2.
新一を送り出した快斗は、一人になるとベッドに身を投げ出した。妙に気分が高揚しているのだ。もちろんそれは新一のせいに他ならなかったけれど、こんなことは自分でも初めてで、何だか気持ちを持て余してしまう。
推理小説のぎっしり詰まった本棚以外、これといって全く飾りっけのない新一の部屋。空気も匂いも完全に快斗の慣れ親しんだものではないのに、どうしてだか好きだと思う。
「……まいった」
呟いた快斗は、たまらずに目を腕で覆った。真昼の陽光が一杯詰まった部屋では、そうしていても瞼が明るい。
人を喜ばせるのが楽しくてマジックを始めた。今では専ら泥棒業の道具にしてしまったけれど、そういった本質までもを見失ってしまったわけではない。今でも人を喜ばせるのは好きだし、怒りとか恨みとか悲しみなどといった負の感情であっても、他人から何らかの感情を引き出すことには、単純な魅力を感じる。
例えばそれが誰かの笑顔なら。
快斗は無条件で自分を差し出すこともできるだろう。端から見ればどれだけみっともない様も、子供のように声を上げて泣くことすらいとわない。
例えばそれが新一であったなら。
ふと吐息する。
悲しいのか嬉しいのか苦しいのかも区別がつかない、ひどく曖昧な感情が胸を満たしていた。
出会ってほんの少し。たった少しの間に、その存在は快斗の心の奥深くに消えない刺をさした。そこからじわじわ生まれる痛みは、自分が怪盗KIDである所以なのか、彼を欺いているという罪の意識なのか、そのどちらでもないのか。
大体、あんなに真っ直ぐ快斗を覗き込む新一も悪い。あれでは快斗も嘘がつけない。得意だったポーカーフェイスも出番のないままだった。不用意に相手の内に飛び込む台詞を吐いて、新一を戸惑わせた自覚もある。
でも、おかげで快斗だって、ぎりぎりの言葉を余儀なくされた。彼への問いかけは、自分自身へ問い掛けるのと同じだった。
ずっと人を欺いてきた自分が、彼だけは欺きたくないと願う。多分そのせいで胸が痛むのだ。
こんなことなら二人でいた方がずっと楽、早く帰ってこないかな。ごちゃごちゃ考えた上で、結局行き着く結論はそれで、自分で自分に笑ってしまう。
誰かを好き、という思いは、本当はずっと簡単な感情なのかもしれない。
もし同じクラスに新一がいたら、きっと一番に友人になったはずだ。もし兄や弟がいて、それが新一だったなら、滅茶苦茶衝突してでもお互いのことは何でもわかる兄弟になっただろう。
反対に、もし新一が女性として目の前に現れたなら、快斗は格好ばかり取り繕って多分恋どころではない。でも確信はある。新一が女だったら、絶対に自分の格好悪いところは見せないはずだ。それで嫌われたとしても、弱みなんて見せたくない。
けれど幸い、新一は男として目の前に現れた。
かなりきつめの瞳も、綺麗な笑い顔も、どっちも快斗のお気に入りだ。今なら、新一の選び方ひとつで友人にも恋人にもなってやれる。
心境は、かなり下僕に近い気がした。何か格好悪いな、考え込んだ快斗は、すぐに別の良い言葉を思い浮かべる。
騎士、だ。主に忠誠を誓う騎士。どうせなるのなら、そっちがいい。
勝手に決めて、ひどく楽しい気分で目を開ける。時計は、ようやく3時を回っていた。
とは言え、一人は暇だ。
しばらく推理小説を読んで暇をつぶしていた快斗だったが、それにも飽きてまたベッドに大の字になった。
もうそろそろ陽も暮れる。だいぶ長くなった影が、部屋のあちこちに縞を作っていた。
どこを見るともなく部屋の中を見回していた快斗は、机の上にあるカレンダーに目を留めた。
一月のカレンダー。
「……何やってんだ、あいつ……?」
快斗の記憶でいけば、今は十一月だ。今日はたまたま暖かいが、そろそろ吹く風が指をかじかませるようになる頃である。
新一がこんなところでだらしがないとは知らなかった。もっと几帳面な男だと感じていたので、ひどく意外に感じる。
快斗はベッドから立ち上がり、そのカレンダーを破ろうと手を延ばした。だがやはり小さなひっかかりは外れず、少しの間躊躇する。
だって、十一月のはずだろう?
頭では思うのに、無償に胸騒ぎのする快斗だ。
そう言えば、さっき新一を玄関までおくって行った時、少し気温が低すぎるような気もした。この部屋は暖房があってよくわからないが、窓を開ければ、十一月とは思えない冷たい空気が流れ込んでもきた。
まさかとは思う。けれど、ここには今が十一月であるという証拠は何もない。
快斗は階下のリビングにテレビがあったことを思い出した。主のいない家を歩き回ることに抵抗はあったが、このままでは納得がいかない。
部屋を出て階段を下りる。すぐ脇にあるリビングに、快斗は足を踏み入れた。
新一の部屋と同様に、明るい色調の部屋だ。ただあまり使っていないのか、生活感がない。
こんな大きな家にほとんど一人暮らし状態だと言っていた。あの新一の言葉は、決して大袈裟ではなかったのだろう。
快斗はとにかくテレビをつけた。どのテレビ局でも、そろそろニュース番組が始まる時間だ。リモコンでチャンネルを変えながら、どんどん強まる予感をやり過ごす。
ついに見つけた。
ニュースキャスターのデスク脇。日めくり式のカレンダーは、一月の日付になっている。
「……どうなってんだ」
快斗は茫然と呟いた。
何とか頭を整理しようとしたが、それより先にニュースの内容に目がいった。
覚えている、政界での大々的な汚職事件。この事件は確か、主犯格の議員の辞任で幕を閉じたはずだ。快斗の覚えでは、もう人の口にすらのぼらなくなった事件なのに、夕方のニュースでトップ扱いを受けているではないか。
本当に一月なのだろうか。
でも自分の頭がおかしくなったとは到底思えない。だって記憶は記憶としてあるのだ。記憶は、夢でも幻でもない。快斗は十ヶ月間の未来を多く過ごした。何がどうなってこうなったのか見当もつかないが、自分が狂っているわけではないことは保証できる、信じている。
では、なぜ?
快斗だけが過去に戻ったとでも?
ふと見上げた視線の先に、洗面所の明かりが見える。本格的に陽も暮れ始めた室内は薄暗く、テレビと洗面所の光がリビングの広い窓に反射しているのだ。
その窓の光に、快斗は白を見た。
どくりと、奇妙な鼓動が身体を駆け抜けた。
途端に忘れていた緊張感が蘇る。自分の耳の傍で鳴り響く激しい鼓動が、快斗の頭を白く塗りつぶしていくようだ。
その白の正体を、知っているはずだった。
快斗はそろりと足を動かした。
オレンジ色の光がこぼれる洗面所のほうへ、一歩、二歩。窓ガラスに映った白は、進むにつれどんどん明瞭になっていく。
白──そう、KIDの白だ。
洗面所を覗いた快斗は、こらえていた息を一気に吐き出す。
記憶が溢れてくる。どうして自分がここにいるのか、どうしてこんな状況に陥っているのか、全てが正しい形を取り戻していくみたいだ。
洗面所の壁には、ハンガーで吊るされたKIDの白いスーツがある。あちこち泥まみれになって、埃っぽくなったそれは、爆風に吹き飛ばされた時の名残だった。
「俺は……」
あの時、竹林で。
幻覚作用があるという薬を口に含まされた。
やっと隠れた場所でそのまま気を失って……昼の頭痛は、きっと薬の後遺症だ。今なら全部わかる。意識を取り戻した自分は、おそらく何とか都内まで帰ってきたのだ。しかし自宅までは持たずに再び昏倒。意識が朦朧としてきたあたりで、新一という助け手に出会ったのだろう。
ぼんやりとだが快斗は一部始終を思い出した。こうなってしまえば、却って今まで思い出さなかったのが不思議なくらいだ。
当然、過去にタイムスリップした原因も、あの幻覚剤に違いない。
理性的に考えるなら、やはり快斗が今見聞きしているものは全て幻覚か夢の類である。薬の作用で、快斗自身が現実に戻れなくなっていると言ってもいい。そうでなければ説明がつかない。タイムスリップなんて、一言で簡単に言うけれど、今の科学技術ではまず不可能に近い。いくら快斗が世紀のマジシャンでも無理なものは無理だ。この世界で、目で見、耳で聞くものがどれだけ現実に似通っていても、全て快斗の記憶の産物なのだろう。
こうして手を握り締める感覚や、上を上と知覚する能力や、外気の温度を感じる力も、やはり現実にあるべきものを擬態しているに過ぎない。わかっていても、快斗は不意に戸惑った。
では、工藤新一という人間は?
彼は実在の人物ではないのだろうか。
今の過程が正しければ、彼ですら空想上の人物になる。
「……おい、ちょっと待てよ……」
へたりと座り込む。
「あいつが夢だって……?」
洒落にもならない。自分の気が狂っていると言われた方が数段ましだ。
快斗は途方に暮れて、もうすっかり夜に変わった外を見上げる。そこにはやはり秋の星座ではなく、冬の星座が輝く天空が広っていた。
どこまでも濃紺の夜なのだ。手足にも濃い影を落とした、この色も闇も本当に偽物なのか。
新一すらも。本当に。
本当に。
★
その時、新一は息を殺して男たちの動向を伺っていた。トロピカルランドの敷地内でも、もっとも北にある、巨大な観覧車の足元だ。
通りの表側はまだ人でごった返しているというのに、裏側の何と閑散としたことか。たった一メートル幅の低木の茂みを隔てただけで、完全な死角のできあがり。表の雑踏は聞こえても、裏の物音は漏れはしない。おまけに、観覧車を支えるためのブロックが立ちはだかっているので、イルミネーションも届かない。
サングラスに黒いコート、黒い靴。とにかく黒ばかりの、いかにも怪しげな男たちがこんなところで何をするのかと思えば、案の定、良くない取引が始まるらしい。
新一は慌てて使いきりのカメラを取り出した。
フラッシュはたけないので、もしかしたら何も写らないかもしれない。それでも何かの証拠になるのなら、そう考えて男たちの密談に夢中でシャッターを切る。
危険なことをしている自覚はあった。
黒ずくめの男たちは、服装だけなら目立ちすぎて素人そのものに見えるが、雰囲気と冷めた目つきは本物だ。つい先ほど起こった殺人事件で、新一は彼らと接触したが、その時感じた身震いするような恐怖は、今も忘れられない。
奴らは多分、いくつもの犯罪を犯してきたはずだ。
言葉遣いも立ち居振舞いも、何もかもがひどくすさんだ様子だった。目に映るもの全てを排除したいような、そんな危うい衝動を抱えた目で、切りつけるように新一を見た。
危険だと直感した。だが、それに知らない振りをできる新一ではなかったのだ。
幸いなことに、トロピカルランド内には、まだ殺人事件の裏付け調査を行っている警官が多く残っていた。身に迫る危険を考えたら甘い話かもしれないが、これが犯罪だと確認した時点で通報すればいいと、その時はそう思った。
新一には策を練る時間が足りなかった。
防ぐべき密談は、すぐ目の前で起こっていたのだ。
しかし、それは確かに軽率すぎる行動だった。写真を取るのと、男たちの話を把握するのとに夢中になっていた新一は、自分の背後から襲いかかる敵に全く気づくことができず、突然頭部を強打され、成す術もなく倒れる。
生ぬるい血が自分の頬を伝っていくのがわかった。
黒ずくめの男たちも何やら騒いでいたようだが、新一には良く理解できないままだった。脳震盪を起こしていたのだろう、意識が白濁として、物も良く見えていない状態だった。
そのうち、前髪を掴み上げられ、口に何かを流し込まれる。
無味無臭の液体が水ではないことはすぐに知れる。舌に触れた瞬間、ひどい痺れを感じたからだ。
けれど、わかっていてもどうすることもできなかった。実際、その薬を嚥下することもできなかったと思う。ただ、液体であったことは災いした。舌の粘膜を伝うことによって、薬は徐々に新一の身体に吸収されてしまったのだろう。
間もなく、激しい苦痛が訪れた。
それは、炎を飲まされたような苦痛だった。喉元から肺、心臓、胃、身体にある全ての器官に、硫酸が浴びせ掛けられたみたいだ。
じわりと内臓が溶ける感覚──骨までもがどろどろに溶け、そのうち全てが赤いゼリーになって口から溢れ出すのではないかと、本気で疑う。
身体のあちこちは軋むほど痛むのに、いつまで待っても、肝心の脳は意識を失わせてはくれない。強固に苦痛を甘受し続け、ひたすら正気ばかりを強いる。
もう駄目だ、新一は初めて思う。
次の瞬間、痛みが頂点になるのを予感する。
これ以上の苦痛に耐えなければならないのなら、身体より先に脳が悲鳴をあげる。
きっと痛みは新一の精神を狂わせるのだ。その狂いは、おそらく永遠の恐怖──
駄目だ!
強くかぶりを振った。意識の上だけの行動だったのか、現実に頭を振ったのか、もう新一には区別できなかった。ただありったけの力で、身体と精神を切り離す。
一瞬、ふわりと浮いた気がした。
苦痛の呪縛が嘘のように掻き消えた。
もう何に対しても抗う意思はなく、新一は静かに意識を失おうとする。
遠くから楽しげな音楽が聞こえてくる。
気絶する直前になって、やっとここが遊園地の中であったことを思い出す。表通りには、今も大勢の人間が目を輝かせてアトラクションを眺めているのだろう。
その中の誰一人として、新一がここにいることを知らない。
それはとても寂しいことだと。
不意に泣きたくなって、一粒目の涙が頬を伝う頃、ようやく混沌が訪れた。
★
時計の針は八時を回ったというのに、新一は未だ帰ってくる気配がない。
真っ暗なリビングでぼんやりしていた快斗は、いつの間にか肩も手足も凍えてしまったことに、やるせなく髪を掻き上げた。
たとえ全部が幻覚の見せる作り物だったとしても、こうして身体に起こる現象は本物のようだ。どれが偽物でどれが本物など、決して区別はつきはしない。
そして新一も。偽物だろうが本物だろうが、快斗は彼と夕食の約束をした。
こんなに帰りが遅くなるのは、もしかしたら快斗が無意識に幻覚を操作して、自分の都合の良いように取り繕っているせいかもしれない。そう考えると、自分がひどい悪者になった気分だった。なぜなら、こちらの勝手な都合のせいで、何の罪もない新一が意味もなく、この寒空の下で一時間も二時間も突っ立っているかもしれないからだ。
幻覚の主が快斗だとしたら、この世界の中心にいるのは快斗のはずである。快斗に不都合が起きる確率は極めて低い。裏を返せば、誰がどんな被害にあおうと、快斗だけは必ず安全だということだ。
これは自分で考え、自分で行き着いた結論だったが、恐ろしく気分の悪い話だった。
「どうしろってんだよ、クソ……」
呟く声にも力がない。
自分で作り出す世界に、自分で苦しめられているというのに、世界は快斗を守ろうと必死なのだ。皮肉なことこの上ない。
快斗は心底黒ずくめの敵を憎んだ。
奴らの手にみすみす落ちてしまった自分が、情けなくて仕方がなかった。
「……新一……」
ついその名を呼んで、悲しくなる。
一番迷惑しているのは、自分ではなく彼だろう。たまたま拾った相手が幻覚の王様で、その王様のわがままに振り回されて、自由に行動できなくなっているに違いないのだから。
どうしようと思う。
こんな幻覚は壊してしまうのが一番いいのだ。壊したところで、快斗以外の誰かに被害が及ぶとは思えない。壊して現実に帰れば、敵に復讐できるチャンスもあるかもしれない。だから壊すべきだ。わかっているのに、快斗は迷った。
この世界には、新一がいる。
この世界以外では会えないかもしれない、新一がいる。
「……なぁ、どうしたらいいんだろう……?」
虚空に話し掛けた。快斗は今、たまらなく新一に会いたかった。
偽物、本物と論じたところで、帰る場所は結局決まっていた。どっちだろうと、結局は新一と一緒にいたい。彼を偽物だとも割り切れない。
好き、なのだ。
飽きるくらい話をしたい。飽きるくらい顔を見ていたい。会えなくなるなんて飛んでもない。
どうせ離れるのなら、もっと彼に幻滅させてほしかった。こんな奴だったんだなと、せめて笑って諦められるくらいには。
快斗は苦く溜め息をつく。その時、胸元でかさりと音がして、ふとメモのことを思い出した。
新一の携帯電話の番号だ。ここにかければ、多分すぐに彼の声を聞くことができる。
ためらいは一瞬だった。衝動を抑えるには、快斗は疲れすぎていた。まずリビングの照明をつけ、備え付けの電話を膝に引き寄せる。
メモを見ながらプッシュホンを押す指が、かすかに震えた。これほど緊張しながら電話を掛けるのも最初で最後だろう。
コールが始まった。
一度、二度、三度、四度。快斗は根気強く待ったが応答はない。しまいには留守番電話のメッセージが流れ出し、仕方なく受話器を置いた。
けれど、受話器を置いた後も何だか諦めきれず、もう一度最初から番号を押していく。掛け間違いをしたのかもしれないし、自分で自分に言い訳をしながら、それでも強く祈っていた。
新一。新一。新一。
もう一コール鳴ったらまた留守電メッセージにつながる──そんな瞬間に、応答はあった。
「……はい……?」
快斗は、その声が聞こえた時、涙が出るかと思う。応えがあったこと自体が感動だった。
「新一……?」
「は、い……?」
──応えはあったけれど。
快斗は彼の微妙な声の変化を感じる。
「新一、だよな?」
「……だれ……?」
声が今にも途切れそうだ。快斗は、もはや彼の異常に気づかずにはいられなかった。
「快斗だ。お前どうした?」
「かい、と?」
「──おい! どこだ、そこ。トロピカルランドか?」
「……かいと……?」
逸る快斗に対し、新一の声は恐ろしく弱い。後ろのジェットコースターらしき音に掻き消されながらも、質問されていることも気づかない様子で、快斗の名前を繰り返し呼ぶ。
まるで幼い子供のように無防備な声だ。聞いているだけで胸が痛くなった。
「すぐ、行くから」
言葉が正確に伝わればいいのだが。何度かそう言い含めた後、快斗は一方的に電話を切る。そして素早く新一の部屋に戻ると、適当な服を引っ張り出し、勝手に袖を通した。
彼に何かが起こったことは一目瞭然だった。電話の向こうからは、明るい音楽と、ジェットコースターが唸るような轟音が聞こえていたので、間違いなくトロピカルランドにいるのだろうと思う。
胸騒ぎがする。
多分よくないことが起こっているのだ。
快斗は家を飛び出した。戸締りにすら気が回らず、タクシーを拾うことも思いつかないまま、ただひたすら住宅街を走る。
目的地まで、電車で二十分。短いようで長い時間を、新一が、心細い思いをしていないことだけを願っていた。
その門前に何とか辿り着いたのは、もう十時に近い。当然、九時に閉園されるトロピカルランドが未だ門を開いているはずがなく、辺りの照明もすっかり大人しくなっている。客足も今はない。しんと静まり返った巨大な公園は、気味が悪いくらいの薄闇に包まれていた。
冬の空は痛いほど澄み渡り、氷の粒のような星がきらきらとまたたいている。その空に、快斗の吐く息が白く溶けた。走りつづけ、呼吸を整える間もなく、目の前の鉄格子に足を掛ける。
幸い、警備の人間も見当たらない。園内の見回りでもしているのか、守衛室は無人である。
園内には易々と侵入できた。
少し息をついて鼓動を抑えると、遠くの方で人が話している気配を感じる。懐中電灯らしき、不規則に動く光が見え隠れしていた。あれは警備員だろうか。何にせよ、見つかるわけにはいかなかった。快斗は静かに走り出した。
新一の携帯電話からジェットコースターの音が聞こえたということは、だ。
まず最も奥の、巨大なアトラクションが集中している場所のどこかだろうと思う。更に、今でも新一がそこにいるのだとすれば、人の目につきにくい場所に限定できる。
電話口であれほどつらそうにしていた彼が、普通に立って歩けていたはずがない。多分どこかでへたり込んでいるに違いないのだ。
動けないなら、動かなくとこすむ場所。通りの客や、係員や、警備員に見つからずにすむ場所。
とにかくジェットコースターの足元に着いた快斗は、小さな声で新一と呼んでみた。返事は期待できないかもしれないが、一秒でも早く自分がここにいることを伝えたかった。
建物の裏手、大木の後ろ、快斗は一つ一つをまめに確かめる。時々耳を澄まして警備員の足音が聞こえないことを確認した。券売機の後ろ、トイレの個室、新一の姿はどこにも見えない。
「新一」
もどかしく囁く。
閉園してなおきらびやかな、メリーゴーランドの電飾が頬を照らす。
快斗はふと、広く長く地面に伸びる陰影を見つけた。目で辿っていけば、最北の観覧車のものだ。今では動きを止めているが、やはり電飾はつきっぱなしのそれ。
何だかひどく気になった。直感だったのかもしれなかった。快斗はまた駆け出した。
観覧車の足元は、巨大なブロックで支えられている。その周囲は低木の茂みになっていて、表側から中を覗くことは難しい。
「新一」
ここだという確信があったわけじゃない。けれど、快斗はまずそこを探さずにはいられなかった。茂みを掻き分け裏側に回り、光の届かない闇に、じっと目を凝らす。
ちらりと、何かが視線に引っかかる。
快斗は自分の勘を信じた。ゆっくり歩き、少しずつ少しずつ、それが何なのかを見定める。
「新一?」
服の端を見た気がした。快斗は迷わず駆け寄った。衣服は完全に新一のものだ。しかし快斗の目に映った姿が。
「……江戸川、コナン?」
子供、なのだ。
その身体は、その顔は、どう見ても、夜で見えにくいことを差し引いても、快斗の知る生意気な子供の姿だったのだ。
「どうしてここに……?」
揺り起こすべきか考えて、そのうち子供がひどい怪我をしていることに気づく。すぐに四の五の言っている場合じゃなくなった。快斗は腹をくくって、その子供を抱き上げた。
突然の浮遊感で意識を取り戻したのか、彼が不意に身動きする。
そして。
「……かいと……?」
唇は、確かにそう動いた。快斗は驚いて腕の中を凝視する。
「お前……?」
頭が混乱した。
だって、この子供が快斗の名を知るわけがないのだ。
快斗はKIDとしてしか彼に接触したことがない。何度か町で見かけた覚えはあるが、その時だって快斗が一方的にコナンを見つけていただけで、コナンの方が快斗に気づいていたわけじゃなかった。
それが、一体どうして。そもそも、サイズの合わない新一の服をコナンが着ていること自体がおかしい。この服をコナンに渡した新一はどこにいるのだ。
いや──
トロピカルランドにこんな時間まで残っていて、怪我で倒れ、新一の服を着て、快斗の名を知る人物が、工藤新一以外にいるはずがないではないか。
ならば、この子供は一体誰なのだ。
江戸川コナンではないのか。
「……新一……?」
呼ぶ声が震える。
応えが返るのが怖かった。快斗の中で、現実と幻覚が重なり合おうとしていた。これが狂いの始まりなのか、それとも、狂いはもう快斗を食らっているのか。
コナンが快斗を見上げる。陰りのない大きな瞳が、決してあり得ない形で無防備に微笑む。
「かいと……」
ひどくつらい。泣き出しそうになって、快斗は慌てて笑顔を作った。
「迎えにきた。もう大丈夫だから」
「……うん」
「疲れてんだろ……? 眠ってていいぞ」
「うん……」
素直な声。そのまま目を閉じてしまう表情が、痛いほど幸せそうで悲しくなる。
これが偽物というのなら、じゃあ本物とは何なのだ。新一もコナンも本物でいい、本物でなければならない。だったら快斗が偽物になろう。
もう狂っても良かった。この世界の全てが本物であるように、快斗は祈る。
もう二度とKIDにはなれない。
KIDの姿は、新一を敵にするから。