JOKER JAM chapter6

「一体どこからどんな噂ができたのか、最近になって猫山家は再び被害を受けるようになりました。でも、問題のパンドラはもうないのです。私と父と妻とで、この指輪のひとかけら以外は全て処分してしまったのですから。
 ちょうど一年ほど前だったと思います。私はすっかり動転して、再度父に相談しにいきました。父は、私に様々な取引を持ちかけてくる組織に偽の情報を伝えたらどうかと言い、もう藁をも掴む心地でいた私は、その話にのってしまったのです。けれどもそれがいけなかったのでしょう。私は日本でパンドラを血眼になって探していたという、ある代議士とコンタクトを取るようになりましたが、次第に相手がひどい犯罪に手を染めていることを気付かずにはいられませんでした。そんな権力を持った男を相手に、とにかく私にできることは、偽の――パンドラは大きな宝石で、月光にかざすと赤く輝くのだ――そういった出任せの情報を、代議士に渡すことだけでした。
 だがそれも限界になった。もしそのまま取引を続けていたら、いずれ私も何らかの犯罪を犯さざる終えなかったと思います。向こうは、私を信用する振りをしながら巧みに組織に引き込んで、最も正しいパンドラの情報を得ようとしていたのです。
 私は、妻に、たったひとつだけ残ったこの指輪は、以前そうしたように見知らぬ誰かに与えてしまえと指示し、姿を眩ます計画を立てました。ホームレスになったのは、こういう格好でないと裏の裏まで知り尽くした、あの代議士が養護する組織を、欺くことができないと思ったからです。私がそうやって姿を消してしまえば、あの組織も猫山家にこだわる理由はなくなるはずでした」

 * *

 一人工藤邸に戻ったコナンは、薄暗い地下室で悶々と快斗を待っていた。
 快斗とは、秀次の話を聞き終わった時点で別れた。彼が知り合いの家に行かねばならないと言い出したからだ。秀次の旧姓を聞いた時、快斗はひどく動揺したようだった。もしかしなくとも、その知人の名前だったのだろう。ジイと言う、あまり耳にしない珍しい姓だったので、一度しか聞かなかったコナンも覚えている。
 今や一連の騒動の大方は掴んだ。確証はないが、秀次が失踪を謀ったあとも、猫山家はパンドラを狙っていた組織に付け回されていたに違いない。心労を重ねた加奈子は心の病に陥り、それでも夫との約束を果たすため、見ず知らずの快斗に指輪を渡し、自害したのだ。
 だが、先日の由香と黒服の男とのやりとりを見る限り、夫人の亡くなった今ですら、組織は猫山家を放しはしなかったのだろう。少なくとも、加奈子が事切れた直後、由香が見せた指輪に対する執着は、由香自身がパンドラをある程度理解していたという証拠である。
 全く胸の悪くなるような騒動だ。たったひとつの石に、どうしてこれだけの人間が踊らせられなければならないのか。考えれば考えるほど腹が立つ。悔しくもあった。自分自身も含め、世の中は馬鹿が多すぎる。こんな寄ってたかって捏ね繰り回されたようなからくりなら、一人でも命を落とす前に止めてしまうべきだったのだ。
 何よりも、快斗が傷ついていた。
 コナンは、あんなふうに、上手く笑えずに口元を覆ってしまう彼を初めて見た。
 常に強くある人間はいない。けれど快斗は、コナンの知るうちで最も強い人間だ。だから彼の脆さを見てしまった今では怖い。今晩ここに帰ってこないのではないかと思うと、胃が締め付けられるようである。
 でも本当のことを言えば、快斗に対してどうしようもない危惧を感じるのは、今夜が初めてではないのだ。
 快斗が工藤邸に転がり込んできた夜から、ずっと怖かった。家に戻らないと言ったことも、ひどく彼らしくない言動だと感じた。彼はまるで世界中にたった一人になってしまったように振舞う。いつか本当に全部を切り捨ててしまうかもしれないと不安だった。コナンが彼に付き合って工藤邸に泊り込んだのも、一重に彼を孤独にしておけないと考えたからである。
 薄暗い地下室で一人じっとしているのはつらい。家の主のコナンでさえそうなのだから、間借りしていた快斗はもっと寂しかったに違いない。
 コナンはわざと冷たく固い床に座って、膝を引き寄せた。今頃快斗は自分の知らないどこかで胸の痛みを堪えているのだ。ならば自分も、柔らかいソファーなんかで楽をしていたくはなかった。
 早く帰って来い、立てた膝に顔を埋め、コナンは強く祈る。

 どれだけの時間そうしていたのか。気付けば、初夏だというのに爪先が凍えるようだ。ふと顔を上げてみても、時計も窓もない部屋では時間の進みはわからない。コナンはのろのろと立ち上がった。喉が渇いていた。疲労のためか、緊張のためか、手足が小刻みに震えている。水を飲むために上へとのぼりながら、あまりにも弱い自分に苦笑が漏れた。
 優作の書斎へつながる扉を開けると、外界はまだ夜であった。大人の身の丈以上ある本棚が、四方を取り囲んでいるそこは、明かりがなければ全くの真っ暗闇だ。それでも電気をつけるわけにもいかず、コナンは恐る恐るドアとおぼしき方向へ行く。
 しかし、不意にぎくりとして立ち止まった。ドアの前に、真っ黒な影があったからだ。
 影は人の形をしているように見えた。うずくまり小さくなった、人間の姿である。
「……快斗?」
 考える前に声は出た。自分でびっくりするほど掠れた声だ。
 その影がちらりと動いた気がする。コナンは慎重にそれに近づく。
 爪先が何かに当たった。血の通った、あたたかい何かである。コナンはその場にゆっくりと膝を折った。四つんばいになって、もっとその人物の気配を感じられるよう、静かに移動する。
「……快斗……?」
 顔は見えないけれど、多分そうだ。少し迷って手を伸ばす。目測を誤っていなければ、今触れたこの肌は、彼の頬辺りに違いない。
「快斗」
 もう一度呼ぶ。目の前二十センチの距離に彼の顔。
 表情ははっきりせずとも、そのあたたかさだけで満足したコナンは自然と微笑んでいた。
 けれど、次にはまたどきりとして手を引っ込めずにはいられなくなるのだ。
 今指で触れた場所はどこだったろう。目じりの辺りだったはずだ。そこが少しだけ濡れていた。
「……快斗……?」
 問いかけると、はぁ、と、大きな息をついて彼が顔を上げる気配がした。
「悪い……今、顔見せらんねーから……」
 工藤邸へ帰ってきても地下室へ下りることができなかったのだと彼は笑った。
「確かめて、きたんだ、俺……。秀次さんの……親父さんさ。ジイちゃんって、俺の親父の付き人やってた人でさ……前、言ってたじゃん、俺が親父の夢見るって……あれ、ジイちゃんと俺のお袋で、俺に暗示かけてたんだって……。なんかもう、笑っちゃって、大変……」
 聞いていられずに、思わず彼の頭を抱きしめていた。快斗は、そうするコナンの背にしがみつくように腕を回し、なお呟く。
「みんな……俺にKIDやめてほしかったんだって。そうしないと、親父みたいに馬鹿なことで死ぬんじゃないかって、毎日怖いんだって……。でも、そんなの、すげぇ勝手じゃねぇ? だったら親父の死の真相もパンドラのことも、直接俺に話してくれりゃー良かったのにさ……」
 ずずっと鼻をすすって、快斗は小さく吹き出した。
「アホらし……。結局、俺、一人で空回りしてたんじゃねーの……」
 それ以上言わせるわけにはいかなかった。コナンは彼が窒息してしまうくらい強く強く抱きしめる。
「バカ! みんなお前が親父さん尊敬してるって知ってたから言わなかっただけだろ! それに、空回りしてたのはお前だけじゃねーよ! 俺も、猫山家の人間も、お前の親父さんも、そのジイちゃんとか、お袋さんとかも、みんなしておかしくなってたんだ!」
 快斗が喉で笑った。コナンはそれに力を得、更に力説する。そうしないと自分の方こそ崩れそうだ。彼が泣いている時にコナンまで泣いてしまったら、快斗は絶対に安心して泣けないに違いないのだから。
「全部パンドラが悪い! それに、それを狙った組織も悪い! そいつらが一番馬鹿なんだ、だからお前は間違ってない! お前が一番正しかった!」
 どれだけ欲目でも今はいい。快斗を慰められるのなら、どんな誇大妄想でも口にするつもりでいたのだ。けれど、ふとコナンの背中を軽く叩いた彼に、次の言葉が何も出なくなる。
 そんなことを今してほしくなかった。思った傍から、もう目の奥が熱くなってくるではないか。
「サンキュ」
 それなのに彼は言うのだ。
「なぁ……今だけでいいから」
 いつの間にかコナンの腕から逃れた男は、震えるような声で、切なく嘆願する。
「今だけでいいから、甘えさせて」
 口付けられる。唇に軽く触れるだけの、しかし涙の味のするキスだった。コナンはもう一生懸命彼を抱きしめることしかできなかった。快斗の長い腕が、肩から腰全てに絡みつくように包み込む。凍えていた身体が、一気に激しい熱を帯びた。

 口付けは、舌でとろとろと互いの思いを溶かすようだ。
 捏ねまわすような動きに必死で応えていると、身体中の力がどんどん抜けて床に落ちていく。しがみつく指にも力が入らない。やっと解放されて目を開けてみれば、涙に煙って快斗の顔すら判別できぬ始末だ。
「快斗……」
 呂律も怪しい。重い舌をやっと動かして、コナンは言葉を続けた。
「こういうの……なんか怖いな。お前しかわかんなくなりそうだ」
 快斗は一つ二つとコナンの服のボタンを外しながら、少し笑ったようだった。ちょんと額にキスされる。
「俺だけでいいんだよ。俺以外は全部追い出してやっから、待ってろ」
「ふぅん……」
 そんなものなのか、と思う。コナンは純粋に続けた。
「お前の中からも出てくのか?」
「何が?」
「いろんなこと。俺以外の」
 一瞬快斗は言葉をなくしたようだった。すぐに、失礼にも吹き出しやがったが。
「出てく出てく。追い払ってね、新一くん」
「新一くんって言うな!」
「わかったわかった。黙れって、もう……」
 そう言いながらも快斗が笑っているのがわかる。
 何だかいい感じだった。さっきまでの弱い彼はもう見たくない。コナンも笑って彼の肩に手を回す。その広さに、唐突に自分が子供の姿をしていたことを思い出したのだが、ブレーキにはならなかった。
 ただ、痛いだろうなぁ、と、ぼんやり想像する。
 想像しているうちに、コナンの身体を剥いてしまった快斗は、早速至るところにキスを落とし始めていた。
 微妙なやわらかさと熱に、思わず身が竦んだ。首筋やうなじに息を吹きかけられ、内股を手のひらで撫でられ、あっと言う間に身体のあちこちで嵐が起こる。
「ちょっ……まっ……」
 言葉を綴ろうとしたら舌を噛みそうになった。コナンはぐっと息を詰め、慣れない刺激をやり過ごそうとする。
 しかし、そんなことは快斗が許してくれないのだ。薄い胸のわずかに色づいた部分を、彼はそこから蜜でも出るみたいに舐めた。途端、何か痛みのようなものが身体を硬直させる。女じゃあるまいし、まさかそんなところに性感があるとは思いもしなかったコナンは、本気で慌てふためいた。
「……快斗……っ」
 呼んでも応えてはくれない。反対に、そこばかりを丹念に責められて、呼吸すら上手くできなくなった。
「や、め……ぃや……っ」
 どっと汗が吹き出る。彼の肩を押しやろうとしても、子供の力ではどうにもできない。せめて、口を突く、恐ろしく甘ったれた声を抑えようと思うのに、噛み締めた唇に気付くや否や、快斗はそこに口付けして、綻びさせる手際を見せる。
 下肢を探られた時はもっとひどかった。それこそ、知らない快感ではなかったのに、他人の手で触れられているというだけで、火で身体を焼かれたようになる。羞恥ももの凄かった。恥ずかしさで息が出来なくなることを初めて知った。つい必死になって抵抗して、快斗に強引に押さえ込まれてしまったが、本当に駄目だったのだ。嫌な声が出ているとか、呼吸が荒くなって嫌だとか、そんなことすら考えられない。胸を弄られながら下肢までなぶられ始めると、真剣に、見も世もなくすすり泣くことしかできなくなる。
 これでは、終わる頃にはきっとボロボロになっているに違いない。コナンは、全く手加減なしに、次々と新しい刺激を与えてくる男を恨めしく思う。悔しくて、闇雲に彼の手に噛み付いてしまったが、それすら愛しくてならないと言うように口付けで返された。
 悔しい、悔しい、悔しい、悔しい。
 なんでこいつはこんなに手馴れているんだ!

 * *

 せっかくの土曜日は、腰痛で一日ベッドの上だ。久しぶりに地下室から陽の当たる部屋へと出たので、それはそれで快適だったのだが、とにかく快斗のにやけ面と言ったら見れたものじゃない。良くもまぁ殴りつけもせず、一日中顔をつき合わすことができたと思ったくらいだ。確かにコナンがあれだけのことをしたのだから、彼には元気になってもらわねば割りに合わなかったのだが。
 とにかく土曜日はそんなふうだった。二人の口からは、パンドラのことも猫山家のことも出なかった。一日中他愛もない会話をし、時に口喧嘩をして終わった。
 だから、真夏日になった日曜日には、朝から二人して大はしゃぎだ。
 何となれば、野球のデイゲームである。
 快斗がくれたチケットは、阪神対広島という、東京育ちの二人にとっては今ひとつ盛り上がりに欠ける対戦カードではあったのだが、何はともあれ、ストレス発散には持って来いだ。
 今日は何が何でも目茶苦茶楽しむ!、二人は心に誓って十一時に家を出た。ちなみに、試合開始時刻は午後一時である。
 球場付近のコンビニエンスストアで、適当に食料を買い込む。まだ時間はだいぶ早い。なのに、球場の中からはしっかり阪神タイガースの応援歌が聞こえてくるので、二人は真っ直ぐ入場口へ向かった。
 スタンドに踏み込んでみれば二度驚く。良くテレビでこんな風景を目にしたが、実際に自分の目で見るのでは大違いである。外野席を半分以上占める、もの凄い阪神ファンの応援だった。そこから離れ、脇の方では、いくぶん小ぶりながらも、広島カープの赤いはっぴを着た応援団が、これまた赤いメガホンを振り回してエールを練習しているところである。
 知らず二の足を踏んでいたコナンに、快斗は極当たり前のように訊いてきた。
「広島と阪神、どっちが好き?」
「えっ、だってサッカーならわかるけど……野球は考えたことがない……」
「そーかそーか。じゃ、ビギナーにはあっちだな」
 何がどうなってその選択になるのかわからない。快斗は迷わずコナンの手を引いて、レフトスタンドの阪神ファン側に近づいていくのだ。
 ちょっと待て、とはコナンの心の声。ビギナーに最も不適切ではないだろうか、この怒涛の熱狂振りは。
 だって虎縞のメガホンを振り上げる、その目からして何かに取り憑かれている。皆、どこかのアニメキャラクターのように烈火と化した目をしているのだ。コナンは思わずあとずさったが、快斗はそれを許さなかった。ぽい、とばかりに阪神ファンのすぐ隣の席に投げ出され、勢いでベンチに尻餅をついてしまうことになる。
 それからの時間は、コナンにとって予想外のことが立て続けに起こった。
 まず隣の阪神ファンが気さくに話しかけてきたことに驚く。快斗がまた嘘八百を並べて、俺たちすげぇ阪神ファンなんですよ、とか言い出すものだから、その隣のそのまた隣の見知らぬ人間までもが身を乗り出して、東京にいたら肩身狭いよな、などと話し始めるのだ。コナンは一言もしゃべらないうちから、人見知りだけれど最近桧山にあこがれる野球少年、にされてしまった。焦って快斗を睨んでも、その悪党はどこ吹く風、完璧に人当たりの良い笑顔で、俺たちにも応援歌教えてくださいよ、などと恐ろしいことを口走る。
 ぐらぐら眩暈のするコナンが、トイレに雲隠れしようとするのも阻まれた。快斗は無情にも、こちらの手をしっかり掴んだまま、大声で応援歌を練習し出したのだ。
 こうなると、コナンが開き直るのも時間の問題だった。
 応援歌はちょっと諸々の事情があって遠慮気味にしか歌わなかったが、メガホンかき鳴らせー!と号令がかかった時には、借り物のそれで目一杯快斗を叩いて気を晴らした。
 ゲーム開始前でその状態だから、ゲームが始まってからはもっと凄まじい。ただでさえ炎天下で頭は沸騰しているのに、本当に腹から大声を張り上げるから、鼓膜の奥で自分の声のハレーションを聞くはめになる。
 でも終始興奮状態のスタンドは楽しかった。汗だくになりながら、顔も知らない選手の名前を叫ぶ。途中でジュースの差し入れもあって、ふと自分たちも食料を買い込んだことを思い出したが、荷物を漁る暇さえない。
 ゲームそのものも白熱した試合で、最初乱打戦だったそれは、七回を過ぎた辺りから投手戦になった。スコアは七対五、阪神リードで八回を迎えるのだ。
 しかし、この八回表、阪神はツーアウトから連打を許し、二失点。九回を終わった時点で七対七、ゲームは緊張の延長戦へと突入する。
 応援席では、一打席終わるごとに、敵味方関係なくどぉっと不思議などよめきが起こる。皆一様に緊張しているのだ。その緊張は伝染し、コナンにも快斗にも同じ高揚感をもたらした。メガホンを持つ手に力がこもる。誰もが贔屓チームの勝利を願い、固唾を飲んで次のプレーに集中する。
 ゲームは均衡が崩れぬまま長引いた。十五回の表を終わった時点で、あれほどギラギラ鬱陶しいくらいだった太陽も夕闇に消える。球場は、今や人工の突き刺さるような蛍光灯の光で満ちみちていた。
 阪神ファンは、次の裏こそ最後だと、手当たり次第に派手な紙吹雪を投げる。コナンにも何だかそんな気がしていた。案の定、先頭バッターが首尾よくボール球を選び、一塁へと歩かされた。
  ── 今度こそ決着がつく。
 そう思って快斗の方を振り仰いだコナンは、空席のシートにどきりとする。
 一体いつからそうだったのだろう。快斗の姿が見当たらない。
 思わず立ち上がった。球場全部を見渡しても、視線が届く範囲に快斗の姿はなかった。快斗の席の次は細い通路になっていて、彼が席を立ったとしても、誰に断ることなく静かに出ていけたに違いない。気付いたコナンは、すぐにその通路を駆け上がる。人の少ない上の出入り口から外に出るつもりでいた。
 球場の外に出ても、すぐには快斗の姿を見つけることができなかった。まさかまだ球場の中にいたのだろうかと悩んだが、不意に視界に飛び込んできた電灯の光に助けられた。快斗は、そこにいる。
 白熱した試合の続くスタジアムからは、まだ人の帰る気配はない。ダフ屋も商売を一時休止しているらしく姿はなかった。だから広い入場スペースの中でも、快斗は一人で立っていた。
 何だか、簡単には近づいてはいけない雰囲気がある。しかしコナンはどんどん彼に歩み寄った。
 快斗はこちらに気付くと少しだけ微笑んで見せる。昼間とは別人の笑顔に、悲しい予感が込み上がった。
 やっぱり駄目なのかな、と思う。
 こんなふうに何も考えずに楽しんでも、あれほど人を傷つけた騒動は、解決を急かして忘却を許さない。
「……行くよ」
 快斗は伏せ目がちに告げた。
「馬鹿みてーな理由だったとしたって、やっぱり親父を殺した奴らを許したくねーし……」
 きっとそう言う気がしていた。コナンは苦く笑って彼を見上げる。
 快斗はひどく穏やかな顔をしている。彼の中では、もう気持ちの整理がついてしまったのかもしれない。
「敵の目処はついてるのか?」
 悪あがきで訊いても、彼は笑ってうなずくだけだ。
 彼は強く、聡明で、たった一人で戦うことにためらいもない。瞳が語る決意もゆるぎなく、どこまでも毅然と頭を上げる様が痛々しいほどだった。見ているとこちらまで胸が苦しくなって、コナンは小さくうつむく。
 結局何もできないのだと思う。これは快斗の戦いで、たとえそれがどれだけ危険でも、コナンは彼を止める権利すら持っていない。
「振り回して悪かった」
 快斗は言う。
「振り回しついでに1個だけ。猫山家の方、何とかしてやってくれねーか。本当は俺がすることかもしんねーけど、探偵役は性に合わねーし」
「……心配すんな。そりゃ毛利小五郎の仕事だ」
 言うと、彼は淡く笑った。
 不意に球場から割れんばかりの歓声がほとばしった。思わず二人でそちらを仰ぎ、自然と口がほころぶ。
「勝ったぜ、きっと」
 快斗が呟く。風に巻き上げられた紙吹雪が、スタジアムの上空からゆっくり流れてくる。それをしばらく目で追っていたコナンは、次に快斗の方を振り向いた時、知らず泣きそうになった。
 怪盗KID。
 白い衣装を気障に着こなしたモノクルの男は、決然とした瞳にほのかな笑みを乗せ、ただ真っ直ぐにコナンを見つめている。
「……これは俺のもんなんだって」
 快斗はKIDに扮した自分を見下ろし苦笑した。
「お袋が手紙にそう書いてた。俺は親父に動かされてたわけじゃない、自分で動いたんだって。今は俺もそう思う――俺が、自分で選んでここにいる」
 本当は止めなければならなかったのかもしれない。
 怪盗KIDの存在そのものが犯罪なのだ。しかしコナンにはどうすることもできなかった。選んでここにいる、そう言って覚悟を決めてしまった彼に、誰がどんな言葉をかけることができただろう。何よりも、コナン自身の中にあった正しさの基準は、彼のそれに当てはめることはできない。
 コナンはぐっと息を詰めた。こうなったら、笑って背中を叩いてやるくらいの度量が必要である。泣くのは快斗がいなくなってからでもいい。今はとにかく、心を定めてしまっている彼を潔く見送ってやららなければ。
 そう思っていたのに――
「……けど、探偵に泥棒な友人は余計だな」
 馬鹿が急に弱音を吐くから頭にきた。
 今の今まで大層な存在理由を語っていた男が、いきなり人のご機嫌窺いをするなと言うのだ。
 笑って見送ろうと思った殊勝な心がけは、コナンの中からあっと言う間に消え失せた。こういう質の悪い悪党には、一発説教かまして蹴っ飛ばすくらいがちょうどいいのかもしれない。
 コナンは大きく息を吸い込む。なおも何かを言いかける男を遮り、憤然と足を踏み鳴らした。
「――バカか、お前!」
 快斗がぎょっとしたように頭を引く。コナンは一気に吐き出した。喉に溜まっていた不安や危惧が、憤りに姿を変えあふれ出す。
「言っとくけど、俺は神様でも何でもねーし、正義なんてクッサイ言葉も大嫌いだ! お前が思ってるほどキレイで潔癖な人間でもない、時々は悪者の味方だってしてやるよ! 大体、お前は自分が正しいと思ったからKIDになったんだろ!」
 しばらく呆気にとられていた快斗は、それでも何とかうなずいた。コナンも鷹揚にうなずいて、最後の決め台詞を口にする。
「だったら勝て」
 快斗からの明確な返事はない。でも、少しうつむいた口元が、嬉しそうに微笑んだのを確かに見た気がした。
 白いマントが派手に翻った。
 一瞬後には、KIDの姿はない。スタジアムから降り注ぐ紙吹雪が、今まで彼のいた場所でささやかな渦を作っている。

 その番号に電話をかけるのも久しぶりだ。コナンは長いコールの間中、ガラス越しの車道を眺めていた。ヘッドライトが水の流れみたいに瞬く。ボックスの中は妙に蒸し暑く、手慰みに襟元のボタンをひとつ開けた。
「――あ、博士? 俺。長いことごめんな、今日これから毛利探偵事務所に帰るよ」
 阿笠は戸惑いながらもコナンの提案を喜んでくれたようだ。先に毛利宅へ連絡を入れておこうと、自分から申し出てくれた。
「うん、サンキュ。こっちの問題も片付きそうだし、落ち着いたらまた遊びに行く。未来型立体星座図も、楽しみにしてるし」
 その話題になった途端、嬉々として現在の作業の進行状況を語る。どうやら立体星座図の完成は間もなくであるらしい。老人が、細かい数式の計算まで口走り始めたので、コナンは慌てて言葉を切った。
「じゃあ急ぐし、この辺で切るわ。――え?」
 不意にひどく真剣な声がコナンを呼ぶ。
「……どうしたんだよ?」
 阿笠は言いにくそうに、けれど思い切った様子で、あのCD-ROMの相手とはどうなった、と尋ねた。
 思わず笑う。いつかのコナンが彼の話題に過剰反応してしまったせいで、心配をかけていたようだ。
「大丈夫だよ。あいつだったら、大丈夫。とりあえず警察には絶対捕まらないだろうし……それに博士もあいつの正体聞いたら驚くよ」
 まさかわしの知っている奴なのか、老人が慌てて問うので、コナンはまた笑ってしまった。
「今度紹介する。いい奴だから、期待してて」
 そんな話をして受話器を置いた。電話ボックスから出ると、ひんやりとした風が頬を掠める。
 気持ちの良い風だった。

「ただいまぁ」
 そう言ってドアを開けるなり、仁王立ちした蘭にぶつかり尻餅をつく。
「コーナーンーくーん……」
 何とも凄みのある声だ。見上げれば、彼女はしっかり怒っている。学校にはちゃんと通っていたとは言え、ろくに連絡も入れないまま、ほぼ一週間もの間外泊してしまったのだから、当然だったかもしれない。
「ごっごめんなさい、蘭ねぇちゃん!」
 とにかく平謝りした。今度ばかりは必殺の鉄拳が飛んでくるんじゃないかと気が気ではなかった。しかし、恐る恐る顔を上げてみれば、彼女は仕方なさげに笑っている。
「今度こういうことがあったら、ご飯抜きだからね!」
 いかにも彼女らしい許し方だった。コナンは努めて子供らしくうなずき、もう一度きちんと頭を下げる。
「ごめんなさい、蘭ねぇちゃん。もうしません」
「はい、良くできました。もうすぐご飯よ、悪いけど、コナンくん、お父さん呼んできてくれる?」
「うん。おじさん、どこ?」
「事務所の、個室の方にいると思うわ。最近ずっと猫山さんの件にかかりっきりだから」
「わかった」
 子供らしく、子供らしく。彼女がそれで安心するのなら、時々ひどく嫌になっても、子供のふりをするべきだった。
 ようやく思い出した気がする。工藤新一が、江戸川コナンとして生活しているのは、自分を守るためだけでなく、新一の周りにいた人間を守るためでもあったのだ。
 自分で選んでここにいる、そう言った快斗の言葉が良くわかる。コナンだって自分で選んでここにいるのだから、もっと前向きになるべきではないのか。
 肩の力を抜こう。子供なんて楽だし、おもしろいし。第一、名探偵が小学生なんてちょっと洒落てる。
 コナンは浮き立つような気持ちで事務所へ向かう。名探偵は、これからたっぷり活躍する予定なのだ。
 小五郎は、蘭の言った通り、事務所の一角にある、薄い壁で仕切られた個室に陣取っていた。一週間前にそうであったのと変わらず、いろんな資料が机の上や椅子の上に散らばっている。
「ご飯だって、おじさん」
 声をかけると、今初めて気付いたように小五郎はこちらを向いた。
「お前帰ってきてたのか。突然出てって突然帰ってくる奴だな。蘭からすげぇ怒られただろ」
「ううん。蘭ねぇちゃん、やさしいもん」
「ケッ。ガキには甘ぇんだよ、あいつは」
 ぶつぶつ言いながらも小五郎は重い腰を上げた。
「あぁ、クソ! わっかんねーなぁ、何なんだよ、あの指輪は一体!」
 ちょっと興味が引かれた。てっきり小五郎は闇雲に見当違いのところを調査しているのではないかと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。
「……あれからどうなったの?」
 普通の調子で問えば、探偵はがしがし頭を掻きながらも応えてくれる。察するに、相当煮詰まっているのだ。子供相手にでも話をしたくなるくらい、調査は難航していたのだろうと見当がつく。
 しかし、今回の小五郎は全くの予想外だった。
「あれからなぁ……。由香さんは指輪を探せと言ったが、それはKIDが相手じゃほとんど不可能に近いと俺は考えた。だから、まぁせめて彼女の親父さんの件だけでもと思って、いろいろ調べ続けたんだよ」
 驚いたことに、何と小五郎は秀次の実家まで突き止めていた。快斗がジイちゃんと呼んでいた、秀次の父にも会って話を聞いたらしい。
「ところがこのじいさんが、どうも妙なことを言うんだ。秀次さんが失踪したのは、全部指輪のせいだと、こうな。そういや由香さんの反応も妙だし……何せ母親死んだ直後に指輪の話するくらいだからなぁ。執事の松本さんに話聞けば、奥さんに剃刀をやったのは、由香さんじゃねぇかって言い出すし」
「えっ、それって証拠でもあるの?」
「いやな、松本さん、以前から何度か聞いてるらしいんだ。奥さんが由香さんに――自分を殺してくれと頼んでいるのを」
 ではあの自殺は、やはり仕組まれたことだったのか。コナンは小五郎の働きぶりに驚きつつも、頭を急回転させる。
 秀次はもう猫山家に戻る気はないと言っていた。妻の加奈子が自殺したことを話すと泣いていたが、自分が家に帰ればまたパンドラに関するトラブルが再燃するかもしれないし、娘の由香にどんな説明をすればいいかわからない。もしも由香が敵の組織に動かされているようなら、尚更秀次の存在は彼女の重荷になる。だからこのまま町に紛れて生きていくと、彼は苦しげに語った。
 コナンには秀次の選択が正しいとは思えない。しかし、間違ってもいないのだ。パンドラに対する信仰が薄れない限り、最後に関係を持った秀次は事あるごとに表へ引っ張り出されるに決まっている。命までもを狙う輩は少ないとは言え、おそらく平穏には遠い。猫山家を守るのなら、どうしてもパンドラは邪魔な存在だ。このまま姿を消したいという秀次の気持ちはわかる。
 だが、では由香はどうなるのか。
 彼女は、もしかしたら本当に母の自殺を手伝ったのかもしれない。パンドラを狙っていた組織とのつながりもあるのかもしれない。どちらにも確証はない。彼女は、コナンが持つ情報の中では、具体的に何もしていないのだ。
 そして、秀次が望んだ形もそうだった。本来なら、由香は何もしなくて良かった。しかし巻き込まれた。加奈子の死に、パンドラに。
「ああ、わかんねぇ!」
 小五郎が背中を向けて叫ぶ。コナンは今だとばかりに麻酔銃を構え――
 ごめんな、蘭。夕飯遅くなる。
 心で言い訳して、探偵を眠らせた。
 由香のことは由香の独白に期待しよう。どちらにせよ、彼女自身が告白しない限り、そこに罪があったとしても立証は難しい。それとも、これはもしかしたら暴くべき罪ではないのかもしれないとコナンは思う。あの夜の加奈子は……確かに誰もの制止を拒み、自ら死を選んだのだから。
 ――空回りを続けた猫山家の騒動も、今夜で終わる。