バース・リバース 晴れたら戦え

01
 イーストシティに滞在して五日目の朝は雨だった。
 四日目の晩から既に天気は怪しくなっていて、エドは、湿気をたっぷりと含んだ雲がいつ本物の雨を降らすのかと憂鬱になったものだ。
 雨はあまり好きじゃない。
 機械鎧と付き合うようになって更に好きじゃなくなった。湿気があると何か動作が鈍い気がするし、接合部分がじわりと傷むような気もする。真実にそうだと言えないのがまた嫌なところで、雨が機械鎧に不都合なのかと言えば、そうではないのかもしれなかった。
 五日目の朝は、だから少し重い気分で寮を出た。
 今朝は何やら軍部の動きが慌しい。寮の食堂でも張り詰めた空気が漂っていた。司令部を覗けば緊張は更に顕著である。いつもどこかに余裕を残しているようなロイの傍でさえ、笑う部下は一人もいない。
 司令部に足を伸ばしたは良いが、エドは大部屋の外から彼らの様子を覗いただけで、誰にも声をかけることをしなかった。
 結局初日に教えられた書棚のある一室に落ち着く。
 明かりをつけてもなお雨のために薄暗い部屋に溜め息が出た。
 壁の向こうの通路では、初日の安穏さが嘘のように、引っ切り無しに行き来する靴音がしている。
 こんな日は自分が部外者でしかないことを思い知る。悶々とした気分で椅子を寄せ、書棚から未読の本を抜き取った。
 ……そう言えば、ロイの蔵書に錬金術関連のものが多い理由も、まだ尋ねていない。
「訊いても答えてくれないかも……」
 今日は嫌になるほど考えが後ろ向きだ。
 エドは頭を振って鬱を散らし、一冊目の本の表紙をめくった。
 
 それからどれほどの時間が経ったのか。
 声は突然だった。
「おおっ、本当にちっさいなー!」
 しかも声とともに手のひらが頭に降って来る。ちっさいちっさい、わはははは〜。そんな阿呆のような台詞付で頭をぐりぐりと撫で捲くられる。
 エドの怒りは一瞬で沸点に達した。
「誰が豆つぶドちびかッ!」
 借り物の本だと言うことも頭を掠めない。振り返りざまに、本だけとは言わず、自分の座っていた椅子も投げつけてやるつもりだった。
 ところが相手は一枚上手だったのである。びゅん、と、光速で飛んだはずの本を片手で受け止め、エドが持ち上げようとした椅子を、もう片方の手で押さえる。
 その時初めて男の顔を見た。
「ロイの言った通りだな。会えて光栄だ、エドワード・エルリック」
 前髪を後ろに撫でつけ、長方形の特徴的な眼鏡をかけた男だった。顎鬚を生やしてはいたが、おそらく見かけより若い。
「……あんた誰だ」
「そう警戒するな。この服装を見ろよ」
 彼が身につけているのは軍服だ。もちろん軍人以外の人間がこんな場所まで入って来れるわけがないのだけれど。
「これでも一応階級は中佐なんだぜ? しかもロイとは顔見知りで、タメグチきく仲だ」
「大佐とタメグチきければエライのか」
 エドが低く突っ込むと彼は面白そうに笑った。
 その笑い方を見て少し肩から力が抜ける。ロイと笑いのつぼが同じだったからだ。
「まぁ確かに偉かねぇな。自己紹介が遅れた、俺の名はマース・ヒューズ。お前さんの好きに呼んでくれ」
 ヒューズは全く悪びれた様子もなく、近くに積み上げられていたパイプ椅子のひとつを引き寄せ、エドの傍に腰掛ける。
「ま、立ち話もなんだし、お前も座れよ」
 まるでヒューズこそ最初からここに陣取っていたような態度だった。エドは黙ったまま、先ほど彼に投げつけるつもりだった椅子に腰を下ろす。
 憮然とした表情でいると、唐突に笑われた。つくづくロイと似た笑い方をする男だと思った。だがその笑われ方は、今現在エドの気分を最も刺々しく変えるものである。ロイの場合は話術で巧みに怒りを逸らされてしまうのだけれども、果たしてこのヒューズはどうなのか。
 エドは男をきつく睨みつける。
「何の用だよ?」
 途端に彼はひどく悲しげな溜め息をついた。
「ああ、嫌われたのか俺は。しまったな、そんなにちっさいって言葉に反応されると……」
「だから言うなっつってんだろ!」
「いやなー、俺も人が嫌がることは言いたくなかったんだけどよー、ロイのやつが言うんだ」
「大佐が? なんて?」
「エドワード・エルリックの集中力は凄いから、もし本を読んでいたりなんかすると、何度呼んでも気付かないかもしれないって。な?」
「……それは……」
「それで教えられたのが、この呪文だったんだよなー」
「…………」
「これだったら何があっても反応するって言われたからさー、俺もイヤイヤ言うしかなくってさー」
「…………」
 ヒューズの言い方は軽い。しかも悲しげな様子も演技くさい。だが彼の言うことは尤もでもあった。普通に呼ばれていたら、エドはあれほど即座に男の声には反応できなかった。
 何だかとても納得がいかない。
「ああ、悪かった。本当に俺が悪い。お前の気が済むまで謝るよ。だからもう少し打ち解けてくれると嬉しいんだがなぁ。大体、その年で国家錬金術師になろうって言う超天才が、まさか頭下げてる相手を無下にしようなんて、度量までちっさいこと言わないよな?」
 やっぱり納得がいかない。しかしだ。
「……わかったよ!」
「ん?」
「とりあえずさっきのは水に流してやるよ!」
「おおっ、それでこそ男ってもんだ!」
 景気付けのように肩を叩かれ、高笑いされる。
 ロイといい、ヒューズといい、もしかして軍人になるにはある程度の話術が必要だったりするのだろうか。
 エドがここ数日に出会った者たちの顔を思い出してみても、一人として、見るからに硬派で無口そうな相手はいなかった。それとも、ロイの周りだからこそ、ロイに太刀打ちできるような人物ばかりが集まるのか。
「……ああ、なんか……」
 己の頭を抱えて呟く。語尾のぼやけた言葉を、ヒューズがすかさず訊き返した。
 改めて彼と向き合い、複雑な心境を強くしながら、エドは溜め息混じりで吐き出すのだ。
「ますます大佐がイヤになる……」
 ヒューズは束の間ぽかんと口を開き、継いで大爆笑した。
「報われねぇっ、全然報われてねぇ、あいつ! お前のことすっげぇ気に入ってるみたいなのに! ハラいてぇ!」
「……そんなにおかしいか?」
「おかしいって! あいつのお前さんに対する当面の目標知ってるか? 名前を呼ぶことだってよ? この前の電話で真剣に俺に言うんだ、私の何が悪いのだろうか、と、こうな?」
 ロイの口真似までしてヒューズは笑い転げた。エドは手持ち無沙汰に頭を掻き、もう一度口を開く。
「別に……嫌いなんじゃない。大佐が悪いやつじゃないのはわかるし、一緒にいればおもしろいよ」
 ヒューズが興味を惹かれたようにこちらを見た。笑いをおさめ、エドに言葉の続きを促す。
「でも大佐といると欲しくなかったもんばかり手に入る。欲しくなかったのに……本当は欲しいもんだったかもしれないと思うもんばかり」
「そりゃ欲しかったって言うんじゃないのか?」
「わかんねー……。オレ、あんたらみたいに言葉豊富じゃないから、もやもやしてるものに名前なんかつけらんねーもん」
 エドがうつむくと、力強く頭を撫でる手がある。一度目は振り払ったはずのそれは、再び受けてみればそう悪いものでもない。
「……相変わらずロイの人運は健在ってことか」
 ヒューズはしみじみと言う。
「あいつの何がすごいって、人と出会う運がな、めちゃくちゃ良いんだ。普通の人間は、反りが合わない相手もたくさんいるだろう、そういうやつとも付き合わないわけにはいかないはずだ。だがロイは人との出会いにかけちゃ、とことん救われてる」
 エドが顔を上げると、彼は小さく笑った。
「お前も悪くない。どーやら真っ直ぐなガキらしい」
 コーヒーでも飲みに行かないか。
 間を開けずにヒューズが誘うので、エドはさっきまで薄暗く一人きりだった部屋から立ち上がった。
 
 
02
 ヒューズが誘ったのは、東方司令部内にある軍直営の食堂だった。エドも既に何度か利用したことがあって、先に食券を購入する仕組みになっている。
 ヒューズはそこでコーヒーを二杯と、エドのためにチョコレートケーキをひとつ頼んだ。
「……オレ、ガキじゃねぇんだけど」
 不満げな顔をしても彼にはどこ吹く風だ。
 軍部に来て以来の、久しぶりにあからさまな子供扱いだった。いつもだったら腹を立てたかもしれないが、ヒューズの顔を見ると、どうも怒りが持続しない。
 子供は甘えるもんだ、彼の表情は如実にそう告げている。
 エドにしても今日は調子がおかしく、ケーキとコーヒーが来て、甘い匂いをかぐと、たまには子供扱いでも良いとすら思えた。
 こういった点で、ヒューズと全く対照的なのがロイで、彼はとにかく何があっても不思議とエドを子供扱いしない。
 口では子供と言うこともあるが、常に対等の存在として気を配ってくれているのはわかっていた。現に、指揮官がそんなふうだから、司令部の中でもエドは子供扱いを受けることが少なかった。女性相手だと稀に意味もなく撫でられたりもしたが、それだけだ。
 エドが彼にそうしてくれと言ったことは一度もない。
 それでもロイはそうしてくれる。ロイといて楽に呼吸ができるのは、彼がエドの心の機微に聡いせいだ。多くを口にしなくとも、彼は決して間違わない。
「……中佐は、大佐の古い知り合い?」
 エドがケーキを突つきながら尋ねると、ヒューズは懐かしそうに目を細めた。
「一応、士官学校の時から知ってるな。昔から派手なやつで、味方も多かったが敵も多かった」
「ふぅん……。昔からああなのか、大佐?」
「ああだな。ま、お前がどういう意味でああっていうのかわからんが、ああだ。黙ってりゃそれなりに見えるのに、ちょっと腹割って話した途端バカがばれる」
 それはエドの「ああ」と内容が違う。
「バカ? 大佐が?」
「バカだと思うね俺は。向こう見ずっつーか、こう、あいつの目の前に大望があるとするだろう? すると、見えるんだから絶対に手が届くと思い込む。常人だったら諦めそうなことでもロイは諦めない。頭使って、頭で足りなかったら身体使って、手段がある限り前に進む」
「それはバカって言うのか?」
「俺くらいの年になりゃ、諦めるってことも大切だと思うもんなんだよ普通」
「大佐はそうじゃない?」
「ああ。そうじゃない。俺が知る限り、そういう男はあいつ一人だ」
 ヒューズはエドの知らないロイを多く見ているのだろう。エドに見えるのは、ひどく策略好きの、けれども人の心の機微に聡い男の顔だ。
「あいつがどうしてお前を軍の寮に入れたのか、知ってるか?」
 ヒューズはコーヒーに口をつけながら笑った。
「お前、ロイにえらく危なっかしいやつだと思われてるみたいだぞ。放っておけば世界中が敵らしいから、問答無用で一人でも多く味方を張り付かせてやるって。本当は寮の客室なんか使わせらんねぇ時期なのに」
 エドは何も言えなかった。
「今日も見たろ? 東方司令部は今テロの制圧でてんてこ舞いだ。寮なんていう、軍の施設でも内にある場所に、子供とはいえ部外者を迎えていい状況じゃない」
「……でも、大佐が試験受けといて逃げる錬金術師もいるからって……」
「お前、それ本当だと思うのか? こんだけ軍部の中と言わず、町中あちこち歩いて回れる環境与えられておいて?」
 エドも気付いていた。
 ロイは知らない間に気を回す。こちらが気付けば、彼はそれこそ謀なのだと笑うのだろう。けれども違う。謀ではなく、これはロイのやさしさだ。
「……中佐」
「うん?」
「オレ、大佐にオレにかまうなって言ったことがあるんだ」
「…………」
「軍なんか嫌いだったし、国家錬金術師の資格取って軍属になったとしても、軍人と馴れ合う気なんかなかった。いろいろしてくれても、オレは大佐に何も返さないから、何もしないでくれって言った」
「……で? ロイは何て?」
「笑い飛ばされた。いつか叱ってくれればいいって」
「叱る?」
「うん。私を叱るのは楽しそうだろう、って」
 ヒューズが苦笑う。
「あいつの言いそうなことだ」
 エドも少し笑って息をついた。
「オレ、大佐のことスキだよ」
 さすがにヒューズが目をまたたかせた。
「ちゃんとスキだ。軍部の人たちもスキだ。困ってたら手貸してやりたいくらいスキだ。資格も何も持ってないガキじゃ、まだ何にもしてやれないけど」
「……そりゃ、俺相手じゃなくロイに……」
「大佐には言わない。中佐も言わないでよ」
「どうして? 喜ぶぞ、あいつ」
 エドはぎこちなく笑う。
「やだよ、負けたみたいで悔しいだろ」
 ヒューズが笑った。
「何だよ、ほんとにガキだな!」
「ガキだよオレは、悪いかよ。でもそのガキ相手に本気であれこれ気ぃ回す大佐も大概だと思うけど?」
「全くだ、あいつも気に入りゃ見境ねーから」
 ふと、エドは気になってヒューズを覗き込む。
「それなんだけどさ、中佐。どうして大佐がオレのこと気に入ったのか聞いてる?」
「ん? 出会った経緯は大体聞いたが……」
「不思議だったんだ、ずっと。オレ大佐に何かしたわけじゃなかったのに」
 ヒューズが苦笑いで頭を掻く。
「まぁ自分と似たようなやつだとでも思ったんじゃないのか?」
「オレが?」
「ああ。――身体、取り戻したいんだろう?」
 エドは機械鎧の自分の手を見下ろす。
「オレのじゃなくってアルの……弟のなんだけど」
「それにしたって一大事だ。どんなに凄腕の錬金術師でも成功したことがないと、俺みたいな一般人でも知ってる」
「うん。でもやるって決めたんだ」
「ああ、そうらしいな。お前の野望も簡単じゃないが、ロイの野望も簡単なもんじゃない。お前ら似たもん同志だよ」
 そうかなぁと、エドも苦笑した。
 しばらく士官学校時代の話を聞き、ヒューズ自身のこともいくらか聞いた。彼は、普段は中央の軍法会議所に勤めているらしく、今日は例のテロ事件のことで東方司令部の様子を見に来たのだと言う。
「ただ、ここにいてもデスクワーク派の俺じゃ暇でなぁ。ロイにも中央からの調査に付き合っていられるほどの余裕がない。てことは、俺の仕事も進まない。それで同じく暇してそうなお前んところに来てみたわけだ」
「せめて昨日だったら良かったのに」
 昨日の午前中くらいまでは、本当にいつもと変わりのない様子だったのだ。多くの憲兵たちが突然司令部内を走り回り出したのは午後からで、エドは困った問題が急に発生したのだろうと思っていた。
 ところがヒューズは言う。
「そりゃ仕方ない。予告日は今日だからな、俺も今日来ないわけにはいかなかった」
「予告日?」
「ああ。そうか……知らないのか。このテロを仕掛けてる連中の最大の問題はな、ある反戦本に出てる日付通りにテロを仕掛けてくるってことなんだ」
 本?
 エドはまだ詳しく知りたかったが、ヒューズが少し言いにくそうな表情になったことにも気付いていた。
「……だから今日は大人しくここにいろ。やたらに外に出ると危険だ」
 喉まで出かかった言葉を飲み込み、ただうなずいた。ヒューズはほっとしたように笑い、テロの話もそこまでになる。
「ところで、俺はお前を何と呼べばいい?」
「え?」
「ロイには名前呼ばせてねーんだろ?」
「いいよ中佐は。普通にエドで」
「ロイのやつ、絶対悔しがるな」
「もっと悔しがればいいんだ。オレの方が絶対大佐より悔しい」
 ヒューズが小さく口端を上げる。
「ねじれた愛情だな」
「ハズカシイ表現するな」
 エドが顔をしかめると、真実だろう?、彼は楽しげに言った。
 
 
03
 結局特にやりたいこともなく、ヒューズも今日は調査を諦めたようで、エドが例の一室で読書をして過ごすと言うと、彼も一緒について来ることになった。
「いいのかよ、仕事中に……」
 他の軍人が忙しく動いている時だというのに、ヒューズはのんびりしたものである。エドが指摘しても全く平然とした様子だった。
 それどころか。
「いーのいーの。俺はお前の護衛ってことで」
「はぁ? オレのどこを護衛する必要があんだよ?」
「いろいろあんだよ、大人の都合ってやつがよー」
 もしかしたら真剣に言っていたのかもしれないが、彼の言い方だとふざけているようにしか聞こえない。エドは早速気にすることを止めてしまった。
 そうして二人で昇降口前の通路を横切っている時のことだ。
 広い出入り口から見える外は、相変わらず灰色の雨に煙っている。しかし門の前に、明るいオレンジ色の雨傘をさした人物が一人だけぽつんと突っ立っているのが見えた。
 見過ごしてしまわなかったのは、ふと既視感を感じたからだった。エドは思わず立ち止まって傘の人物を見つめていた。
 傘のせいで顔は影になり良く見えないが、どうも金髪の女性に見える。目を凝らせば、髪を後ろでひとつに束ねているのがわかった。そして服装はきっちりとしたパンツスーツ。
「……あの女、前もあそこにいた……」
 確かに見た記憶がある。エドの呟きを聞きとがめ、ヒューズの表情がやにわに厳しくなった。
「――あの傘か」
「ああ。顔はわからないけど、多分同じ女じゃないかと思う。二日前にもあそこに立ってたんだ」
 エドの言葉を待たず、ヒューズが動いた。雨の降る外へ傘もささずに出ていく。
 女はすぐにこちらに気付いたようだ。以前と同じく、軍人が近づいてくるのを目に入れた途端、逃げるように踵を返す。歩いていたヒューズが彼女を追って駆け出すのが見えた。
 エドも思わず外に飛び出しかけ、しかし昇降口の石段で足を止める。
 外へ出るなと言われた。無鉄砲に飛び出すことは簡単だが、万一エドに何かが起こったら最も面倒を被るのはロイに違いない。
「…………」
 足はそれ以上動かなかった。エドは大きく息をつき、司令部内へと方向転換する。
 その時だった。
「おい、そこのボーズ」
 声に振り返る。憲兵だ。目深に帽子を被っている。傘をさすでもなく、男はびしょ濡れでそこにいた。
 手には、油紙で厳重に覆われた小包を持っている。
 相手が司令部にいる憲兵でないことはすぐにわかった。今エドは軍の寮に寝泊りしている。階級が下の者でも寮にいる軍人なら、一度はエドを目に入れているはずだったし、そうでなくとも、司令部にいれば、軍属でもない子供が軍の建物内をうろうろしていることは知れている。
 ちなみに司令部の中にはエドを「ボーズ」と呼ぶ憲兵もいない。ロイがエドを特別待遇しているからだ。
「……なんか用?」
「これを司令官に届けてくれ」
 言い方が変だとは思ったのだ。
 確かにエドの外見は子供だから、誰それ宛てに、と指定するより、司令官という言葉の方が覚えやすいと判断したのかもしれないが。
 憲兵はエドに有無を言わせなかった。
 石段を駆け上がり、大きなかぼちゃがひとつ入ったくらいの小包を押し付け、すぐさま下りて行く。
「急げよ、早く!」
 走りながら叫ばれた声は、笑っていなかっただろうか。
 奇妙な心地がある。しかし届けろと言われればそうしないわけにもいかない。特に軍部が慌しい日だ。よそから何か緊急の届け物があっても不思議ではなかった。
 エドは不審に思いつつも、ロイのいるだろう大部屋に足を向ける。
 入口にいる警備の人間も既に顔見知りだ。エドが一人で通ろうと咎められることもなく、それどころか目礼すら返してくれるようになっていた。
 入口を抜け、外部との窓口になっている受付部署を抜ける。ここには女性が多くいる。子供好きの人間も多く、エドの姿を見ると手を振ってくる。
 エドは荷物を手にしたまま、どんどん内へと歩いていった。
 油紙でくるまれているとはいえ、荷物はずぶ濡れだ。服が濡れないよう離して持っていたのだが、そのせいで不安定になり、歩くたびにごとごとと小さな音がする。
 箱よりもかなり小さな荷物が入っているらしい。大きさのわりに軽かった。
 階段を上がる時に多くの軍人とすれ違った。何やら事態に動きでもあったようだ、朝よりも更に緊張を増した顔が多い。彼らは階段を駆け下り、昇降口の方へ走っていく。
 大部屋付近は閑散としていた。
 エドが中を覗いてみると、いつもはびっしりと机を埋めているはずの軍人ほとんどが席を外している。もしやロイまで出動してしまったのかと疑ったが、そうではなく、彼はいつかのように広い地図を机に載せ、何人かの部下たちとしきりに議論を交わしている。
 話しかけにくい雰囲気だ。しかしこちらも急ぎの用事である、躊躇してはいられない。
 エドは彼らに近づいた。
 常は気配に聡いロイも、今日ばかりはこちらに気付かない。――荷物を見る。急ぎだと言う荷物。これが本当に急ぎであることを祈ろう。エドが気兼ねしながらも声をかけるため口を開きかけた時だ。
 荷物の中で小さな音がした。
 奇妙な音だと思ったのだ。思わず箱に耳を寄せる。
 カチ、カチ、カチ、カチ。
 時計のような音。
「――では、この付近を探らせましょう!」
「そうしてくれ。くれぐれも不審な荷物に目を光らせるようにと。ゴミの中も漁り忘れるなと伝えろ」
「はい!」
 唐突に耳に入ってきたロイたちのやり取りに、エドは思わず息を飲んだ。
 憲兵の一人が大部屋の出入り口に向かって駆けて行く。部下を見送ったロイが、脇にいたエドに気付いた。
「ああ……君か。今日は忙しくてすまないな」
「――大佐」
 エドはすっと頭から血が引くのがわかった。
 予感は確信に近い。
「……大佐。もしかして爆弾探してる……?」
「聞こえてしまったかい?」
 困ったな、と、大して困ったふうもなく呟く男に、エドは震える声で告げた。
「これ、さっき門の前で知らない憲兵から預かった……」
 聞いたロイの表情が動いた。
「時計の音がする……!」
 聞くが早いか、彼はエドの傍に駆けつけ荷物を奪う。
 油紙で包装された包みは千切れが悪く、もどかしくなるほど厳重だ。動揺を抑え込み、エドもロイに習って包みを破る。
 間もなく開くことのできた箱からは、予想通り、多くの配線でつながれた手製の時限爆弾装置が見えた。
 脇には潰れたケーキと、「三時のおやつに」という趣味の悪いカードが一枚――
 爆弾につながれたアナログの目覚まし時計は、既に二時五九分を切っている。
「――外へ出ろ! 早く!」
 ロイが部屋に残っていた部下たちに叫ぶ。
「――君もだ! 早く!」
 突き飛ばすように肩を押されたが、エドは動かなかった。何か防壁になるような素材はないかと見回す。目に映ったのは金庫だった。
「大佐、あの金庫は必要なものか?」
「何を言ってる、いいから早く外へ――」
「――オレが! ここに持ってきたんだ、それ!」
 エドは腹から怒鳴った。ロイが小さく目を瞠る。
「オレがどうにかするのが道理だろう……!」
 本当は足が震える。いくら扉を接着して密閉しても、金庫なんか一瞬で吹き飛ぶかもしれない。それでも今他に考え付くような処置はなかった。
「――大佐が外に出ろよ!」
 エドが爆弾を箱ごと抱え上げる。三時までもう十秒もない。しかし――
 彼に背を向けた、その瞬間に上着の襟首を掴まれ、大きく体勢を崩す。ついでに持ち上げた箱も奪われた。
「……何やって……!」
 泣きそうになってロイを仰ぐ。
 見えたのは、腹が立つほど穏やかな笑い顔。
 それから彼の右手を包んだ白い手袋。甲の部分に、朱で見たこともない錬成陣の描かれた――
「――後ろへ。私が君の盾になろう」
 声とともに、小さな錬成陣が彼の手の上できらめく。
 束の間棒立ちになったエドを無理やり背中に隠し、ロイはその右手を箱の上に掲げた。
 爆音は直後だった。
 ひどい閃光が迸って目も開けてはいられない。
 エドは怖かった。彼の背中は依然として揺るぎなくそこにあり、己の手も触れている。だが周囲は大きな竜巻に飲まれたように、机の吹き飛ぶ音やガラスの割れる音が響いているのだ。
 自分が目を開けたその時、目の前の背中が血濡れでないと誰に言えるのか。
 誰が彼の無事を保証してくれるのか。
 次第に光が途切れ、爆風が落ち着き、風の名残で書類がひらひらと舞い落ちてくる頃、声が聞こえた。
「……無事か?」
 エドは恐る恐る目を開ける。声が落ちてきた方向を見上げる。
 ロイは肩越しにこちらを振り返り、かすかに笑っているような表情をしていた。
「なかなか劇的だったが……本当はもう少し華々しく君に見せたかったよ」
 ……何を言っているのだろう、この男は。
 己の喉に熱が溜まるのを感じる。瞼が熱くなり、鼻がつんと痛みを訴えるのを感じる。
「焔の錬金術師。私の二つ名だ」
 彼は得意そうに言った。
 邪気なく笑う整った顔が、今ほど憎く見えたことはない。
「……この……っ!」
 無防備だった背中を突き飛ばす。
 驚いてこちらを向く彼の襟を両手で捕らえ、物の散乱した床に引き倒した。派手に砂埃が辺りに上がり、ロイは仰向けに転がったまま、全くわけのわかっていない顔でエドを見上げる。
 エドは激しく言葉を吐き出した。
「――いつもいつもふざけやがって! 何でもかんでもべらべら話すくせに、あんたの口は、肝心なことだけ直前までだんまりか!」
 何かを返そうとしたロイが、口を閉じる。
 その手が持ち上がり、遠慮がちにこちらの表情を隠していた前髪を掻き上げた。
 そうされながら、エドはぐすりと鼻を啜り上げる。
 今自分の瞼はきっと涙を溢れんばかりに溜めているだろうが、隠す手段など見当たらない。だからせいぜいこの有様を見て、ロイが心を痛めればいいと思う。
 良くは物を映さない瞳できつく彼を睨みつける。
「……すまない」
 ぽつり、ロイが言った。
「……先に話すべきだった。私が悪かった」
 エドは唇を噛み締め、せめて涙が落ちないよう堪えるのだ。
「悪かった……、許してくれ」
 謝罪とともに頬を慰撫する、やさしい指。
 ――無事で良かった。
 エドは言えない言葉の代わりに、一度だけ自分から彼の手に頬を擦りつけた。
 
 
04
 一般市民の死傷者数ゼロ、という結果は、イーストシティで件のテロが起こり始めて以来の快挙だったらしい。しかも軍部側でも大きな被害は出なかった。いくらかガラスが破損し、机や椅子が壊れたようだがそれだけだ。
 あとはロイの腕に切り傷がひとつできたくらい。
 どうやら時限爆弾そのものが吹っ飛んだ時に、運悪く破片が腕に飛んだらしい。今、ロイの軍服の右上腕部の布地には、大きな裂け目がある。赤い血の染みはそこから広がり、応急処置できつく縛った木綿の上にも紅を滲ませていた。
 計らずも大掃除になりつつある大部屋は、出動から帰ってきた軍人たちの声と靴音で溢れている。ここでも中心になっているのはロイで、部下たちに「早く治療に行って下さい」と言われながら、あれこれ指示を出すのを止めない。
 見ていると腹が立つので、エドはさっきから窓の向こうにばかり顔を向けていた。
 待っていろと窓辺の椅子に座らされてもう半時。あと一分でも時間が進んだら、無理やりにでもロイを医務室へ引っ張ってやろうと思っていた。
「――待たせた」
 ところが、こういう時ほどこの男は卒なくこなすのだ。見上げると傷の痛みなど全く感じてはいないような顔があって、エドはまた憤りのやり場を失う。
「君の話を医務室で聞かせてもらっても良いか?」
「……ああ」
 自分は何でもない顔ができているのだろうか。
 促されるままに手足を動かしながら考えていた。
 錬金術師であるということを隠していたロイ。彼にしてみれば、ちょっと驚かしてやろうなんてその程度のことだったのだろう。想像はつく。しかし怒りは収まらない。
 エドから話す機会は確かにあった。彼の蔵書を見た時から薄々わかりかけていたことでもある。
 けれど訊かなかった。訊いて、話せないことなのだと言われるのが嫌だったからだ。軍部に属しているか否かで、知って良いことと悪いことも違ってくる。何でも尋ねて道理をわきまえない子供だと、ロイにだけは思われたくなかったのだ。
 人が精一杯気を遣っているところで、この男は――
「こちらだ」
 通路の先の個室を指差され、諾々とついて歩く。
「……まだ、怒っているかい?」
「…………」
「……そうか」
 腹が立つのはそればかりではない。
 あの瞬間庇われたことに関しても納得できずにいる。
 何が「私が盾になろう」だ。そんなこと言われても全然嬉しくないし、炎に関する錬成が彼の得意分野だと知らなかった自分にとって、彼が爆風に晒されるのは恐怖以外の何者でもなかった。
 誰かが傷つくより自分が傷ついた方がましだ。自分が守る対象として彼に認識されるのは我慢ならない。
 お互いに沈黙したまま医務室の扉をくぐる。先に報告を受けていたらしい軍医が、飛びつくようにロイの腕を取って診察を始めた。
 エドは入口に突っ立っていた。
 ロイが困ったようにこちらを振り返り、言葉を探して視線を巡らせる。
「……ヒューズから連絡が入ったよ。君が見つけた女性の身元がわかった。彼女は、今回のテロに直接関係のある人物ではないが――」
「大佐」
 エドは彼の言葉を遮り顔を上げる。
「それはオレが聞いてもいい話なのか?」
 ロイが小さく息をついた。
「そうだな……。知らない方が良い話かもしれない」
「じゃあ聞かない」
「そうか……」
 軍医が手早く彼の傷を処置していく。既に血は半分止まりかけていたようで、エドはひそかにほっとした。
 それから、爆弾を持ってきた男の風貌についていくらか質問され、努めて事務的に答えた。相手が憲兵の格好をしていたことを追求され、思い出す限りで偽物の軍服には見えなかったと言うと、さすがにロイも何か考えたような様子を見せる。
「……ただ、ここの司令官が誰なのかは知らなかったんだと思う」
 エドは付け足した。ロイが視線を上げる。
「司令官に渡してくれって言われたんだ。本当に軍人なら、大佐の名前くらい調べるはずだ」
「……そうだな。君の言う通りだ」
「軍服が本物だったのかどうかはオレも自信がない。雨の中で色も変わってたし……」
「ああ、近くの駐在や駐屯地で紛失がなかったかどうか調べさせてみよう」
 一通り話が終わる頃には、ロイの手当ても終わっていた。再び沈黙が落ちる気配に、エドはそそくさと彼に背を向け、医務室から出ようとする。
「……じゃあ、オレもう部屋に帰るから」
「待ちたまえ」
「オレの知ってることは今ので全部だ。もう話せることはないよ」
「そうじゃない。まだ一番大切なことが――」
 言葉が終わらないうちに扉を開ける。すぐにロイがあとから駆けつけてくるのがわかった。
「――待ってくれ、私に話をさせてくれ」
「イヤだ」
 エドは彼の顔も見ずに早足で歩く。
「頼む。せめてもう一度謝罪を――」
「いらない。もう聞いたし、別に謝ってほしいわけでもないから」
「では私はどうしたら君に許してもらえるんだ?」
「許さない。話はこれで終わり」
「エドワード・エルリック!」
「あんたには――!」
 エドは強く言い切った。
「一生俺の名前呼ばせてやらないことにした! 今度呼んだら真剣に殴りつけるから!」
 と、その直後だった。
 突然ふわとエドの身体が浮く。もちろんひとりでにそんなことが起こるわけがない。ロイがエドを担ぎ上げたのだ。しかも彼が使ったのは、怪我をして今手当てを受けたばかりの右腕である。
 エドの怒りは一瞬のうちに再燃した。
「放せ、バカ! タコ、カス、クズ! クソ大佐!」
「何と言われてもかまわない。しかし君を放すつもりはないから騒ぐだけ無駄だ」
 見ればロイの表情も不機嫌そうになっている。
 腹を立てているのはこっちだ。エドはますます暴れた。彼の肩の上に己の腹が乗っている状態なのだが、足をばたつかせ、拳で背中を叩く。
「はーなーせー!」
「放さないと言っている。それに君を寮へ帰すつもりもない」
「どーいう意味だよっ!」
「そのままだ。軍の施設も安全ではなくなった。君をここに置いておくわけにはいかない」
「追い出す気かよ! あんたがここにいろって言ったんだろ!」
「責任は取る」
「いらねーよ、放せ! ここにいる必要ねーんだったら村に帰る!」
 ぴたり。ロイの足が止まった。
「……君は私が嫌いか?」
 何を訊かれたのかわからなかった。エドが勢いのまま嫌いだと返すより早く、ロイは続けて宣言する。
「良く考えて答えたまえ。今の私は、嫌いだと言われれば、とことん嫌われるような行動を取るに違いない」
「――――」
「君を縛って監禁するくらい、わけはないよ」
 思わず彼の表情を確かめていた。久しく見ていなかった軍人然とした彼がそこにいた。感情が薄く、酷薄そうに見える横顔は、冷たい怒りを浮かべている。
「私が嫌いか?」
 エドは声を出せなかった。
「黙っているなら都合の良いように解釈するが、それでも良いか」
「――……ずっりぃ……」
 悪あがきで呻くと、小さく口端を上げる彼。
「ありがとう」
「誰も何も答えてねーよ!」
「そうだな。だが君は嫌いな人間のために泣いたりはしないだろう?」
 今度こそ言葉に詰まる。
 ロイがやっといつものように笑った。
「寮に比べれば待遇は悪くなるが、私としては最大限に君を優遇するつもりだ」
 エドはもう暴れる気力もなく、彼が飽きるまでじっとその肩に担がれ続けていた。