3.
最初の出会いは、衝撃そのものだった。
ただの子供だと思って近づいた快斗に、手痛い台詞と花火のおまけつき。盗むものも盗めず、ただの無駄足に終わろうとしていた夜の探索を、切っ先鋭い言葉のナイフで切りつけた。子供は本物の探偵だった。
高層ビルを更に見下ろすホテルの屋上。お互いの視界を遮るものは何もなく、だから錯覚のしようもなかったのだ。
コナンは、快斗の敵として存在している。
逃げるものなら逃げてみろと、真っ直ぐに睨みつけた、きつい瞳。頬の丸みやあどけなさを裏切って、目の中の意思が強風のようで惹きつけられた。怒って感情の昂ぶる様が見たくて、わざと挑発の捨て台詞を残しもした。
そこから不思議な対立関係が始まった。
どれだけ巧妙な手口を使ったら彼を騙せるのだろう。これでは見破られる、ならばそれはどうだ、あれはどうだ。手ごわい敵を相手に作戦を立てることが面白かった。快斗はコナンとの勝負を楽しんでいた。もちろん、その時点で、自分の中の曖昧な感情には気づいていたのだ。
敵だという認識はあるのに憎めない。
むしろ、奢ることもなく理路整然と推理を進める彼は、ひどく好ましかった。正義なんてインチキくさいものを掲げる警察とも違う。何よりも、コナンはたった一人でKIDを捕まえようとしたのだ。快斗だって、彼が、警察にコネのあるエセ探偵の元にいるのは知っている。彼はその気になれば、警察くらい簡単に動かせる立場にいたのだ。どこもかしこも警察官だらけの船上パーティーで、誰もいない場所に連れ出しまでして。
馬鹿な探偵だと思う。でも、その馬鹿さがとても嬉しかったのは事実だ。
快斗は、自分の性格がどんどん捻れていくのを知っていた。以前から決して良いとも言えない性格ではあったが、KIDに扮するようになって以来、とみに冷めた考えしか持てなくなっていた。
誰にも言えない秘密を抱えていると、自然と気心の知れた友人たちからも離れなければならなくなるものだ。だから、次第にどんな相手とでも表面だけの付き合いしかできなくなった。そうなってしまえば、年相応の情熱とか激情とかも、煩わしいものでしかない。感情は加速して冷め切った。たとえ普通の高校生である黒羽快斗の時であっても、大人たちを手玉に取るKIDさながらに。
しかし、コナンとの勝負は、KIDを十七歳の快斗に変えた。
どっちにハンディのない、勝っても負けても恨みっこなしの真剣勝負だ。ずるもしない、助けも呼ばない、その代わり、負けた方はちゃんと負けを認めること。
馬鹿みたいに真っ直ぐな勝負だった。多分、あの時快斗が負けてしまった理由は、その真っ直ぐさにある。ずっと不利で歪んだ勝負ばかり受けてきたから、不意の直球に戸惑ったのだ。
でも──楽しかった。
コナンに追い詰められながら、その正確な推理に感嘆した。真っ直ぐな視線に憧れもした。快斗が見失っていた純粋さが、そこにはあったから。
快斗はコナンが敵だったことに感謝する。彼だけは、どんな時も真っ直ぐな勝負を仕掛けてくれる。卑怯な罠も、隠し球もない。それなら快斗も、正々堂々としたKIDでいれる。
この敵の前でだけは、無様に負けることはできないと心に誓った。
快斗は、敵としてコナンを尊敬したのだ。
★
家の明かりは、一度点した後すぐに消してしまった。快斗は新一であるコナンをベッドに寝かせ、ひとまず後頭部の傷の手当てをする。暗いのでどうしても手元が危ういが、今電灯を点けるのはもっと危うい。何しろ、ここには本来の新一がいない。たとえば彼の両親が帰ってきたとして、怪我したコナンを前に、快斗には言い訳のしようがない。
それに、コナンの怪我は明らかに故意のものだった。何がどうなって子供になってしまったのかもわからないのだ。万一、これが犯罪の類なら、犯人が新一宅を伺いにくる可能性だってある。
だから姿を隠すに越したことはないと判断した。暗闇の中で慎重に手当てを進める。
血があれだけ出ていたにも関わらず、思ったより傷は軽傷だったらしい。今ではもう出血もおさまっていて、手当ても、薬をのせたガーゼを貼るだけにとどめた。
必要なら救急車を呼ぶしかないと覚悟していた快斗は、患部に包帯を巻き終わってやっと安心する。
コナンの寝顔も、今はずいぶん穏やかだ。
と。不意に電話の呼び出し音が響いた。階下のリビングからの音だ。もちろん、快斗が出るわけにもいかないので黙って切れるのを待っていたのだが、音はコナンの耳にも届いてしまったようだ。もう切れようかという頃になって、安らかだった寝顔が小さくしかまった。
瞼が弱く震える。その目が開く。
大きな瞳が何度かまたたいて、覗き込んでいた快斗の視線に気づく。
ふわりと笑う、花のような彼。
思わず胸を押さえた。新一の時でもコナンの時でも、彼の浮かべる笑顔は快斗の一番の弱点に違いない。そんな場合じゃないのに、痛いような嬉しいようなあったかい気持ちになる。
「大丈夫か……?」
やわらかく訊くと、また笑顔が返ってきて快斗の苦笑を誘う。どうやら、コナンの意識はまだはっきりしていないようだ。何を訊いても笑顔が返ってきそうで、嬉しいけど困る。
快斗はそっと彼の髪を梳き上げた。大人しく手を受ける彼を驚かさないよう、一番穏やかに聞こえる声で問い掛ける。
「……何があったんだ?」
コナンはしばらく無言だった。不思議そうに快斗を見上げ、じっとしている。けれどそのうち、大きな瞳の中に、みるみる意思が浮かび上がってくる。快斗が強い風のようだと思った瞳が、あっと言う間に本来の力を取り戻す。
途端、一も二もなく飛び起きた子供を、抱きとめるのがやっとだった。
一体何に激昂しているのか、コナンは滅茶苦茶に暴れ出す。頭の怪我が痛くないわけはないだろうに、その痛みすら感じていない表情で、快斗を突き飛ばそうとした。
「離せっ! 早く──早くしないと──」
「……バカっ、暴れるな……っ!」
「──早く! 早く!」
子供のくせにもの凄い力なのだ。コナンの爪はあちこち引っ掻き、時には皮膚さえ破れるほどだった。快斗も頬と肩をやられた。何かに取りつかれたみたいな──あるいは、悪い幻覚でも見ているみたいな暴れ方。
コナンの正気を呼び戻そうと気ばかりが焦る。このまま放っていたら、快斗だけでなくコナン自身の身体までが怪我しかねない。
束の間、快斗は彼の頬を打とうとして手を振り上げた。でも駄目だった。今の彼は子供だ、快斗の骨ばった手なんかで打たれたら、きっととても痛い。
「新一──新一」
声だけじゃ届かない。
コナンの目は焦点を結んでいるようで、何も映してはいないのだ。
「離せっ、誰か……っ」
そして彼は叫ぶ。
誰か、とは一体誰だろう。ここに快斗がいるのに、コナンは快斗以外の誰かに助けを求める。
そう思ったら──
衝動は、突然だった。
自分の腕の中で自分以外の誰かを呼ぶ彼が、悔しくて悲しくて仕方なかったのだ。快斗は子供の身体を奪い上げると、唇に噛みつくようなキスをした。
長い──それとも短い時間だったのだろうか。
快斗自身にも判断できなかった。驚いて目を見開き、硬直したコナンを更にきつく抱いて、思うまま口腔を蹂躙した。
ぴくりと震える肩を引き寄せ、無垢な唇と舌を愛咬する。
漏れる吐息がひどく熱い。触れ合うそこから何かが流れ込んでくるようで、頭も心も、お互いの熱しか感じられなくなった。
小さく離れてその目を覗き込めば、涙に潤んだ瞳が戸惑いで揺れている。快斗は最後についばむキスを落とし、彼の身体をゆるく抱きしめ直した。
言葉がなかった。
コナンが震える指で快斗のシャツを握り締める。
「……快斗……?」
その声で名前を呼ばれたら、きっと気持ち良いだろうと思っていた。やっと素直にそれを思える。受話器越しでも、うわ言みたいでもなく、はっきりと快斗を呼ぶために紡がれる声音。
震えるような溜め息が出た。何だか泣いてしまいそうだ、快斗は小さく苦笑せずにはいられない。
「快斗……俺……?」
まだ記憶が混乱しているのだろうか、そう思って顔を合わせたら、コナンは全然別のものにくぎ付けになっていた。
その視線の先には、子供の手のひら。
快斗ははっとした。コナンの顔色が、見る間に青ざめていった。
「……俺、縮んでる……?」
失念していた。快斗はこの姿を見慣れているけれど、コナンになった新一本人は、多分初めて目にするはずなのだ。
衝撃を受けてすっかり絶句している彼に何と言っていいかわからず、しばらく黙っていたが、一向に事態は進展しない。
快斗は仕方なく頭を掻いて、せっかく抱きしめていた腕を解いた。
「……一体何があったんだよ?」
問えばやっと視線が動く始末。
このぶんでは、さっきキスしたことも忘れられているかもしれない。
胡座を組んだ自分の膝に頬杖をつき、コナンが話し出すのを待つ。快斗は不謹慎にも、つまんねーの、と呟きたい自分を許してやった。
コナンの説明を聞くにつれ、自分の内から染み出る怒りが止まらなくなりそうだ。
彼の話に登場する「黒いコートと黒いスーツを着たサングラスの男」は、快斗の敵である、父を殺した黒ずくめの連中に他ならなかった。そう決め付けてしまうのに充分な証拠があったわけではないが、コナンの言葉は、快斗の知る敵を表現する時そのまま使ってしまえる言葉ばかりだ。
服装が全て黒なんて目立つ格好をしているわりには玄人で、犯罪に関して無駄や隙がない。おまけに何か大きな組織の一員のような、統率された雰囲気がある。
極めつけが薬の話だ。新一が飲まされたという薬は、もしかして快斗が飲まされたものと同じではないのか。
快斗と最後に対峙した黒ずくめの男は言っていた、それは以前に他の誰かに飲ませた薬を更に改造したものだ、と。
殺傷能力があったかは疑問だが、強い幻覚作用があった。あの男はそんなふうに嘲ったはずだ。
奴らは、父ばかりではなく新一すらも殺そうとした。
今快斗の中に生まれつつある怒りは、もう許す許せないなどといった範囲のものではなかった。憎しみとも恨みとも違う。同じ人間に対する感情ですらない。奴らの存在自体が汚らわしい。
嫌悪感で渦巻く心をひた隠し、快斗はただ静かにコナンの話を聞いているふりをした。幸い、コナンは自分が見聞きしたことを整理するのに手が一杯で、快斗の様子まで伺う余裕がない。
多分、その時コナンがこちらを見ていたら、言葉を失ったはずである。快斗はそれほぞ底光りする凍えた目で、虚空を見つめていたのだ。
「……これからどうしろってんだ」
話しつかれたコナンが力なく笑う。
「こんななりじゃ警察だって俺の話を信じてくれるわけないだろうし……」
途方に暮れたように爪を噛む。快斗は少しの間、そんな彼を見ていたが、そっと溜め息をついて口を開いた。
「──隣に、阿笠って発明家が住んでんだろ。その人に協力してもらえばいい」
コナンが驚きに顔を上げる。
「それから、お前には探偵の親父を持った幼馴染がいたな。何とかしてそこに世話になれよ、そうすりゃ子供のままでも探偵業から離れずにすむし、黒ずくめの奴らにも、お前の行方はわからない。名前も変えた方がいいな。俺の希望としては──」
「待てよ」
言葉を遮るコナンの目が、にわかに警戒色をのせる。こんな目をしたコナンを、快斗は何度も見たことがあった。
偽りやごまかしを許さない、探偵の目だ。
わかっていて快斗は続ける。自分がどれだけ疑われようと、コナンの安全が先だと思った。
「俺の希望としては、お前の新しい名前が、江戸川コナンだったら嬉しいよ。これ以上、混乱したくはねぇから」
「……どういうことだよ」
「どういうって?」
「──どうしてお前が俺のことそんなに知ってるのかって、訊いてるんだ!」
コナンが爆発した。怒りにきらめく瞳を、快斗は半ばうっとりと眺める。
「どうしてって……だって知ってるんだ、仕方ねーじゃん」
「だから俺はそれを説明しろって……っ!」
「俺は──」
そっと息を吸い込んだ。
信じてもらえるかどうかわからない。快斗は自分が経験した全てを、彼に打ち明ける覚悟だった。頭がおかしいと言われるかもしれない。気が狂ってると笑われるかもしれない。実際狂っているのだろうから、何と言われても仕方ない。そりゃ少しはつらいけど、これからのコナンのことを思えば、そんなことは些細な出来事だ。
「俺は、お前と同じように奴らに薬を飲まされた。お前の薬は成長を逆にしちまう作用があったみたいだけど、俺のは違う。奴らが言うには頭を変にするもんだって話だ。実際に飲んだのは少量だから、効き目はどうだか知らねぇが、ひとつだけはっきりしてることがある」
快斗は一気に言い切った。
「俺には今から十ヶ月先までの記憶がある。その記憶の中には、お前も出てくるんだよ。毛利探偵事務所の居候で、チビ探偵の──江戸川コナン。お前は自分で俺にそう名乗った。俺が出会ったお前は、既に子供だった」
コナンは何も言わない。快斗にはそれこそ恐怖だ。
たまらず目を逸らした。後には長い沈黙だけが残っていた。
早く何か言ってほしかった。詰る言葉でも構わないから、何らかの反応がほしかった。そうでなければいつまでも彼を見ることができない。コナンが今どんな顔をして自分を見ているのかなど、想像するだけで不安に押しつぶされそうなのに。
けれどその不安は、次の瞬間激しい動揺に変わる。
「どうして──」
ふと口を突いたようにコナンは言った。
「お前、一体何守ろうとして……?」
聞いた途端、びくりと顔を上げずにはいられなかった。彼の真っ直ぐな瞳が快斗をじっと見つめていた。その中には少しの猜疑心もない。ただ次の答えを問う純粋さだけがあるのだ。
快斗は忘れていた。彼が、ちょっとした思い付き程度の策略などすぐに見抜いてしまう瞳の持ち主だったことを。
「どうして俺にそんなことを打ち明ける?」
コナンは続けざまに言う。
「俺にお前は気が狂ってるって言ってほしいのか? それとも嘘つくなって駄々こねりゃ満続? そうまでして自分から俺遠ざけて、お前は一人で何するつもりなんだ?」
何で黙って騙されてくれないのだろう。快斗は悲しくなって笑う。
「だから……言ってくれりゃいいじゃん。気が狂ってるって……嘘つくなって」
「アホか。何でお前の罠にのこのこ引っかかんなきゃなんねぇんだ。俺を騙そうとするんなら、もっと上手いやり方考えろよ」
コナンは尊大にうそぶく。
世界中の誰もを欺くことができても、彼だけは欺けないのではないか、思わず自信を失いそうになる一瞬だ。
「大体、話があんまりにも嘘くさい。嘘くさすぎて、却って本当に聞こえるんだ。そりゃ俺んち中を家捜しでもやったら、阿笠博士のことや毛利探偵事務所とかって名前が出てくるかもしれないけど、お前は多分そんなことしない。だって俺に直接聞きゃすむ話だもんな、無駄な労力使って一人で調べる必要なんかどこにもない。第一、俺をそんな話で気味悪がらせて何になるんだ? 自分で気が狂ってますって自己紹介する狂人がどこにいるよ? 確かに天才と何とかは紙一重って言うけど、お前は天才でも何とかの方でもない」
一々もっともすぎて話にならない。快斗は諦め半分で苦笑いした。
「……お前にそう見えるだけで、本当はすげぇ天才かもしれねぇじゃん。すげぇバカかもしれねぇし」
最後の悪あがきも一笑されておしまいだ。
「心配すんな、すげぇ天才でもすげぇバカでも一番じゃない」
まるでその一番を知っているような口ぶりだと思って視線を合わせたら、彼は鮮やかに笑ってみせた。
「一番は、俺の親父だから」
──一番のあの人が狂ってないのだから、お前も狂ってはいない。
何だかもう諸手を上げて降参するしかないではないか。快斗が溜め息をついて黙ると、今度はコナンがぎゅっと睨みつけてきた。
「……本当は、何を言いたかったんだ?」
嘘を許さない眼差しに、快斗の身体から抗う力が抜ける。腕がだらりと下がり、頭がかくんと落ち、全く無防備な視線で対峙する。
「……これ以上、奴らに近づいてほしくなくて」
弱く零す快斗を、コナンはどう思うだろう。
「あいつら、すげぇヤな組織でさ……口封じのための人殺しとか……目的のためなら仲間すら見殺しにしちまうから……お前が……そんなの許せるわけねぇだろうし……ほっとけば、絶対首突っ込むんじゃねぇかって……今日みたいに……殺されそうになるんじゃねぇかって……」
「……って言われても……」
コナンの声はいくぶん困惑ぎみだった。
「俺だって、こんな子供の身体にされたからには恨まないわけにもいかないし……」
彼の言い分に、快斗は疑わしげな視線を向ける。
「だからってそんななりで一体何をすると?」
今日だって彼は好奇心で事件に首を突っ込んだようなものなのだ。
恨みとか憎しみとかいった感情よりも、彼の中では興味が強い。しかし、その興味だけで突っ走られたら、そのうち絶対奴らの目に止まる。万一の時、抵抗する術を持たない子供に、一体何ができるだろう。
何もできるはずがない、断言してもいい。
「いやっ、ほらっ。多分何とかできるし」
コナンはやっぱり好奇心が先行していたようだ。突っ込まれてあたふたする様が、快斗の不安を更に強くする。
「何とかって、具体的にどんな?」
「えーと、ほらっ。お前がさっき言ったみたいに、阿笠博士に発明品作ってもらうとか!」
「発明品より、お前の身体直す薬作ってもらえよ」
「そうだけど、でも、ほら?」
「言っとくけどなぁ、お前今の自分の姿を見ろ。かんっぺきに子供だぞ、小学生だぞ。そんなので何しようって言うんだよ!」
今度は快斗が逆切れした。まぁまぁと愛想笑いをするコナンをキッと睨み、快斗は雄叫ぶ。
「いーか、いーか、いーか! 俺が奴らに近づくなって言ってんのは、冗談でもやっかみでもはったりでもねーんだ! あいつらは、死ぬほどヤな奴らなんだよ! 俺がそう言うんだから間違いないんだ! だからお前は、絶対近づいたらダメっ! ダメったらダメだ! ダメダメダメ!」
「か……快斗……おい」
もう自分自分何を叫んでいるのかわからない。コナンも口を挟めずに唖然としていた。それでも言いたいことは全部言い終えた自覚はある。変なところで冷静な快斗だ。
「わかったら、お前はさっさと阿笠博士んとこ行ってこい!」
星一徹さながらの、ちゃぶ台ひっくり返さんばかりの大騒動だった。
快斗が勢いだけで指差した方向へ、コナンも勢いだけで走らずにはいられない。
こうして準備は整えられた。
何とかコナンを蚊帳の外に放り出せたと願いたい。思わず誰もいなくなった部屋で、両手を組んで神様にお願いする快斗である。何しろ相手は好奇心旺盛な探偵様だ。いつどこで妙な穴に首を突っ込むか知れたものじゃない。
願わくば、彼と黒ずくめの男たちの接点がこれ以上増えないことを。
……自分はどうなっても構わないから。
★
新一が阿笠宅に行って帰ってくる頃になると、外はすっかり土砂降りの雨だった。
途中で幼馴染の毛利蘭と出会い、咄嗟に江戸川コナンの名を名乗ってしまったが、万事は滞りなく快斗の言う通りだ。大人しく彼の指示に従うのは少しだけ癪ではあったけれど、あれだけ真剣に説得されたら新一だって無視はできない。
おかげで今日から江戸川コナンが新一の名前になってしまった。
「……かっこわりぃ」
とは、たてまえで。本当はちょっと気に入っていたりもする。
家までほんの数メートルの距離。ビニール傘を打つ水滴の色が、夜と同じ色に染まっている。コナンはそれをぼんやり見上げた。空にあるべき星の代わりに降る雨は、ひどく冷たく氷のようだ。
電信柱もアスファルトも、今は氷の雨に濡れている。高い塀に囲まれた工藤家も、闇にひっそりと埋もれたまま、しどどに濡れそぼっていた。
コナンが、今夜から蘭の家に行けという阿笠の言葉に逆らったのは、あの真っ暗な家に快斗を残していたからだ。蘭とも玄関先で別れてきた。荷物をまとめて改めて来るからと、もっともらしい言い訳をして、ニ、三日の猶予をもぎとった。そして雨にたたずんでいる。今胸をよぎる不安は、これからの自分に対してのものではなく、快斗に対してのものだった。
快斗は自分のことを何も話さない。初めて語ったのが、先ほどの黒ずくめの男たちのと関わりで、それ以外は全く立ち入った話などしてくれなかった。結局、コナンは彼がどうして黒ずくめの男たちを敵と言うのかも聞いてないし、実際はどの辺に住んでいるのかとか、どの高校に通っているのかとか、具体的なことも何ひとつ知りはしなかった。
多分、快斗にはそうする理由があるのだ。わかっているが、どうにも悔しくなってしまう。
もし今夜このまま快斗と別れてしまったら、二度と彼に会うことがなくなってしまうかもしれない。
快斗は、あれだけコナンの内にどかどかと踏み込んできたくせに、一度も故意に傷つけるようなことはしなかった。それどころか、コナンを最優先に物事を考える素振りさえ見せる。さっきの言い争いだってコナンを危険な組織に近づけないためのものだ。でも、そこまで徹底されると、まるで無条件に守られているようで不安になる。もしかしたら、コナンの安全を理由に、彼は突然消えてしまうかもしれない。
自惚れだろうか。そうであったなら良いけれど、コナンには快斗が真剣にそれを考えているような気がしてならないのだ。
だって冷静に考えて、普通の友人をあんなに誠実な目では見ない。あんなに強く抱きしめたりもしない。
キスだって。
するわけがないではないか。
コナンは真っ直ぐに自宅を見上げる。ひとつも明かりのついた窓のない家だ。けれどきっと、快斗はあそこにいるのだろう。
……悩んで、いるだろうか。
彼は、これから十ヶ月先までの記憶があると言っていた。それだけなら、単純にタイムスリップという言葉で片付きそうなものだが、頭を変にする薬を飲まされたとも言っていたのだ。話が全て本当だと仮定すれば、彼はおそらくどれが現実なのかわからずに悩んでいるに違いない。
ただ、コナンには確信がある。
快斗は覚えていないようだが、彼と初めて会った時、コナンはちゃんと聞いていた。
「……よぉ、ぼうず」
ずっと不思議に思っていたけれど、今ならわかる。
快斗は本当に十ヶ月先の未来からやって来たのだろう。彼は真実に江戸川コナンという子供を知っていた。あの時、新一の中にコナンの面影を重ねたからこそ、同じ年頃の男に向かって「ぼうず」と言えたのだ。
快斗が飲んだ薬の作用が、どんなふうに影響しているのか知らないが、真剣にタイムスリップしたのだと言えないこともないのではないか。
コナンが飲まされた薬も、本来は人を殺す目的で作られたもののはずだ。それがどういったわけか、子供に戻す作用が出ている。所詮、薬とはその程度のものである。薬効だって偶然が生み出した賜物に過ぎない。
だから快斗の飲んだ薬は──
そこまで考えて、急に我に返る。
いつの間にやら快斗のことしか考えていない自分がいる。おかげで、自分が何に捕まったのか気づくしかなく、ああこんな感じなのかと、不意に胸が痛くなった。
恋は突然やって来る。
誰が最初に言ったのか、言い得て妙だが、無責任なことだ。
せめて相手を選べよ。少しだけ笑って、コナンはぐすり鼻をすすった。
快斗は、真っ暗な部屋の窓際で、ぽつんと座り込んでいた。
コナンがドアを開けた時、弾かれるように振り返った顔が、素直に驚きだけを訴えていて苦笑を誘う。
彼の驚き具合からいって、自分がもうここへは戻ってこないと決め付けていたらしいことも伺えた。
怒っていいのか嬉しがっていいのか迷っている、こちらを見つめる不思議な表情は、快斗をひどく幼く見せる。そう思って見れば、肩を落として座り込んだ様も寂しげだ。
戻ってきて良かった。こんな彼を残して一人だけ安全な場所へ逃げたくはない。
コナンは無言のまま快斗の横に座り込んだ。しばらく何と言っていいのかわからない沈黙があったけれど、その沈黙も、決して居心地の悪いものではなかった。
「……上手くいったか?」
ずいぶんたって、彼の方が先に口を開く。穏やかな声だ。かすかに聞こえる雨音に負けないくらい、静かなやわらかい声。コナンはその声を好きだと思う。
「うん……ニ、三日の間に蘭のところに行くことになった」
結果報告に快斗が笑った。上出来と、呟く声はますますやさしい。コナンは思わずうつむいた。そのまま彼を見ていたら、泣き出しそうな気がした。
こくりと息を飲み込んで、深呼吸をひとつ。
お互いの心臓の音とか、呼吸の音とか。かすかな動きや体温も、今は何もかもが伝わってしまいそうに静かなのだ。コナンが泣くのをこらえようと変な顔になっているのを、快斗が知っていてもおかしくはない。でもコナンも知っている。快斗の笑顔はやさしすぎて、今にも泣き顔に変わりそうだ。
二人とも泣きたかったのかもしれない。でも感情に押されるまま涙を流すには、どちらも長く「大人」のふりに必死だった。今更子供になど戻れるわけもない。
泣きたくても泣けない。
コナンも快斗も、そういう境遇に慣れすぎていたのだ。
「……お前はどうするんだ?」
一生懸命明るく言うと、快斗は小さく肩を竦めておどけて見せた。
「さぁな……とりあえず家に帰ってみっかな。そこに俺がもう一人いたら、俺の頭もちょっとは信用できんじゃない?」
「いい考えじゃん。俺も、もしかしたらお前のそれ、本気でタイムスリップじゃないかと思う」
「そ?」
「うん。お前みたいに冷めた発狂人なんて見たことねぇし」
「なぁに言ってんだか。俺が冷めてるって言うんなら、世の中の人間みーんな冷めてんぜっ」
「わかった、訂正。お前みたいに熱血の発狂人なんか見たことない」
「……どっちがほんとだよ?」
「どっちもほんとだよ」
コナンが笑うと、仕方なさげに降参する快斗。そんなところは妙に大人びて冷静だと思うのに、一度切れたら子供みたいに切れまくる。
どっちの快斗も好きだ。彼が大人の時コナンは子供でいれるし、彼が子供の時は大人でいれる。決してお互いに寄りかかるわけじゃない。同じ力で引き合える、対等な関係がとても嬉しい。
でも、弱いのは自分の方かもしれない。
コナンは不意に喉が詰まった。鼻の奥と目の奥が熱くなって、声も出せない。きっともう一度快斗の声を聞いたら泣いてしまう。何だか、身体中のどこもかしこもが涙の塊にでもなった気分だ。ちょっとでも刺激を加えれば、そこからぽろぽろと零れていきそうな思いがある。
快斗は、やっぱりそれにも気づいていたのだろうか。無言のまま、ふと差し出された手のひらから、ぽんっとかわいらしい音をたて、一輪の花が飛び出した。
快斗のマジックを見るのは初めてだったが、コナンは本気で驚いた。
彼が今見せたものは、種も仕掛けも知っている簡単な手品だったのに、一瞬本気で騙されたのだ。まるで魔法みたいに鮮やかだった。
そして彼は花をコナンに差し出す。
男に花渡してどうすんだと心で強がっても、もうどうにも感情の抑えは効かない。
ついに泣き笑いになった。快斗がていっとばかりに額を小突いてくる。
「なぁに泣いてんだ、ウラっ」
お前が泣かせてんだよ、やっぱり声にならない答えが、コナンの喉に溜まっていく。
快斗の手のひらも、声も、笑顔も、何もかもがやさしい。他人に対してこんなにやさしくなれる人物に初めて出会った。今は自分も、こんなふうに彼にやさしくできたらと、願わずにはいられない。
「なぁ……」
涙でかすれてしまったけれど、精一杯の呼びかけはちゃんと快斗に届いている。
失いたくはないと思った。
「……もうちょっと一緒にいたら、迷惑?」
コナンの言葉に快斗が驚いた顔を見せる。
「俺……こんななりだけど頭は良いよ?」
しばらく彼の反応はなかった。いや、反応できなかったのかもしれなかった。快斗はぎこちなく笑っていた。泣き笑いに近い表情だった。
軽々抱き上げられて、自分が子供だったことを思い出す。十七の男が軽々と、なんて、なかなかに屈辱的なことなのだろうが、不思議と腹は立たない。それよりも、触れ合ったところがあんまり温かかったので、額と目尻にキスされても気持ち悪いと思えなかった。
好きだと思った。
どちらも言葉にしなかったけれど、思いは確かに存在していた。いつか離れる時がやってきて──それは多分近い将来だ。でもその時が終わって、三日がたって、三週間がたって、三ヶ月、三年がたっても、三十年がたっても、今の思いは忘れないような気がする。
好きだと思った。思いは、勇気に似ていた。