4.
眠れない夜だった。快斗は毛布にくるまったまま、少しずつ白んでいく空を見ていた。傍らにいたコナンもまた、おそらく眠ることができなかったのだろう。部屋が光で明るくなってきた途端、ごそごそと身動きする様が、正直に「朝まで待てない」と言っている。
結局、電車の始発に合わせて家を出た。
今日は一日遊ぶ約束をした。二人が出会ってから四日目の朝。そのうち丸二日間の記憶は快斗にないわけで、実質上一緒に過ごした時間は一日に満たない。これではいけないと、慌てて豪遊の計画を立てた。
本当は昨日一日だけで、十年分くらいの価値があったと思うけれど、感傷だけで満足できるほど人間できちゃいないのだ。昨日は何だか苦しくて切ないことばかりだったので、今日こそは誰より一番楽しい思いをしようと心に決める。
ただ、その前に、快斗には確かめるべきことがあった。
駅前の、コインロッカーだ。通りはあんまりにも早朝すぎて人通りゼロに近い。車の波も途切れがちだ。スクランブル交差点の信号を無視してしまっても、誰からも文句がでない。これだけ人がいなかったら、さぞ快適に過ごせるだろうに、快斗は臍曲がりなことを思う。
コナンは後ろからとことこついてくる。やっぱり子供の歩幅はつらいらしいが、抱き上げようとすると向きになって怒るから、快斗も放っていた。案外、彼は「子供」を楽しんでいるようだ。見慣れた町並みなのに、子供の視線からじゃ全然違う、そう言っては嬉しげに笑う。
あちこち珍しそうに歩き回るコナンをよそに、快斗はポケットから鍵を取り出した。
173。そのコインロッカーには、ちょっとした仕掛けがあって、どれだけ長い間入れっぱなしにしていても、決して日にちのカウントがされない。
コーナーの奥だ。わざわざ目立ちにくい場所を選んで、やっぱりこんな早朝に細工しにきた自分を思い出して苦笑いが出る。あれももうニ年近く前になる。もしも緊急事態があって、金銭に困ることがあったらまずいと前もって準備していたものだ。
今まで一度も開けたことはないけれど、こんな時に役立つとは思ってもみなかった。
173。そのロッカーは使用中である。
そして快斗の手の中には、173の鍵がある。中を開けてみるまで何とも言えないが、もし中に快斗が思い描くものがあったとすれば、この世界にも黒羽快斗が存在しているという証明になりはしないか。確かに記憶の混乱は──これでは証明できないけれど、この世界の自分を見つけ出すことができたなら、とりあえず今の自分が狂っているわけではないことは証明できる。
173。開けてみたら、一枚のカードが入っていた。絵柄は珍しく、記載されている文字も、英語や日本語などの大衆的なものではない。口座名義もデタラメなものだ──それは、怪盗KIDのアナグラムではあったけれど。
快斗はカードを取り出すことなく、そのまま扉を閉め鍵をかけた。
コナンがとてとて駆けてくる。
「用すんだのか?」
「ああ。やっぱりこの世界に俺はいるらしいぜ?」
ふぅん。喜んでいいのか決め兼ねているような、中途半端な返事だった。快斗は笑って歩き出す。
「朝メシ、食いに行こう」
「どこに?」
「マクドナルド」
とは言っても、まだ朝の六時を回らない時間だ。コナンが不満そうに快斗を見上げる。
「……こんな時間にやってるマクドナルドがあるのかよ?」
「あるある」
快斗は気持ちよく答えた。
「どこに?」
「一県越えた向こう」
それでは結局今から一時間かかるではないか、コナンが憮然とする。
「おい。お前どこ行くつもりで歩いてんだよ」
快斗は飄々と笑った。
「お約束っちゃー、海っしょ」
場所は都内ではないけれど。まぁいいじゃないかと、不機嫌な子供をなだめすかす。
だって一日なんてあっと言う間だ。ならば行ける範囲で一番お気に入りの場所で過ごしたいと思う。一番好きな人と過ごす場所なら、一番素敵な場所でないと勿体ない。
快斗とコナンは電車に乗った。缶コーヒーだけでは腹が減ると、不平不満をたくさん言い合いながら。それでも楽しいから喧嘩にはならない。マクドナルドまだかなぁ、お腹をすかせた快斗が泣くと、自業自得と悲しい突っ込みが入った。
そのうち人が増えてきて、まだそうする必要はなかったのだけれど、コナンを膝の上に抱き上げる。
珍しく文句がでなかったので嬉しかった。快斗は伝わってくるコナンの熱を覚えておこうと、密かに腕に力を込める。
これで少しは、心や頭の中だけではなく、手のひらや腕にも記憶は残ってくれるだろう……。
線路沿いにきらきら輝く水面が見えてきたのは、間もなくだった。見る前はぶーぶーうるさかったコナンも、今はじっと光の水溜りのようなそこを見つめて動かない。快斗もそれを見ていた。天気が良いので、遠くからだと本当にコバルトブルーだ。きっと近くに行けば全く違った一面も待っているのだろうけれど、今は素直に綺麗だと思う。
目的の駅に着いて、まず腹ごしらえをする。先ほどの海が目に焼き付いているコナンは、ちょっと不服そうな顔をしていたけれど、快斗の空腹だって切実だったので譲歩してもらった。
それに、楽しみは後に取っていたほうがもっと楽しい。今日だけは、何だか期待を裏切らないような美しい風景が見れる気がしている。
マクドナルドでソーセージエッグマフィンセットを食べる。それから改めて駅の反対側へ回り、海岸沿いの道を歩いた。
灰色の砂浜と灰色がかった青色の水。電車の中から見たように、打ち寄せる波には光の粒子がきらめいている。
ガラスのかけらが集まってできたみたいなそれは、一瞬にしてコナンの瞳を虜にした。堤防が途切れる場所までくると、言葉もないまま砂地へ下りていく。
快斗も彼の後をゆっくりついていった。客観的に見れば、海は決して綺麗とはいえない。あちこちに紙くずや空き缶も捨てられている。けれどそれら全部をひっくるめて、何だか胸が痛くなるような刹那の美しさがあった。
きんと冷えた冬の空気が、潮の香りの風になって吹きつける。寒いと知覚するけど、やっぱりそれも不思議に心地良いものに変わっていくのだ。
再びこの海を見に来ることがあっても、多分、今日と同じ美しさは感じない。快斗はこの海をコナンと見れたことを幸福に思う。
きっと一生記憶として残る景色の中にコナンがいる、そんな認識はひどく胸を熱くさせた。
「走んなよぉ」
「走ってねーよ」
「転ぶなよぉ」
「転ぶかよっ」
言いながら、もう小走りになっているコナンがおかしい。おまけに途中でつまずいたりして、快斗に苦笑させる。
身体が子供になると中身まで子供になるのか、それともわざとそうしているのか、さっきから妙に元気なのだ。時々こちらを振り向いて笑う様が、全く邪気がなくって子供っぽくって、お前かわいすぎるぞと快斗の溜め息を誘っている。
波間に到着した彼は、ますます元気だ。きらきら光る波とたわむれ、たわむれながら快斗を呼んだ。
「なぁっ?」
「んー?」
「お前、いくつ?」
「高二」
「俺と同じ?」
「うん」
「誕生日とか血液型は?」
「六月二十一日、B型。……何訊いてんだよ、おい」
「お前ってなぞだからさぁ」
コナンはそう言って笑った。
「……すぐどっか行きそうだ……」
呟きは波にまぎれて半分も快斗に届かない。けれど急に途方に暮れたように立ちすくんだ彼を、放っておけるわけがない。そのままそこにいたら、間違いなく打ち寄せる波で濡れてしまう。
快斗は急いでそこまで行くと、何とか濡れる前に抱き上げた。コナンは抵抗ひとつしなかった。笑いもしないし怒りもしない。空っぽの表情は、快斗が言わないでいようと思っていた未来までもを口にさせる。
「……本当はさ、俺は今の時点でお前に会っちゃいけなくって……大体今から三ヵ月後くらいに、全然別の形で最初の出会いをする」
怪盗KIDとして。ブラック・スターの異名を持つ黒真珠をめぐり、対立するはめになるだろう。
「……でも、もしかしたらお前は、そいつを俺だとは思わないかもしれない……」
言えば、空っぽの表情が泣きそうになる。でも涙の代わりに快斗に与えられたのは、小さな小さな張り手攻撃だった。ぺちぺちぺちぺちと、やわらかい手が何度も何度も頬を叩く。
こらこらと快斗が笑えば、ますます泣きそうな顔をする始末だ。仕方ないので、地面に下ろしてやった。それから昨日と同じように、右手からは花を、左手からは缶コーヒーを、それぞれ小さなマジックを使って出してやる。
コナンはやっぱり驚いた顔をした。
彼は探偵に必要な知識としてマジックのことも勉強したらしいのだが、なぜか快斗のそれには普通に驚く。冷め切った顔で眺められるのは嫌だが、こんなに素直に感動されると、ちょっと面映い。
ついサービスでアメやらチョコやらポンポン出してしまう快斗だ。
「……お前、マジシャン?」
コナンはそういうふうに訊いてきた。答えることのできない問いだった。快斗はにっと笑うと、コナンの口にチョコを放り込んだ。それから立ち上がって、ゆっくり波間へ向かって歩く。
「それだけヒントあったら、すぐわかんだろ?」
「……わかんなかったら?」
「わかるわかる、だってお前探偵だ」
「探偵だけど……」
コナンは不安そうだった。快斗だって不安だ。なぜなら、新一とコナンにこうして出会った記憶を持つ快斗は、十ヶ月後にしか生まれない。もちろんそれは、上手く快斗が元の世界に帰れたらの条件付だ。今の時点じゃ何一つ保証はない。もしかしたら、もう二度と二人は出会うことがないのかもしれない。
しかし快斗は決めていた。
元の世界に帰る方法なら、手段がたった一つだけ残っている。危険な賭けだがやるしかない。そうしなければ、タイムマシンなんか発明できない現代で、どうやっても元の世界に帰ることは不可能だ。
だから、今は可能性がわずかでもあるそれを試すつもりでいた。コナンには言わない。失敗したら格好つかないし、きっと少なからず傷つけてしまうだろう。
気を取り直して、全く別の話を持ち出そうと振り返った快斗は、ふと遠くに人影を見つけた。
一瞬にして、全身を緊張が取り囲む。
雰囲気の変化に気づいたコナンが、いぶかしげに快斗を見上げた。快斗は黙ったまま彼に手招きをする。
「──普通にして聞けよ? 後ろも振り向くな」
自然に子供を抱き上げる素振りで、快斗はゆるく微笑んだ。そうしてコナンを前方の人影から隠すように腕に包み込み、その耳元に唇を寄せる。
「……やつら、だ」
砂浜を、明らかにこちらへ向かって歩いてくるのは、サングラスをかけ、黒いコート黒いスーツの女性であった。真っ赤な口紅が恐ろしく毒々しげで、快斗は思わず空を仰ぐ。
相変わらず、やつらは顔だけをしっかりガードしている。目元が伺えなければ、必然的に年齢を読むことも難しく、結局は快斗にも背格好だけの特徴しかわからない。しかし、とりあえず今まで出会ったことのない相手だど見当をつけた。快斗は知らぬ顔でコナン相手に冗談を言い、笑い転げるふりをする。
その間も、女は着実に近づいてきた。やはり目当ては快斗かコナンなのだろう。
肌を通してコナンの緊張も伝わってくる。不意に固く掴まれた指が、強さに少し痛む。
「……新一、黙ってろよ?」
快斗は低く告げる。
「今ばれて困んのは、絶対お前の方だからな」
コナンは答えない。それでも釘を刺さずにはいられなかった。コナンには前科がある。好奇心と興味に押されると、行動に歯止めが効かなくなるに違いないのだから。
快斗は、今初めて気づいたふりで女を見た。
真っ赤な唇が妖艶に笑った。
「こんにちは。学校はどうしたの、ぼうやたち」
今更何言ってんだか。半分しらけたが、したたかな笑顔だけは忘れない。年増の女には子供のふりが一番と、KIDの手際を垣間見せる。
「おねーさん、補導の人?」
「まぁそんなものかしら?」
快斗の猫かぶりに、良くやるわとコナンが舌を出した。
「俺たち別に悪いことしてないし、見逃して?」
「いいわよ、あたしの質問に答えてくれたらね」
「質問? 何?」
「ちょっと人を探してるんだけど……」
「ふぅん?」
さすがにどきりとした。快斗は表面で笑いながら、どんな質問にも不自然にならないようにと心構えをする。
「高校生くらいいの男の子なの。昨日ちょっとお世話になっちゃって、できればお礼を言いたくって探してるのよ。でも家にいないみたいで」
「へぇ……? でも俺たちに訊いたって、何もわからないんじゃないの?」
「そんなことないわ。だってあなたたち、その子の家から出てきたじゃない」
ぴくりとコナンが見動いた。快斗が何とかやり過ごそうと口を開いたが、それよりも彼が早かった。
「おねーさん、新一にーちゃんのお友達?」
どこにこんな一面を隠していたのか、コナンは信じられないくらいの幼さで女を振り返る。快斗が止める暇もない。彼は続けて哀願するように彼女の服を握った。
「僕たちもね、新一にーちゃん探してるんだ。昨日せっかく久しぶりに遊びにきたのに、おうちに行ったら誰もいないんだもん。がっかりだよね、イチローにーちゃん」
誰がイチローじゃ。心で突っ込みながらも、快斗も愛想笑いを忘れない。
「そうだな、ミツオ。本当におねーさん知らない? こいつ新一にべったりなもんだから、昨日からごねちゃって俺も困ってたんだ」
さりげなく敵の肩にあったコナンの手を取り戻す。
女は尋ねるまでもなく与えられた情報に驚いたのか、少し反応が遅れたが、満足顔で溜め息をついた。
「……そうだったの。あたしも困ってるの。あなたたちに教えてあげられる話があればいいんだけど、ある人に頼まれてのことだから、顔さえ知らなくって……」
「ふぅん」
がっかり、と顔に描いたようなコナンの表情に、快斗の苦笑がますます深まった。
女はしばらく対応に迷ったようだ。目の前の子供たちの素性を調べるべきかどうか逡巡する様がありありと伺える。しかしそうはさせない。先手を打たれる前に、快斗の方から口を開いてやる。
「もし何かわかったら連絡しよーか?」
「えっ……。いえ、いいの、気にしないで」
女は慌てて答えた。情報提供を拒否してしまえば、こちらの連絡先を問う必要もない。快斗はしてやったりの笑みで手を振った。
「それじゃ、おねーさん。俺たちがここで遊んでたことは見逃してね」
「え、ええ。ありがとう、ぼうやたち」
退散するしかなくなって、重い足取りながらも離れていく黒ずくめの敵。
しかし、いくらやつら神出鬼没だと言っても、こんな場所で偶然出くわすわけがない。やつらは快斗とコナンの後をつけ、ここに辿りついたのだ。
女が視界から消えると、張り付いた笑顔もすうっと引いた。コナンの表情も硬い。二人は声もなく波間を見つめる。
海を見ても、もうさっきまでの感動はなかった。
あれほど輝いた青は、鈍色に煙る空を映した、ただの塩水に変わっていた。
気の向くまま歩いて、最終的に行き着いた場所は、名も知らぬ町のバス停だ。
人通りの全くない道で、バスが来るのも一時間に一本がせいぜい。さいわい、次のバスに乗れば大きな駅へは行き着くので、帰りの伝だけは保証できる。けれど、どちらにとっても、そんなことはちっとも嬉しいことではない。
どうせなら、路頭に迷うような辺鄙な場所がいい、快斗はぼんやり思っている。海からずっとコナンと話をしていないので、余計に胸に呟く回数が多かった。だが沈黙も既に限界だ。快斗が話さなければ、次は多分コナンが口を開くだろう。
「……どこ、行く?」
思った早々、コナンはぽつりと零した。
返事はしなかった。快斗はもう上手く笑える自信もない。やたらに口を開けば全部泣き言になってしまいそうなのだ。でも、いくらつらくても苦しくても、コナン相手にだけは、そんなことをしたくなかった。せめて彼の傍にいる時だけは、一番強い自分でいたい。
快斗はゆっくりと空を見上げた。薄い雲がかかっていたが、ひどく晴れ渡った空だった。
「……帰りたくないな」
またコナンが呟く。
「……まだ、昼過ぎだし」
返事を待たずに、彼は話しつづけた。
「この辺で遊べる場所も、いっぱい……」
いっぱい、それきり途切れた声。
振り向かなければならないだろうか、快斗は悲しく思う。口を開かなければならないだろうか。多分ひどくコナンを傷つけてしまうのに。
振り返る──振り返る。
上手く笑えないから、目も合わすことができない。
「だから……言ったじゃないか。あいつらはひどい組織だって」
「……うん」
「しばらく一人で出歩くなよ」
「……うん」
「身内にもお前の正体ばらすな。秘密なんて、どっから漏れるかわかんねー」
「……うん」
「それから、やっぱできれば学校に通った方がいいな。できるだけ普通の子供でいろよ」
「……うん」
「それから……物にも気をつけろ。変な郵便物とか注意してさ」
「……うん」
「それから……」
「……それから……?」
「俺たちも……もう会わない方がいいな……」
返事はなかった。
快斗は最後まで視線を合わせることができなかった。コナンを見てしまったら、言えない台詞だった。多分、絶対。泣き顔ではないだろうけど、それは笑い顔でもないはずだから。
「──だってほら、やっぱり二人でいると目立つじゃねーか。ただでさえ見た目小学生と高校生だぜ? ちょっと普通じゃねーよな。そういう組み合わせなんて、実際町で探しても少ないもんだろ? 二人より一人ずつの方が目立たないし普通っぽい。それにお前だけじゃなく、俺も見つかるわけにはいかねーから」
この口は感情とは無関係に動くものなのだ。改めて快斗は自分の特技に感心する。
こんなに冷たい声が、コナン相手に出せる。
嘘みたいだと思う。自分が自分ではないみたいだ。
「ここらが潮時だと思うんだよな。いろいろ助けてくれてありがとー。次のバス乗って、お前帰れよ。俺も自分ち帰るから」
「……でも……タイムスリップ……」
「ああ、あの話な。悪ぃ悪ぃ、お前があんまりかわいいからさ、ちょっとした冗談。忘れて」
「……そっか」
「うん。本当に。忘れてくれていいし」
コナンは快斗を責めない。つらいのは、多分彼が快斗の真実を知っているから。
知っているから、何も言わない。これ以上一緒にいられないことは、本当はお互い良くわかっていたのだ。
「それと、最後に……ひとつだけ」
だからこれが快斗の最後の我がままだ。
大人のように格好良い別れ方なんかとてもできない。素直にさよならも言えない。本当は駄々こねてないものねだりしたい。けど、それもできないから、たった一度きりの我がままと引き換えに、コナンの未来の一部を盗む。
「十ヵ月後の今日、お前に会いにいく……。知らない振りしてくれてもいい、忘れてくれてもいい。ただ顔見にいくだけだから、きっと話もしない。今回みたいな迷惑もかけない。でも顔だけ見せて。元気な顔が……見れたらそれでいいから」
「……勝手だな」
「うん、ごめん」
「……我がままだな……っ」
うん、うなずくつもりが声も出ない。快斗は少しだけ笑った。やっぱりコナンの顔を見ることはできなかった。
遠くから車の気配が近づいてくる。全く人通りがないのにどんな車だろうと思って見たら、バスなのだ。古めかしい車体が何となく笑えた。まるで今の快斗は、どっかの片田舎から東京へ出る子供を見送る親のようである。
恋人になりたかったな、不意に思う。
そうしたらここでキスができた。
「……じゃあ」
コナンが言った。少しだけ喉に絡んだ声が、痛い響きで快斗の耳を打った。
タイミング良くバスが止まる。ドアが奇妙に調子の外れた音をたてて開く。
コナンがステップを駆け上がった。それから不意にこちらを振り返って。
「──快斗」
その瞬間は、一生の不覚だったかもしれない。
名前を呼ばれるなんて予想もできなかった。思わず見るものかと決めていた彼を見てしまう。
大きな瞳にいっぱいの涙。睨みつけるようにこちらを見ていた目が、快斗と視線が重なった途端、鮮やかに微笑み──
小さなその手は、真っ直ぐにこちらへ延びた。
つい、快斗も手を差し出す。
次にはっとしたのは、その手に口付けされた後だった。
バスの運転手はあっさりドアを閉めるし、バスはさっさと発車するしで、格好つかないことこの上ない。一人取り残されたバスの停留所で、ひとしきり赤面して慌てた快斗である。
「やられたぁ……」
結局一度も勝てない。
怪盗KIDたるこの自分が、連敗するなんて許されていいものか。
快斗は泣き笑いになって空を見上げる。
綺麗な青だった。
★
★
夜のビルの屋上には、嵐のような強風が吹き荒れている。地を天と見まごうばかりのイルミネーション。明るい薄闇に沈んだ地上では、今夜も大勢の人間が蟻のように忙しく蠢いているのだろう。
その様を、悠然と見下ろす彼。
純白の衣装は自由と幸運の象徴。シルクハットにマント、モノクルは、無防備な彼の唯一の鎧。
「さて……本当にこれが幻覚だとしたら、俺が死んだら終わるかな……?」
呟きはどこまでも陽気だ。決意の強さを裏切って、まるでこれからちょっと出かけるくらいの素振りで、彼はコンクリートの先端に立つ。
一歩でも足を踏み出せば、ビルの谷間に真っ逆さま。今日はハンググライダーも用意していない。
「一が、八か、か」
そんな言葉は怪盗KIDには似合いはしないけれど。
でも今日は似合わないことをやってみたい気分なのだ。必ず勝つ賭けではなく、五分の勝負で勝利を勝ち取る。
大丈夫、いつものように勝利の女神は百人体制でKIDを守ってくれるだろう。
それに。
「……十ヵ月後に、俺が生きてなきゃ話になんねーよな」
その約束は、守るためにあった。
白いマントが鳥の翼のようにはためく。風に誘われるまま、彼は空へ飛び立つ。
恐れるものは何もない。
彼が降り立つ先は、長い長い夢の終わりと決まっていた。