06 近藤 志摩子 (こんどう しまこ)
男と女の間には深くて長い溝があるのだそうだ。
この言葉を最初に唱えた人物は、要するに男女が分かり合うのは容易ではないと言いたかったのだろう。
そして万丈は、自分と近藤志摩子について、先人の表現に付け加えるべき言葉を持っている。
男と女の間には深くて長い溝がある、加えて高くて越えられぬ壁がある、最後に越えても永遠に辿り着けぬ距離がある ──
つまりどうあっても分かり合えない相手だった。
分かり合えないことは、最初からわかっていた。
「俺が行く」
鉄巳が珍しく単独行動を言い出したのは、そんな救いようがない万丈と志摩子の関係を熟知していたからこそだっただろう。
志摩子のクラスが目と鼻の先にあった。
朝からタイミングを計りかねていて、昼は昼で踏ん切りがつかずどうすることもなく、ついに五時間目の休み時間である。
同じ学年にいる相手だ、教室は近い。会話さえ成立すれば十分間の休み時間でも意思疎通は可能である、はずである。
「……大丈夫か?」
「お前が行くよりマシだ」
「スマン、よろしく」
鉄巳は憂鬱そうにしながらも自分から志摩子の教室へと向かってくれた。
ところが数分後、明らかに交渉決裂の体で帰ってきた彼は、眼鏡のレンズにひびを入れている。
「何が起こったか聞きたいか?」
あんまり聞きたくない気がしたが、うなずかないわけにはいかないではないか。
「そうか、聞くか。ならお前が俺役、俺は志摩子だ」
「へ?」
「お前は志摩子の教室前に立った、そして近くの相手に志摩子を呼んでくれと頼んだ」
「た、頼んだ……」
とにかく言われるままに想像する。ざわめく教室、引き戸の前、目の前を行く女子生徒にちょっと緊張ぎみに声をかける自分。
オシ、来い。気合を入れ直す。ひび入り眼鏡の鉄巳と正面から向かい合う。
鉄巳がうっすら笑った。
継いだ言葉は冷淡を通り越していっそ酷薄。
「お前は誰だ」
「……ぅ、え?」
「お前なんか知らない、俺に話す義理はない」
突然そんなことを言って背を向ける。何がどうなったのかわからなかった万丈は、慌てて鉄巳の肩を掴んだ。
「── 触るな」
物凄いスピードで彼の腕が振り被られる。
殴られる?、万丈は思わず目をつぶり、石のように身を固めて、
「……おい、少しは避けろよ」
呆れた調子の声を聞いた。
はっと目を開けると、目の前三センチにあった拳が下ろされるところだった。
「……あー……」
何だか言葉が出てこない。
とりあえず鉄巳の眼鏡にひびが入った理由はわかった。頬に手型がないところを見ると、万丈と違い、彼は咄嗟に相手の手を避けたのだろう。眼鏡は何かに引っかけて飛びでもしたのか。
いや、それにしても ──
「お前でそんななのかよ……」
万丈は思わず座り込んでいた。
志摩子は鉄巳に「あなた誰?」と言ったのだ。引き止めようとしたら「触らないで」と言い、問答無用で殴ろうとしたのだ。
元々好かれていなかったが嫌われてもいなかったはずの鉄巳でこれなら、はっきりきっぱり嫌われている万丈はどんな対応をされるのか。
「会った途端、首絞められるんじゃないか?」
鉄巳のコメントは冗談に聞こえない。
「うう……、でも志摩子も部員だし、ハナブサの計画にも入ってるんだし……首絞め
られても俺は行くしかないだろ……?」
「まぁな」
「……眼鏡、弁償する」
「いんね。それより志摩子どうにかする方法を考えろよ。面と向かってあんた誰って言われるんだぞ、進む話も進まない」
六時間目のチャイムが鳴る。
へたり込んだままだった万丈は、鉄巳に引き起こされて苦く呻いた。
ハナブサと志摩子、互いに見も知らぬ状態で、先に声をかけたのはハナブサだったと記憶している。
高校の入学式当日のことだ。
掲示板の新入生名簿を前に、また同じクラスになったと、鉄巳とハナブサ、万丈で話をしていた最中だった。不意にぽかんと口を開けて固まったハナブサの視線の先に志摩子の姿があったのだ。
言ってしまうなら、その時のハナブサの様子はまるで一目惚れのようだった。
自分の経験から人の見目には拘らないと豪語していたはずの彼女が、その時だけは、志摩子の西洋人形のように緻密に整った白磁の横顔に目を奪われた。
ハナブサの美貌を華麗と言うなら、志摩子のそれは可憐である。どこか幼く頼りなげでいながら、瞬きひとつ微笑ひとつに、はっとするような甘さと瑞々しさがある。
「理想が服着て歩いてる……」
志摩子を目の前にしてのハナブサの第一声だ。
極端な言いように呆気にとられた万丈と鉄巳の陰で、ハナブサは突然慌しく身なりを整えた。男二人を鏡代わりに「どこも変じゃない?」と確認をとる念の入りようだった。
「あたし、あのこナンパしてくる!」
他クラスだったにも関わらず、ハナブサと志摩子はすぐに相思相愛になった。
平均より背の高いハナブサと、平均より背の低い志摩子の組み合わせは、見目の麗しさも相俟ってどこにいても良く目立ったものだ。
外見的には正反対の二人だったが、歯に衣着せぬタイプのハナブサに、かわいらしく微笑みながら毒を吐く志摩子は、好き嫌いを隠さないという点で共通する部分も多かった。傍から見ていると姉妹のようでもあり、常から妹を欲しがっていたハナブサに至っては志摩子の我がままを喜ぶ節さえ見えた。
万丈も良く覚えている。
陽だまりの中で無邪気に手を取り合って笑う少女たち。耳をそばだててみれば、楽しげに話す内容は誰かの悪口だったりもしたのだけれど、他者を寄せ付けない二人の親密ぶりは度を超していて、誰もが溜め息をつかずにはいられなかった。
もちろん万丈も溜め息をついた一人である。
そもそも最も志摩子の存在に振り回されたのは万丈だ。ハナブサと言葉を交わすだけで物凄い目で睨まれたし、ハナブサが万丈を少しでも弁護しようものなら、志摩子は今すぐ死ぬと言い出しそうな勢いで泣いた。
万丈とハナブサの関係に進展がなかったのは、志摩子の妨害によるところも大きい。
ハナブサが病に倒れた時も ──
万丈が決して病室に足を運ぶことのなかったひと夏を、志摩子は一日かかさず通い詰めていたと言う。
万丈がハナブサと会わなかった一番の理由はハナブサ自身が見舞いを嫌がったせいだが、志摩子と鉢合わせすれば悶着が起こるだろうこともまた立派な足止めになっていた。
とはいえ、これらは既に意味を失った恨み言である。
志摩子がいようとハナブサが嫌がろうと万丈は病室に行くべきだったし、それをしなかったのは結局のところ万丈自身で、裏でどれだけ不安だったとか、ハナブサの「心配しないで普段通りでいて」という言葉を律儀に守り続けたとかは、ハナブサがいなくなった今何の言い訳にもなりはしなかった。
今年の夏は長かった。
だが、呑気を装ったメールを不安を無視し書き続けた万丈と、友の病に正面から立ち向かっていた志摩子と、どちらがより長い夏を堪えたかと言えば志摩子だったかもしれない。
志摩子は万丈の疚しさそのもの。
向き合えば確実に罪を糾弾する鏡だった。
「……だからって逃げてもどうしようもないことは、わかってたつもりだったんだけどさ」
ひび入り眼鏡を外した鉄巳と二人、他クラスの靴箱に寄りかかって足を伸ばしている。
下校途中の生徒からは通行の邪魔と嫌な顔をされつつも、邪魔こそが目的の体勢を保ったまま、万丈は志摩子がやって来るのを待っていた。
放課後の昇降口は薄暗い。
時折思い出したように笑い騒ぐ声が響く他は、ジャージ姿のクラブ生が出入りするくらいで、靴箱近辺は至って静かなものである。文化祭の準備にしてもまだ切迫する時期じゃなく、校舎に留まる人数は着々と減っているようだった。
出入り口の向こうの空が暮れ始めている。
「……来ない、な」
ぽつり、鉄巳が呟いた。
万丈は長時間同じ体勢でいたせいですっかり強張ってしまった膝下を見ていた。
いつの間にか制服と影の色が同化している。まるで足が暗色の根を張ったようだ。
「……志摩子は、俺がここで待ってるのに気付いたんだろうな」
「上履きで帰ったか?」
「まさか。そこまでしおらしくない。ここで通せんぼしたって本当に嫌なら蹴散らすさ。多分まだ校内にいるよ、俺が根負けするの待ってる」
鉄巳は万丈の達観に苦笑った。
「確かにやられるままの志摩子じゃない」
「だろ? きっとさ、俺が首絞められる覚悟したみたいに、志摩子は志摩子で、俺の首絞める覚悟をしてるってことなんだ」
同じ人間に惹かれた者同士だ。共感できることは多いはずなのに、万丈と志摩子は未だ互いを分けるハナブサという巨大な溝に固執している。それは永遠に埋まらない溝であり、越えられない壁だった。埋めないまま、越えないままで良いのだと、心の奥で納得した境界なのだった。
ふと、階段から足音が響いた。
鉄巳が顔を上げ、万丈もそちらを仰ぐ。
志摩子である。あどけない頬を敵愾心で硬く強張らせ、黒目がちの瞳に決意をたたえて万丈を射抜く。
踊り場の窓の下、夕陽の光の中にたたずんでいた彼女は、万丈が逃げ隠れしないことを知ると、ゆっくりと歩みを進め同じ場所まで降りてきた。
「……話があるんだ」
第一声、思った以上に冷静な声が出た。
「文化祭の華道部の展示企画が決まった。みんなでハナブサのために花束作ることになったんだ、お前もメンバーに入ってる」
今、志摩子の靴は万丈の背中にある。志摩子は無反応のまま正面に立ち「どいて」と言った。
「ハナブサが夏に作ってた部員名簿、お前も見てるんだろ?」
「どいてくれない?」
「志摩子」
「どいて」
万丈と頭ひとつ以上も背丈が違う彼女は、しかし間近に見下ろされても全く動じていないように見えた。それどころか、万丈が会話にためらうとあざ笑うそぶりを見せる。
「……華道部? 何の話してるの? ハナちゃんはいないのに華道部? どうして?」
どこか震えるような声の高さなのだ。
「文化祭なんて知らないわ。花束なんか作ってどうなるの。今更ハナちゃんのため? あんたたちのごっこ遊びにあたしを巻き込まないでよ」
「ごっこ遊びじゃない。みんなハナブサを悼んでくれてる」
「笑わせないで。あんたが言う"みんな"は毎日馬鹿みたいに平和そうな顔してる。悼むって悲しがることでしょ、ハナちゃんがいなくて悲しいって毎日泣いてる人が華道部にいる?」
「志摩子 ──」
「気安く呼ばないで!」
叫んだ志摩子は、今にも泣き歪みそうな形相を無理やり笑みに変えて続けた。
「ねぇ、あんたハナちゃん好きだったんじゃなかったっけ……? なんでそんなに普通なの?」
「……普通じゃ、ない」
「どこが? ハナちゃんいなくなっても普通に笑って普通に息してたでしょ? 普通に学校に来て、当たり前に華道部に戻ったんでしょ?」
「それは……」
「ハナちゃんがいなくても平気なんでしょ?」
万丈を確実に貫く声だった。
息が詰まり喉元が熱くなる。心臓が痛みに軋む。
「ねぇ、平気なんでしょ……? だから簡単に文化祭なんかでけりつけちゃおうとするんでしょ? それで文化祭が終わったらハナちゃんを忘れるの?」
「ちが、う」
「嘘よ。だってあんたはハナちゃんが苦しい時も平気だったんじゃない」
「ちがう……っ」
「どう違うの? ハナちゃんが起き上がれないような日にふざけたメール寄越して、どうでも良い話して、ハナちゃんが返事送ったらそれで満足して……あんたは全然見なかったじゃない。ハナちゃん携帯電話すら持てなかったのに……あんなに綺麗だった手がどんどん動かなくなって、体も起こせなくって、呼吸だって毎日つらそうで……! そういうの、あんたは全然見なかったじゃない!」
振り立てられる言葉の刃に眩暈がした。
確かに万丈は見なかった。見なければならないものだったのに ── ハナブサの頼みに甘え、無知と楽観を取り違えた。
「本当にハナちゃんが好きなら……っ! あんたはちゃんとハナちゃんの目の前でハナちゃんと一緒に苦しんで、今だってあたしよりずっとみっともなく泣き叫んでたはずよ……っ!」
窒息しそうだ。
「あんたはハナちゃんのために世界で一番かっこ悪い男にならなきゃなんなかったのに……っ!」
半泣きの糾弾に耐えきれず瞼が下りた瞬間だった。
誰かが身動く気配と、何かをはたく軽い音。
「……なんで……?」
志摩子が呆然と呟くのがわかった。
万丈はのろのろと目を開いた。
目の前に志摩子の顔は見えなかった。代わりにあるのは肩だ。万丈と同じくらいの高さにある、幼馴染の肩。
「いいかげんにしろ」
鉄巳は窒息寸前の万丈を背にかばい、威嚇するように低く唸った。
彼が志摩子の頬を叩いたのだと。すっかり血の巡りの悪くなった万丈の頭が理解した頃には、おおよそのことがあとの祭りになっていた。