君追夜間飛行

01
 三日続けて私用で出かけたあとの仕事の溜まり具合と言ったら、凄まじいものだった
 内一日は元々休日に充てられたものであったが、ロイは実質上、東方司令部を直接動かしている人間だ。責任者は別にいても、ロイの代わりに部隊を動かす判断をする人間はいなかったし、現場で必要な物資を取り寄せるための書類に決裁を下す人間もいない。一日、二日であればどうにか誤魔化せても、丸々三日指揮官の席を空けるのはつらかった。
 イーストシティに戻ってからの数日間は、だから寝る間もないくらい動き回った。
 東部の情勢は未だ安定しない。テロも頻発する、町が破壊され、人が傷つく。そういった場所に適切な人員を派遣したり、病院や学校などの施設へ出資したりするのもまた軍部の仕事である。
 そんな中、ようやくエルリック兄弟が東部へ戻ってきたという連絡が入った。
 南部での救出劇から二日が経ってのことだった。
 エドは未だ眠ったままだ。ベルーネからは、アームストロングが付き添って移動したと言う。そのアームストロングは、エルリック兄弟を送った足でそのまま中央へ帰還してしまった。実直な男である、ブラッドレイへの報告を遅らせるわけにはいかないと思ったのだろう。
 報告なら、ロイもイーストシティに帰ってすぐに、電話で行った。全てを見たまま報告するには、どうしてもエドのことや翼のこと、あの黄金の林檎を守っていた男のことを話さなければならなかったので、多少の捏造を交えて伝えた。
 ブラッドレイにとっては、話の経緯は大した問題ではなく、結果として何が残るかが問題だった。おそらくロイの報告を丸呑みしたはずはないが、全てを焼却したと言ったならそれもまた仕方がないとうなずいた。誰かがあの奇跡を手にする可能性を残すくらいなら、軍部としては完全抹消する方が得策だ。
 ただ、彼らの奇跡は人の命と引き換えに生まれるものらしいと報告した時には、ブラッドレイも感慨深そうにしていた。生涯一度の奇跡とは天罰と共に与えられるものなのか、彼が冗談交じりにこぼした言葉が忘れられない。
 生涯一度の奇跡――
 スチワート・アップルビーの作った奇跡の残骸は、実は未だにロイの軍服のポケットに入っている。
 エドは司令部脇にある軍属病院に入院した。
 当然のことながら、付き添いはアルフォンスがしている。まだ一度もそんな場面に出くわしたことはないが、リズマンも何だかんだと言いながらエドの病室に来るらしい。
 ロイも時間を縫っては会いに行く。昼時は特に頻繁だった。昼食を取るよりもエドの顔を見たいと思うから、昼の休憩は丸々エドの病室に入り浸ることになった。
ただ、エドの目が覚めないから――ロイは翼が捨てられない。
 これは自分が使って良い奇跡ではないことは知っている。本当であれば今すぐにも焼却してしまうべきなのだ。
 だから夜には会いに行けなかった。
 スチワート・アップルビーの遺言によれば、翼は夜にこそ力を発揮するものなのだろう。館にいた植物たちが日没と共に動き出したことを考えても、マールスの魔術は夜に活性化している。
 もしも夜、エドのあの青白く生気を失った顔を見たなら、ロイは自分を抑える自信がなかった。
 ところが、こちらが自戒している時に限って――
「大佐、セントラルのヒューズ中佐からお電話です」
 その電話はかかってきた。

「――よぉ。相変わらず減らない仕事に駆け回ってるか?」
「ああ、死にそうだ。というわけで雑談なら切るぞ、時間の浪費だ」
 ロイが本当に受話器を放しかけると、ヒューズの慌てた声が聞こえた。
「待てっつーの! いくら俺でも、今のお前に娘やカミさんの自慢話で電話かけるかって。エルリック兄弟のことだよ、エドの国家錬金術師の査定期日が迫ってる」
「査定? そんなものできる状態じゃない」
「わかってるよ、大総統閣下もそれは知ってる。今回に限り、代理人の申請で期日を延期できるそうだ」
「では私が――」
 エドを国家錬金術師に推薦したのはロイだった。一応後見人の役目もあったので、そう申し出ようとしたのだが。
「ああ、違う違う。中央まで出向かせて面談がしたいんだと」
 ヒューズは言う。ロイは話がわからず問い返した。
「誰の?」
「アルフォンス・エルリックの」
「は?」
「だから、アルだよ、エドの弟の!」
「なぜ彼を? 彼は書類上は民間人だぞ」
 エドの眠っている間にアルフォンスが軍部と関係を深めるようなことがあってはいけない。エドがどうして一人で国家錬金術師の資格を取ったのか、ロイにしても何度もエド本人の口から聞いているのだ。
 しかし、ヒューズは続けた。
「多分、査定の延期っていうのは口実だろうな。ま、上が本当に聞きたいのは、この前の林檎の話さ」
「ヒューズ中佐、その話は――」
「ああ、みなまで言うな。わかってるって、確かに誰にでも聞かれていい話じゃないよな。ただ、もう終わった話だ、中央ではとっくに解禁になってる」
「…………」
「本当だ。アームストロング少佐が帰還しただろう? 彼は、お前の指示に従ったと言った。詳しいことはお前に聞いてくれってな。お前がどんなふうに上に報告したのか知らないが、イシュヴァールの英雄がまた派手なことやったって噂は伝わってきてる」
「派手か……。いい気なものだな」
「そう言うな。悪い噂じゃなくって良かったじゃねぇか。俺も良かったよ、お前が寄越した本読んで、面倒な事件に首突っ込みやがってって思ったしな」
「…………」
「まぁ、そういうわけでアルをこっちに来させてくんねぇか。心配すんな、俺もできるだけ様子見とくから」
「……他の人間では駄目なのか」
「無理だな、事件の全貌を知っている人間が少なすぎる。お前とエルリック兄弟とアームストロング少佐、カイ・リズマンだろ? リズマンはまだエドたちと同行中らしいし、アームストロング少佐は黙秘を通してる……、事件に深く関わった人間で生きてんのはこれだけだ」
 ロイは仕方なく息をつく。
「わかった。行って帰って、一泊で済むのか?」
「できるだけ早くに終わらせてもらうよう頼んではみる。エドも心配だしな、付き添いが誰もいないと言えば引き止めるのも難しいだろ?」
「くれぐれも頼む」
 わかってる、ヒューズは繰り返し、それから少し間を空けて、声を改めて言った。
「ところで……お前は大丈夫なのか?」
「なんだって?」
「自分じゃ気付いてねぇのかもしんねぇけど、声が相当疲れてんぞ」
 答えに困ってしまった。
「次の休みはいつだって? 俺だって早くその林檎の話聞きてぇよ、電話で話せねぇんなら休養がてら中央に来い」
「……そのうちにな」
「ああ。その――……エドも」
「うん?」
「エドももうすぐ目を覚ますさ」
 本当は休養云々よりもそれを言いたかったのかもしれない。ロイは苦笑し「そうだな」と相槌を打った。
 
 
02
 昼食を取ると言って出てきておきながら、結局足は通い慣れた軍属病院への道を選んでいる。アルフォンスに査定の延期申請を伝える口実もあった。ロイはエドのネームプレートのかかった白いドアを、いつものように音をたてぬよう静かに開いた。
 室内にはアルフォンスの姿がなかった。
 珍しいことだ。ロイが、エドには己が植物だと思い込ませる暗示がかかっているのだと教えて以来、彼は昼も夜もエドに話しかけていた。ロイも何度か彼の話を隣で聞いたことがある。ずっと幼い時に犬に追いかけられた話やら、初めて歯医者に行った時の話、母親との思い出、初めて錬金術を使った日の話、どれもこれも兄弟が共に過ごした時間の多さを思わせる思い出だった。
 聞いているとどうにも居たたまれなくなって、良くちらとエドの顔を見ただけで病室から出てしまっていた。
 やはりアルフォンスを羨ましく思う気持ちは止めようがない。エドとの思い出を語ろうとしたら、ロイなど一日で全ての話題を使ってしまうだろう。
 大人気ないとは思うので、アルフォンスに不自然な態度を取らないよう厳しく注意していた。ただ、そんな心境では常に気を張っているのと同じだ。アルフォンスは敏感な子供だった。ロイが会話に困る様子を少しでも見せるなら、すぐに気を回し申し訳なさそうにする。
 自分でも何をやっているんだと思うのだ。
「……君が叱ってくれたらいいのに」
 目を閉じてベッドに横たわっているエドの姿に、小さく呟いた。
 病室の中は薄手のカーテンのおかげで過ごしやすい光の加減になっていた。今日は外も夏空に近かった。真上から降り注ぐ日差しは強く、ロイなどは司令部を出た瞬間に立ち眩む感覚を覚えた。
 それでも、風は乾いていて涼しい日和だった。
 病室の窓も薄く開いてある。
 風がエドの金髪を撫でる。少し乱れたそれを耳にかけ直してやり、ロイはベッド脇の椅子に腰を下ろした。
 目を閉じてしまうと、エドはひどく整った繊細な顔立ちをしていた。元気に笑っている顔か怒っている顔ばかりを見知っていたので、こうして儚げな容貌を見るだけでもう落ち着かない気分になる。
 いつだったか居眠りをしていた彼に出くわした時でさえ、こんな眠り顔はしていなかったと記憶している。もっと天下泰平に、普通の子供が食べ物の夢を見ているような幼い表情で眠っていた。
 思い出すのは、最後にエドと話した夜のことだ。
 あの時は、エドに触れることのできない自分の指が腹立たしくてならなかった。やっと触れることができるようになったのに、今度はエドの心がロイを知覚できない場所に離れてしまっている。
 薄いシーツに隠れている彼の手を、布地の上からそっと握った。
「……あの夜、君はこの手をいらないと言ったけれど、私にはこの手が必要だ、鋼の」
 声は聞こえているのだろうか。
 彼の身体はまだ暗示と戦う余力を残しているのか。たとえ人の姿をとり止めていたところで、彼自身が自分を人であると思えなければ、どんな機能も彼が生きるための役に立ちはしない。
 ロイが小さく息をついた頃、背後のドアが開く音がした。
 アルフォンスだった。ロイはさり気なくエドの手に重ねていた己の手を引いた。
「来てくれてたんですか」
 アルフォンスに椅子を譲り、ロイは窓辺に立つ。彼の手には水の汲まれた銅の洗面器と、その水に浸されたタオルが持たれている。
「……今日は少し暑いんで、兄さんも寝汗かいてしまったみたいで」
「そうか……」
 ではアルフォンスはこれからエドの身体を拭くつもりなのだ。
 あまり見たい光景ではなかった。見ればきっとアルフォンスに嫉妬する。ロイは用件だけを告げてさっさと病室を出ることを考えた。
「実は先ほどヒューズから電話があってね」
 ロイが話しかければ、ひとまず彼は洗面器を置いてくれた。ロイはひそかにほっとする。
「はい?」
「鋼のの査定の期日が迫っているらしい」
「あ……そっか、そろそろでしたね。でも……」
「ああ。今回に限り延期してくれるらしいよ、ただそれには中央で申請が必要らしい。向こうでは君を申請人に指定してきている」
「え、僕ですか?」
 さすがにアルフォンスも驚いたらしい。ロイは彼を軍部の事情に関わらせることが申し訳なく、苦い表情で説明を付け加える。
「君を巻き込むことになってすまない。誰か代理の者を立てることができれば良かったのだが……査定の延期申請というのは口実で、先日の事件のことを君から聞き出すことが目的のようだ」
「え、でも……」
「私の話だけでは信用ができないのだろう」
「…………」
「とは言え、君は実際に動けない状況にあったのだから、それをそのまま話してくれたらいいよ。黄金の林檎に関することも報告済みだ。私が火をつけたことも話してある。ただ、庭に本物の金色をした林檎の木があったことは話していない」
「じゃあ、あの男の人のことも?」
「ああ。翼という丸薬のことも伏せてある」
「……だったら、僕らはあの家に入って資料を調べているうちに植物に捕まった、ということで大丈夫ですか?」
「充分だ。すまないな」
「とんでもないです。結局全部大佐に任せてしまうことになって、僕たちの方こそ申し訳ないくらいで……」
 アルフォンスは本当に恐縮したように鎧の身体を小さくした。
「でも、そうするとその間の兄さんのことは――昼はまだ看護婦さんたちが見てくれると思うんですけど、夜はどうしても僕だけになってしまうし」
「私がつくよ。仕事を定時で終わらせれば問題はない」
 その定時で終わらせること自体、今の多忙な状況では無理な話でもあったが、エドのことをこれ以上違う人間に任せるのも気が進まなかったのだ。
「君のことはヒューズに頼んである。一泊はどうしようもないが、あとは早急に帰してくれるはずだ」
 ロイが言うと、アルフォンスもほっとしたようにうなずいた。
 話が一段落を見せた時、新たに病室のドアを開けた者がいた。ロイが振り返るよりも早く、彼女は仕方がないと言わんばかりの調子で声をかける。
「やっぱりこちらでしたか」
 ホークアイである。
「ご存知ですか? 昼食のために抜け出せる時間は四十分もありませんよ。早く済ませていただかないと、また食事を抜いていただくことになります」
 ロイは苦笑した。
「かまわない。そう空腹でもないんだ、もう帰る」
「いけません。食事くらいしっかり取ってください。今大佐に倒れられても代わりのできる人間はいないんです」
「わかった、中尉。ではそこでパンでも買って行こう」
「もう買ってあります。大佐に任せると買うと言ってもお忘れになるようですし」
 耳に痛い。
 こちらの会話を聞いていたアルフォンスが、戸惑った様子で声をかけた。
「あの……大佐。本当にいいんですか? もし忙しいんだったら夜は何とか他の人に頼みますし」
「いや――」
 ロイが何かを言う前にホークアイが間に入った。
「エドワードくんの査定延期申請の時の話ね。大丈夫よ、明日からは、どうにか大佐も定時に終わるような仕事内容になっているから」
 そんな話は初めて聞いた。ロイが密かに驚いていると、ホークアイはこちらに向き直る。
「ただしそれも今日残業していただければの話です」
「わかっている、中尉。……ありがとう」
「いえ。これ以上疲れたあなたは見たくありませんから」
 彼女はどういう意味でその言葉を言ったのか。ただ休養を取れと言うのであれば、エドの付き添いを推奨するようなことは言わないはずだ。
 あとで真相を確めなければと思いつつ、病室を出る前に再びエドを振り返る。今日はもう彼には会えない。
 と、たった今思い出したようにアルフォンスが口を開いた。
「……そう言えばリズマンさんのことなんですけど」
 ロイは思わず眉をひそめてしまった。
「あいつがまた何かしたのか?」
「いえ、そういうんじゃなくって! リズマンさん、毎晩お見舞いに来てくれてるんです」
 意外なことを聞いた。
「ただ、誰か一人でもここにいると憎まれ口叩いてすぐに帰っちゃうんで、毎晩その間だけは僕も外に出るようにしてたんですけど……」
「リズマンが、か?」
「はい。おかしいですか?」
 おかしいと言うよりも不可解だ。何か馬鹿なことを企んでいるのではないかと疑ってしまう。
 しかしアルフォンスはあっけらかんと言い放つ。
「なので、良ければ、七時から三十分間この部屋を兄さんだけにしておいて欲しいんです」
「……大丈夫なのか?」
「大丈夫です、ただ横に座ってるだけみたいだし」
 その言い方では、最初はアルフォンスも疑ったのかもしれない。
「……君がそう言うのであれば、私もそうしよう」
「はい。よろしくお願いします」
 心配は残るがそれも明日以降の話だ。ロイも自分の目でリズマンの様子を確めてみればいい。
 こうしてエドの病室からは出た。
 ホークアイと司令部への道を歩きながら、ロイは先ほどの疑問を彼女にぶつけてみることにした。
「――ところで、中尉。私はそれほど疲れて見えるのか?」
 彼女は小さく溜め息をつく。
「そうですね、あんまりお元気そうには見えません」
「実はヒューズにも声が疲れていると言われた」
「ではそうなのでしょう。私には、声というよりもおっしゃっていることに疲れが見えますが」
「私が言っていること?」
「いつになく真面目です」
 ロイは束の間黙り、沈黙しきれずに苦笑した。
「それは悪いことなのか?」
「大佐に限って言わせていただければ、です」
「なるほど。心に留めておくよ」
「忘れて下さい。これ以上変な技をつけられては困ります」
「技?」
「嘘をつかれる技です。大佐は論述に長けていらっしゃいますが、演技もお上手ですから。油断していると簡単に騙されます」
 エドもそんなことを言っていた気がする。
「……中尉、私は鋼のに話したいことがあったんだ」
 ロイが言うと、ホークアイは静かに目を伏せた。
「……きっともうすぐ目を覚ましますよ」
「そう思うか?」
「そう祈っています」
 ホークアイは嘘をつかない。彼女の言葉にロイもうなずいた。
「そうだな、祈るしかない。だが私の中では、いつまでも彼に話せない話が渦巻いている。吐き出さないことには空腹を覚える隙間もないほどだ」
 ホークアイが小さく笑ってこちらを見た。
「では、話してご覧になったらどうですか?」
「聞いてくれていると思うか?」
「暗示にかかっているのだとおっしゃったでしょう? アルフォンスくんもやっている通り、話しかけてエドワードくんに気付いてもらうしかありませんよ」
「…………」
「それに……もしかしたらアルフォンスくんの声は聞き慣れすぎていて、エドワードくんを驚かせることができないのかもしれません」
「驚かす?」
「効果的なことでしょう? 暗示から気を逸らさせればいいんですから」
 納得した。
 ロイは新しい治療法を聞いた気分で目を上げた。
「素晴らしいな、中尉。君は頭が良い」
「あなたの部下ですから」
「しかも口が上手い」
 あなたの部下ですから。彼女はもう一度繰り返し、少しだけ誇らしげに頬をゆるませた。


03
 翌日は本当に定時に終了することができた。まだ業務をこなす部下たちに見送られ、エド宛の果物類を預かりながら、ロイは一人ゆっくりと軍属病院を目指した。
 町は夕暮れに沈んでいた。
 先週までは、通り沿いの多くの店先にラバーナムのリースを見かけたが、今週はもうすっかり祭りの雰囲気は払拭されたあとである。結局エドと見に行くことはできなかったが、また来年に誘ってみればいい。
 ロイの気分は明るかった。先日まで通りのどんな明かりも心地よいとは感じなかったのに、今は不思議に目にやさしく見えた。ホークアイの提案がロイに希望を与えているのだ。エドを「驚かす」ネタなら、それこそロイは掃いて捨てるほど持っている。
 ひとつひとつ試してみればいいと思う。今夜はアルフォンスもいない。ロイは聞かれてもかまわなかったが、エドはもしロイが弟の前でそんなことを言ったとしたなら、激しく憤るに違いない。
 そんな爆弾にも似た言葉を、彼の耳元で山ほど落としてやろう。
 ロイの足取りは軽い。軍属病院は間近だった。通りがかりの惣菜屋で夕食を調達し、面会時間終了のため格子の半分閉じかけた門を足早に通り抜けた。

 エドの病室に着き、しばらくするともう時刻は七時近かった。アルフォンスと約束したこともある。ロイは早速この病室がよその窓から覗ける場所まで移動することにした。
 コの字型に連なった病棟の向かい側である。そこは院内でもちょっとした喫茶コーナーになっていて、終始明かりのついている人通りの多い場所だった。
 ロイが思った通り、ここからはエドの病室の窓が良く見えた。もしかしたらアルフォンスも、リズマンが訪れている間はこの場所で時間を潰していたのかもしれない。
 しばらく壁時計で時間を測っていたら、七時を少し回った頃、本当にリズマンが姿を見せた。
 青年の意図など当然わからない。ただ、ベッド脇の椅子に腰掛け、エドをじっと見ているように見える。
 アルフォンスから聞いた話では、エドはリズマンを撤退的に無視していたそうだ。そんな相手の見舞いに、どうしてわざわざ夜毎現れるのか。
 リズマンはリズマンなりにエドに話したいことがあるのか。それが恨み言ではないことを祈りつつ、ロイは三十分を黙って過ごした。
 青年が病室から出て行くのを見届け、ロイもまた移動を始める。
 今晩はエドの部屋にある補助ベッドを寝場所に貸りていた。特に宿泊して欲しいという話はアルフォンスからなかったが、せっかく好きなだけエドの傍にいることのできる機会だ、今夜一晩ロイは病院で夜を明かすことを決めていた。

「……さてと。君は何から聞きたいだろうな?」
 エドのベッド脇である。
 光を絞った部屋で、ロイは彼の寝顔を見つめる。
 静かな表情は、肌の色が青白くさえなければいっそ安らかと言えるかもしれないほどだった。
 しかし、今日と言う今日は、もう静かなだけの彼を見ているつもりはなかった。覚悟してくれ、相手が受け答えできないのを良いことに、ロイはひっそりと人の悪い笑いを浮かべる。
「まずは……そうだな、やはりマールスのことについて話そうか。私がどれだけ君に話したかったか知れない出来事だ。大体君はずるいぞ、巻き込んだのは君の方だと思うのだが、どうして私の方が多く働いているんだ。おかげで嫌な仕事までしてしまった。あれは人殺しになるのか? それについての君の意見も聞きたいところなんだが……、とりあえず順を追って話すべきか」
 ロイは最初の夜を思う。
「私に翼を託した老人――それについても君に話してはいなかったな。実は人が壁の中に埋まってたんだ、ちょっと衝撃的な絵だったな、未だになぜあんな場所にいたのかは知れないのだが……君にも見せたかった。とにかくこう……変なジジイが壁に浮かんでいて、私に革袋に入った薬を手渡した。それで、女王に遺言を伝えてくれと言うんだが、そこからして無理な話だと思わないか。彼はその女王の居場所も一言も教えてはいかなかった。言っておくが、私は多分君が黄金の林檎のことを調べていなければ、あんなジジイは完全に無視したぞ。翼もどこかで荷物に紛れて終わりだ、きっと引越しの時にでも発見してゴミ箱行きになっていた。そう思うと、やはりこの事件にここまで関わってしまったのは、最初から君のせいだということになる。反論はあるかい?」
 もちろんエドが何かを言えるわけがない。
 ロイはにやりと笑って続けた。
「そうか、君も認めてくれるか。君が素直だと私も気持ちが良い。ところで、この老人が君たちが探していたスチワート・アップルビーだったことは知っていたか? 私もあの庭にいた男に聞いて知ったのだが、大した巡り合わせだと思わないか? かわいそうな老人だったよ。軍部で焼却したペンキで塗装された林檎があっただろう、あれは学生たちに彼が騙し取られたみたいだな。詐欺にも関与していなかったかもしれない。にも関わらず……あんなふうに壁に埋まったまま消えてしまった。マールスには神官というのがいて、女王のために生涯一度だけ奇跡を起こすんだそうだ。それを彼らは魔術と呼んでいた。翼は、スチワート・アップルビーの奇跡だった。そんな神官たちの奇跡が集まって、あの館が完成していた。君もおそらく金色の林檎の木を見たのだろう? あれが女王だったそうだよ……いや、本当のことはどうだかわからないのだが。マールスの神官たちは、蜂という役職についてすぐに盲目になるんだ。だから、本当にそれが林檎の木なのか、金色をしているのか、そういう、我々であれば見てわかることが、彼らにはわからなかった。これは穿った見方かもしれないが、真実のところ、女王は彼らが盲目であることを利用して逃げたのかもしれない。彼らは盲目であるからこそ、女王を信じるしかなかった……彼らがどんなに凄い奇跡を起こせたところで、所詮女王のためでしかないのだからな。私だったら、せっかくの奇跡は自分のために使いたいよ。君ならばどうだろう? やっぱり弟のために使うのかい?」
 自分で言っておきながら少し悲しくなってしまった。ロイは苦笑いをしながら続けた。
「そういう……君の弟に対する無償の施しと、マールスの蜂たちの女王に対する妄信の仕方は似ている気がする。私はあまり好きではない。特に君の弟に対する愛情には、どうにも嫉妬を覚えていけない。この機会に言っておくよ、どうか私の前で弟くんへ愛情を注ぐのは控えてくれ。いつかうっかり八つ当たりをしてしまっては申し訳ないだろう。私が案外子供じみているのは、君も知っての通りだ。君は私から弟くんを守るためにも、私がいる時は私だけにかまってくれ」
 ぴくり。その唇が確かに動いた気がする。
 ロイは楽しくなって再び口を開いた。
「ありがとう、君の同意が得られて私も安心した。さて次だ。黄金の林檎、そもそもあれは何だったのだろうな。あの男もスチワート・アップルビーも、黄金の林檎になる実が自国の民を、ひいては自分を救うものだと信じていた。しかしそんな奇跡があるのだろうか。黄金の林檎には伝説があって、かつてマールスの女王がそういった秘術を使って死んだ民をよみがえらせたと言う――良くそんな眉唾ものの話を信じる。もちろん私は信じない、死んだ者は生き返りはしない。君もこれだけは譲れないだろう? たとえ誰かを犠牲にしたところで――万一まかり間違って本当に人が林檎から生まれたところで、それが以前と同一人物である確率はどれほどのものなのだろう? 大体林檎から人の何が生まれる? 手か、足か、頭か、心臓か? 魂なんて形もないものは私は信じない。軍部で焼却した林檎や、あの館にあった植物たちにしたって……確かに人が姿を変えたものなのかもしれない。しかし姿を変えたところで、人が人を作り出すためにはそれなりの営みというのがあるだろう。木に実がなるように、ぽこぽこと人ができてたまるものか。どうしてあの蜂という人種には常識が通用しないのだろうな。一緒にいるとこっちまで常識を失う。君もああいった人種の冗談にこれ以上付き合う必要はない。君にだってわかっているだろう? 君にはちゃんと手も足も頭も心臓もある。植物にはない心があり、言葉がある。それは君が使い方を思い出しさえすれば、当たり前に使えるものばかりだ。君がいらないと言うのであれば、私がもらってもいいが……私もできれば動く君が欲しいのでね。今は遠慮しておくよ。そのうち貰おう。心配しなくても私は大切にするよ?」
 今度ははっきりと眉根がひそめられた。
 ロイは笑い出しそうになりながら続ける。
「だが、今回の一件で少しだけ心残りがある。私はね、鋼の。彼らの妄信は馬鹿げていたと思うが、同時にひどく純粋で綺麗だったとも思う。あの庭にいた男は、スチワート・アップルビーから頼まれた誰かが、あの場所へ翼を持ってくるのを待っていたらしいよ。変な男だと君も言っていたが、彼の身体は半分植物になっていた。動くたびに軋むような音が聞こえただろう? 長衣の下は木だった……私が翼を返し、彼がそれを飲み込んだ途端、私の目の前で彼の姿は木へと変わった。どうしようもなくグロテスクな変化だったと思うのだが、彼が自らの意志でそうなったのだと私は知っていた――私も単純なものでね、そこに人の意志があるというだけで、変化は潔いものに見えた。ああいう潔さを、私は他でも知っている。命を懸けて戦地に赴く兵士がそのひとつだ。特に下級の兵士ほど高潔な表情を見せるものはない。彼らの命はたった一人の上官が握っていることもある。彼らは人の誇りをかなぐり捨てて戦わねばならないが、その表情こそ誇りに満ちたものだと、私には感じられる。私は……幸か不幸か、上に立つ人間だ。兵士が誇りを捨てるのであれば、上に立つ私は彼らの分も誇りを守らねばならない。だから、いつでもせめて真っ直ぐに立っていようと思っていた。私が真っ直ぐであれば、誰よりもまず部下が真っ直ぐでいてくれる。けれども、あの植物に変わった蜂と、その蜂が守っていた黄金の林檎の木に火をつけた時――私はそうするべきだと思ったし、何度同じ場面に立ち返ろうと同じ結論を下すとも思うが、少しだけ後悔をした。……あの木に実がみのるまで待ってやれない自分は間違っているのかもしれないと思った。彼らが敵であれば掃討するのは当然だが、彼らは敵ではなかった。私は自信がないのだ、鋼の。あの蜂は潔かった、彼自身の意志を誇って散った。彼らを許容できない私は……もしかしたら、自分で真っ直ぐなつもりでいても、どこかで既に曲がってしまったものなのかもしれない」
 ロイはシーツの中に隠れていたエドの手を取り、両手で大切に包み込んだ。
「君を見ていて好きだと思う理由も、君が真っ直ぐだからだ。君が何かに傷ついてもまた立ち向かう様を見ていると、人はこれほど強く望みを持てるのかと感動する。子供だからこその直向さなど関係ないだろう? 望みを持って、それを叶えるのは天の采配ではない、我々自身だ。君が誰よりも強く望んでいるから、私ももっと強く望めるのではなかと思う。そうすることへの躊躇を……君が笑顔でいてくれると忘れることができる」
 冷たい手の甲に、己の唇を押し当てた。
 その指先がぴくりと反応した。
「君が好きだ」
 言葉は届いているはずだ。
「君が好きなんだ」
 ロイは繰り返し告げた。
「これだけ話してもまだ話し足りない。君に聞いて欲しいことが私の中ではまだ溢れている。君が反論せずに同意ばかりしてくれるのは嬉しいが、やはり少し寂しいよ。私が好きだと言った時に好きだと返してくれないのも悲しい。童話のように口付けで目覚めるものならそうするが、生憎私は王子の柄ではない。一度口付けを落とそうものなら、何度落とすかわからない。君が困らないと言うのであればそれでも良いのだが……」
 小さく沈黙する。
 エドの指先に、力がこもるような気配がある。
「……かまわないだろうか?」
 ロイは期待をひそませて言った。
「返事がなければ私の良い方に考えるが……それでもいいか?」
 その瞳の色が見たいと切実に思った。
 胸の中で名前を呼んだ。
 
「ありがとう。では――」
 ロイの言葉は途中で遮られた。
 
「……う、るっさい……っ!」
 
 久しぶりのエドの声だった。
「は、ずかしいことばっかり……ベラベラと……っ」
 長く喋ることをしなかったせいで、彼の言葉はずいぶんと舌足らずなものになっている。それでも次の瞬間には目が開いた。勝手なことばかりを並べ立てていたロイを、あの飴色の瞳がきつく睨み、恋しくて仕方がなかった、彼独特の真っ直ぐ切りつけるような声が言う。
「誰が……っ、いつ、何に同意したよ……っ!」
 何だかもう笑わずにはいられない。
 ロイは言葉よりも行動で彼の疑問に答えることにする。手の甲から始まって、指、爪、手のひら、手首と、順々に口付けを落としていくのだ。
「こら……っ、こら、何してんだ……っ!」
「何って、君が許してくれたことじゃないか」
「オレは何も言ってない……っ!」
「言ったよ? 私は聞いた」
「ウソつくなぁ!」
「ウソじゃないよ。大体嫌なら逃げればいいだろう?」
 ロイは腕の内側にも唇を当てる。エドはますます慌てたように顔を赤くした。
「に、逃げたくってもできねーの! 腕とか足とか、まだ動かねーんだってば……!」
「なに? それは大変だ」
「そうだろ? だから離せって――わぁぁっ!」
 エドが叫んだのは、ロイが盛大にシーツを捲り上げたせいである。
「荒療治という言葉を知っているか、鋼の」
「し、知ってるけど……っ、知ってるけどオレは普通に直したいんだ……っ」
「では君はそれで良いとして、私の治療に協力してくれないか」
「た、大佐の?」
「そうだ。ここ数日間というもの、君が足らなくて死にそうだった」
「あ――あんたが、オレがいないくらいでどうにかなるかよ……っ」
「それはひどい誤解だぞ、鋼の。私は激しく傷ついた、やはり治療は必要だ」
「コラーーーっ!」
 ロイはくすくすと笑いながら服の上からあちこちにキスをする。さすがに今の彼にこれ以上の悪さはできない。それでもエドは青くなったり赤くなったりを繰り返している。生気に満ちた彼の表情が嬉しかった。
 ロイは半分しがみつくような姿勢で彼に抱きつき深呼吸する。
「……知っていたか、鋼の。私は本当に君を好きらしい」
 ロイが動かなくなって、エドもいささか安心したのだろう。ほっと息をつき、鈍い動作で片腕を上げ、ロイの背中を抱いた。
「他人事みたいに言うなよな……だから信用できねーんだろ?」
「君に信用してもらうことができれば、発展はあるのだろうか?」
「どうだろ……どうなりたいの、大佐?」
「それは私が君に訊く言葉だ」
 エドがぽんぽんと宥めるようにロイの背を叩く。
「さぁ……なるようになるんじゃねぇ? オレ、どんなことになってもあんたは嫌えない気がするから」
 ロイは小さく笑った。
「やはり君は大人だな」
「バカにしてるだろ?」
「いいや。尊敬している」
「バカ」
 ロイは彼の胸元に口付ける。心臓のある場所だ。彼が生きている証の音が響く場所。
 ふと、エドが呟いた。
「……目が覚めたら、これだけは言わなきゃって思った」
「うん?」
「あんた、全然曲がってないよ?」
 ロイは彼の薄い身体に愛しく擦り寄った。
「性格は悪いけど、ちゃんと真っ直ぐだ」
 ならば、また己を誇って戦っていける。
 翼は明日捨ててしまおう。決意は清々しく、ロイは久しぶりに深く眠れそうな夜に安堵した。