スラッシャー9

07 門倉 鉄巳 (かどくら てつみ)

「……いいかげんにしろ」
 鉄巳のそれは、更なる衝動を必死で押し潰しているように聞こえた。
 志摩子が怯えて後退る。鉄巳は彼女の小さな腕を掴み寄せ、冷酷な死刑執行人のように言うのである。
「お前に万丈を責める権利はないだろ。お前はこいつがハナブサに何もしなかったって言うけどな、じゃあお前は一体何をしてやったんだ? ただ傍にいて病気のハナブサ相手にも甘ったれてただけじゃないのか?」
「ち……違うわ!」
「どこが? 誰が見舞いに来ても良い顔せずに、ハナブサに機嫌取りをさせてただろ?」
「あれは ── だってハナちゃんは病人だったもの、人が集まれば疲れると思って!」
「へぇ? 俺はお前の癇癪が一番ハナブサを疲れさせてたと思うけどな」
 違うわ!、志摩子の反駁は悲鳴のようだった。
「違わない! ハナブサが本当に甘えるのは万丈にだけだった、お前はそれを知って万丈を遠ざけたんだ。それだけじゃなくハナブサの周りに集まる人間全部を嫌った。自分はひとつもハナブサを楽にしてやれないくせに、我が物顔で病室を占領した ── なぁ、俺は一度お前に聞いてみたかった。お前、本当はハナブサが病室に閉じ込められたことを喜んだだろう?」
 これを耳にして、それまで呆然と鉄巳の後ろ姿を見ているだけだった万丈も我に返った。鉄巳は言ってはならないことを言おうとしている。
「おい、それ以上は……っ」
 咄嗟に肩を掴むが鉄巳の勢いは死なない。
「毎日見舞いに来るのはお前だけ。ハナブサがずっと入院したままだったらいいって ── お前は一度も願わなかったか」
 刹那、志摩子の瞳から新たな涙が湧くのが見えた。万丈は二人の間に自分の体を割り込ませる。
「志摩子……?」
 呼んでも反応がない。志摩子はうつむいてしまい、すっかり過去の記憶に囚われているようだった。
 鉄巳が指摘したことは、恐らく志摩子の心にも深い悔恨として根付いていたのだろう。万丈がそうであったように、志摩子も最初はハナブサの病を深刻に考えてはいなかったはずだ。それで無邪気に場を独占して、いつの間にか一人でハナブサの闘病を見守ることになってしまった。
 鉄巳はハナブサを甘えさせてやれるのは万丈だけだったと言ったけれど、少なくとも病に陥ってからのハナブサは志摩子に甘えていたのだと思う。
 ハナブサは早くから友人たちの見舞いを断った。嫉妬深い志摩子の手前もあったかもしれないが、ハナブサ自身が病状を隠したがったせいでもある。
 つまりハナブサは志摩子を隠れ蓑にしたのだった。志摩子には真実を見せることで、万丈には嘘をつき通すことで、ハナブサはそれぞれに甘えたのだ。
 志摩子も万丈もハナブサを挟めば立ち位置は同じである。だからこそ万丈は志摩子を責められない。
 正直なところ、華道部で企画を成功させることに意味があるのかわからない。ただハナブサがかかわったものが人知れず埋没していくのは嫌だった。志摩子もそのことについてだけは万丈と同じように感じるはずなのだ。
 万丈は長く迷った末、もう一度志摩子に語りかける。
「あのさ……ハナブサの企画、やっぱりお前も参加しろよ。俺もお前も、もう一人じゃ何にもハナブサのためにしてやれることがないだろ。お前はごっこ遊びって言うけど、遊びでも何でもハナブサがやりたがってたことだ、俺たちの力で実現してやろう……?」
 志摩子は動かない。
 万丈が言えるのはここまでだった。あとは鉄巳の肩を押して校舎から出た。
 夕陽が赤く照りつけるグラウンドは、屋内の薄暗さが嘘のように明るくまばゆい。
 運動部が声を張り上げてそれぞれの練習に没頭しているのを、万丈は古い映画でも見るように遠く眺める。
「……なぁ、あれはちょっと言い過ぎだったろ。それと女殴るなよ。今回は眼鏡が先だったから、ダメージとしてはアイコかもしれないけどさ」
 鉄巳は黙ったままだ。とはいえ、ずいぶんはっきりとふて腐れた雰囲気が伝わってきて笑えてしまった。
仕方ないので本音も付け足してやる。
「でも助かった。お前が入ってこなかったら、俺絶対泣いてたし ── 俺を泣かす女はハナブサだけで充分だもんな!」
 最後だけ大声で宣言すると、うるさいと言わんばかりの膝蹴りが尻に入る。鉄巳はまだまだ仏頂面だったが、多少は機嫌も回復したようだ。
 万丈は彼をラーメン屋に誘った。感謝の気持ちも込め、今日は一皿おごってやろうと思った。

 そのラーメン屋で、鉄巳が口を滑らせたことがある。
 例によって例のごとく、猫舌の万丈が鉄巳の食べ終わり間際にようやくスープを口に運んだ頃のことだ。
「それにしても……志摩子の時だけ妙に協力的だったな、お前?」
万丈が何気なく尋ねたことに、鉄巳は「それは、あいつが……」と言いかけ、はたと口を閉じた。
「あいつ? 誰?」
 鉄巳はその名を出すことすら不本意そうに眉をひそめていた。
「……高崎すみれ」
「すみれ先輩?」
「志摩子からお前を守ってやれってさ」
「ええっ?!」
 先日、鉄巳が一人だけすみれに引き留められていた時の話だろうか?
「あの女、お前に気があるんじゃねぇの?」
「いやいや、それは違うって! すみれ先輩、交通事故で二親亡くしてるらしい、俺と志摩子のこと凄く心配してくれてたんだって。チカちゃん先輩が言ってた。にしても……守れってか……うわぁ……」
 すみれにそう言わせてしまうほど自分は弱って見えたのだろうか。気遣いはありがたいが男としては滅茶苦茶恥ずかしい。
「そっか、すみれ先輩かぁ……道理でやたら志摩子の弱点をつくのが上手いと ── 」
「そっちは俺だ」
「へっ?」
「志摩子と俺は似ている。あいつが考えそうなことは手に取るようにわかる」
「似てる? お前と志摩子が?」
「というか、お前と俺の関係と、ハナブサと志摩子の関係が」
 真顔で返されて困ってしまった。
 鉄巳は平然と続けた。実は志摩子をかばった万丈に当てつける気持ちもあったのかもしれない。
「要は独占欲の問題だ。俺は俺以外の誰かがお前の傍に貼り付いていたらおもしろくない」
「そ、そうなんですか……?」
「お前はどうだ。俺が全然別のやつと急に仲良くなって、お前の顔見ても素通りするようになったら」
「……それは……嫌だ」
 何だか質問が卑怯だとは思いながらも素直に返事を返すと、鉄巳は満足そうにうなずいた。
「つまりそういうことだろ。もしお前が病気になったら、俺は毎日病室に通い詰めてやるよ」
 万丈は苦笑った。逆もまた然りだと思えば笑うしかなかった。
 もうずいぶんと伸びてしまったラーメンをすすり、少し冷めたとはいえ汗だくになりながら丼を空にして、ふぅっと満足の息を吐く。
「腹一杯です! スラッシャーイエロー、チャージ完了!」
 鉄巳がどうでも良さげに「そーか」と相槌を打つ。万丈はにっと笑って「おばちゃん、お勘定!」と厨房奥に声をかけた。

 その四日後、忠達経由ではあったが、万丈は志摩子が企画に参加することを決意したと聞いた。
 彼女はそれを最後に華道部を退部するそうだ。