バース・リバース 晴れたら戦え

01
「おめでとう、これで晴れて軍の狗だ」
 ロイの声はずいぶん平坦だった。今朝方、寝起きのエドを散々からかい、枕投げのようなことまでしていた男と同じ人物にはとても思えない。
 エドも凪いだ気分でその拝命証を眺めていた。見るからに高級そうな分厚い羊皮紙には、軍の紋章が透かし入れてあり、大総統の署名も添えられてある。
 手に取ればもっと感動があるかと思っていた。形式ばった文面の中でも二つ名だけは目を惹いたが、やはり感慨は浮かばない。
 それでもロイがその声で「鋼の錬金術師」と呼んだ時、エドは不思議な響きの良さを感じた。
「鋼……鋼、か。いいね、その重っ苦しい感じ」
 エドの言い方にロイは最初呆れていた気がする。
「いささか皮肉が含まれているようだが?」
「いいさ。少なくとも二つ名だけなら、間違ってもナメられそうな雰囲気じゃない」
「そうか。君が良いのならいい」
 鋼の錬金術師。エドは己の口の中で何度もその名を転がしてみる。ぶつぶつ呟く声はロイにも聞こえていたらしく、しばらく無言でこちらを見ていた。
「……そうだな、確かに悪い響きじゃない」
 彼は唐突に言った。
「かたい意志を思わせる言葉だ、純度が高くて余分なものを寄せ付けない」
 ロイの評価は何となくこそばゆい。しかし悪い気はしないのだ。もらったばかりの書類一式を封筒に戻し、国家錬金術師の証である銀時計をポケットに突っ込み、改めて彼と向き合った。
「国家錬金術師の名前っていうのは、拝命証をもらったその日から有効かな?」
「ああ」
「じゃあオレは軍属だよな?」
「そうだ」
 エドは立ち上がり彼の机に両手をつけると、その目をじっと見据えて言う。
「だったら――訊いてもいいか。今ここで抱えてるテロ問題のこと。この前の時限爆弾のこと。司令部の前に立ってたあの女の人のことも」
 詰め寄られた形になった彼は、しばらく視線を逸らすこともせず座ったままこちらを見上げていた。そしてふと苦笑し、机の脇に寄せてあったファイルをエドの方へと押す。
「……これまでの経過だ」
「オレが見ていいのか?」
「いいに決まっている。元々これは君のためにまとめさせたものだ」
「て、ことは」
「ああ。本当はこちらから協力を要請するつもりだった」
 その言葉は単純に嬉しかった。資格を取ったは良いが、問題からは蚊帳の外という事態だって充分にあり得る話だったからだ。エドには経験もなかったし、何より自分に何ができるのか、エド自身にすらまだわからない。
 けれどロイは言う。
「君から言い出してくれてありがたい。当てにさせてもらうよ」
 今は言葉の半分以上が世辞かもしれない。しかしこの問題が片付く頃には本心から言わせてやろう――エドは誓って、差し出されたファイルを受け取るのだ。
 今回のテロは首謀者が判明している。
 男の名は、ロナルド・シーマン。
 イシュヴァールの内乱時に、児童向けではあったが反戦本をいくつか出版していて、そのために軍法会議所といざこざを起こしている。最近では軍部からの弾圧を恐れて隠遁生活をおくっていたらしいが、三か月前からイーストシティ内で予告付のテロ行為を起こし始めた。
 多くが、町の一角に時限爆弾を仕掛ける、無差別攻撃型のテロだ。
「最初の爆弾は、軍と関わりの深い私設研究所に送られてきた。郵便物として取り扱われ、所員がこれを開封している。しかし中途半端な爆発の仕方だったらしく、死人までは出ていない。中には時限爆弾と一緒に一冊の本が同封されていた」
 そう言って、ロイが机の引き出しから取り出したのは、薄い文庫本だった。
 タイトルは「リッキー・オレンジが飛ぶ日」。
 エドは思わず声を上げていた。
「それ、あの骨董屋の……!」
「なんだ、結局会ったのかい?」
「会ったよ、次の日に。大佐が気になる言い方するから」
「だが珍しいものを見れただろう?」
「まぁ確かに珍しかったけど……あれって本当に飛べんのか?」
「どうだろうな。元々物語の中に出てくるだけの架空の物体だ」
 エドが本の内容を知らないと言うと、ロイは簡単に解説をしてくれた。
 物語の大筋は、いつか自分で作った飛行物体を飛ばすことを夢見ていた少年の話らしい。しかし戦争が起き、少年の国は他国に占領される。それでも幾度かの実験を重ね、リッキー・オレンジと名のついた飛行物体は理論上の完成を見るが、激しい迫害の中、とうとう少年は自国を自由に歩くことすらままならなくなり、最後の飛行実験は行われないままとなってしまった――これが「リッキー・オレンジが飛ぶ日」の概要である。
「……ふぅん。でもそれとチャーリーがどういう関係なんだよ? その作者のロナルド・シーマンがチャーリーの友達だってことは聞いたけど、ロナルドが自分で本送りつけてテロ起こしてんだったら、本の評判が下がっても仕方ないだろ?」
「本当にロナルド・シーマンが首謀者だったら、な」
 ロイが深い息をつく。
「チャーリー・ロリンズが司令部を訪れたのは先月のことだ。テロはイーストシティ内で繰り返されていた。他の地域では情報を抑えることもできたが、イーストシティ内の住人には隠せなくてね。その内、物語の中の飛行実験の日付が、そのままテロの日付に繋がっていることが知れ渡った。首謀者がロナルド・シーマンであることも、どこからともなく漏れた。そしてチャーリーがやって来た――友の無実を訴えるために」
「無実?」
「ああ。いくらロナルドが軍を嫌っていようとテロなど起こすはずがない、とね」
「でも……」
「そうだ。こちらには実際にロナルドの名で声明文が来ている。それに無実であるなら、まず本人が軍に所在を晒し、テロと無関係であることを証明すべきだろう。私も最初は取り合わなかった。だが事態に異変が起きた」
 ロナルド・シーマンが焼身自殺をはかったのだ。
 場所は、隠れ住んでいた自宅の納屋でのことだった。
「状況的には自殺としか言いようがない。が、そのあとも、自称ロナルドの意志を継いだ者たちによって予告日通りにテロは続き、今に至っている」
「自殺……テロを起こしたことを悔やんで?」
「いや――実は、君に調べて欲しいのはこのことだ。確かにロナルドは自殺のように死んでいた。しかしこれがどうも私には不審に思えてならないんだ」
 ロナルドは自分で灯油をかぶり、そこに火をつけ焼身自殺をはかったと見られている。発見されたのは納屋であったが、当日は嵐のような雨天、雨のため建物が全焼することなく残っていた。対するロナルドはまさしく黒こげの状態だった。
「自殺となるとおかしいことが二つある」
「どういうことだよ?」
「まず一つ目が、ロナルドがもがいた形跡がなかったということさ。納屋が全焼していればわからなかっただろうが、幸い建物の外郭は無事だった。ロナルドは部屋の中央に倒れて死んでいた。だがこれはおかしい」
「どうして?」
「全身を火に包まれ、もがかない人間がいると思うか? ロナルドには部屋を動き回った形跡がなかった」
「……それって、火を被った時、ロナルドは既に動けない状況にあったってことか?」
「私はそう思う」
 エドはじっと考えた。
 もしもロナルドが自殺でなかったとしたら、これは他殺だ。ロナルドが殺されたのだとなると、その後もテロが計画的に続いているのはおかしい。
「テロは、最初からずっと時限爆弾なのか?」
「ああ。爆発の規模も大体変わりはない。今までに残骸を回収できているものがいくつかあるが、作り手も変わってはいないようだ」
 ならば、ロナルドが首謀者だった場合も、最初から仲間が他にいたということになる。それは爆弾の作り手だったかもしれないし――爆弾がロナルド自身の手製であったとしても、作り方や機器の保管場所を知っている者がいなければ、引き続きテロが続いている理由を説明できない。
 ロナルドが他殺ならば、仲間内でのいざこざが最もあり得そうな原因に思える。
 しかしロイは続けた。
「自殺を否定するもう一つの要因は、君が先日司令部の前で見つけた女性だ」
「え?」
「彼女の名はマリア・クロムウェル。ロナルドの執筆活動を支援していた出版社の編集員だ。そしてロナルドの幼馴染でもあり、恋人でもあった」
 ロイが一枚の写真を取り出す。
 モノクロで髪の色がはっきりしなかったが、そこに写っていた女性は確かにエドの見た女性に似ていた。
「彼女はこれまで常にロナルドの潜伏先を知っていた。ところが突然連絡がつかなくなったそうだ」
「まさか――」
「ああ、このテロが始まる直前からのことらしい。そしてこの手紙がある日彼女の元に届いた」
 見せられたのは封書だった。宛名にマリア・クロムウェルの名はあるが、差出人の名前がない。
 中に入っていた手紙は一枚だけだ。ほとんど走り書きに近い、崩れた文字の手紙。
 ――リッキー・オレンジは飛び立った。
「これ……?」
「何も知らない人間が見れば、ロナルドが志を達成させたんだろうと勘違いしそうな一文だ。しかし、これを送られたマリア・クロムウェルはそうは思わなかった。と言うのも、リッキー・オレンジは出版済みの本の中でこそ飛ばないままだったが、本来ロナルドが執筆した生の原稿では飛んでいたらしい。ただし、主人公の手によってではなく、彼を迫害していた侵略者側の研究員の手によって、だ」
 少年の情熱を傾けた研究は侵略者に奪われた。少年は他国の軍に捕まり、リッキー・オレンジを完成させるまで生かされるのだそうだ。そして実際に飛行物体が完成した日が、少年の命日となった。
 出版段階で、さすがにこれでは軍から発禁本の指定を受けてもおかしくないということで改筆がなされ、現在の「リッキー・オレンジが飛ぶ日」に落ち着いた。
「マリア・クロムウェルは、編集者として当然本来の物語の結末を知っていた。彼女はこの手紙を読み、ロナルドはテロを計画した人間たちに協力を強要され、監禁されているのだと思った。その数日中にロナルドの訃報を聞き、いてもたってもいられなくなったらしい。反戦本を扱っている出版社の社員だ、よほど軍には不満があっただろうが……汚名を翻せるのは軍だけだと司令部へ出向いたらしいな」
 マリアの、司令部の門前で佇んでいた姿を思い出す。
 彼女はあの場所で葛藤を繰り返していたのかもしれない。軍部がロナルドをテロの首謀者と確定していないかどうか。訴えに耳を貸さず退けないかどうか。
「……それで、大佐はどう思うんだ?」
 エドは淡々と説明を終えたロイを見つめた。
 ロイは広がった全ての資料を一つの山に片付け、小さく息をつく。
「ロナルドはおそらく他殺だ。テロも彼の名を語った者たちの犯行に思える。だがどちらにも証拠がない」
「オレは何をしたらいい?」
「ロナルドがテロに無関係だという証拠を見つけてくれ。ロナルドの自宅の場所が我々に知れた今、軍服さえ着ていなければ、周辺を歩き回ってもテロ集団に警戒されることはないはずだ」
「テロそのものは?」
「次の実行予定日まであと四日ある。それまでに、こちらでも敵の本拠地を探ってみるつもりだ」
「本拠地? わかるのか?」
「ロナルドが無関係なら、彼のことを無視して、一からテロを起こしそうな集団を洗ってみればいい。イーストシティで頻発するテロだ、そう遠くに本拠地を構えているとは思えない」
 ロイの言葉に曖昧なものはない。指示は冷静で、エドに対する身内贔屓的な甘さは欠片も見えなかった。
 彼は変わらずエドを対等に見ていてくれている。もしも与えられた仕事をこなせなければ、他の相手と同じようにしっかり叱責もしてくれるだろう。
 一通り事件の説明を受けたエドは、改めて必要なことを確認した。
 ロナルドの実家の場所と、そこから最も近い駐屯地や駐在の場所、司令部への通信の仕方、電話交換手とのやり取りなど。さしあたって必要なことだけでも決して少なくはなかった。
 それでも頭に叩き込み、エドは早速資料を持ち椅子から立ち上がる。
「……もう行くかい?」
「うん。あんまり時間ないんだろ?」
「ああ。頼む」
「うん。あ、でも――」
 エドは申し訳なく彼を見た。
 今から自分が言うことは、おそらく我侭の域に入ることに違いない。わかってはいる――けれど、できることなら許してほしかった。
「一度、リゼンブールへ帰ってアルに会って来たいんだ。それでもしアルも一緒に来たいって言ったら、あいつにも手伝わせてやりたい。軍に無関係な相手に情報漏らせないっていうのはわかるんだけど……」
 ロイは何も言わなかったが、すぐに小さく笑みをこぼす。彼のそれはやさしい表情だった。
「国家錬金術師に一人くらい助手がいても、誰も不思議には思わんよ」
「……ありがと」
「礼には及ばない。だが――」
 そう、言葉を途中で切って息をつく。エドが首をかしげると、彼はもまた立ち上がり、手を伸ばせば苦もなくエドに届く近さまでやって来て、困ったような面映いような表情でぽつんと言った。
「君が行ってしまうと寂しいよ」
 不意を突かれた。
 エドは無防備に彼を見上げる。
「結局私は君の名を呼ばせてもらえないままだ。それで君が遠くへ離れてしまって、肩を叩いて呼ぶこともできないのに、私はどうやって君を呼び戻せばいいんだろう?」
「そ、そんなこと……」
 今更自信なさげな様子を見せるのはずるい。
 エドだって、本当に彼に名を呼んでほしくないわけではなかった。元々特に理由があって禁じていたものではないのだ。ただ彼がこだわっていたみたいだから、些細な意地悪のつもりだった。
「ふ、ふつーに……呼べば……いーだろ、何でも」
 困惑して答えると、ロイまで困惑ぎみの顔になる。
「だが私は君に嫌われたくはないんだ」
「べ、別に! 名前呼んだからって嫌いになんか……!」
「本当に?」
「ほ、本当に……」
 じゃあ、と、彼は改まって咳払いをした。
「――……エドワード」
 そうして呼ばれたそれは、自分の名とは思えないほど耳に心地の良い響きなのだ。しかし心地良すぎて却ってやばい。何を言われたわけでもないのに、次の瞬間、エドは真っ赤になる。
 もう振り仰げもしない。
「どうかしたのか……?」
 ロイまで焦ってエドを覗き込もうとする。エドは慌てた。顔を片腕で覆って、もう片方の手で彼の胸元を向こうへ押しやった。
「大佐。悪いけど。やっぱあんたはダメ」
「なぜ!」
「ごめん! 何ででもダメ!」
 ロイが愕然とたたずむのがわかる。それ以上間を持たせることができず、エドは素早く荷物をまとめ、逃げる準備を整える。
 ロイの自失状態が回復しないうちに司令官室のドアから身を滑らせた。そうして扉を閉めながら、精一杯の譲歩を言い渡すのだ。
「名前はダメだけど他なら何でもいいから。大佐が呼ぶんなら、どんなでも……ちゃんと返事するよ」
 彼がどんなふうにその言葉を聞いたのかわからない。
 エドは脱兎のごとく司令部をあとにした。
 足と呼吸が限界を思い出したのは、イーストシティの駅が見えたことがきっかけだった。
 加減も考えずに走ってしまったので、激しく息切れを起こしている。少しずつ足取りを歩みに戻し、エドは深呼吸を繰り返した。
 今朝の町は旅立ちの匂いがしていた。光と共に西へ過ぎ行く時間は、止まるな走れと陽を見る者を追い立てる。
 じっとしてなどいられなかった。エドは呼吸もおぼつかないまま、再び駅に向かって走り出した。
 
 
02
 硬いシートに身を沈め、レールの軋む音を聞きながら、いくつの駅を見送った頃か。
 見覚えのある麦畑が見えてきた。それから広大な緑の牧場に、転々と白く映える羊の姿。
 エドは駅に到着するのも待てず、いち早く揺れの大きい開閉口に立つ。手動のドアを開き、強風に煽られながらも外へと頭を出し、見る見る近くに迫るホームを見つめた。
 駅とは言っても、草むらに辛うじてコンクリートの高台を作ったような、標識すら目立たない本当に閑散とした駅なのだ。
 しかしその日は違った。
 ホームにじっと立っている、大きな人影。
「……アル……?」
 エドはその姿を見た瞬間、胸が締め付けられる心地がした。
 汽車が減速する間すらもどかしく、ホームの端が見えるや否や飛び降りる。さすがに転びそうになったが、たたらを踏んでどうにか堪えた。
 とにかく駆け寄る。会わなかったのは、たったの一週間だったにも関わらず、ひどく懐かしい気持ちになった。
「――アル!」
 大の大人よりも屈強な甲冑姿。けれども、エドの目には所在無く立つ子供の姿に見えてならない。
「おかえり、兄さん」
 その声だって、空洞の金属に反響しているのだろうが、いつも震えているように聞こえるのだ。
 やっと間近で鎧の面を見上げ、エドは笑った。
「……ただいま。元気にしてたか?」
「兄さんこそ。最初に連絡がきただけで、今日までずっとおざなりなんだから。心配したよ」
 ちなみに今日帰るという連絡はエド自身はいれていなかった。
 こんなふうに気を回す人物は一人だけだ。企み事好きな男の顔を思い出し、つい苦笑が漏れる。
 アルフォンスに話すべきことがたくさんある。
 動き出す汽車を背にホームから降りた。
 草の海を両断する、真っ直ぐに延びた道を二人で少しずつ歩く。
 村までは遠いが、エドが一週間で経験したことを語るには、帰り道全部の時間を使っても足りない。弟を丘へと誘った。村の最も外れに位置する、見晴らしの良い場所である。
 道すがら、ポケットに突っ込んでいた銀時計を取り出し、彼の手に放る。
「資格証明」
 エドが胸を張ると、アルフォンスも笑った。
「……良かった」
「うん。これで何とか力ができた」
「ううん。そのことじゃなくって」
 良かった、彼はもう一度噛み締めるように呟く。
「兄さんが嬉しそうだから」
 エドには、しばらく弟の言葉の意味がわからなかった。
「そりゃ嬉しいさ。資格取るの、けっこう大変だったんだぞ? オレ大総統にまで会っちゃったよ」
「ふぅん……」
「あとはー、一週間待ち時間があったから、軍の建物とかあちこち案内されてさ。会う人間会う人間全員初対面だもんな、こっちも気遣うっつーの」
「うん……」
「大佐にもからかわれまくるし」
「うん……」
 少しの間、笑ってエドの話に相槌を打っていたアルフォンスが、あのね、と、とっておきの秘密を打ち明けるように言った。
「僕が良かったって言ったのは、兄さんが後悔してないみたいだったから」
「そりゃ……」
「ううん。一週間前の兄さんは、すごくつらそうだった。資格なんか本当は欲しくないんじゃないかって……僕にはそう思えた」
 エドは鎧姿の弟を驚いて見上げる。
「僕がムリさせてるんじゃないかって」
 見抜かれている。さすが兄弟、思わず失笑した。
「確かにムリ、してたかもな。でもお前だけのためにじゃない、自分のためにもムリしてた。それで、今のオレはお前にどう見える? 今のオレもムリしてるように見えるか?」
「ううん。すごくすっきりした顔してるよ、イーストシティで魔法でもかけられてきたみたい」
 ならば魔法使いの名はロイ・マスタングだ。
 エドは笑って、彼方の高台に見えた一本杉を振り仰いだ。雲の欠片が高い空を翔けていく。一週間前まで二人を拒むように思えていた風すら、昔のやさしさを取り戻していた。髪を頬を撫でる温度は心地良いばかりだ。
 村はこんなにやさしい場所だった。
 嫌いにならずに良かったと今心底思う。
 一本杉の下で、いつかのように二人で草地に寝転んだ。
 エドは、この一週間の間に起こったことを、ひとつずつアルフォンスに伝えた。
 たくさんの出会いがあったこと。外にいて見えていた軍部と、実際に見た軍部の違い。イーストシティの町の様子。ロイのこと、ハボックのこと、ヒューズのこと、ジョセフィーヌやチャーリーのこと、リッキー・オレンジのこと――テロのこと。
 アルフォンスは空を見上げたまま、エドの話にじっと耳を傾けていた。
「多分オレは子供ってだけで得したこともいっぱいあった。でも周りにいた軍人たちは、そういうの気付かせないような大人ばっかりで……正直言ってかなり救われた。アルがどう思ってたか知らないけど、少なくともオレは、村から出る前は、世間はもっと悪いやつで溢れ返ってるんだと思ってた。軍人はみんないけ好かない性格してるんだろうと思ってた。一番得意にしてた錬金術で最悪のことしでかして――あれはやっぱり罪だったと思うから――これから起こることだって罰になるような、嫌な出来事ばかりなんじゃないかと思ってた」
 でも違った。エドは言葉を空に吐き出す。
「オレは資格を手に入れて、金と力も手に入れて、一週間前にお前に話したように、いつでもこの村から出て行けるようにはなったけど……でも、あの時みたいに、ここから逃げたいって理由で飛び出したくはないんだ」
 うん、アルフォンスが小さくうなずいた。
「僕も……村にいると時々すごくつらいけど、でもそれが理由で逃げるのは嫌だってずっと思ってた」
「かっこ悪いのはヤだよな、オレも。お前も」
「うん。どうせならかっこ良く行きたい」
 エドは上体を起こし、彼方の空を見据えて言った。
「なぁアル。オレはこれからすぐ軍の手伝いでイーストシティまで戻ろうと思ってる。お前はどうする?」
「僕も行くよ!」
 アルフォンスは跳ね起きて主張した。エドは軽く笑う。
「うん、オレもお前に来てほしい。オレが見てきたものを、お前にも見てほしい。それで、もしお前もやっぱり外に行きたいって思うんだったら、あの夜に話した通り、オレたち世界の果てまで旅しよう」
「果て……まで? 本当に?」
「本当に果てまで。元々の目的が目的だから、楽しいことばかりじゃないのはわかってるけど、きっと楽しいことだっていっぱいある」
「……それ、目的にしてもいいのかな?」
「いいだろ? 深刻なのは疲れたよ。もうすこし楽に行こう、オレたち」
「楽に……行くの?」
 アルフォンスが意味を知らぬ言葉を言うように復唱する。エドはうなずき、それからたくさんの雲が浮かぶ空をもう一度見上げた。
 青く晴れた空。
 それでもこうして見上げていると、まるで雨のように細かい粒となった思い出が、己とアルフォンスの頭の上に降り注いでいるのがわかる。
 今はどの思い出もほろ苦い。楽しかったことも、嬉しかったことも、どんなに明るい記憶も、全てが禁忌の夜に繋がっている。記憶の雨粒は針さながらに心を刺し、傷つけ、鈍らせ、弱くする。
 この雨から雨宿りすることは、果たして逃げ出すことと同意義か。
 答えは否だと、エドは信じる。
 ひとつ息をつき立ち上がる。服についた草を払って、眼下に広がる懐かしいリゼンブールの村を見下ろした。
「――さて。これ以上時間つぶすのもまずいな。ばっちゃんとウィンリィに会ってから行くか!」
 エドが笑うとアルフォンスも立ち上がった。
 
 
03
「そう……。もう軍の手伝いするんだ」
 いつもは明るいウィンリィの笑い顔が、その時ばかりはひどく痛々しいものに見える。エドは続けようとした言葉を飲み込んだ。慰めなど何の役にも立たない。
「じゃあすぐ出ちゃうんだね? 何だか慌しいよね、この前まで一日中だって遊んでられた気がするのに……」
 長い髪が彼女の表情を隠して見えなくする。
 エドは困ってアルフォンスと顔を見合わせた。その向こうでは、ピナコが煙管を燻らせながら工具を動かしていたが、老女もまたこちらを向く素振りは見せない。
「……とりあえず、事件が終わったらすぐ帰るよ。今度のは別に正式な仕事じゃなくって、オレが手伝いたいって言っただけだから」
「軍の仕事を?」
「軍って言うか……どっちかって言うと、知り合いが困ってるから手伝いたいって感じなんだけどさ」
「でも、その人、軍人だよね」
 エドは黙る。沈黙に焦ったようにアルフォンスが彼女の名を呼んだが、それだけだった。しばらくはピナコの作業する、鋼を削る甲高い音ばかりが響いていた。
「……訊いてもいい?」
 ウィンリィはうつむいたまま呟く。
「あんたたち、やっぱりこの村から出てっちゃうの?」
「ウィンリィ……」
「あたしだって気付くよ? ずっと何か考え込んでたじゃない。眉間に皺寄せて、苦しそうな顔して」
「…………」
「出てくの?」
「……うん」
「そ」
「うん……」
 エドもうつむく。
 再び重い沈黙が落ちようとした。その時だった。
「そっか!」
 唐突に顔を上げたウィンリィは笑っていた。
「聞いた、ばっちゃん! このコたち出てっちゃうって。やっぱりうち新しい電話必要だよ!」
 ピナコがのんびりと顔を上げる。
「電話つけたからって連絡まめに入れるような相手じゃないと思うがねぇ?」
「いいの、ないよりマシ! それにエドたちのことだよ? 絶対すぐに機械鎧壊して帰ってくるに決まってるもん、前もって連絡入れさせないと、シリンダーとかネジとかなくなってたら大変だよ!」
「そうだねぇ」
「あ、そうだ! エド、あんた、国家資格取ったんなら支給金がいっぱい入るんじゃなかったっけ?」
 突然話を振られ、エドはおっかなびっくりでうなずく。ウィンリィは声を弾ませて言った。
「ばっちゃん! 電話、エドに買ってもらおうよ! 今いっちばん性能の良いやつ、中央で仕入れさせてさ!」
「コラ、待て! 中央ってお前……っ!」
 エドが何を言いかけてもお構いなしだ。ウィンリィはここぞとばかりに早口で注文をつけ、ついでにそれをメモに書き写し、エドの額にベン!と貼り付けた。
「これでヨシ! 次帰ってくる時までに仕入れといてよ、なかったら家に上げてやらないからね!」
「おい、ウィンリィ!」
「聞っこえませーん! ばっちゃん、あたしディビスおじさんとこ行って、修理出してた工具もらってくる!」
「ハイよ」
「じゃ、エドとアルもいってらっしゃい!」
 彼女は台風のように家から飛び出していった。エドはそれを呆然と見送るのだ。
 ふと、ピナコの笑い声が聞こえた。
「電話の一台くらい何だい。あの子の泣き顔見ずに済むんなら安いもんだろ?」
 ウィンリィの笑い顔を思う。
 ウィンリィは両親を内乱で失っている。本当は電話のことなどよりもエドにぶつけてしまいたい感情があったに違いない。それでも何も言わないまま、送り出そうとしてくれた。
「……うん、わかってる」
 エドは小さくうなずいた。
 ピナコが煙管をくわえ、気をつけておいき、一言だけ告げて作業のために背を向けた。
 
 駅までの道を再び歩いている間、アルフォンスが噛み締めるように言っていた。
「ウィンリィもばっちゃんもやさしいよね。僕は今まで二人に何かしてあげられたのかなぁ……」
 いつも人に支えてもらうばかりで、何ひとつ返せるものがない。
 もっと力のある人間になりたい、エドは思う。
 せめて自分を支えてくれる人だけでも、傷つけないでいられるように。