Y .
起き抜けにやばいと感じた時はもう遅かった。不意に胸を突いた痛みを何と言うべきか──心臓を抱きこむように身体を丸めながら、新一は苦笑せずにはいられない。
すごすごとベッドに身を埋め、シーツを被って浅い呼吸をする。幸いなことに、夕べ勢いで泊めてしまった快斗を誤魔化すにはもってこいの状況だ。発作じみた痛みの唐突さは、見られてしまえば、どんな言い訳で取り繕っても不自然になる。けれども始まった後ならば偽ることは簡単だった。こうして布団の中に入ってしまうと、顔すら出さずにいることも可能かもしれない。
激痛の中にあっても、妙に冷静な自分の頭に飽きれる。慣れだろうかと感心しもする。大体、こんな状況に陥っても、新一は薬の副作用について快斗に話す気にならないのだ。だから一人で苦しむままで、名前を呼びもしない。彼は隣の部屋にいるだろうし、もしかしたら目を覚ましているかもしれないが、向こうが不審に思ってドアを叩くまで黙っているつもりだ。もちろんこの痛みだって、ただの体調不良で通すつもりでいる。風邪でもいい、快斗が信じるのなら何だって──
バカなことをしている自覚はある。
いくら冷静沈着な灰原も、これだけ音信不通で通せば、そろそろ怒鳴り込んでくるくらいはするだろう。阿笠ですらも黙ってはいまい。この状況が新一の意地の産物なら、そろそろ考え直す時期なのだ。
だが、意地のために命は賭けない。意地ばかりではないから、新一も苦痛に耐え続けていた。
隣部屋でわずかに物音が聞こえる。
快斗が起きたのかもしれない。そうであれば、間もなくこの部屋のドアはノックされるはずだ。彼は友人宅に一人でじっとしていられるほど、暇に甘んじるタイプではなかった。それに、昨夜夕食が早かったことを考えれば、腹も空く頃である。
予想していたら、案の定、控え目なノックの音。
「はいっていい」
新一はシーツを被ったまま声を出した。ドアが開かれるのを感じながら、その間に何とか呼吸を整える。
「はよ」
手抜きの挨拶からはしばらくの間があって、
「……どうした?」
すぐに声が硬くなった。
快斗は察しが良すぎるから困る。シーツから自分が顔を出さないという些細な出来事が、彼には立派な異常と映るのだ。
新一は観念して、それでもささやかな悪あがきでもって、目元までを外に出した。たったそれだけに安心したのか、訝しげだった彼の表情がすっと解ける。
「どうしたんだよ、まだ眠ぃ?」
そう言う快斗もどこか寝不足な顔をしていた。新一はゆっくりと首を横に振る。常と同じ調子の声を出す自信がなかった。
「じゃあもう起きるとこ?」
否定の意味で首を振る。快斗がまた眉をひそめた。
「もしかして……具合でも悪ぃのか」
彼にそう言われてしまうくらい、顔色なんかは悪かったかもしれない。こうしてお互いの目を真っ直ぐに見つめる今ですら、胸は押しつぶされるように痛いのだ。
新一は迷いつつも肯定した。不意に快斗が悲しげな顔をして、その表情のまま薄く笑う。
「そっか。昨日引っ張り回しちまったからなぁ……」
そうではないと首を振るのに、何だか彼はとても申し訳なさそうなのだ。いつも自信たっぷりで陽気に瞬く瞳さえ伏せてしまう。
「お前このところ調子悪ぃみたいだったもん、俺考えなしで悪かったよな。もしいつも飲んでる薬とかあるんなら、持ってくるけど……?」
薬という響きにどきりとした。快斗に含みはなかったのだろうが、新一は秘密を持っているという罪悪感で胸が一杯になる。
一瞬口を開きかけ思いとどまった。快斗が誰よりもやさしく笑う一瞬だった。
「でも先にメシだな。雑炊くらいなら作ってやれる」
寝癖のたくさんついた新一の髪を、快斗はぐしゃぐしゃとかき回す。
「……いっそのこと、しばらくこっちに泊まってこうかな、俺。お前も具合悪そうだし、たとえ下手でも飯炊きくらいはいた方がいいよな」
脛に傷を持つ身としては、さすがに聞き流せはしない。
「しばらくって、でも──」
思わず発した声は、思った通り枯れている。起き抜けだったことも災いした。ひゅうと息の抜けるような頼りなさが、かなり耳障りだ。
ひでぇ声、そんなふうに快斗も苦笑する。
「ウチ、今、母親旅行中で俺一人って言わなかったっけ? おし、決めた、俺ここに居候する」
「待て待て……」
「しゃべんなよ、聞いてるこっちが痛ぇ」
顔をしかめたいのは新一の方だと言うのに、快斗は勝手に自己完結してしまうのだ。
「そうと決まったら──着替えだな、うん」
朝食の後に家から取ってくると言う。新一が起きれないとなると、レトルトの買出しにも行かなければならないし云々、待てと言っているのに、彼は強引に話を進めていく。
そうかと思えば、
「あ」
お互いの声が重なった。電話だ。リビングから、けたたましいコール音が聞こえてくる。
「俺、出ようか」
ふと、極自然に快斗が言った。はっと気づけば、彼はすっかりその気で踵を返している。
まずいと思った。新一は咄嗟に彼の襟の後ろに指を引っ掛け、強く引っ張った。快斗がバランスを崩して、あお向けにベッドに落ちる。途中から新一も自分の身体を支えきれず、その上に覆い被さるようにつぶれてしまった。
無理な動きで胸の奥が引きつれる。つい胸元を掴もうと手を上げかけ、寸でで衝動を押しとめる。
快斗が不思議な表情でこちらを見上げていた。今の新一の行動を咎めるでもなく、特に慌てるでもなく、何だかカメラのレンズみたいにじっと観察しているのだ。
下手なことをしてしまったら全てを見透かされる予感があった。だから新一は、上と下で真っ向からかち合った瞳を、しばらく逸らせずにいた。
コールはもう消えている。留守電の応答メッセージに切り替わってしまったに違いない。彼を目の前に、頭の裏では取りとめなく思い出すこともある。灰原哀のこと、薬の副作用のこと、黒の組織のこと、いくつもの問題が、たった一瞬の間で何度も新一の瞳を過ぎっていったはずだ。
それら全てを覗き見ていた快斗が、不意にそっと笑った。両手で新一の両頬を包み、お互いの額が額に当たるまでゆっくりと引き寄せる。
「……顔色悪すぎ。そんなんで、一人でいるなんて言うな」
まるで恋人にでも言い聞かせるようにやわらかい声だった。新一は何と返すこともできず、相変わらず近い彼の瞳を見ている。
真っ黒でも茶色でもない、彼の瞳の色は、光の届かぬ深海のように透明で深い色をしていた。見ているだけで、どこかがぎゅっと掴み上げられる心地がする。
あんまりそうしていると本気で動けなくなりそうだ。慌ててわざとらしく瞬きを繰り返したけれど、内心では妙に切なくてならなかった。つくずく快斗は新一を甘やかしすぎだ。これでは他の誰と一緒にいても、知らず彼と比べて自己嫌悪に陥るはめになってしまう。
「──タコ」
思い切って彼の頬を両手で挟み打ちした。途端に快斗は痛みに顔をしかめ、新一から手を離す。
「腹減った、メシ作れ」
笑って言うと、脱力しきってシーツに沈む彼。
「……そりゃあ飯炊きするって言ったけどさぁ」
不貞腐れたようにぼやく声を無視し、新一は元通り布団の中へもぐりこんだ。
本当を言えば笑顔も限界だった。理由はちっとも思い当たらないのに、泣きたくなるなんてありだろうか。胸だって痛い。薬の副作用だとは思うけれど、もっと身体中にじわりと広がるような、奇妙な痛さなのだ。
自分でせき立てたくせ、快斗の重みが退くのが寂しかった。布団の中の温度なんて変わりようもないのに、どうしてだか寒くなった気がした。
「とにかく。俺は居候するからな?」
後になったら絶対に後悔するに違いない。来る困難を知っていて、新一は答えたのだ。
「わかったから──メシ」
快斗が喜んだ気配がした。それすらわけのわからない切なさに拍車をかける。新一はひたすら布団の中で丸くなった。自分で自分を抱え込み、必死で暖かさを掻き集めた。
「出来たら持ってくるから。大人しく寝てろよ」
そう言って快斗は出て行くのだ。
いくらでも──大人しく寝ている。
だから、早く傍に戻ってきてほしかった。
★
灰原哀は、全てのプログラムを叩き終わると、深い溜め息をついて椅子の背もたれに寄りかかる。あどけない少女の容貌とは反対に、彼女を取り巻く空気は思い倦怠に満ちていた。それもそのはずだ。本来ならば、彼女の年齢は少なくとも「少女」と分類できるものではなかったし、更には、たった今まで、己が持ちうる限りの技術を総動員して、大切な研究資料にプロテクトを掛けるという苦労を成し遂げた後だった。今の彼女は、少女でもなく女性でもなく、ただ疲労にみまわれた一科学者でしかない。
ベッドとパソコンしかない部屋である。ブラインドは下まで下げられており、陽の光がひときわ強い午後だというのに薄暗い。どこもここも影で覆われた室内の中、彼女の目の前の液晶ディスプレイだけが、唯一青く発光していた。
普段なら、この時間、灰原は学校に行っているか、阿笠のいる研究室で薬品の開発をしている。しかし今日ばかりは呑気に実験に明け暮れてはいられなかった。厳しく管理していたはずの資料が、昨夜一晩で盗み見られた形跡があったのだ。
今朝いつも通りにパソコンを開いてみたら、例の劇薬、APTX4869のデータを入力したディスクの開閉パスワードに、ハッキングされた跡が残っていた。
驚いたなんてものじゃない。
そこらのハッカーに簡単に解けてしまうようなプロテクトではなかったはずだ。調べてみると、保管していたディスク全てのパスワードが盗まれているではないか。真っ先にハッキング常習犯の阿笠に尋ねてはみたが、老人は全く関知していなかったらしい。もしやと慌てて彼自身のディスクもひっくり返してみたところ、懸念した通りに2,3のハッキングが発見されたのだ。その時の老人の憤怒は凄まじかった。
だが灰原にとって、今回のハッキングは憤怒どころか恐怖である。明らかに例の劇薬狙いだった。もしや、あの黒の犯罪組織に居場所が知れたのかと震え上がったほどだ。
しかし、考えてみれば、薬のデータ云々よりも、奴らが拘るべきは灰原の生死である。逃亡者の居場所を掴んだ組織が放っておくわけがなく、データをハッキングした人間が組織の者であるなら、昨夜の時点で灰原は捕縛されるか暗殺されるかしたに違いない。
そこから導き出される答えは、ハッカーが組織とは無関係であるということだった。ひとまず安心しはしたが、同時に、灰原は全てのデータのプロテクトの強化に全精力を傾けた。
そんなわけで、朝から一食もせずキーボードを叩き続けていたわけだ。おかげで目も指も腕も肩も、腰までもが痛い。
「……疲れた」
両手を瞼に当て、熱を持った目に突き刺さるような電光を遮断する。
と、どこかで電話のコールが鳴っていた。
唐突に思い出した。工藤新一と連絡を取らなければならなかった。灰原は気だるい身体を無理に起こし、足の着かなかった椅子から床に降り立つ。
一息吐き出し、意識から疲れを投げ捨てた。
のんびりしてはいられなかった。新一からの連絡が途絶えて一体何日経つだろう。良くない結果が出たのは目に見えている。APTX4869に対抗できるような劇薬を開発し、改善し、投与による副作用が出るたびにまた改良し、そうしてようやくある程度の効果が出せるようにはなったが、どうしてもいくらかの弊害が消せない。もちろん命に関わる危険はないけれど、身体の器官には過度の負担が予想された。
今回彼に与えた薬も、完璧には程遠いことを灰原は知っていた。それでも工藤新一に戻れるならと、彼自身がどうしてもと言って聞かなかったのだ。半分押し切られる形で薬を渡してしまったが、今ではひどく後悔している。
新一は、薬の副作用を甘く見ている。
劇薬に対抗できる薬は、やっぱり劇薬だけなのだ。要するに、彼は毒を消すために更なる毒を体内に取り込んでいることになる。副作用が出た今、できるだけ早急に服用を止めなければ、薬が本来の毒として機能する恐れもある。
灰原は、ここ一週間、ひっきりなしに新一に電話を掛けていた。自宅のマンションと携帯電話、おそらく数十件のメッセージを登録したはずだ。だが、彼からは一度も連絡がない。そろそろ怒鳴り込むしかないかと思っていた矢先に、データのハッキングを受け、タイミングを逃してしまった。
とにかく、今日も電話である。灰原は、思い切り良く自室のドアを開いた。
途端、阿笠の笑う声が聞こえるではないか。新一が来ているのかと期待して耳をすませば、どうやら電話のようである。灰原は慌ててリビングに向かった。
顔を覗かせると、阿笠がこちらを振り向く。
「──ほう、そりゃまた編集者泣かせだ。君は気晴らしになっていいかもしれんが、わしが編集の人間だったなら、いっそのこと首に縄をかけて監禁しようかという気になる」
老人の話し振りからでは電話の相手を推し量ることができない。ただ、新一ではないことは確かだ。灰原は肩の力を抜いて溜め息をつく。
ところが、そのまま部屋を出ようとしたら、老人の視線に引きとめられた。
「──まぁその気持ちはわからなくもない。あの子の無鉄砲さは、わしも良く知っとるからの。──ああ。──ああ。わかっているとも、もちろんじゃ。わしにはどうとも言えない話ではあるから、適任者を紹介しよう。ちょっと待ってくれ」
そう言って、阿笠は受話器を片手で覆うのだ。
「哀くん」
どこか迷うような素振りで、彼はこちらに向かって話し掛ける。
「……実は、この電話の相手は新一の父親でな。彼は新一の状況をできるだけ正確に理解したいと言っておる。君も知っての通り、優作くんはニューヨーク在住の作家なんじゃが、今、わざわざ息子の現状を探りに日本に来ているそうだ」
だから何だと言うのだろう。話の要点が掴めず、灰原は黙って阿笠を見上げた。
阿笠はますます言いにくそうに髪の薄い頭を掻く。
「それで……どうやら彼の方では、いいかげん新一もニューヨークに呼び寄せたいと言っているんだよ。そのためにも、新一の身体がいつ落ち着くのか、詳しい話ができる人間に会って直接確かめたいと言うんだ」
もしかして──
「……私に?」
「そういうことじゃ」
老人がゆっりと溜め息をつく。
「知らぬ人間なら、哀くんが科学者として接するのは危険だと思うが、何せ優作くんだからのぉ……。こちらの事情もある程度知っていることだし、新一の父親としては当然の言い分かもしれんし」
確かにそうかもしれない。大病に侵された子供の病名すら知らない親が、どこにいるだろう。
「……わかったわ。会う方がいいのなら……」
灰原の答えに阿笠が嬉しげな顔をした。すぐに電話口に戻って結果報告をしている。が、しかし。
「──な、何だと? もう門の前?」
急に焦ったような声を出すから、こちらも不安になる。何事かと構えていると、不意に玄関の呼び鈴が鳴るのだ。
受話器を片手に持った阿笠が、情ない表情で灰原を見下ろした。
「……もう、着いたって……」
つまり玄関の向こうには、工藤優作がいるわけだ。
灰原は軽く肩を竦め、来訪者を迎えにいく。今日は疲れることばかりである。これで新一の父に薬のことで責められでもしたら、目も当てられない。
覚悟を決めて玄関の鍵を開いた。後ろから阿笠も来ている。老人が背後に立つのを待って、灰原はいくらか緊張しながら扉を引いた。
午後の陽光を引き連れ、一人の紳士が姿を見せる。
工藤優作の名を持つ男は、一目で仕立てが良いとわかるスーツに身を包み、黒縁の眼鏡の奥の目元と、口ひげをたくわえた口許に、やさしげな笑みを浮かべてたたずんでいる。
息子の新一は綺麗な顔立ちをしていたが、父親の方はどちらかと言えば男くさい、精悍な二枚目だった。扉を開けた人物がまだ幼い少女だと知っても、深く微笑み、からかいもなく目礼してみせる。
「こんにちは、お嬢さん」
男は通りの良い声で言った。それからふと視線を上げ、阿笠を見ると、手にしていた携帯電話を掲げながら、
「お久しぶりです、阿笠博士」
工藤優作はそんなふうに登場した。
予想以上に重みのある相手に、灰原は緊張で手に汗が滲むのを感じた。
「私としては──」
工藤優作は雄弁だった。
「今回の、その名前もわからぬ犯罪組織のことがなかったとしても、できるだけ早くアメリカに呼び寄せたかったというのが本音です。日本は、日本人の私たちにとっては住み易い国ではありますが、雄大さもおおらかさも貧しさもない。息子には、もっと広い世界を目にしてほしいと思うんです。あいつが名のある探偵になりたいと思っているのなら、尚更ですね」
場所はリビングへと移っていた。台上の、誰も手をつけない三組の紅茶が、上品なカップの中で小さく揺れている。
男の話は灰原に聞かせるというより、阿笠に対しての語りかけだった。だからこそ、老人の脇でぼんやりしていた灰原は、不意に流れた視線に戸惑った。
「灰原哀さん、ですよね。ずいぶんお若い」
からかいじみた言葉もそう腹立たしく聞こえないのは、優作の紳士然とした雰囲気のためだろうか。どうも調子の狂う相手である。灰原は特に答えることもなく、黙って視線を膝に落とした。
ふと、沈黙ができた。
阿笠が計ったように咳払いして立ち上がる。
「それじゃあ、わしはそろそろ席を外そう。優作くん、くれぐれも哀くんをいじめんように頼むよ?」
「わかってますよ、博士。ひどいなぁ、俺がそんな男に見えますか」
「はっはっ、有希子さんはいつも泣いて君の悪口を言っとるからの」
「そのたびに泣かされてるのはこっちですよ」
ひとしきり軽口を叩きあい、阿笠は笑いながらリビングを出ていく。二人きりで残された灰原は、沈黙が重くならないうちに顔を上げた。
優作は、何だか観察するような目でこちらを見ている。
「あなたに尋ねたいことが、三つあるんです」
彼は幾分ひそめた声で言った。
「新一は……本当に何の弊害もなく、元の年齢に戻れると思いますか?」
いきなりの直球勝負だ。今までの物腰やわらかな仕種はどこへやら、男が灰原に見せる顔は、氷の仮面でも被ったみたいに冷徹だった。
投げかけられた問いにも、詰まらざるおえない。灰原は小さく息をつき、言葉を選んで答えるしかなかった。
「おそらく──そのうちには」
何がおかしいのか男が笑う。
「では二つ目。あなたが属していた犯罪組織に、今後息子が命を狙われるようなことがありますか?」
「可能性はあると思います。息子さんが進んで彼らに関ろうとなさった場合、安全を保証することもできません」
「なるほど」
ならば三つ目、男はゆっくりと手を組み、小さく目を伏せた。
「──あなたが新一を組織に売る可能性は?」
一瞬、間違ったことを聞いたのかと思った。しかし優作は笑っていなかった。それどころか、再びこちらを見た瞳は冴え冴えとしてそら寒いほどだ。
灰原は絶句する。まるで、たった今まで草食動物だと信じていた生き物が、肉食獣に早変わりしたようだ。男の殺伐とした色のない表情は何だろう、あからさまな敵意が剥き出しである。
「そう、こんなふうに──」
男は冷たく言うのだ。
「あなたが組織に見つかったとする。彼らは、どういう経緯でか阿笠博士の世話になっているあなたを、用心深く調査することはないだろうか? 例えばこの家を。ここから工藤新一の名前が浮かび上がることはないですか──あなたが脅されてもいい、あなた自身の口から、新一の名前が出ることはないと言い切れますか。そしてこれは全く極めつけだ──組織に捕まったあなたを助けるべく、新一自身が自ら動くことはありませんか」
全てわからないとしか答えられない問いだった。灰原は男を厳しくねめつける。
「……そういった問題は、起こる以前に論じても仕方ないと思います」
優作はひょいと肩を竦めた。その余裕のある仕種が妙に悔しい。灰原は努めて冷淡に口を開く。
「確かに、息子さんが組織に発見されるより、私が発見される確率が高いのは認めます。けれども、だからと言って、私が工藤くんの情報を組織に売る必要が──」
「ありませんか? しかし、情報と引き換えに命の保証を手に入れることができるとしたら?」
「────」
「あなたは、自分が貴重な薬を生み出せる科学者だということを忘れている。組織としては、そういった人材を無闇に手放したくはないのでしょう? たとえ脆い鳥かごに囲った状態でも、生かしておきたいと思うのが人情だと思いますが?」
「……生憎ですが、私はそれほどプライドの低い人間ではありません」
「だといいですね。私はあなたを良く知らないので、信じることはできませんが」
何を言いたいのかと思う。灰原は、唇を噛みしめ優作を睨む。彼は胸元のポケットから煙草を取り出すと、殊更ゆっくりとした動作で火をつけた。
「……それから、一つ目の問いについて。あなたはそのうちという言葉を使いましたが、これも私には信用できない。何しろ、私も良く使う言葉なのですよ、いつどうなるかわからない事柄を誤魔化し──そのうち、と」
実際、薬の完成はいつになるかわからない。はらわたは煮えくり返っているというのに、またしても何も言い返すことができないのだ。
優作は、こちらが黙り込むのをじっくり眺めると、話は終わったとばかりに立ち上がった。
「──ところで、今新一が飲んでる薬はどれくらいストックあんの?」
覚えのない少年の声に、思わず顔を上げた。
声の主は、目の前の優作に他ならない。しかし今のそれは、口調も声音も全くの別物ではなかったか?
男が笑う。
「本物の新一の親父さんは、俺ほど性格悪くないし、今もニューヨークで原稿書いてるよ」
すかさず飛びのく。ソファーの背に回り、灰原は充分に男との距離を保つ。
「……あなた、誰?」
問いに対する答えはない。
ただ笑う男がいる。先ほどまでの優作とは明らかに違う笑い方をする男が。
「……あんたを殺したいな」
彼はひっそりと言うのだ。静かな殺意は本物だった。知らず身体中の産毛が総毛立つ。
「誰よ? 名乗って!」
こちらが動揺すればするほど、男が笑う。
「……今度来る時までに、薬の完成日決めといてくれ。それさえ決めることができないんなら、あんたは本気であいつの足を引っ張るだけの荷物になる」
悔しいが、自分一人では太刀打ちできそうもない。灰原は大声で阿笠を呼んだ。それでも目の前の男は逃げる素振りも見せず、悠然と笑っているのだ。
「どうか、くれぐれも組織に捕まらないで……」
阿笠が大きな足音を立てて廊下を駆けてくる。
灰原の緊張は今や極限に達していた。血という血が頭に昇ってくるようで、上手く息ができない。
時間の進みがひどく遅くなった気がした。老人を待つ一瞬一瞬が、コマ送りで進むような感じだった。
だが、気の遠くなるほど望んでいた阿笠が、リビングへ姿を現したその時──
部屋には、灰原一人だけが取り残されていた。
三組のティーカップが鎮座したテーブル。冷め切った紅茶は、何事もなかったかのように重く沈んでいる。
★
眠りの淵をどれほど彷徨っていただろう。意識はもうすっかり目覚めているのに、肝心の瞼だけが糸で縫いつけられたように開かない。新一は、ずいぶん長い時間夢を見ていた。様々な画像が取りとめもなく脳裏に映っては消える。とにかく、夢であると認識しながら抜け出ることができないのだ、それだけでも不自然な眠りだったと言わざるおえない。
当然、起きる寸前なんかも冷静そのものだった。
昼を快斗と一緒にとってから十時間近く経っているのではないか、とか、明日快斗は学校だろうに、彼の持っていた荷物の中に制服はないみたいだった、とか。夕食を食いっぱぐれた、なんてのもあったくらいだ。奇妙な違和感は眠っていても感じていた。だから、ようやく目が開いた時には──
やっぱり、自分の予感が正しかったことを知る。
視界がひどくかすんだ。頭は重いし身体はだるい。必然的に導き出されるアイテムは、睡眠薬、だろう、多分。となると、自分に恐れもなく不届きな薬を飲ませることができた人物は、たった一人である。
快斗、名前を呼んだつもりが舌が回らず、意味のない音になる。身を起こそうと身じろげば、何やら覚えのない柔らかな椅子の感触に驚かされた。更には、いつまで待っても視力が覚醒に追いつかず、辺り一面暗いままなのだ。
仕方なく、だるさを堪えて手に届くものを確かめた。
リクライニングの利く椅子は、肘掛までもがビロウドの手触りだ。しかも隣にも同じような椅子の肘掛があった。この柔らかさは充分心地良いが、足のつま先が何かに当たって先に伸ばすことができないのが窮屈である。
まるで映画館のようだ、思いついて、次にやっと我に返った。どうも暗い暗いと思っていたら、新一を取り囲む空間そのものが暗いのだ。決して視力がどうのという話ではない。
落ち着いて感覚を研ぎ澄まさせる。
匂いが新一の馴染むものではないことはすぐわかる。何だかクリーニング仕立ての衣服の香りだ、面積が広そうな雰囲気から言って、どこかのホールではないかと思う。それに、この、リクライニングが利きすぎて実用には向かない椅子。遠慮なしにもたれてしまえば、天井を仰ぎ見るまでにもなるのだ。
これは──あれだ。
「……快斗っ」
ついにまともな声が出せた。その頃には、天井が半球形になっていることにも気づいていた。
「──お、目ぇ覚めた?」
声は少し向こうから聞こえる。見れば、中央の巨大な機会に梯子を掛け、何やら器用に調整している男が一人。
「目ぇ覚めた、じゃねーだろ、お前!」
身を起こしながら言う。なぜか上手く動けないと思ったら、毛布でグルグル巻きにされているではないか。新一はぐいと身体を引き出し、立とうとしてまた毛布に足を取られる。
「──睡眠薬盛ったな?」
布と格闘しながら叫んでも、彼は悪びれもしない。
「見りゃわかんだろ、いろいろ準備があってな」
梯子の上から手をひらひら振って見せる。全くにくったらしいといったらないのだ。
「素直に誘っても、新一くんてば絶対ついてきてくれそうにないしぃ、俺もいろいろ考えたんだけどぉ」
今更ながらに、広いホールに快斗と二人きりなことを知った。だが通常ならそんなことはありえない。なぜなら、快斗が今いじっている機械が、新一の記憶違いでなければプラネタリウムの映写機だからだ。
まさかと思って時計を探すと、恐ろしいことに、今は夜中の一時である。
「……覚えてっかなぁ、プラネタリウム綺麗だったって話したの」
茫然となった新一に、彼はのんびり話すのだ。
「昼間は子供ばっかで、いっくら綺麗でも今いちムードに欠けんだよ……」
「……だからってお前、これは……」
犯罪ではないか。
また頭痛がした。いつの間にか、朝から尾を引いていた副作用は消えていたけれど、今はまた別の意味で心臓が痛い。
「──ところで具合はいいのか? 寒くなくても毛布着とけよ?」
タイミング良く快斗は言う。お手軽にも、それで文句を言う気を削がれてしまった新一は、半分不貞腐れて上等なリクライニングシートに沈み込んだ。
快斗はまだ映写機を調整している。
「……そんなもん動かせんのかよ」
言葉に意識して刺をつけた。ただし、こんなかわいい刺では彼の機嫌を損ねるまでいくわけがない。
「誰に訊いてんだよ、怪盗KIDだぜ?」
案の定、答える声は軽快だ。だから余計に意地を張ってみたくなる。
「今はただのガキじゃん」
「あぁのぉねぇ、残念ながら、マントとモノクルなくっても中身は一緒なんですー」
「……モノクルつけたら顔変わるくせ」
「失礼な。あんなもんなくったってイイ男だろ?」
答えてなんかやるものか。
確かに自惚れが許されるほどの男前は、子供っぽく無邪気に笑う顔だって、万人が見惚れてしまうほど男前ではあったけれど。
「……そこで沈黙するってことは何か? 新一はこの顔が嫌いってこと?」
自分の顔を指さして、自信満々に言うから飽きれる。
バーカ、ターコ、悪態をつく新一に、それでも快斗は楽しげに笑うのだ。
そうこうするうちにも、映写機の調整は進んでいたらしい。おし、完了。景気付けのように、快斗がぺしっと巨大な機体を叩く。
「さぁて、こっからが本番だからな。真っ暗になるけど、やたらに動いてコケたりすんなよ?」
彼は絶対新一を小学生と勘違いしている。悔しいので無視したが、敵はへこたれもしない強者だった。しまいには、悠々ホールを横切って映写室のドアをくぐり、そこの小窓からVサインなんかを掲げる始末だ。
バカ、ガキ、失敗しろ、タコ。これだけ本気で詰っているのに、何でこの文句が聞こえないのだろう。新一は真剣に拗ねていた。
真っ暗になっても、それは変わらなかった。例えあまりの闇に自分の手さえ見えなくとも、快斗への悪口雑言に差し障りはない。この完全な暗転も彼が引き起こすものだと思えばなおのこと、口のすべりは良くなる一方である。
ところが、さすがに、頭上に針で突いたような小さな光ができ始める頃になると、声を飲まずにはいられなくなるのだ。
半球形の丸天井が果てしない空に変わっていく。昔何度か見た覚えのあるプラネタリウムは、みんなこの最初に雰囲気ぶち壊しのアナウンスが入って、四方の空端に東西南北の文字が浮き上がるものだが、今夜は違う。これも快斗の趣向だろうか、子供向けの注意事項も、方向についてのくどい解説も全く入らない。
真っ暗闇が、見る間に満天の星空になった。濃紺の天空には、些細なスペースさえないくらい幾多の星がひしめき合っている。これでは肉眼に映る星が多すぎて、正しく星座を探すのだって一苦労だ。
しばらく声もなく見入っていると、控え目な音楽が流れ、男の声で詩の朗読が始まるのだ。
光素やら気層やらZYPRESSENやら、あまり普段は耳にしない言葉の羅列があったかと思えば、「四月の気層の光の底を、唾し、はぎしり行き来する、俺は一人の修羅なのだ」とくるから、宮沢賢治だったかと溜め息が出る。その他にも、日本文学界屈指の詩人が練り上げた幻想的な詩が淡々と朗読されていくのだ。不思議なことに、星そのものについての解説はほとんどない。
地球の自転にならって、天は少しずつ移り変わった。無言のうちにも、時折、星座があることを示す薄い線が空に現れ、星に紛れた星をつなぎ、気まぐれに消え、また別の場所で新たな線を引く。
こういう雰囲気は大好きだ。快斗に趣味を見抜かれているなと思う反面、完璧に人の喜ぶことをやって退ける彼を羨ましく思わずにはいられない。
ふと、隣のシートが軋む音がした。おそらく快斗のはずである。しかし素直に礼を言うには、ここまでの経緯がまずすぎる。新一はぶっきらぼうに彼を呼んだ。
「……快斗?」
「ん」
「お前ってつくずくタラシの才能あるよな」
「知ってるよ?」
もうちょっと慎みを持て。言った新一の方が後悔するではないか。
これだけ苛立つ会話が繰り返されながら、決して怒るまでに至らないのが納得のいかないところだった。自分が彼に甘いのか、快斗がずるいのか。果たしてどちらが正解なのだろうと考えあぐね、匙を投げるのが常である。そして今日も例に漏れず、新一は匙を投げるのだ。無粋極まりない堂々巡りは、目の前の満天の星に失礼だった。
しばらく、どちらも口を開くことはなかった。
お互いの顔の輪郭すらはっきりしない、完全な闇の中にこうしていると、地球上にいる人間が、自分と快斗のたった二人のような気がしてくる。何となく不安になって、彼がいるはずの隣を見る。その口許に手を当て、本当に呼吸をしているのか確かめたい気もしたが、新一は何でもないふうを装ってまた空を見上げた。
と。
快斗の手が、新一の腕に触れる。肘辺りからずっと肌を伝って手の甲を見つけ、その指すべてを上から絡めるようなやり方で手を繋がれた。
温かい体温にほっとする。まさか己の考えを読まれたとは思わないが、タイミングは絶妙だ。何となく息を飲んでいると、快斗がひそと呟いた。
「……お前んちの留守電、聞いたんだ」
今度こそ息が止まる。すぐにはどう取り繕うこともできず、完全に言葉を失った。
「今更ウソは言うなよ……? 本当のこと、聞きたいだけだから」
少し笑ったのかもしれない。けれど快斗の声はどこか緊張の滲む低さなのだ。新一は小さく息をついた。力の入っていた肩を、無理に呼吸を繰り返すことで落ち着ける。
留守電は──多分ほとんどが灰原哀からのもののはずだ。新一自身はもう三日くらい確認してはいないが、一日に大体十数件の割合で入っている。コールを鳴らすだけの時もあれば、メッセージがきっちり入っている時もある。
きっと快斗はおおよそのことに既に見当をつけているに違いない。そうでなければ、こんな尋ね方はしないだろう。単純に秘密にしていたことを怒っているのなら、もっと正面切って糾弾したはずだった。
「……薬の副作用って、かなりきつい?」
案の定、核心から突いてくる。
仕方ないと笑おうとして失敗する。新一は、いつの間にか震え出した手を握り拳を作ることで誤魔化した。
「心臓発作、みたいなもんかな……突然やってきて、でも治まればすぐ動けるようになる」
そっか、うなずく快斗は声を荒げる素振りもない。
「そういうの、ずっと続いてたらやばいんだろ?」
「うん……」
「……薬はどれくらい残ってる?」
「あと二週間分くらいは……」
そっか、言葉がぷつりと切れた。
星屑だらけの空の中央、かすかな線で作られたさそり座が消え、かんむり座が現れる。新一は見るともなしに空を見ていた。無数の小さな炎が涙の雫のように瞬く。
「それでも……」
快斗は、とうとう言った。
「それでもお前は工藤新一でいたいんだな」
うなずくことができない。どう答えていいか迷っていたら、つないでいる彼の手が自分と同じように震えていることに気がついて堪らなくなる。
──違うのだ。
新一はいっそのこと叫んでしまおうかと思った。喉の奥には、実際に言葉にすべき思いが形を成しかけて、今や遅しと機会を待っている。
だって、違うのだ。新一は快斗にこんなことを言わせたかったわけではない。快斗に悲しんでほしかったわけではない。そうではなく、本当はずっと喜んでほしかったのだ。
コナンでいた頃、いつも一緒にいる時間は限られていた。どんなに望んでも自由にお互いを行き来することもできなかったし、快斗には気ばかりを使わせた。
そういうのが堪らなく嫌だった。
時には夜中電話をしていたい時だってあったし、人目なんか気にせず馬鹿騒ぎしたい時だってあった。ちょっと遠出してみたい時もあったし、腹を空かせてやってくる彼に食事を出したい時だってあった。でも、コナンでいると必ず、どんな動作を起こす時にも誰かの了解が必要になる。
嫌だったのだ。快斗がコナンのために遠慮してくれたり、いらない骨を折ったりすることが、どうしても悔しくてならなかった。
だから新一でいられる間は新一でいようと決意した。
少しくらいの危険は気にならなかった。そうすることで、もし快斗が──新一がいつもそうであるように、一緒にいてとても幸せな気分を感じることができるなら、多少の痛みは甘んじて受け入れようと思った。
それがどうだろう。結果として、新一は快斗にいらない苦痛を与えているだけである。
「……快……っ」
名を呼ぼうとして、きつく絡まった指に止められる。
「本当は俺、良くわかんねー……お前がすごく痛がってる時にも、もしかしたら知らずに一人ではしゃいでた時とかあったと思う。でも……でも、さ」
暗闇の中を必死で探した。快斗の瞳は、今きっとこちらを見ているはずだった。
けれどどうしても見つからないのだ。今気持ちを伝えなければ、彼はもっと苦しむだろうとわかっているのに。
「……お前がつらいのが一番嫌だ」
それは新一の台詞だ。
「何もできねぇと思うと、自分でもわけわかんなくなるくらい……」
どこかが痛いような快斗の声は、途中で小さく消えてしまう。
続きは、新一の唇の上でだった。ひどく温かく柔らかいものが、何度もそこを掠るようにして言葉を綴る。
「好き、だ。好きだ、好き……」
これ以上もなく近づいた吐息に首が竦んだ。口先に触れるものが彼の唇だと思うと、わけもなく泣きたくなる。熱っぽい囁きに眩暈がした。薄い皮膚の上、何度も落とされる刻印は、一秒ごとに新一の身体から自分で立ち上がる力を奪っていくようだった。
こういう感情を、何と言うのだろう。
触れ合っていた唇が、明確な意思を持って重なりあう。小鳥がするのと同じ、ついばむ口付けは、心の波に比例して次第に深いものへと変わっていった。
好きだ、快斗が言う。新一は答える代わりに、彼の身体を思い切り引き寄せた。
人の体温が心地良いなんて嘘だ。
ただ温かくせつないそれにしがみつきながら、新一は終始泣きたい思いと戦っていた。
結局耐え切れず、少しだけ涙を零してしまったことは、内緒である。
新一が泣いたなどと知ったら、快斗はまた困ったように眉を寄せたに違いないのだから。