スラッシャー9

03 北川 万丈 (きたがわ ばんじょう)

 大元の悲劇はハナブサの胸が人並み以上に大きかったことにある、と、万丈は分析する。
 ハナブサのそれが集団の中で目立つようになったのは、極めて早い時期だった。万丈が「巨乳」という言葉を最初に聞いたのが小学五年生頃だったから、多分そのくらいの時期からハナブサは頭一つ飛び出た存在だったに違いない。
 まずいことに、彼女は誰が見ても美人だった。掃き溜めに鶴とまでは言わないが、泥くさい子供連中の中で一人だけ花の香りを思わせる容貌をしていた。
 巨乳も美貌も、本来なら悪いことじゃない。
 しかし子供にとっては珍妙だったのだ。特に十歳そこらの男など体も小さいし中身はクソガキだ、変わったものを見れば大声で騒ぎ立て、相手が怒ればおもしろくなってまた囃し立てる。
 たとえ好意を持っていたって ── いじめる以外の愛情表現など知らないのである。
 ハナブサにとっては全く悲劇だった。ちょっと胸が揺れるだけで大げさに言われ、大人っぽく背も高かったからババァと呼ばれたりしていた。更に名前が「英」一文字で「ハナブサ」と読むのだが、乳房と「ブサ」という発音が一緒だったために、いやらしい名前だと言われたりした。
 当然ハナブサは男を嫌った。
 万丈と鉄巳が、彼女曰くの「クソ野郎ども」の枠から外れたのは、ある事件のせいだ。
 小学六年の夏休みのことである。
 学校のプールに行った帰りだった。万丈は鉄巳といて、ハナブサは途中までクラスの女子と一緒だった。
 三人の家は近い。知らぬ相手ではないのだから三人で帰れば良いものを、その頃は男子と女子で分かれることが当たり前になっていて、ハナブサはわざわざ万丈たちから離れた位置を一人で歩いていた。
 当時、万丈はハナブサより二十センチも身長が低かった。鉄巳も似たようなものだった。夏休みで誰もランドセルみたいに小学生っぽいアイテムも持っていなかったし、二人と一人で別々に歩く限り、三人を関係付けて考える者はいないに違いなかった。
 多分それが災いした。
 ハナブサは男子高校生に絡まれた。向こうは三人連れで、ハナブサを囲むように円になったのだ。
 今思い出してみると、そう質の悪い相手ではなかった気がする。無理やり肩を押さえるようなことはせず、はにかんだ感じで「一緒に遊びに行かない?」と誘いをかけた。比較的マナーの良いナンパだった。
 しかし、ハナブサは怖かったのだろう。真っ青になって口をつぐみ、いつもは同い年の男子を張り倒す腕すら己の体に小さく巻きつけ、立ち竦んでしまっていた。
 離れた位置で見ていた万丈も緊張で腹の底が冷えた。
 学校の中で彼女が誰と喧嘩しようが平気で見ていた。しかしその時だけは駄目だったのだ。
 子供の中にいたからこそ逞しく思えた彼女は、真に発育した男の傍にあっては、かわいそうなほど華奢でどうしようもなかった。
 だから万丈は走った。
 走って、男の群れに体当たりして ── あとで気付いたが鉄巳も一緒になって突っ込んでくれた ── ハナブサの手首を引っ掴み、我武者羅に走りまくった。
 大疾走は自宅すら飛び越え隣町まで続いた。三人が立ち止まったのは、単純に息が続かなくなったせいだった。
 住宅街、舗装道路の真ん中で。
 ハナブサと、鉄巳と、万丈と。車が通ることさえ思いつかず、倒れ込んだままひたすら酸素を貪った。
 誰も話せるような状態ではなかったが、ふと万丈が笑い始めたのを発端に、結局三人で爆笑してしまった。怖かったし、きつかったし、少しだけ楽しくもあった。改めて顔を見合わせると笑うしかなかった。
 ところが、そうして笑っているうちに、ハナブサの瞼からほろと甘くやわらかい何かが零れ ──
「……ありがと」
 彼女は幼い表情で泣いていた。
「万丈と鉄巳がいて良かった。あたし一生二人のことはキライになんない」
 鉄巳がまたひねくれて「男は嫌いなんだろ、俺も万丈も男だぞ」とか何とか言った気がする。
「男でも。あんたたちだけは好き」
 万丈は頬を濡らしつつ鮮やかに笑った彼女に見惚れた。
 多分あの瞬間から、万丈の中で、世界で最も美しい女はハナブサと決まってしまったのだった。

「俺、あの時が一番かっこよかった……」
 万丈の呟きに一旦動きを止めた鉄巳は、しかしすぐ興味を失ったらしく目の前の皿にスプーンを突き入れることを繰り返す。
 鉄巳の牛しゃぶカレーはほぼなくなりかけていた。
 それに対し、万丈のエビフライカレーはエビが一尾減ったきりである。ルーもなみなみと残ったままだ。
「早く食えよ、冷まし過ぎだろ」
「ん、もうちょっと」
 万丈は猫舌だ。鉄巳と一緒にラーメン屋やカレー屋に行くと、大抵鉄巳が食べ終わって眼鏡をかける頃にやっと食べ出すことになる。
「それより聞いてくれってば。俺のかっこよさは小六がピークだったかもしれん」
「ふぅん」
「なぁ、俺めちゃくちゃ真剣なんだけど」
 鉄巳は最後の一匙を口に入れた。
 某カレー専門店のカウンター席だった。微妙に夕飯時には早い時間帯で、狭い店内に客は二人だけ。店員は二人に給仕を終えてしまったものだから奥で仕込み作業を始めている。
 万丈はやっとカレーにスプーンを入れた。少しだけ舐めてみる。どうにか食べられる温度だった。改めてルーとライスを一緒に掬う。
 隣では鉄巳が眼鏡をかけるところだ。
 万丈は口をもぐもぐさせながら再度「聞けよ」と迫る。鉄巳は「食いながら喋るな」と母親のようなことを言った。
「大体いつお前がかっこよかったんだよ、俺はそれすら思い浮かべられない」
「ひっでぇ!」
「ひどいのはお前の頭だ」
 鉄巳はなぜだか不機嫌そうだった。そう言えばおやつをカレーに決めた時も苦い顔をしていた。
 忠達を説得して、めでたく万丈がスラッシャーイエローに決定したお祝いなのである。イエローならカレーと相場が決まっている。
 そしてカレーは当たり前にうまい。不機嫌になる理由はないはずだ。
 万丈が会話を諦めると、店そのものが居心地が悪いくらいに静かになった。
 スプーンで皿を叩いてみる ── 間抜けな音。
 鉄巳が溜め息をついた。いくらか口を開く気になったらしい。
「……どうしてレッド譲った」
 万丈は、最初何を問われているのかわからなかった。
「お前、あんなの大好きだろ?」
「好きだよ? 好きだから理想もある。聞きたいか、俺のレッド理想像?」
 ふざけて言えば馬鹿らしいと切り捨てると思ったのに、ヤツは万丈の話を待っている。
 万丈はカレーを掻き込んだ。それから水を飲んで一息ついた。
「えー、では僭越ながら。レッドはさ、かっこよくなきゃいかんわけよ。それも、無駄にかっこいいってわけじゃなく、大事な時に一番頼りになるやつじゃなきゃいけない。苦しい時にも笑ってみんな引っ張ったりしてさ、いや怒っててもいいかな、とにかくこの世のどんな不幸にも負けない男だ」
「……ふぅん」
「あとひとつ。レッドは泣き虫じゃない」
 鉄巳が眼鏡の奥で目を瞠るのがわかった。
「俺なんか痛かったり苦しかったりしたら泣いちゃうしさ。その点イエローは完璧、いまいち頼りにはならないんだけど人情家で涙もろい、カレー大好き、そんな感じ」
 俺以外の誰にもイエローはやれません!、笑って言い切ってやれば、鉄巳は脱力してうなだれた。
「……お前、アホだろ」
 ヤツはカウンターに片肘をついて、その手で後ろ頭を掻きながら唸るように言う。
「いいか、もう一度言うぞ。お前はアホだ、だからもういい、もう忘れちまえ」
「……何の話だよ」
「ハナブサだ」
「…………」
「忘れろよ、胸がデカい女なんざ履いて捨てるほどいる」
 鉄巳はわざとそんな言い方をしたのだろう。
 万丈もカウンターに突っ伏した。
「……だってハナブサいい女だったよ」
「知るか」
「気が強すぎるとこあったけど、かわいかっただろ?」
「そりゃお前相手にだけだ。あいつは男が嫌いで、胸見て近づいてくるヤツは虫けら見るような目で見てた」
「……かわいかったよ」
「俺はそう思わないけどな」
 お互い顔を見ずに話していたのだが、その答えを聞いた途端、万丈はバネ人形さながらに跳ね起きていた。
 万丈は誰から見てもハナブサは最上の女だと思い込んでいた。万丈と同じものを同じ時間眺めてきたはずの鉄巳が、ハナブサをそんなふうに評するとは思ってもみなかったのだ。
 鉄巳はよそを向いたまま重ねて「忘れろよ」と言った。
「ハナブサはお前が思うほど特別な女じゃなかった」
「──…………」
「いつまで後ろ見てる気だよ、あいつはもう死んだんだぞ」
 相変わらず鉄巳の顔は見えない。ただ頬と顎が動くので、本当にそれを言っているのが彼であるとわかるだけだ。
 確かに、鉄巳が察したように、万丈がレッドにこだわったのはハナブサのせいだった。
 万丈は彼女の前でレッドのようにかっこよくいたかった。幼い頃に培ったハナブサの男嫌いは、高校に入学してもあとを引いていて、それどころか下心の出た男がやさしくなるのに、彼女は更に嫌気を増したようだった。万丈が物慣れていろいろなことをさり気なくできるようにならなければ、好きだという気持ちすら毛嫌いされそうだったのだ。
 せめて、と、思う。
 せめてもう少しでも年をとっていたり、頭が良かったり、気のきく男だったなら。
 万丈の後悔は声にならない。
「お前はアホだ。自分ばっかり責めて、ハナブサの悪かったとこはさっぱり忘れてる」
 鉄巳は言うが、果たして本当にそうだろうか。
 万丈さえしっかりしていたなら、ハナブサが病気だと知った時、見舞いに来るなと言われ本当に見舞いに行かなかったり、噂を聞くなと頼まれ本当に耳に入れずにいたり、能天気なメールのやり取りだけで勝手に大丈夫なのだと錯覚したりはしなかったはずだった。
「……もしハナブサが悪かったとしても、さ。こういうことは、男が責任取るのが世のコトワリってもんでしょう……?」
 何かしてやりたかったのに何もできなかった。万丈が無理やり笑うと、鉄巳はますます苦い表情で腹から息を吐き出すのだ。
 そしてとどめの一言。
「アホだな」
 ── ああ、全く。
 万丈はカウンターに沈没した。
「……さすがブラック」
「あぁ?」
「深炒り、無糖、いじめっこ」
 速攻で後ろ頭をはたかれた。ぺん、と、大変良い音がした。