01
破れた屋根の向こうに星屑──
遠い火も近い火も無数に混在する砂漠の天は、奇妙に厚ぼったく、見るものの頭上を圧迫する。
エドは思わず息をつく。すると吐いた息が白く色付くことに気付き、慌てて呼吸をひそめた。
今夜は特別冷え込んでいる。砂漠は昼夜の気温差が激しい。エドがいるのは深く窪んだ地下である。建物だった名残があるため、人の気配は簡単に漏れることはない。しかし有事だった。こちらが危険を避けるのと同様に、敵の探索の眼も鋭くなる。
有事──そう、国の存亡をかける有事だ。
アメストリスは今、主要都市の大部分が内戦に埋もれつつあった。
きっかけは、大総統であるブラッドレイが人造人間だと発覚したことである。
軍部は二分した。ブラッドレイに反発する者と付き従う者との間で抗争が起こった。今や対立はそれぞれの撲滅にまで及んでいる。元々の覇権を握っていたブラッドレイ側が、悪辣な手段を取ったためだった。
彼らは隣国アエルゴを国内に引き入れた。
元々アメストリスとアエルゴは、領土問題で長く交戦状態にあった。そのアエルゴに、ブラッドレイがどんな条件を提示したのかはっきりしない。ただ、アエルゴ軍は、ブラッドレイに反発する反体制側の駐屯地ばかりを集中的に攻撃した。
こういった状況下で、エドが選べることは少なかった。
国からはすぐさま兵役の招集がきたが、拒否してアルフォンス共々身を隠す。それと同時に、民間の錬金術師と民兵とで構成した義勇団に加わった。
戦況は好ましくない。だが悲嘆に暮れていても始まらないのだ。エドたちは、人造人間の目的が「生きた人間」の確保であると知っていた。
優先すべきはひとつだった。
一人でも多くの国民を国外へ逃がす──
特に、人知れず安全に移動できる場所として目をつけたのが地下である。
普通に工事をするなら、国を横断する地中の道など、百年かかっても完成しなかっただろう。錬金術師が力を結集したからこそ叶った方法だ。アメストリス主要都市の各地下から東部最果ての町へ、そこから更にクセルクセス遺跡まで直結する、巨大な地下トンネルを錬成した。
できるだけ早く、一人でも多く。
義勇団にいる錬金術師たちは、エドに限らず、アルフォンスにしてもイズミにしても、またその他も、全員が単独でせわしなく地下通路内を行き来している。
今晩のエドも、西の都市から民衆を率いてきたばかりである。移動は明日も続く。目指すは、シン国国境にある難民街だ。大勢で砂漠を動くのは目立つだろうが、人数を制限している余裕はなかった。
そもそも脱走劇を確実に成功させようとするなら、もっと多くの地下トンネルと綿密な作戦が必要だった。
しかし叶わないのだ。機動力を持つ反体制側の軍人たちは、アエルゴ軍を交えたブラッドレイ側との交戦を余儀なくされている。
四六時中爆音が響く、常に火災が起こる。今の国内はどこに行ってもそんなふうで、生きた人間は発見され次第ブラッドレイ側に回収されていく。
反体制側の軍人たちの中枢にはロイやアームストロングもいたが、彼らにしても、国内で激戦の繰り広げられている地域を駆けずり回っている状態である。
交戦が長引けば民衆の逃げる時間は増えるが、今度は逆に軍人たちが死んでいく。
「……頼むよ」
エドは白い息を吐きつつ無数の星に呟いた。
脱出の成功を、仲間の無事を。
もはや敵は人造人間ばかりではない。国と国とがぶつかり始めた今、個人でできることと言ったら、ささやかな祈りを天に唱えることくらいである。
そんな時だった。
「……やっと見つけた」
声は聞こえるはずもないものだ。驚いて振り返ると瓦礫の影から軍靴が覗いている。
エドを待っていたように相手は動く。星明りに男の姿が浮かび上がる。
「大佐……どうして?」
ロイは、現在最も激戦地となっている東の戦線で指揮を取っている男だった。
「君と話がしたくて来た」
「話?」
「いくらかは警告も含む、だが大部分は個人的なことだ」
たった数時間でも指揮官が抜け出せば、軍隊にとっては命取りだろう。そんな状況でわざわざ話をしに来たと、ロイは言う。
「休憩中にすまない。君の時間をくれないか」
軍装の上着が風に翻る。ばたばたと硬い音がする。
彼からは火薬の匂いがした。それから、埃と血潮の、嗅ぐ者の胸をひずませるような匂いも。
「……嫌だって言ったって勝手に持ってくんだろ」
「その通りだ」
やり取りの仕方は以前と同じ。ただ返ってくる言葉が静かでいたたまれない。
「……いいよ、どうせ眠れそうにない」
「休憩はしっかりとるべきだと思うが?」
「あんたが言うか」
「私の話などすぐに終わる」
「大佐の顔見たあとじゃ余計に眠れない」
ロイの微笑はぎこちなかった。
「……では時間が許す限り付き合ってくれ」
「最初からそう言えばいいんだ」
何とか軽く返し切ったエドも、笑うことには失敗する。
02
単純に彼と会う頻度を比べるなら、むしろ戦争が始まってからの方が良く顔を合わせるように思う。
義勇団と軍部との橋渡しになったのがエドとロイで、密に連絡を取って双方の足並みを揃えたからだ。しかし、そういった会合はどこまでいっても事務的にしかならず、個人的な会話は次第に減っていった。
最後に下らない話で盛り上がったのはいつのことだったか。今二人で廃屋の隅に座り、何を話しても許される状態でいても、自然と無言を選んでしまう。
決して話しづらいというわけではない──どちらかと言えば逆で、互いに隠しておきたい本音までもが飛び出しそうで恐ろしいのだ。
少なくともエドの中には、相手が息をしていると感じるだけで溢れそうになるものがある。
この戦争について、ロイが心で何を望み戦っているか量りようがない。ただ彼は、時にやりすぎたと感じるほど激しく敵をなぎ払う。まるで目立つ的を与えるかのごとく、前線に一人で立つ。
怖くて話ができないのは、今にも彼の覚悟が透かし見えそうだからだ。
「……鋼の?」
不意に呼びかけられ、エドは盛大に肩を揺らした。
「驚かせたか」
「……ちょっと。緊張して」
目だけが和む、以前の彼はそんな笑い方はしなかった。
「個人的な話だと言ったのに? 君らしくもない、何か悪いものでも食べたのか?」
「違う」
「だったら良いが、ね」
ロイは語尾を遅らせ、それから短く息をついた。
「いや、そうだな……私も何だか緊張している。ずっと話したいと思っていたんだが、なかなか時間が合わなかった」
エドはすぐにも耳を塞いでしまいたかった。
脳裏を過ぎるのは、燃えた町にたたずんでいた彼の姿だ。
あの手の冷たさならまだ覚えている。言葉にならなかった感情の渦も。
このタイミングで何を話す気になったと言うのか。
彼はこちらの動揺に気付かぬまま「まずは目先の警告が先か」と一人ごちる。もっとも差し迫った現実を語り出す。
「最初に君たちには謝らなければならない。昨日の交戦で、とうとう地下道の一部が外に露出したよ。敵が民衆の脱走に気付いたかどうかは判断できないが、地下トンネルでの移動は危険になった。この戦争も大詰めになる、数日のうちに総力戦が始まるだろう」
エドは彼の横顔を凝視した。早くからそうなると覚悟していた事態ではあったのだ。
「君はすぐに国内へ戻ってくるつもりだっただろう? 私はそれを止めに来た」
あくまで淡々と続ける。彼の声は決まったマニュアルを読み上げるかのようだった。
「義勇団は、人々を難民街まで送り届けたなら、シンへ向かってくれ。シンに兵力の応援を要請してほしい。ただし、必ずしも結果が欲しいわけではない。シンにとっては、難民を国境に住まわせるだけでも大変な譲歩だっただろうしな。君たちは交渉することで、まずシンと縁を深めるんだ。この戦いはいつか終わるだろう。その時に、アメストリスが国として残っているかどうかは私にもわからない。ただシンを表に引っ張り出すことができていれば、アエルゴ軍に踏み荒らされる土地も少なくなる」
「まだ、負けたわけじゃ……っ」
「もちろん。私もすぐに東へ還る。他でも国内に残っている民衆はできる限り逃がし続ける。戦争は他方が殲滅されるまで続くよ、その間には事態が快方へ向かうこともあるかもしれない」
ただし、と、ロイは言葉を切った。
「君たちと共同戦線を張るのはここまでだ、あとは戦争を職業にした者たちの間で決着をつける」
彼の宣告は嫌になるほど率直だった。
エドは必死に己を奮い立たせる。
「何言ってんだ! 軍人かそうじゃないかは今更関係ないだろ? 錬金術師が戦力にならないなんて大佐にだけは言わせないぞ、義勇団は民衆の移動に付き合わせたとして、オレだけでも──」
「鋼の。私はね」
ロイはエドの言葉を半ばで遮り、苦く笑った。
「この期に及んで綺麗事を言う気はない。多くの人々を救いたいのは山々だが、それ以上に、手が届く範囲の大切なものを守りたい」
一瞬声が出せなかった。
「君は戦力になるかもしれない。だがこちらへ来たら死ぬだろう──いや、断言してもいい、君は死ぬ」
反論しようとしたが、ホークアイに拳銃を手渡された時のことが頭を過ぎった。まるでエドの考えを読んだかのようにロイは続けた。
「戦場ではためらった者から死んでいく。そして敵は人造人間ばかりではない。君は同じ人間相手に全力で殺し合いを挑めるほど残酷じゃないだろう」
口論にすらならないではないか。
エドは堪らない気持ちで首を振るのだ。
「……それで? オレを遠ざけといて、あんたの個人的な話っていうのは、結局自分自身の戦死予告なのか? まだ何にも終わってないのに? 自分の国なら守りたいし知った顔なら生きてほしい、そう思うのは大佐だけじゃない。力があれば戦うさ、そんなの当たり前のことだ」
「君の決意がそうでも……これは殲滅戦だ、どちらかが全滅するまで戦争は続く。考えてみてくれ──もしも君が最後の一人になれば、四方八方から理性をなくした兵士たちが銃器を持って押し寄せる。もしかしたら生きたまま捕獲され、磔にされるかもしれない。手足を引きちぎられるかもしれない。骸になってすら辱めを受けるだろう。そんな場所に君を呼べと言うのか」
自分の唇が震えるのがわかった。
エドを真っ直ぐに見据え、彼は言う。
「頼むからシンへ逃げてくれ。多くは望まない、ただ君が生きていてくれるだけでいい」
何と返せば良かったのだろう。言葉は欠片も喉から生まれず、代わりに涙が溢れ出た。
決して彼の話す戦争が恐ろしかったのではない。そうではなく、少なくともロイ自身はそれを覚悟して戦場にいるのだと実感して、箍が外れてしまったのだ。
たった一人──あんなに冷たい手をして──あの時の彼は何を考えていた?
その時、エドの中で最後の生存者になったのはロイだった。銃器を突きつけられ、磔にされ、手足を引きちぎられたのは彼だった。そしてそれは、もしかしたら本当に訪れるかもしれない未来である。
「……すまない。嫌な話を聞かせた」
謝る彼に夢中で抱きつく。
喉は未だ機能を忘れて熱く震えるばかりだ。それでも祈りは涙と共にこぼれ出た。
「死ぬな……っ!」
硬い布地の軍服に額を擦りつけながら。
ロイは束の間黙り、静かにエドを抱き寄せた。
こちらの背を宥める手がやさしくて、ますます涙が止まらなくなる。
「……頼みがあるんだ、鋼の」
しばらくしてロイは言った。
子供のように泣き続けるエドに気が削がれたのか、言葉尻はいくらか軽さを取り戻していた。
「少し前に、部下たちの要望で同志をつなぐチェーンを造った。首につけたり腕につけたりベルトに仕込んだり、身につけ方は個人の自由にしてあるが、これがなかなか上手く機能している。戦場にいると気持ちの浮き沈みも激しくなるから、目に映る形で支えがあるのは良いことなのだろうな。私もたった少しのチェーンで心を強くする部下たちが羨ましかった。……鋼の、笑ってくれないか、私はそれが欲しくて今晩ここに来たんだよ?」
つむじに口付けられるのがわかった。エドはのろのろと顔を上げる。
「チェー、ンを? オレ、が?」
えずきながら尋ねると苦笑された。
「いいや、形は何でもいいんだ、ただそれが一欠けら欲しい。私にくれるかい?」
言いながらロイが指で撫でたのは、エドの右手の機械鎧である。
「見ればきっとどんな時でも君を思い出す、まだ何かできるはずだと希望を持つだろう」
──まだ何かできるはずだと。
心の底で動くものがあった。
エドは咄嗟に手繰り寄せしがみつく。それは、いつか見た小さな希望だ。
未だ溢れてくる涙を拭う。拳で、袖で。足らない分は更に上着の襟で。うっかり泣かされて大切なことを見失うところだった。
「──いいよ、いくらでもやる。その代わり、大佐も何かくれる?」
彼は突然頭をもたげたエドに瞠目した。
「オレも何か欲しい。それを見るたびあんたを思い出して、自分にできることを探すから」
「……鋼の」
「まだ何も終わっちゃいない、だったら逃げるのは嫌だ。大佐みたいに戦争はできなくても、オレで何とかなることがあるうちは戦いたい」
途端に表情を険しくするロイ。
負けてなどやるものか。
「等価交換だろ、オレだけ寄りかっていいはずがない」
彼の腕から抜け出した。
こちらを睨む相手を同じ強さで見返してやる。
なぜわかってくれないのかと憤る、刹那の彼の眼差しは焔を宿したかのようだった。
しかし最後まで希望を胸に我慢を続けたのはエドの方だ。長かった睨み合いのあと、ロイはとうとう顔を背け、怒気そのものを吐き捨てる。
「君はなんて馬鹿なんだ!」
憎々しげな声は、ところがこう続けた。
「だが腹立たしいことに──私は、君のそういうところが大好きだよ」
エドはぽかんと口を開けたまま止まってしまった。
ロイはますます不機嫌そうに眉根を寄せた。
「──何だ、その顔は? まさか思ってもみなかったとでも? こんなに差し迫った状態でわざわざ会いに来て、君が始終身につけているものをくれと言ったんだぞ、私は! 好きで当たり前だろう、驚く必要があるのかい?」
「いや……なんて言うか……あんまり堂々と言われるもんだから……」
「悪いか? 好きだよ、大好きだ。何回繰り返してもかまわない。君、が、大、好、き、だ!」
内容とは逆に、悪口でも言っているかのような口ぶりなのだ。エドは相槌に困って頭を掻いた。
「えーと……その、わかったってば」
「わかってくれて光栄だ、ついでに大人しくシンへ引っ込んでくれると僥倖だがね」
「それはヤだ」
ロイの溜め息は悲壮感たっぷりだった。
「君が危険な場所に行けばアルフォンスだって危険に晒される、兄としては許せるのかい?」
「大佐は勘違いしてる。オレとアルはお互いにやりたいようにやってるさ。アルはオレよりよっぽど冷静だしな、駄目だと思ったら動かない」
「ならば君も冷静になってくれ」
「それも無理。だって大佐は戦ってるんだろ?」
ロイが口を閉じた。エドは苦笑する。
「等価交換だって言った。あんたが好きならオレも好き、文句があるか?」
言葉の重さを疑うように目の奥を覗かれる。しかし今度もエドは負けなかった。ロイは更に不貞腐れ、無言のままそっぽを向く。
完全勝利だ。
「で? 結局いるのかいらないのか?」
眼前で機械鎧の手をひらひらと泳がせる。
しばらく無反応だったロイは、エドの手が動きを止めるや否や掴み寄せ、ほとんど腹いせまがいに気障ったらしいキスをひとつ。鋼の指に落として、笑った。
03
エドの機械鎧の欠片は、ロイの強い希望で指輪の形におさまった。
左手の人差し指だ。
とにかく目に付く場所で、元は自分のものだったと思えば、彼が手を動かすたび指輪の軌跡が宙に残るようだった。
多少恥ずかしいが仕方がない。エドは無理やり視線を逸らして男と向き合う。
「大佐の希望は叶えた。それでオレのは?」
軍服には付属の部品が多い。適当にボタンでも徽章でもくれると思ったら、ロイはそれらには目もくれずにいる。
彼が取り出したのは銀時計である。
「まさか、それ……?」
国が荒れているとは言っても本来は身分証代わりになっているものだ。慌てて手放すべきではないと主張すると、ロイは苦笑った。
「わかっているよ、まぁ待ちたまえ。これをそのまま差し出すわけでもない」
彼は銀製の蓋を開き、中のガラス蓋までもを丁寧に取り除き始める。
「君の機械鎧と同じくらい意味のあるものを持っていれば良かったのだが、生来執着が薄い質でね、戦功章などは鉄屑みたいなものだし、望んで手に入れたものと言えば、国家徽章か職種徽章になってしまう。そんな色気のないものはさすがに渡したくないだろう」
そうして取り外されたのは針である。
長短ひとつずつの華奢なそれ。
「機械鎧に比べたら見劣りするが、これでも士官学校時代から私の時を刻んできたものだ」
何だか銀時計をそのままもらうよりくすぐったい。
エドは己の頬に熱が溜まるのを感じた。
「……時間、わからなくなるぞ」
「かまわない」
こちらがまごついている間に、ロイは手帳を取り出し錬成陣を描いて、二つの針を勝手に指輪にしてしまった。
「どうぞ?」
小さなそれを恭しく寄越し、人の悪い顔で微笑んで。
「君がどの指に嵌めてくれるのかは、次に会った時の楽しみにしておくよ」
言い方には腹が立つが、一方では再会の約束と取れないこともない。
エドは指輪をひったくり、拳共々ポケットに突っ込むと、一番のしかめ面で言ってやるのだ。
「せいぜい長生きしろよ!」
ロイは笑っていた。しばらく見ていなかった楽しげな笑顔だった。
時間は瞬く間に過ぎ去る。
気付けば空は薄明るくなっている。エドが相手に知らせたくなくてこっそり目の端に留めていたものを、ロイもやはり見逃さなかったらしい。
「そろそろ帰還すべきだろうな……」
引き止めそうになるのを堪えるだけで一苦労だ。懸命に口を閉じたエドを知ってか、彼はふと事務的な口調で指示を始めた。
「とにかくシンのことは頼んだ。それから今晩は十名ほど部下を同行させている。彼らには君たちが砂漠を移動する手伝いをしろと言ってある、仕事を作ってやってくれ」
「う──うん」
「それと、くれぐれも地下トンネルには注意するように。できれば二度と使わないことが望ましい」
「わかった」
「他の錬金術師とは今日合流予定だな?」
「ああ」
「居場所が知れていた者には、同じように地下のことについて報告が行っているはずだ。しかしまだ知らない者もいる、しっかり注意してやってくれ」
エドはひたすらうなずくだけだ。ロイはその後もいくらか確認を繰り返し、最終的にこう締めくくった。
「決して無理はしないこと。単独での行動も控えてくれ。人が相手だろうと人造人間が相手だろうと危険なことには代わりがない。個人的に君へ最も推奨したいのは、大人しくしていることだが。そして──」
「わかったってば、もういいよ」
「良くないよ、これが一番肝心なんだ──生きてくれ」
エドは苦笑した。
ロイが左手を差し出す。人差し指に鈍色のリング。
「……元気で。鋼の」
求められるまま握手をした。彼の手の感触はきっと生涯忘れない。
そうして絡んだ指が離れ、お互いがお互いの行くべき場所に還る、まさにその瞬間だった。
ひゅっ、と、軽い発射音のようなものが耳を打った。
即座に上空を振り仰いだロイの表情が引き締まる。遅れて空が赤らんだ。それからどこかの地を抉る爆音。
遺跡の脆い天蓋が震え、縁に溜まった砂礫がこぼれる。
「──近いな」
ロイの判断は速かった。
「極東ならともかく砂漠には駐屯地もないぞ。質の悪い遊びでも始めたか、隠れ住む民をあぶり出すのが目的か──君たちは決して地下から出るな」
言い置き、早速身を翻している。
エドは慌てて彼を呼び止めた。
「大佐! どこ行く気だよ!」
「地下を使えば、極東の支部まで車で十五分足らずだ、敵の背後をとって遺跡から遠ざける。いいか、誰も地上に出すな! 一人でも発見されれば、この遺跡全体が集中砲火を受けると思え。我々が交戦を始めたなら、その隙に安全な場所へ移動するんだ」
最後の方はほとんど地下トンネルの向こうから聞こえた。
ロイは走り去り、エドは束の間棒立ちになる。二度目の砲弾が空を切った。そこで我に立ち返った──ぼんやりしている場合ではない。
ロイとは真逆のトンネルへ駆けた。
エドが今までいた場所は、民衆が避難している広間とは離れている。地下で繋がってはいるものの、こんな時ばかりはたった少しの距離が歯がゆかった。
元々クセルクセス王国の城塞を利用した地下広間である。硬い岩盤を更に鉄筋でしっかりと支え、多少の衝撃にはびくつかぬように錬金術で整備した場所だ。
それでも地上で轟く音までは消せない。
エドが広間に帰った途端、爆音を耳にしていただろう人々が、声もなく顔を上げた。
いくつもの怯えた瞳──
元々は皆散らばって過ごしていたものが、今は肩を寄せ合い、見知らぬ者同士でも手を繋ぎ合っている。
子供は泣き声も上げず母に縋り付き、老人は身を丸めて神に祈りを捧げていた。数少ない男たちは、疲労で落ち窪んだ目をかっと見開き、ここで戦うのかまだ逃げ惑うのかを逡巡する様が見てとれた。
民衆についていた民兵と、ロイが連れてきたらしい軍人たちが、先を競ってエドの元へと駆けつける。
「錬金術師殿、爆撃が──」
「わかってる。マスタング大佐から伝言だ、誰も地上に出すな、一人でも発見されれば遺跡全体が砲弾を受ける。大佐は東の支部に向かった。背後に回って敵をここから引き離すつもりらしい。オレたちはもうひとつ奥の広間へ移ろう。民兵は移動準備にかかってくれ」
「わ──わかりました」
たちどころに動き出す彼らを見送り、エドは新しく顔を揃えた軍人たちに向き直った。
すぐに聞いていた人数と数が合わないことに気付く。
「八人? 大佐からは十人だと聞いた」
問いを受け、もっとも階級が上らしい男が進み出る。
髪を短く刈り上げた強面の、背はそれほど高くはないが屈強な男だ。肩の階級賞には、幅広の線章が一本、その上に星型章が三つ。
「クインシー・ベック曹長です、錬金術師殿。二人は砦の偵察穴に向かわせました、間もなく帰還するはずです」
「そうか……」
これで何が起こっているのか判断できる。息をついたエドを、ベックがじっと見下ろしていた。気付いて視線を合わせると、男の目の中にいくらかの不審があることが見て取れる。
なるほど、エドの見てくれが子供であることが気に食わないらしい。
「ベック曹長、大佐からはオレのことをどう聞いた?」
「は。優れた錬金術師であると。信頼できる相手であるとも聞いています」
「それだけか」
「……国家錬金術師である、とも」
男が敬語を使っている理由がわかった。エドは銀時計を取り出した。
「徴兵に従わなかった時点で資格は剥奪されているかもしれないが──二つ名は鋼の錬金術師、エドワード・エルリックだ、よろしく頼む。あんたたちにはガキの下で我慢させて申し訳ないけれど、一応少佐相当の地位は持っていた。いざと言う時は命令に従ってくれ」
「了解しております」
ベックが重く答える。苦い顔付きだった。
間違っても腹で何を考えているかわからないようなタイプではない。エドは思わず苦笑する。
「ベック曹長、あんた大佐に気に入られてただろ?」
「……判断できません」
「そうか。多分気に入られてたよ。こういう時にオレのとこにやるくらいだ、きっと単独で多用な事態に対応できると思われてる。民兵はオレも含めて戦争に慣れていない、補佐してやってくれ」
「了解です」
敬礼を受けて更に苦笑が漏れた。と、ちょうど偵察に出ていた二人が駆け戻ってくる。
「──外はどうだった?」
エドが鋭く尋ねると、彼らは敬礼し、息を整えながら低く押し殺した声で告げた。
「敵の車二台が民間人を追い回しています。どうやらわざと砂漠に人を放ち、狩りの真似事を……」
報告は途中で途切れた。唇をわななかせて怒りを抑える一人の背を叩き、もう一方があとを引き継ぐ。
「前線までは四キロ強。場合によっては遺跡へ侵入される可能性があります。後方には部隊が控えていました。規模は確認できませんでしたが、数台の戦車にアエルゴの軍旗が見えました」
質の悪い遊び。
ロイが言っていたことが頭を過ぎる。エドはきつく奥歯を噛みしめ、それからベックを振り仰ぐ。
「曹長、奥の広間の位置は確認しているか?」
「はい」
「砲撃が始まって十五分経つ。マスタング大佐が極東の支部についた頃だ。部隊が動くまでにはもう少しかかる。大佐は交戦が始まってからと言っていたが待っている暇はない、準備が済み次第、民衆を奥に動かしてくれ。扉は内からかんぬきをかけろ、外に見張りは置くな。この広間については、万一発見されても大丈夫なように、火のあとと水のあとを全て埋めてくれ。最後に──十名の中に車が運転できる者はいるか」
束の間ベックは驚いたように口をつぐみ、それから慎重に「おりますが」と答えた。
エドはことさら平坦に指示を出した。ロイが絶対に押し通したい命令を告げる時が、いつもそんな口調だったと思い出しながら。
「運転手として一名オレに同行させろ。他九名は今言った通りに動いてくれ」
「待ってください!」
ベックが慌てて口を挟んだ。
「何をする気ですか? 砂漠には遮蔽物などない、外に出ればすぐに敵が気付きます!」
「誰が外に出ると言った?」
エドは強く男を睨み上げた。
「地下を移動する。敵に気取られるようなヘマはしない。これ以上の説明は時間の無駄だ、さっさと動け!」
ベックは逡巡し、結局エドの指示を飲み込んだ。控えていた軍人たちに細かな指示を与え、最終的に彼一人がエドの傍に残る。
「……あんたにはこっちの監督を頼みたかったんだがな」
エドが息をつけば、彼は不服げに鼻を鳴らした。
「運転手が私では不満ですか」
「そりゃ違う」
エドは男を促し大股で歩き出す。
「あんたが一番頼りになりそうだったからだ。こんなガキがふんぞり返ってたって誰の不安も消せやしない。見ただろう、民衆の顔を。あんたみたいにちゃんとした軍人が先頭に立ってりゃ、ちょっとはマシかと思ったんだ」
ベックは沈黙し、突然前方に回り込むとエドの肩に手をかけ足止めした。
「錬金術師殿、私がマスタング大佐から最優先しろと命令された指示を伝えておきます」
「……何だ?」
「エドワード・エルリックを守れ」
聞いた途端に溜め息が出た。
クソ大佐、思わず漏れた本音を、ベックが知らん顔で聞き流す。エドは彼の手を振り払い、己の肩でその分厚い胸を突き飛ばし、再び早足で歩き始める。
「どうせ階級はあっちが上だ、あんたはあの男に従えばいい。ただし、もしもその命令が理由で誰かを見捨てるようなことをするなら、オレは死ぬまであんたとあの男を軽蔑する」
「錬金術師殿、マスタング大佐は──」
「うるさい! 言われなくてもわかってる!」
「…………」
「だから腹が立つんだろ。ほんとに……どっちが馬鹿なんだ、あの無能……!」
ロイが差し出すものは、いつもどこかがほろ苦く、どこかはひどく甘い。だから反発せずにはいられず、好きにならずにもいられないのだ。
04
途中の偵察穴で戦車までの距離を目算し、ベックが運転する車の助手席についたエドは、アメストリス側へと地下道内の移動を始めていた。
戦車は未だ悪ふざけの砲撃を繰り返している。ゴォン、ゴォン、と、着弾のたびに、トンネル内まで鈍い衝撃音が響いていた。
「……何をするつもりですか」
運転に向かいつつも、ベックの口調は非難じみている。エドは早口で、砂漠にある岩石群のひとつが見せかけだけのものであることと、またそこに偵察穴がこしらえてあることを説明した。
「距離が四キロって聞いてもしかしたらと思ったんだ、ちょうどその辺だったかもしれない」
「そこへ行って一体何を?」
「民間人を助ける」
言っている傍から、砲撃の音が近くなっている。
「ここで止めろ!」
エドは一声叫ぶと、車が停車するのも待たずに飛び降りた。幅広のトンネルから枝分かれした、暗く狭い横穴を転がるように駆け抜ける。
軍部の応援が来ればアエルゴ軍は遺跡から離れるかもしれない。
たが今から始まるのは所詮戦争だ。アメストリス側にしても、たとえ彼方に人の姿を発見したところで、迎撃を控えるなどという判断は下さないはずだった。
こちらで助けなければ、追われている民間人は結局見殺しになる。
「錬金術師殿、待ってください!」
背後からベックの制止が響いたがかまわなかった。地上に向かいどんどん上り坂になる道をひた走る。
岩石群の内部を空洞にした室が見えたのは間もなくだ。小窓からはかすかな光がさしていた。外はいよいよ夜明けである。
エドは小窓に飛びついた。乱れた息を押し殺し、慎重に辺りを確かめる。
敵はすぐに発見できた。
礫と砂で凹凸の激しい地面を、分厚い車輪を持つ異国の車二台が、早くなったり遅くなったりしながら蛇行している。
二台の車が囲んでいるのは十名ほどの民間人だ。誰もかれも衣服はぼろぼろで、顔や手は泥だらけ。泣きながら走り、転び、そして硬い礫に肌を傷つけ──
己の腹の底がすっと冷たくなるのがわかった。
車は執拗に弱い人々を追い回す。ライフルを持った車上の兵士は笑うばかりだ、構えはしても一向に発射する様子はない。しかも戦車による砲撃も全く的を外したものである。威嚇にも思えない場所を撃ち、ただ人々の恐怖を煽るために音を轟かす。
遊んでいる、のだ。
「……錬金術師殿」
エドの背後に控えた男が、砂を噛んだような口調で「ここは危険です」と言った。
「あまりにも敵に近い。砲弾が岩石に当たらないとも限らない。離れましょう。我々は黙って自軍が到着するのを待つべきです」
「……この光景を見て言っているのか?」
エドは声が震えるのを止められなかった。ベックはなお苦く答える。
「この光景はここだけのものではない。たとえここを助けたとして、アエルゴ軍が我が国から去らない限り、今晩にも同じ光景が繰り広げられるでしょう。あなたが錬金術師であることは承知しています、しかし戦場に立った経験もなく、これほどの危機的状況に一人で飛び込むのは自殺行為です。それに──考えてもみてください、こんな明け方に悪ふざけを始めるなどおかしい、警戒すべきです」
「見て見ぬふりをしろと?」
男は答えなかった。
「……冷静になってください」
充分に冷静なつもりだ。
エドはきつく唇を噛み、それから極力ゆっくりと息を吐いた。
偵察穴の向こうを睨む。武器は当たり前に恐ろしい、見えぬ策略も不安だ。けれど恐怖も不安も、泣きながら逃げる人々を見捨てる理由にはなり得ない。
自分は間違っていない。
「……冷静に言ってる、彼らを助ける」
即座に反論しようするベックより先に、エドは抑えた声音で指示を始めた。
「じきにアメストリス軍が到着する、開戦すれば敵も民間人を追い回す余裕がなくなる。やつらの本隊は後方だ、アメストリスが背後をとるのなら一八〇度回転して部隊を整えなければならない。その隙になら、こっちは単純に目の前の車二台だけと喧嘩できる」
「しかし!」
「オレが飛び出す、あんたはここから民間人を地下に入れてやってくれ」
「無茶だ!」
「──誰だって!」
声が大きくなるのが止まらなかった。
「自分にできる精一杯をやってる、今オレがやらなきゃいけないことはこれなんだ!」
不意に種類の違った爆弾の音が耳を打った。
次いで騒ぎ出す気配も。民間人を小突き回していた車が動きを止め、甲高い笛が後方から響く。
「来た!」
一斉に砲を撃ち交わす音が轟いた。まだ薄暗さを残していた空が真昼のように赤く染まる。
エドはすぐさま両手を合わせ、目の前を塞いでいた岩石の壁に突き出した──再構築、またたく間にその手の下から小さな扉が錬成される。
ベックが思わず動きを止める。男の様子から、間近に見る錬金術に驚いていることが知れた。
エドにとっては好都合だ。
「あとを頼む!」
言い置き、飛び出す。
幸運にも、二台の車のうち一台が方向転換を始め、本隊に向かっている。
民間人に向き合っているのは、残り一台。
兵士が五人、マシンガンが三丁。
エドは走った。
爆撃で明るんだ地に影が長く伸びる。
足下の砂は重く、礫は尖り、必死で足を出しても上手く前に進まない。それでも懸命に近づくエドの姿に、逃げ惑う者の一人が気付く。
そうして対峙していた車上の敵も。
「──っ──っ!」
何かを叫ぶ声が聞こえた。
異国のものか、はたまた同じ国の言葉なのか。エドには判断できない。ただマシンガンが一斉にこちらを向くのが見えた。
冷や汗がぶわりと浮き上がる。地に手をつき再構築を呼びかける一瞬の、その空白が恐怖だった。
打ち鳴らす両手──後を追う乱射乱発。
刹那、六角柱の結晶体が地面から屹立する。エドを直撃するはずだった弾が全弾はじかれる。
「走れ! 早く!」
声を限りに叫んだ。
エドの手は未だ地に貼り付いたままである。結晶体は成長する。既に六角柱は一本には留まらなかった。次々に数を増やし、大地を長く横断していく。
早朝の光を受けて輝く、エドが地から呼び起こしたものは水晶群の壁であった。
岩石が乾燥し風化することで形成される砂漠の砂礫は、多く石英を含んでいる。地下トンネルを錬成した際、エドは土塀を作るよりも、砂中の石英を結晶化することで頑丈なトンネルを完成させた経験があった。
水晶は硬い。
マシンガンを乱射されればいくらかは崩れるが、壁を完全に破壊するには時間がかかる。
「──早く!」
頭を低くした人々が命からがら駆けつける。
エドはベックのいる岩室を指差した。そして自分は敵へと向き直るのだ。
相手は五人、地下に潜る道を気付かれたまま本隊に合流させるわけにはいかない。
命まで奪わずとも車さえ潰せば──
彼らは歩いて本隊に向かうことを余儀なくされる。アエルゴ軍はこれから移動を開始するのだ、兵士たちが無事に本隊へと帰還できる保障はない。
人殺しと呼ぶなら呼べ。
勢いのまま、エドはもう一度錬金術で砂漠を変形させる。
大地が大口を開けた。
敵の車がたちまち不安定に傾く。
エドの計算通り、異国の兵士たちは先を競って車外へ飛び降りた。一人、二人、三人、四人──ところが最後の一人だけが立ち往生している。
車体が大きく沈んだ。
エドは思わず身を起こしていた。
最後の一人がしきりに足を引いている。どこかに引っかけたらしい。既に彼は恐慌に陥っており、顔面は蒼白、全く事態に対処できていなかった。
その手が必死に空を掴もうと足掻くのが見て取れた。彼の仲間が手を差し伸べるが届かない。
すれ違う手に絶望する顔。
泣き叫ぶ声が聞こえる。兵士の胴が、砂と小石とに埋もれていく。
──彼らは敵だ。
エドは己に言い聞かせる。割り切ってしまったはずだった。この手は自国のためにあるのだ、目に見える全てに手を伸ばしても何一つ得られるものはない。
そう──覚悟は決めたつもりでいたのに。
気付けば、発作的に水晶の壁を乗り越えていた。再度の錬金術を施そうと、祈りの形に両手を合わせる。
瞬間だった。凶弾が発射される音が宙へ抜けた。
衝撃は右肩へ。
続けざまに何度も何度も突き当たる。
鉄の焦げた臭いがした。
痛みはなかった。
頭が揺れ、目が眩み、上下左右がわからなくなる。
おもしろいほどあっさりと力が抜けた。
彼方に鈍色の鋼が舞う。
ああ、あれは自分の腕だと。
どうしてあんな場所にあるのだろうと。
奇妙な疑問を感じながら目を閉じた。
どこかから呼び声が聞こえていたが、もう一ミリも瞼は動かなかった。
エドは砂漠に倒れた。
まだ陽を受けて間もない砂は、人肌よりも冷たかった。
* *
申し訳ありません。
誰かが耳元で謝っている。
特に声が小さなわけでもないのだが、まるで耳に綿でも詰められているかのように上手く聞き取れない。それでも声は繰り返す。
申し訳ありません。
エドは小さくあえいだ。
喉を通る空気が熱を持っていた。粘膜が焼ける。痛い。耳も。痛い。肩が。痛い。喉が。聞こえない。
申し訳ありません。
アル?
いや違う。違うとわかっていながらエドは呼びかけた。こんな時に他に呼ぶ名などないのだ。
アル?
申し訳ありません。
誰だ?
アル。アル、アル……誰?
苦しくて叫び出しそうになっていると、喉元を押える手がある。
冷たい手のひら。
気持ちが良かった。
相手を確かめたくて手を伸ばす。
……馬鹿だな。
そう言ったのは、謝罪を繰り返したのと別の男の声だった。
聞き覚えがあった。
だからあれほど逃げてくれと頼んだのに。
眠っていなさい、すぐにアルフォンスも来る。
大丈夫。眠って。
「眠って。そして忘れるんだ。もう何も……君を痛めるものはない」
唇をそっとなぞるものがある。促されるままに開くと、水と一緒に苦い何かが喉を滑り落ちていく。
苦い。苦くて──甘い。この相手を知っている。
エドは必死に目を開けようとする。
そうだ、彼は──
呼び名を思い出すのと同時に、とろりとした蜜色の混沌がエドの意識を飲み込んだ。
その鮮やかさと言ったら、まるで残酷な魔法のようだった。
「どうか眠ってくれ」
再会の約束であった指輪は、エドの了承を待たず指に通された。
シンへ……彼を送り届けてくれ。
了解、しました。
エドは最後までその名を呼ぶことがかなわなかった。