01
基本的に雨の少ない南部にあって、ベルーネは唯一地下からの湧き水で潤った赤土の町である。南部と言えば固い棘や樹皮を持つ植物が一般的であるが、ベルーネ周辺だけは柔らかい葉と花を持つ植物が良く育った。
当然、人も水源に集まる。ただし、都市に比べれば建築物も質素なものが多く、軍事施設も少ない。そのためか人々は純朴であり、科学や武術などといった軍が促進する分野よりも、織物業や学問が良く栄えた。
スチワート・アップルビーの名を持つ人物は、このベルーネに暮らす自称考古学者の一人だった。何でも、三十年以上も前に東の海で水没してしまった島の研究をしており、時々学生たちを雇って変わった実験をやるのだとか。
彼がベルーネに住み着いたのは、町の人間たちの証言によると、ここ数年のことである。しかし彼は数年が経っても親しい友を作らず、学校で教鞭を振るわけでもなく、町外れに暮らしていたそうだ。
年齢は不詳、出身も不詳。更に調べてみると、スチワート・アップルビーという名での戸籍登録もなかった。
「……それで?」
長々と説明を聞かされたエドは、腹立ちを抑え、前を歩く褐色の肌色をした痩身の青年の背を睨んだ。
「そういう話が、今の状況にどう関係してくるんだよ?」
青年が振り返る。エドに負けず、こちらも苛立たしげな表情をしている。
「うるさいなぁ! しょーがないだろ。僕が聞かされてるのはベルーネって町の名前だけなんだからさ。その何とかって男は現地で居場所を確めることになってたんだ」
「お前、オレたちに自分は道案内だっつっただろ! それも偉そうに!」
リズマンはエドの言い分を鼻で笑った。
「そのあと監視役だって訂正したよ。もう忘れたの?」
こいつ殴りてぇ!、心で叫んだエドに気付いたらしいアルフォンスが、慌てて通りの案内地図を指差した。
「あったよ、兄さん! あれで道確めよう!」
つまり今、エドとアルフォンス、リズマンの一行は道に迷っているのである。
まず駐屯地に向かって住所確認をすれば良かったのだろうが、エドはてっきりリズマンが探し人の居場所を熟知していると思い込んでいた。いざベルーネに来てみれば、リズマンも多少の土地勘はあるものの、スチワート・アップルビーの所在など全く知りはしなかった。結局、道々に人に尋ねて歩くことになったのだ。
元々隠遁生活に近い暮らしをしている男だ。そう簡単に情報が得られるとも思えなかったが、尋ねてみれば意外にすんなり居場所は知れた。
木造建築の平屋ばかりが連なる町を抜け、舗装されていない赤土の小道を進んでいくと、乾燥地域に似つかわしくない雑木林が現れる。赤土と石ころばかりだった地面も、そこから先は青々とした下草で覆われるのだ。アップルビーの棲家は、この雑木林の中にあった。
隠遁生活中の男が有名人であった所以もこの雑木林にある。
本来この場所はただの平地だった。ところがアップルビーが住み着いて以来、急に木が育ち、草が生え、彼の棲家を覆い隠すように林の姿になったのだとか。
立ち並ぶ木々の種類も様々で、二、三年で成長するものもあったり、人の背を追い越すのに十年以上かかるようなものもあったり。町で実しやかに噂されるように、これらの木々全てが数年の間に育ったとすれば、奇跡の業としか言いようがない。
「……アップルビーさんって錬金術師なのかな」
アルフォンスが木を仰ぎながら呟く。
「軍の調査では違うと主張したらしいけど? でもこれはさすがに異常だな……」
リズマンも悪態をつくことを忘れ、訝しげな顔で林を見回している。
彼ら二人とは別に足元を見ていたエドは、下草の中に白い小石が混じっていることに気がついた。
赤土と緑の中に白があるので、一度気付けばとにかく目立つ。元々この場にあった石ではないのは明らかだった。割れやすい石灰のような石である。踏みつぶしても粉になって白く地に残るばかりだ。
辺りに目をやれば、そうしてできた白っぽいラインが林のあちこちに見えた。もしも上空から一帯を見渡すことができれば、この小石の白色で模様みたいなものが見えてもおかしくはなかった。
エドはアルフォンスに意見を訊こうと思ったが、ここで話せば同様の内容をリズマンにも聞かれることに気付きやめた。リズマンがどの程度の任務を請け負っているのかは未だに謎である。彼自身は案内役とも監視役とも言いはしたけれども、真実にそうであるかは判断がつかない。
エドが言葉を飲み込んでいると、当のリズマンは出し抜けに訊いてきた。
「キミの意見は?」
内心穏やかではなかった。
「人のことはほっとけよ」
「そうしたいのは山々だけど、マスタング大佐お気に入りのキミがどれくらいの頭持ってるかには興味があってさ」
「普通の頭だ、変に勘ぐるなよ」
「だよねー。ま、いいさ。何か考えついたところで、きっとそんな大層なことでもないんだろうし」
にやにやと笑われてむかっ腹が立つ。それでもエドは相手に構わず、アルフォンスに目で合図を送って道を先へと進み始める。
地面の白石は気になるが、調べるのならリズマンと離れてからの方が良い。
しばらく行くと建物も見えてきた。アップルビーの棲家は、生い茂った木々の枝葉に埋もれ、昼の日中にも関わらず薄暗い様相でそこにあった。
軒先に備え付けられた、呼び鈴代わりの釣鐘を鳴らす。
エドが最初に二度鳴らし、リズマンが苛立った様子で一度、それからアルフォンスがあと一回だけとことわって、小さな釣鐘を遠慮がちに鳴らした。結局全部で四度、鐘の音は木立のしじまに反響した。
アップルビーの館は全くの無音だった。
壁板にこげ茶色の塗装が成された家屋には、当たり前に窓もついている。カーテンがかかっているので中の様子は窺えなかったが、内で明かりの灯っている気配はなく、締め切っていればなお人が身動きできない暗さのはずだ。
玄関にも鍵がかかっていた。
他に出入り口を探そうにも、正面以外の家の側面は、ほぼ低木で二重三重に囲われている。アップルビーが望んで木の外壁を作ったのかどうかは定かではないが、外から家の様子を窺わせないという点においては完璧な造りである。
「……どうすんだよ、コレ」
エドは重く溜め息をつく。
「少し待ってみる?」
アルフォンスは空の明るさを気にしながら言った。ベルーネの駅に着いたのが昼過ぎだ。今から小一時間も経てば日は暮れ始める。
アルフォンスと顔を見合わせる。
「――アップルビーさんにはあとで謝ろう」
「やっぱりそうするんだね、兄さんは」
「他に方法がないんだから仕方ないだろ?」
兄の手法を知る弟は、肩を竦めて見ぬふりをした。
リズマンだけが兄弟のやり取りを訝しげに見ていたが、説明してやる義理はない。
エドはおもむろにアップルビー宅の正面玄関まで立ち戻ると、扉の板と向かい合い、戸板の上に小さな出入り口が新しくできるイメージを思い浮かべた。
集中は一瞬で良かった。
両手を打ち鳴らし、己の身体で円を作る瞬間に、描いた様を手のひらに焼き付ける。途端に生まれた科学反応さながらの熱を、直接扉へと移すのだ。
再構築。
その一瞬、物質にはエドの意思が伝わるのか。
錬金術は自然界の仕組みや物質の性質を正しく理解することから始まる。だとすれば、文字や式を使ったり、エドなら手のひらを通して指令を与えたり――己とは違う組織を持つものにどれだけ強く訴えかけることができるか――錬成技術の熟練は、錬金術師の意志の強弱で決まるものなのかもしれない。
一瞬ののちにエドの手の下にできた出入り口を、リズマンだけが茫然と見ている。
鍵のかかった一枚の扉があり、更にその内側に一回り小さな鍵なしの押し扉――
板を押すと当たり前に家の内部への道が現れる。
「行くか」
アルフォンスを促し、エドが扉を通り抜けようとした時だ。
「待てよ」
リズマンの動揺を殺した声が呼び止める。
「今の……錬金術なのか?」
リズマンも錬金術の心得がある。だからこそ錬成陣を描かなかったエドに驚いたのだろう。
予測はついたが、エドは答えなかった。いや、答える前に家の内部を見てしまって、そちらに意識が奪われてしまったのだ。
「おい!」
リズマンが続こうとしていたアルフォンスを押し退け、エドの肩を掴んだ。しかし彼もまたそこで口をつぐまざるおえなかった。
「……兄さん? どうしたの?」
異常に気付いたアルフォンスも扉の内を覗き見る。
結果、三人とも声を忘れた。
家の内部は異常だった。玄関から延びた通路上には、土もないのに草花が根をはっている。赤い花、黄色い花、白い花、外で見れば目を楽しませてくれただろうそれらは、家の床上で見れば、歪に根をくねらせ、葉を広げ、ひどく気味の悪い生き物としてそこにいた。
また、ところどころでは、捻じ曲がった木が苦悶するような形相で床板を突き破って育っている。
ある部屋では壁も天井も木の根でいっぱいになっていた。
辛うじて前へと進みながら、三人ともが相変わらず口を開くことができずにいる。
奇妙な空気だった。
木の匂いと花の匂いと。厚ぼったいような何かの匂い。
酸素が濃いせいか、それとも何か違う要因が本当に空気に混じっているのか。 長く吸っていると悪い病にでもかかりそうな錯覚さえ覚える。
リズマンは何度か咳き込んでいた。アルフォンスは嗅覚自体が薄いので特に何も感じていないようだ。エドは己の鼻に手で覆いを作り、できるだけ匂いを嗅がないように努めた。
いくつかの部屋があり、中には実験器具や書類の散乱した部屋も見つけたが、やはり人はおらず、いるのは木と草花ばかりである。
「……こんな場所に人が住んでるわけがない!」
とうとうリズマンが言った。
「僕は外に出る! これ以上ここの空気を吸えば変になる!」
確かにエドも限界に近かった。しかしリズマンが離れるとなればアルフォンスと二人きりだ。自由に話をできる機会をむざむざ逃したくはない。
「出たけりゃ出ろよ、オレたちはまだ調べたいことがある」
「はぁ? こんな状況で何を?」
「お前に関係ないだろ」
リズマンが殺気を込めてエドを睨んだ。
「いいけどね。ありありと異常ですって訴えてるような場所で何の準備もなく突き進むようじゃ、凄腕の錬金術師だろうと命縮めるよ。キミそれでもマスタング大佐のお気に入り? ただのバカだろ?」
「大佐、大佐ってうるさいヤツだな。そんなに大佐が好きならずっとくっついてりゃいいだろ、オレたちにかまうな!」
エドが怒鳴るとリズマンは卑屈に笑った。
「……あ、そ。ここまで助言してやっても残るわけ? バカだね本当に。どうなっても知らないよ?」
捨て置けない言い方だった気もするが、エドは無視してアルフォンスを促し、彼から離れた。
「死ねよ、バーカ」
リズマンは最後の台詞まで嫌味ばかりだった。
「……兄さん、平気?」
監視人の足音が消えると、アルフォンスは心配そうに声をかけてきた。エドはどうにかうなずく。
「ああ……それにしてもひどい空気だ」
「匂いがするの? 臭い?」
「臭いってわけじゃねぇんだけど……なんか変な感じがする、空気に妙なもの混じってそうな……喉に詰まるような感じ」
「……良く、わからないよ」
それ以上はエドも言わなかった。いくら説明してもアルフォンスを困らせるだけだ。とにかく大丈夫だと伝え、館の探検を続けることにする。
外から見た限りではアップルビー邸は平屋であった。また特に大きな家屋だったわけでもない。だが造りや大きさ以前にエドたちの足を遅くする要因がある。
とにかくあちこちから木の根や枝、幹が飛び出していて歩きづらいのだ。草花の根に足を取られることもあって、移動には骨が折れた。
「……なぁ、アル。外の地面にさ、白い小石でなんか書いてあっただろ?」
大きな根を飛び越しながら話した。
「兄さんも気づいてたんだ? 僕も変だと思ってた、あれって錬成陣かな?」
「にしては、おかしな形だったよな?」
「うん。少なくとも図形じゃなかったよね、空から見たら円とか線の形につながってたのかもしれないけど……」
「文字みたいにも見えたよな。どちらにせよ、純粋な錬金術には見えなかった」
「うん」
――と、前方に薄明るい戸口を発見する。
二人して息を飲み、巨大な枝を迂回しながら慌ててそこへ向かった。位置としては玄関からちょうど最奥、外からは低木で囲われて見えなかった場所である。
木に突き破られた形で開きっぱなしになっているドアから中を覗く。
部屋には、庭へと下りることのできる大きな窓があった。そこから外の光が入り、この部屋だけ他より明るく見えていたのだ。
人がいるのではないかと期待した分、エドは他と同じ荒れ果てた様の室内に落胆せずにはいられなかった。しかし、割れた窓の外に目を向ければ、予想外の発見にまた期待が膨れ上がる。
庭の中央、ぽかりとスペースの空いたそこに、樹皮に金粉を刷いたような不思議な色をした低木が、一本だけ育っている。
葉の形や幹の太さから言って林檎の若木に違いない。
エドが気付くと同時にアルフォンスも声を震わせた。
「あれ……もしかして……」
言葉は続かない。
黄金色の林檎の木である。
ロイの話によれば、軍部で発見されたものは、見るからにペンキで塗装されたとわかる粗雑なものだった。だが、今実際に目の前にあるものは違う。
少なくともその黄金はペンキではない。
エドとアルフォンスは窓へそろそろと近づいた。
そして――
林檎の木から離れた庭内に、もう一人、エドたちと同じく黄金を眺めていた人物がいたことを知った。
年は三十から三十代半ば、四十は越えていないように見える。男であった。秀でた額に美しい目鼻立ち、涼しげな顔をしている。
彼は、足のつま先までを隠す純白の長衣を着ており、背筋を正して木の椅子に腰掛け、静かに目を閉じ身動きしない。
ゆるく編まれた長い黒髪だけが時折風に揺れていた。
見かけは確かに人の姿だ。
けれども、エドは軽い畏怖が胸中に巣食い始めるのを感じていた。
男はいつまでも動かなかった。ぴくりともしない。息をしている雰囲気さえない。生白い頬は無機質な光を帯び、まるで磨かれた石の表面にも見える。
「彫像……か……?」
彫像であるとすれば、悪趣味なほど人に酷似していた。
だが、その彫像は間もなく動いて見せる。
ギギギと不気味な音がした。からくり人形のようだと、エドはまたぞっとする。
02
「客人か」
男の口はゆっくりと動いた。少なくとも声音は人のものだった。顔がこちらを向いたとはいえ、瞼は閉じられたまま、瞳は見えない。
「ス――スチワート・アップルビーさんって、あんたのことか?」
エドは緊張で強張った喉から何とか声を押し出す。
「違う」
男は言った。どう見ても作り物じみた容貌だったが、こちらが言った言葉に似合う返事が返ってくれば、彼は人であるのかもしれない。エドは消えない違和感を抑えつつ、果敢に口を開いた。
「オレたち、アップルビーさんに会いたいんだけど」
「何か用か?」
「本人と話したいんだ」
エドが重ねて主張すれば、男は束の間沈黙した。
「オレはエドワード・エルリック、こっちの鎧姿が弟で、アルフォンス・エルリック、二人とも錬金術師だ」
錬金術、と、男は小さく復唱する。
「オレたちは黄金の林檎について調べてる。噂の出所がアップルビーさんだって聞いて会いにきた。もしかしたら、あんたも何か事情を知っているのかもしれないけど、できれば最初は本人から話を聞きたい」
果たして相手はこんな話を理解するものなのか。エドは疑いながらも答えを待つ。すると、
「話は理解した」
抑揚のない声だった。
「しかし、お前たちの探す男は、もうここへ帰ってくることはないだろう」
「ど、どうして?」
「あの男の命は果てた。翼を作る者は完成と同時に時を越え、身が分断される。たとえ一時命を取り留めたとしても、今ではもう生きていまい」
それは疑問を寄せ付けない言い方だった。エドが理解に苦しみ言葉を失っていると、今度はアルフォンスが心を決めたように進み出た。
「……では、あなたは何をなさっているんですか? あなたは誰ですか?」
男の顔がアルフォンスを向く。ギギ、と、また変な音がする。
「私は最後の蜂だ」
「蜂……? 蜂って……」
「あの男も蜂だった。蜂は命を賭して女王に尽くし、最後の力で針を立てる。私の針はまだここに。翼を得るまで身をやつしても生きねばならぬ」
アルフォンスもそれ以上は言えなかった。男の言葉は人の言葉でありながら、エドにもアルフォンスにも解読できないものだったのだ。
気味が悪くてならない。ただ、何もわからずに帰ってしまうには、二人とも黄金の林檎事件に深入りしすぎていたのだ。
「……頼みがあるんだけど」
エドはどうにか気持ちを落ち着け再び口を開く。
「向こうにあった資料や実験機材を見せてもらえないか?」
「……かまわない」
「ありがとう、助かる。それから――」
疑問はもうひとつあった。庭の中央で育っている金色の木に自然と目が吸い寄せられる。
だが、男の警告が先手を打つのだ。
「お前たちがこの館で何をしようと知らぬ。ただ、この庭へは下りるな。この木に手を触れることは許さない」
平坦な声は冷たく響いた。
「他は好きにすれば良い」
結局黙って引き下がるしかなかった。
二人とも相手の異様さに飲まれていた。だから最後に男が呟いた言葉も、意味不明の暗号にしか聞こえなかったのだ。
「日が落ちれば草木にも魂が宿る。人を捨てたくなくば早めに立ち去ることだ……」
03
元は実験室だったと思しき部屋に入ると、エドがまずしたことは窓を開けることだった。
部屋中に根を張った草や木が邪魔をして、鍵を開けることすら一筋縄ではいかなかったが、どうにか換気の口を開くことに成功する。こうして奇妙な匂いも少しは薄れた。
庭に面した先の部屋とは違い、実験室の窓の外は林であった。ろくろく光も射し込んではこないので、アルコールランプを灯し電灯代わりにする。
「……これでよし、と。とりあえず手当たり次第でいくか、そのうち何かに当たるだろ」
「賛成」
アルフォンスは隣室を調べるようだ。
エドは一人、床に散乱した書類を集め、机や資料棚に残っていた蔵書の類を抱え、木の根が良い按配に平らになった場所へと腰掛けた。
書物の多くは異国の言葉で綴られていた。研究資料もそうで、一枚捲っては何か読み取れる文字がないか、図形がないかと、エドは目を皿にして書面を追った。
リズマンも、スチワート・アップルビーには戸籍登録がないと言っていた。おそらくアップルビーは異国の地から移り住んで来た人物だ。書面に記された文字は如実にそれを指し示していた。
ふと隣室のアルフォンスから声がかかった。
「……兄さん、さっきの人のこと、どう思う?」
「ああ……」
「あの人、本当にアップルビーさんじゃなかったのかな?」
「名前より何より、オレには人に見えなかった」
アルフォンスが困ったように相槌を打った。
「僕もそう思ったけど……」
しかし手がかりが彼しかいないのが現状である。気は進まなくとも、再び男と対峙するしかない。
「あとでもう一回話してみよう。言葉は同じもんだったし……あの林檎のことも気になる」
「うん。そうだよね、何とか会話しないとね」
男の言葉は突拍子のないものばかりではあったものの、文章から切り離して考えれば、単語自体は意味の通らぬものでもない。
蜂、女王、針、翼、命、魂――
会話を反芻していたエドは、不意に引っかかるものを感じた。
翼、だ。昨夜ロイがくれた薬がそんな名のものではなかっただろうか。
「…………」
内ポケットから紙に包んだ丸薬を取り出してみる。
だが――ロイのくれたものと、あの男の言うことに繋がりがあると思う方が不自然だ。
少しの逡巡のあと、薬は再び内ポケットに納まった。
気を取り直し、エドは言う。
「それより――この家のおかげで、オレたち久しぶりにちゃんと話せたよな」
アルフォンスが笑うのがわかった。
「そうだね。リズマンさん、まだ外にいるのかな?」
「何か用があれば入ってくるだろ、ほっとこうぜ」
「うん。でも、僕たちしばらくここから動かないよね?」
「それが?」
「長くなるって伝えてきた方がいいのかなぁ……」
今度はエドが苦笑する番だった。
「だから、ほっとけって。疲れて先に一人で宿にでも行ってくれりゃ、こっちも堅苦しい任務から解放されて助かる」
「でも、兄さんも一応アップルビーさんについて報告しなきゃいけないんでしょ?」
「適当にやるさ。大体会えなかったら確保も何もないだろ。オレたちはオレたちに必要なものだけ見て、さっさと帰ろう――この家は変だ」
つい本音が漏れた。アルフォンスが黙り、エドも束の間言葉を飲みこんだ。
本当は、関わりを持たぬ方が良いと頭の後ろからずっと声がしている。
この家に足を踏み入れた時から嫌な感じがあった。例えば錬金術で植物の成長を早めたとしても、錬金術を施す人間がイメージしない限り、家を半壊させるような成長の仕方はできない。その点から言えば、この家の荒れ方は尋常ではなかった。どこもかしこもが不規則なのだ。人の作為など感じない。むしろ植物にこそ意志のあるような――
「ねぇ、兄さん……」
呼び声ではっとした。エドが返事を返すと、アルフォンスは言いにくそうに続けた。
「ハボック少尉が……見たんだよね?」
「ん?」
「……木が。人の形になったって」
己の鼓動が早まったのを感じた。
ロイも言っていた。木が人の声で悲鳴を上げながら倒れたと。それはつまりどういうことだろう。
人の細胞は木に移植できるものなのか、人と植物の合成体などと信じられないものがこの世に存在しているのか。細胞の構造が違う二種を不具合もなくひとつにする、不可能を可能にできる業とは何か?
そもそもそれは――
錬金術なのか。
「あっ!」
隣からの歓声に腰が浮いた。エドはすぐに隣室へ走った。うねった木々の根の隙間で、アルフォンスが資料を広げている。
「どうした?」
「兄さん、これ見て!」
差し出されたのは手書きの本だ。見慣れない文字と一緒にこの国の文字も混じっている。しかし驚くべきは文字のことではない。やはり手描きの図が記されているのだ。
丸い果実のなる木。おそらくは林檎の木。根の下には横たわった人が描かれ、そこから伸びた木に実る果実のひとつひとつには胎児が眠っている。
図の下には「マールス」とあった。
「マールス? マールスって確かスチワート・アップルビーが研究してたって言う水没した島の名前……」
エドが呟いた言葉にアルフォンスも強くうなずいた。
「ここ。ここにほら、あの黄金の林檎の話が書いてある」
文字を目で追う。そこには、黄金の林檎は死者の心臓となる、という、何度も聞かされたあの文句がそのまま走り書きしてあった。
「心臓って言うよりも、この絵だと人そのものだ」
アルフォンスが興奮したように言う。エドは図と走り書きの文章を見比べ、慎重に言葉を選んだ。
「心臓か……。もしかしたら、心臓って言葉自体もなんかの比喩かもしれないな」
「比喩?」
「ああ。あの男が言ってただろ、蜂とか翼とか針とかわけのわからないことばっかり」
「そっ……か。僕てっきり心が壊れてる人なのかと思ったよ」
「いや、それもアリだろ。でも壊れてなかったとしたら、あれはちゃんと意味のある単語のはず……」
「この絵、木が人の上に生えてるように見えるけど……」
「ああ。でも、まさかそんな……」
二人して林檎の図を食い入るように眺めた。
これまでのことを整理して考えるならば、きっと図に描かれた林檎の木は金色であるのだろう。その果実はもちろん、人または人の部位を生むものであるから、普通の植物であるはずがない。何らかの手法によって生まれた木だ。
「本当にそういうことなのか……?」
軍が焼却した黄金の林檎の木――悲鳴を上げ、人の姿になったという木は、この手法を試みたものだったのかもしれない。実際にどういった原理かは確めようもないが、木は図に記された通り、人を素として生み出された可能性がある。
「……こんなの変だよ」
アルフォンスが呟く。
エドも自分の頭から血の気が引くのがわかった。一人を犠牲にして多くの人間を生む、この手法は人体錬成を可能にするものかもしれなかったが、何か大切な部分で決定的に間違ったところがあった。
「……もう一回、あいつと話してくる」
エドは冷静さを失わないよう努め立ち上がった。
「あいつが触るなと言った木が何なのか――訊かないわけにはいかない」
「僕も行くよ」
「いや、時間が惜しい。アルはもっと決定的な資料がないか探しててくれ。まとまったものが見つかったら早く出よう」
弟がうなずくのを見届け、エドは再び男と対峙すべく、植物だらけの暗い館を移動した。
一度目に来た時には庭からの光で明るかった部屋も、エドたちが別室で過ごす間に夕闇へ沈もうとしていた。足場の悪い場所を何とか窓へと近づくと、例の白い長衣をまとった男は、寸分違わぬ姿勢で椅子に腰掛けている。
瞼を閉じた様子も変わらない。それでも声をかけるのは男の方が先だった。
「まだ用があるのか」
エドはぐっと腹に力を込め、男を睨む。
「……もう一度だけ聞く。スチワート・アップルビーはあんたじゃないんだな」
「そうだ」
「じゃああんたは誰なんだ」
「お前たちに教えるための名は持ってはおらぬ」
男の顔は薄く金色に輝く林檎の木を向いていた。その様は番人のようだとエドは思う。
「なら質問を変える。あんたは蜂だと言ったな? 蜂は名前じゃないのか」
「蜂は蜂だ。針で女王を守る者。翼を得れば花粉を運ぶ者」
また謎掛けか。エドは一気に頭に血が昇るのを感じた。
「だから、女王って何だ? 針は? 翼も花粉も何のことだよ?」
「…………」
「アップルビーの研究内容はあんたも知ってるのか? あんたの目の前にあるその木は何だ? 他の場所で発見された木は何だった? なんで木が人の声で悲鳴を上げた?」
疑問の全てを力いっぱいぶつけた。今言うことができなければ、また男に気圧され言えなくなると思ったのだ。
「――あんたたちがここでやってた研究はどんなで、何のためのものなんだ!」
しかし最後の疑問を口にした途端、男が小さく口角を上げる。それは、緊張と興奮で温度を上げていた血が一瞬で冷まされるような笑い方だった。
「研究?」
男は首からぎりぎりと音を立ててこちらを向く。
「内容を話したところでお前に理解ができるのか? 我らが成すのは魔術と呼ぶもの。魔術とは女王の願いを叶えるもの」
エドはあまりの飛躍に驚き呆れた。
男はなおも重く言う。
「この国には錬金術というものがあるらしい。一から一を、十から十を生む技術だと聞く。しかし我らの魔術に制限はない。一は三を、七を、十を、あるいは百を生む」
頭が追いつかないのだ。そんな魔法みたいな力が本当に存在していると信じろと言うのか。
「……待て。待ってくれ。あんたたちは一体……?」
混乱しつつもエドが必死に疑問を口にしようとした時だ。
ふと男が表情を改めた。エドも奇妙な緊張感に黙らざるおえなかった。しん、と、耳に痛いくらいの静寂が満ちる。彼は何か、人の耳では聞き取れぬ音を聞き分けているように見えた。
しばらくして、また軋むような音をさせながら男の顔の向きは林檎に戻った。
「いいのか?」
そして、突然言ったのだ。木に話し掛けたのだとも、エドに話しかけたのだともわからなかった。
こちらの戸惑いを知ってか知らずか、彼は二度繰り返す。
「いいのか? 日が落ちたぞ」
「……日? オレに言ってるのか、それ?」
「そうだ、お前に言っている。この家は我らの術で花粉に満たされていた。お前はそれを吸い込んだはずだ。何度も。何度も――肺の奥まで」
わけがわからない。
しかし、全てはその瞬間に起こった。
――うわぁぁ!
刹那、高い悲鳴が館の中から迸った。
「アル?」
エドは驚いて背後を振り返る。そのまま即座に弟のいる場所まで走ろうとして、何かに足を取られ転倒した。
「……人を捨てたくなくば帰れと言ったぞ」
男の呟きは聞こえていたが、エドは彼を再び振り仰ぐこともできない。なぜなら、己の目の前で、部屋中にはびこっていた草花や木の根たちがうねり出していたからだ。
それこそ生き物のごとく、枝がくねり、根が壁板を穿つ。
エドの足首に巻きつき躓かせたのも、そうして這い出た根の一本だった。
冷や汗がどっと吹き出る。エドは焦って立ち上がり、足に絡んだ根を引き千切った。
途端に、ヒィ、と、人の声で悲鳴が上がった。
愕然となった。確かに声は木から聞こえた。
「……今の……」
うぞうぞと根が動く。まるでそれ自体が意志を持っているかのように。
「まさか、この植物たちは……」
おののくエドの背後で、男が静かに言うのだ。
「錬金術師の名を持つ者が、お前たち以外にも幾人かここへ来た。この国の独裁者は、よほど我らの術に興味があるらしい。だがここでのことは外へは漏れない」
エドはもう後ろを見ぬまま、弟のいる部屋へと駆け出していた。
「――植物になれば人は言葉を話せぬものだ」
男の声は無人の庭に小さく落ちた。
04
「アル! アル!」
蠢く枝を退け、どうにか戻った先に見たものは、蔓でがんじがらめになった鎧姿の弟だった。
すぐさま錬金術で木の形を変えようとしたのだが、エドの錬成はことごとく撥ね付けられる。確かにこれらの植物が人であるとすれば、エドが行っていることは人を変形させるための錬成である、可能なわけがない。
「兄さん、僕はいいからひとまず逃げて!」
蔦に手足を押さえられ、鎧の中に太い枝を通され、それでもアルフォンスはエドの身を案じるようなことばかりを叫んでいた。
実際、アルフォンスばかりでなく、エドにまで蔓は延び始めていた。何度も巻きつこうとするのを、刃に変えた機械鎧の右手で裂く。人の声の悲鳴がそのたびに聞こえた。
「クソ……っ、このままじゃ……っ!」
気付くと、アルフォンスの兜の隙間から、大量の枝が蛇のように内へと流れ込みそうになっていた。もしも背中の血印を削り取られることがあれば、弟は生きていられない。
エドは咄嗟に床にあった分厚いファイルを掴み、鎧の内側へ放り込んだ。枝はバリケード代わりになったファイルを避けて鎧の中を移動し、結果として血印は無傷だったらしい。
だが、アルフォンスはますます動けぬ状態になった。
エドの右手で切ってしまえる蔓も数が知れている。気は進まないが、こうなれば炎で一掃するしかなかった。
はからずもロイを思い出した。
彼と彼の持つ発火布であれば、この部屋中の植物を一瞬で焼き尽くすことなどわけがなかっただろう。残念なことにエドが一から錬成する火力では高が知れている。ランプに火をつける程度のことならどうにかなっても、生木に火を移すほどの粘り強い炎は錬成できそうもなかった。
――だから私に相談すれば良かったのに。
ロイの声が聞こえた気がした。
「……今頃そんなこと言ったって……っ!」
エドはとにかく火種になるようなものが落ちていないか床を探した。アルフォンスのいた部屋には壁掛けタイプのランプがあったが、それも既に木の枝でぐしゃぐしゃになっている。
「そうだ、アルコールランプ……!」
エドは隣室に、電灯代わりに使っていた実験用のアルコールランプがあったことを思い出した。火種さえあれば、状態変化の錬成をうまく使って、火力の大きな炎を作れるはずだった。
うねる枝を踏み越えながら隣室へと飛び込む。暗がりで上手く物が見えない中、どうにか目当てのものを発見する。
それから取って返そうとして、再度思わぬ抵抗につんのめった。
「クソ、また蔓か?」
何かが巻きついたのだろうと足首を手で探るのだが、何もない。
「……なんだ? なんで?」
良くわからぬままに立ち上がろうとしても、またつんのめる。上半身は動くのに下半身が動かないのだ。機械鎧の左足も、まるでエドの神経と切断されたかのように動作が鈍い。
「なんだ、これ……?」
エドは次第に焦り始めた。動く蔦がゆるゆるとこちらへ迫ってきている。うずくまっていればいずれ捕まってしまう。しかし足は動かず、貧血さながらの眩暈が頭までもをぐらつかせた。
すぐに手も自由がきかなくなった。
蔦がゆるく身体を這い登っていくる。
「……まさか……」
エドは慄然とする。
隣からアルフォンスの呼び声が聞こえていた。帰りの遅い兄を心配したに違いなかったが、朦朧とする意識のせいで上手く声が出せなかった。
それでも必死に思い起こすのだ。
あの白い長衣をまとった男が言った言葉を。
人ヲ捨テタクナケレバ帰レ。
それは、つまり――