01
黙っているとどこまでもエドを背負ったまま歩きそうだった男に意見し、どうにか二足歩行を取り戻したのは、東方司令部の門をくぐるかくぐらないかという際どい場所である。おかげで司令部内にいたおおよその軍人たちには、びっくり顔で見送られた。
唯一声をかけてきたのはヒューズで、
「お仕事はどーするんですかー、誘拐犯さーん」
ロイが答えて曰く、
「誘拐? 失敬な。せめて略奪と格調高く言ってくれ。――急ぐ仕事は済ませてきた、彼を送り届けたら私もすぐにこちらへ帰る」
エドは口論を吹っかける気にもならなかった。一々突っ込んでいたら余計にからかわれるに決まっている。とにかく下ろせということだけ主張して、足の自由を勝ち取った。
「……全く。よく背負ったまますたすた歩けるよな。これでもオレ標準体重よりは重いのに」
「確かに重そうだ、その機械鎧は」
「うん。水の中だと沈む」
「そうか。だが君より重いものはいくらでもある。私だって軍人だ、鋼の武器を背負って長距離を歩く訓練くらいしているさ」
「……ふぅん」
何と答えたものかエドが迷っていると、
「とは言え、実際に重い武器を持って戦地に出向いたことはないんだがな」
「え?」
ロイが小さく苦笑した。
「私は錬金術師だ」
エドは沈黙する。つまり彼は錬金術を武器に戦地で戦ったということなのだろう。
先ほどの爆弾に対峙した時のロイを思い出す。エドにも錬金術で炎が出せないわけではないが、彼はその真逆のことをやって見せた。それも爆発物だ、制御するには少なくともそれと同等の炎を錬成する技量がいる。
今のエドには、何の準備もなしにはできないことだった。そもそも炎は物質ではなくエネルギーである。ロイが得意とするのは、物質としての何かを生み出すことより、むしろ状態変化の錬成なのかもしれない。
例えば、水を氷にしたり水蒸気にしたりするような。空気中の酸素濃度を調節したりするような。
「……錬金術で人を殺した?」
エドはそっと尋ねた。ロイは今度は笑わなかった。
「殺した。ずいぶん多くを」
「そっか……」
辺りはほぼ夕闇に落ちた。ところどころに灯った水銀灯が、ぼんやりと町を照らしている。
昼間中降り続けていた雨は、今ではすっかり小降りになっている。雨粒は目に留まるほどではなく、しかし確実にエドとロイの髪や服や靴を冷たくした。
エドは隣を盗み見る。
いつの日だったか、軍部で様々なものを錬金術で修理した日があった。あの日、人に感謝されつつ素直に喜べなかったエドを、一番理解していたのは彼だったかもしれない。
「さぁ、荷物を取ってきてくれ」
気付けば軍寮の門前だ。
「結果が出るまでもう二晩。食べるものには多少困るかもしれないが、寝るのに困らない場所へ移動しよう」
ロイが案内した場所は、司令部からそう離れてもいない大通りの一角にあった。一階にパン屋と花屋と本屋が軒を連ねている、煉瓦造りのコンドミニアムだ。外観はどう見ても軍属とは程遠い。
「……ここは?」
エドが尋ねてもロイは笑うだけで答えない。
導かれるままに建物の中に入る。エントランスには集合郵便ポストもあった。ポストには、それぞれに表札も普通に出ていて、いよいよ当たり前に集合住宅っぽい。
しかもロイは、何気なくポストの中身をチェックした。
「……大佐。ここってもしかして……」
「私の家だが」
彼は短く答えた。声は、エドが驚いているらしいことに満足し、いくらか笑みを含んでいる。
「何か不都合でも?」
ロイは平然と訊くが、そう尋ねたいのはエドの方である。
「家とは言うが、私もここに毎日帰ってきているわけではない。明日、明後日の二日間にしても、少なくとも今晩は司令部に泊り込みになる。君は宿屋に泊まったとでも思ってくれたらいいさ、バスもベッドも好きに使ってくれ」
「でっ……でも、いいのか?」
「いいよ。大したものは置いていない。暇なら家捜ししてくれてもいいくらいだ」
「ずいぶん拘りないんだな……」
「本当に何も置いていないんだ。私物はかえって司令部に多くなっている。ホークアイ中尉には良く叱られるが、実際、自宅よりも司令部にいる時間の方が圧倒的に多いから、仕方がない」
黒い鉄製の階段を上がっていく。ロイの部屋は四階だった。階段はもう一段上に続いていたが、どうやら屋上に向かうものらしい。つまりこの建物の最上階は四階であるということだ。
四階には直線状に三つの扉がある。濃い緑色の、小さなガラス窓のついた木戸である。
一番手前には鉢植えに飾られた扉があり、人の住んでいる気配を感じるが、真ん中の扉は小窓に埃もあって寒々しく、無人のようだった。そして最奥の扉の前で、ロイが胸ポケットから金色の鍵を取り出す。
すぐに緑色の木戸が開く。全ての動作は無造作に行われていたが、エドはどきどきしてしまった。
中は板張りである。そう歩かぬうちにロイがブーツを脱ぎ、慌てて自分もそれに習うのだ。
「私はあまり掃除が好きじゃなくてね。部屋ではほとんどそちらの部屋履きで歩き回っている」
言われてみれば床が綺麗だ。普通は外履きでそのまま歩き回る場所なので、砂や泥が落ちていてもおかしくない場所だった。
エドはずいぶん大きなサイズのサンダルを借りた。
歩き回るたびにぺたぺたと音がするが、悪くはない。
「ベッドは奥だ。バスとトイレ、洗面所は向こう。キッチンはあちら。見ての通り、そう広い部屋じゃないから迷うことはないだろう」
リビングには小さなキッチンが付いていて、キッチンの前には丸い木目のテーブルがある。広さのわりに家具らしい家具は蓄音機と食器棚くらいで、その棚も見る限りでは半分以上が酒瓶で埋まっていた。リビングとは別に、もう二部屋縦につながった個室があって、片方が書斎、書斎を通り抜けた奥間が寝室になっているようだ。
書斎は確かに錬金術師のものらしく、本棚があり、薬棚があり、机の上はいくらかの実験器具や本が雑多に積み上がったままになっている。
部屋のドア口から覗いただけではあったが、この部屋で最も生活感のある部屋は書斎のようだった。奥の寝室もベッドとクローゼットがひとつあるだけ。極端に家具が少ない。
「なんか……普通だね?」
エドが感想をもらすとロイは苦笑した。
「普通だよ。驚かせてやれなくてすまないな」
彼は他に、電灯のスイッチがある場所と風呂の使い方とタオルのある場所を教えてくれた。
「あとは――君は寝る時はどうしていたんだ?」
「ん。とりあえずシャツがあるし」
「そうか。まぁ何か必要そうなら適当に漁ってくれ」
「本当に拘りないよな。見たらまずいもんとか置いてないのかよ?」
「ないよ」
「おもしろくない」
「次に君を呼ぶ時にはおもしろくしておこう。さし当たって困るのは食料ぐらいか」
君は料理は?、ロイは早くもブーツに履き替えながら言う。どうやら本当にすぐ軍部に帰るつもりらしい。引き止めてはいけないと思いつつ、エドは会話の区切りをつけられずにいる。
「……目玉焼きくらい?」
ロイが笑った。
「ディナーにそれでは貧相だな」
「貧相で悪かったな。そう言う大佐は?」
「君よりできそうだが得意ではないよ。すまないが今晩は適当にやってくれ」
「明日は帰ってくるんだろ?」
「ああ。何とか定時に帰れるように努力しよう。せめて夕食くらいは一緒に取りたいしな」
「……うん」
ブーツを履き終えたロイは、エドに部屋の鍵を預けた。
「……家捜しなら書斎をすすめるよ」
今度はエドが苦笑いする。
「言われなくてもそのつもりだったさ」
「それならいい。君さえ気付くのなら、恐らく良い暇つぶしになりそうなものもある」
「?」
ロイは企み事を抱えた顔で思わせぶりに言った。
「――ジョセフィーヌは鉄の乙女だ」
「へ?」
「一階のパン屋で会える」
「?」
彼は相変わらずの楽しげな様子で部屋を出て行った。エドはしばらく謎かけの意味を考え、結局答えを見つけられず、早々に匙を投げた。
02
パンと缶詰のスープといくらかの保存食と。キッチンの端々で見つけたそれらに、エドは早々に外に出る気力を失った。ロイ風に言うなら「貧相なディナー」ではあるが、一人だと思うと食のために動くこと自体面倒になる。
広々としたリビングの、丸テーブルの上でそそくさと夕食を済ませる。時間はまだ早い。リビングには大きな窓があって、そこから見下ろす町並みはまだまだ夜に沈んだばかりだ。
物がない部屋というのは、つまり暇を潰すものがない部屋でもあった。軍の寮も似たような環境だったけれど、夜になるとハボックがカードやチェスに誘ってくれて意外に時間が経つのが早かった印象がある。
しかしロイの部屋は――
部屋の隅に蓄音機。それからラジオ。どちらもエドの興味を惹くものではない。しかも見た雰囲気だと、ロイの興味を惹くものでもなさそうだ。機械はあるのだが、肝心のレコード盤が二枚しかなかった。
エドはリビングの探検を諦め、書斎へ向かう。
書斎は狭いながらも物が溢れていた。本棚には相変わらず多くの錬金術書が並んでいる。
軍部にあったものと目立って違っていたのは、兵法の書物も多くあったことだ。しかも錬金術書よりよっぽど背表紙がくたびれている。
本棚を上から下に眺めていたエドは、一箇所でタイトルのないハードカバーの本を見つけた。手にとってみれば、中は手書き文字がびっしりと書き連なっている。
「何だ……?」
しかし文字は異国のものらしいのだ。エドには全く読むことができなかった。
せっかくおもしろいものを発見したと思ったのに、これでは肩透かしだ。不意に「見られて困るものがない」とロイが言ったのを思い出した。あれはこういうことだったのかもしれない。
「……なんか悔しい……」
それまで遠慮して見なかった机の上を覗く。図面やら構築式らしきものをざっと書きつけた紙はあるが、ロイの錬成陣とエドのものは全く違うので、こればかりでは錬成の技術を盗めもしないのだ。
がっかりしかけた頃、書類の中に携帯用の手帳を発見した。かなり古いもののようで表紙の端が擦り切れている。
「…………」
さすがに許可なしで開くのには躊躇した。
「……でも、見ていいって言ってたし」
迷いつつ、エドの手はじりじりと手帳に延びている。
結局、逡巡は束の間だった。
最初の一ページを開く。
「……二月四日、カレンと食事。通りで揃いのカップを買う……?」
声に出して文字を読んだエドは、しばらくぼうっと突っ立ってしまった。
次第にふつふつと腹から込み上がってくるものがある。
カレン、タニア、サンドラ、マーガレット、リリー、クリス、シモーヌ……ジョセフィーヌ。拾い読みするだけでも、ありとあらゆる女性の名が挙がっている。彼女らがどうしたこうした、いくらの出費があった、どこへ行った、そんなことがつらつらと書いてある日記。
「……あ、んの……っ、女好きッ!」
つい手帳を台に叩き付けていた。
「ったく、くだんねーもんこんな部屋に置きやがって! 何が見られて困るものはない、だ! あんたが良くても、こっちが見て気分悪くなるだろーが!」
妙に腹が立つ。この手帳の発見がきっかけで、エドの手は完全に遠慮をなくした。
引き出しを開ける。同じ内容の手帳をもう一冊見つけた。他は書き崩しのような書類の束と、数冊の医学書、筆記具の数々、いくらかの辞書類。
辞書の中には、本棚にあった読めない文字に関するものもあったが、調べようかと思えるほどゆとりがなかった。頭の中はロイの日記の内容でいっぱいになっている。カレン、タニア、サンドラ、マーガレット、リリー、クリス、シモーヌ……ジョセフィーヌ。ありとあらゆる女性の名前がぐるぐると駆け巡る。
「――……ああ、クソっ!」
エドは己の髪をがしがしと掻き回し、ついでに三つ編みを解いて書斎を出た。
そのままバスルームへ直行する。
「最悪だな、あの男! ちょっと地位と金があるから女にちやほやされていい気になってんだ! 絶対そうだ、バーカバーカバーカ!」
ドアを蹴り開けてバスタブの蛇口を目一杯開いた。湯が溜まるまで、エドは思いつく限りの悪口を並べ立てた。そうしてある程度水嵩が出ると、長く待てずに衣服を脱ぎ捨て、浴槽へ飛び込む。
派手に水しぶきが上がった。
「――クソ大佐! 二度と顔見せんな!」
最後に一声叫んで、はぁっと特大の溜め息をついた。
身体を縮めてもまだ腹までしか湯の高さがない。長風呂は嫌いだ、思いながらも、エドは湯が肩まで溜まる間、浴槽の中にじっとうずくまっていた。
ふと、あれが本当に日記だったのかと疑いを持ったのは、風呂から上がって一息ついたあとのことだ。
風呂上りにランニングシャツだけでは肌寒く、上に羽織るものを探して、寝室のクローゼットを開けてみたのだ。
ロイのクローゼットはスペースの大半が軍の制服で占領されていて、普段着らしいものはほんの少し。その中から薄手のセーターを引っ張り出した。エドが着るとほとんどスカート丈だったが、他の何を選んでも同じだったので我慢する。
しかしいちいち余計なものがない部屋だ、エドは寝室に来てまた思うのだ。
結局どの部屋にも飾り気がないし、本当に必要最低限の物資が揃っているだけに見える。あれほど女の知り合いがいるのなら、その中の一人や二人世話好きでも不思議はないと思うのに――
そこまで考え、唐突に日記の不自然さに気が付いた。
考えてみれば当たり前のことだった。ロイのように忙しい立場にいる男が毎日女と遊び歩けるわけがない。
ではあの手帳は何なのか。えらく使い込まれて、錬金術書や医学書と同じ場所に置かれていた手帳は。
次の瞬間、エドは慌てて書斎に引き返していた。
先ほど机に叩きつけた手帳を開く。
文面を注意深くチェックした。確かにいろんな名前が出てくるが、実際に中心になっているのは、ほんの十足らずの名前に過ぎない。その十足らずの名前が、更にいくらかの規則に沿って並んでいる。
「……やっぱり、これ……」
研究手帳?
エドは思わず息を飲む。
もしもそうなら、エドに対するロイの無防備さは本物になる。錬金術師同士で資料を共有することは良くあることだが、直接の研究手帳まで晒すことは、相手を信用していなければできることではない。
「うわ……ごめん、大佐」
エドはついここにはいない彼に謝っていた。彼が聞いていなかったとは言え、思いつく限りの悪口雑言を吐いたことに対する謝罪だった。
とは言え、謝っておきながら、また手帳に目を落とすと複雑な気持ちになる。
「……けど何で女の名前で作ってんだよ? やっぱ女好きなのか?」
エドの疑問は尽きない。
ロイの部屋で過ごす一夜目は、こうして暗号解読のために費やされた。エドが寝室に倒れ込んだのは、朝陽が空の端を明るく染め始める頃である。
03
翌日、目が覚めたらしっかり昼だった。
昨夜は半分眠りながらベッドに入ったので何も考えはしなかったが、いざ意識がはっきりしてくると、毛布もシーツもひどく慣れない匂いがする。
エドはあたふたと起き上がる。
何だかわからないが恥ずかしい。
はたと気付くとセーターまで借りっぱなしだ。こちらもあたふたと脱いだ。皺ができてしまっていたので、とりあえずハンガーにかけて壁に吊るしておく。ついでに「どうかオレがセーター着たこと気付かないように」とお祈りもしておいた。とにかく変に恥ずかしかった。
そうして顔を洗って身支度をして、外出の準備を整える。
今日は、一階のパン屋にいるジョセフィーヌという女性に会ってみるつもりだった。ロイ曰くの「鉄の乙女」だ。
ジョセフィーヌという名は、今のところ研究手帳を読み解くための唯一の鍵である。手帳の文面には全て目を通したが、そう難解な書き方はされていないようだった。複数の物質から成り立つものの生成法だという気はする。しかし何度読んでみても、何についての記述なのか今いち判断できないのだ。
考えてみると、エドはロイのことを多く知らない。彼が興味を持つもの、普段どうして時間を潰すのかとか、何が好きで何が嫌いかとか。
彼が錬成で生み出したいと思うものとは、一体どんなものなのか。
知りたくなった。ロイ自身のことを。
上着を羽織って外へ出る。
昨日、雨で洗い流された外界の空気は、さらりとして気持ち良い。目に飛び込んだ青空に、エドは知らず微笑んでいた。
パン屋のドアにはカウベルがついている。
扉を開くや否やの小気味良い音と、店いっぱいに広がる小麦粉の匂い。途端に空腹を思い出した。エドはひとまず店内を物色することにする。
トレーとパン挟みを取って端から見ていく。
エドの他には、主婦らしき中年の女性客が一人、同じようにトレーを持って違うコーナーを歩いていた。
彼女は店主と知り合いであるのか、他愛もない世間話を繰り返している。店主はカウンターに座ったまま、客の話に笑顔を返していた。
ジョセフィーヌという名を持ちそうな女性は見当たらない。エドはパンを選びながら店の奥を盗み見る。工房に見えるのも老女である。
腰が曲がって歩くのもおぼつかない。確かに老女だ。
エドは怪しく思いながらもパンを持ってカウンターに向かった。
「ねぇ、ジョセフィーヌさんていう人がここにいるって聞いたんだけど」
エドが言うと、店主はようやく世間話を止め、少し驚いた顔で答えた。
「ジョセフィーヌ? ああ、奥にいるよ? あの婆さんの名前だ。呼ぶかい?」
「あー……うん、頼める?」
やっぱりか、エドはこっそり溜め息をつく。乙女と言うにはずいぶん遠い年齢だ。
ゆっくりとした足取りでカウンターまで顔を出した白髪の老女は、エドを見つけるとにっこりと笑った。
「まぁまぁ、かわいらしいお客さんだこと。でもどこかで会ったことがあったかしら? 物忘れはしない方だと思うけれど、あんまり自信はないのよ」
しわがれてはいるけれど、茶目っ気のある明るい声である。
「えーと。オレは会ったことがないけど、マスタング大佐が――」
「大佐が? まぁまぁ元気にしていらっしゃるのかしら。最近お会いしていないけれども、ちゃんと食べて健康に気をつけてくれてる?」
訊かれてもエドには答えられない。
「いや、あの、それで……」
「私も死んだ恋人に操さえ立てていなければプロポーズしたのに」
思わぬ台詞に呆気に取られる。脇にいた店主が大声で笑った。
「婆さん、またその話か! ちょっといい男見るとすぐ同情引きたがるんだから」
「まぁ失礼ね! 私だって大佐くらいいい男じゃなければ靡きませんよ。死んだ恋人だってステキだったんだから!」
「ハイハイ。大佐は確かに礼儀正しいからなぁ……まあ婆さんが惚れるのもわかる気がするよ」
「そうなのよ。この前なんか病院までエスコートしてくれたんだから」
ジョセフィーヌはころころと笑う。
「それで、ぼうやは私に何の御用なのかしら。大佐からラブレターでも持ってきてくれたの?」
「え、ええっ? いや、そうじゃないんだけど……っ」
「遊ばれてるぞ、ボーズ。婆さん、顔に似合わず性格悪いから気をつけろ」
老女だけではなく店主からもからかわれている気がする。このところ会う人物会う人物そんな感じだ。よっぽど自分はからかいやすそうな顔をしているのか。
エドは改めて用件を告げた。
「オレ、ジョセフィーヌさんに訊きたいことがあって来たんだ。大佐がジョセフィーヌさんのことを鉄の乙女だって言ってて、それの意味がわからなくって」
「まぁ……」
エドの言葉に目を大きくし、老女は穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、ぼうやも錬金術師さん?」
驚いた。
ジョセフィーヌはうなずく。
「もしもそういうふうに私を訪ねてくる相手がいたら、教えてやってくれと言われたことがあるのよ」
「それって……」
「ええ。私の病気のこと」
意外な言葉に、またもやエドは反応できなくなる。彼女は小さく目を細めて告げた。
「私ね、人より少し血が足らないみたいなの。お医者様が良く鉄分を取りなさいっておっしゃるわ。本当は難しい病名がついているんだけれども、覚えられなくって」
「そうか、鉄……! 人の血液か」
「お役に立てた?」
発見に喜ぶこちらを見て、老女がそっと笑う。
「大佐は錬金術は魔法じゃないっておっしゃったけれども、病気を治せるものなら、お医者様も薬も治療も錬金術も魔法も、全部同じものだと私は思うのよ」
どこか切実な響きの言葉に、エドは勢いを失って彼女を見る。しかし真剣な表情も束の間、彼女はすぐに茶目っ気のある笑い顔を取り戻す。
「大佐にまた顔を見せてちょうだいと伝えてね」
うなずく以外に何がエドに返せただろう。
部屋に帰ってしばらくは、買ってきたパンもそのままに、リビングの丸テーブルでじっとしていた。
ロイの顔を思い浮かべる。エドはゲームのような気持ちで研究手帳の解読に躍起になっていたが、ジョセフィーヌに会ったあとでは、もっと真剣な気持ちで取り組むべきことだと思えてならなかった。
ロイは何を思ってこの研究を始めたのか。
息をつく。気を取り直して遅い昼食を取った。それから気合を入れ、件の手帳に向かう。
血液の錬成であるということさえわかれば、あとは諸々の成分を、文面に出てくる女性の名前に当てはめていけば良い。
書斎にあった医学書を丸テーブルの上に積み上げ、エドは厳かに暗号の解読を進めた。
04
手元が暗くなった気がして頭を上げる。すると、いつの間に帰ってきていたのか、真上からこちらを見ていた男と目が合った。
「やっと気付いてくれたか」
ロイが苦笑いながら言った。
「驚かそうと思って静かに入ってきたんだが、君が気付くのを待っているうちに馬鹿らしくなってしまったよ」
「オレ、また夢中になってた?」
「そのようだ。少なくとも十分近く待った気がする」
「声かけりゃ良かったのに」
「だから驚かせたかったんだ」
拗ねたように言う男にエドも笑った。
「そういつも遊ばれてたまるかって」
「心外だな、遊んでいるんじゃなくって、必死にコミュニケーションを取ろうとしているのに」
エドが肩を竦めるとロイが大げさな溜め息をつく。
「君がそんな調子なら、きっと私の愛は一生一方通行に違いない」
「愛ー? そんなもんがどこにあるんだよ?」
「ここにこんなに溢れているんだがね?」
ロイは両手を差し出した。いかにも何かありますと言わんばかりだったので、エドはしげしげとその両手を眺める。手のひらには何もないし、もしかして甲の方かと思って、裏返して確かめてみたが何もない。
じろ、と、彼をねめつける。
ロイが楽しげに笑った。
「ああ、すまない。実は性格がひねくれた子供には見えない愛なんだ」
そんなことだろうと思った。エドは差し出されたままだった手を叩いてそっぽを向く。
「夜警明けで疲れてんのかと思ったのに、えらく元気じゃねーか」
「仕事が終われば元気にもなるさ」
「軍人がそんなことでいいのかよ」
「いいんじゃないか? 国家が安泰な証拠だ。ところで私はまだ君から聞いていない言葉があるんだが――」
ちらりと彼を見上げる。
何がそんなに嬉しいのか、ロイは期待をありありと顔に浮かべている。エドだって彼を喜ばせるのは悔しかったし、憎まれ口を叩いてやっても良かったが、不機嫌でもないのに苦い表情を作っているのも疲れてしまった。
結局笑ってその言葉を言ってしまうではないか。
「おかえり」
「ただいま」
ロイがひどく嬉しげにはにかんだ。彼はその場で軍服の上着を脱ぎ、楽な服装になって向かいの席に腰掛けた。
「……どうやらジョセフィーヌに会ったようだな」
エドの書き崩したメモを手に、ロイが微笑む。
「会ったさ。でも誰が乙女なんだよ?」
「うん? 死んだ恋人の話を聞かなかったか?」
「聞いたよ、ていうか聞かされた」
「あれは彼女が十一の時らしい」
「ええっ?」
「ちなみに彼女は結婚してはいないよ。死んだ恋人というのはよっぽどいい男だったんだろうね」
「そりゃ……」
「乙女だろう? それとも君は年齢で差別する気か?」
降参。エドが両手を挙げると、ロイは満足そうにうなずいた。
「よろしい。で? どうだい、私の研究は?」
彼の挑戦するような眼差しが気持ち良かった。エドは手帳を広げ、丸テーブルの中央に置いて、ひとつひとつを指差し解説していく。
「ジョセフィーヌが鉄。これは大佐のヒント通りだった。その他に出てくる成分も、どの名前がどれとまで確定はできなくても、大体見当はついた。水、ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム、亜鉛、銅、コバルト、パナジウム……これは人の血液の成分だ。この研究手帳は、血液の錬成法を試行錯誤したものだろ?」
ロイは何も言わない。エドは続けた。
「方法としては、個人の血液を元にして同じ遺伝子の血液を増やそうとしたみたいだな。でも何度も失敗してる。赤い色の液体はできるけれども、それは血液としては死んでしまっていて、鉄を与えても酸素と結合しない。血液中で活動するはずの細胞が、錬成段階で奇形になってるらしい。これを何とかしたくて錬成時の温度を変えてみたり、錬成する物質そのものの状態を変えてみたりするんだけど、やっぱり細胞は死んだまま……」
ロイが小さく苦笑した。
「初めて血液の錬成を試したのは、戦場でのことだったよ」
彼は手帳を手に取り、溜め息をつくように話し出す。
「異国の医者が捕虜の中にいてね。その男は私に出会って初めて錬金術を見たらしい。物質同士で等価交換ができるのなら、人の血液もどうにか錬成できないかと私に言った」
本棚にあった異国語の手記を思い出す。もしかしてあれは、その医者のものなのかもしれない。
だが、例え場所が戦場であろうと、医者から依頼を受けようと、細胞を含んだものを錬成するという行為は禁じられている。なぜなら――
「でも細胞は生き物だ」
「そうだ、血液は物質じゃない」
「血液だって人体の一部だろ?」
「そうだな……」
「血液を錬成するってことは、人体錬成と同じだ」
エドが強く言い切ると、彼は大きく息を吐き出し、手帳をテーブルの上に置いた。
「結局そういうことなんだろう。しばらく実験は続けたが、どうしようもなくなって止めた」
「…………」
「君に会わせたジョセフィーヌは、その医者と同じ戦場に看護婦としていた。彼女は人体錬成の禁忌を真っ向から否定した。少なくとも血液は血液という物質だと私に主張した。私が錬成できないと言うと、ならば誰ならそれをやってくれるのかと言った。血液を人の手で作ることは、死んだものに再び命を与えようとしているのではなく、生きたものの命を救う研究ではないか――錬金術師はそれを禁忌と呼ぶのか、とね」
エドはそっと息をつく。
「……それで? 大佐はオレに何が言いたいんだよ。オレは、その禁忌を一度犯した人間だぜ?」
「しかも懲りずにもう一度犯そうという人間だ」
癇に障る言い方をする。
じっと睨むと彼は笑った。屈託のない笑い方だった。
「なに、そんなに難しいことを言いたいわけじゃない。君が元の身体を取り戻すという望みの片手間に、これの研究を引き受けてくれればと思ってね」
「はぁ? 自分でやれよ!」
「だが同じ人体錬成だろう? 身体ができて血液ができないということはあるまい?」
「そうじゃなくって!」
ロイは声を大きくしようとするエドを手を上げて制し、ゆっくりと言った。
「自分でやりたいのは山々だが、私は私自身の野望に命を懸けるので忙しい」
「――…………」
「私の錬金術は、人を助けるためのものではなく、野望を叶えるための武器なんだ」
ひどく自分勝手な物言いだとは思うのに、エドはそう宣言した男に束の間見惚れてしまった。
決意と希望と自信に満ちた彼の眼差し。ロイのこういう部分は、エドの中に眠る何かを刺激して止まない。
彼の元に集まる軍人たちの気持ちもわかる。
「……別に……どーせついでだからいーけど。でも、大佐の依頼引き受ける代わりにオレの利益もあるんだろうな?」
「もちろん。私が持つ情報は漏れなく君に伝えよう」
「漏れなく? もしもオレが国家錬金術師になれなくても?」
「漏れなく。まぁ君が資格を取れないということはないと思うがね」
「ふぅん? でもまさかそれだけじゃないよな?」
実は半分冗談で付け足した言葉だ。けれどもロイは真剣に続けた。本当はその時少し感動してしまったのだと、彼にはいつか話してやろうと思う。
「そうだな……もし君が禁忌を犯したために弾劾されるのなら、私がもう一度盾になるよ」
ロイは胸に手を当て真摯に誓いを立てる。
エドは尊大にうなずき、それから笑った。
「ところで腹が減ったよ。大佐は?」
「そうだな、どこかに食べに出るかい?」
「それなんだけど。あのさ、すぐ隣の建物にピザ屋があるんだって? パン屋で聞いたよ、頼めば持ち帰りも許してくれるんだろ。大佐がいいんなら、それにしようと思うんだけど」
「いいよ」
「じゃオレ下に行って頼んでくる」
「私も行こうか、ピザなら荷物も多いだろう」
ロイが席を立とうとしたので、慌てて止めた。
「オレが行く。大佐、帰ってきたばっかだろ。着替えてゆっくりしてなよ」
「ふぅん……ピザは私のためらしいね」
「自惚れんな。ピザはオレが食いたいの! じゃなくって、腕怪我してたじゃないか。怪我人に荷物持ちさせるほど、オレだって極悪非道じゃないよ」
彼は言われて初めて思い出したような顔をした。
「ああ、腕か……そう言えばあれは君のせいだったか」
「人聞き悪いな! 大佐が勝手に盾になったんだろ!」
「そうだよ。しかし君は勝手に気を遣ってくれてるようだ」
「……別に……本当に……そういうわけじゃ……」
「そういうわけだろう?」
エドはふくれっ面になってそっぽを向く。
「大佐に借りなんか作りたくねーもん」
「素直じゃない」
「オレの正直な気持ちだろ」
「そういうことにしておこう」
財布ごどエドに手渡し、ロイは笑った。
「サイドメニューも持ち帰りできるはずだから、適当に見繕ってきてくれ」
「わかった。食べれないものとかないか?」
「軍人にそれを訊くか」
「大佐は特別。我侭そーだから」
「ひどいな」
苦笑する彼に見送られ、エドは早速部屋を出た。
階下に下りてみると、すっかり夜になった大通りには冷たい風が吹くようになっている。エドはひとつ身を震わせ上着を着込んだ。
早く用事を済ませて帰ろう――エドばかりでなく、通りですれ違う人も皆、一様に家路を急いでいるふうに見えた。
05
大荷物を抱えて帰ってみると、ロイはすっかり普段着になっている。手荷物でノブが回せず呼び鈴を押したのだが、開かれた戸口で、セーターにコットンパンツ姿の彼を見て、びっくりしてしまった。
「……大佐?」
「いかにも。別人に見えるのか?」
顔が違って見えたわけではないが驚くではないか。今まで軍服姿のロイしか知らなかったし、元々軍の制服は見る者に近寄りがたい印象を与えるものである。
彼は突っ立ったままのこちらから荷物を奪い、エドの背中を抱えて内に迎え入れる。
動きに伴って、今まで軍服で隠れていた首筋やら節の太い手首やらが見えてどきりとした。
エドは焦って彼の手から逃れた。まるで全く知らない人物に思えた。何より、薄い布地の服は当たり前の体温をそこに感じさせる。
今自分の目の前に立つのは、常に飄々とした捉えどころのない人物ではない。触れば確固たる質感を持って存在する、生身の相手。
――はっきり言って困る。
「……なんだい?」
「い、や……なんでも、ないんだけど」
「何でもない? 本当に?」
ロイは全く意味不明の顔でエドを覗き込むのだ。エドは更に混乱して、近づく彼の頭を両手で押し退けた。
「ま――待て、待ってくれ! ちょっとだけ時間くれってば。今慣れるから!」
唐突に頬が熱を帯びた。
ロイはさすがにそれで気付いたらしい。突っ張っていたエドの手を逆に捕まえ、あまり性格の良くなさそうな表情で口端を上げる。
「――なるほど。軍服を脱いだ私は魅力的かい?」
「バカ! 変な言い方するな!」
「間違ってはいないんだろう? 心配しなくてもいい、外が変わろうと中は一緒だ――君が好きだよ」
絶対にからかい半分で言ったのだ。わかっているくせに、言葉は効果覿面だった。しかも彼は捉えた手の先に、冗談まじりでキスさえ落として見せる。エドは自分の全身が真っ赤になって蒸発するかと思った。
「お、オトコ相手にイロケ垂れ流すなっ!」
必死で叫んだのに爆笑される。
「知らなかった、君はかわいい」
ロイは本気で大笑いしながらエドの手を引いて部屋の中に招き入れた。
実はそんなふうに無防備に笑う彼にだって慣れていないのだ。おかげで悪態さえ上手くつけなかった。エドは借りてきた猫のように従順に、彼と同じ食卓につくのだった。
テーブルについても、エドが慌てているのを良いことに、ロイは過剰な世話焼きを止めなかった。
「チキンは?」
「た、食べる……」
わざわざ取り皿にとってエドに手渡す。サラダもピザもパスタも同じだ。もちろん世話などなくてもエドは一人で食べることができるし、ロイも子供扱いでそうしているわけではないのだろう。どちらかと言うと既にセクハラに近い気がする。皿を受け取りするたび指が当たって、その瞬間の表情を笑われたりするのだ。
質が悪すぎる、エドは彼を悔しくねめつける。
「……大佐、楽しいか?」
「楽しいな。さて、飲み物はどうだい?」
「…………」
「口当たりの良い果実酒なんかもあるんだが?」
「……何でもいい」
「では私に付き合ってくれ」
ロイは楽しげに酒の封を切った。甘い香りの透明な飲み物を、背の高い小さな杯に注いで渡される。
これで一通りエドの前には料理が揃った。とりあえずしばらくは彼から世話を焼かれる必要もない。
密かに息をつくとまた笑われた。
「どうやら私のすることはなくなってしまったらしいな、残念だ」
「そうやっていつまでもからかってりゃいいよ、そのうちぎゃふんと言わせてやる……」
「楽しみにしておくよ」
彼が小さく杯を掲げたので、エドは乾杯の代わりに「お疲れさん」と返しておいた。
「そう言えば……大佐って最初からオレに酒飲ませるよな。普通飲むなって言わないか?」
「言ってほしいかい?」
「別にそういうわけじゃないけど、あんまりそういう大人っていないだろ?」
「いないかもしれないな」
どうしてだよ?、エドがサラダを突付きながら目で問うと、彼はひょいと肩を竦めて答えた。
「私一人で飲むのは寂しいだろう?」
「……そこにオレの都合はないのか?」
「君が嫌だと言ったらすすめないつもりではいたさ。だが酒は楽しいものだよ?」
ロイは全く悪びれずに言う。エドは苦笑うしかない。
「オレが酒豪になったら大佐のせいだな」
「それはいい。朝まで付き合うから早くなってくれ」
ロイと二人きりの夕食は初日以来のことだった。そのあとはハボックを初めに大勢の軍人たちと大騒ぎしながら食べたのだ。
イーストシティに来るまで、知人など多く作る気はなかったのに、不思議なものである。人ばかりではなく店や通りもずいぶん覚えた。次にこの町へ来ることがあったとしても、エドはきっと何かで迷うということはないだろう。もしも迷うことがあっても、すぐにロイを思い出す。
ふと笑えてしまった。アルフォンスと二人で生きると悲壮な決意をした自分はどこへ行ったのだ。
急に笑ったエドに、ロイは怪訝そうな顔をした。
「どうかしたのか?」
「ううん。ちょっと、な。これも大佐の悪巧みのうちなのかなってさ」
「うん?」
目で訊きたいか?と問うと、同じく目で話せと促す。ロイは黙っていても饒舌だ。
エドは小さく笑う。
今なら話せる気がした。
軍人としての彼ではなく、生身の人間としての彼相手なら。
「一週間前のオレはもっと悲壮だった。自分がガキだってのはわかってたから、ナメられちゃいけないって気合入れてた」
「…………」
「完全武装してたと思う。オレ……軍は嫌いだったけど、それ以上にアルに何かあることが怖かった。オレが弱けりゃ守ってやれないからさ。力がほしかった」
ロイがじっとこちらを見つめる。余計な相槌はなかった。手に持ったピザもそのままだ。
エドはそのピザに視線を止めた。今ロイの目を見てしまうと強がりを吐いてしまう気がした。彼は、良くも悪くもエドの気持ちを強くする。けれど今エドが話したいのは、見果てぬ野望の話ではない。
「なぁ、大佐には故郷がある? 故郷って普通好きな場所だよな? オレも自分の村は好きだった。でも、あのことがあって以来ダメなんだ……村も友達も、錬金術を覚えた家も、見るたびつらい。つらくてどうしようもなくて……逃げたかった、アルと二人で。オレたちのことなんか誰も知らない場所に行きたいと思った。身体も取り戻したかったけど、本当は……多分、本当はオレ――」
唇が震えた。
エドは不意に泣き出しそうな自分を意識する。慌てて笑った。ロイがピザを皿に戻し、手をペーパーナプキンで拭いているのが見えた。
「違う……ごめん、こういうことが言いたかったわけじゃなくって……だからオレはアルと二人でいようと思ったのに、大佐がいろんな相手にオレを引き合わせるから、悲壮だったのがバカみたいだったなって――」
そっと彼の手が延びてエドの頬に触れた。こめかみに触れ、瞼に触れ、鼻に触れた。
声はなかった。ただやさしい沈黙だけだった。
せっかく堪えたのに泣きそうになるではないか。
「……手、チーズくさいよ」
無理やり悪態をついても溜め息のような笑いが伝わってくるだけだ。エドは唇を噛み締める。
しばらくそうしたあと、ロイは小さく言った。
「私が君を気に入った理由を教えようか?」
エドがそちらを向くと綺麗に笑い、頬に延ばしていた手で今度はよしよしと頭を撫でる。
「君は抜き身のナイフみたいだった。真っ直ぐで必死で小細工もできてなくって不器用極まりなかった」
何だかバカにされてる気がする。悔しく思うよりも笑えてしまって困った。エドが笑えばロイの瞳も更にやさしくなる。エドの頭を撫でていた手だって、おそらくその時世界で一番やさしかったに違いない。
「だが目を惹いた」
ロイは言う。
「一目惚れだった」
ふふ、と、笑いと一緒にエドの瞳から一粒目の涙がこぼれた。
「……そういうのは普通女の人に言う台詞だろう?」
「いいんだ、私は変わり者らしいから」
「だな。変なやつだとオレも思う」
しばらく泣き笑った。その間のロイはと言えば、まるで何かの使命のように丁寧に、エドの涙がこぼれる傍からペーパーナプキンで拭い取っていた。
こうして七日目の――おそらくロイと過ごす最後の夜の食事が終わった。半分以上泣いて過ごしてしまったエドは、どうにも話し足らず、結局ロイの腕の怪我を濡らさないために洗髪を手伝うという、こじ付けも良いところの理由で風呂場までついていって話し込んだ。
さすがに疲れさせてしまったのか、ロイは浴槽に浸かったまま髪を洗っている途中でうたた寝していたけれど、それすらあとでやさしい思い出に変わりそうな夜だった。
「……大佐、大佐。終わったってば。そのまま寝てると溺れるぞ」
「ああ……すまない。ありがとう、気持ち良かった」
「みたいだね。オレ、国家錬金術師になれなかったら洗髪師にでもなろうかな」
エドの冗談めかした弱音を、彼はあっさり笑い飛ばす。
「悪くはないが似合わないよ」
「そっか……」
「それよりも、君は風呂に入らなくていいのかい?」
「入るよ、大佐が出たあとに」
「今入ればいいのに。どうせ服も濡れただろう?」
エドはランニングにショートパンツ姿だった。寝間着代わりに着ていた服だったので、極力濡れないように気をつけはしたが、確かにあちこち冷たい。
「いーんだよ、オレは大佐が出たあとにゆっくり入んの! 大佐こそ疲れてるみたいだし、さっさと上がって寝たらいいんだ」
ロイが苦笑う。
「一人で待っている間に本当に寝そうだから言ってるんだ。一緒に入ろう。そうすれば一緒に出れて、まだ話すこともできる」
「ダメ。大佐は早く出て早く寝ろ。明日も早いんだろ?」
「早いが、でも――」
「でもはなし!」
エドが強く言うと、彼は小さく溜め息をついた。
「……時々君は兄だなぁと思うことがある」
「そういう大佐は一人っ子か? 兄弟がいたとしても、一番上には見えないよ」
「…………」
「当たった?」
エドが得意げに笑うのを、恨めしそうに見る。普段はとても大人に見えるのだが、彼は妙に子供っぽい一面も持っている。
「大佐ってかわいいよな」
しかしこれは調子に乗りすぎた。
ロイがちらりと笑ったと思ったら、いきなり両手いっぱいの湯を浴びせられた。
たちまちずぶ濡れになる。
前髪から湯が垂れてくるのを払い、エドはしてやったりの顔で笑う大きな子供を睨む。
「……大佐」
「すまない、私は水遊びが好きなんだ」
「遊ぶんだったら一人で遊べよ」
「一人で遊ぶのは寂しいだろう?」
「ふぅん、そう」
冷静だったのはそこまでだった。
次の瞬間、エドはろくに服も脱がないまま浴槽に飛び込んだ。
あとは言わずもがなだ。狭い浴槽の中で水の掛け合いをして、掴み合いもして、ひとしきり笑い合った。
終わってみればロイの希望通り、二人で一緒に風呂に入って、二人で一緒に出てきてしまった。
水遊びのせいで濡れた包帯を変えている間、その彼がしみじみと呟いたことがある。
「……君のような兄が欲しかったよ」
エドは思わず笑ってしまった。
「オレの弟はアル一人。残念だったな」
「全くだ」
それから二人でベッドに入った。明かりを消したあともしばらく話していたが、そのうちどちらからともなく自然と眠りにさらわれた。
翌日の朝、寝癖でぼさぼさ頭になったロイが、隣で腹を出して眠っているこちらに、ひどくやわらかい表情で笑いかけたことを、エドは知らない。
イーストシティ、七日目。
その日は目が痛むほど晴天の美しい一日だった。