雪待ちポルノ 五幕

01
「また次でもいいと思うんだ」
「嫌だ、絶対見に行く!」
「来年連れて行ってあげるから」
「来年? どうなるかなんてわからないじゃないか」
「君はまたこの町で四日間を私と過ごす。今年はやめておけば来年の楽しみができる」
「そんなことまだ決めてない!」
「意地を張るものではないよ」
「意地じゃない! とにかく絶対見に行く!」
 気を抜くとすぐに触りたがる男の手を叩き落しながら、エドは真っ赤になって言い切った。
 ノアに滞在して四日目の朝だ、ロイと過ごす最後の一日である。思い出すだけで暴れたくなるような一夜が過ぎ、明けた翌日のロイは、朝からエドにまとわり付いて離れようとしなかった。
 徹夜だったと言いながら男はひたすら元気だった。
 エドが髪を三編みにする間など、何度項に悪さをされたかわからない。やっと編み終われば即座にゴムを解かれたりして、どこの子供の悪戯かと思うようなことを延々続けている。
 こちらは腰はだるいし手足は軋むし、まだ何かが入っているような感覚もあるしで、上手く歩けもしないのに、労わるどころか、エドの調子の悪さを逆手に取って遊ぶ気満々なのだ。エドが邪険にすると悲しげに「エド人形」を歩かせたりして拗ねて見せる。拗ねるだけならまだしも、これ見よがしに人形にキスなどされた日には――
「――返せ! それ返せっ、もう捨てる!」
「嫌だよ、これの居場所は司令官室の机の中だ。暇ができるたびじっくりと歩かせることにしよう」
 言われていることは大したことではないのに、ひどく意味ありげに聞こえるのはなぜだろう。取り上げようとして逃げる彼と追いかけっこまでしたが、所詮体調の悪いエドが彼に追いつけるはずもない。
「大人しくしていた方がいいよ?」
 そして大人しくすれば、彼の手がまたエドの身体をあちこち触るわけである。今はまだ性的な意味合いはないのだとしても、何かのきっかけですぐに熱を帯びそうな雰囲気が伝わってくる。決して嫌なわけではなかったけれども、さすがに連日はつらいではないか。
「大体部屋に籠もってるのが悪いんだ――そうだ、動物園! チラシもらったんだ、オレまだ行ってない!」
 そういった経緯で冒頭のやり取りへと繋がる。
 動物園はメフィスト・パーク内でも人気の高い場所だった。広い敷地を取っているわけではないが、通常アメストリスでは見ることのできない動物がいるらしい。
「二人きりも楽しいよ?」
「いーやーだー。とにかく準備しろよ。ほらっ、ほらっ」
 エドが背中を押せば本当に渋々動き出す。
 外は今朝も澄み切った青空に覆われている。ただし道のあちこちに昨日の名残の雪化粧が残っていて、土の道は融けた水が更に凍ってつるつるになっていた。
 気温もずいぶん低い。意地を張って外へと出たはいいが、暖かい場所にいないと本格的に鋼の機械鎧から体温を奪われてしまうかもしれない。
「寒い……」
 ロイのマフラーをぐるぐる巻きにしても全然足りていない。鼻の頭を赤くして白い息をつくエドを、ロイが同じく白い息を吐いて眺めている。
「ほら見たまえ。外は寒いよ、今からでも遅くない、コテージに帰ろう」
「でもせっかく出てきたのに」
「戻ってもいいじゃないか。君はただでさえ体調が悪いんだろう?」
「それはほとんどあんたのせい!」
「知っているよ、だから私が大事にしている」
 言いざま引き寄せられ、彼のコートの中に頭ごと全身をしまわれてしまった。すっかり慣れた温かさに安心しかけたものの、これではどこにも遊びに行けないことに気付き、何とか布地を掻き分け頭を出す。
 エドだって学んだのだ。彼の口車に乗ってはいけない。
「大事にしてるんだったら甘やかしてくれ」
 多分こういう言い方の方がロイは好きだ。
「動物園が見たいよ、大佐」
 エドの勘は大当たりだった。ロイはしばらくこちらの顔を眺めたあと、嫌そうにコートの袷を開きエドを解放する。
「君は意地悪だ」
 エドの機嫌は急上昇だ。仕方がないので、勝者の余裕で敗者にも気を配ってやることにする。
 ひとまず寒そうなロイの指を握ってやった。
「……本当に意地悪だ」
 彼は小さく息をつき、それからはもう戻ろうとは言わず、引っ張られるまま大人しくエドのあとをついて来た。

 一昨日と同じ仰々しい格子の門を潜り、民族衣装の商人たちが行き来する市を通り、四角いテントに辿り着く。
 動物園と言うものの、造りは見世物小屋に近かった。入り口らしき垂れ幕の前に籠を持った子供がおり、その子供に入場料を払い中へと入る仕組みである。
 垂れ幕を潜ってみると、中は極端に狭い通路で複雑に仕切られており、肝心の動物は大小の檻と蚊帳状の網で隔離されていた。さすがに猛獣は見当たらなかったが、珍しい鳥類や大型の草食動物がいる。
 ロイが立ち止まったのは薄紅色をしたフラミンゴの群れの前だった。
 えらく熱心に見つめていると思ったら、エドを振り返った彼は切々と言うのだ。
「どうしてあの鳥たちは一本足で立つんだ、今にも折れそうで見ているこちらが怖い」
 確かにフラミンゴは両足でも竹串さながらに華奢な様子でありながら、わざわざ一本足で突っ立っている。
「もしもあの足が折れたら彼らはどうするんだろう。すぐに飛ぶから地面に転ぶということはないのか?」
「さ、さぁ……?」
「君はあの鳥たちの行く末を心配だとは思わないかい」
「え、オレ? ええっと……あの鳥はああいうふうに生きてたいんじゃないのか?」
「でも危ないだろう」
 彼はフラミンゴについて真剣に論じるつもりなのだろうか。エドは目を白黒させながら曖昧にうなずく。と。
「そうか。君も危ないと思うのか。じゃあちょっと説得を手伝ってくれないか」
「え?」
「さぁ、行こう」
「ええっ?」
 彼はフラミンゴの囲いにぎりぎりまで近づき、こちらをじっと見ている鳥に向かって、本当に言うのだ。
「一本足は危ない、転ぶと痛いぞ」
 すると、何だかわからないが、その鳥はロイの言うことを聞いたみたいに一本足で立つことを止め、二本足でしっかりと地面を踏みしめる。
「ウソ! 何で?」
「何が嘘なものか。さぁ君も説得してみてくれ」
「えっ……えええっ?」
 本気でこんなことを?、と疑問に思いつつ、目の前で実際にそれをした男に真面目に見られてしまったら、やらないわけにはいかないではないか。
「え、えっと……」
 エドはそろそろと脇にいた一羽に近づいた。
 フラミンゴが真っ黒な瞳でエドをじぃっと見ている。
「えっと……その……一本足は危ないらしいぞ」
 小声で話しかけてみたものの、鳥に人の言葉がわかるはずがない。にもかかわらず、じぃっと見つめられた上につんとそっぽを向かれ、加えて、片足を下ろしたはいいものの、もう片方の足を使って再び一本足で立たれ。エドは激しく馬鹿にされた気分になった。
「交渉は決裂かい?」
 ロイがしれっと言うのも怒りを誘う。
 エドはむっとして、しかしまだ冷静なままを装って彼を振り返った。
「鳥に人の言葉がわかってたまるか」
「私の話は聞いてくれたじゃないか」
「あれは……あんたのことだ、なんかズルしたんだろ?」
「私が? いつ?」
 心外そうに言われれば自分が言いがかりをつけているようではないか。エドは束の間言葉に詰まり、よくよく先ほどの状況を思い起こしてみるのだ。
 確かに小細工をしたようには見えなかった。しかし――しかし、だ。鳥は人の言葉を理解するわけがない。いや――でもまさか。
 エドが真剣に悩み始めた頃である。
「まぁ鳥が言語を理解するわけはないけどね」
 何食わぬ顔でロイは言った。
「君は素直でかわいいなぁ。この調子なら、動物園もなかなか楽しそうだ」
 そして心底楽しげに笑う大人が一人。
 エドが憤怒で真っ赤になったことは言うまでもない。
「あ――あんた性格悪ぃ!」
「知ってるよ。知らなかったのか?」
「知ってたけどっ……知ってたけど! でもだってさっきあの鳥ちゃんと両足で立っただろ! まるであんたの言葉わかったみたいに!」
「うん、あれは驚いた」
 偶然というのは素敵だねぇ、などと笑われ、エドは脱力し、それ以上怒りが持続せず項垂れるのだ。
 しかもロイはまた何かを見つけた顔でいそいそと言う。
「鋼の――鋼の。見てご覧、あっちで陽気に笑っている動物がいる」
 絶対またからかわれる。知ってはいても、見ないでおくと「鋼の鋼の」うるさい。仕方ないので見てやった。
 ロイが指し示す方向にいたのは首の長い動物――キリンである。それは仮設された樹木の頂から木の芽を毟り取って食べることを繰り返している。
 しかしその食べている顔が――
「……ぶっ」
 笑うな、笑うとロイが付け上がる。わかっているのに駄目だった。次の瞬間エドは大笑いしていた。首をいっぱいに伸ばして食事をしているキリンは、どう見ても歯をむき出して笑っているような顔をしている。
「変な顔―!」
 笑い転げるエドを見て、ロイも楽しげに目をまたたかせるのだ。
 こうして、動物園の中では終始下らないことを言い合いながら歩いた。ロイといると時間が経つのを忘れるのはいつものことで、テントから出て太陽がずいぶん傾いていることに気付いた時にはエドも驚いた。
「歩きながら食べられそうなものを買ってくるよ」
 こちらをテント脇の空樽に腰掛けさせ、彼は一人で近くの市へ向かう。エドも歩き通しで疲れていたので、厚意は黙って受け取っておいた。
 その声が聞こえたのは一人になって間もなくの頃だった。
 ロイの帰りを待ってぼんやりしていたので反応が遅れてしまったのだ。気付けば背中側からエドの心臓上を押す硬いものがある。
「――動かないで」
 どこかで聞いた声だとは思った。
 しかし何かで口許を覆ったらしい声の調子では良くはわからなかった。冷淡で静かな――女性の声である。
 エドは一瞬で事態を悟った。
 即座に頭に浮かんだのはロイのことだ。自分がひどい失敗をしたと気付かずにはいられなかった。
 女が言う。
「彼とはずいぶん仲が良いみたいだけれども、どんな男か知っている? 上り詰めるためには恋人も友人も利用するような男よ。彼に恨みを持っている相手はたくさんいるわ、妬んでいるお偉いさんもね」
 じりと片手を捻り上げられた。
 エドには彼女の容貌は全くわからない。それでも今背後から突きつけられているものがただの鉄屑だとは思わなかったし、ここで騒いで万が一ロイが気付くようなことがあってはならないとも思った。
「君もいつかボロ雑巾のように捨てられる。それとも殺されるかしら――こんな話を知っている? 彼の錬金術の研究手帳は女性の名前で書かれているんですって。その手帳に名前がある女性は、もちろん過去に彼と少なからず関係を持ったそうなのだけれども――」
 女はかすかに笑ったようだった。
「今では誰一人生きている相手はいない」
 悪意がちらつく声だった。
 こんな話で動揺するものか。気丈に唇を結んだエドを挑発するように彼女は続けた。
「彼の手帳は弔いの手帳よ。君はせっかく近くにいるんだから、聞いてみればいい。その女の人は死んでいるのかって。殺したのは貴方なのかって」
「……あんた何が言いたいんだ」
 黙っていられずつい口を出してしまったのだ。
 女が笑う。
「何も? ただ君も利用されて殺されないようにって、それだけの話だわ。命が惜しかったらさっさとあの男から離れなさい。そんな若さで何も望みが叶わないまま死にたくはないでしょう?」
「あんたの話なんかじゃその気になんねぇよ」
「まあ残念。でもいいのよ。むごたらしい話なんかして、標的でもない相手を傷つける理由は私にもないもの。命じられているのはあの男の命だけ」
 ロイ・マスタングだけ。
 女はまるで愛する男を呼ぶようにその名を呟いた。
 今まで聞いたどの言葉よりも、その声が一番エドの神経を逆撫でした。全身に悪寒が走る。思わず女に捻られている腕が動き、抵抗と勘違いされたのか、後ろから背を突いていた塊が更に強い力で押し付けられる。
「ごめんなさい、もう少しじっとしていて。私が向こうへ行くまででいい」
 拘束されていた腕が放される。
 背中を押していた圧力が消える。
 女の気配は掻き消え、あとには匂いも残らない。足音も聞こえなかった。
 エドはゆっくりと振り返る。背後にはもう当たり前に誰もいなかった。いくらかの木箱の山と、動物園のテントが見えるだけだ。
 はぁっと、腹からの溜め息が漏れた。安堵と憂鬱の溜め息だった。最悪ロイの足枷になっていてもおかしくはない事態だったのだ。警告めいたことを言ってこちらを惑わせたかっただけということはないはずだが、それ以上の意図はエドには伝わってはこなかった。
 声は聞き覚えのあるものだった――
 しかしエドはこのことについて深く考える気はなかった。下手に突付いてロイに気を回されるのが嫌だったのだ。相手が警告をしてきたのなら、警告があったという事実だけ心に留めておけばいい。
 ふと、空から白いものが落ちてくる。
 雪だった。出掛ける時は青空の比率が高かった空も、今はその大部分を雲に覆われている。
 エドはその雪を眺め、もう一度溜め息をついた。ロイは勘の良い男だから嘘などすぐに見抜かれてしまうだろう。ならば嘘をつく状況を作ってはいけない。
 雪が降ったのならちょうど良かった。
 エドは機械鎧と肩の継ぎ目をさすった。そろそろ冷気で身体が冷えてきた頃である、口実にはもってこいだ。
 市の混雑からロイが抜け出してくるのが見えた。彼は遠くからでもすぐにエドの様子が優れないことに気付いたらしい。半ば小走りになって駆けつけてくれた。
「――どうかしたのか?」
「ううん……ただ、ちょっと痛いなって」
「冷えてしまったのか?」
「うん……」
 エドが肩を気にしているとまず食べ物を渡された。出来立ての蒸しパンだった。まだ手触りもふわふわな上に湯気を上げている。持っただけで笑顔の出るようなものだ。
「食べた方がいい、少しは温まる。その辺で夕食の惣菜を買い込んでさっさと帰ろう」
「ん……」
「動いた方がいいと思うんだが……大丈夫か」
「うん」
 立ち上がるのを支えられた。
 ロイはやさしい。
 たとえ女から聞いた話が全て本当で、彼が非道な殺人を犯しているのだとしても、彼を嫌うのは難しいだろうと漠然と思った。

 

02
 窓辺から空模様を窺ったエドは短く息をつき、同じようにこちらを見ていた男を振り返る。
「やっぱりやまないみたいだ」
「いよいよ寒くなってきたということだろう。もうやめておいた方がいいんじゃないか?」
「でもせっかくもらったしなぁ……」
 テーブルの上に置きっぱなしになっている紙袋は、ノアに来て二日目に、紙芝居をしていた老人にもらったものだ。中に入っていたのは飴玉といくつかの花火だった。
 花火をやろうという話になったのは夕食途中のことである。しかし外では相変らず雪が降っていて、窓から眺める限りでは夕方の時点で既に辺り一面が真っ白になっていた。
 雪の勢いが弱くなったらと約束して数時間、時刻も深夜に近い。
 そろそろ待つことが無駄であるとエドも諦め始めている。夜が遅いこと自体は苦にならないが、いつまでも未練たらしく花火の入った紙袋を見るのにも飽きてしまった。
「……大佐、雪は嫌い?」
 エドの遠回しな質問の行き着く先を、ロイもすぐに気付いたらしい。
「別にかまわないが、君が苦痛ではないのか」
「少しなら平気だろ?」
「……君がそう言うのなら」
 肩を竦めて苦笑した彼を引っ張り、暖炉から火種をバケツに入れて持ち出した。
 コテージから出ると、鳥の羽のように大きな牡丹雪が舞っている。風が強く、思わずぐらついたエドを、ロイはさっさと引き寄せ風除けになってくれた。
「寒いよ」
「寒いね」
 笑い合っている間に上着が雪まみれになる。
「早く済ませて帰ろう」
 紙袋から数本しかない花火を取り出し、ロイに半分と自分に半分とに取り分ける。ロイはエドが手渡したそれを更に半分にして、片方をエドの上着のポケットに差し込んだ。
「いいの? 大佐もスキだろ、こういうの」
「いいよ。君が笑ってる方が嬉しい」
「バーカ」
 早速火種を使って火をつけてみた。
 花火はしゅわわと小気味良い音を響かせ、雪で幾分大人しいながらもオレンジ色の火花を飛び散らせた。
「……綺麗だな。久しぶりに見たよ」
「オレも」
 お互い無心になって続けざまに火をつけてみる。
 赤色、紫色、黄色、緑色。
 雪の中で火花の残像だけが浮き上がるようだった。
「……やだなぁ」
 知らず呟いてしまって、こちらを向いたロイに苦笑いを返しながらエドは続きを口にする。
「なんかさ、あんたといるとキレイなものばっかり残る気がする。楽しくてヤダ」
 ロイは笑わなかった。ただ白い息を吐いてエドを見た。
「明日東部に帰ったらまたしばらく会わなくなる。オレはアルと旅に出て……それでまた賢者の石のことで一喜一憂するんだろう。嫌なものをたくさん見て、聞きたくないような話もたくさん聞く。触りたくないようなものに触って、何かに腹立てたり憎んだりする……なのに、あんたとのことだけきっとキレイなまま残る」
 手の中の花火が消え、残るはロイにもらったポケットの中のものだけになってしまった。けれどもそれに触ることができず、エドはうつむいた。
 降り続く雪は、たった今まで踏み散らした雪の上にまた新しく積もり、地面をどんどん白く変えていく。
 白く――
「……きっとすぐに忘れるよ」
 ロイがひっそりと言った。
「今は楽しくても明日は楽しさなんて覚えていられないような日常に押し流される――君は忘れる」
 彼の言葉を聞いたエドは、かすかに笑うことしかできなかった。
 だって忘れるのはロイの方だ。
 それほど思い上がってはいないつもりだった。ロイから見ればエドは相変らず子供で、寄りかかるには頼りなく、支えるには重い荷物に違いない。互いの気持ちは種類こそ似通ってはいるものの、同じではないのだろう。それはエドとロイに限ったことではなく、人の心が身体から飛び出して繋がることができないように、個人と個人の間では当たり前のことだった。
 けれど、それでも今だけは、少しも隔たりがない状態にいることをエドは疑わない。
 ロイの言葉が直接エドの心を揺らすように、エドの言葉はロイの心を直接揺らしている。手を延ばせば当たり前に届く距離にいる。
 ロイは結局まだ何も信じていなかった。四日間でエドが彼に語ったどんな気持ちも、彼の何をも変えることはできなかったからだ。エドが彼を心から好きだと言ったところで、彼はいつまでも軍部にいるし、イシュヴァールの呪いからも逃れられず、どこかの野心家から命を狙われていることも変わらない。明日イーストシティに帰還すれば、彼はまた乾燥した世界の中で己だけを信じて生きて行こうとする。
 彼の生き方が寂しいとか寂しくないとか、そんなことはエドに言えた義理ではなかった。
 ただ――
「明日……帰ったら大佐はそのまま司令部に行くのか?」
「そうするつもりだ。君はリゼンブールへ?」
「うん、アルを待たせてるし」
 そうか……、アルフォンスの名前を出せばどこかぎこちない笑い方をする彼。
 少しはエドを拘束したいと思うようになった?
「……明日の今頃、多分オレ大佐のこと考えてるよ」
 突然言ったエドを、ロイは少し訝しげな顔をして見た。
「アルに会って、あんたに告白したことを報告して……どうにか上手くいったかもしれないなんて言いながら、四日間のことを思い出す。雪がキレイだったなって考えて、あんたとこうして話したことを思い出す」
「そうして次の日になって旅に出る支度をして……私を忘れる?」
「ううん。多分忘れない」
「…………」
「あんたが信じてないのは知ってる、でもきっとオレは一生思い出す。――オレのこと子供だって思ってるくせに、自分の子供の頃と重ねるの忘れてるよ大佐。なぁ、大佐が子供の頃、特別なことがいっぱいあっただろ?」
「――…………」
「一日が長くて、毎日いろんなもんに怒って笑って、時々傷ついて死にそうなぐらい悩んで……何で全然大人になれないんだって悔しくなかった? 上手くできないことばっかりで、いつかできるようになるって言われても、今すぐ一回やれたらいいから他はいらないって思わなかった?」
「……そうだったかな」
「そうだったんだよ。子供はさ、生きてるだけで毎日新しいことにぶつかる。そのたびに驚いて、すごい感動して動揺して……上手くできない自分が悔しくてさ、だから記憶力がいい生き物なんだ」
 ロイが苦笑う。彼はまだ何を聞かされているのかわかってはいないのだろう。
 仕方なく笑って、エドは一番の秘密を打ち明けた。
「……ねぇ、あんたがどれだけオレの初めて持ってったかわかる?」
「初めて……?」
「そう。あんたはきっともうそんなこと何度も繰り返して特別じゃなくなってるんだろうけど……全部初めてだった。あんなふうに告白しに怒鳴り込んだのも、好きな相手と手繋いだのも……キスしてセックスして、こんなふうに時間過ごすのも。ちょっとしたことで大事にされたり……本当にちょっとしたことだよ、マフラー貸してもらったり、肩抱いてもらったり、手支えてもらったりさ、落ち込んでれば甘やかしてくれたり。とにかくあんたがオレに何気なくしてるほとんどのことが、オレには初めて経験することばっかりだった」
「それは……私じゃなくても、いつか」
「うん。いつか別の相手とも経験するのかもしれないけど、オレの基準は全部あんたになったんだ」
 ロイが黙り込んだ。
「わかる? 基準なんか忘れられるわけがない」
 エドは彼を真っ直ぐに見つめた。彼はエドを哀れむような表情をしていた。きっと後悔したのだろう、好きだと言いながらあれほどエドを遠ざけたがっていた彼だ。本当はキスもセックスも、エドの中に深く残るようなことは何一つするつもりはなかったのかもしれない。
「……あんたが忘れても、だからオレは覚えてる」
 彼の後悔を知っていて、エドは小さく笑った。
「きっとずっとあんたのこと好きだよ」
 もう一度告白すると、それ以上の言葉を封じるように長い腕がこちらを抱き込む。
「部屋に入ろう、花火はもういい」
「でもあと少しだよ……」
「少しでも。もう聞かない。これ以上君と多くを話せば、私はきっと余計なことを言ってしまう」
「言えばいい。オレ多分笑わないよ?」
「知っているよ」
 ロイが悲しく言った。
「知っているよ……君は誠実にうなずくだけだ。そして私はそれでも君を信じてやれない。結局傷つくのは君ばかりだ、だから言わせないでくれ」
 エドはすっかり項垂れてしまった彼の頭を背伸びしてそっと撫でてやった。
「何でそんなに怖がるんだろ……オレはいいって言ってるのに。あんたの我侭くらい軽く聞いてやるよ?」
 背中を叩いてあやしてやる。ぎゅうっと痛いくらいに抱きつく腕は、まるで泣いている子供のように懸命だった。
「……大佐」
 答えはない。
「大佐」
 エドはもう一度呼びかけた。
 ロイが顔を伏せたまま大きく吐息する気配がした。
「……私の傍にいてくれ」
 やっと聞こえた声は、とても小さい。昨日の夜と同じくエドだけにしか届かないようなものである。
 それでもちゃんと聞こえた。エドは微笑んで、しっかりとうなずいてやった。
「いいよ」
「ずっととは望まないから……」
「うん」
「できる限りでいい……」
「うん。傍にいる」
 乞われるままに何度も誓い、なおも信じられないと悲しがる彼のために、エドは言葉を付け足してやるのだ。
「あのさ、今すぐに証明するのは無理かもしれないけど……いつかちゃんと本当だってわかるような時がくるよ。そしたら……そしたらでいいや、あんたが負けたって思った時にちゃんと謝れよな。オレはきっとあんたとの約束守るために頑張るし、泣いたりもするかもしれないし……だからオレが頑張って泣いたぶん、いつか返せ」
 ロイが小さく笑った。
「そうだね……その時は私も泣いて謝ろう」
「ほんとだな?」
「本当だ。私だって君のためになら泣けると思うよ」
「よし! 絶対泣かす!」
 勝負事さながらの気合を入れたエドに、彼はほっと息をつき、
「……楽しみにしているよ」
 そう、夢見るような口調で呟いた。

 

03
 通りでコテージの鍵を返し、まだ少しも汚れていない雪の道を二人で駅へと向かう。
 ノアの早朝は静かだった。時折どこかの屋根から雪が滑り落ちる音がするくらいで人の姿は全く目につかない。まばゆいばかりの陽光もただ透明に町を輝かせるだけだ。
 歩いた後ろに平行に続いていく足跡に目を奪われ、エドは何度となく彼の足跡を交差する形で雪を踏みしめた。最初は隣で蛇行するエドを不思議に思ったようだが、ロイも途中でこちらの意図を知ったらしく、くすぐったそうに笑みを浮かべる。
 互いの声はなくともやさしい朝だった。
 だから駅に着くまでずっとそんなふうに歩いていけるのだと思ったのだが――
 砂利混じりの雪が跳ね上がる音が聞こえた。
 ふとロイの表情が引き締まる。エドも気付いた。何がどうと言うわけでもないのに不自然な音だった。
 背後を振り返る。道の上には二人分の足跡しかない。
「……鋼の」
 ロイが短く呼んだ。エドも彼の言うことは知っていた。
「……先に駅に行っとく?」
「ああ。すまない」
 首を振るだけで答え、エドは真っ直ぐに歩き出した。ロイは立ち止まったままだった。
 そのままいくら歩いた頃だろう。ようやく駅の屋根が視界に入り、背後を振り返る。ロイの姿は見えない。
 無人の雪道には一人分の足跡が続いているだけだ。エドは白い息を吐きながらじっと向こうを眺めていた。
 その時である。唐突に背後から左手を引かれる。
 咄嗟に振り切ろうとしたができなかった。
「……っ……!」
 手のひらと手のひらがぴたりと合う形は握手そのものだ。しかし相手の手の中には、こちらの手を直接縫いとめる釘束のようなものが仕込まれていた。
 すぐに指を伝って血が滴るのがわかった。
 エドは苦痛を堪えながら背後を振り返る。
 思った通り、相手はそう身長差のある相手ではなかった。女性、だ。それも数日前に会った覚えのある――眼鏡をかけた、やさしげな面持ちの――
 ジャネット・サイモン少尉。
「……やっぱり、あんただったんだ」
 エドが言うと、彼女は困った様子ではにかんだ。
「ごめんなさいね。できるだけ君を巻き込まないようにしたかったんだけれども、そう言っていられる時間がなくなってしまったの」
「どうして……あんたオレに大佐のファンだって言ったじゃないか」
「嘘じゃなかったわ、軍部で一番尊敬している人が彼よ。彼はとても強い人だわ、いくら味方を失っても一人で戦っていられる――強い人よ」
 それを本当に強さと呼ぶのかエドにはわからない。だがサイモンが真実そう考え、自分の意志で口にしていることはわかった。彼女は確かにロイを崇拝している。にもかかわらず、今は彼を殺す目的で動いている。
「……どうして?」
 エドには他に言うべき言葉がない。
 そして彼女はただ平坦に答えるのだ。
「任務なの」
「――…………」
「命令されれば従うしかない」
 事実だけを淡々と語る声。完全に自分を殺す声だった、軍の名の下にこうべを垂れた――そうする理由を身の内に刻む者の声。
 その声を聞いた途端エドも痛感する。サイモンを説得するのは無理だった。
 だとするなら、このまま彼女に捕まっていれば、ロイが追いついて来た時に自分の存在は負担になる。エドの頭の中では警鐘が鳴り始めていた。
 しかしこちらと同じ警鐘を聞いているかのようにサイモンは言うのだ。
「私はこれ以上君に危害を加えるつもりはないわ、だからじっとしていて。動けば左手の神経を傷つけてしまう、左手まで機械鎧にしたくはないでしょう?」
「……それで大佐を脅すのか?」
「脅す? いいえ、君には私の壁になってもらうだけ。君がこれ以上の怪我を負うとしたら、起点になるのは私ではなくマスタング大佐の方よ」
 エドは唇を噛んで彼女を睨んだ。彼女はこちらの左手を捻り上げ、後ろからエドを抱きかかえる形で寂しげに笑う。
「こうして君の後ろに隠れていても……あの人は君ごと私を討つかしら」
「そうして欲しいのか?」
「そうかもしれないわ……君も見たくない?」
 通りの向こうからロイが近づいてくるのがわかった。エドは堪らない気持ちで彼との距離を測ろうとした。
 まだ遠くて目も鼻も口も良くはわからない。彼は刺客がここにいることにもう気付いただろうか。
 見たくない?、耳許ではサイモンが繰り返す。
「……彼が、彼自身の命と君を秤にかける瞬間を」
 言いざま、彼女の手がエドの背後から銃を掲げるのがわかった。
 ――見たくない。と、言えば、多分嘘になる。
 大変なことになったと慌てる心の裏側で、もしもロイの表情が少しでも苦痛に歪むなら、エドはきっと嬉しいと思うだろう。彼が動けなくなる時間がエドの命の重さだ、誰を殺しても生き抜くと言った彼がどんなふうに揺らぐのか、知りたいと思わないわけがない。
 それでも迷いはないのだ。エドは、彼女がロイに狙いを定める前に、囚われた左手を思いっきり振り払っていた。
 それまで従順だった人質の反逆に、サイモンの目が逸れる。
「子供だと思って油断しただろ」
 即座に身を離す。
「戦って生き抜いてきたのは――あんたたちだけじゃない」
 サイモンの拳銃が反射的にこちらを向く。
 エドはその瞬間ロイを探していた。
 今だ、と。心の中で強く叫んでいた。
 刹那、響いた銃声はたった一度きり。サイモンのこめかみからぱっと花びらさながらの鮮血が迸った。彼女の拳銃は勢いのまま遠くへ投げ出され、やわらかい身体は衝撃に硬直したまま横倒れになった。
 エドは大きく息を吐いて足を止めた。
 彼女を振り返る。乱れた頭髪の隙間からじわりと赤いものが広がっていく。
「……鋼の」
 傍からロイの声が聞こえた。
 エドは彼を振り返り、それからぎこちなく笑って「大丈夫」とだけ答えた。

 血の滲むエドの手を取り、簡単な止血を終え、ロイは改めてこちらの目を覗き込む。
「……すまない。君を巻き込んだ」
「大丈夫だって言っただろ。痛みには慣れてる」
 そうか。彼は重くうなずいて、それから壊れ物にするように、エドの血に染まった指先にキスをした。
「……彼女は、以前私の部下だった」
「そう……」
 ――本当はサイモン自身から聞いてそのことは知っていたけれども。
 エドは何も知らないふりをした。
 彼女の名前も。彼女に子供がいたことも。ロイを尊敬していると語ったことも。
 今のエドが彼のためにしてやれることは、彼を孤独にする過去から嘘で遠ざけてやることだけだった。