快斗が、カヤノという名の浮浪者と初めて言葉を交わしたのは、怪盗KIDとして世間で騒がれ始めた頃である。もちろん簡単に正体を教えるわけにはいかないから「黒羽快斗」で声を掛けたのだが、最初っから妙に気に入られてしまった。以来、会えば必ず話し込む間柄である。
ところで、快斗はカヤノの名を知らない。カヤノ、という名字がどういった漢字を書くのかも訊いたことがない。向こうも快斗の名くらいしか知らないだろう。仕方ないと言えば仕方ないのだ、だって与太話をする時も猥談をする時も、日本の未来について討論する時も、名前はちっとも重要じゃなかった。
カヤノと会おうと思うなら、大抵川べりのベンチへ行けばいい。夕方から夜にかけては看板持ちで捕まらないが、昼間なら必ずそこにいる。ベンチで寝そべったりはせず、英国紳士のように真っ直ぐ背筋を正して腰掛けているのだ。あれで服装さえボロでなければ、カヤノは本気で品格の高い老人に見えただろう。
快斗は午前のうちに工藤邸を出た。
天気は良好、風も爽快。登校拒否も、回を重ねるごとに罪悪感はなくなった。今は果てしなく自由だ。自由すぎて時々途方に暮れるくらい――
天空を振り仰いで微笑む。真っ青な空は透き通るようだ。カヤノは今頃この空を前に瞑想しているかもしれない。それからコナンはどうだろう。つまらない授業に退屈しているだろうか、また快斗と同じ名の教育実習生に頭を悩ませているだろうか。
通りをゆっくりと歩きながら、快斗はコナンを思う。
コナンには内緒だが、何度かその姿を見に小学校まで行ったことがあった。当然その時には九路場の姿を目にしたが、コナンから聞くほど面倒な人間には見えなかったと思う。ただ、繊細な顔の造作に似合わず、ひどく鈍臭そうだとは思った。もしかしたら名前云々よりも、コナンが苦手としているのはその辺かもしれない。
「わりと不器用だがらなぁ、あいつ……」
呟いて笑った。
コナンのことを考えると、いつもどこからともなく力が沸いてくる。この力の源はやっぱり恋かもしれないと思いながらも、快斗はずっと友人の顔で彼に接している。理由は至極簡単なものだ。そうしていないと、緊張して何を話せばいいかわからなくなるから。
俺って本命には手が出ないやつだったんだなぁ、近頃しみじみ実感した新事実である。
川原が近くなった。通りを行く車のエンジン音にまぎれ、水音も聞こえてくる気がする。会とは横断歩道の青信号を待たずに道路を横切った。すぐにクラクションが跳ねたが、気にもならない。
芝生の斜面を下りると、サッカーのミニゲームが行えるくらいの広場がある。もう少し先へ進めば、川べりに等間隔で配置されたベンチも見えてくるはずだった。カヤノは端から二つ目のベンチを一番気に入っていて、日雇いの仕事がある以外はほとんどそこで身動きしない。
今日もやっぱりその姿はあった。遠目からでも、山高帽と黒っぽいスーツの組み合わせは目立つ。快斗はのんびり近づいた。ずいぶん傍に来てもカヤノはこちらに気付かない。
「――カヤノさん」
呼ぶとようやくこちらを向く。深い皺の刻まれた下がり気味の瞼が、大儀そうに薄く開かれる。
「おお……お前さんかい」
仙人みたいによれよれの声なのだ。なのに背筋は棒が一本入っているように真っ直ぐなままだった。アンバランスさが何とも言えず好ましく、快斗は薄く笑みをこぼした。カヤノも笑う。
「まぁた学校さぼっとるようだのぉ。いつだったか、お前さん、普通ほどいいものはないって言っとりはせんかったかな」
「ああ……言いましたっけ、そんなことも」
「ふむ」
「……仕方ないんですって。普通でいたくても、普通の方が俺から逃げてくんですから」
ふぉっふぉっ、カヤノが楽しそうに目を細めた。元々開いているのかもわからない老人の目は、そうなると本当につぶれてしまう。
「難儀だの。ええ、ええ。苦労はするもんじゃ」
「俺はいらないと思うんですけど」
「苦労の方がお前さん目掛けて飛んでくるんじゃろ?」
「そうなんです。どうすればいいんでしょうね」
「ふぉっふぉっ、簡単じゃ。トンズラすりゃええ」
快斗は思わずカヤノを見た。カヤノは、そうした快斗に小さくうなずいて、
「トンズラできん性分なら、諦めるしかないのぉ」
つい苦笑いになった。カヤノと話していると、いつも自分がほんの子供でしかないことを思い知らされる。
「そうそう、お前さんの言っておった件じゃがな」
老人はほころびた帽子を頭から取って続けた。
「ちょうど二ヶ月ほど前じゃ、新参者がひとり腹すかして倒れとったのを、赤髪の爺が助けたらしい。以来その爺のところで飯食っとるそうじゃ。ろくに金も稼げんくせに猫を飼っとるとかで、変わり者だと笑いの種になっとる。いくら訊いても名前を言わんから、皆やっこさんの飼い猫の名で呼んどるらしいの」
「何て名前ですか?」
「カナ。カナさんカナさん言われて、まぁおもしろがられとる」
当たりだ。猫山秀次の最愛の妻の名前は、加奈子であった。
「こいつでよければ赤髪の爺に繋ぎを取るが?」
快斗はしっかりうなずいた。カヤノは笑って一度、二度と顎を掻く。
「よろしい。今夜今夜八時トキという飯屋の裏で、缶ビール六本を手土産に立つといい」
「六本? 四本じゃ駄目?」
「赤髪の爺はガメついからの。六本じゃ」
つまり仲介料というわけだ。街で生きる老人たちは強かで、こうして良く見返りを請求する。
快斗が短い溜め息をつくと、カヤノは再び帽子を被って深く微笑むのだ。
「何を探しとるか知らんがの、お前さん。若者には年相応の場所がちゃあんと用意されとる」
学校のことを言われているのかもしれない。快斗はそれには答えず、静かにうつむいた。カヤノもそれ以上言い募ることはしない。代わりに服装を正すと、ゆらりと立ち上がる。
「さて、わしは仕事へ行くか」
ボロを着た老人がひょこひょこ背中を向けた。粋に帽子を掲げ一礼する様は、老人のタフな生き様を匂わせて、ひどく格好良かった。
カヤノの背中を見送った快斗は、足元の小石を蹴り上げて腹から溜め息をつく。
「……俺だって一人にはなりたくねーよ」
けれど捨ててしまった自覚はある。
学校も、家も、それまで自分が持っていた全部が信じられなくなってしまったせいだ。今では信じられるものと言ったら、自分とたったひとつしかない。
「……巻き込んじまったなぁ……」
唇を噛む。一番弱い自分が見えてしまいそうだったので、急いで頭を振った。
立ち止まるわけにはいかない。快斗は、パンドラを巡る全ての謎に立ち向かうと決めたのだから。
河川敷を渡って大通りへ出る。ラッシュを過ぎた車道は穏やかなもので、買い物に出る主婦の姿もちらほら目についた。
この時間だったら、快斗の母も喫茶店のパートに出ているはずだ。顔を合わせず家に帰るとしたら、今を逃してはないだろう。
まずがバス停へ向かわねばなるまい。甲斐との自宅はここから少し離れた住宅街にあり、外観は一般のサラリーマン家庭とそう違わない、極普通の一軒家であった。
家には思った通り鍵が掛かっている。快斗はポケットから合鍵を取り出しドアを開けた。途端、懐かしい匂いが鼻先を掠める。思えば約一週間ぶりの我が家である。そんなつもりはなかったのに、ひどく胸が騒いでいた。靴を脱いで上がる間にも、苦しいような嬉しいような曖昧な感情が次々わき上がってくる。
家というものはやはり偉大なのかもしれない。
たった一週間見なかっただけで、もう何年も帰ることができなかった場所のように懐かしい。
快斗は、いろいろ見て歩きたい衝動を堪え、とにかく真っ直ぐに自分の部屋へ向かうことにした。ここで時間を過ごせば過ごすほど、絶対だと思っていた意思が簡単にゆらぐ。
しかし自室のドアを開けば、また激しい動揺が襲い掛かってくるのだ。
母は快斗が彼女の留守を狙って帰ってくることを予想していたのだろうか。それともただの偶然か。
いや、やはり予想していたのだ。ベッドの上には、適当な衣服と白い封筒が一枚置いてあった。
何だか堪らない気持ちで服を紙袋に詰め込んだ。封筒は、迷ったが結局ポケットにねじ込んで、そのまま逃げ出すように部屋を出る。
快斗が自宅に帰らなくなったことには理由がある。
ちょうど一週間前のその日だった。家の食器棚の片隅で、小さなテープレコーダーを発見したのだ。
食器棚なんておかしなところにしまってあるから、ひどく興味をそそられた。快斗は母と二人暮らしだ。自分が隠したものでないそれは、必然的に母のものであるはずだった。
半分のいたずら心と、半分の猜疑心と。それから、言葉では上手く言い表せないが、奇妙な予感めいたものが快斗を動かした。
テープを再生した。
中には、機械で合成したと思われる、盗一の声が吹き込まれていた。
その小さなテープレコーダーから溢れてきた作り物の盗一は、快斗に「もうすぐパンドラは見つかるだろう」と言う。だから「KIDを返してくれ」と言うのだ。
その時の快斗にできることといったら、せいぜい家を飛び出すことくらいだった。
混乱して、動揺して、憤慨して、傷ついて。冷静になるまでどれだけ時間を必要としたのか良く覚えていない。ふらふら街を歩いて、駅で一晩明かしたり、公園で野宿したりした。
ようやく我を取り戻した時には、もう周囲にあった全部を信じられなくなっていた。だから本当のことを言えば、あのテープが実際にどんなふうに使われていたのか知らない。もしかしたら催眠術とか、睡眠学習とか、暗示とか、快斗がこれまで気にも掛けていなかった目的で使われていたに違いないとは思う。
けれど、肝心なことはそんなことではなく、快斗に盗一の夢を見させたのは、母だった、ということなのだ。全てが作り物だったということなのだ。
何も知らずに踊らされた自分は、まるで道化師ではないか。怪盗KIDになりすましたことも、元を正せば盗一に導かれてのことで、自分の意思は二の次だった。
傷ついてボロボロになって、どうしようもなくて、コナンに葉書を出した。幼馴染よりも、学校の友人だちよりも、コナンに傍にいて欲しかった。いつかの約束を破ったことを咎められても良かった。コナンが望むなら、KIDとして警察に出頭してもかまわなかった。
しかし再会したコナンは、快斗を責めも咎めもしなかった。ただ、戦うのかと、確認するように快斗を見た。
あの瞬間、快斗は決めたのだ。
自分の周りで何が起こっているのか突き止めなければならない。少なくとも、パンドラと思われる指輪は快斗の手の中にあった。全てがそこから始まっているのだ。始まりがそこにあるのなら、終わりも必ずある。
孤立することを選んだ快斗を気遣ってか、再会してからはコナンも一緒になって孤立してくれた。毛利探偵事務所からも出てきて、危険があるかもしれない自宅に帰り、快斗に寝場所までもを提供してくれている。
負けるわけにはいかないと思った。
コナンは快斗の力だ。その力が傍にある今、どれだけ傷ついても勝たなければならない義務がある。
自宅を飛び出した快斗は、大きく息を吸って頭を上げる。泣き出したい感情も抑えつけた。こんな時はとにかく動くことを考えるべきなのだ。
と、ふと思いつく。
そうだ。
「会いにいこ……」
できれば、こんなとこに来んな!なんて、派手に張り飛ばしてくれたらいい。格好悪くて最低な快斗を、きつい瞳と声で叱り付けてくれたらいい。
コナンが苦手にしている九路場の姿で会いにいったら驚くだろうか。きっとばれた時には、とても怒るに決まっていたけれど。
でも、そんなふうにしか、わざわざ真っ昼間に会いに来た理由を誤魔化す方法が見つからない。
ごめんな、俺ってすげぇバカ。
九路場の服装はわりと地味だ。白いカッターシャツに若草色のスラックス。茶色のローファーと銀縁の眼鏡で完成。元々女のように癖のない綺麗な顔立ちをしているから、変装は少し難しい。背丈が高いのも難かもしれない。上げ底した靴ぐらいでしか対応できないので、深い付き合いの人間に会ったら、目の高さで怪しまれかねない。
それでも急場の変装にしては上出来だった。快斗は九路場として帝丹小学校に入り込んだ。
ちょうど給食が終わった昼休みだ。先に下調べしたところによると、九路場は教師専用の休憩室で次の授業の下準備をしている。どうやら今日は初めて教壇に立ち、一時間丸々授業を任されることになっているらしい。プリントの整理やら、何とかセットの確認やらで、九路場は当分外に出そうな状態ではなかった。
快斗はこれ幸いとばかりに校内を闊歩する。何人かの生徒たちは、九路場になった快斗を遊びに誘ってきたりもしたが、その全てをやんわりと断った。生徒たちの表情から察するに、九路場は付き合い上手な教師であるようだ。そう言えば、鈍臭いわりに一生懸命で、どこか憎めないキャラクターをしていた。本当に教職につくのなら、おそらく子供に好かれる先生になることだろう。
とにもかくにも、快斗は屋上へ向かうことにする。このまま校内をうろついていたら、コナン以外の誰かに捕まって時間を取られるのは必至のようだ。
しかしどうやってコナンを呼び出したものか。階段を上りながら悩んでいた快斗は、上から見覚えのある少女が下りてくることに気がついた。
名前は、確か灰原とか言わなかったか。手に本を持っていることから考えて、図書館にでも行っていたに違いない。快斗にとってはまさに渡りに船だった。何と言っても、例の元気印の三人組じゃなかったことだけで大ラッキーである。
「灰原さん」
快斗は九路場の顔でにっこりと笑いかける。
「これから教室へ帰るんですか?」
注意して丁寧語を使った。九路場はひどく真面目な男で、子供相手でも決して丁寧な口調は変えない。
こちらを向いた少女は無表情なままだ。快斗はその反応を安全ラインだと判断した。
「もし教室へ行くのなら、江戸川くんを呼んできてくれませんか。いつか約束してたものを見せることができそうです、と伝えてくれればわかると思います。僕はこれから屋上へ行かなければならないので、そこで待っていると伝えて下さい」
「……わかりました」
「ありがとう。よろしくお願いします」
少女は小さく目礼して階段を下りていく。コナンから彼女もわけありで子供になったのだと聞いたことがあるが、確かに普通の子供とは言い難い雰囲気である。
しかしこれで準備は整ったわけだ。相手がいくら苦手な九路場だと言っても、いつか約束したもの、なんて謎掛けを、あのコナンが放っておくわけがない。
快斗は悠々と屋上へ上る。途中、鍵のかかったドアがあったが、それは適当に外させてもらった。
外は相変わらず良い天気であった。地上より遥かに上空にいるせいか、少し風が強い。思わず眼鏡を飛ばしそうになって、快斗は慌ててそれを掛けなおした。風はあるが、やはり高い場所は気持ちがいい。
フェンスぎりぎりまで近寄ってみると、遠くに高層ビルやハイウェイも一望できた。町を包み込む空は真っ青で、切れ切れの雲の破片が眩しい。
しばらくそうしていると、背後で足音が聞こえてきた。見れば、ちょうどコナンが姿を現すところである。
こちらを見る目は警戒心の塊みたいだった。吹き出したい心境を必至に堪え、快斗は小さく笑ってみせる。
「呼び出してすみませんでしたね」
言っても、きつい視線はちっとも変わらない。これでは本物の九路場はさぞ苦労していることだろう。
「……約束ってなんですか?」
しかも早速本題ときた。まるで一時でも九路場と同じ空気を吸いたくはないみたいだ。でも快斗としてはコナンのこんな表情が見たくて会いにきたわけではない。本物の九路場には悪いが、ここせいぜい怪しげな変人になってもらわねば。
快斗は異様に晴れやかな笑顔を作る。
「あれは嘘です」
「え?」
「そんな呼び出し方でもしないと、江戸川くんは来てくれない気がしたので」
みるみるコナンの警戒心は強くなった。けれど快斗には自信がある。次の言葉で、コナンは絶対に慌てるに違いないのだ。
「――江戸川くん、僕のこと嫌いでしょう?」
えっ……、案の定、詰まったきり言葉にならない。
何だかひどく楽しい快斗だ。あたふた視線を逸らすコナンが、いつこちらの正体に気付くかと思うとわくわくする。しかしこれ以上軽快されるのも考えものだ。怪しまれる前に、早速懐柔策に切り替えた。
「ごめんなさい、ちょっと恨み言を言ってみたかっただけです」
一瞬怒りかけたコナンは、ふと諦めたように溜め息をつく。
「別にいいです。苦手なのは本当ですから」
開き直った。今度は快斗が苦笑いする番である。
目の前にコナンがいるだけで、とても安心する自分がいた。干からびていた心が、全く別の勘定で潤っていくのがわかる。これならば、あとで一人になっても空しさに苦しむようなこともないだろう。コナンと言葉を交わすことで、快斗は次第に元の自分を取り戻そうとしている。
「ひとつ訊いてもいいですか、江戸川くん」
きっとまたコナンは困るだろうと予想しながら、神妙な顔を作って言うのだ。
「いつ僕はそんなに君に嫌われるようなことをしたのですか?」
そう変な質問をしたわけではなかったのに、コナンは突然真っ赤になった。不機嫌そうな表情は相変わらずなのに、ちらちら動揺が見え隠れしている。
だが快斗は彼の言葉を聞く前に、その答えを知っている。そしてコナンはその通りの返答をするのだ。
「名前、が」
「はい?」
「名前が、僕の知っている人と同じなので」
だから快斗は、わざと大げさな反応をしてみせた。やっぱり特別なことを訊いていないのに、コナンはますます頬を赤くする。
「それだけで僕が苦手なのですか?」
「大問題です」
コナンはひどく真剣に言う。いささか興味深い展開を感じ、快斗は更に突っ込んだ。
「――なぜ?」
「先生の名前を呼ぶたびに、その人のことを思い出すからです」
それは心の琴線に触れる言葉だ。急に、何ともやわらかく甘い感情が、どこからともなくひたひたと胸に満ちてくる。
「その人は……江戸川くんにとってどんな……?」
半分祈るような問いかけだった。しかし、耳まで茹で上がったコナンは切って捨てる。
「先生には関係ないです!」
ひどくかわいらしいではないか。もうからかう気も起きない。快斗が喉で笑っていると、タイミング良くチャイムの合図が始まった。
「掃除の時間ですからっ!」
怒りまくったコナンは、叫ぶように一声言って駆け出す。あとに残された快斗は、ついにこちらの正体には気付かないままだったかと、しばらくの間満足していたのだが、それもすぐに翻されることになった。
一分後、階段を激しく駆け上がってくる足音。
「――快斗、てめぇ!」
笑ってしまうではないか。久しぶりの大笑いだ。コナンにしてみれば腹の立つことこの上なかっただろうが、快斗にとっては至上の瞬間である。
怒りなのか照れなのか、屋上に再び戻ってきたコナンは、やはり真っ赤だった。
「掃除の時間だろ、新一」
言えば、切り付ける勢いで睨まれる。
「クソったれ!」
それでも好きだからいいじゃないか。
「しあわせだなぁ」
笑った快斗を、怒りまくったコナンがどついた。
* *
屋上で別れるまで怒っていたコナンは、学校から帰ってきても不機嫌なままだった。何を話しかけても返事をしないので、今日の情報交換のしようもない。仕方ないから、快斗はさっさと奥の手を出した。
「実はさぁ、今夜、猫山秀次と会うことになってんだけど」
途端、明らかに心を動かされた顔で、コナンはこちらを振り返る。
「約束の場所はこっからちょっと離れてるし、まだ時間はあるし、お前さえ良かったら外食しようかと思ってたんだよな、俺」
悪びれずに言った快斗に対し、彼はひどく悔しそうだった。それでも黙ってやり込められる玉ではないから、意識して挑発の視線を投げるのだ。
「……お前のオゴリだな?」
「お望みとあれば」
「当然だっ!」
黙って拗ねられるより、怒って噛みつかれるほうがずっと楽しい。快斗は笑ってコナンを連れ出す。暗い地下室から、まだ明るい外界へ。カヤノが言っていた赤髪の爺との落ち合い場所は、繁華街のど真ん中だ。あの辺なら旨くて安い店もたくさんある。
「何食べる?」
何気に尋ねた快斗に、コナンはあっさり、
「フグ」
と答えたりして。言葉遊びのような口喧嘩に夢中になっている二人には、すれ違う人間の好奇の目なんか二の次だ。
実際、二人のそんな光景を遠くから見ていた知人は三人いる。快斗もコナンもお互いのことしか見えていなかったので、全く気付きもしなかった。
一人は、灰原哀である。
彼女はパソコンショップに寄った帰りで、快斗たちのすぐ前をバスに乗って通り過ぎた。
二人目は、九路場海人だ。
彼の下宿は工藤邸と同じ町内にあり、彼本人は偶然コナンの姿を見つけたので、対向車線側の歩道からずっとこちらを目で追っていた。
そして三人目。
三人目の人物は、本来ならば、もっと早くに表舞台へ上がるべき人物である。もしかしたら、快斗よりも、コナンよりも、由香よりも、秀次よりも――誰よりもパンドラのことを知っている人物であった。
彼の名を寺井と言う。初代怪盗KIDだった盗一の付き人として動き、快斗が幼い頃から何かと世話を焼いてくれた老人なのだ。
寺井は快斗を探していて居合わせた。コナンといる彼を目にした老人は、しばらく沈痛な面持ちで見つめたあと、逃げ出すように踵を返す。
快斗も、コナンも、その時点ではまだ思いもよらなかった。彼らがこれから会うはずの猫山秀次は、旧姓を寺井秀次と言うのだ。
あれだけ二人で寿司だカニだとファーストフードだと夕食をかけて討論したにも関わらず、結局なだれ込んだ場所は、いわゆるファミリーレストランである。
それでも大声で言い争ったのが功を奏したのか、コナンはご機嫌だった。どこにでもあるような唐揚げ定食をの白ご飯を、一番のご馳走のように頬張った。快斗の方はブラックペッパーハンバーグのセットだ。以前から何度も頼んだことのあるメニューだったのだけれど、今夜は特別うまい気がする。きっと目の前でコナンがうまそうに食べているせいだ。自分はこんなにコナンに関してダメ人間だったのかと溜め息が出たが、悪い気分ではなかった。
カニやフグに比べたら遥かに安上がりの夕食を終え、二人は満腹になって店を出る。
外はすっかり夜である。通りを歩いているのも、大部分が仕事帰りのサラリーマンに変わった。腕を組み合わせた恋人たちも多い。昼に比べ、ゲームセンターやカラオケボックスの電飾は三倍も派手になった感じだ。居酒屋の看板もずいぶん目立つ。
快斗とコナンは、とりあえず近くのガードレールに腰掛けた。約束の時間までまだ一時間近くある。
「……ゲーセン行く?」
訊いたのは快斗だ。コナンはただ首を横に振るだけで答えた。
「じゃあ……本屋行って立ち読みする」
「ヤだ。先に言っとくけど、俺は本読み出したら止まらない。しかも結末わかんないままだと暴れるぞ」
「自慢になるかよ、バカ」
ああしよう、こうしよう、そんなことをたらたら話しているうちに一時間なんてあっと言う間に過ぎてしまう。予感しながらも、快斗は飽きもせず予定を考える。結局話題なんかどうだっていいのだ。話しているだけで充分楽しいのだから。
今更であるが、快斗はコナンとの会話が大好きだ。何より打てば響くような答えがいい。きつい言葉遣いがいい。どんなにお決まりの質問に対しても、どこかで聞き慣れたような、お決まりの答えなんかひとつも返ってこないのだ。話すたびに言葉の端々からコナンの個性がこぼれてくる。
「とりあえず……」
次々と行き先を繰り出す快斗に疲れたのか、コナンはとうとう自分から予定を立て始めた。
「まず、例のビール買いに行こう。別に目茶苦茶冷たいやつなんて指定はなかったんだろ? なら多少ぬるくなったって文句はないだろうし……それから、またここに帰ってくる」
「ここに帰ってきて何すんの?」
訊くと、コナンは少し言いよどんだ。
「お前は……ここでストリートパフォーマンスする」
「はい?」
聞き間違いかと思った。しかしコナンは大真面目だ。
「ストリートパフォーマンス。だってお前すげぇ特技あんじゃん」
「あるけど……」
「人に見せないのって勿体ねーと思う」
伏せ目がちでぶっきらぼうに言うのだ。思わぬコナンの提案に、快斗が絶句するしかない。けれどいつだったか、まだ彼と話すようになって間もない頃、同じようなことを言われた覚えがある。子供にせがまれて公園でマジックショーを開いた時のことだ。
「……見たい?」
つい確認をとってしまう快斗だ。もしもコナンが見たいと言うのなら、百でも二百でも魔法を見せてやる気気は充分あった。
そしてコナンはうなずくのだ。迷う素振りも見せなかった。快斗は舞い上がらずにはいられなかった。誰にそう言われるより、コナンに言われるのが最高に誇らしい。
すぐに近くの自動販売機でビールを買い揃えた。それから元のファミリーレストランの前まで戻って、まずコナンを一番の特等席――ガードレールの上だ、そこへ座らせ、軽く一礼する。
快斗たちのいる歩道は、レストランや居酒屋の並ぶ、わりに人通りが多い道である。派手な電飾も連なっていて、中には呼び込みを行っている店すらあった。それでも、道を行く人々の大多数は、自分の目の届く範囲内のことにしか関心を示さない。当然、快斗がコナンに向けてお辞儀をしたとしても、誰も目に留めはしなかった。
しかし次の瞬間だ。
快斗を中心に、半径三メートル以内にいた人間全てがわっと歓声を上げた。
不意に掲げた快斗の両手から、金銀の紙吹雪が景気良く舞い上がる。まるで突然のフラッシュさながらのそれに、通りを歩く誰もが知らず立ち止まっていた。更に紙吹雪はきらめきながら地に降り注ぎ、人の肩や髪に触れた途端、次々と美しい造花に変わっては散っていくのだ。
拍手はなかった。しかし、全員が本物の魔法を見たみたいに感嘆の溜め息をついた。彼らの視線がこちらに集まるのも早かった。あっと言う間に何人もの観客を捕まえてしまった快斗を、コナンだけが何とも言えない苦笑じみた表情で見つめている。
「派手なやつ……」
呟きに、親指を立てて返した。
すっかりそんな突発ショーに夢中になっていたので、約束の時間通りに待ち合わせ場所につくのは大変だった。幾重にもなったギャラリーの中を突進しなければならなかったのだ。快斗もコナンもへろへろになりながら裏道へと逃げ込んだ。身体は疲れたけれど、心の方はお互いに満足感で一杯だった。
薄暗い裏道を歩きつつ、コナンは、ぺちっ、ぽこっ、と、意味もなく快斗の足を蹴ったり叩いたりしている。なに、と言って快斗が振り向くと、何でもないと答えながら笑っているのだ。何だかくすぐったくって、少々痛くても知らんぷりしてしまう快斗である。
缶ビールの六本入った袋が、雑踏から離れた道で涼しげな音をたてている。頭上を見ると、ネオンに負けない星々が小さく小さく輝いたりもしていた。
「なぁ、トキってどこ?」
「もうちょっと先」
小さな会話を繰り返す。今夜は素晴らしく美しい夜だ。今だけは、心を煩わせることも全部受け入れ許せてしまえそうだった。
そんな時である。丸いものが突然、家屋の隙間からぬっと顔を出した。驚いたことにそれは真っ赤な色をしていて、良く目を凝らして見れば、人の頭なのだ。
赤い毛でばさっと覆われた球体は、一体どこに目があって口があるのかわからないほどだった。更に、その怪人は、物も言わないままこちらに手を差し出すではないか。
手のひらは煤で汚れたみたいに真っ黒だ。しばらくどう対応すべきか悩んでいた快斗は、不意にひらめいて口を開く。
「赤髪の爺さんってあんたか?」
頭髪が前後に揺れた。多分うなずいたのだろう。
快斗はビールの入った袋を慎重に差し出す。汚れた手はそれをひったくるように奪った。そして中身を確かめたあと、彼が自分がいるのとは別の路地を指差す。
「……あっちに行けってことか?」
いささか気後れぎみにコナンが呟く。快斗もそれに異存はなかったので、早速二人でそちらへ向かった。
やっぱり家と家の隙間の、至極狭い道である。外から覗いてみれば、一人の浮浪者が空を見上げてぼうっと突っ立っている。
快斗はコナンと顔を見合わせた。それから意を決して、
「――猫山秀次さん?」
瞬間、ひどく怯えたように震えた男を、何と表現すれば良かったのだろう。ざんばらに伸びた髪の間からこちらを見た瞳は、恐怖に見開かれている。泥を擦りつけた跡の残る服から飛び出した細い手足は、人形のようにかくかく揺れ始めた。
二の句を失うとはこのことだ。快斗は茫然と男を見る。
冷静だったのは、むしろコナンの方である。ふと袖を引かれてそちらを向けば、彼は落ち着いた声で指輪をと囁いた。
それで思い出した。
「あの! 俺たちは猫山加奈子さんからこの指輪をもらって――」
しかし、ポケットから指輪を取り出すや否や、男は更に恐慌に陥ったのだ。おののいたように後ずさったかと思うと、その場で唐突に土下座する。
「捨てて下さい!」
彼は叫ぶように言った。
「捨てて下さい、お願いします!」
コナン共々、しばらく言葉もなかった。ただ、こんな姿になってまで土下座した男を見ると、漠然とした不安が押し寄せてくるのを止められない。
パンドラの名を持つ指輪は、快斗の手の中で、街の明かりを受け鈍く光っている。
* *
私が大きなペリドットの原石を手に入れたのは、全くの偶然でした。
私は子供の頃から石が好きで、特に透明度の高い石ほど心惹かれてなりません。もちろん自ら鉱脈のある山に分け入って、水晶の結晶群を掘り当てることなどもありましたし、一度などは、奇跡のようですが、トパーズも掘り当てたことがあるくらいです。
そんな私でしたから、友人の中には珍しい石を外国土産に買ってきてくれたりすることもありました。そのペリドットもそういった類のものでした。当時海外転勤になった、以前の職場仲間が、私が送った金を元手にいくつかまとめて購入してくれたのです。
そのペリドットはとても大きく、良く宝石商などに並んでいるもののように綺麗に透き通ってはおらず、どちらかと言えば、濁った翡翠のような緑色をしていました。私も最初はそれを翡翠だと思って眺めていたものです。しかし、知り合いの鑑定士に見てもらったところ、どうやらペリドットであるらしいことがわかりました。更にその鑑定士が言うには、時々何かの弾みで、わずかだが赤い色が混じるそうなのです。
私は、もしかしたら私を驚かすために友人が骨を折ってくれたのではないかと思い、連絡を取ってみました。けれども、その友人はペリドットなど私に送ってはいない、大体緑色の石は恐ろしく高い値段がついていて、ひとつも買えなかったのだ、と言いました。
ではこのペリドットは一体何なのでしょう。私は不思議に思いながらも、既にその時にはずいぶん、この変わったペリドットを気に入っていたので、深く考えずに自分のコレクションに入れてしまったのです。
ところが時を置かず困ったことが起こりました。意味不明の英語の電話や、脅迫文まがいの手紙が届くようになったのです。
当時、私には妻も子供もおりましたし、義父も健在でした。何とか誰にも気取られぬよう、このわけのわからない騒動を治めねばと、一人で奔走したのです。
幸い、私の実父は顔の広い男でした。私にある人物を紹介してくれ、その人が、私に代わって事の真相を調べてくれるということになったのです。
そうしてわかったのは、このペリドットがパンドラと名のついた石であったことでした。前にも説明した通り、この石は時々赤く光るのですが、一部の盲目的なマニアの間で、この石が不老不死をもたらすものだと信じられているとの話だったのです。そして、別の手に渡るはずだったものが、何かの手違いで私宛の荷物に紛れたこともわかりました。
私は元の持ち主を探そうと思ったのですが、どうやら闇ルートの取引品だったらしく、どうしても探し当てることができませんでした。しかし、誓って言いますが、そのペリドットはただの石です。不老不死の力など全くの出任せに過ぎません。だから私は、盲目的なマニアのことも、ある程度楽観視していたわけです。
だが、私に協力してくれたその人は、ちっとも楽観視などしていませんでした。マニアは外国だけにいるわけではなく、日本にだっている。だから私がこの石を持っている限り、取引の申し込みは続くだろうし、応じなければ嫌がらせも続くだろうと言うのです。私は正当な持ち主ならまだしも、嫌がらせばかりを仕掛けるマニアたちに石を渡したくはありませんでした。ですから、彼に尋ねたのです。どうすればこのまま手元に置いておけるか、と。
彼は、私にその石は盗まれたのだと公表すればいいと言いました。例えば、決して警察などに捕まらないような大泥棒――怪盗KIDに。
「……どういうことですか」
快斗は呻くように尋ねた。
「今の話でいけば、まるであなたに協力していたという人物は、怪盗KIDと知り合いみたいだ」
ざんばら髪の隙間から、秀次はおどおどとこちらを見る。その目が気に入らない。快斗は迫る不安を憤りで塗り替えようと躍起になっていた。心臓が痛いくらいの速さで鼓動している。首の後ろがちりちりと騒ぐ。とにかく落ち着かない。秀次の話が進むにつれ、じっと立っていることすらできなくなりそうだ。
コナンはさっきから少しも口を開かない。うつむいたまま、話の真相を推理でもしているのだろう。けれど快斗はもうここから逃げ出したい心境だった。できるなら本当にそうしていたと思う。だが両足は、緊張で根が生えたように貼り付いて動かない。
「怪盗KIDは……」
秀次はひび割れた声で続けた。
「KIDは、その人――黒羽盗一さんだったのです」
「待ってくれ!」
叫んだ。そうせずにはいられなかった。秀次はそう言った快斗を驚いたように振り仰いだ。
「盗一さんは私にこう言いました。自分がこの石を盗んだことにすれば、猫山に降る災いは自分に降るものに変わるだろう、と。自分ならば、そんな腹黒い輩に正体を見破られることもないし、何より神出鬼没だから、彼らは脅迫文を出す宛て先すら見当がつかないに決まっている。あの人は私にそう言われたのです」
「――じゃあ! じゃあ……」
父は自分から被害を被ったということではないか。しかもパンドラを持っていたのが秀次だったとすると、全く謂れのない理由で死まで追い詰められたことになる。
上手く言葉を綴れない快斗に構わず、秀次は自分でも止められない様子で事の真相を暴いていく。
「私は盗一さんの言う通りにしました。実の父もそう薦めましたし、事情を知った妻も賛成してくれたからです。しかし盗一さんは亡くなった!」
秀次は何かに取り憑かれたみたいに頭を抱えた。
「亡くなってしまわれたのです、あの方が! 父は石のせいだと言いました。私もそう思わずにはいられませんでした。盗一さんのお陰で、猫山家には平穏が戻りましたが、私も妻も罪悪感でいっぱいでした。何もかもがあの石のせいでした。私はその石が憎かった。同時に、とても恐ろしかったのです。私は父と話し合って、その石を小さく砕いてしまうことに決めました。元々大きなペリドットの原石だという目印があったので、それさえなくしてしまえば、誰にもわからなくなると思ったんです。私と妻と父は、少しずつ石を刻んでいきました。かけらになったものは、指輪にしたりイヤリングにしたりして、全く謂れを知らない、無関係の人間に渡してしまうことにしました。その方が、確実に跡形もなくパンドラという迷信を消してしまえると思ったからです。石を刻んでいくうちに、ペリドットの中にアレキサンドライトが含まれていたことに気付いたのですが、もう私はその価値もどうでもよくなっていました。そして、最後に残ったひとかけらを、盗一さんを忍ぶためにも手元に置いておくことにしたのです」
パンドラはただの石だった。
ただの石を、誰かが不思議な石だと言って金持ちをそそのかし、根も葉もない噂は、たちまち伝説的に祭り上げられた。結局、秀次を始めとする猫山家、盗一の運命を変えたのは、どこかのホラ吹きだったのかもしれない。
秀次の話はまだ終わらない。快斗はそれをお経のように聞き流しながら立っているだけでやっとだった。