恐ろしく平坦で取り留めのない一週間だった。
梅雨もすっかり本番で、来る日も来る日も重々しいくらい曇った空から雨粒が落ちてくる。湿気で息苦しい七日間である。コナンは機械じかけで動く人形のように過ごした。いつが朝でいつが夜なのか、学校に行っていなければ、そんな当たり前のことすら抜け落ちそうに陰鬱な毎日だった。
ただ、どれだけ機械的に過ごしていても、日常には平等に小さな変化が訪れる。
月曜日、コナンのクラスへW大からの教育実習生がやってくる。色白でひょろっと背が高く、眼鏡をかけ、いかにも文系の学生ですと言わんばかりに温厚そうな男だ。顔立ちはどちらかと言えば女性的で、依然に歩美たちが騒いでいたことを思えば、まぁそこそこに綺麗な顔と表現せざるおえないだろう。しかし、コナンを心底驚かせたのは、その教育実習生の名前である。
クロバカイト――九路場海人と言うのだ、彼は。
初めて聞いた時は、思わず疑わずにはいられなかった。だって、そんなに良くある名前ではないではないか。その名前と同時にコナンが思い描いた人物が、白昼堂々現れたのではないかとすら思った。もちろん、初対面の当人に素性の確認はしたけれど、なかなか九路場の潔白を信じることはできなかった。
それでもしばらく経てば、彼が別人だということは思い知った。大体ちょっと考えてみればわかることなのだ。いくらその人物が変装の名人で、完璧にコナンの目を欺けたとしても、所詮は高校生である。小学生みたいに四六時中生徒と一緒にいなければならない場所に、一ヶ月も在籍できるわけがない。
憂鬱きわまりなかった七日間の初日は、そんなふうに始まった。だが九路場が別人であることを認識してからも、コナンは彼を通してもう一人の人物を見つめずにはいられなかった。
九路場という男は、見れば見るほど凡庸な男だった。もしも「彼」だったらどんなだろうと思うと、九路場が要領を得ず些細な失敗をするたび、何もかもが飛び出て滑稽に映った。
「彼」だったら――間違っても子供相手に緊張することはないし、あっと言う間に誰もの心を掴んでしまうことだろう。時には王様のように尊大に振舞って、無邪気に笑いもしたかもしれない。
臆病で世間擦れのない九路場は、あまりにも「彼」と違いすぎて、却って「彼」を思い出させる。しかも、コナンが学校から自宅へ帰ってみれば、常では絶対に考えられないほど仕事熱心に変貌した小五郎が、探偵事務所の机で資料を漁っていたりもした。ところ狭しと机一杯に広げられた雑誌の切り抜きその他は、その全てがある怪盗についてのものなのだ。
朝から晩まで。もっと言えば、朝目が覚めて夜深く眠りにつくまで、来る日も来る日も、コナンはたった一人のその人物を思わずにはいられなかった。自分では決して意識しているつもりはないのに、目に入るものや耳に入るもの全部が「彼」を思い出させようと働きかけているかのようだった。
そうして鬱ばかりの七日間が過ぎてやっと、明朝雨が上がりそうだという予報を聞いた夕刻、毛利探偵事務所には一枚の葉書が届いた。
宛名は工藤新一になっている。便宜上の問題で工藤宅から毛利宅へと転送された、郵便物のひとつである。
外国暮らしの長い父や母宛てのダイレクトメールの中、その葉書は異様に目立った。何しろ差出人が黒羽快斗だ。蘭なんかは先日の来訪のせいもあって、彼の名に過敏になっているというのに、当の本人は堂々本名でコナンと連絡を取ろうとしたわけだ。
その葉書を見つけた瞬間のコナンは、自分でも後悔するくらい動揺した。一体どんな有様だったかというと、蘭が気付いて手にするより早く、郵便の束からひったくって葉書を裏返したほどであった。
脇で彼女が呆気にとられているのにも構わず、コナンは素早く文面に目を通した。つらつら挨拶のようなものが書かれたあと、できれば近々会いたいとある。文末には彼の自宅とおぼしき住所と、携帯電話らしい番号も明記されてあった。
おそらく快斗は、わざと葉書を選んだのだろう。一度蘭や小五郎に「工藤新一の友人」という形で出会ってしまった手前、彼は気軽にコナンを待ち伏せすることができなくなってしまったのだ。同じ理由で電話もためらわれた。かと言ってコナンの方は快斗の居所など知らない。だから蘭たちに不自然とは思われない、新一宛の郵便という形で接触をはかろうとした。見ただけで何が書いてあるかわかるよう、最も目に触れやすい葉書にして。
そんな彼の心情を察したからこそ、コナンはその晩、早速快斗に連絡をとることを決めたのだった。
ところが簡単に電話と言うけれど、プッシュホンを押して呼び出し音を聞く、たったそれだけにあれほど時間がかかったのは、最初で最後ではなかっただろうか。何しろ家人にそうしているところを見られたくなかったので、コナンは細心の注意を払って雲隠れをし、事務所の机の下に潜り込み、ねずみみたいに小さくなりながら受話器を握り締めた。
果たして、快斗は拍子抜けするほどあっさり捕まった。ただ場所がどこかの駅構内だったみたいだ。聞こえてくるのは彼の応答よりも放送や雑踏である。それでも快斗はこちらの声を聞き分け、近くの公園で待っているからと早口に告げた。
彼との待ち合わせで時間を決め損ねたことに気付いたのは、電話を切ったあとだ。仕方なく阿笠に頼んで口裏を合わせてもらい、コナンが蘭を納得させて家を出た頃には、それから結局二時間も経っていた。
湿気が絡みつく夜だった。
土臭い雨の匂いがアスファルトから立ち上る。月も星も見えない赤茶色をした夜に、水銀灯の光で照らされた舗道が白々と浮き上がっていた。
自分の足音に追いかけられるようにして、コナンはひたすら走っている。家を出てから一度も足を緩めてはいないものだから、呼吸は喉を通る傍から火のように熱く、苦しくて仕方なかった。
時刻は午後十一時を回った。どこかで犬が吠える以外は、これといって物音のない住宅街。通りに面した一戸建ての中には、既にポーチの明かりを消してしまっている家すらある。一般的な常識ではもう深夜だった。
快斗が待ち合わせ場所に指定した公園は、人が少ない代わりに、夜になると浮浪者がテントをはっているという噂を聞く。だから昼間でもあまり子供が寄り付かないらしい、とも。
そんな場所に彼は今一人でいる。
快斗を思うと胸の内側がひずむようだ。意気さえ上手く吐き出せなくなって、歩き方や瞬きの仕方とか、普段意識なくできるはずの動作を片っ端から忘れてしまうのが常だった。
もちろん最初はこうじゃなかった。だから快斗と合わなかった七日間、コナンは何度も元の自分に戻るよう努力をしたのだ。だってどこにいてもどんな時でも彼を探してしまう。教育実習生の九路場を必要以上に疑ったのも、結局は彼に会いたかったからに違いない。
会って――何でもいいから話をしたいと思った。声が聞きたかった。快斗がずっと探していたというパンドラのことや、つい最近猫山家で起こった騒動のこと、快斗がKIDに戻るのかどうか。混乱の中心に立っているのは、まぎれもなく快斗である。今やその混乱は巨大な竜巻さながらに目まぐるしく展開を続け、中央に立つ彼がこちらへ姿を示すか、手を差し出すかしない限り、己の居場所さえ見失ってしまいそうなのだ。
コナンは快斗の敵だったのか。味方だったのか。
快斗はコナンを騙したのか。誠実だったのか。
この七日間、ただそれだけを考えに考えすぎて、真実を見抜くこともできなくなった。いつも冷静であれと願った自分も、あまりの混乱に消え失せた。
そうして、ただ快斗に会うためだけの理由を、ひとつでも多く探している。最初から、コナンには彼に会って確かめるべきことが山ほどあったはずだから。
そう、確かめなければならないから――たとえ敵でも、騙されていたとしても。
今晩だけは、快斗に会ってもいいのだ。
やっとの思いで最後のアスファルトを蹴ると、公園のフェンスにたどり着く。錆びて変色したそれを支えに、しばらく呼吸を整えた。
心臓が破裂しそうな勢いで鼓動した。いくら大きく息を吐き出し、跳ねる肩が落ち着いた後も、鼓動の強さだけは変わらない。
どこからか車のブレーキ音が聞こえる。それから酔っ払いの笑い声。どちらも目には見えない、この町のどこかで生まれている音だ。瞼の端でちらちら赤い点滅を繰り返す信号機がうるさかった。コナンはすぅっと一度大きく酸素を吸い込んで、改めて公園を眺める。
水銀灯はあるのに、なぜか薄暗い風景である。固そうな砂場、薄汚れたジャングルジム、別に風に吹かれたわけじゃないだろうに散乱した紙屑、カップ麺の器、溢れそうなゴミ箱、故障中の貼り紙のある自動販売機。木陰を注視してみれば、噂どおりにいくつかテントのようなものが隠れていた。ブランコなんかはすっかり鎖を巻き上げられているし、ここから見る限り、この公園が公園として機能しているかどうかも怪しい。
けれど、そんな公園の中央で、ぽつんと突っ立っている人影がある。
明かりから離れるようにして、まるで人形みたいにじっとしている。影の形から横を向いているのはわかるのだが、表情は全くはっきりしない。空を見上げるでもなく、うつむくでもなく。どこを見ているのだろうと想像してみたら、その人物が顔を向けている方向には、公園の入口があったことを思い出した。
気付いた途端、何だかたまらなくなった。思いのままに名前を呼ぼうとして、コナンは二度胸が痛くなる。
KIDとは呼べない。黒羽は、九路場に重なる。ならば快斗と呼べばいいのだろうか。敵かもしれないのに?
騙されているかもしれないのに?
親しげに、良く知っている友人のように?
瞬間、ひどく迷った。だが結果としては、その逡巡もほんの一瞬に満たなかった。錆びたフェンスを握り締めていることの自覚もなく、回り道をして公園の正面に向かう余裕もなく、コナンが次に選んだ行動はと言えば、拘りやプライドを捨て、その名前を呼ぶことである。
「――快斗っ」
暗闇の中の彼が弾かれたように振り返った。即座にこちらへと走り出す。
ガシャン、間もなくフェンスに突き当たった彼の手は、静かな公園に不似合いな音を響かせた。コナンが戸惑って見上げると、路頭に迷った子供の顔をした男が、ぎこちない笑顔だか泣き顔だかを作る瞬間である。
「……なんて顔してんだよ……?」
思わず問うのに、かすかに震えた彼の唇からは声の漏れる気配もない。それどころかものも言わぬまま、錆で服を汚すのも構わず、高さ三メートル近いフェンスをよじ登り始める始末である。
「お前、出口はあっち……っ!」
コナンの声なんか聞いちゃいないのだ。あっと言う間に頂上に達した男は、身の軽さを証明するようにそこから派手に飛び降りた。
そしてすぐさまコナンを抱きしめている。いや、表現としては、しがみつくが一番正しかったかもしれない。背骨に食い込みそうな強さの腕は、相手が子供であることなど覚えてはいまい。
当然、いくらでも「痛い」と抗議できたのだ。でもコナンはそうしなかった。不意に耳にした呟きが、思ってもみないほど切実だったからだ。
「……このまま朝がきたらどうしようかと思った」
快斗の髪が少しだけ湿っていて、頬に冷たかった。衣服にも雨の匂いが残っている。コナンはぎゅっと目をつぶった。いつからここにいたのだと、霧雨のぱらついた空を憎く思う。
「電話かけたのこっちだぞ……?」
言うと、そうだった、と、小さく笑う気配。
「けど……来ないんじゃないかって思ったんだ」
とても快斗のものだとは思えない弱さなのだ。
「良く言うじゃん? 日ごろの行いが悪いからさぁ……肝心な時に神さまが意地悪するんじゃねーかって……」
何だか聞いていられずに、コナンは乱暴に彼の背中を拳で叩く。快斗が低く笑った。
「……そんなアナタが大好きヨ」
「アホらし」
ぎこちない冗談を容赦なく切って捨てながら、快斗がいつもの彼を取り戻すのを待った。密かに尊敬を覚えた相手の弱い部分など見ても、自分も揃って弱くなるのがおちである。例えば一緒になって泣いたって、それで相手が救われないなら無駄ではないか。
「苦しいって。幼児虐待法違反で訴えるぞ」
わざと軽口を叩けば、くくっと含み笑いをする声。
「幼児が聞いて呆れるってさ、工藤くん」
かちんときた。快斗が調子を取り戻し始めると、こうやってろくなことは言わない。
「工藤くんって言うな」
「じゃ何? 俺はお前を何て呼べばいい? 江戸川コナンの名前で呼ぶの? ちっとも子供だと思ってねーのに?」
「江戸川コナンと工藤新一は同義語なんだよっ!」
「ほー、そりゃハツミミ」
更にかちんときて、反発を叫ぼうとしたその時だ。快斗が不意に顔を上げ、いつもの不敵な瞳で笑ってみせる。
「いっちばん仲良さそうな呼び方がいい」
どんなだよ!、コナンが突っ込みを入れるより先に、彼はあっさりのたまうのだ。
「――新ちゃん?」
それは母親の呼び方だ。知っているのかいないのか、快斗は上機嫌で連呼する。もちろんコナンがそんな攻撃に長く耐えられるわけがない。しかし悲しいかな、耳を押さえてもハートマーク付きの声は確実に聞こえてくる。
焦ってわぁわぁ大声を出したら、ひどく楽しげな悪党は、見越していた素早さでコナンの口元をガードした。
「さわぐんじゃねーよ、新一」
つい口をつぐんでしまうではないか。
快斗は極自然にコナンを新一と呼んだ。それについてのコナンの言い分など、最初から聞くつもりなどなかったのだろう。
「平気。傍にい誰かいる時は、ちゃんともうひとつの名前で呼ぶから」
そんなことをうそぶいて手を放す。ひょいと立ち上がった彼の目は、もうコナンではないどこかを見ている。
彼の横顔の向こうには、相変わらずの曇った夜空が広がっていた。視界の端にある、赤く点滅を繰り返す信号機が目にうるさい。
ふと溜め息が出た。
相手の弱さは見たくない。でも強さは――いつもお互いを冷酷に正気づける。
これじゃ甘い恋など夢のまた夢だ。
「……パンドラ」
コナンが先にこぼした。聞こえていただろうに、快斗はこちらを見ない。多分すぐにその話題になることを気付いていたのだろう。それでもしばらくすると、諦めた様子で淡く笑った。
「……ダメじゃん、俺ら。色気なさすぎ」
全くだ。さすがのコナンも苦笑するしかなかった。