王様の恋

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 深夜、怪盗KIDに扮した快斗は、上空で旋回を続けるハンググライダーを巧みに操り、新一のマンションのベランダへと降り立った。
 この窓の鍵は家を出る時に開けておいた。予定通り、快斗が手を掛ければあっさり開く。リビングに明かりはなく、部屋主の姿もない。
 動きにくいシルクハットとマントをまとめ、ソファーに投げる。途端、小さな痛みが脇腹を緊張させた。快斗はゆっくり息を吐き、痛みの根源を確かめるため上着をはだける。
 左脇腹付近のシャツに赤黒い染みができている。不覚にも、こちらから仕掛けた相手に返りうたれた傷だった。
 このままでは上着に血がつきそうだ。快斗は気だるく袖を抜こうとし、けれどもかすかな物音に、素早く身なりを整えた。
 ドアが開く。遠慮ぎみにそこから顔を覗かせた新一は、KIDの姿を見つけると、小さく目を瞠り、次に困ったように瞬きする。
 実は快斗も困っていたりする。怪盗KIDの衣装をつけているだけで後ろめたいというのに、今夜は別に秘密にしておきたいことまで抱えているのだ。
「……起こしたか?」
 とりあえず、できるだけ普通の声で言ってみた。新一が特に怒っているわけでもなさそうに首を振ったので、快斗はひとまず安心する。
「もう寝ろよ、俺も寝るし」
 笑って促すが、それでも彼は動きづらそうに快斗を見る。
「……どうした?」
 つい問い掛けてしまうのだ。あまり追求すると、絶対自分にいい方向に話はいかないと知っているのに。
 それでも新一は口にするのをためらったらしい。彼の声音に咎める響きがなかったのは、もしかしたら、快斗から常とは違う雰囲気を感じ取ったせいかもしれなかった。
「硝煙のにおいがする」
 ためらいがちに告げられた言葉に、知らず苦笑がもれた。快斗は未だ掛けたままだったモノクルを外し、マントの上に投げる。
「……中森警部に会ったよ」
 しかしこれでは何の言い訳にもなるまい。日本の警官が発砲するのは、相手が同じように拳銃を所持している場合か、罪人の持つ凶器で一般市民にまで危険が及ぶ場合のみである。そうでなくとも保守的な民族なのだ。例えばクリーンなイメージしかない怪盗を相手に、硝煙のにおいがつくほどの近距離で、発砲する勇気があるわけがない。
 新一もそのことには気づいている。だからふと顔をしかめ、悔しげにそっぽを向くのだ。
「ふぅん、相変わらず無茶してんだな」
 全然納得していない声だ。快斗は薄く笑い、うつむいて頭を掻いた。
「頼むから訊かないでくれ。ウソはつきたくない」
「先にウソって宣言すんな!」
 そのうち大怪我しても知んねーぞ、新一は一言言い捨てると、さっさと踵を返してしまった。
 怒らせたとわかっていても、後を追うことはできない。頑なな快斗の態度に、いよいよ苛立った新一が、寝室の戸口で振り返り、こちらをきつく睨みつける。
「明日は学校行けよ!」
 手を振って応えた。行くと断言しないところがまた姑息だと、自分で自分に突っ込みながら、快斗はそっと溜め息をつく。
 上着を脱ぐ。それから重い足を引きずってバスルームへ向かった。
 脇腹の傷は、弾がかすって皮を剥がしただけの浅いものだが、火傷みたいにじわりと痛む。銃の傷は治りも遅いし、厄介なのだ。洗面所でシャツを捲くり、とりあえず傷の具合を確かめた快斗は、すっかり消耗しきった顔色の自分に、複雑な目を向けた。
 まるで自分ではない、断罪を待つ罪人の表情をした自分が、鏡の中にいる。
 ゆっくりと息を吐き出す。新一の前にいた時も、やはり快斗はこんな表情をしていたのだろうか。これでは不審に思われても仕方なかった。何だか笑えてしまうくらい、この世の終わりみたいな顔なのだ。
「……なっさけねー……」
 少しだけ笑って、すぐに頭を切り替える。
 簡単に傷の手当てをし、真っ暗なリビングに戻った。もちろん新一の姿はなく、快斗は足を投げ出すようにしてソファーに座り込む。それから無防備に放置していたKIDの衣装を引き寄せ、高性能の小型探知機を取り出した。
 テレビのリモコンほどの画面の中に、緑色に点滅を繰り返す一点がある。
 この電波を送っている発信機は、わざわざ脇腹に弾丸をかすらせながら取り付けた、快斗の苦労の賜物だった。相手は、通称ソルティードックと言って、巷で知られる情報屋だ。
 警察から盗み見た情報が正しければ、ソルティードックの名を持つ男は、港近くの廃屋を縄張りにしている。外国人の密入国が主な稼ぎで、裏の麻薬密売ルートに深く精通しているとか何とか。しかし、奴に余罪がいくつあるなどという話は、快斗にとってどうでも良く、肝心なのは、奴の背後に大きな組織があるらしいという真偽の計れぬ一点であった。
 しかし今夜の会合で快斗は手ごたえを感じている。ソルティードックは、組織のことをほのめかしただけで、見事に逆上してくれた。
 おそらく奴は組織の底辺に組み込まれた一人だった。快斗には、捜し出してどうするといった具体的な目標はなかったが、こうして奴が発信する小さなランプを見ていると、奇妙に残酷な心地になるのだ。
 その点滅を、消してしまいたいと思う。
 本気になって探せば、そう時間をかけずに探知機一杯の緑の点滅は見れるだろう。そして快斗は、できればそれを片っ端から処分していきたかった。そうしていれば、いつか新一のことを覚えている人間を消してしまえるはずだと思う。十人でも二十人でも百人でも、組織の人間を快斗が殺せば殺すだけ、新一は安全になっていくような錯覚に陥っていた。
 我に返って、思わず探知機を白い衣装の中の奥に埋めこむ。時々、自分が何をやっているのかわからなくなるのだ。快斗は深く深呼吸し、無理やり気分を落ち着けた。
 もう何も考えたくはなかった。すぐに泥のように眠ってしまいたくて、けれどふと、新一が恋しくてどうにも動けなくなる。
 迷ったのち、快斗は寝顔を見るだけでもと彼の部屋のドアを開いた。ところが中を覗いた途端、ぱっちり開いた彼の目と目が合ってしまうから、何とも言えない嬉しいような悲しいような感情で、たちどころに胸を敷き詰められる。
 新一は今更寝たふりを始めていた。快斗は足音をたてずに彼の枕もとに立ち、子供のように力一杯目を閉じてしまっている新一を見つめる。
 その様がひどく愛しかった。
 小さく口付けた。唇に触れた途端、彼はますます身を竦めてしまったが、こんな些細な接触だけで、快斗は世界一幸せな気分になれるのだ。
「夢見るんだったら俺の夢にしてね」
 今夜だけは、そんな小さな暗示に効き目があることを、切実に祈った。
 
 ★
 
 翌朝、新一は電話を前に悩んでいる。
 快斗は朝早くに学校へ行くと言って出て行ったが、あれはどう考えても学校へ行く雰囲気ではなかった。多分彼は彼で、相当煮詰まっているに違いない。新一が中途半端なことをしたのも悪かったのだ。いらない心配ばかりかけている自覚は、さすがにある。
 結局、戻るところはひとつなのだ、逃げていても何も解決しない。新一は決心を固めて、留守電のランプが灯った電話を睨むのだ。
 しかしいざ掛けようとすると、不思議なもので、申し訳なさに手が止まってしまう。今更電話を掛けても灰原は怒って出てくれないのではないかとか、変なことが怖くて最後の踏ん切りがつかない。
 うだうだ迷っていると、今日も今日とて電話は掛かってくる。すっかり取るタイミングを忘れてしまった新一は、応答メッセージが流れるのを、複雑な心境で聞いていた。
「──新一、おらんのか?」
 電話は阿笠からのものだった。出ようか出まいか散々迷いつつ、やっぱり身体は動かない。新一は困りきって電話を睨み続ける。
 が、老人の話を聞くにつれ、迷っている場合ではないことを知らずにはいられない。
「話したいことがある、至急連絡をくれ。優作くんに化けた男が哀くんに会いに来たぞ。例の、黒の犯罪組織の者かもしれん──とにかく話がしたい」
 誰がどうしたのかなんて考えるまでもなかった。
 衝動的に受話器を持ち上げ、新一は観念して口を開く。
「博士……」
 阿笠のほっとした溜め息が聞こえた。新一は小さく笑って、彼に灰原と代わってくれるよう頼む。
 
 ★
 
 学校に行くなんて嘘をついてしまったから、朝から気分は滅入りがちだ。そうでなくとも快斗には、自分が根の暗いことをしている自覚がある。
 制服姿の学生たちが通りを行き来する時間帯だった。いつも歩く高校への通学路を一人で逆行し、快斗は無人の自宅を目指していた。何人か知り合いを見かけないではなかったが、全て無視する。今話し掛けられても、快斗の方がまともな受け答えはできない。
 しかし、そう思っているところに一番会いたくない相手は来るもので──制服の集団の中に、自分の幼なじみを見つけた時、快斗はそのまま脇道に逸れてしまおうかと考えた。
 けれどもその判断も一瞬遅かった。快斗が彼女に目を止めたのと同時に、彼女も快斗の姿に気づいている。
 青子はすぐに駆け寄ってきた。できれば放っておいてほしいと思う快斗におかまいなしに、身内にそうするよう気安く肩を叩く。
「ちょっとぉ。何で私服なの、学校来るんでしょ?」
 返事すら返したくないと思う自分は、やはりどこかを狂わされているに違いない。こちらを覗き込む幼なじみの視線も満足に受け止められなかった。疚しいと言うより、何もかもが鬱陶しいのだ。
 だって、人を殺そうとしているどこの男が、親しい友人と冗談まじりの会話ができるだろう。
 無言のまますれ違おうとして、今度は腕を掴まれる。無神経にそうした彼女を本気で睨んでしまって──怯えた表情に我を取り戻した。
 緩く腕を振り払う。青子は愕然とした面持ちで、常とは違う快斗を見上げている。
「……何か、あった、の?」
 不安げな声にも、いつものように笑ってやることができない。
 本当は、この口からは、やさしい台詞なんか山のように出るはずだった。この手だって、誰かを傷つけるためのものじゃない。けれど、今、何もかもを煩わしく思う心を抑えてまで、上手く立ち回る自信がなかった。
 たった一人のためにしか動けない自分がいるのだ。
「悪ぃ……今、頭動かねぇんだ……」
 口の中で呟いた言葉は、彼女に聞こえていただろうか。
 快斗は立ちすくむ幼なじみを残し、自宅への道を急いだ。
 
 母親がまだ帰っていないことに感謝しながら、自宅の敷居を跨ぐ。自分の部屋に直行し、そこから更に隠し部屋へと足を踏み入れる。
 雑然とした部屋だった。マジックの道具一式はもちろんのこと、爆竹や花火の類も豊富に揃えてある。おまけに隅のダンボール箱には、爆弾の材料までが蓄えられていた。
 座るスペースさえ心もとないそこで、どうにか物を避けて充分な場所を作る。快斗はまず父・盗一の残したメモのスクラップを手に取り、爆弾の作り方について書かれたページを開いた。それからいくつかのダンボール箱を引き寄せる。中には、一見ガラクタにしか見えない、配線に使う導線やら鉄板、安物の時計などが詰め込まれている。
 おもむろに小さな目覚し時計を取り上げた。
 快斗はこれから己がすることを犯罪だと知っている。
 お遊びの窃盗や、偽善的な宝捜しが理由でもない。ただ人を殺すために爆弾を作る。誰が許しても新一は許さないだろうな、思うけれど、どうにも止めることができないのだ。
 彼を守りたいとか、安全でいてほしいとか、直接の理由は多分それだけではない。
 彼のために自分ができること──
 快斗は目覚まし時計を解体しながら、漠然と未来を思う。幸せを掴むためには、時に反則技だって必要に違いない。
 たとえ、彼につく嘘の数が増えたとしても。
 
 快斗が仕掛けた爆弾の数は四つ。
 今夜ソルティードックがどこに現れるのか、正確なところは知らない。けれど、おそらく四箇所のうちのどこかだという確信はあった。
 それがどこになろうと、例えばそこに何の関係もない一般人がいても、快斗は遠隔リモコンのスイッチを入れるだろう。
 罪悪感はない。
 ただ、新一に嘘をつくのが嫌だった。
 
 

 
 灰原哀は、夕食の済んだリビングを一人で片付けていた。阿笠は早速研究室へ返っていったし、客人もいなくなった。今夜は皿が一組分多いが、そんなことは労力にあまり関係ない。実を言えば、組織のお抱え科学者だった頃には、水仕事など一切やったこともなかったのだ。それが、阿笠宅へ居候するようになってからは、生活習慣までが変わり、できるかぎりの家事をすすんで手伝うようになった。
 APTX4869のせいで子供に戻り、俗世が当たり前にある生活を過ごすうち、灰原は自分が多くのことを忘れていたことに気づかずにはいられなかった。他人と意思の疎通を図る、ということから始まって、学校へ行き友人と授業を受けたり、買い物や旅行へ行ったりという義務や娯楽など、日常の大部分を研究に費やしていた灰原は、不通の人間が、当たり前に経験するほとんどのことに不慣れだった。
 だから子供に返って初めて知ったことも多い。
 例えば、誰かを好きになること、とか。
 クラスメイトの歩美は、今日もコナンの話を灰原に切り出した。彼女は、コナンが、工藤新一という別人の仮の姿だったことを知らない。もちろん、灰原も歩美にそれを知らせる気はなかった。ただ何となく、コナンがどこの学校へ転校したのかと毎日気をもんでいる彼女が、羨ましくてならない。
 基本的に灰原は、誰かを一途に恋することができないタイプである。恋どころか、まず特定の相手に執着することがない。
 自分にできないことをやれる人間は、単純に尊敬する。相手が一回りも年齢の違う歩美であっても同じことだ。
 午前中、ようやく連絡の取れた新一と話したときには、それで驚いた。どこかで新一も自分と似たタイプだと決め付けてしまっていたのかもしれない。とにかく謝られ、優作の振りをして訪れた相手を猛然と弁護され、灰原は今までの彼の不義理を問う暇すらなかった。
 おかげで見事に怒る気を削がれた。大体、弁護するだけの新一はまだ穏やかだ。その弁護された相手はといえば、何だか激しく新一を大事にしていたみたいではないか。殺してやりたいとまで言われた灰原は、全くもって踏んだり蹴ったりである。
 かなり癪だったので、絶対に優作の振りをしていた男と会わせてくれと依頼した。新一は戸惑ったようだったが、灰原は強引に約束を取り付けた。
 あの男の口ぶりでは、どうせそのうち再び現れるだろうことは予想できる。だが、その時にはぜひとも素顔でお目にかかりたいのだ。
 どこの大天才が喧嘩を吹っかけてきたのか知らないが、あれだけ見事にディスクのガードを解いた腕は並じゃない。文句も言いたいし、できればその技量を測ってもみたかった。男は灰原のプライドを刺激したのだ。新一の荷物にしかならないなどと、言われっぱなしにできるわけがない。
 あの時のことは、今思い出しても腹が立つばかりだ。汚れた食器を手早くトレーに積み重ねながら、灰原は怒りを再燃させる。
 と、小さな物音が聞こえた。かすかな──けれど決して無視のできない音だった。灰原は持ち上げかけていた皿をテーブルに戻し、注意深く辺りを確かめる。
 何も異常はないかに見えた。
 しかし次の瞬間、窓の外に見えた人影に目を瞠らずにはいられなくなるのだ。
 テラスに悠然と立つ姿は、白い衣装を身に纏った、あまりにも世に有名な怪盗だった。
「……怪盗KID……」
 しかも、驚くこちらを前に、彼は恭しく一礼して見せる。気障な男だとは聞いていたが、実際目にすると驚くばかりである。何より、マントやモノクルで彩られた姿が気後れするほど優雅なのだ。ただ立っているだけで強烈に人を惹き付ける何かが、彼にはある。
 立ちすくんでいる灰原にかまわず、怪盗はゆっくりと部屋へ入ってきた。いつの間に鍵を外していたのだろう、両開きの窓は、彼が押しただけで簡単に開いた。
「こんばんは、お嬢さん」
 その言い回しには、どこか聞き覚えがあった。
 じっと注視する。怪盗は小さく笑ったようだった。
「あなたに会うのは二度目なのですがね?」
 ひっそりと呟く声。聞き覚えがあるのは確かなのだ。しかし上手く思い出すことができず、灰原は眉をひそめた。
「悪いけど思い出せないわ。あなたに会う機会なんて、テレビの中にしかないと思ってたから」
 彼が楽しげに笑った。少し皮肉げな、人をからかっているような声だ。
 あれ?、と思う。今、何かが灰原の頭をかすめた。
「……まだわかりませんか?」
 からかう素振りもそのままにKIDは言うのだ。
 どこかが感に障る。同じ感覚を、つい最近自分は味わったはずなのだ。
 かなりの時間彼を睨んで考えていた灰原は、ある時唐突に閃いた。
「あなたが……?」
 それでも出てきた言葉は疑問詞だ。だってまさかこんな相手が出てくるとは思わないではないか。けれど、考えてみれば、彼ほど完璧に変装をこなす人間もいない。
 あの時の工藤優作は、怪盗KIDだったのだ。
 驚愕する灰原をよそに、KIDは早速口を開く。
「薬はできましたか?」
 まだよ、半ば呆然と答えた。
「いつになったらできますか?」
 淡々と彼は問う。ようやく場の展開に追いついた灰原は、頭を抱えつつも、慎重に言葉を選んだ。
「もうすぐ……今年中には必ず」
「本当に?」
「信じてくれていいわ……、あなたに私を信じる気があるのなら」
 無言のままKIDは笑う。ひどく自嘲的な笑みだった。
 怪盗KIDと江戸川コナンは、灰原の知るうちでは三度対立している。そんな彼らが、どういった経緯で付き合っているのか想像もつかない。だが、図らずも灰原は、素顔の彼と向き合うことになった。変装を解いたからと言って目の前の姿が本物だとは思いがたいが、優作の姿よりはまだ真実の姿に近い。
 頭の良い相手だろうとは思っていたが、まさか怪盗だったとは──驚くよりも、呆れてしまうではないか。
「……あなたと工藤くんって、何だか変ね」
「そうですか?」
「ええ。似合ってるような気もするし、似合ってないような気もする。一緒にいて辛くないの?」
「どうして?」
「見てるものが別だから」
 灰原に特別な意図があったわけではない。ただ、見て思ったことを口にしただけだった。しかしKIDには堪える台詞だったらしい。苦笑した顔が、一瞬若い少年のものに見えた。
「……確かに見てるものは別でしょうね」
 彼は自嘲し、懐から何かの探知機を取り出すのだ。
「ソルティードックという名を知っていますか」
 彼は突然言う。恐ろしく懐かしい名前を聞いた灰原は、前触れもなくそう言った怪盗に、ある種の感動を覚えた。
「……知っているわ。組織の下っ端の情報屋ね」
「らしいですね。昨日初めてお会いしましたよ」
 良く捜し出したと思う。確かに組織の人間の中で、一番名が公になりやすいのは、ソルティードックのような情報屋連中には違いないが、それでも彼らこそ最も抜け目のない特殊部隊なのだ。お互いの情報を駆使して、危険からは常に一歩退いた場所にいる。極端な話、向こうが会いたいと思うなら姿を見せもするが、こちらが会いたいと思っても、姿を見つけることは不可能に近い。彼らは強い武器を持たぬ代わりに情報を使う。時には、それを混乱させ、多くの人間を自殺に追い込むようなことまでやって退けるのだ。
 そんな輩に、KIDは会ったと言った。かなり危険な橋だったはずだ。灰原は、知らず手に汗をかく。
「見てください」
 彼は手にしていた探知機を、無造作に投げて寄越した。見れば、緑色をした光が、ゆっくりと地図の上を移動している。
「……ソルティードックは今そこにいる。多分、港の廃屋に向かっているのでしょう。昨日私と出くわしたばかりだというのに……意外と無用心な男ですね」
 発信機か。用心深く身体をチェックする彼らの、一体どこに取り付けたのだ。灰原は、KIDにますます底知れない畏怖を感じずにはいられなかった。
 ところが一変して冷たい瞳で彼は言うのだ。
「廃屋には爆弾が仕掛けてあります。もし彼が今夜そこに行くつもりなら、私は彼を殺してしまう」
 彼は静かに灰原を見た。まるで命を持たぬものを見ている眼だった。感情の読めないそれに、生理的な震えが起こる。
 彼は本気だ。灰原は思わず後ずさった。
 そんな時だった。
「何言ってんだよ、バーカ」
 突然聞こえたそれに、激しく動揺したのはKIDの方である。灰原は、一瞬にして崩れた彼の様子に、心底ほっとして後ろを振り返った。
 戸口の隙間から滑り込むように現れた男は、灰原ではなくKIDに視線を合わせ、軽く微笑んでみせる。
 見れば、あれほど悠然とかまえていたKIDが、今にも倒れそうに蒼白だ。
「……新一……」
 呟く声が揺れている。
「誰がお前に人殺しなんかさせるかよ」
 新一の不敵な台詞が、薄く滞った空気を貫き、朗々と響いた。
 
 ★
 
「誰がお前に人殺しなんかさせるかよ」
 そう言った新一を、嫌になるほど好きだと思った。
 こちらを真っ直ぐに睨む瞳が、彼の心の高潔さそのままにきらきらと輝いている。快斗は今にも目を伏せてしまいそうな己の弱さを恥じ、同時に、絶対的な正しさを見せる新一を尊敬せずにはいられなかった。
 駄目だと思う。この目を見た後では、どんなに固い決意も疚しさがある限り崩れるに決まっている。
 そうかと思えば──
「……なぁ、俺、薬返したんだ」
 はにかむように笑うのだ。
「ニ、三日したらまたコナンに戻るけど……仕方ないよな、すぐに灰原が新しい薬作ってくれるって言うし」
 快斗もとうとう苦笑いになる。目の端で、その灰原が部屋を出て行くのを見ながら、もう溜め息くらいしか出てこなかった。
 新一が真摯に手を差し出す。
「探知機と、爆弾のリモコン……あるんだろ、出せよ。もういらないよな?」
 いると言っても許してはくれないくせに。
 素直に渡せば、彼はまた笑うのだ。こんな時に一番好きな顔で笑ってほしくはないと思う快斗に気づいているのかいないのか、鈍感なくらい綺麗な笑顔を見せる。
 とても胸が痛い。
「いいか──もしもまたあの組織の情報掴むことがあったら、お前だけで行動するんじゃなく、俺に先に教えろよな。きっちり言っとくけど、やつらと戦いたいのは俺だろ? お前に殺してもらっても、全然嬉しくねーんだからさ」
 胸が痛い。とても彼の顔を見ていられない。痛い、痛い、痛い、痛い──快斗はたまらず目を逸らす。
 こんな痛みなんか、きっと新一は知らないのだ。だからそんなふうに笑える。だから今の快斗を平気な顔で見れる。多分思いの深さは痛みに比例するのだ。新一は確かに快斗のことを好きでいてくれたけれど、快斗と同じ種類の「好き」ではないのかもしれない。
「……なぁ。あんまり危ないことするなよ」
 危なくなんかなかった。ただ、何だか本当に、何をすればいいのかわからなかったのだ。快斗が新一のためにできることを探していたら、それしか見つけられなかった。快斗にできて、絶対に新一にできないことは、たったひとつしかなかったから。
 痛い、痛い、痛い。
 何だか言葉すら上手く使えない。
「……なぁ……」
 痛い、痛い、痛い。
 心臓も。目も、手も、足も。頭も、心も。何もかも。
「……快斗ぉ……」
 新一の声が震えた。
 今更彼を見る勇気はなく、それでも再び自分を呼ぶ声に、快斗はかすかに顔を上げる。
 そして、ようやく気がついた。新一の足元にある、小さな雫の水溜り。見る間にひとつふたつとそれは増えていくのだ。一体いつからそうだったのだろう、今の今まで全く気づかなかったなんて。
 慌てて顔を上げる。上げて、更に驚く。新一がかつてなく盛大に大泣きしているではないか。慰めるとか、涙を止めてやるとか、そういうことは快斗の頭にも既に浮かばない。ただ、もう──
「泣き虫ー……っ」
 笑ってしまう。笑いながら彼の肩を抱いて、結局堪えきれずに快斗も一緒に泣いてしまった。