01
必ず迎えに来るから。
契約書すらない約束を、昨晩ほど何とか形にして残してやりたいと思ったことはなかった。
その朝、ロイは軽くシャワーを浴び軍服に着替え、常よりも三時間早く自宅を出た。結局一睡もしなかった。エドと別れ、己の身体に戻ってきてからは、中央で購入してきたマールス関連の書物を片っ端から読んだ。
スチワート・アップルビーの著書も、一冊だけだが運良く購入分に混ざっていた。
さすがにあの館で見たような秘術についての記載はなかったが、マールスで「魔術」と呼ばれるもののことについては少なからず触れてあった。
マールスで魔術と呼ばれるものは、女王付きの神官である「蜂」が使う、主に術者の生命を材料とした呪術であるらしい。要するに命と引き換えに行える儀式であるので、蜂は生涯一度しか魔術を使えず、使ったあとは当然死に至る。このことから、魔術は蜂の「針」とも呼ばれていた。
おそらく、ロイに翼を託したスチワート・アップルビーは、翼を作ることで生涯一度の針を行使した。あの館に充満した花粉も誰か違う蜂が命と引き換えに作ったものだろうし、結界と呼ばれていた術にしてもまた別の蜂が作ったものなのだろう。
そうまでして、あの館は何かを守っていた。
金色に光る林檎の若木が何であるのか、ロイは不確かな推測しかできない。はっきりしているのは、たとえ何かが守られているのだとしても、あの場所を焼き払わなければ、半永久的に植物へと姿を変える人間が生まれるのだということである。
そして、何とかしてあの場所の呪術を解かなければ、エドは助けられない。
アルフォンスはいい。元々肉体がないことや呼吸をしていないこと、食事を必要としないことが救いになっている。だがエドは違った。時間を追うごとにエドの暗示に対する抵抗力は落ちる。そもそもエルリック兄弟が南部へ旅立って四日目になる。エドはその間食事をしていないだろうし、もしかしたら水も飲んではいないかもしれない。
土がなくとも根を張っていた植物たちを考えると、水分だけは花粉と呼ばれるものにでも含まれているのかもしれなかったが、これも定かではないのだ。どちらにせよ人は口から水を飲む。エドのいた地下の貯蔵庫には水道らしきものは見当たらなかった。
急がねばならない。
ロイは東方司令部の正面階段を駆け上る。慌てて敬礼をする憲兵たちに見送られ、まだ薄暗く軍人も少ない建物内を足早に歩いた。
まずは通信部へ向かう。電話交換手は二十四時間態勢で外部からの通話をチェックしている。もしもアームストロングから電話が入ったなら、何を置いても緊急に取次ぎをするよう指示を与えておくつもりでいた。
ところが、向かった先では意外なことを聞いた。
「昨日、何度も電話があったんですよ」
朝早くから姿を見せたロイに驚きつつ、受付担当の女性は、通信記録表を差し出した。
見れば、朝から夕方まで、およそ二時間に一度の割合でロイに取り次ぎを願う電話が入っていた。呼出人の名は、いずれもカイ・リズマン。非番で司令部にいないのだと話しても、しつこくかかってきたのだと言う。
「何か伝言のようなものは?」
「いいえ。こちらでは何も。ただ、あんまりな回数だったので、ハボック少尉に一度話していただいたんです。ですから、少尉が何か聞いていらっしゃるかもしれません」
「わかった、ありがとう」
ひとまずアームストロングの件だけを伝え、通信部を出た。あとは大部屋に直行し、ホークアイの机で、今日中にロイの決裁が必要な書類を手に入れる。司令官室に向かいながら、小分けにされていた通達類にも目を通した。
ロイの執務机にも急ぎと思しき書類は乗っていたが、差し当たって判断に時間のかかりそうな案件はない。
しばらくは、ひたすらデスクワークに勤しんだ。
二時間も経った頃、落ち着いたノックと共にホークアイが顔を出す。
「……どうかなさったんですか?」
ただでさえ常より早い出勤である。しかもまだ勤務時間前だ。そんな条件で自主的に仕事をこなすロイを見れば、彼女でなくとも驚いて理由を尋ねたに違いない。
ロイは最後の決裁分の署名を書き上げると、書類をまとめて彼女に手渡す。
「急なことですまないが、二日ほど南部のベルーネへ行ってくる。十時には司令部を出るから、急ぐものがあればすぐに持ってきてくれ」
「は? あの……今日から、ですか?」
「ああ。少しわけがあってな。何をしに行くかとは訊かないでくれよ、中尉」
ホークアイは束の間口を閉じ、次にロイのいない間に指揮官を代行をする人物の名を尋ねた。ロイが司令部で最も信頼する将軍の名を告げると、彼女もいくらか安心したように息をつく。
「わかりました。誰かを連れて行かれますか?」
「いや、一人でいくよ」
「…………」
「大丈夫だ、向こうでアームストロング少佐と落ち合う」
アームストロングは錬金術師としても有名な人物だ。彼の名を出したことで、ホークアイも事情を察した表情になった。
「それでだな、中尉」
「はい」
「九時になったら大総統府に連絡を取って、私が大総統閣下と話をできるように取次ぎを頼んでくれないか」
ホークアイがまた目を大きくしてロイを見た。
「頼めるか?」
もう一度繰り返すと、今度は敬礼とともに歯切れの良い了解の声が返ってくる。
ロイは満足してうなずいた。
「頼む。あと、ハボックが来たら、私の元に来るよう伝えてくれ。リズマンからの電話のことが聞きたい」
「了解しました」
ホークアイが退出するのと入れ替わりに、アームストロングから一般回線を使って電話が来たと連絡が入った。ロイも即座に司令官室を出て大部屋に向かう。
途中、ハボックと出くわした。大部屋に向かいながらリズマンのことを訊くと、
「それが何か良くわからなかったんスよ。愛人問題がどうのって……大佐、愛人いるんスか?」
ハボックのとぼけた返答には溜め息しか出ない。
「まぁ……何の話なのかは想像がついたがな」
ロイがぼやけば、すかさず彼もぼやき返す。
「いいっスね、愛人。俺にも女紹介してくださいよ」
部下の言いように、ロイは喉を鳴らして笑った。
「女、な。ハボック、その愛人というのは女性じゃないぞ」
「へ?」
ハボックはその場で立ち止まってしまった。
彼を置き去りにしたまま、ロイは一足先に大部屋へと足を踏み入れた。
通常、一般回線からの電話は取り次がない規則になっている。取り次ぐのは、相手が軍の個人識別コードを持っている場合で、アームストロングはそういった手順を踏んで民間施設から連絡を入れているのだ。一般回線を使用する電話は、軍の公式記録に残すために、わざと固定した電話番号へ繋げられる。
ロイの私室にも電話機はあったが、こういった理由で一般回線を使うものは必ず大部屋の電話機に転送された。
大部屋には既にほとんどの軍人が顔を揃えている。
よほど気をつけて話さなければならないなと、ロイは受話器を持ち上げながら気を引き締めた。
「――朝早くからすまなかったな、少佐」
まず出し抜けに言えば、受話器の向こうで苦笑う気配がする。
「お久しぶりです、マスタング大佐。ヒューズ中佐から伝言を受けましたぞ。我輩に何か話があるそうですが?」
アームストロングは相変わらず生真面目な声をしていた。彼はイシュヴァールの戦いにも貢献した国家錬金術師でありながら、階級は未だ少佐のまま昇進のない人物だった。
けれども決して愚鈍な男だったわけではない。武術は達人の域に達していたし、頭も良く、大柄な身体に似合わず手先までもが器用だ。
何より、義に厚く、誠実な人柄をしていた。
ロイも、相手が彼でなければこんな頼みはできなかったに違いない。
「少佐に頼みたいことがある。今君が関わっている任務の応援として、私をそこへ呼んでくれないか?」
アームストロングはさすがにすぐには返事をしなかった。
「……任務、と、申しますと」
固い声に、今度はこちらが苦笑う。
「隠す必要はない。おそらく私は少佐よりもその事件については詳しいはずだ」
「どういうことですかな?」
「私から経緯を話したいが……少佐のいるそこは人の多い場所ではないか?」
アームストロングが躊躇するのがわかった。
「いや、おそらく君の傍にいる人物も、大方の経緯を知っていると思う。詳しくはそちらで聞いてくれ、私の愛人の話をしてくれるだろう」
「は?」
アームストロングだけではなく、近くでロイの話を聞いていた軍人までもが動きを止めている。
「とにかく……少佐、私の頼みを聞いてくれるか?」
「ですが……」
「わかっている。例の御仁には、こちらから連絡を入れるつもりだ。ただ私は、少佐から応援を頼まれたという形が欲しい」
「……それは、かまいませんが」
「すまない」
「いえ。ただ、よろしいのですかな?」
「何がだ」
「いえ……差し出がましいことですが、私の連れとマスタング大佐とは、あまり相性がよろしくないはず」
イシュヴァールを共に戦った仲間だ。アームストロングも、その時にロイとリズマンの間でどんなやり取りがあったのか知っている。
ロイは笑って言った。
「気にしないでくれ。とにかく、私も十一時の急行でそちらへ向かう。おそらく夕方には合流できるだろう」
「場所はご存知ですか?」
「ああ。雑木林の入り口で落ち合おう」
「雑木林……」
「わからなければ君の連れに聞いてくれ。くれぐれも私がそちらへ着くまで館に足を踏みれないように」
「わかりました」
アームストロングが実直に答えた。
「ありがとう、少佐」
「いえ」
通話を切り、息をつく。
ロイは背後を振り返り、さり気ないふうを装って聞き耳を立てていた大部屋の軍人たちを片手で払う真似をした。
大総統府との通話は、さすがに私室へと回線を回した。
取り次ぎを受け持ってくれたホークアイが部屋から退出するのを確めつつ、ロイは受話器越しにぷつぷつと途切れる通信音を聞いていた。
間もなく、回線自体が切り替わる音かして一切の雑音がなくなる。
「……私だが?」
落ち着いた声音の応答が聞こえた。
ロイも冷静に挨拶を返した。
「ロイ・マスタング大佐です、大総統閣下。朝から時間をいただいてしまって申し訳ありません」
「かまわんよ。今日はこれほど天気が良いというのに、私の元には相変わらずつまらぬ書類しか並ばぬからな。退屈していた」
ブラッドレイの口調はやわらかい。しかしこの軍事最高責任者が、どれほど強引な手腕を発揮してこの国を淘汰したかロイは知っている。
決して人として敬える人物ではなかった。しかし、間違いなく彼こそが軍人の頂点であった。
「それで? 一体どういう用件だね?」
「アレックス・ルイ・アームストロング少佐から応援を頼まれました」
答えれば、ブラッドレイは楽しげに相槌を打った。
「そうか。それで君は?」
「応じたいと思います。許可をいただけますか?」
「ふむ。そうか……まぁ、本音を言えば君に出られるのは困るのだがな」
「どうしてですか――と尋ねてもよろしいですか?」
「かまわんよ」
ブラッドレイは軽い調子のまま続けた。
「理由はひとつだ。君が焔の錬金術師だからだ、マスタング大佐。あれは焔にからっきし弱い」
ロイは内心ひやりとしたが、努めて事情に鈍いふりをする。
「……良く、わかりません」
「本当にそうか? 君は確かイーストシティ近郊にあったあれを一本燃やしているだろう? そして、報告書には異常がなかったと明記した」
「それが何かいけなかったのでありますか?」
「いいや。だが、君以外の担当者は、多かれ少なかれ曖昧な報告書を作った。君の迷いのない報告書を見た時から、この事件を終わらせるのは君だという予感があった。なぜかわかるかね?」
「…………」
「私はこの事件を調査するために多くの錬金術師を投入した。だが、君だけはそうするつもりがなかった。それで君と縁の深い錬金術師を南部へと導く時には、カイ・リズマンをつけた。君とリズマンには確執があると聞いて知っていたからだ」
ロイが答えずにいても、ブラッドレイは咎めもせずに笑って言った。
「だが……まぁ、ここらが潮時なのかもしれぬ。良い。許可しようじゃないか、アームストロング少佐と行動を共にしてくれ」
「ありがとうございます」
「時に――君に応援要請をしたのは、本当にアームストロング少佐か?」
これは絶対に気付かれている。わかっていたが、ロイはさも真実のように答えた。
「はい。他に誰か?」
ブラッドレイが笑った。
「いいや。私は正直者の方が好きだが、君のそういうところは嫌いではない」
「ありがとうございます」
ようやく電話を切るタイミングを計り始めると、気配を悟ったのか、受話器の向こうからつまらなさげな溜め息が聞こえた。
「ふむ。しかし勿体ない……やはり君が出て行けば全て無になってしまうのだろうなぁ……」
「何か残したいものでもありましたか?」
「残せるのか?」
「いいえ。私の焔はそれほど半端なものではありません。必ず問題は解決しますが得るものはありません」
「ふむ。やっぱりそうか……残念だ」
ブラッドレイも承知の上で確認したのだろう。マールスの遺産ともいうべき、あれらの魔術の数々は、いくら精鋭の錬金術師たちが研究をしたとしても同等の成果を上げることはない、奇跡の術である。素晴らしいとは思うし、あれを使いこなすことができれば、国家統治に画期的な力が加わるかもしれぬこともわかる。しかしロイには、多くの犠牲を出してまであの技術を解明する必要はないと思えた。
新たな武力を手にするよりも、今の秩序をいかに守るか。軍人は戦う者だが、征服者である以前に守護者でなければならない。
マールスの遺産は人を惑わす。
「では、マスタング大佐――貴君にスチワート・アップルビーの捜索と確保を申し付ける」
「了解しました、大総統閣下。全力を尽くし任務をまっとうします」
スチワート・アップルビーの名を持つ老人は、もはやこの世に存在しない。ロイがそれを報告するのは、あの雑木林にある館を完全焼却したあとの話である。
02
空の端が赤く染まっている。南部の住宅はほとんどが天然色の木造建築の平屋だ。地面の色までもが赤土のために赤い。だから地も空も夕焼けに染まる時間帯は、どこもかしこもが赤く、見るものの瞳を麻痺させた。
まずベルーネの駐屯地に寄りスチワート・アップルビー邸の位置を確認したロイは、こちらでは駐屯地に三台もあれば良い方だという車を無理やり借用し、件の雑木林へ向かった。
鬱蒼と茂る林は、赤い夕焼けの中では緑よりもむしろ黒ずんだ群生として映る。その林の入り口には約束通り、巨躯を誇る昔馴染みの軍人と、細身で褐色の肌色をした青年がロイの到着を待っていた。
「待たせてすまなかった」
車から降りながら声をかければ、アームストロングは大きな身体をかすかに屈め目礼する。リズマンはと言えばただ顔を背けた。
ロイはそのリズマンの様子を目の端に入れながら雑木林を仰いだ。
「……昨日、私に電話をくれたそうだな、リズマン」
リズマンは返事をしなかった。ロイはかまわず続けた。
「何を言うつもりだったのかは知らないが、今ここに私がいることが、おそらく答えになるだろう」
それからアームストロングを振り返る。
「――どこまで状況の説明を受けた?」
「ここに来た錬金術師がみな行方不明になっているということと、私の前には鋼の錬金術師とその弟がこの先の館に入ったということ。館の中が植物だらけだということも聞きました」
「そうか……。では、まずこれを知っておいてくれ、少佐。この先の家には確かに植物があるが、元はみな人間だ」
「は……?」
「しかもその植物は日が落ちれば自らの意志で動き出す。エルリック兄弟は中にいるが、その植物たちに囚われている状態だ。私はまず彼らを救いたい」
アームストロングは言葉を失って瞠目している。リズマンもさすがに驚いてこちらを見ていた。
ロイは彼らが話についてきていないことを承知で続けた。
「あの家には、人を植物化させる花粉と呼ばれるものが満ちているらしい。しかも仕掛けはそればかりではない。どうやらあの家自体に装置的な役割があるようだ。だから、まず作戦としては、あの家の攻略から始めるべきだと考えている。――ところで大総統閣下から課せられた任務の内容は、スチワート・アップルビーの身柄確保だと思うが、これは諦めてくれ。スチワート・アップルビーは既に死んでいる」
「ま、待ってください!」
慌ててアームストロングが口を挟んだ。
「あなたは一体どうしてそれらのことを……! いや、そもそもスチワート・アップルビーが死んでいるということは確かなことなのですか!」
「ああ、確かだ」
「ではなぜそれを先に上へと報告しなかったのです!」
ロイは軽く笑った。
「忘れていた、大事の前の小事というものだ」
「しょ、小事ですと……」
アームストロングが絶句する。
「少佐、上がほしがっているのはスチワート・アップルビーの身柄ではない、その人物が持っていたと思われる技術の方だ」
「……技術……?」
「不可を可にする点では錬金術に似てはいるが、全く性質の違うものだ。つまり今説明したような――人を植物に変えたり、その植物が動いたりする、そういった奇跡を作る技術のことだよ」
「では、あなたはその技術を持ち帰ると……?」
「いいや。私はただエルリック兄弟を連れ出しにきただけだ。少佐には悪いが、彼らを救うためには、その技術を破壊しなければならない」
「――――」
「君には貧乏籤を引かせてすまない。君の協力があれば助かるが、もしも嫌ならこのままこの場を私に任せて帰ってくれてもかまわない。大総統閣下には、私が場を空けろと命令したのだと伝えてくれ。そうすれば君がこの件で責められる理由はなくなる」
ロイが話し終えると、アームストロングは何と言って良いのかわからないというふうに額に手を当て天を仰いだ。
黙って聞いていたリズマンが、いらいらと足を踏み鳴らす。
「……僕は騙されませんよ、大佐」
「騙す?」
「大体あなたが今言ったことは本当なんですか? 人が植物になる? 確かにあの中には気味悪いくらいの木や花がありましたよ、変な匂いもしていた、人も行方不明になってる――でも、あなたは何も見ていない! たった今ここに来たばかりで――先日エドワード・エルリックと密談したとしても、彼だってそこまでのことは知っちゃいなかった! 今言ったことは、あなたお得意の詭弁でしょう? 大総統まで敵に回して、僕たちに手を出させないようにして――人助け? 笑わせないでくださいよ!」
ロイは苦笑した。かつて同じようなやりとりがリズマンとの間にはあった。
「私が人を助けるのはおかしいか?」
「そういう言い方がむかつくんですよ! あなたの正しさを僕たちにまで押し付けるのはやめてください! 僕たちはあの家でスチワート・アップルビーを探せと言われて来たんだ!」
「……探すのはかまわないが、見つからないぞ。おまけにあの家に長くいれば植物になる」
「ではそうなってから考えます、僕たちの邪魔をしないでください!」
リズマンは元々人を怒らせることで真偽を測るようなところがあった。しかし、それに付き合ってやるのも時と場合による。
誰かと議論をする時間が惜しいのだ。
「お前こそ私の邪魔をするな」
ロイは意識して言葉に刃をひそませた。
「お前とは以前にも似たやり取りをしたな――あの時お前は戦場で死にたいと言った。足を瓦礫に挟まれ、建物の倒壊はいよいよ迫っていた、だが足を切り落とせば命は助かる状況だった、にも関わらず、死なせろと言う――死なせた方が確かに早かった、怪我をしたお前を背負って自軍の陣営まで戻らずにも済んだ。だが私はお前を助けた――当たり前だ、あそこでお前を見棄てれば私の率いる軍の士気は落ちた。だがお前を助ければ反対に私に賛同する味方は増え、戦果の上がる可能性も増える――助けるさ、私には当たり前の判断だった」
わざと過去話を持ち出してやる。効果は覿面だった。 リズマンは顔を真っ赤にして猛然と抗議した。
「僕は死にたかったんですよ、あんなひどい場所にもう一秒だっていたくなかった! あの時死んでいれば、退役軍人なんて肩書きもつかず、こんな義足のために職に困ることもなかった! 僕はイシュヴァールの英雄として死ねた人間だった! なのにあなたは、あなたの都合で僕を利用した!」
「そうだ、お前を助けたのは私の都合だ。だがそれの何が悪い?」
ロイは冷淡に笑った。
「私が私のために動いただけのことだった。人が呼吸をするのと同じだろう? お前の望みなど知らん、死にたかったのなら今でも死ねばいい――だが私の邪魔になるような死に方をする気なら、私は何度でもお前を助けよう」
リズマンは悔しげに顔を歪めた。
これで議論も終わる。ロイは彼から目を逸らし、雑木林へと進みながら言うのだ。
「とにかく、ここで死なれるのは迷惑極まりない。あくまで私の目の前で、今あの館に飛び込むと言うのなら、事が済むまでお前を動けなくしておくまでだが」
振り返る。リズマンはもううつむいていた。
アームストロングが頭を左右に振り、これ以上は言うなと無言で伝える。ロイは小さくうなずき、ほっと肩で息をした。
「私はそろそろ行こう。少佐はどうする?」
「そうですな、ここまで来てじっとしているのも身体がなまる。我輩で役に立つ仕事がありますかな?」
「もちろんだ。ひとつド派手なやつを頼む」
日没が迫っていた。一人で動かないリズマンをそこに、ロイとアームストロングは黒く翳った雑木林の中へ足を進めた。
03
「……これを見てくれ、少佐」
ロイは地に膝を付き、例の白い小石のようなものを指でつまみ上げる。アームストロングもこちらに習い、白くなった地面を手で撫で、広範囲に続く奇妙な図形を見渡した。
「これは……錬成陣ですか?」
「わからない。しかしどうも気になる。見てくれ――この白い粒は砕けるだろう? 上から踏み潰しても地面に残る。つまりどうあっても消されたくないのだろうな」
ロイは昨日から考えていたことを話した。
「先ほども言ったが、これから先にある館には不思議な術が二重三重にかけられている。館の中に安全に入るためには、外堀から崩していくしかない。本当は手っ取り早く林を焼却してしまえればいいんだろうが……」
「それでは家にも火が移るかもしれない」
「そういうことだ。私の練成ではその辺の微調整がきかない、だから――」
アームストロングが小さく笑った。
「確かに。こういう精細な仕事は我輩向きだ」
「繊細なわりに派手な仕事が、だろう? 頼めるか?」
アームストロングは地から宙へと視線を上げる。
「……範囲はどれほどのものですかな?」
「あの家には裏庭があって、決着をつけなければならないものがある。家の敷地と裏庭以外は盛大にやってくれ。とにかくこの白い図形が消えればいい」
「了解した」
簡潔にうなずくと、彼は上体を動きやすくするため軍服の上着を脱ぎ始める。
「……時に、マスタング大佐」
「何だ」
「先ほどの軍人らしい理論で行けば、あなたはこの先の館に囚われている人間を救い出すよりも、むしろここにある奇跡を保存し、あの方にお渡しするべきではないのですか」
「…………」
アームストロングはロイの沈黙を見て楽しげに目を細める。
「鋼の錬金術師とはどんな人物ですかな? リズマンはあなたの愛人だと言っておりましたが、そうではないでしょう」
「……まだ子供だ」
ロイはぼそりと答え、それでもアームストロングが何も返さないので、結局言葉を付け足した。
「子供だが……戦う理由を持っている。鋼の名に恥じない、強い信念の持ち主だ」
「そうですか。我輩も会ってみたいものです」
彼は錬成陣を描いた手甲を両手に嵌め、大きく呼吸をした。
「あなたは昔から人を説得するすべを心得ていた。あなたの下にいた部下は、あのひどい内乱でも一人も狂った様子はなかったと聞きます」
「噂だろう」
「我輩にはわかりません。しかし、弁巧だけで慕われる上官などいない。戦果だけで英雄と呼ばれる者もいない」
「…………」
「あなたは一度懐に入れたものは最後まで守りきる人だった。我輩も――あなたの下でなら、理由など知らなくとも戦えますぞ」
ロイは眉間に皺を寄せて苦く息をついた。
「……少佐、君は昔から喋りすぎだ」
「それは失礼申し上げた」
「それとひとつ訂正する――」
「は?」
「鋼の錬金術師は私の愛人だよ」
アームストロングが大きく目を見開いてこちらを振り返った。ロイは晴れやかに笑って続けた。
「私の一方的な思いではないことを祈っていてくれ」
生真面目な男はしばらくロイの放った言葉の意味を考えていたが、結局肩をすくめて打ち切った。
手甲のついた両手の拳を突き合わせ、白い図形を厳しく睨むこと数秒、おもむろに、その太く筋肉の張った片腕を振りかぶり、骨も砕けよと振り下ろす。
途端に赤土の土砂がみしりと音を立てて盛り上がった。辺りに乱立していた樹木が、根ごと巻き上がっていく。白い小石でできた図形は湿った土に埋もれ、木の根に弾かれ、アームストロングの突き立てた手の下からどんどん形を変形させていく。
「ふむ。なかなか好調」
満足げに呟いて、もう片方の手でもう一発。
ずしんと地鳴りのような音が響いたあと、一発目で脆くなっていた場所が、巨大な口でも開くように亀裂を走らせていく。
その出来栄えに、アームストロングはちらと笑った。
「……我輩、人の姿をした猛者とは何度も拳を合わせたが」
ロイが言葉に気付きそちらを向くと、また唸りを上げて豪腕が地を殴る瞬間だった。
「大地相手に戦いを挑むのは初めてである」
ごつ、と、鈍い音を立てる。
間違ってもあの拳の先にはいたくない。
「……手ごわいか、少佐」
ロイが訊けば、彼は好戦的に口角を上げた。
「いいや」
心地よい。アームストロングは答え、今や地割れを起こし水のようにうねる土砂へと、再び拳を振り下ろした。
こうして、ほぼアップルビー邸だけを独立させることに成功した。今や、館を取り囲むのは、最初の雑木林とは似ても似つかぬ小さな茂みのみである。
周囲の地面は全て掘り起こされ、木もなぎ倒され土に埋もれ、耕されたばかりの畑のようになっていた。
白い小石で描かれた図形もあとかたもない。
「さて、マスタング大佐。次はどうしますかな?」
「あの家には変な薬のようなものが充満している。それを薄めたいのだが――」
「では屋根だけ削って風通しを良くするというのは?」
「……ナルホド」
アームストロングは心行くまで地面と戦えたことが嬉しかったらしい。まだ気分を高揚させたまま、その延長のように景気よく館に拳を打ち付け、あっさりと屋根を館と切り放してしまった。
ロイ自身は全くやることがない。
仕方ないので、家から切り放し滑り落ちた屋根の器材を使って、斧を二振り、地味に錬成する。
「……では行こうか、少佐。中の植物は動き出すだろうし、斧で裁てば人の声で悲鳴を上げる。それでも真実に植物だ。人であったものとはいえ、手加減はするな」
「わかりました」
二人が館に足を踏み入れたのは、ほぼ日没と同時であった。
家の中を占領していた植物たちは、地をさらい木を薙ぎ払ってここまで来たロイたちの所業に激怒しているかのごとく、最初から容赦がなかった。
根と枝は剣さながらに尖り、壁を穿ち床を穿ち――ロイとアームストロングが斧を使って攻防すると、悲鳴を上げながらも新たに蔓を伸ばし、死に物狂いでこちらを排除しようとする様が窺えた。
「……これば……切りがありませんぞ……っ!」
顔や腹を狙って唸りを上げる枝をいちいち切り落とす。だが相手は手が二本しかない人ではない、アームストロングもロイも、どうにか皮膚一枚のところで剣となった枝葉から身を翻すが、全身はまたたくまに切り傷だらけになった。
頬から滴る血を拭い、ロイはとうとう発火布をはめる。
「少佐! 援護を頼む!」
しなる矛のように寄り集まった蔓がものすごいスピードで迫ってきていた。
アームストロングが切っ先を払う瞬間、ロイも己の右手を掲げ、指を打ち鳴らす。
甲の錬成陣が呼吸した。じりと宙を焦がして走った火花が、一瞬ののちに爆発する。
赤い焔が踊った。ロイとアームストロングを襲ってきていた植物のほとんどが焔に取り付かれ、狂ったように悲鳴を上げながら焦げ落ちていく。
「……くそ、これでは長くもたん」
たった一度の錬成で次々飛び火していくものに冷や汗が伝った。
ロイはまずアルフォンスのいる部屋に駆け込み、その鎧に絡み付いている蔓を、アームストロングと二人がかりで片っ端から切り落とした。
粗方払えば、アルフォンスも自ら立ち上がる。
「――大佐、兄さんは!」
「まだだ、これから行く!」
「火の回りが速い、急がねば我々も危険ですぞ!」
屋根を吹き飛ばしたことが仇になった。小さな焔も、常に風に煽られ、飛び火する対象物を与えられ続ければ大きくなるのは必然だった。
ロイは焔が渦巻く部屋にいち早く入ると、地に手をつき、可燃性ガスを一時的にでも希薄にする錬成を行う。
「――早く! その地下の入口だ!」
指示のままに、アルフォンスとアームストロングが、地下の入口を覆った木の根を切り開いて行く。
「――兄さん!」
アルフォンスの叫ぶような声が耳を打った。
「兄さん、起きて!」
しかしエドの答えはない。アルフォンスもアームストロングも、巨体を押して中に入ることができずにいた。更に床を覆っていた根もまだ死んではいない。焔に犯されながら、エドを渡すまいと、裁った傍からまた根を張っていくのだ。
見かねたロイは錬成を中断し、彼らの間を割って、狭い入り口から身を滑らせた。
「――鋼の!」
エドはぴくりとも反応していない。駆けつけたロイは、彼の肌が体温を落としていることに恐怖した。
「鋼の……頼む……!」
呼びかけてもやはり応答はない。己の手のひらで摩擦して、その頬に頬を当てる――やはり冷たい。それでもロイは望みをかけて頚動脈に指を当てた。血液の流れは確認できたが、それにしてはぞっとするような冷たさなのだ。
とにかくここでは何の処置もできない。ロイは唇を噛みしめ、彼を抱えて地下から脱出を試みる。
「兄さん!」
外に出た途端飛びすがった彼の弟に、冷たく軽い体を預けた。今は何も言ってはいけない時だった。
ロイは項垂れそうになる頭をもたげ、顎を引く。
「――行こう」
ぐずぐずはしていられなかった。
ここでやるべきことが、もうひとつ残っている。
04
焔の渦巻くアップルビー邸から四人で脱出し、ロイは再びその家へと向き直った。
家の外郭からも火は噴出し始めていたが、裏庭のある場所だけは、淡い光のドームで覆われたようになっていて全く侵略を許していない。
「……あれは……」
アームストロングがその目を大きくして不思議な光景を眺めていた。
広い夕闇の中でぼんやりと浮かび上がった焔と光は、ひどく美しく、また神秘的でもあった。
「……少佐」
ロイは茫然と突っ立った彼を呼び止める。
「私が乗ってきた車があっただろう?」
「は、はぁ……覚えておりますが」
「おそらくまだリズマンもそこにいるだろう。彼とあの兄弟を連れて、先に駐屯地まで引き上げてくれないか」
「あなたは?」
「私も仕上げが済み次第自分の足で帰る」
アームストロングが光のドームを振り返った。
「まさか……」
「ああ、あの場所だ。決着をつけてくるさ。ここまでやっておいて、根源を見逃してくることはないだろう」
彼がこちらの指示を了解するのを待ち、ロイは背後でうずくまっているエルリック兄弟に視線を移した。
エドは目を開けなかった。安らかな表情で眠るように目を閉じたままだ。
エドには植物になる暗示がかかっているのだと教えてやって以来、アルフォンスは根気強く声をかけ続けている。
見ているとひどく重苦しい気分になる。
「……早く彼らを安全な場所で休ませてやってくれ」
ロイ自身、アルフォンスからエドを奪って声をかけたい欲求が、喉元まで込み上がってきていた。
「……目の毒だな」
彼ら兄弟の絆を疎ましく思う日が来るとは思わなかった。自分自身に幻滅しながら、それでもどうにか気持ちを振り切り、焔に包まれたアップルビー邸に顔を向ける。
例の、植物になりかけていた男と、約束したことがあるのだ。呪術装置であるアップルビー邸を完全に破壊する代わりに、翼と呼ばれるあの薬を必ず差し出すこと。
あの薬を使うことで何が起こるのかは知らないが、約束を違えるつもりはなかった。たとえ別の不都合が起こるのだとしても、起こった時に考えればいいと思った。何よりロイは知りたかったのだ。己の身を植物に変えてまで、あの場所で男が翼の到着を待ち続けた理由を。
背後ではアームストロングと、エドを抱き上げたアルフォンスが立ち去る気配がしていた。
「……では、先に失礼しますぞ」
「大佐! あの……ありがとうございました。それから気をつけて」
それぞれにかかる声にもロイは振り返らなかった。
ただ意識をして、息を吸い、吐く。気持ちを切り替えるためにそうした。今はまだエドのことばかりを考えたくはなかった。
焔で林や館が消し飛んだせいでずいぶん風通しの良くなった庭に、男は昨夜と寸分違わぬ姿勢のまま、木の椅子に腰掛け、金色に輝く林檎の若木を見守っている。
光のドームの外側から内を眺めたロイは、隣で燃え盛る家屋の熱風に煽られながらも、まず腕を光の内へと差し込んでみた。特に害はなさそうだったので中に踏み込む。
「……待っていた」
男が抑揚のない声で言った。
「我らの術をことごとく破壊してくれたな」
恨み言にしてはやわらかな口調だった。ロイは男の真横に立ち、崩れ落ちていく木材の音を聞く。ドーム内の空気は清浄に保たれていた。つまりはこの場所にも何らかの呪術があるということだろう。
たった一本の若木を守るために、一体何人もの蜂が命をかけたのか。
「必要だった」
悪びれずに答えると、男もまた穏やかに言った。
「ああ……、咎めるつもりはない。ただ、あの術は仲間の命で作られたものだ。ひとつが消えるたびに、その者のことを思い出した」
「…………」
「……翼は?」
「ここにある」
ロイは内ポケットから革袋を取り出し、すぐに男の膝へと置いた。
「……ずいぶん簡単に渡すものだ」
男には意外であったらしい。
「元々私のものではない。略奪は性に合わないんだ」
「破壊は良いのか?」
「この家のことを言っているとしたら、それはあなたがたの驕りだ。この場所は我が国の領地であって、あなたがたマールスの民が占領して良い場所ではない」
「確かに」
男は瞼を閉じたまま、しかしまるで見えているかのように若木へと顔を向けている。
ロイは静かに問いかけた。
「その若木が何であるのか教えてもらえないか?」
「……この国の独裁者が望んだか?」
「私の純粋な興味だ」
「…………」
男が沈黙した。ロイは急かすでもなく、己で関わった事件の経緯を語った。
「黄金の林檎は死者の心臓となる。私が最初にその文句を聞いたのは、学生たちが起こした詐欺事件でのことだった。学生たちは、ペンキで金色に塗った林檎を高額で販売したらしい。学生の大部分は、スチワート・アップルビー本人と直接関わりを持っていた。
おそらく、事件が詐欺だけで終わっていたなら、私もここまで興味を持たなかっただろう。だが事件はこれだけでは終わらなかった。金色に塗装された実と一緒に、同じく金色の塗装を施された木が発見された。私は木を焼却せよとの任務を受け、これに当たった。すると焔に巻かれた木は悲鳴を上げ――部下の証言によれば、一瞬ではあったが人の形にもなったと言う。
私は錬金術師だ。だから錬金術との関わりをまず疑った。軍部の対応も異常だった。金色の林檎には宗教と思える特徴もあった。何も情報がなくとも、目に見えない場所で何かが起こっているのを知るには充分だった」
そしてエドが調べたいと言ったのだ。
放っておけなくて、結局手を出してしまった。
「ところが蓋を開けてみれば、何もかもが私の知る錬金術とは大きく違っていた。
スチワート・アップルビー著作の本を読んだよ。あなたがた蜂が何をする存在であるのかは、彼が本に記した範囲内でなら理解しているつもりだ。だから、その林檎の若木の正体にもある程度見当はついている。
あなたがたが己の命を削ってまで守るのは、たった一人の人物だけだ」
男が細く息をつくのがわかった。
ロイはもう一度問いかける。
「教えてくれないか――この国であなたがたがしようとしたことについて」
辺りを覆っていた光のベールが端から消えていく。
かすかな煙と焦げ臭い刺激臭が辺りに漂っていたが、もう熱は感じなかった。
ロイと男と、林檎の若木を残し、平らになった大地を涼やかな風が翔ける。
夜空には星がまたたいていた。遠くには町の火が転々と連なる。あれだけの騒動を起こしたあとでも、いつもと変わらない美しい夜だった。
その夜の中で、薄く金粉を刷いたたおやかな若木は、何かを語りかけるように小さく葉を揺らす。
「……女王だ」
男が小さく声をこぼした。
「この林檎は……我らの女王が身を変えた姿だ」
ロイは黙って聞いていた。
長い物語になる予感があった。
「この国でマールスと呼ばれる我らの故郷が、海に消えたのはもうずいぶん昔のことだ。ここにおられる我らの女王は、その時まだ赤子でいらっしゃった。島の崩壊は誰にも予期できず、蜂の一人が命を賭し、女王と我ら十数人の蜂を遠い大陸へ運び出した。
それからの月日、我らは故郷を思い泣いて過ごした。大陸での生活は、余りにも我らの親しんだものとは違っていた。おそらく女王は――そういった我らのために、秘術を使うことを考えられた。
黄金の林檎は死者の心臓となる、その言葉は、我らの島では子供の頃から親しむ伝説の中の言葉だ。
その伝説は、かつて島で疫病が流行った時代を語ったものだった。老いも若きもことごとく息絶え、海は濁り、畑が枯れ、民が絶望に震える中で、時の女王が奇跡を起こしたと言う物語だ。
女王は金色の樹木に身を変え、その樹木になる実を死者の墓に供えれば、死んだはずのものが生き返り、再び島を富ませた――
しかし所詮は伝説だ。我らはお止めした。蜂は魔術を使うが、女王が使ったという話は聞いたことがなかった。もちろん蜂が女王に魔術をかけたという例もない。
ところが、ある日皆が目を覚ましてみれば、女王のいらっしゃるはずの部屋は無人だった。我ら蜂は、蜂の名を得ると決まった瞬間に目を潰すしきたりになっている。当然探そうにも探せなかった。だが、手探りで辺りを探る我らの手に、不思議なものが触れた。
それは、女王のお使いになっていた寝台の中にあった。
林檎の若木だった。しかも目の見える大陸の者に聞けば、その若木は金色をしていると言う。我ら蜂の議論は紛糾した――本当に――本当に女王が林檎の若木に変わったのか、誰一人判断できるものがいなかったからだ」
男は話を切り、感情を抑えるかのように束の間沈黙した。そして再び口を開く。
「ここまでが五年前までの話だ。五年前、我らはこの若木が女王であると結論付け、この木を守り死んでいく決心をした――いや、そうすることしかできなかった。たとえ林檎の実が伝説通りに作用するものだとしても、島は水没している。死者の墓などどこにもないのだ。
それでも女王は木に身を変えた。我らにできることは、女王の意志を汲み、何とか死者を起こす方法を探ることだった。
だが、事態が急変した。女王の木には、実がならなかったのだ。
ならなかった……一年待っても、二年待っても。木は生長するが、どうしても実だけがならなかった。
最初に、二人の蜂が自分を研究材料にしろと自らの意志で林檎の姿に変わった。彼らの林檎は実をつけたが、金色はしておらず、またその実もただの林檎でしかなかった。
原因のわからぬまま、また別の蜂が身を投げ出す……。いくつもの林檎の木は育ったが、皆一様にただの林檎しか実らせることしかできなかった。
この国の軍人が焼いた木は、おそらく我ら蜂が変化したものだ。
我らの財も底をつきかけていた。あの木になった実を食べた人間がどうなるのかも知りたかった。ちょうどその頃、お前たちがスチワート・アップルビーと呼んでいる蜂は、故郷の記録を残したいなどと言って、学生を雇ってこの国の言葉で本を出版する計画を立てていた。我らはその学生たちに安い金額で林檎を分け与えた。
しかし、どこから何が漏れたのか……林檎は木ごと持ち去られた。
あとはお前の知る通りだ。お前が、金色に塗装され、詐欺の材料に使われたと言うのなら、そうなのだろう。我らに残ったものは、林檎はただの林檎でしかなかったという、嘘か本当かもわからぬ結果だけだ。我らは目が見えぬ――食べたと主張する者がそうだと言うのであれば、そうとしか信じることができぬ。
こうして研究も行き詰った。蜂も減った。我らは、まずこの女王の若木だけは奪われぬよう、万全の結界を施す必要に迫られた。
家屋に結界を張り、女王の回りには二重の覆いをかけ、侵入者に対する罠をこさえた。蜂はますます消え、私を含めて三人だけになった。
もはや我らが女王にしてやれることはなかった。ただ、ひとつだけ――実を実らせるためにであれば、試していなかった方法があった――受粉だ」
ロイは、はっと顔を上げた。
女王であるという若木に実のならなかった理由がわかった気がした。アップルビー邸にいた植物に、植物用の錬金術が通用しなかった理由と同じものだ。
植物の形をしていても中身が人間であったとするなら。
女性が女性だけで子をなせるはずがない。
「……恐れ多いことだった」
男は悲しげに言った。
「しかし、もうそれしかなかったのだ」
「では、館の中にあった花粉というのは……」
「人を植物に変えるための機能だ……いや、女王の中に入る蜂を植物に変える機能と言い換えるべきか。
女王に辿りつくにはあらゆる隔たりを超える翼が必要で、そこから更に女王に受粉を促すため、女王の木を作り変える力が必要だった。蜂の一人が花粉を作り、また一人――スチワート・アップルビーの名を持つ者が翼を作り、そうして私は女王に受粉する役目を与えられた」
ロイは言葉もなかった。
これは、どこかで止められなかった流れなのか。彼らには、それほどまでに失われた故郷が必要であったのか。
なまじ奇跡を起こす力を得ていたことが仇になった。
人は奇跡を操れるほど万能な生き物ではないのに。
「たった数人しか残らなくとも、あなたがたさえ状況を納得したのなら、新しい場所でも充実した暮らしを得ることができたのではないか……?」
今更言ってもどうしようないとは知りながら、ロイは言わずにはいられないのだ。
しかし男は、半分植物に変化した身体をしてなお、ただ真っ直ぐに己の意志を全うする。
「そうかもしれぬ」
ギギギ、と、耳障りな音を立て、白い長衣に隠れた彼の手が、膝に乗ったままだった革袋を持ち上げる。
「……すまぬが、一粒取ってはくれまいか。私の手にはもう指がない」
やりきれない思いのまま手伝った。
今こうして彼に翼を与え、彼が女王の化身であるこの林檎の木に変化を与えられたところで、生まれた実が一体誰の民を作るのか。誰の国を作るのか。
「……私はこの木に火を放つつもりだ」
ロイは昨日した宣言をもう一度繰り返した。男が動揺する様を見たかったのかもしれない。
それとも詰ってもらいたかったのか。
「お前は最初からそう言っていたな。私がこの場から消えれば、女王を守る者はいなくなる。先ほど炎を遮った光の壁も、お前が内から火を放つのであれば何の役にも立たぬ」
男は淡々と翼を口に含む。
「それでも……我らは女王の林檎になりたい」
それは、はからずもロイが老人から受けた伝言と同じ意味の言葉であった。
一瞬の沈黙のあと、それまで辛うじて人の姿を保っていた男は、見る間に変化していった。
肌は茶色くなり、ひび割れ、目や鼻や口がどんどんと固い樹皮の中に埋没していく。小さな芽が至るところから育ち、葉をつけ、長衣の布地を突き破る。
そこにあるのは、既にただの樹木だった。
もう人の言葉は喋らない。
ロイは長くその場所に立っていた。
薄く金粉を刷いた美しい林檎の若木は変化を見せなかった。
二日、三日と経つうちに何かが変わるのかもしれない。実が育てば――夢のような話ではあるが、人が生まれるのかもしれない。
しかし。
夜明け間近、空の端が少しずつ赤らむ頃、ロイは発火布をつけた右手で、小さな焔を錬成した。
焔は見る間にかつて男であった樹木を侵食し、傍らにあった林檎の若木に火を移らせた。
両方の木が倒れる瞬間、焔の中に二人分の人影を見た気がしたが、本当はどうであったかわからない。
木は悲鳴を上げたりはしなかった。
ロイは彼方に広がる朝を眺め、今見たことをそのまま信じてくれる誰かと話しをしたいと思った。
「……鋼の……?」
誰か、と思った時に、思わず口を突いて出た。
「鋼の……私は……」
君に。