久しぶりの太陽は、しつこく残った湿り気全てを蒸発させる勢いだ。青く輝く空の下、砂地のグラウンドを沸騰しそうな熱気が敷き詰めている。じりじり焦げる地面からは、砂混じりのもやが立ち上る。思わず熱の源である上空を振り仰げば、瞼の中ですら光で焼かれる気がした。つい先日までは確かに梅雨だった天空は、今やしっかり夏なのだ。
江戸川コナンは気だるい溜め息をついた。こんなかんかん照りの日に、外でドッジボールをしようなどという子供の心情はどうしても理解できない。おかげで自分まで道連れの日光浴だ。今は腰を下ろしているからまだ良いけれど、さっきまでは飛んでくるボールから逃げ回り走り回って、本気で光に溺れそうだった。
しかしつくづく元気な輩である。今も目の前ではしゃぎ回るクラスメイトたちには感服せずにはいられない。中でも歩美と元太と光彦はひときわ目立った。この昼の日中のドッジボールは彼らの発案だったのだから、当然のことなのかもしれないが。
ふと、隣で自分と同じような溜め息を聞いた。灰原哀である。
「良くやる……」
彼女もコナンと同じ感慨を抱いてクラスメイトたちを眺めていたらしい。ただ口元はわずかに綻んでいたし、視線も常とは違うやさしい雰囲気だ。その表情を見れば、言葉ほど軽んじているわけではないことがわかる。彼女はコナンと同じように薬によって子供になったとはいえ、それに満足した素振りを時折見せた。
唐突に歓声が上がった。見れば、子供に混じって遊んでいた教育実習生がコートの外へ出てくるところだ。
色白でひょろりと背の高い男が、地面に座り込んだ生徒に笑いかけながらやって来る。コナンや哀も含め、その場には十人ほどいたのだが、彼は特に気にしたふうもなく空いたスペースに腰を下ろした。コナンの左隣、哀ともう一人を挟んだ場所だ。
男を何となく目で追ってしまって、気付いたコナンはすぐに目を逸らす。九路場海人は近くの子供たちと普通に談笑を始めていた。
「……珍しいわね」
不意に哀が言った。何だか言葉の調子がからかうようだったので返事はしなかったのだが、彼女はさっさと続きを口にする。
「こいつが苦手ですって顔に書いてあるわよ。そういうの表に出すなんて、らしくもない」
妙に冷静な声なのだ。もっとあからさまにからかってくれたら、はぐらかすこともできるのだろうが、静かに諭されるとそうもいかない。哀のこんなところが苦手だった。勘が良すぎて、ちょっとでも隙を見せると思わぬ急所を暴かれることになる。
コナンは渋面を作って哀に向き直る。哀は笑ってはいなかったが、おもしろがってはいるふうだった。
「……それについては俺も困ってる。けど、そのうち何とかなるとも思う」
どうにか答えてみたものの、コナンの曖昧な意見はかえって彼女の興味を引いたらしい。
「あの教育実習生との初対面の時も変だったわ」
重ねて指摘され、ますます旗色は悪くなった。
少し前に初めて教室に来た九路場。コナンは、教室でたどたどしい自己紹介を終えたばかりの彼に、先生の名前は本名ですかと、尋常ではない質問を繰り出してしまった。
さすがに失敗したと今は思う。あれ以来、自分ばかりでなく九路場の方も、こちらを苦手としているようだった。目が合って逸らすのはコナンの方が早かったが、逸らされる側の心境だって複雑に違いない。とりあえず一般レベルまで修復しようにも、コナンは元々自分から他人に歩み寄る方ではなかったし、九路場は九路場で、初めて持つ生徒に対し恐ろしく臆病だったのだ。一度不自然になった対応は果てなくまずくなる一方で、正直なところかなりまいっていた。
何がいけないって、やっぱりお互いに無視できないというのが一番いけなかった。一応教育者の立場の九路場と、名前に踊らされっぱなしのコナンだ。情けないとは思うのに、しかしこれがなかなか重症だった。気にするなど自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、気になるという悪循環である。
思いのままコナンの目は九路場を追った。それは、相も変わらず、こちらを向いた彼が視線に気付いた途端、あっさり逸らされてしまうものであった。
「それっていじめよ?」
哀がしれっとこぼす。クソ、と内心毒づきながらも、彼女に反目する言葉はなかった。
九路場との初コミュニケーシュンに成功したのは、その晴れた日の放課後だ。ちょうどコナンは日直で、書き上げたばかりの日誌を手に職員室を目指していた。
授業ごとの号令とか、朝礼と終礼での司会とか、かったるくて面倒な仕事もこれでやっと終わりだと思えば、自然と足も早くなる。それでも途中で寄り道する気になったのは、不意に一人っきりが心地よく思えたせいだろう。
以前からそうなのだが、コナンは集団生活が苦手だ。小学校の段階では、他人と違うからといって弾き出されることも少ないが、学年が上になればなるほどそういった傾向は強くなる。集団の中では個性などない方がいい。無理にでも凡庸なふりをしておかないと、時々ひどく傷つけられるものだ。
だから学校で一人になると、不思議な開放感を感じるのが常だった。普通にしていたって、今のコナンには「子供らしく」という演技が必要である。それを考えれば、一息つくための時間を作ろうとするのも、ある意味自己防衛にあたるのかもしれない。
とりあえず理科教室の廊下まで歩くことにした。そこを出発点に、廊下のガラス棚に化石の標本が展示されていたからだ。
化石とか恐竜とか鉱物とか、そんなものは単純に好きだ。コナンをわくわくさせるような謎はないけれど、計り知れない時の流れには憧れた。とはいえ、相手は小学生用の展示物だ。ガラスの中に細々と並んでいるのは、小さな木の葉の化石や、鮫の歯の化石、動物の糞の化石など、何とも微笑ましいものばかりである。
それでもコナンは、日誌を片手にゆっくり覗いて回る。校舎のあちこちからは大声で笑い騒ぐ子供たちの声が聞こえてくるというのに、目の前の動かない生命たちのおかげで、自分の周りだけ時間が遅く流れているようだった。
そんなふうにすっかり化石に夢中でいたから、背中が無防備だったのだ。
いつからそうであったか知らないが、コナンの後ろを九路場海人が歩いていた。コナンが歩けば彼も歩くし、立ち止まれば同じく立ち止まる。歩幅は向こうが圧倒的に大きいのに、どれだけ歩いても決して追い越されることがない。
気付いていないふりもすぐに限界が来た。迷った末、コナンは仕方なく彼を振り返る。
視線が合うと、九路場は小さく微笑んだ。人当たりの良い眼鏡顔のせいで、彼のそれはとても穏やかな表情に見える。成人した男のわりに細く薄い体躯には、白いカッターシャツが良く似合っていた。
九路場はどこか人間臭さに欠落したところがあって、しばしば目のやり場に困らされた。清潔すぎるとは、数日間同じ教室にいてコナンが受けた印象だ。平凡そのものみたいに振舞うくせ、異質な何かが彼にはある。聖人君子さながらの近寄りがたさとでも言えばいいのか、妙に浮世離れして見えるのだ。
九路場のそんなところが見えるようになってから、コナンは彼を快斗かもしれないと疑うことをやめた。快斗だったら、もっと人間臭い表情をするに決まっている。
それに――余談だが、先日九路場の在籍する大学に問い合わせてもみたのだ。学校側の対応を考慮する限り、九路場海人は確かに存在する学生らしかった。
「……こういうのが好きなんですか?」
コナンが何を考えているのか全く気付いていない様子で、九路場はおずおずと話しかけてくる。
「あの……あのね、僕も好きなんですよ。その、家には鉱物の標本とかも持っていてね……?」
たどたどしい言葉だった。聞いているだけで、彼がコナンとコミュニケーションを取ろうと一生懸命になっていることがわかる。
何か相槌でも打ってやったら良かったのかもしれないが、コナンは何となく無言のまま彼を見上げていた。相手がこんなに必死なのだからしゃべってやっても良かったのだろうに、どうしても反応は遅れがちになる。
「江戸川くんは……あの、歩美ちゃんから聞いたんだけれど、とれも頭が良いんだってね? 算数も、国語も、理科も、社会も、体育だってすごいって、君のこととても良く教えてくれたんだ。それでね、あの……できれば今度は君の口から君のことを聞いてみたいのだけれど……えーと、そういうのはどう思うかな……?」
今度ばかりはコナンも、無言で通すことに気が咎めた。さすがに視線は逸らしてしまったが、初めて会話らしきものに臨もうと息を吸う。
「……最近は……宝石とかの本を読んだけど」
言った途端、九路場の雰囲気が劇的に変化する。見なくてもわかるくらい、らんらんと輝いた目が嬉しさを爆発させている。
「そうなんですか! 宝石は鉱物の一種です。良かったら僕の話も聞いてみてください。もちろん今じゃなくても、いつでも大歓迎です。江戸川くんならきっと良い話し相手になってくれるでしょう?」
弾んだ声で一気に捲し上げた九路場は、ふと思いついたように手を打った。
「そうだ、これっ! これ見て下さい、江戸川くん」
間をおかずに彼が取り出したのは、白いベルベットの小さな袋である。まるでお守り袋のようだと思っていたら、案の定、彼はその通りの説明をした。
「僕は昔っから石が好きでね、中でもこの石だけは肌身離さずいつも持ち歩いてるんです」
そう言って手の上に乗せたのは、小さな岩石に鎮座している、黄褐色の水晶みたいな結晶体だ。おそらく、結晶の部分を綺麗に取り出して研磨したら、半透明の美しい宝石になるのだろう。
ようく見てごらん、九路場は結晶の名も告げぬまま、コナンにそれを手渡す。言われた通り、横にしたり斜めにしたりして石を観察していると、不意にある角度で見た時だけ、結晶の欠けたようになっている断面に、縦縞の光が入ることに気がついた。
「キャッツ・アイ?」
思わず言うと、九路場がひどく楽しげにうなずいた。
「当たりです。本当に物知りなんですね、江戸川くんは。それは偶然結晶の断面が半円形に盛り上がって、研磨しないままでキャッツアイ効果が出ている、珍しいものなのです。元々のこの褐色の結晶体の名前は、クリソベリルと言うのですよ」
「え……っ、クリソベリルって……」
覚え違いでなければ、それは快斗がパンドラかもしれないと言っていた石ではなかっただろうか。しかし、それにはアレキサンドライトという別名がついていたし、何より光の種類によって変色する石だったはずだ。
自分の記憶を確かめようと、コナンは、手で影を作ったり光に透かしてみたりしたけれど、九路場がクリソベリルと言ったその石は、一向に変色する気配がない。一瞬九路場の話を疑ってしまったのだが、こちらの様子に気付いた彼の次の言葉で、誤解はあっさり解けることになる。
「もしかして……アレキサンドライトかどうか確かめてる? だったら、それは違うんです。同じクリソベリルという鉱物学上の名前ではあるんですけど、キャッツ・アイとアレキサンドライトは違う宝石なんですよ」
「そう……なんですか。どっちも変わった石ですね」
言うと、九路場は無邪気に笑った。
「でもおもしろいでしょう? 僕がどうしてキャッツ・アイを持ち歩いているかというと、古来から、東洋では、この石に魔除けの力があると信じられていたからなんです」
「魔除け……」
「ええ。たとえ気休めでも、この断面の猫の目を見れば、やっぱり神秘的な感じがするんです。人が意図して作ったものではなく、自然がそうあるべくして作ったと思えば、尚更侮れませんよ」
石のことについて語る九路場は、まるで大きな子供のようだった。眼鏡の奥の瞳は、小さな星を埋め込んだみたいに活き活きとしている。
ただ、コナンはそれでも素直に彼を受け入れることができなかった。彼が最後に口にした言葉が、妙に感に触ったせいである。
「石には命がある。僕は、その美しい命を集めるのが大好きです」
何か、ひどく傲慢な表現だと感じたのは、単に九路場を快く思っていなかったことが原因だったのだろうか。
九路場に捕まったおかげで、教室に戻るのがずいぶん遅くなった。いつも一緒に帰っていた元太たちの姿がないことは覚悟していたのだが、どういう理由か、灰原哀だけはコナンを待っていたらしい。コナンが教室に足を踏み入れると読みかけの本を閉じ、席を立ってこちらの荷物の整理を促した。
教室に残っているのは、既に哀一人である。ランドセルがいくつか放り出されていることを考えると、他に居残ったクラスメイトはグラウンドで遊ぶか何かをして時間をつぶしているのだろう。人のいなくなった教室は本当にがらんとしたもので、日陰になった教卓の辺りが妙にもの寂しい。
「――いつまで?」
哀の問いかけは突然だった。バッグを肩に持ちながらそちらを向くと、彼女は戸口のところで所在なさげにうつむいている。
「……何が?」
「いつまで毛利さんのところに帰らないつもり?」
コナンは答えない。そのまま二人で教室を出て、昇降口へ向かう。
「阿笠博士も心配してたわ。いつまで蘭さんに嘘つけばいいのかって」
コナンは月曜から――正確には、快斗と再会した夜から、阿笠邸に宿泊していることになっている。実際のところは、その隣の自宅で寝起きしていて、阿笠の世話にはなっていない。
「……調べたいことがあるから」
靴を履きながらおざなりな返事をすると、哀はほとんど感情を覗かせない顔を、わずかにしかめて溜め息をついた。
「知ってるでしょ? 工藤家は危険よ。監視されてるかもしれない」
「大丈夫、一通り調べて使ってる。地下の貯蔵庫なら外からも見えないし」
そうまでして一体何をしているのかと、哀の目はそう言いたげだった。コナンは彼女の疑問に気付かないふりで、今思いついたみたいに、最初から尋ねる予定だったそれを口にする。
「ところで、パンドラって聞いたことないか?」
「……ギリシャ神話の?」
「いや、宝石の名前だと思うんだけど」
「知らないわ。有名な石?」
哀は小さく首をかしげ、こちらの情報を待っている。この様子では本当にパンドラという名前に覚えはないらしい。もっと説明しても構わなかったが、快斗の言う組織と哀のいた組織が同じだという保証もないので、そのまま口をつぐむことにした。
黙り込んだコナンをどう思ったのか知らないが、哀は話の続きを尋ねることはしなかった。代わりに、コナンと同じく沈黙したままゆっくり歩く。
夕焼けにはまだ早い、ベージュ色をした空が頭上に広がっていた。正門を出て帰路へつくと、ちょうど太陽に背を向ける形になり、足元の影がぐんと伸びる。二人は影に連れられるように黙々と歩いた。特に気まずかったわけではない。多分お互いに違う考え事をしていたから、話しかける余裕がなかったのだ。
コナンの考え事は、当然黒羽快斗のことであった。心の端では、今日もコンビニ弁当かとか、たわいもないことも考えていたけれど、とにかく全部に快斗が関係していた。
快斗は今、工藤邸に居候している。自宅に帰らない理由を訊いても、はっきりしたことは教えてくれない。彼の様子から察するところ、どうやらパンドラに関する問題が自宅で起こってしまったようだ。学校だって登校しているか怪しいところである。快斗は昨日もコナンより早く帰宅していた。昼間には、猫山家付近をうろついたとも言っている。
あの夜、快斗は猫山秀次を探さなければと話していた。
猫山加奈子が手渡した指輪の石がパンドラだったとして、秀次がどうやってそれを手に入れたのかが謎だ。噂によれば、パンドラはビッグジュエルのひとつであるはずで、不老不死の力を秘めてもいるはずである。ところが実際は恐ろしくみすぼらしい有様で、細い指輪の地金に埋め込んでしまえるほど小さな石なのだ。これに不老不死の力があるなどとは信じられないし、美術品としての価値も低い。
また、どうして加奈子が赤の他人である快斗に指輪を渡したのかも気にかかる。夫人が自殺を図った時の由香の様子では、指輪を欲する者は夫人の極身近にいたに違いない。それなのに、なぜ――実の娘ではなく、赤の他人を選んだのか。
そして、由香の動向も不審極まりないのだ。加奈子の自害後、由香はあっさり秀次の捜索を切り上げた。代わって小五郎に依頼されたのは、指輪の奪還であった。
あの指輪は、元々秀次が加奈子に贈ったものだと聞く。全ての鍵は秀次が握っている、快斗はそう睨んだのだろう。コナンにも彼の考えは理解できる。秀次の話を聞くことができれば、きっと猫山家の騒動の全貌も掴めるはずだ。
猫山加奈子は、多分自殺を"させられた"。
猫山家執事の松本が言っていたのだ。加奈子は以前から何度か自殺未遂を謀っていたので、決して一人にしないようにしていた、と。皮膚を破りそうな刃物や棒の類も絶対に手で持たせはしなかった、と。
彼女があの時剃刀を持っていたということは、誰かが故意に、または過失で自殺を促したということになりはしないか。故意だった場合、加害者の動機はどんなものだったのか。
秀次の失踪、加奈子の死、由香の動向、指輪の価値、いずれにせよ、これらの謎は互いに重なり合って存在しているに違いなかった。快斗が取っ掛かりとして選んだのは、つまり秀次の失踪だったわけだ。
つらつら考え事をしていたコナンは、哀と並んで歩いていたことすらすっかり忘れていた。途中で思い出したのは、一重に哀が呼びかけてくれたせいで、そうでなければ自宅に着くまで気付かなかったに違いない。
そんなふうだったから、哀の声を聞いた時は全く驚いた。我に返ったというよりも、現実に引き戻されたという感じだった。
「……どうしたの?」
鳩が豆鉄砲を食らった表情のコナンを見て、哀も驚いていた。慌てて言葉を濁したら、彼女は何とも言えない溜め息をつく。
「江戸川くん、あなた――」
哀の言葉を最後まで聞くことはできなかった。なぜなら、彼女の向こうに猫山由香の姿を見つけたからだ。
「悪いっ、先に帰ってくれ!」
身体は即座に動いた。哀を押しのけ、路地裏へと入っていく由香を追う。
あちらの方角は、探偵事務所も駅もバス停もない。あるのは一方通行の私道だけ。脳がもの凄い勢いで活発になっていくのがわかる。由香のする動作、視線の行方などが、コナンの中にどんどん記憶されていった。
まるで鉄砲玉のように飛び出していったコナンを、表通りに取り残された哀は静かに見送った。彼女の顔には常と同じく感情らしき揺らぎはなかったが、その瞳は小さく眇められ、何とも苦しげな色を滲ませている。
「……最近のあなた、すごく危なかったしいのよ……」
彼女の声は、誰の耳に届くことなく掻き消えた。
由香は、迷いのない足取りで歩いていく。入り組んだ細い道を左に曲がり、右へ曲がり、このまま行けば行き止まりへ突き当たると思うのだが、一向に立ち止まる気配がない。
コナンは物陰に隠れながら尾行を続けた。路地の両脇には古い家屋の塀ばかりが続く。電信柱やゴミ置場はあっても、人通りはない道だ。間もなく、予想通りに突き当たりの塀が見えた。そして由香は――
見慣れない男と二人でそこにいた。サングラスをして、黒いスーツを着た男だ。コナンは電柱の影で思わず身構えた。まさかとは思うが、あれは例の犯罪組織の人間ではないのだろうか?
由香は小声で二言、三言、男と言葉を交わした。黒尽くめの男はうなずき、ポケットから一枚の茶封筒を取り出す。普通の、角四サイズのものだ。薄っぺらくて、遠目からでは何が入っているのか判別でなきない。
会合はそれだけだった。男がまず路地を出て行き、由香が遅れて出ていった。後をつけたいのは山々だったが、やたらに動いて見咎められると面識があるだけに面倒である。コナンは物陰に身を沈めたまま、彼らが行くのを待つしかなかった。
封筒の中身は、由香がすぐにバックにしまってしまったので、結局わからずじまいだ。彼らがいた場所に立ち、目ぼしいものが残っていないのを確認したあと、コナンも帰路に戻る。
表通りには、もう由香の姿も黒尽くめの男の姿もない。
複雑な事件が更に細密に枝分かれした気分だった。
夕暮れまであと一時――
工藤邸の門をくぐろうとしたコナンは、急に思い立って阿笠邸を先に訪問することにした。インターフォンを鳴らせば哀が出てきて、コナンの姿に目を丸くする。
「さっきは悪かったな。博士いる?」
「ええ……入って」
通されたのは、例によって例のごとく研究室である。覗いてみると、作業台のところで、阿笠は何か不思議なブリキと針金だらけの物体相手に奮闘しており、ペンチやドライバーやらバーナーやらを傍らに、オイル塗れになっている。
「……それ、何?」
コナンが入ってきたことに気付いていたのか、阿笠は突然の質問に驚くことなく即答した。
「――未来型立体星座図」
それが一体何のためになるのかは今は聞かないでおく。
コナンは苦笑しつつ部屋の隅で彼を待った。普段はおっとりとした気の良い老人のくせに、発明のこととなると阿笠は人が変わる。物音ひとつに激昂して怒鳴り散らすことなどしょっちゅうで、静かにしていないと鬼のように不機嫌になるのだ。当然、賢い哀は、コナンを案内したと同時に出て行った。
十分ほど待っただろうか。阿笠はやっと区切りをつけて顔を上げる。コナンを見ると、人懐っこく笑う。
「おお、新一。待たせてしまったな。しかしお前が待った数分は無駄ではなかった。見ろ、この素晴らしい立体星座図を! ああ、まだ土台だけじゃないかなんて、野暮な評価はいらんぞ、全てはこれからじゃ。だがこの土台は素晴らしい!」
阿笠は踊り出さんばかりであった。上機嫌で自画自賛の嵐を振り撒きながら、それでもコナンを手招きで呼び寄せる。
「わかっている、わかっている。昨日の指輪の件だな? そら、当たりだ! 今日のわしは勘まで冴えとる」
しかし、指輪がしまってあったのだろう机の引き出しを開けた途端、その軽口もぴたりと止む。もう笑顔もなかった。老人はひどく慎重な動作で、プラチナの指輪と一枚のCD-ROMを取り出す。
無言で差し出されたそれらを受け取った。阿笠は眉間に皺を寄せ、何やら困惑した様子である。
「……博士?」
問いかけても直接の答えはない。そのまま老人は背中を向け、表情を窺うこともできなくなった。
「……結果を話す前にな、新一、ひとつ訊きたいことがある」
「……何?」
「これは誰のものだ?」
咄嗟に上手い嘘を思いつけなかった。CD-ROMは快斗のもので、コナンがちらと聞いた話では、宝石の結晶構造のパターンが一覧できるものだということだ。他にも様々なデータが入っているとは言っていたが、何かまずいものでもあったのだろうか。
「……友達の、だけど」
恐る恐る答えたら、阿笠は深い溜め息と共に肩を落とす。
「友達、か。お前、また何か危険なことに首を突っ込んでおるんじゃないだろうな?」
「別に……危険じゃねーよ」
「それが本当ならいいんだがな」
ずいぶん回りくどい言い方をする。こちらを向かないままの老人の様子も気になって、よせばいいのにコナンはつい彼に噛み付いた。
「どういう意味だよ、博士」
苦々しく、阿笠が肩越しにこちらを見る。
「……そのCD-ROMにはな、新一、膨大な数の宝石のデータが書き込まれている。多くが一般人にとって目が飛び出るくらい高価な美術品ばかりじゃ。当然じゃのう、外国の博物館に展示されているべき品なんじゃから。しかも、ほとんどが盗まれ、現在は行方不明になっておる。……あまり言いたくはないが、このデータを書き込んだ人物は、お前が友達に持つにはどうかと思うぞ」
さすがに動揺せずにはいられなかった。あたふたと言い訳じみたことを口走りながら、コナンは自分の胸元をぎゅっと握り締める。
「今は……そんなことどうでもいいじゃないか。博士、結果を――その指輪を調べた結果を教えてくれ」
動悸が一気に激しくなった。まるで酸素が脳まで回ってこないみたいに視界が暗くなる。
「新一……、どんなに理由があっての犯罪だったとしても、犯罪は犯罪だと、犯罪を犯した以上、法によって罰されるべきだと、そう言ったのはお前じゃぞ?」
「――博士!」
夢中で遮った。それは今最も直視したくない現実であった。もちろん、阿笠の言う通り、コナンだって快斗が犯罪を犯した事実を曲げるつもりはない。でも今更彼を警察に売り渡すことなど考えられなかったし、安っぽい正義感を振りかざすこともできなかったのだ。
何より、快斗を裏切りたくはなかった。
一体いつの間に、その存在はコナンを侵食していたのだろう。普段は憧憬やほのかな恋慕でしかない感情が、阿笠の言葉でどろどろとした激情に変わり、今にも明確な敵意になって相手を攻撃しそうだ。
「博士……頼むから……」
あえぐように呼びかけた。そんな声しか出せなかった。
聞いた老人はどうしようもないと首を振る。彼は一切に目をつぶるように額を片手で覆うと、事務的な口調で指輪の調査結果を報告した。
「調査の結果は、ほとんどそのCD-ROMの情報に基づくものだ。まず……母体の石は、珍しいほど濁った緑色をしておるが、結晶構造のパターンを見る限り、ペリドットだろう。お前が言ったように、極微小なアレキサンドライトの破片が含有されておる。破片が小さすぎたせいで、特有の色彩変化を外から観察するのは難しい。それからリングの方だが……調べてみると、プラチナの輪にホワイトゴールドの輪を重ねた形になっておった。わざわざ色のそう変わらないものを二重にして、おかしいと思ったら、プラチナの輪の内側に文字が刻まれていたみたいだな。ホワイトゴールドは、その文字を上から隠すためのものだ」
「……文字は何て?」
「ラテン語で、この世に永遠はない、と」
コナンは大きく息をついた。やはりこの指輪がパンドラなのだ。
「ありがとう、博士」
「いや……」
阿笠はもう何も言わなかった。コナンの方も、もうしばらく工藤邸にいることだけを告げて研究室をあとにする。
外はすっかり夕暮れだった。朱色に染まった空を見上げ、唇をきつく噛み締める。
快斗の正体を知っていて黙っていることは、これまでのコナンの信念を曲げることかもしれなかった。けれどたとえそうだとしても、快斗の傍がいいと思った。
正しいだけが全部じゃない。そんな感情も、時にはあるのだ。
工藤邸へは裏から入る。伸び放題の低木の枝を潜り抜けると、キッチンに繋がる勝手口がある。
蘭が善意で月一回は掃除してくれているとはいえ、換気をしない家屋は埃まみれだ。動くたびに白いもやのようなものが浮き上がる。さすがに床が白くなっているということはなかったが、空気がどうにも淀んでいた。
リビングを通り抜け、そのまま優作の書斎へ。この書斎の下には、父が趣味で造った、貯蔵庫とは名ばかりの地下室があった。
地下室なら夜に明かりをつけても外から見えないし、とりあえず防音効果もある。万一家屋に第三者の進入があっても、地下ならある程度の目くらましにもなる。
快斗もここにいた。コナンも寝る以外はほぼここで過ごすわけで、今や地下室は二人の秘密基地と化している。
机の真下の床を持ち上げる。降り口をわざわざ隠したのは、やっぱり優作の趣味だ。板の下にはスライド式の扉があって、それを開けると短い階段があった。
地下に入ればすぐに快斗の姿が見える。
「おかえり」
一番しぼった薄暗い光の中で、彼はうたた寝でもしていたらしい。わずかに掠れた声が、まだ眠りの余韻を残していた。ひとつしかないソファーの上に長く横たわったその手元には、優作の犯罪ファイルが開かれたまま置いてあった。
「……調べもん?」
「ああ……宝石専門のな、泥棒が他にもいたかって」
「いた?」
聞くと、彼は身体を起こしながら気だるく首を振った。
「いや。もっとでっかい美術品っていう枠の奴ならいないわけでもないんだけど」
コナンは入ってきた扉をしっかり元通りの状態に戻し、階段を下りきる。地下室は、大きなソファーがひとつと古い勉強机が一組だけの、全く愛想のない部屋だった。あれだけ本の虫の優作が、本棚すら置かない徹底ぶりだ。大方、地下の監禁部屋とか言って、一人で想像を逞しくしていたに違いない。
コナンが勉強机に備え付けられていた椅子に腰掛けると、快斗が小さく笑ってこちらに向き直る。
「じゃあ……今日は俺からな」
お互いがその日どんな情報を掴んだのか、またどんなことを考えて結果はどうだったのか、二人は一日一度持っている情報を交換することにしていた。とにかく話さなければならないことを話してしまわないと、ずるずる問題に捕らわれて、話題がそれにかかりっきりになってしまうからだ。
せっかく一緒にいるのに暗い話ばかりでは嫌だと言い出したのは快斗の方であった。コナンも、会って以来ずっと難しい表情でいる快斗が気がかりだったので、ルールを作ることに同意した。今のところ二人の試みは成功している。大抵の場合、最初の情報交換が終わってしまえば、二人は無二の親友のように騒いで過ごした。
今日の快斗の一日は、ほぼ現状維持で終わったらしい。相変わらず学校へ行かなかったことと、家に帰るつもりもないこともそのままだ。それから猫山秀次の捜索の件も。
「とりあえずこの界隈でホームレスやってることは突き止めたから、カヤノさんって大御所に頼んできた」
コナンが快斗と会わなかった一週間の間に、彼は秀次がボロを着てさまよっていたという目撃者を捕まえていた。
その人物の話によると、秀次の出で立ちは浮浪者そのものだったと言う。汚れ果てたシャツを着て、大きな布袋に空き缶を集め、その日暮らしの小銭を稼いでいたようだ。秀次は以前まで資産家の婿だったのだから、何かの間違いかとは思うが、と、快斗の仕入れてきた話はこんなものだった。
しかし、そこからが、さすが怪盗KIDの手腕と言うか――快斗にはホームレスの中でもかなりの権力者に知り合いがいたらしいのだ。彼はすぐにその人物に繋ぎを取った。秀次の行方は、今その人物が捜してくれている。
権力者、とは、まさに言葉通りである。ホームレスは縦社会だ。新参には厳しく古参にやさしい。地域によっては地区の元締めみたいな者がいて、そこで寝起きしようとする者は皆、元締めに土地の借賃を払わなければならない。快斗の知り合いとは、つまり、そういった元締めの地位にいる人物らしい。
カヤノという通り名で、一見すると、このじいさんボケてんのかと疑う外見をしている、と、快斗は言った。何でも、どんな猛暑でもつぎはぎだらけの冬物スーツを着て、綻びた山高帽子をかぶっているそうである。コナンがチャーリィ・チャップリンでも気取ってるのかと聞けば、快斗はそのものだろと笑った。カヤノは良く風俗店の看板持ちをやっているらしい。とにかく目立つから、その手の通りを歩けば必ずわかるのだそうだ。
「カヤノってじーさんはさ、普段はとぼけてばかりだけど、口は固いし、何より嘘をつかない」
ひとしきりカヤノの話をした快斗は、最後にどうでもいいことのように、明日家に服を取りに行くと付け足した。コナンは思わず彼の表情を確かめてしまったが、特に気負った素振りはない。
「――で、お前の方は?」
知らぬふりで快斗はあっさり切り返す。コナンも負けずに何でもない顔を作りながら、とりあえず今日の出来事を話した。学校帰りに猫山由香を見たこと、それから阿笠に依頼していた指輪の調査結果。快斗は至って静かに聞いている。と、思ったら――
「それで? 誰にいじめられたんだって?」
前置きも何もなかったのだ。だから何かの聞き間違いかと思った。けれど快斗は続けて言う。
「何で泣きそうな顔で帰ってきたんだよ?」
バカヤロ、そう口を突こうとした言葉を飲み込む。ここで慌てたら、快斗の思う壺ではないか。
「泣きそうな顔? どんなんだよ、それ。錯覚だろ」
しれっとうそぶけば、快斗は苦笑いした。
「錯覚、ねぇ。いーけどさ、それも」
「――……あー、そう言えばこの前話しただろ。新しくきた教育実習生の話。お前と名前が一緒だって言う」
「ああ」
「その先生と、ちょっと話した」
「ふぅん。そいつが悪ぃやつだったの?」
「違うよ、バカ。何か……石集めてんだって。キャッツ・アイの原石見せてもらった」
「あ、そ」
ソファーの上で両膝を抱えて座った彼は、つまらない様子で頭を掻く。
「……そう言えば猫山秀次も石フェチだっけ? 気をつけろよな、マニアは暗い」
主観たっぷりのそれに笑うと、快斗もやっと明るい笑顔を見せた。
「ま、猫山由香のマークもはずせねーって、そういうことだな?」
「ああ」
コナンがうなずけば、情報交換終わりっ、とばかりに盛大な背伸びをする快斗。
「なぁ、今度の日曜日さぁ」
「ん?」
「晴れたら野球見に行かねぇ? 券もらったんだ」
「いーけど……サッカーの方が良かった」
「贅沢言うなって。野球もいいぜぇ?」
他愛もないことを普通の友人みたいに話す。二人が出会ったきっかけを考えれば、それはひどく現実から掛け離れた会話だった。追う者と追われる者、関係は今も変わりはないというのに、コナンも快斗も決して現実を思い出そうとしないのだ。
「ところで晩メシどーすんの?」
「お前買ってこい」
「ヤだ」
「子供にパシリさせんなよな」
「都合いい時だけ子供ぶんじゃねーや」
満足に食料もなく、風呂に入るにもトイレに行くにもこそこそと動かねばならない、不自由な場所。窓さえない暗い部屋なのに、それでもそこは二人だけの王国だった。つらい現実は何ひとつなく、お互いを信じていさえすればいい。
楽しかった。
本当は、猫山家のこともパンドラも、クソくらえだと思った。
お互いが敵でも、味方でも。騙させていても、騙していても。恋じゃなくても。
恋でも。
楽しかったのだ、二人でいるだけで。