君追夜間飛行

01
 夏が近づこうとしている。
 元々雨の少ない国である。湿度は低いし、夜になれば気温がぐっと下がるので、エドは一年を通して長袖の上着を愛用していた。ただし上着を着ていられるのは風通しの良い外でのことだ。小さな窓しかない汽車の中では薄着になる。
 初夏とは言え立派に夏であった。上着を脱ぐことくらい汽車に乗れば当たり前だったのだが、今日ばかりはやめておけば良かったと後悔する。
「……ふぅん、本当に機械鎧なんだ」
 真横から聞こえた声に、アルフォンスが肩を震わせたのがわかった。エドは無反応に徹した。
「そんな痛そうなもん良く付ける気になったなぁ。ま、それで国家錬金術師の資格が買えるんなら安い方なのかも」
 窓の外には見覚えのある景色が流れ始めている。イーストシティも目前、約一時間の汽車の旅だった。その間、エドとアルフォンスは、折につけ聞こえてくる悪意混じりの声をずっと無視し続けてきた。
 声の主は今、通路を挟んだ向かい側、四人掛けの座席を一人で独占している。
 カイ・リズマン。
 褐色の肌色をした青年だ。くせのある金髪を後ろで束ねている。いっそ女性的と言えるほど繊細で整った面差しに、華奢な身体付き。外見的には麗人に違いないのだが、いかんせん彼の眼差しや笑い方、言葉遣いは、内面の歪みを如実に表して毒々しい。
 聞いた話によれば、リズマンは元軍人で、国家錬金術師を目指したこともあるが、今は軍事専門の情報屋に落ち着いているのだとか。彼の片足は義足だ。早過ぎる退役には身体的な理由もあったのだろう。
 エドがリズマンについて知っていることは少ない。もっとも、これから知り合うつもりも毛頭なかった。
 彼は以前、エドに薬を混ぜたコーヒーを差し出した。エド自身に含むところがあったわけではなく、ロイへの中てつけでそうしたらしい。ロイとリズマンの関係は元上官と元部下であるようだが、リズマンは一方的にロイを嫉んでいる。
 必然的に、ロイと親しいエドもリズマンにとってはおもしろくない存在だ。エドも人に薬を盛るような輩と関係を持ちたくはなかったので、顔を合わせようとも声を掛けられようとも完全無視の状態が続いていた。
 それでも、こうして彼と隣り合わせでいるのには、わけがあった。
「ねぇ、そろそろ僕から行き先聞き出した方がいいんじゃないの? まぁキミらが僕とずっと一緒にいたいって言うんなら別にいいけどさぁ」
「…………」
「ねええー、黙ってるのも限界なんじゃないの? 僕もつまんないって、適当に相手してくんないとさぁー」
 今回の旅で、リズマンはエドたちの案内人に指名された。もちろん指名したのはエドではない。その辺の顔見知りがいい加減な人選でそうしたのであれば、断固反対したところであったが、今回ばかりは口答えのできぬ相手である。
 リズマンを指名したのは、キング・ブラッドレイ、この国の軍事最高責任者であった。
 かの人物が何を考えてそうしたのか、エドには全く意図が読めない。だが数日前、リズマンをエドとアルフォンスに引き合わせたのはヒューズであったし、ヒューズはしっかり大総統の署名の入った指令書も携えてきた。
 疑う余地はないのだ。もちろん、逆らう余地も。
「……そろそろ着くな」
 エドはそっとアルフォンスを窺う。実は汽車に乗って以来初めての兄弟での会話だ。
「そうだね、やっと着くね」
 さすがにアルフォンスの声にもいくらかの疲れが見える。
 リズマンの前でできるだけ口数を控えることは、弟と二人で話し合った結果でもある。
 いくら大総統からの指令とは言っても、リズマンに頼るも頼らないもこちらの自由には違いない。
 指令書の内容は人探しなのだ。
 どこから漏れたのか、ブラッドレイはエドたちが黄金の林檎事件を調べていることを知っていた。そこでまず情報を寄越した。事件は学生が中心となった詐欺として扱われていたが、その学生たちが共通して接触をはかっていたのが、スチワート・アップルビーという名の学者らしい。
 ブラッドレイは、エドたちの調査を軍で黙認する代わりに、この学者を探し出し確保しろと言ったのだ。
 察するに、軍の内部でも、事件の取り扱いについて意見の対立があるようである。殲滅と究明と――大総統の地位にいるブラッドレイ自らが秘密裏の指令だと宣言したくらいである。何らかの思惑が随所で渦巻いているのだろう。
 ともあれ、スチワート・アップルビーの名を得たことは前進であった。イーストシティの町も近い。今夜は身体を休め、明日から本格的に動き出すつもりでいる。
駅に着けばリズマンとも別行動できる。早く楽に息ができる場所に行きたい――エドはささやかな願いを胸で呟き、アルフォンス共々、苦い息をついた。

 そもそも、黄金の林檎の存在が、軍部内で奇妙な噂になったのは一ヶ月も前のことである。
 黄金の林檎は死者の心臓になる――
 先にも触れた通り、そんなうたい文句で民衆を扇動する、陳腐な詐欺事件として取り扱われていた。
 金色のペンキで塗装した林檎を通常の二十倍の価格で販売する学生集団がいたのだ。曰く、金色の林檎に祈れば死者をよみがえらせることができる。いくら二十倍の価格と言っても林檎であるから、設けも笑い話にしかならないほどの金額だ。しかし軍部は火車の勢いでこれを処理した。
 ロイの話によると、上層部はこれを宗教と判断し、早い時期での根絶を目指したのではないかとの話だった。
 イシュヴァールの例から言っても、宗教と名のつくものは今の軍にとって統治制度を揺るがす天敵だ。もはや思想云々の問題ではなく、人がそこに宗教を発見すること自体を恐れている。だからこそ、この事件に興味を持っただけで降格処分を受けた軍人もいた。黄金の林檎に対する軍の対応は過敏を極めたと言ってもいい。
 だだし、エドの場合、そういった事件の大局はむしろどうでも良かった。
 注目すべきは、ペンキで塗られた果実と一緒に、同じ塗装を施された木が発見されたことだ。
 発見次第焼き払うことが軍の方針だったらしいが、任務に当たった多くの軍人が不思議な現象を目撃している。
 炎に包まれた木が人の姿に変わったとか、倒れる瞬間に人の声で悲鳴を上げたとか。まるで元は人間だったものが木として存在したような言い草ではないか。
 錬金術の匂いがした。
 一度そう考えてしまうと別の可能性が考えられなくなった。だからエドは事件を追跡することに決めたのだ。
 もしも錬金術で木と人の細胞組織を合体させることに成功した人物がいたとすれば、その人物はどれほどのノウハウを蓄えた相手かわからない。上手くすれば人体錬成についての知識を持っていてもおかしくはないとエドは思う。
 知識を得られるのなら事件に深入りすることでの降格処分など安いものだ。
 ロイからは慎重でいろと忠告を受けたが、エドにもアルフォンスにも迷いはなかった。
 そしてブラッドレイからの指令が来た。
 軍上層部の思惑が絡んでいようと、逃したくないチャンスだった。エドとアルフォンスは、人体錬成の知識を求め、この命令に従う決心をした。

 汽車がイーストシティ駅に到着すると、乗客がまだ動き出さぬうちから弟を促し立ち上がる。
 リズマンが呆れ返ったように溜め息をついた。
「おい、こっちには一言もなし? キミらが明日からどうするつもりか、僕には聞く権利があるはずだけど?」
「明日の昼に駅の前で待ち合わせりゃいいだろ。言っとくけど、別にオレらは、あんたがいなくなろうがどうしようが不自由しない」
 エドが素っ気なく告げれば青年は鼻で笑った。
「ずいぶん態度が大きいよなぁ。誰の命令でこうしてるのか覚えてないわけじゃないよな?」
「別に。人探しを頼まれただけだ」
「行き先は僕に訊くしかないけどね」
「あんた、ずいぶんオレらなめてるな。相手の名前さえわかってりゃ大抵のことは調べがつく。確かにあんたがいれば時間は少なくて済むかもしれないが、それだけならいなくても一緒だろ。と言うか、いない方がオレの気分が良い」
 リズマンは不機嫌顔でエドを睨んだ。
「あ、そ。そりゃ残念だったなぁ。明日までの自由行動は僕も賛成したいところだけど、そうもいかない、しばらく一緒に行動させてもらうさ、キミらが行く場所全てにね」
 思わず黙ったエドに微笑んで見せ、彼も席から立ち上がる。
「僕も遊びで一緒にいるわけじゃない。知らないなら言っておくけど、僕が命令されたのはキミらの監視役だよ、案内役じゃない」
 予期していたことだった。
「行き先は南部のベルーネ。一刻でも早く別れられるよう教えといてやるよ」
 束の間睨み合い、すぐに視線を外した。
「アル、行くぞ」
「うん……」
 リズマンを振り返ることはしなかった。彼は片足が義足で立ち上がりの動作が遅い。ついて来たければ勝手にすれば良いと思った。下車を待って戸口で順番待ちをしている人波に割り込み、何とか距離を開ける。
「このまま司令部に行くの?」
 アルフォンスが小声で訊いてくる。
 監視のついた状態でロイに会うのは考えものだったが、そうしないことには、わざわざイーストシティまで来た意味がなくなる。エドは同じく小声で返した。
「何とか大佐と二人で会いたい。とりあえず司令部に行って、リズマンに気付かれないように約束取り付けるしかない」
「うん。僕も協力する」
 ちょうどやり取りを終えた頃に目の端にリズマンが映った。兄弟は何食わぬ顔で無言のまま駅を行く。


02
 イーストシティは東方司令部を中心に栄えた町だ。駅から司令部までの道筋は、ほぼ町の中心地となっている。整備の行き届いた石畳の大通りには、宝飾品や衣類を扱う個人経営の店が多く建ち並んでいた。
 この大通りとは別に、国土を横断する川沿いの一画では、魚屋や肉屋、八百屋などが寄り集まって市を作った場所があった。
 市付近の水辺は、初夏になると、目にも鮮やかな黄色い花房で彩られる。一般的にラバーナムと呼ばれるこの樹木は、町を上げての夏祭りのシンボルにもなっていた。
 リズマンのことに気を取られてすっかり気付くのが遅れてしまったが、大通りに並ぶ店先でもラバーナムの花を使ったリースが飾られている。
「……もしかしてこの週末がお祭りなのかも」
 アルフォンスの呟きでエドも思い出した。この時期にイーストシティに来ると東方司令部に報告を入れた時、ロイも言っていたのだ。時間が合えば一緒に市を回ってみるかと、本気か冗談かわからない誘いも受けた。
 もちろん今の状況では――リズマンは五メートルも離れていない場所をついて来るし、何よりロイと確執のある相手だ、ロイ本人が誘いを覚えていたとしても、一緒に歩き回ることは難しい。
「…………」
 エドはまた溜め息をついた。
 どうするかなぁと、後ろからの足音を聞くにつけ思う。
 思い出すのは、指令書と一緒に同封されていた手紙である。おそらく大総統直筆のものであろうが、気になる一文があったのだ。
 ――貴君が味方と信じる者に限り、任意での協力要請を認めるものとする。
 極秘任務と記しておきながら、これ見よがしに付け加えられていた。エドが誰かに指令を受けたことを話せば、漏れなくその人物も一蓮托生に責任を負うということだ。
 誰かを。
 ――誰を?
 微妙な引っかかりを感じる。リズマンを案内につけたことにしても、裏を考えずにはいられない。秘密裏とは言いながら、この指令は実は、黄金の林檎に興味を持った者をあぶり出す上層部の策略ではないのか。
 エドの周りであれば、特にそう――ロイを。
 考えすぎならばいい、大総統がロイに含みを持っているという噂は聞いたこともなかった。
 しかし、だ。
「……なぁ、アル。やっぱり何とかあいつ巻くしかない」
 エドは唇を動かさないよう気をつけ、話していることを悟られないために息だけで言う。
 アルフォンスもひそめた声で答えた。
「でも僕たちが東方司令部に向かうことは知ってるよ。兄さんが大佐と会うことも知ってる」
「……隠せば疑われる、か」
「うん」
 巻き込めばロイにとっては迷惑極まりない状況だろう。
 エドが考え込んだ時だ、背後から声がした。
「……ねぇ、前から思ってたんだけどさぁ?」
つい反射的に振り返ってしまったのだ。何を話しかけられても無視するつもりでいたことを思い出しても後の祭りだった。
リズマンは整った容貌で嫌味ったらしく笑ったものだ。
「キミってマスタング大佐の愛人か何か?」
「あ、い……っ!」
 意味を理解するや否や、一気に頭に血が昇って一気に足下まで下がった。アルフォンスが横で「わー……」と、呆れたような感嘆したような曖昧な声を上げる。
「あのなぁ!」
「――ああ、別に真実が聞きたいわけじゃないから、言い訳は遠慮しとく。そうじゃなくってさ、僕が言いたいのは、だったらキミもかわいそうにってこと。大佐はそういうの簡単に切り捨てそうだから。いや、むしろ利用しそう? 大体あの人の立場にいれば、捨てられるものじゃないと傍に置くには邪魔だしね。外面に騙されてると痛い目見るよ、あんまり信用しない方がいいんじゃない?」
 エドに言うにはあまりにも的外れな嫌味だ。呆気に取られるよりも不思議で仕方なく、相手の笑いながら睨みつけるような表情を観察するうち、ふとそれに思いつく。
 リズマンは、ロイのことを好きなのかもしれない。
 これは利用できると思った。あまり性格の良くない作戦だが、体裁などかまってはいられない。要は、エドとロイが渇いた関係であると思わせれば良いのだから。
「……だから?」
 落ち着いた声を作ってリズマンを挑発する。
「切り捨てられるような相手だから向こうも楽しめんだろ」
 エドが吐き捨てると、彼はさも不快げに顔をしかめた。
「ふぅん……本当にそういう関係なんだ?」
「勝手に勘ぐれば? 別にオレは困らない」
「大佐は困るんじゃないの? 大体、キミら今から応援頼みに行くんだろ。僕はもちろんそれを上に報告するよ、その時になって関係ありませんって論法は通らない」
 かかった。エドは内心で舌を出した。
「誰が応援頼みに行くっつったよ?」
「――…………」
「言ってもどうせ真剣に相談に乗るかよ、あんたも言っただろ、こんな任務、面倒で、聞いた途端に鬱陶しがられるに決まってる」
 リズマンが奇妙なものでも見る目でこちらを見た。
 ずる賢い猫のような顔で笑ってやる。
「あんたが言ったんだろ? オレは大佐の何だって?」
「…………」
「せっかく東部まで戻ってきたんだ。キスのひとつくらいさせろよ、邪魔すんな」
 
 
03
 あそこまで言えば、さすがについて来る気も失せるかと思ったのだが。
 ロイへの面会を申し入れ、東方司令部内の一室に案内される間、臆面もなく同席しようとするリズマンの姿に、エドは途方に暮れた。
 見かねたアルフォンスが、面会前に用を足しにトイレに行くと言うので、こっそりメモ書きを作ってくれるよう頼み、結局三人足並みを揃えて個室に入る。
 やはりあんな真実味のない話では騙せなかったのか、それとも本気に取りすぎて対抗心を燃やされたか。
 内容が内容だっただけに、エドはほとほと後悔していた。状況は馬鹿馬鹿しく複雑になった。先に事情を察してくれそうな顔に会えれば良かったのだが、こんな時ばかり馴染みの軍人は一人も現れないのだ。
 アルフォンスに頼んだメモを手の中で小さく折り畳む。中に書いてあるのは、今晩ロイと改めて会うための待ち合わせ場所と時間だ。問題は、これをリズマンに発見されず、いかにロイへと渡すことであるが――
 考えている間に個室の扉が開いた。
「……ずいぶん変わった組み合わせでのお出ましだ」
 ロイである。
 やわらかい口調と澄ました笑顔は、腹が立つほどいつも通りの彼だった。少しは不審を訴えるとか、驚きを露にするとかしてくれれば話も展開するものを、ロイは泰然とした笑顔のまま、エドとアルフォンスとリズマン三人が並んだ向かいの席に座る。
 そして台の上に肘をつき、両手を組み合わせて沈黙。話題を振る素振りもない。
 嫌な汗が背中を湿らせるのを感じた。今の状況をロイに伝える手段が思いつけないのだ。
「ええと……げ、元気だったか」
 苦し紛れに言ってみた。ロイは軽く笑うだけで相変わらず沈黙を選んだ。エドは心の中で助けろと悲鳴を上げる。いつもはこちらが黙っていても勝手に喋るくせに、今日に限ってなぜ黙るのか。
 結局口火を切ったのはリズマンである。
「僕のことは構わずにどうぞ。席外してあげたいけどそうもできないし、再会のキスでもセックスでも勝手にしたら?」
 一瞬ロイの笑顔が引きつった。それでも全否定の前に、視線でこちらへどうなっているのかと問う様子に、エドも命拾いする。
 目の端にはリズマンの横顔が見えた。やるならやってみろと言わんばかりのものだ。
 エドは覚悟を決めた。ロイならばきっと話している間に状況を読むだろう。
 とにかく気合も新たにふんぞり返る。
「――したくてもできねーんだろ、お前らジャマ」
「そ……そうだよね、ゴメン、兄さん。リズマンさん、五分だけでも外に出ませんか?」
 すかさず援護に回る、兄思いの弟には頭が下がった。しかしリズマンは動かない。
「キミだけ出たら? 僕はここにいる」
「ジャマだっつってるだろーが!」
「僕は構うなって言ってるんだよ、置物だとでも思えば?」
「そんなデカイ置物があるか!」
「リ、リズマンさん、三分だけでも」
「うるさいよ、キミ」
「お前、アルに態度悪いぞ!」
「キミもうるさいね、さっさとやったら? それとも愛人だって言うのは口先だけ?」
 これはやはり騙されないという意思表示なのか。いっそ嘘だったと告白してしまえば楽になったのかもしれないが、エドの負けん気が降参を許さなかった。
 リズマンが目を逸らした隙に、小さく丸めていたメモを口の中に入れる。
 そして椅子を蹴飛ばして席を立った。勢いのまま、エドは向かいに座った男の胸倉を掴み引き寄せるのだ。
 瞬間、かち合ったロイの目が素で驚いていた。
 歯のぶつかる音がしそうなキスだった。
 は、がねの?
 近い距離で男の唇が動く。エドは火照る頬を誤魔化し、くわえていたメモを一生懸命相手の唇に押し込む。
 そろと身を離せば、片方の手のひらでゆっくりと口許を覆うロイ。
 エドは長く視線を合わせていられなかった。
「じゃ――じゃあな、大佐。しばらく会えなくなると思うけど、元気にしてろよ」
 声が裏返りそうだ。だが、動揺の浮かぶリズマンの横顔を見れば、弱い素振りは表に出せない。何とか言い切って、こちらも茫然としているアルフォンスの肩を叩く。
「い、行くぞ、アル。もう用は済んだ」
「う――うん、行こう……」
 皆でガタガタと立ち上がる。必要以上に音が立つのは、誰もが衝撃を受けている証拠でもあった。リズマンまでもが、いつもの険のある態度が嘘のようにふらりとついて来る。エドにしても足が震えていた。実は家族以外とは初めての行為だったなんて誰にも言えない。とにかく結果オーライだ、努めて自分に言い聞かせるしかなかった。
 ところが最後になって――元々エドをからかうことにかけては恐ろしく天才的な某佐官が、楽しげに呼び止める。
「……鋼の?」
 個室の戸口だった。もう半歩進んでいれば、聞こえないふりだってできたのに。
「愛してるよ」
 リズマンとアルフォンスがぎくりと身を竦ませた。
 エドは恥ずかしさで泣きたくなったが、どうにか笑って振り返るのだ。
「オレもだよ」
 ちくしょー、バカヤロー、あとで絶対シメてやる!
 エドの顔に書かれた文字を正確に読み取ったはずの男は、しかし、ただただ人の悪い様子で綺麗に微笑んだ。
 
 
03
"ラバーナム・ゲートで午前二時に"
 待ち合わせの時間が迫っていた。息を殺し壁越しのリズマを探っていたエドとアルフォンスは、掛け時計で時刻を確め、互いにうなずき合う。
 二人の部屋には、寝台が二つ。その片方は、先ほど兄弟二人がかりで作った即席のエド人形が占領している。
 とりあえずぱっと見だけでも誤魔化せるように、人形には頭と胴体の他に、腕っぽいものと足っぽいものをつけておいた。材料は枕にシーツにカーテン、その他諸々。こんな時にも錬金術は便利だった。
 エドは靴を脱ぎ、小脇に抱え、窓に足をかけて弟を振り返る。
「あと頼む」
 口の動きだけで言うと、指でのOKサインが返ってきた。
 深呼吸をして窓から忍び出る。
 隣室にはリズマンが宿泊している。一応、壁越しにベッドが軋む音を確めてから出てきた。リズマンは眠ってくれたのだと信じたかった。
 石畳の地面に降り立ち、裸足のまま身を屈めて数歩。
 宿の窓から完全に死角になって、エドはやっとまともに立ち上がり靴を履いた。
 通りは、ところどころに街灯がともっているだけで、飲み屋ですら看板を下ろしたあとだった。人けもないし、町自体が眠りについている。足を踏み出せば靴音が嫌に響いた。エドは忍び足で歩みを進めた。
 ロイに指定したラバーナム・ゲートというのは、町の商人たち主催で行う夏祭りで中心地になるはずの場所だった。と言っても出店が立ち並んだりするわけではない。道を通り抜けることで花の美しさを楽しむ場所なのである。
 ラバーナムは、大きなもので七メートルほどの高さになるマメ科の木だ。見かけは黄色い藤のように見えるが、木自体は蔓状ではないし、その花が散ったあとにできる種子は毒を持っていたりもして、藤の花とはいささか趣を異ならせていた。
 この初夏の時期、黄色い花房がいくつも垂れ下がる様は壮観だ。ラバーナム・ゲートとは、道の両脇からこの枝がアーチ状に重なった場所で、満開の時分に通り抜けようものなら、視界一面が雨だれさながらの黄色の花房でいっぱいになる。
 待ち合わせ場所を考えた時に、一番最初にそこが頭に浮かんだ。案外、自分は本気で市を見て回りたかったのかもしれなかった。
 ロイを思えば、たちまち孤独が悔しくなる。宿屋から充分離れたことを確認したエドは、足音を消すことを止めて駆け出した。
 
 川沿いの道は遠目に見てもうっすら黄色い。
 ゲートと思しき、最も木が密接して生えている場所も黄色一色だ。ぽつぽつと街灯の滲む場所などでは、花自体が光って夜を照らしているようにも見える。
 息を切らしながらゲート内に分け行ったエドは、束の間、前方に延びた天然の天蓋に見惚れた。頭上から下がった幾千もの花房は、見事としか表現がなかった。
 その道の先、ひっそりとたたずむ人影が見える。
 真夜中であるのに男は軍服を着ていた。一度も自宅に帰らなかったのかといぶかしんで、すぐに思いなおす。相手が夜勤をしている場合など、約束を取り付ける時に頭に浮かばなかった。
 思わず足が速くなった。
 ロイもこちらに気がつき、淡く笑う。
「思ったより早かったな。リズマンは騙せたかい?」
「ああ、なんとか……」
 そんなやり取りよりも謝ろうと思ったのだ。ところが途端に視線が外れ、麗しく輝くラバーナムの天蓋に移るのだ。
「ここはいるだけで気持ちが良い。息抜きにはぴったりの場所のようだ」
「――……そう、か?」
「ああ。君に来いと言われなければ、今年は来なかっただろう。機会をくれてありがとう」
 言外に呼び出しを気にするなと言われた気がする。都合の良い解釈だったかもしれないが、ロイが謝罪を必要としていないことは伝わってきた。
 エドはほっと息をつき、改めて彼を見上げた。
「……今、時間大丈夫なのか?」
「ああ、支障はないよ」
 少し歩こう、ロイが言うので二人揃って歩き出す。
 古い石畳の小道だった。磨耗して砕けた石の隙間からは小さな草花が覗いている。草が音を吸収するのか、他よりも靴音が響かない。話さなければひどく静かだ。
 ただし、同じ静けさでも昼間の居心地の悪い沈黙とは全く違う。その昼間に何があったかを思い出したエドは、こっそり頬を赤くした。
「……大佐」
「ん?」
「昼間のことだけど……」
「ああ……。君にしてはずいぶん思い切った手段をとったな、おもしろかった」
「あんた最後に悪乗りしただろ」
「本当のことだよ?」
「聞いたことねーよ。あれは悪ふざけだった、謝れ」
「スミマセン」
 あっさり謝る男に気が抜けた。しかも微笑みながらの一言だ。昼に言われた時は殴ってやろうと思ったのに、こうして話していると何に怒ったのか忘れてしまう。
 結局エドも笑った。
「でも話合わせてくれて助かった。おかげで、あれからリズマンも静かになったしさ。ねぇ、あいつって、大佐のこと好きなんじゃないの?」
「さぁ? 言われたことはないよ」
「知らんぷりしてるだけだろ?」
 ロイが苦笑う。
「どうだっていいじゃないか。そもそも、あんなことまでして私を呼び出したんだ、君の話は別にあるのだろう?」
「まぁね、そうなんだけどさぁ……」
 いざ問題に立ち返れば溜め息が漏れた。
 あれほど聞いてほしいと思った事柄だが、いざロイを目の前にすると本当に話しても良い話なのか自信がなくなってしまった。
 黄金の林檎事件に関することなのだ――再調査しようとした軍人のほとんどが、変な理由をつけられて降格処分になった、胡散臭いあの事件。
 ロイも興味を持ってはいたから、エドが話せば聞いてくれるに違いない。事情を知ったなら、できる範囲で手も貸してくれるだろう。
 ただ――
 リズマンはロイが切り捨てられるものしか傍におかないと言っていたけれども、あれはある意味正しく、ある意味では間違っている。
 ロイは友人や仲間に対しては誠実だ。恋は遊びの一種と割り切っているところがあるが、友のためなら危険を恐れない。
 エドが彼にとってそこまでの友人に当たるかどうかはわからないが、簡単に手を離される存在ではないと自負していた。そうでなければ、いくら饒舌な彼でもあんなことを言葉にするわけがないのだ。
「……大佐さ、前にオレに言ったこと覚えてる?」
 エドは迷いながら口を開いた。
「前に? 何を?」
「結びつきが強いと知られれば人に弱みを公表していることになるって。覚えてる?」
「覚えている。だから君がどこかで傷つこうが知らぬふりをするとも言ったな」
「うん……」
 ――君が危険に合えば心配をする。君が痛い思いをすれば嫌な気持ちになる。君が悪意に晒されれば腹が立つ。
 そう言ったロイの真摯な声音は今でも耳に残っていた。
 あれは何を犠牲にしても彼が野望を諦めないという宣言であるのと同時に、たとえ道が交わらなくとも常にエドを気に掛けているという告白でもあった。
 嬉しかったのを覚えている。彼の言葉に見合うだけの自分でいたいとも思った。
「……厄介なことができてさ。大佐にどうにかしてくれって頼みたかったわけじゃない、ただ話をして考えが聞きたかった。でも……」
「気が変わったのかい?」
「ああ」
 ロイがじっとこちらを見下ろした。エドも彼を見上げ、自分の気持ちが正確に伝わるよう祈るのだ。
「あんたに甘えたくない」
 ロイはしばらく何も言わなかった。
 二人で立ち止まる。ラバーナムがどこからともなく吹く風に揺れた。息を詰めて次の言葉を待っていると、彼がさり気なく目を逸らし、息をつくのがわかった。
「……先日、ヒューズが手紙を寄越した」
 どきりとする。
 そうである。リズマンをエドたちの旅先へ連れてきたのはヒューズだ。ある程度の情報がロイに流れていてもおかしくはないと今頃になって気が付いた。
 道理で昼間のロイが余所余所しかったはずである。エドたちが顔を見せる前から、リズマンが同行してくることを知っていたのだろう。
「詳しい話を君に聞くつもりだった」
 声を出せずにいると、彼は更に続けた。
「私は知らぬふりをして良いのかい」
 何とか頭だけでうなずく。
「リズマンは……私への布石かもしれないのに?」
「大佐とリズマンのことはオレに関係ないだろ」
「そう思うのだったら、昼に何も言わなかったのはなぜだ? 今二人きりで会っているのは私のためではないのか?」
「違う。あれは……リズマンが変な言いがかりつけるから、からかってやろうと思って……」
「キスまでして?」
「わ、悪いかよ!」
 断固黙秘の意志でロイを睨む。ロイも不遜な様子で言葉を重ねた。
「ふぅん……君に慎みがないとは知らなかった。ああいうことは大切にすべきだよ。それとも君は本当に私に気があったのか? だからわざわざ二人きりで会いたかったのだとでも?」
「そ、そんな……」
「そうでなければますますひどい。私はリズマンへの中てつけ程度で利用される存在だったわけだしな」
「……っ……」
「否定しないのか?」
 眼差しまで冷たくしてロイはエドを試す。
 何のための口論か忘れそうになりながら、エドはそれでも言い張った。
「ああ、そうだよ、その通り! あんたもさっさとオレのこと見損なえばいいだろ!」
 睨み合う。とうとう折れたのはロイである。
「……できないよ」
 やさしい声だった。エドを見つめ、彼は繰り返し言った。
「見損なうわけがない」
 そうして目を伏せ、困ったようにぎこちない笑い顔を作る。エドは気恥ずかしくてたまらず声を乱暴にした。
「あ、あんまり真剣に取るなよな、あんたらしくもない! 心配しなくっても、手に負えなくなくなったら問答無用で巻き込むから!」
「そうだな……そうしてくれ」
「そーするそーする! これでこの話は終わり!」
 とにかく決着をつけられてほっとした。止まっていた互いの足も再び動き出す。
ただし、言うだけ言って気の済んだエドとは反対に、今度はロイが浮かない様子で話し出すのだ。
「実は私の方でも君に話したいことがあったんだが……」
「なに?」
「黄金の林檎に関係があると言えなくもない。しかし保証はない。ヒューズの手紙が来る前は、君に任せてしまおうと思っていた」
「いいよ、どういう話?」
 エドが簡単に了承すると、ロイは気分を害したふうに息をついた。
「私は今、任せてしまおうと思っていたがやめたと言ったんだよ」
「え、手がかりじゃねーの?」
「まだ私にも判断がつかない。しかし繋がりがないとは言えないだろうな……元々この件では説明のつかない出来事が多すぎる」
「木が人の姿になったり、悲鳴を上げたり?」
「ああ。私が先日見たことも同種の出来事に思える」
「何があったんだよ?」
 問いかけたのだが、ロイは黙ったまま足を止めてしまった。そして軍服のポケットを探り、革袋を取り出す。
「……なんだよ、それ」
「手を出してくれ」
「オレ?」
「君以外に誰かいるか?」
「……変なものじゃないだろうな?」
「おそらく」
 彼の言い方では全く中身がわからない。エドが恐る恐る手を出すと、彼は革袋から直接小さな粒を落とした。
「……薬?」
 赤い粒だった。何かを練り込んで丸くしたものだ。ナンテンの実のようなそれを、様々な角度から注視するエドに、ロイは簡潔に言った。
「翼と言うらしい、一粒のめば千里を翔ける」
「はぁ?」
「――と、聞いただけだ。効果は知らない」
 さっぱり話がわからない。目で教えろと訴えても説明は増えなかった。
「一粒は君に渡しておくよ、何かの手がかりになるかもしれない」
「そりゃ貰うのはいいんだけど……何がどうなってあんたがこれをオレに渡すのか、そういう話はないのかよ」
「言えば首を突っ込むだろう」
「黄金の林檎に関することなんだろ? 大佐さっきそう言ったよな?」
「判断ができないとも言った」
 納得がいかず眉を寄せるエドに構わず、ロイはあっさり革袋をしまってしまう。
「大佐。説明は」
「しない」
「大佐」
「しない、これは私が調べる」
 彼にしては珍しい頑固さだ。エドが詰め寄ろうとしたなら、聞かん気に駆られた子供のような表情でこちらをねめつけるのだ。更に言う言葉が。
「君が私を事件から遠ざけてくれるのはありがたいが、君との繋がりが断たれるのは嫌だ」
 エドは絶句した。
「私は私の出会った事件を勝手に調べるだけだ。どうしてもこの話が気になるのなら、近くにまた訪ねてくれたらいい。少なくとも私は君より偽装工作は得意だし、リズマン付きでも困りはしない」
 何と返せば良いのかわからない。人の気遣いを無駄にしやがって――そういうふうに怒ろうと思うのだが、怒る傍から顔がゆるんでしまいそうだ。
「……あんた時々コドモだね」
 どうにか苦く言ったつもりだが、ロイは聞くや否や破顔した。
「君は時々大人だな、おかげで遠慮なく甘えているよ」
「あんたを甘やかす余裕はオレにはないよ」
「ならば君が甘えてくれるか?」
「バカ。あんただってそんな暇ないくせに」
「なくても作るさ、貴重な経験だ」
 バカ、もう一度繰り返し、エドも笑った。
 あとはもうラバーナム・ゲートの下をゆっくりと進みながら、楽しいことばかりを話した。エドが明日には南部へ旅立つのだと言うと、ロイは南部の名物料理を教えてくれ、情報料として、特産品のフルーツを土産に買ってくるよう要求した。


04
 出発の汽笛が鳴り響く。
 最も人の多い、三等車両は立ち客が出るほどの混みようだった。昨日はエドとアルフォンス、そしてリズマンと、余裕を持って二手に分かれ腰掛けたものだが、今回はそうも言っていられない。結局四人掛けの席で全員が向かい合わせになる形に落ち着いた。
「あー、ヤダヤダ。暑苦しいなぁ」
 聞こえよがしのリズマンのぼやきを無視し、エドとアルフォンスは携帯用の地図を広げ、二人で覗き込む。
 スチワート・アップルビーの名を持つ男が暮らすのは、ベルーネという南部の町だ。
 ただ、南部とは言え、ほとんど中央の区画に近い。
 旅のルートは自ずと一旦中央へ向かうものとなり、中央から汽車を乗り継ぎ南方向へ下ることになる。
「……到着は夕方近くか」
「そうだね。東部からじゃ時間のかかる場所だね」
 話している間に汽車も動き出した。エドは少しづつ過ぎ行く風景を窓の外に眺め、小さく息をついた。