01
眩しいと思った時にはもう目が覚めていた。
窓から光の帯が延びている。昨夜倒れこむように眠ってしまったため、カーテンも引いてはいなかったのだ。電灯はつきっぱなし、上着も靴も放りっぱなしで、部屋の惨状に気付いたエドは、まず苦笑しながら身を起こさねばならなかった。
時刻を確かめれば、まだ六時も回ってはいない。とりあえずシャワーを浴び、そのあとは良い時間になるまで適当に過ごすことにした。
濡れ髪を拭いながら手荷物のトランクを引き寄せる。
試験と聞いた時にどれくらいの時間をかけてやるものかを知らされていなかったので、あらかじめ宿泊の用意も整えてはきた。ただ一週間は予想外に長い。辺りで細々しいものを揃えるべきかもしれない。エドはトランクに押し込んだままだった筆記具を整理し、いつも持ち歩いている手帳を上着のポケットにしまう。
そろそろ食堂まで下りてみるかと思っていると、タイミング良くノックの音がした。
「エドー、起きてるかぁ?」
ハボックだ。慌てて靴を突っかけ駆けつける。扉の向こうには、すっかり軍服を着込んだ男がくわえ煙草で待っていた。
「おはよーさん、メシ食いに行こうぜ」
ロイから面倒見が良いという評価は聞いていたが、まさか食事から誘いにきてくれるとは思わなかった。一人で食堂に行くのもいささか気が重かったので、ハボックの気遣いは本当にありがたい。
エドがそのことで礼を言うと、彼はさっぱりと笑って肩を竦めて見せた。
「一人でこんなとこ放り込まれたガキがかわいそーなだけさ、気にすんな」
確かに言われてみればそんな気もする。普通は突然軍寮なんかに子供を放り込みはしない。
「……まさか嫌がらせされてんのか、オレ」
思わず考え込めば、ハボックはまた苦笑した。
「あー、あの大佐に限ってそうゆう陰険なイジメはないって。どうせいじめるんなら、もっと派手に華々しくやる人だ」
いじめに派手やら華々しいやらの修飾語はないと思うが、ロイならそんな修飾も間違いではない気がするから不思議だ。エドも苦笑った。
「そうかも。やっぱ本人に直接訊いてみる」
「そーしろ。どうせ理由は他にあるんだろうさ。お前、かなり気に入られたみたいだったしなぁ」
「そうかな?」
「じゃないか? 大佐はわりと好き嫌いが顔に出る。俺らにだって見てりゃ気に入った相手かそうじゃないか、すぐわかる。ま、誤解がないよう付け加えておけば、自分の好き嫌いばっかりで判断下す人でもないから、下からの信用は厚いぞ」
そんなものか。エドはまんざらでもない気分でハボックの話を聞いている。そのうち他のロイ直属の部下のことにまで話は及び、夜に時間があれば紹介してやろうとまで言われて、また苦笑いが出た。
昨日から目の前の世界がもの凄い勢いで塗り替えられている。軍人の知人ばかりが増えて、しかも軍人であるのに嫌えず――
今ですらこうなら、いざ国家錬金術師の資格を取って、晴れて軍属になった時にはどうなるのか。
リゼンブールにいた時には、もっと閉鎖された未来を思い描いていた。村から飛び出し、真剣にアルフォンスと二人きりで、誰にも頼らず誰も信用せず、苦しい旅をするのだと思っていたのだ。
何だか笑わずにはいられないではないか。
「んー? なんか面白いことでもあったか?」
「何でもないよ」
「ふぅん? 大佐のネタだったら俺にも聞かせろよ。ひとつでも多くあの人の弱み握ってねーと、俺はおちおち女の一人も口説けねーんだ」
食事が終わればハボックは早速出仕するらしい。エドが午前中を使って備品を揃えてくるつもりだと話すと、彼はロイへの伝言も頼まれてくれた。
「午後に顔見せるって伝えりゃいいんだな?」
別れ際の確認にうなずけば、彼は軽く手を挙げて背を向ける。ところが数歩も行かずに振り返り、迷ったように頭を掻いて、結局再びエドを呼び寄せるのだ。
彼は声をひそめて言った。
「……実は今、一般には知られちゃいねーが、この辺一体はテロの標的になってる。多分司令部の中が一番安全だ。できるだけ早く帰って来いよ」
そう言えば昨日もロイがテロに関する報告を受けていた。
エドが真面目にうなずくと、ハボックも安心したように息をついた。
ついこの前までテロが起こるのは軍が悪いからだと思っていた。しかしロイやハボックのような男たちと接してしまうと、どう物事を捉えれば良いのかわからなくなる。例えば本当に軍が悪かったのだとしても、内部にいる軍人たちの人となりを知ったあとでは、エドは彼らの無事を祈らずにはいられなくなるのだろう。
傾倒するのはまずいと思うのに上手くいかない。これもロイの陰謀か。
彼がエドを軍の寮に宿泊させたのは、軍人と接する機会を多くするためだったのかもしれないと、エドは薄々気付き始めていた。
02
イーストシティは石畳と煉瓦の建物が目立つ町である。
大通りの広場には意匠を凝らした噴水があり、時報を打つ時計塔や、美しい弓なり型の橋など、年々増える施設が内乱で慌しかった町と人を潤わせつつある。
中央に比べればまだまだ文化的な発展は遅れているものの、殺伐とした空気は既に跡形もなかった。大通りを行く人々の表情も明るい。朝の晴れ渡った空を鳩と雀が飛び行き、広場では少女と老人が地に集まった鳥たちにエサを与えている。
エドはしばらく噴水の縁に腰掛け、町が動き出すのを眺めていた。
広場は露店の集う場所なのだ。まだ時間が早いために準備中の店が多いが、軽食を扱っているオープンカフェのカウンターでは、既にテイクアウト用のモーニングメニューを買い急ぐ列ができていたりもした。
その列が一段落する頃、押し車の花屋の主が一人目の客に花束を差し出し、また違う露店では、量り売りの八百屋が朝積みのトマトを通行人に売り込む声が聞こえ始める。
時々軍人が通りを横切っていくのだが、人々の表情は依然として明るかった。中には気さくに声をかける店主もいる。エドにとっては新たな発見だった。少なくともこの町の人々は、軍を闇雲に毛嫌いしているわけではないのだ。
何かを見るにつけ、今までの自分がいかに視野が狭くなっていたのかを感じる。
空に向かって息を吐き、肩から力を抜いて立ち上がった。そろそろ個人経営の店舗も開店して良い時間だった。
町を歩けばまた違った出会いもあるかもしれない。
考える時間は余っていた。急いで答えを出す必要はないのだから、自分とアルフォンスにとって一番良い道を吟味してみよう――エドは軽く一歩を踏み出した。
例の骨董品店を見つけたのは偶然だった。
その瞬間まで忘れていたくせに、看板を発見し、店が営業しているのを知った途端、エドにはもう素通りできなくなる。
ロイの楽しげな顔が頭を過ぎった。
――あの店を覗いてみるといい。
彼の予想通りに動く自分を想像すると、どうにも負けん気が込み上がる。
別にロイと骨董屋の男との関係など知りたくはない。そう何度も自分に言い聞かせるのだが、足はガラス二枚分の小さなショーウインドー前から動こうとしてくれない。
「……どうして大佐って……」
思うにつけしかめっ面になる。
つくづく思わせぶりな態度が得意な男だ。いちいち無視できない自分も自分な気はするけれど、相手がロイでなければ、もっと素直に知りたいとか知りたくないとか言える気がする。
ショーウインドーの中の壺を睨みつける。
このまま店に入るのがもの凄く癪だ。できれば関わりを持たずに帰りたい。だがここでエドが意地を張って店に入らなかったとして、それがロイを悔しがらせたり怒らせたりするかというと、絶対そうはならないに決まっている。
「……ううっ」
入るべきか、入らざるべきか。
迷うエドの背を押したのは、当の骨董屋の男であった。
「――何か見たいものでもある?」
いつの間にそうだったのか、店のドアから赤いくせ毛の頭が覗いている。黒縁眼鏡の向こうからは、小さな青い瞳が興味津々の眼差しでエドを見ていた。
「あー……と、オレは」
オレは、のあとに続けられる言葉がない。
エドが口ごもってしまったので、尚更店内の商品に興味を持ったのだと勘違いされてしまったようだ。男からは小さな子供にするよう手招きされ、気がすすまないながらも入口をくぐるしかなくなるのだ。
店内は懐かしい香りが充満していた。
ショーウインドーからは一部しか見えなかったが、いざ入ってみると、物と物との間が開くのすら勿体ないと言わんばかりに、狭い面積の中に様々なものが陳列されている。
「いらっしゃい」
男は、商品同士の窮屈な隙間に立ち、改めてエドを振り返った。
薄っぺらな身体。指や手首も見るからに細く、力仕事とは生来から無関係な文人気質の人物に見える。エドの記憶違いでなければ、この男はチャーリー・ロリンズという名だった。
「コンニチハ……」
とりあえず挨拶すると、チャーリー・ロリンズは新任教師のように胸を張って、やる気に満ちた挨拶を返した。
「はい、こんにちは。おもしろいものがいっぱいあるからね、どうぞ好きなだけ見ていってください」
困った――陳列されているものに興味はないのに。
どう話を切り出そうか考えながら狭い店内を歩いていると、男の視線が背中をついて来ていることに気付く。
おそらく骨董好きの珍しい子供だとでも思われているのだろう。エドは溜め息をついて彼へと向き直った。
「えーと。オレはこういうの見に来たんじゃなくって」
「お客さんじゃないのかい?」
「じゃなくって。その……何て言うか」
間近で男を見上げ、切り出した。
「ロイ・マスタング大佐って知ってるだろ?」
その名を口にした途端、相手の表情が緊張を含んだものに変わる。内心で訝しく思いながらも、昨日二人が合図を取り合っている場面を隣で見ていたのだと話すと、チャーリーは合点がいったように破顔した。
「なるほど、あれを見られていたわけだね」
「大佐が自分で訊いてみろって言うから……」
チャーリーはエドを店の奥へと誘った。
「僕としては教えるのはかまわないんだけれども。でも、そうだな、できれば笑わないでいてくれると嬉しいよ」
前置きをした上で彼が指差したのは、おそらく作業場であるのだろう、古い机の上だ。
大きな風車のようなものを頭につけた、オレンジ色の丸い物体が鎮座している。
エドには、一見してその物体が何に使うものなのか判断できなかった。
「リッキー・オレンジって言うんだ」
その名前はどこかで聞いた気がする。しかし思い出せない。エドは腕組みをして四方から物体を眺めた。
見れば見るほど奇妙な形である。
名前の「オレンジ」にちなんで連想するなら、丸い部分がオレンジなのだろう。とは言え、その果実には棒が突き刺さっていて、その棒の上には、更に不安定な風車がついているのだけれども。
「……わからない。これ何?」
チャーリーが恥ずかしそうに笑った。
「これはね、空飛ぶオレンジなのさ」
「空? 飛ぶ?」
思わず訊き返していた。
「ああ。この頭のところが回転してね?」
言いながら、彼は風車をくるくると回す。
説明を聞けば、遠心力で飛ぶというのが大切な原理らしいのだが、半分も理解できなかった。
「いつも近くの広場で飛行実験してるんだ。マスタング大佐はそれを知っているから、たまに通りかかると結果を聞くんだよ」
そう言えば何やら上を指差す動作をしていたっけ。エドは彼らのやり取りの意味を、ようやく知ることができた。
「このオレンジ自体は、元々僕の友人の書いた物語に出てくるものなんだ。リッキー・オレンジが飛ぶ日っていうタイトルの本を知らないかい?」
チャーリーは言うが、エドが覚えているのは錬金術関連の本のタイトルばかりだ。同じ年頃の少年たちが読むような小説はひとつも知らない。
「そうか。わりと有名なはずなんだけれどね……何しろあまり良くない噂まで立ってしまったし」
「噂?」
「ああ、知らなければ知らないでいいんだよ。僕も友人の不名誉な話はしたくないから」
その時はチャーリーの言葉をただ聞き流すだけだった。リッキー・オレンジがなぜ有名で、どんな物語に登場するものなのか、エドが詳しく知るのはもう少しあとのことだ。
03
一通り買い物を終え、東方司令部の前に帰ってきたのがちょうど正午あたりだった。
先に昼食を取るかロイに会いに行くかで悩んでいると、今まで外で作業していたと言うハボック率いる一群が通りかかって、そのまま昼食に誘われる。
彼らがツルハシなどの小道具を倉庫に片付ける間、エドは昇降口の石段に座って待っていることにした。
その時である。近くの建物の軒先から、こちらをじっと見つめる若い女性に気がついた。
金髪の女性だった。長い髪を後ろでひとつにまとめている。遠目からなので顔は良くわからなかったが、格好が紺のパンツスーツというきっちりしたものだったので、ひときわ目を惹いた。
彼女はしばらくそこにいたが、ハボックたちが帰ってくる頃になると逃げるように立ち去ってしまう。
多少不審なものを感じないでもなかったのだけれど、ハボックに話しかけられ、初めて話す軍人たちに紹介されている間に忘れてしまった。
昼食を終え、司令部の中を覗いてみると、ロイの姿はせわしなく動く軍人たちの中心にあった。調べものの最中らしく、大部屋にいるほとんどの人間が書類を手にああでもないこうでもないと議論を交わしている。ロイのいる一角では、台の上に広げた地図に何かの目印をつけているところだった。
一番にエドに気付いたのはホークアイだ。彼女はすぐさまロイに声をかけてくれるような素振りを見せたのだが、エドが身振りで「急がなくていい、あっちで待ってる」と伝えると、うなずいて途中の作業を続けてくれた。
とりあえず大部屋の外に出る。
通路ならば中の声もあまり多く聞こえない。
一日で見知った顔もだいぶ増えた。それでもエドは部外者だ。ロイ自身がかまわないと言いそうなことも、普通の市民に聞かせられないような内容のものなら、知りたくはなかった。
しばらく待っていると、そのロイの声が聞こえてきた。声はだんだんこちらに近づいてくる。
「――ああ、それで頼む」
戸口で室内を振り返り指示したのが最後だった。次にこちらを向いた彼は、既に仕事のことなど捨て置いた恨めしげな表情をしている。
「な、何だよ……?」
それはもうエドが戸惑うほど恨めしげな眼差しだ。大げさ過ぎるので演技だともわかるのだが、じぃっと見つめられた上に悲しげな溜め息なんかをつかれると、どう反応して良いのかわからない。
おまけにロイはしゃがみ込んでエドを下から覗き込むようにする。
そして無言。
「…………」
「っ……」
「…………」
「……っ……っ」
無言。無言。無言。
沈黙に切れたのはエドの方だった。
「うっとーしーぞ! 何だよ、言いたいことがあるんならさっさと言え!」
するとロイは盛大にうなだれた。しかもこちらがおののくほど寂しげな表情だった。
彼は言うのだ。
「君は薄情だ」
「え……っ」
「今何時か知っているかい?」
「に、二時ぐらい?」
「そうだ、二時だ。もう昼も過ぎている」
「…………?」
「私は朝から君を待っていた……」
自分の頬がかっと熱を帯びる。すぐに二の句を思いつけない。その間もロイは変わらず寂しげなままだ。エドは焦った。焦りに焦って、まずは謝罪が先かと思い立った時である。
ちらりと笑う口許――もちろんロイの。
「――大佐!」
怒鳴った途端に男の表情は一変した。既に見慣れた、楽しげで企みごとが好きそうな笑い顔だ。
「怒らないでくれ。待っていたのは本当だ」
「しっ――信じらんねー! あんたって本当に人からかってばっかじゃねーかよ! うわ、腹立つ! てか、オレもオレだ、何で何回も引っかかんだ!」
「まぁまぁ。落ち着きたまえよ」
「あんたに言われたくない!」
通路でわめいてしまったので、通りがかりのロイの部下たちからは変な顔をされた。確かに、子供とはいえ一般人が大佐の階級にある大人と対等に喋っているのは、不思議な光景なのかもしれない。
しかしロイの顔が目の前にあると階級云々の前にとにかく腹が立つのだ。怒るエドを見て楽しんでいるのがわかるから、どうにか出し抜いてやりたいと思う。
欲求のまま、彼がしゃがんでいたために目の前に下りてきていたその頬目掛けて拳を突き出す。当然掠りもしなかったけれど。
「暴力反対」
両手を上げ、ロイが笑う。
「一回ぐらい殴らせろ!」
「冗談じゃない。痛いのは嫌いなんだ」
「大佐は痛い目見た方が世のためだろ!」
「私の顔が変わったら世の女性たちが嘆くだろう?」
「オレは泣いて喜ぶよ!」
エドが真剣に拳をと言わず足まで繰り出すと、さすがにロイも立ち上がって逃げ始める。
エドが翻る軍服の裾を捕まえたちょうどその時、
「……何やってんスか」
背後からハボックの呆れたような声が聞こえた。
「エドはともかく大佐まで。いくら何でも職場でオニゴッコって年じゃないでしょうが」
と。エドが動くより早く、ロイがぐるりとハボックを振り返る。
「少尉、今何と言った?」
「は?」
ロイの表情は至極真剣だった。それはもう、ハボックが思わず姿勢を正すほど。
ところが所詮ロイなのだ。彼は緊張するハボックを捨て、早々にエドへと向き直る。そして。
「――なぜだ?」
「へ?」
「なぜハボックが君の名前を呼んでいる? 私には呼ぶなと言ったじゃないか」
真剣に言うのだ。そんなくだらないことを。切々と。
エドは脱力し、やっと止まった彼の足を軽く蹴った。今度は簡単に当たったが、ロイは蹴られたことすら気付かない顔でエドの答えを待っている。
「……はぁ」
もう溜め息しか出なかった。
「……大佐はダメ」
「どうして? ハボックはいいんだろう?」
「少尉はいいよ、でも大佐はダメ」
「なぜ? 差別じゃないか!」
「差別してんだ、大佐はダメ。ザマーミロ」
言えば本当に茫然とした顔をする。一体どうしてこんなことで彼を落ち込ませることができるのかエドにはわからなかったが、ひとまず意趣返しは成功したらしい。
「そう言えば――」
まだ納得のいかない顔を見せるロイをよそに、ハボックはたった今思い出した様子で言った。
「エド、お前、錬金術師なんだよな?」
「そうだけど……」
「物直したりするのは得意か?」
「物? どんな?」
エドが問うと、ハボックはすぐさま大部屋に引き返し、大きなダンボール箱を抱えてきた。
中にはバラバラになった無線機らしいものが数個入っている。
「部品は全部揃ってるはずなんだが、こう何個も一緒くたになると、どれがどれだかわからなくてなぁ」
ハボックはほとほと困り果てたように言う。
「どうだ、どうにかなるか?」
「ああ。これくらいなら……」
早速錬成しようとしたのだが、ふと視線を感じて手を止める。気付くと、大部屋の入口からは見物者たちが興味津々の顔を覗かせていた。通路を行く軍人たちまで足を止めている。
エドはついロイにちらと目をやった。
しかしロイまで楽しげだ。止める素振りは微塵もないし、ギャラリーを散らす素振りも全くない。
妙にやりにくい――
先日の国家錬金術師の試験の時には、確かに「見せる」目的で錬成をしたのだけれども、このところろくなものを生み出さなかったせいか、錬成行為自体に引っかかりを感じるのだ。
技術的には錬成陣すら必要なくなってしまって、自分の頭にイメージできて等価交換できる物資さえ揃うなら、今のエドにはおおよそのものが生み出せる。
錬金術は素晴らしい技術だと人は言う。
しかし生み出すことは本当に素晴らしいのか。少なくともエド自身は、昔のように手放しで錬金術を褒めることはできなくなった。
ギャラリーの視線を意識し、そっと息をつく。
――円になる。
錬成のために手を合わせる時、エドはいつも自分がこの世のひとつとして存在し、また自分の中に力の巡る道があることを知る。それはエドの身の内では、血として肉として知識として命として存在した。そして外界では陽の光であり、夜の闇であった。地に触れる両足から、天に向かう頭の先から、円をかたどる手のひらに集約されるもの――作り変える力。
パン! 軽い音とともに手を合わせ、一息でイメージを集中させ、バラバラになった機械の山に再構築を呼びかける。
瞬間、闇が弾け、更にそこから閃光が飛び出した。
周囲で軽いどよめきが起こる。
エドの手の下には、新品同然になった無線機が計四機揃っていた。
「……すげぇ……」
ハボックが目を丸くしている。
横から別の軍人の手が伸び、たった今直したばかりの無線機を取り上げた。恐る恐る機械のスイッチを入れる。
「……使えるようになってる」
「凄いな、オイ……!」
「初めて見た」
彼らは口々に魔法を見たような感動を口にする。
エドは苦笑いでその場を離れようとした。と、不意に手首を掴まれる。
相手はロイだった。
「……どこへ行く?」
「部屋に戻る。大佐にも会ったし」
エドが小さく笑うと、彼は声を落として言った。
「あまり嬉しそうではないな」
「…………」
「感謝されるのは嫌いかね?」
ハボックたちはまだ無線機の前で大騒ぎだった。先ほどよりも人は増え、誰も驚きと喜びの表情を見せていた。
彼らを振り返り、エドは苦笑う。
「いろいろ考えることもあるんだ。錬金術は魔法じゃない。どんなに望んでも作り出せないものもある。求めないものを生み出すことも……」
ロイはそれ以上尋ねてはこなかった。ただ微苦笑し、気を取り直したように口調を変えた。
「では戻る前に約束を取り付けておこう」
「?」
「今夜の晩餐だよ」
「昨日の店?」
「いや。もっと賑やかな場所へ行こう」
「話すのが目的じゃなく?」
「二人きりならばそうしたよ。だが今夜は大勢になりそうだ」
言葉の意味を問う暇はなかった。
ロイの視線が逸れ、エドの背後に向けられる。エドもつられて振り返り、そうして初めて事態を知って唖然となるのだ。
ハボックが嬉々として止まった時計を持っている。
その後ろには、申し訳なさそうに潰れた箱を持つ者。ガラスのひび割れた写真立てを持つ者。他にもぞくぞくと修理の必要なものを手に集まってくる人の群れ。
「た――大佐! 仕事中なんだろ?」
「ひとまず差し迫ったものはない。たまには部下に自由をくれてやってくれ」
「お、オレに自由はないのかっ?」
彼はにやりと笑った。
「宿代だとでも納得するんだな」
「きったね……! ムリやり引き止めたくせに!」
「まぁいいじゃないか。錬金術師よ大衆のためにあれ、だろう?」
ああ言えばこう言う。エドがロイに口で勝てる日はなかなか来そうにない。
「お前はいいヤツだなぁ、エド」
ハボックまでがこちらの肩を掴み、凄みをきかせた声で言う。逃げる道は完全になくなった。
「くっそぉ……」
目の前には既に長蛇の列が伸びている。エドはとうとうヤケクソで最初の錬成に当たる。
見る間に動き出した時計に、ハボックが機嫌良さげに笑った。
「すげぇすげぇ。そーだよな、錬金術ってのはこういうもんだ。それにひきかえ、うちの――」
突然大きな咳払いが響いた。
「少尉。終わったらさっさと仕事に戻りたまえ」
無駄口は叩くな、ロイは妙に楽しげに指示を出している。彼は、エドが次々に差し出されるものに錬金術を施す間、何をするでもなく背後に立ち続け、たまに腹の立つような茶々を入れたりした。
04
それから数日は飛ぶように過ぎた。
取り立てて何か問題が起こるわけでもない、ただ穏やかな日々だ。しかしエドは毎日小さな発見をする。それと言うのも、何だかんだと理由をつけて、軍が所持している施設をひとつずつ案内されたからである。
新しい場所へ行けば、当たり前に新しい人物と出会う。
軍服を着ているからといって、全ての人間が戦闘や警備に回っているわけではないことも、見てみて初めて理解した。研究所にいる者、資料を管理する者、電気開発に取り組む者、極端な例では、線路の工事をしている軍人もいたくらいである。
出会う軍人全てが当たり前に人だった。エドの知るリゼンブールの村人と同じように、笑い、怒り、錬金術に驚き、喜びもする。
軍人であることが理由で特別残忍なわけでもなく、冷酷なわけでもなく。
一体どうして自分が軍人を毛嫌いしていたのか、エドは既に思い出せなくなっていた。確かに彼らはいつか戦うのだろう。命令が下れば人を殺すのかもしれない。町を壊し、子供から親を奪うのかもしれない。だが、それと彼らが普段行っているさまざまな業務を、ひとまとめに悪いと言い切ることは、果たして道理にかなったことなのか。
「それほど良い職業でもないがね、この国に軍は必要だと私は思うのだよ」
ロイは言った。
今ではエドもそう思う。
イーストシティに来て以来、これまでの自分がいかに限られた範囲で生きていたのかを思い知らされることばかりだ。確かに過去に過ちはあった。心にできた傷は生々しく、失ったものも失われたままだ。
けれど外に目を向け、一歩を踏み出せば、新しい感動が生まれ、ぽかりと開いていた胸の空洞にも、少しずつ満ちてくるものがある。
ある日の夕方、エドは郊外でチャーリー・ロリンズを見かけた。
彼は例のオレンジ色の球体を宙に浮かべる実験中だった。何度も空へと放り、地に墜落するたび首をかしげ、少しずつ改善を加えていく。
誰かのためになることではなくとも、呆れるほどの熱心さで実験を繰り返す。彼は、リッキー・オレンジがいつか本当に空へ舞い上がることを、心から信じているのだと思った。
チャーリーの姿は、赤く燃える夕陽と相まって、ひどく眩しくエドの瞼に焼きついた。