価な宝石である。
色は若干くすんでいる。
けれど、間違うことなく ── 緑色なのだ。
それを確かめた快斗は、深く息をつかずにはいられなかった。
「……パンドラ、なのかよ」
確信を持った声が震えた。
* *
その夜、コナンはなかなか寝付くことができずにいた。何度となく起き出しては、事務所の窓から下を見下ろす。だが何度そうしても、思い描く人物がそこに現れることはなかった。
雨はいつまでも降り続く。この様子では、明日の月曜にも晴れることはない。
コナンはその雨を見上げ、猫山家での事件を思った。
猫山夫人の自殺には、不審な箇所がいくつもある。普段から付き添いの人間があるはずだった部屋で、どうして突然彼女は一人きりになったのか。あの剃刀は――夫人が何度も自殺未遂を謀っていたにも関わらず、どうして手の届く場所にあったのか。
何よりも、由香である。母の死よりも、少女は指輪に執着を示した。あれは一体何だったのだ。
そして快斗は――
「……KIDに、戻るのかよ?」
彼は結果として指輪を盗んだのだ。幸か不幸か、あれをきっかけに、由香の小五郎への依頼内容が一変した。
「指輪を取り戻してください」
少女は明確に告げたのだ。執事の松本にも何も言わせなかった。小五郎もまたうなずくしかなかった。あの場を支配していたのは、由香だった。コナンが不審だと思った事柄も、狂気じみた惨劇の結末も、あの少女は全てを握りつぶしたのである。
何だか無性に快斗に会いたかった。答えの出ない問いを繰り返しながら、コナンは朝方まで事務所から外を眺めていた。
コナンはまだ知らない。
月曜から学校に来る予定の教育実習生が、快斗と同じ名前をしている事実を。