スラッシャー9

05 橋口 夏美 (はしぐち なつみ)

 鉄巳が教室に帰ってきたのは、昼休みが終わり更に五時間目の授業も終わって、六時間目の授業が始まるかという頃のことだった。
 足取りも重く疲れた様子で、すみれと何を話したかのか尋ねても終始生返事。逆に万丈が演劇部のことを問われ、変身スーツの貸し出し許可をもらったことを報告させられ、結局何も聞き出さないまま授業開始のチャイムではぐらかされた。
 鉄巳の様子からすると案外深刻な話だったのだろう。
 自分とハナブサのことだったら嫌だと思う反面、彼らが他にどんな話をしたのか見当もつかない万丈である。
 窓際、昼時は最も日当たりの良い位置に、今はひとつだけ空席がある。
 一輪挿しの丸い花瓶が飾られた席だ。毎日誰かが新しい花を持ってきているらしく、今日は小振りのオレンジ色の花が光を受けている。
 鉄巳が「特別じゃなかった」と言い、すみれが「好きじゃなかった」と言ったハナブサ。
 確かに誰にでも好かれるタイプの女ではなかったと万丈も思う。欠点も当たり前にあって、子供っぽい部分もあったし、そういう意味で言うなら、彼女は普通の十六歳の少女だった。ただ少しだけ違ったのは、彼女自身が好き嫌いをはっきり主張したために、彼女を取り巻く人間も敵と味方の真っ二つに分かれたことである。
 ハナブサを嫌う者はとことん嫌っていただろうし、好きな者は彼女自身になりたいと願うほど憧れていた。
 教科書を朗読する誰かの声を聞きながら、万丈はぼんやり窓際の花を目に入れている。
 一ヶ月前の万丈は、ハナブサのいない教室にいるだけで泣きそうになった。
 今も泣きたい気持ちはある。けれども昨日よりは今日、今日よりは明日、万丈は確実にハナブサがいない日常に慣れていく。
 文化祭のために動き出してからはもっと目まぐるしい。一時などどこもかしこもハナブサで溢れていた意識が、忠達によって、周芳によって、すみれによって、鉄巳によって、少しずつ切り崩されていく。
 もし万丈がハナブサだけを思い続けていたのなら、すみれが「好きじゃなかった」と言った時も、ハナブサを弁護して怒ってやることができたのに ──
 万丈はひそかに後悔している。
 すみれが文化祭をハナブサへの罪滅ぼしと言うのなら、万丈のそれは常にハナブサを忘れずにいることだった。
 
 授業が終わったあと、万丈を振り返った鉄巳はまず目を瞠り、次いでいらいらと舌打ちした。
「……何だよ?」
「お前こそ何だ、その顔」
 顔? 顔がどうしたと言うのだろう?
 言われるまま手で触ってみる。目元、頬、顎。ゴミがついているわけでもないらしい。
 鉄巳はますます眉根を寄せた。長くは待たずに万丈のこめかみを小突く。
 万丈はそれで気が付いた。
「……俺、泣きそう?」
 鉄巳は目を逸らした。
「さっさと行くぞ、今度こそ橋口先輩捕まえるんだろ」
「ああ……、うん」
 慌てて席を立つ。
 どんなに橋口夏美が動き回っていようと終礼前には必ず教室にいるはずだ。どうしても話がしたいなら、今会って放課後の約束を取り付けてしまえば良い。
 小走りで廊下を行きながら、万丈はもう一度自分の顔に手を当てる。
 鉄巳が再び舌打ちするのが聞こえたが、万丈は逆に嬉しい気分だった。
 知らずに泣けそうになるくらいには、自分はまだハナブサに縛られている。
「……安心した」
「何だって?」
「何でもない。それより急ぐぞ!」
 橋口夏美のクラスに終礼があるなら、万丈と鉄巳のクラスにだって終礼はあるのだ。遅れて担任に文句を言われるのは遠慮したい。
 万丈は二段飛ばしで階段を駆け上がった。

 

 夏美は図書委員だったらしい。
 今日は窓口当番で休み時間全てを図書館で過ごしたのだとか。道理で彼女が教室にいないはずである。万丈も鉄巳も委員会と縁遠いため、そんな事情だとは思いつきもしなかった。
 しかし図書委員だと知って見れば、夏美は確かにそれらしい雰囲気を持っていた。
 髪は短く ── 活動的とか洒落ているというわけではなくただ小ざっぱりとしていて、中肉中背、レンズの大きな眼鏡をかけ、きびきび動き、ずけずけものを言う。
 取り立てて美人でもなくブスでもないが、真面目そうで少しだけ近寄りがたい。それが橋口夏美である。
 放課後もやはり図書館にいた夏美は、図書カードの整理のかたわら、カウンター越しに文化祭の計画書を覗き込んだ。
「……ふぅん」
 計画書を見ての彼女の第一声はそんなもの。
「いいんじゃない? 本当に生け花するんだったら時間もかかりそうだけど、花束程度ならそんなに手間暇かからなさそうだし」
「あ……はぁ、それはもう」
「ただ仮装って言うのは、あたし ──」
「それは希望者だけってことで!」
「あ、そう。だったらいいわよ。これ松風さんの計画でしょ、前に大土井から見せられたわ。あたしは松風さんとあんまり話す機会なかったけど、同じ部にいた人間だものね、花束の一つくらい贈ってもいい」
 いちいち癇に障る言い方なのだが、これでも本人には悪気がないのだ。
 悪気はない悪気はない、万丈は自分に言い聞かせ、引きつりそうな口元を堪える。
 もちろん夏美は最初から万丈の反応など気にしていない。文化祭の話はもう終わったとばかりによそを向く。
「……もう11月の話かぁ」
 何だか憂鬱そうな声だと思ったら、
「あたし、11月に推薦入試があるのよね」
 ちょっとびっくりした。
「早くないっスか?」
「そうでもないわよ、もっと早いとこは10月からやってるし」
「じゃあ文化祭の頃って……?」
「入試一週間前」
「ええっ!」
 思わず大声になった。夏美がすかさず口に人差し指を立てる。
「ちょっと! 静かにしてよ! 図書委員がうるさくしてたら示しつかないでしょ!」
「す、すみません……」
 二人カウンター越しに顔を寄せた。
 鉄巳は脇で知らん顔だ。それでも多分話は聞いている。
 万丈は小声で続けた。
「普通、入試の一週間前って学校休んだりするもんじゃないんスか?」
「そうする人もいるわね。でもあたしは家で勉強するの好きじゃないし。文化祭も……息抜き? だから大土井には悪いけど、準備の必要な計画だったら参加しないつもりだった」
 夏美は眼鏡を指で支えて苦笑う。
「とりあえず、そんなわけで面倒は嫌なの。多少のことなら付き合ってもいいんだけど、極力面倒にはならないように、あんたたちはしっかり計画立てなさいよね」
 勝手を言われても今度は腹が立たなかった。万丈は神妙にうなずき、夏美も満足そうに息をつく。
「どうせ打ち合わせは部会でやるんでしょ? 花だったら岸本先生の意見もいるんだろうし?」
「はい。変更あったらまた知らせに来ます」
「そうして。── あ、そうそう、ちょっと気になったんだけど」
 夏美はわざわざ計画書を確かめると、何かを測るような眼差しで万丈を見た。
「……あたしの記憶違いかもしれないんだけど、あんたの担当、赤じゃなかったっけ?」
 さすがにどきりとした。
 万丈はしどろもどろに、周芳の計画を入れたことで変更があったのだと言い訳した。夏美はまた「ふぅん」とどうでも良さそうな返事をしたが、こうも言った。
「別にあたしはいいんだけど。でも、これって松風さんのための企画じゃなかったの? 松風さんが北川を赤にって決めたんだから、赤やってやれば良かったのに」
「あー……その、俺じゃ役不足ですし」
「何が?」
 言葉に詰まる万丈を、彼女は更に訝しげにねめつけた。
「ねぇ、あんたたち付き合ってたんじゃなかったっけ?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、松風さんの片思い?」
「いや、それも違ってて。……えーと」
「どっちよ?」
 万丈は答えられなかった。
 ハナブサは、万丈がハナブサを好きなことは知っていただろう。万丈も、ハナブサが万丈を思ってくれているとは ── 周りからそう聞かされていたから、そうなんじゃないかなぁとは思っていた。しかし実際のところ、当人同士で告白をしたことはない。
「……呆れた!」
 結局黙った万丈に、夏美は恐ろしく剣呑に笑った。
「ねぇ、そんなことなら、あんたが赤のままで良かったじゃない。最後くらい松風さんの願い叶えてやったらどうなのよ。赤って、どうでも良いと思ってる相手に割り当てる色じゃないわよ? 松風さんの好きな色だか北川の好きな色だか知らないけど、とにかく松風さんがあんたのために考えた色でしょ!」
 夏美の勢いは予想外だった。
 初めは抑えられていた声が、どんどん大きくなっていく。おかげで図書館のあちこちから注目する視線を感じる。
 正直、気まずい。かなり落ち着かない。
 しかも夏美は、万丈の意識が逸れていることに焦れたのか、カウンターに握り拳を打ち付けた。
 バン、と、図書館中に派手な音が響いた。
「── 北川。あんた、あんまり女ナメんじゃないわよ」
 怖かった。
 万丈は「す、すみません……」と小さくなったあと、鉄巳を引っ張って図書館から逃げ出した。

 

 ナメてないよな俺、むしろ敬ってるよな?
 あとで鉄巳に泣きついたら「知らん、女に聞け」と一蹴された。
「ムリだよ、聞けねぇ! 女って怖ェよ!」
 てっきり聞き流されると思ったのに。
「……そうだな、女は怖い」
 うなずいた鉄巳は、何だか妙に深刻そうに目を伏せた。