01
イーストシティへの最終列車が出発するまでもう一時間もない。ロイは店内に掛かった時計を振り返り息をついた。
セントラルシティ駅前、旅行客で溢れかえっているオープンカフェだった。
昼まで晴れていた空は、夕方になって少しずつ雨雲に侵食されている。おかげで外の空気は湿気を含んで良い気持ちがしない。待ち合わせなら建物の中を指定すれば良かった、ロイは今更ながらにそんなことを考えている。
個人的な用件で中央まで帰ったのはどのくらいぶりか。日頃は上からの召集でもなければ来る機会がない。どうしても中央でなければ揃わない物品もあるにはあったが、何かのついでに出向くくらいで、軍服を脱いでまで街を歩いたのは久しぶりだった。
だから、突然の訪問に、ヒューズの妻グレイシアも驚いていた。
ロイは特に長期の休みを得て来たわけでもなく、非番の一日を当てて来たのだ。朝一番の汽車に乗ったとしても、セントラルシティ駅に着くのは昼、夕方の最終列車まで居座れば、イーストシティ駅に帰り着く頃には立派に深夜である。効率の良い移動の仕方ではない。
それでも中央に用があった。
できれば内密に。軍の施設ではなく民間の施設を使って調べたいことがあったのだ。
内容は言うまでもない、例の林檎に関することである。
以前からロイが怪しく思っていたことがある。空振りならばそれでも構わなかったが、こういう時の己の勘は良く当たることも知っていた。ロイは今日一日を使って、中央にある本屋を片っ端から梯子した。
買い集めてきたのは、東の海で水没した島、マールスについての書物である。
この島が栄えたのは三十年も前のことだった。錬金術に良く似た技術が発達していたらしいことと、林檎を聖なる木として崇めていたことが軍の記録に残っている。
他にロイが知っていたことと言えば、林檎の木を模した国旗を掲げていたことと、マールスという国名そのものが林檎を意味する単語であることくらい。
海底火山の爆発という衝撃的な天災で人民もろとも海の泡となったとはいえ、所詮は大して国交もなかった東国のことである。海を隔て、更に大陸を隔てたこちらでは関心は薄く、現在では島がかつて存在していたことすら知らぬ者が多い。
ロイが最初にこの国を思い出したのは、詐欺事件で広まった黄金の林檎の謂れが妙に宗教じみていると感じた時だった。
しかしその時は深く調べようとは思わなかったのだ。そもそも人民もろとも水没した国の宗教が復活する理由がない。だからエドにすらマールスの話はしなかった。
けれども、先日不思議な老人に会い、その口から女王という言葉を聞いた時、再びかの島国を思い出した。
マールスは女王が王位を継承する国だった。
東方司令部にあった資料で確めてもみた。ロイの記憶に誤りはなく、更に資料は違った共通項を上げていた。
マールスでは決まった身体的特徴を持つ男性が神職についたと言う。彼らは一切の神事を執り行い、女王に継ぐ巨大な権力を与えられていた。その身体的特徴というのが、盲目であることなのだ。
ロイの出会った老人は盲目だった。
符号が合うのはただの偶然かもしれない。黄金の林檎事件と老人との一件は全く別のものである可能性もある。
だが調べずにはいられない。軍上層部に動きを見咎められるわけにもいかないので、私用のふりをして民間の場所を巡ってきたわけである。
ただ、やはり資料としては、軍に保管されてあるものの方が詳細だった。
マールスについての書物を買い集めてはみたものの、今ひとつ頼りない。エドの件も気になったし、結局ロイは、大総統府内の事情に詳しいヒューズに話をすることに決めた。
それでグレイシアに伝言を頼んできたのだ。
軍の電話回線など使えないから、直接会えるこの機会を逃せば詳しい事情を彼に話すことはできないだろう。
カフェの時計を仰ぐ。空もすっかり暮れ始めている。そろそろ駅への移動を考えなければならない時間だった。
と――、通りを駆け足でやってくる男を発見する。
ロイは思わず笑った。天の采配もかくやと思うほどのタイミングだ。しかも友人はこちらの事情を察してくれたらしく、軍服からわざわざ着替えてきてくれた。
テーブルから立ち上がり、本の入った紙袋を抱え、会計を済ませて通りへ出た。ちょうどヒューズがカフェの前に辿り着く頃だった。
「ま、まだ時間大丈夫なのか?」
息を切らし、汗を拭い、彼は言う。ロイはその背中を軽く叩き、道を促した。
「いや、もうほとんどない。走ってもらってすまないが、駅までの道も付き合ってくれないか?」
「ったく、人遣いの荒い……」
口では不平を言いつつも、すんなり歩き始めるのがヒューズである。呼び出し方からして尋常ではないものだ、話の内容が厄介事であるとも想像がついただろう。
「……悪いな」
もう一度ロイは繰り返した。ヒューズは特に返事はせず、大きく息を吐くとポケットから煙草を取り出し、一本を口にくわえて火をつけた。
「で? 何の用だって? エルリック兄弟のことなら俺はノータッチだぞ」
「それは私もまだ触れていない」
言えば明らかに驚いたような顔をしてこちらを見る。
「本当に? お前の性格だったら絶対首突っ込むと思ったんだが」
「止めるために手紙を寄越したんじゃなかったのか」
「どうせ見ないふりはできねぇだろうから、先に釘さしといただけだ、絶対ウラのある胡散臭さだってな」
「ああ……実際、暴きたくはなった」
ロイは言葉を切り、もう三日も前になる夜の、エドとのやり取りを思い出した。
「しかし本人に止められた」
「へーえ! そりゃまた……」
ヒューズは興味津々の様子を隠さなかった。
「俺はエドなら一番にお前を巻き込みに行くんじゃないかと思ってたぜ」
「来たよ。ただ、話してはくれなかった」
「喧嘩でもしたか?」
「いいや」
ロイが苦笑すると、ヒューズは少し考えたふうに表情を改めた。
「……訊いてもいいか?」
「ああ?」
「エドはお前のこと好きだよな?」
「私も好きだよ」
「いや……だから、そういうノリじゃなく」
「つまり私の恋愛的な守備範囲に女性だけでなく男性の枠があり、更に子供相手に欲情するような性癖を持っているかということか?」
「……そこまで訊いてねぇ……」
相手の嫌そうな顔がおもしろかった。ロイはさらりと続けた。
「好きだよ、今のところ欲情はしないが」
「これからしそうな言い方するな」
「先のことはわからんさ。友情は最も初期の恋愛感情だと言うだろう?」
「あーあー、もういい! 訊いた俺が馬鹿だった! お前らは勝手に友情でも愛情でも育んでろよ、とりあえず周りに不審を抱かせるな!」
「勝手に疑っておいて何を言う。ところで私はこういう冗談を言いに、わざわざセントラルシティまで来た覚えはない」
「俺だって、わざわざお前らの関係確めにここまでマラソンしてきたわけじゃねぇ!」
ロイは笑って、持っていた紙袋の中から今日買ったばかりの本を一冊、友人の胸元に押し付けた。
「なんだ、こりゃ?」
「暇な時に読んでくれ」
「はぁ?」
「かつて東の海で水没した島国のことが書かれている本だ。その国は林檎の木を聖なる木として崇めていた」
ヒューズが目を鋭くした。黙ったまま本を受け取り、小脇に抱える。
「……結局首突っ込んでんじゃねぇか」
「エルリック兄弟とは無関係だろう?」
「本当かよ? あやしい言い分だぜ?」
「ただの好奇心さ。頼みたいと思っていたのは、この国のことだ。もし大総統府管理下に資料が残っているようだったら、要点だけ調べておいてくれ」
簡単に言うな、ヒューズはぼやいたが嫌とは言わなかった。
駅の建物が近づくといっそう喧騒が大きくなる。蒸気機関車が激しく水蒸気を噴き上げる音も聞こえてきていた。
「……実はな」
周囲のざわめきを待ってヒューズが言う。
「エルリック兄弟に下った指令には前任者がいたらしいぞ、それも名のある錬金術師ばかり」
「どういう意味だ?」
「わからん。だが、前任者は案内人共々みな行方不明になっている」
「…………」
「しかもリズマンが今日、大総統府に帰って来ていた」
ロイはさすがに驚きヒューズを見た。
「なぜ? あいつはエルリック兄弟の監視役だったんだろう?」
「表向きは案内役だった。彼らを目的地に送ったあと帰って来たらしい」
「…………」
「確か、リズマンも一度は国家錬金術師を目指した男だったよな? お前を恨んでたことばかりを考えていたから、他の要素に気付かなかったんだが……」
「今回の任務に錬金術の知識が必要だということか?」
「おそらく」
ヒューズはうなずき、ロイが考え込む前にもうひとつ情報を付け足した。
「そのリズマンと一緒に、今度はアームストロング少佐が呼ばれていた。行き先はわからなかったが、彼らは明日どこかへ出発するらしい」
もはや迷う余地はなかった。
「――ヒューズ」
「伝言か?」
「ああ。少佐に連絡をくれと伝えてくれ。今夜が難しいなら明日の朝にでも。とにかく彼らが南部へ着く前にだ」
「わかった」
東部への最終列車出発間近の案内が聞こえてきた。ヒューズとはその場で別れ、ロイは一人ホームへと急いだ。
02
最終であったことも手伝ってか、最も気軽な三等車両は満席で、結局個室造りになっている一等車両の切符しか手に入らなかった。一等車両の個室は、六人掛けの座席が向かい合わせに備え付けられているものだ。頑丈な馬車に似た木目調の内装である。
ロイは常々、一等車両ほど時間つぶしに困るものはないと思っていた。軍服を着ている時は階級柄仕方がないが、今日は私服であったから、一般市民に紛れてしまうつもりだったのだ。しかし、一等車両にいれば当たり前に車掌も挨拶に来る。何度となく会っている相手だ、顔を見た途端ロイが軍人であることも気付くに違いなかった。
「……つまらん」
ひとりごちて窓の外を眺める。
買ってきた本を読もうにも車内の電灯は暗い。結局窓の外を眺めるくらいしか楽しみはないのだが、その景色も夜ともなればほとんど闇一色で、田園風景であるのか炭鉱であるのかすら区別できるものではない。
ロイは自然と目を閉じていた。
眠かったわけではなく、ヒューズから聞いた話をぼんやりと思い浮かべていたら知らぬ間にそうなっていた。
うつらうつらとしていたかもしれない。どのくらいの時間目を閉じていたのかも覚えてはいないのだ。
けれども、挨拶回りに来るはずの車掌がなかなか姿を見せないことは気になっていた。だから、戸口に人の気配を感じた時、てっきり車掌が来たと思ったのだ。
目を閉じていれば声をかけることもないだろう。最初は無視していたが、いつまで待っても戸口から人の気配が消えない。扉には小窓がついているので、中の様子が見えないということはないはずである。にも関わらず、相手はノックをするわけでもなく、ただ立ち続けている。
「…………」
夢うつつにも鬱陶しい。
とうとうロイは目を開けた。そのままの勢いで相手を睨んでやろうとして、小窓から見えた顔に息を飲む。
「――鋼の?」
慌てて扉を開けた。
「どうして君がこんなところに?」
「うん……ちょっと。大佐、今、一人?」
「ああ……」
光線の加減か、エドの顔色はひどく青白く見えた。ロイと視線を合わせるとかすかに微笑んでみせる表情も、いつになく静かなもので違和感を感じる。
何かがあったのだとはすぐに気がついた。
「とにかく入ったらいい。幸い、ここの個室は貸切状態だ」
「そっか……」
しかしエドはためらう素振りを見せた。一歩を踏み出したものの、座席に座ることもなく戸口で立ち尽くしている。
「……鋼の?」
「あ、ええと……その、すぐ出てくし」
「そう言えば弟くんはどうした? 別の車両に待たせているのか?」
「いや……今日はオレ一人」
無理に笑っているように見えてたまらなくなる。
いっそ強引に室内へ招き入れてしまおうと手を伸ばせば、エドはまるで怖がるように後ろへと後ずさるのだ。彼に触れる寸前まで伸びた手は、だから結局肩も腕も掴めぬまま力を失くした。
ロイの手を視線で追ったエドが、申し訳なさそうにうつむく。
「ほんとにすぐ帰るから。ごめん……」
「いや……」
エドがいつもと違うので、ロイまで上手く言葉を思い出せなくなる。彼といて話題に困る沈黙は初めてだった。
「頼みが……あるんだ」
その沈黙を引きずったままエドは言った。小さく掠れた声だった。
「南部のベルーネ外れに、スチワート・アップルビーっていう人物が暮らしていた家がある――今は空き家っぽいんだけど、そこに動けない状態でアルがいる。アルを助けて欲しいんだ」
「私が? 君はどうしたんだ?」
「うん……何て言うか……ちょっとそこの家と相性が悪かったんだよな。でも大佐なら大丈夫だと思う。手っ取り早く火つけてくれてもいいし。アルも動けるようになれば、自分で出ていくはずだし」
「……鋼の? 話が見えないんだが」
「いや……そうだな、家の中に入るのは危険かもしれない。やっぱり外から火つけてくれよ、大佐には簡単なことだろ?」
「鋼の。ちゃんと説明を――」
「ごめん。オレもう行かなきゃ」
「鋼の……!」
身を翻す気配があった。ロイは咄嗟に手を伸ばしていた。
今度こそ己の手は彼の腕を掴むはずだった。
ところが、手はエドの腕どころか服にもかすりはしなかった。いや、距離的には充分に対象物を掴んでいるはずである。けれど指にその感触はない。指だけでなく手のひらにも。
エドの腕は、まるで実態のない影のようにこちらをすり抜けていた。
驚くロイを見て、エドはつらそうに目を伏せる。
「だから嫌だったのに……!」
待ってくれ、と、ロイは自分の胸の内で呟いた。先日も超常現象を見た気がするが、あれは見知らぬ老人が相手だった。しかし今ここにいるのはエドである。
「……君、まさか……?」
「言っとくけど、死んだわけじゃないから」
「だが、これは」
「オレにも良くわからないよ、大体あの薬はあんたがくれたものだろう?」
逆切れしたように言われてロイも考えた。エドにやった薬と言えば、あの怪しい「翼」とかいうものしかない。
では、彼はあの薬を飲んだというのか。
「……あんな正体不明のものを良く飲んだ!」
思わず感心してしまってエドに睨まれる。
「あんたは! そういう緊張感のないとこが腹立つんだよ! 状況見ろって、毒でも何でもそれしか打つ手がなかったから使ったんだろ!」
それにはさすがにむっとした。
「言葉を返すようで申し訳ないが、状況を語ってくれなかったのは君だぞ」
「う……っ」
「私としては、今すぐに、君が毒でも何でもいいから怪しいものを飲む気になった経緯を、一から聞かせてもらいたいんだが?」
旗色を悪くしたエドがうつむく。
「……でも、あんまり……時間がなくて」
「時間がないとは?」
「…………」
エドは何かを言い掛けてやめた。言葉にする代わりに、ロイの眼前にその手を差し出す。
見ればすぐに理由は知れた。
指先の輪郭が崩れ出している。皮膚が次々と塵のような細かい粒子に代わり、空気中へと溶けていくのだ。同じ光景をロイは一度目にしていた。あの薬をロイに預けた老人が、同じように壁から掻き消えたのだから。
しかし、エドが消えるのは黙って見ていられない。その手を再び掴もうとするが、やはりすり抜けてしまい、彼の手に温度があるのかもわからなかった。
「……君自身は無事でいるのか?」
もどかしく尋ねてもエドの反応は鈍い。ただ小さく微笑み彼の願いだけを繰り返す。
「さっきの……覚えてるよな? アルのこと頼む」
こんな時まで弟のことしか言わない。
ロイは己の頭にかっと血が昇るのがわかった。
「だから、君のことはどうなっているんだ!」
「……大佐」
「君も弟と同じ場所にいるのか?」
「……オレは……」
消えていく。手ばかりでなく足も、腹も、胸も。儚く透き通っていくエドの姿にひどく動揺した。
「鋼の! 消える前に答えてくれ!」
ほとんど乞うように言ったロイに、泣き笑いのような顔を見せ――
「……ごめん」
ロイの詰問はもう届かない。
エドを形作っていた最後の粒子が宙に溶け、汽車の狭い通路は無人の状態に戻る。
もはやどこを探しても人のいた名残はなかった。夢であればと願ってみても、そうでないことはロイの記憶と鼓動の速さが証明している。
茫然としていると、今頃になって隣の車両から車掌が歩いてくるのが見えた。
「――どうかされましたか?」
個室の扉を開きっぱなしにしていたロイをいぶかしんだのだろう、彼は真っ先にこちらへ声をかけた。
「これは……マスタング大佐。これからお帰りで?」
相手はロイの顔を知っていたらしい。一言二言、どうにか受け答えをしてやり過ごす。
「イーストシティまでもう一時間ほどですよ。もしもこれからお休みになるのでしたら、到着前にもう一度声をかけに参りますが?」
「いや……いや、大丈夫だ。ありがとう」
とても眠れる心境ではなかった。
ロイは個室に戻ると脱力して椅子に腰を落とした。
南部のベルーネ、エドはそう言っていた。すぐにも追いかけたい気分だったが、当然できることではない。明日は通常の勤務日であったし、曲がりなりにもロイは東方司令部の指揮官である。何の指示もなしに己の持ち場を放り出せば、いくら部下が有能であろうと混乱は免れない。
己がやるべきことを懸命に考えた。
アームストロングからの電話を待って、事情を説明し、もしも必要であればブラッドレイにも連絡を取る。アームストロングからの応援要請があったということにすれば、密令の任務に関与する言い訳は立つのだ。
しかし――
どう急いでも、ベルーネに着くのは明日の夕方のことになる。
「どうして謝ったりしたんだ……!」
ロイはいらいらと吐き捨てた。エドは無事を確認する問いに決して答えようとしなかった。偽りでも一言大丈夫だと言ってくれていたなら、こうまで心配はしなかったのだ。
己の指先を睨んだ。彼の腕を捕まえられなかったことが悔しくてならない。
エドが使った「翼」はロイの家にも保管してある。正体不明の薬だ、自分では絶対に服用しないつもりでいた。
けれども、おそらくロイは自宅に帰るや否や、あの小さな革袋を手に取るだろう。その中から薬を取り出し、衝動的に口に入れてしまうに違いない。
今の今まで、自分は彼に対してもっと冷静に振舞えるものだと思っていた。
「好き、か……私は。……君を?」
言葉にすればなおその思いは苦かった。
03
例の革袋は、朝使ったマグカップと一緒にテーブルの上に置きっぱなしになっていた。ロイはそれを手に取り、中の丸薬を手のひらにこぼしてみる。赤いものから黒いもの、おおよそ木の実が熟すように、同じ形をしていてもそれぞれ微妙に色が異なっている。
エドにやった一粒は確か赤みのある薬だった。
どの色でも大して効果が変わるものではないのかもしれない。何より、これをロイに渡した老人は「翼」が何たるかの基本的なことしか語らず、飲めばどうなるといった具体的な説明をしなかった。
それでも、何となくエドとは違う、黒みを帯びた色の丸薬を選んだ。木の実のように熟すものなら、効果が変化するかもしれないと思ったせいだ。
ロイはそれを口に放り、しばらく舌で粒を転がした。変化はすぐには訪れず、ひとまず椅子に腰掛ける。
奇妙な味だった。鉄分の強い、まるで血が凝ったような味。
噛めばまた嫌な食感である。得体の知れない肉でも食べている気になった。
そんな味に眉をひそめているうちに――
気付くと屋外に立っている。しかも見慣れた場所である。
驚くよりも、そのデタラメさ加減にまず呆れた。ロイの足元にあるのは、何度となくこれまで歩いてきたコンクリートの階段だ。
東方司令部の正面玄関である。
思わずしげしげと建物を眺めてしまった。そのうち警備役の憲兵が泡を食って駆けつけてくる。
「マ……マスタング大佐でありますか? こんな時間にお見えになるとは……何か事件でも……っ」
相手に自分が普通に見えていることに感動した。
笑ってしまいそうになったが、怪しまれるのは部下でもまずい。エドの時を思い出すなら、ロイもホログラムさながらに物体をすり抜けてしまうに違いなかった。
「……いや、騒がせてすまない。ちょうど通りかかったもので様子を見ただけだ」
「は、はぁ……」
「今日一日、司令部では変わったことはなかったか?」
「は?」
「私は非番だったものでね」
「あっ、は、はい。通常の警備体制で変わりはありません」
「そうか、ありがとう。こちらは気にせず君の仕事を全うしてくれ」
「了解しました。では、失礼いたします」
彼は直立不動で敬礼すると、本当に何も気付かず持ち場へ帰って行ってしまった。
「……すごいな」
ロイは苦笑し、遊んでいる場合ではなかったのだと気を引き締める。
深呼吸をし、エドのことを思う。緊張は一瞬だ。目の前の光景が瞬きほどのタイミングで入れ替わるのを、やはり少しの感動と共に眺めていた。
まず見えたのは鬱蒼と茂る密林に埋もれた家だった。屋根の頂と柱が月明かりで鈍色に煌いている。南部に良く見る、古く簡素な造りの木造建築だ。
だが辺りを見回せば己の知識に不安になる。
南部は乾燥した地域のはずで、いくら水源のあるベルーネでも、雑木林が育つほど豊かな土壌はなかったと記憶している。かつて軍で農場を作る計画が持ち上がったことがあるが、農作に適さない土が災いして計画が立ち消えたことがあったのだ。
最初に司令部へ飛んでしまった時のように、全く別の場所へ移動してしまったのかもしれない。しかし、それにしては風景に見覚えがなさ過ぎる。
結局歩いてみることにした。
道すがら、試しに木の幹に手を差し入れる。指は極々簡単に太い木の中をすり抜けた。
いつかの夜に、あの革袋をロイへと託した老人は、壁の中にいた。あれは通り抜ける寸前で何らかの要因があって身体が埋まってしまったのかもしれない。
「…………」
己に置き換えれば当然無茶はできなかった。ロイは障害物に注意し慎重に道を辿ることを選んだ。
足元を確めると、白っぽい小石が地面に散らばっていることに気がつく。調べれば規則性の発見できそうな様子に興味を惹かれたが、今は一分一秒を無駄にしたくない。
やがて家の正面に着いた。
「……弱ったな」
そう言えば、エドも汽車の中でドアの前に突っ立っていた。きっとノブを掴もうにもできず、通り抜けることにも抵抗を感じたのに違いない。あの時はロイが内側から扉を開けてやったわけだが、今の状況で同じことを望むのは無茶だ。
ロイは家の脇を確めた。どの側面も低木が塀のように取り囲んでいるが、平らで厚さもわからない扉を通り抜けることを考えれば、枝と枝の隙間が有難かった。
覚悟は決まった。ロイは最も枝葉の薄そうな場所に中りをつけると深呼吸し、勢いをつけて林を突き切る。
移動は思ったよりも楽だった。一瞬のあとには裏庭と思しき空き地に立っている。身体にも異常はなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。
その時だった。
「……誰か、そこにいるな?」
人の声を聞いて、初めて無人ではなかったことを知った。
見れば、黒髪の人影が椅子に腰掛けている。服装は足まで隠れる真っ白な長衣。月明かりに白が良く映え、淡い光を反射し、顔の造作もぼんやりと窺えた。
第一印象は、まず表情のない顔だと思った。瞼は閉じてあるし、全く動かない――微動だにしない。ロイは男をまじまじと観察したのち、次に純粋に不思議になった。普通どんなに固まっていようと、呼吸の動作でかすかに肩や胸が上下するものである。ところが男は見事に静止している。
「近頃客が多くて困る……お前も錬金術師か」
男の口から出る言葉までが抑揚に欠けていた。しかし、感情がないからこそ侮蔑的に聞こえる言葉もある。
相手の身体的特徴はさておき、ロイは小さな反発を覚えて攻撃的に微笑んだ。
「初対面の相手にお前呼ばわりされるとは心外だ」
そのままこちらも相手に対しお前呼ばわりしてやろうと思ったのだが、続きを言う前に、男がじっと向き合っている木の存在に気がついた。
月の弱い光で妙にきらきら光っているので、何か金粉でもついているのかと目を凝らす。
背の低い、まだ若木だった。たおやかな女性が真っ直ぐに立っているような――
林檎の木である。金色に光る林檎の木。
偶然にしては出来すぎだった。ロイは改めて男を観察する。相変わらずぴくりとも動かぬ姿勢でそこにいる。こちらに話しかけてきたくらいであるから、生きてはいるのだろうが、作りものに見えて気味が悪い。
「……そこにある木は林檎か? 何やら光って見えるが、そんな飾りをつけていると軍人が飛んでくるぞ」
反応を見たくてわざと言った。すると男は、ギギギと軋みを鳴らしながら顔をこちらへ向ける。
本当に人形ではないか――完璧な微笑みで偽った顔の下で、ロイはひそかに驚倒した。
「軍人だと?」
「知らないか? 金の林檎には発見と同時に焼却命令が出ている。その木も発見されれば即刻ケシ炭になる」
「ケシ炭……」
男が無表情に憤る。
「そのようなことをさせるものか。第一、人間であれば我らの結界の中で長く人として存在はできまい」
「結界とは?」
「お前に話す義理はない」
その声の調子で、こちらからの疑問に答えるつもりがないらしいことは理解した。
「今ここにいるということは、既に我らの結界内部にいるということだ。お前もいずれ身をもって知るだろう。人を捨てたくなくば早めにこの家から出て行くことだな」
一方的に言い捨てると、男はまた軋みを上げて顔を背ける。
相手に取り付く島がなければ作るまでである。ロイは軽い素振りで肩を竦め、しかし声を冷淡なものに変えて言ってやった。
「では次に私がここへ来た時に注意するのだな、私の焔は一瞬で雑木林ごと家もその木も炭に変える」
男は束の間沈黙し、次に低く問いかけた。
「……お前は軍人か」
「錬金術師でもある」
「そうだとしても我らの結界の中だ。特に夜は術も強まる。五体満足では帰れぬ」
ロイは笑った。
「次に、と、私は言っただろう? 申し訳ないが、今の私は少々わけありの状態でね。ここにいるように見えても、実際は遠く離れた場所にいるのだろう」
男の顔色が変わったように見えたのは錯覚か。
この動揺は見逃してはいけないと直感する。すぐさま次に己が言うべき言葉を考えた。
なぜ今の言葉で男が動揺するのか。それはロイが言外に匂わせたものに男の方でも心当たりがあるからに違いない。
黄金の林檎について、翼という新要素を得て以来、ロイはマールスとの繋がりを推理した。
人の声で悲鳴を上げた木。飲めば距離を越える薬。塵と消えた老人の女王への遺言と、今ロイの目の前にいる人形のような男。全て一つの環ではないと誰に言えよう。
証明するには、たった一言、目の前の男から聞き出せば良いのだ。
男の傍には金色に輝く林檎の木がある。この男とロイに薬を託した老人が関係しているのなら、すなわち老人も、翼と呼ぶ薬も、黄金の林檎事件に関係しているということではないか。
ロイは注意深く言葉を選んだ。
「――先日、ある老人に奇妙な薬をもらった。一粒飲めば千里を翔けるのだとか。今の私はその薬を試している状態だ。だからデタラメなことになっているのは自覚している。ここへ来るまでもずいぶん木をすり抜けてきたのだが……あなたがたの結界というものは、実体のない今の私にも通用するものなのか」
「……それは……」
ロイの言葉を聞いた男は、初めて感情もあらわな声音を使った。
「それは……翼ではないのか……?」
環が繋がった。ロイは男に答えぬまま、なお踏み込んだ決定的な問いを口にする。
「その前に、あなた方はマールスの関係者か?」
男は黙り、しばらく金色に光る若木を見つめたあと、小さくうなずいた。
04
スチワート・アップルビーの偽名を使った人物が暮らした館は、マールスに伝わるという秘術によって、姿を植物に変えられた人々で溢れ返っていた。
庭に面した大窓から足を踏み入れたロイは、室内でざわざわと蠢く草木の姿に圧倒された。
どれもこれもが元は人間だったとは思えない姿だ。庭にいた男の話によれば、この家には人を植物に変えるための「花粉」と呼ぶ麻薬のようなものが充満しているらしい。多少吸い込む程度であれば害はないが、長時間吸引すれば深い催眠状態に陥る。
そこから人が植物になるまでの過程は、ほぼ本人の意思の力によるものだと言う。俄かには信じがたい話だが、自分が植物だと思い込むことによって、人間として物を考えたり食べたり眠ったりすることを本当に忘れてしまうらしい。
そして植物であると自覚したが最後、この場に張られた結界が働きかけ、半永久的な効力のある姿くらましの魔法がかかるのだとか。
ロイが、エルリック兄弟を探しに来たのだと言ったなら、男はあの抑揚のない声で、人の姿をしているうちに連れ出せば助かる道もあると言った。
そうと聞けばぐずぐずできない。男からは、後日翼を与えることを条件に今必要なことだけを聞き出した。まだまだ疑問は多かったが、事件解明には日が悪い。
実際どう頑張ろうとも、ロイには今夜他に打つ手がないのだ。物をすり抜けてしまうということは、即ち、蔓を切る斧も持てなければ火をつけるマッチも持てないということだ。庭にいた男に手伝いを強要もできたが、実現は難しかった。
あの男――人間には見えないと思っていたが、どうやらこの場所の秘術で植物に変わりかけているらしい。強く意志を持つことで常人よりも長く抵抗しているらしいが、ロイが示されて捲ってみた長衣の下に人の身体はなく、蔓状のものが寄り集まった植物と化していた。
男はただひたすら待ち望んでいたのだと言った。
スチワート・アップルビーの偽名を使った人物――つまりは、ロイに丸薬を託したあの老人から、翼を預かり運んでくる者の到来を。
ロイは蠢く植物を避けながら通路を進んだ。
木の根や蔓でがんじがらめになっているアルフォンスを発見したのは、実験器具の散乱した部屋だった。
ロイの姿を見ると、さすがにアルフォンスも驚いたようだった。
「どうして大佐がここに……? でも助かりました、僕たちだけじゃもうどうしようもなかった!」
「君の兄さんに呼ばれた。しかし今の私はそう喜んでもらえるほど役に立つ人間じゃない」
口で説明するより見せた方が早い。ロイはアルフォンスの鎧に触れる。あっさりと通り抜ける手を茫然と眺め、彼は何と言って良いのかわからないというふうにこちらを見た。
「……何だかこの家に来て以来、不思議なことにばかり出会ってる気がします……」
ロイは苦笑った。
「気持ちはわかるよ。とにかく私は今この通りの身体だ、真実に君たちを救い出す作戦は明日になる。少しつらい状態が続くが、どうか待っていてくれ」
誓いを立てようとすると、アルフォンスは木の根で押さえられわずかしか動かない首を、慌てて左右に揺り動かした。
「僕はいいんです! どこかが痛いわけじゃないし、背中の印は兄さんが守ってくれたし……でも、途中で兄さんとはぐれてしまって、丸二日も会えないままで心配で……!」
「君たちは一緒ではなかったのか?」
「一昨日の夜、この家の植物が動き出すまでは一緒でした。けれども、僕が先に捕まってしまって、兄さんは多分僕のために何かをしてくれようとしたんだと思います。一度隣の部屋に向かって、そのあとは全然……いくら声をかけても返事がない」
ロイはすぐに隣室を覗いてみたが、植物がずるずると這い回っているだけで無人である。
「いない。彼は違う場所にいるらしいな」
「……どこかで僕と同じように動けなくなっているということでしょうか?」
「多分そうだ。この木には彼の錬金術は効かなかっただろう?」
ロイが尋ねると、アルフォンスは驚いて顔を上げた。
「どうしてそれを……? ここの木や蔓は変なんです、錬成できないだけじゃなくって、千切ったり折ったりすると人の声で悲鳴を上げる」
「ああ……君たちも薄々気付いたかもしれないが、この家にいる植物のほとんどが元は人間だったらしい」
「じゃあ……」
「これを人間として錬成を試みるならまだしも、植物だと認識して錬成を施すなら効果は上がらないだろう」
万が一、途中で相手が人であることを悟ったとしても、エドは苦戦したに違いない。
「とにかく探してみるよ、君も無理はしないでくれ」
ロイが言うと、アルフォンスはうなずき、兄を頼みますと頭を下げた。
05
一通り部屋を見て回ったにも関わらず、エドの姿だけが見つからない。
まさか既に植物に変わっているとは思いたくなかった。第一、つい二時間前には、ロイは人の姿をしたエドを確かに見たのだ。それは、その時分のエドに翼を服用するための手と口があった証拠にもなる。
アップルビー邸に二階はない。他に人一人が隠れられそうな場所と言えば、地下ぐらいのものだ。
ロイは地下があるかもしれないことを念頭に置き、もう一度家の中を歩き回った。すると、案の定、かつてはキッチンとして活用されただろう場所に、地下貯蔵庫への入り口らしき床穴を発見する。
最初に来た時に気付かなかったのは、夜で部屋が暗かったせいもあるが、辺りの木の根が穴に蓋をするように絡まり合っていたせいでもあった。
上から見る限りでは地下はなお暗い。
ロイはまず声をかけた。
「――鋼の? そこにいるかい?」
すると即座に慌てた声で、
「え……た、大佐?」
反応があったことに心底安堵した。ロイはもう迷わず床穴へ飛び降りた。木の根で蓋をされたそこをすり抜け、床らしい足場に届いた途端、ぱん、と、エドが軽く手を叩く音がして辺りにかすかな光が滲む。
見れば、エドはどこから引っ張り出したものか、アルコールランプを持っていた。錬金術でランプの芯に火を灯したらしい。
「……ほんとに大佐?」
ロイと視線を合わせてもまだ信じられないように彼は言う。
「ほんとに私だ。君が嫌な別れ方をするから気になって来てしまった」
「まさか、あれ飲んだのか?」
「飲んだよ、変な味だった」
「味? 舐めたの、あれ?」
「舐めたよ、噛みもした」
「……良くあんな正体不明のもの……」
「なんだい、それは。仕返しかい?」
「いや、スナオな感想。あんたすごいね」
思ったよりも快活な受け答えが嬉しい。ロイは思わず顔が笑ってしまうのを止められなかった。
地下には中身のわからぬ木箱がいくつかしまわれてあったが、階上で見慣れた植物はひとつもなかった。エドは木箱に寄りかり、足を投げ出すような格好で座っていた。
「……見たところ怪我はないようだが、なぜここに? 上で弟くんも心配していた」
ロイが隣に膝を付きながら問うと、エドは疲れた様子で息をついた。
「一度気を失ったらしいんだ。その間にここに閉じ込められた。上に行く努力もしたけど駄目だった――足がさ、動かないんだ。手もヤバイ、肩まで上げるのがやっとで……錬金術で新しい出入り口作ってやろうかと思ったけど、力が入らなかった。多分この家に充満してた変なもんのせいだ」
アルコールランプに火をつけるだけで精一杯だと、エドは悔しそうに笑う。
ロイが庭にいた男から聞いた通り、彼は花粉に蝕まれているのだ。だとしたら、一刻も早く家の外に出してやらねば暗示に囚われてしまう。
ひそかに表情を厳しくするロイに、エドの方が不思議そうな顔をした。
「……あんまり驚かないんだな。もしかして庭にいたやつに話聞いた?」
「聞いたよ、いろいろとね」
「わけわかんねぇことばっかりだっただろ?」
「そうでもなかった。おそらくこの事件はこれで終わりだ、君にも後日説明しよう」
「後日……?」
ロイの言葉に、エドは小さく口を歪めだ。
「後日があるかどうかわからないだろ。解決したんだったら今教えてくれよ」
「鋼の?」
エドは驚くほど真面目に言った。
「聞いたんだろ? オレ、多分そのうち植物になる。オレだけじゃなく、この家に入った人間はみんな。だから汽車の中でも言ったじゃないか、燃やしてくれって」
ロイは言葉の強さに頭を横殴りにされた。咄嗟に声が出ず、ただ見つめることしかできない。
「――燃やしてくれ、大佐。それが一番いい」
エドはなおも言った。恐ろしく真剣な様子だった。
呆けている場合ではない。ロイは急き立てられるように口を開くのだ。
「何を言うんだ、君は。いいかい、明日私はここへ来る。君と君の弟を迎えに来て、そして一緒に外へ出るんだ。君にかけられた魔術はまだ半端なものだし、外に出ることができればきっと元通りになる」
「そんなのウソだよ」
「嘘? 何が?」
「どこが半端なんだ? 実際にオレの足も手も動かないだろう?」
「錯覚だ、鋼の。あの男も言っていた。意志をしっかりと持っていれば、それほど簡単に植物になることはない。今の君は人間だ、手も足もちゃんとある。それは君の意志通りに動くものだ」
エドが悲しくてならないように頭を左右に打ち振った。
「あんたにはそう見えるのかもしれない。でもそうじゃない――一時間後、二時間後、明日にはもっとそうじゃなくなる」
「君らしくないことを言わないでくれ。どんなに頼まれようと、私は君の自殺を手伝うつもりはない! 火など放たないよ」
「……自殺……?」
エドは力なく微笑んだ。いつもあれほど強く輝いていた飴色の瞳が、虚ろに揺れている。
「……ずっと声が聞こえてくる」
そうして、何かに憑かれたようにその唇は語るのだ。
「この場所で目を覚ましてからずっとだ……声だと思う。オレに足はいらない、手はいらない、腰も腹もいらない、胸も喉も頭もいらない……肝臓も心臓も脳も肺も……血液もいらない、心は捨ててしまえ、目を閉じろ、話すな聞くな。そんな声ばかりずっと……」
それが暗示と呼ばれるものかロイに判断はできない。
「オレはいちいちそれに反発して戦って……どんどん疲れてくる。足は重くていらないような気がしてきて、手も自由にならないんなら邪魔だと思う。多分、こうやってひとつずついらなくなっていく……」
「……鋼の、やめなさい」
弱音など彼の口からだけは聞きたくなかった。
「足が重くなって……それからアルのこと思い出して、あんたに頼まなきゃって思ったよ。頼んだあとは急に楽になった。あぁもう足はいらないなって思った。手も……。アルコールランプ、上で気絶する間際に掴んでたみたいで、ずっと傍にあったんだ。錬金術でさ、火つければ明るくなるってわかってた。なのにそんな気になれなくって、錬金術使わないんだったら手もいらないやって思った……」
「鋼の、やめるんだ――聞いてくれ、明日私もここへ来ると言っただろう? 君は私と外へ出るんだよ」
「足、な。感覚なくって、もしかして切ったらもう血も出ないんじゃないかって……確めてみようと思ったんだけど、手が動かなくて……怖くて……」
「鋼の!」
エドはこちらの制止にやっと反応したが、もはや泣き笑いに近い表情で声を掠れさせる。
「怖くて……さ。いっそ全部いらないって思ったら楽になるんじゃないかと思って……どうしようもなくなった時に、あんたが来た」
次の瞬間、彼の瞳からゆるやかに溶け出す涙に、ロイは知らず息を飲むのだ。
「大佐、オレ……まだちゃんと人間?」
「当たり前だろう……」
「ほんとかなぁ……?」
ぽろぽろと。
それはひどく綺麗なものに見えた。綺麗だが痛い、流れ続ければいつかロイの鼓動すら止めてしまうようなもの。
たまらなくなって指を伸ばす。そんなものが始終流れ続けることは恐怖だった。しかしロイの指は彼の頬をすり抜け、雫もまた形を変えることなくこぼれ落ちていく。
「……鋼の。頼む、泣かないでくれ」
ロイは絶望的な気分で言った。
拭えない指で彼の頬を拭い、掬えない手のひらで雫の受け皿を作る。何度試してもこの手は役に立ちはしない。ロイこそ狂いそうになりながら、彼の涙に濡れもしない己の手に腹を立てた。
ロイの必死な様子を目に入れ、エドがそっと力を抜く。
「バカだな、大佐……。あんたまでそんな顔することないのに……」
言葉と一緒にまた涙が落ちた。
ロイは窒息しそうになりながらそれを見た。一粒地に落ちるごとに世界の終わりが迫っている気になる。
「私にできることなら何でもする。だからどうかこれ以上泣かないでくれ」
とうとう蒼白になって彼へ縋った。役に立たなかった手は捨て、ロイはエドの頬に口を寄せる。目じりと瞼にも触れ、キスの真似事をする。
「明日必ず迎えに来るから――だからそれから私を好きに使えばいい。君が望むなら何でもかなえる」
エドが小さく震える。
「……何でも? 本当に?」
「何でも。本当に」
心から誓ってその唇にも口付けた。
感触はなくとも、ロイがそうしていることを彼が見て知ってくれていればいいと思った。
「……あんた、甘やかしすぎだよ……」
泣きはらした目でロイを見つめ、エドは幼く笑った。
じゃあ考えとく。
屈託のない答えはひどく愛しく、ロイは翼の効力が消える寸前まで、彼を形作る全てにキスをした。