01
「時計……修理……し、ま、す……っと」
紙にペンで字を綴っただけの看板だ。
それでもエドは満足した。辞書を調べることなく全部の文字を書くことができたのだ。
あとは──そう、きっちり値段も書いておかねばならない。一言でも話せば絶対に片言であることはバレるのだから。
「一個、に、つき……三五〇、リルケ!」
黒パンひとつで八〇リルケ。
今晩に明日の朝……考えていくと、どんなに値切られても五割までだった。昨日は大口の客が捕まって二つの時計を五〇〇リルケで修理したが、普段は一日一人がやっとである。
ほんの食事代しかない稼ぎだ。当然生活は危うい。だが仕方がないと言えば仕方がなかった。エドはもともとエルホルツ村の出身ではないのだから。
村には極端によそ者を嫌う風習がある。エドはこの村で使われている言語を知らない。おかげでとことん爪弾きにされている。今でこそ路上で出店の真似事も見逃されるようにはなったが、最初は嫌がらせばかりで大変だった。
実は、エドには過去の記憶がないのだ。
一番初めの記憶と言えば、およそ二年前の、村の中央にある鐘つき堂から始まるものである。
正面に円筒型の鐘つき堂。エドはその向かいのベンチに腰掛け、見てくれだけなら、ちょっと居眠りでもしていたかのような有様で目が覚めた。
実際は「ちょっと居眠り」などと飛んでもなかったのだが。
もし、あの時、鐘つき堂の番人であったガルボ老人に拾われずにいたら、確実にのたれ死んでいただろう。
エルホルツの人々は本当によそ者に冷たかったし、そもそも言葉自体が通じないのだから、助けを求めることすらままならなかった。
エドが自分を証明するものとして、唯一覚えていたのは名前である。
エド。
どうやらエドワード・エルリックという本名らしいが、そちらははっきりしない。ポケットから出てきた銀時計にそういった名が刻んであったから、そうではないかと疑っている程度である。
とりあえず──記憶を失っていても腹は減った。両手両足五臓六腑、意識できる範囲に異常がなければ、当面の苦労はその日の食料だけになる。
ガルボ老人も決して裕福な暮らしではなかったから、早々に一人暮らしを始め、現在に至っている。
幸運なことに、エドには天賦の才があった。例の銀時計を手に持った途端、頭に内部の図面が閃いたのだ。
構造がわかれば修理もできる。以来、時計いじりはエドの大切な飯の種である。
今は鐘つき堂の物置を寝床に貸してもらっている。エドが手製の看板を置くのも、その鐘つき堂の前だ。
記憶を失った自分が目覚めた場所で、朝から夕方まで安い時計屋を探す客を待っている――相変わらず親しい者は一人もいなかったが、言葉だけなら交わす相手は増えた。
ロバの引く荷車の後ろから、惣菜屋で働く少年が、興味津々の顔でこちらを眺めて歩いていく。
エドは「こんにちは」と片言で話しかけ、相手の驚く顔にひらと手を振った。
02
二週間後に祭りを控えたエルホルムの村は、一年の間でもっとも慌しくなる時期である。
祭りはクス祭と呼ばれている。それほど盛大なものではなく、ただ村人たちが仮面を被って行進するものなのだが、祭りが行われる時期というのが特殊だった。
ちょうど徴税期間が終わってすぐなのだ。おかげで、クスが近づくにつれ、納税のために右往左往する者と、祭りの支度に浮かれる者とで小競り合いが起こる。
エドのように村に来て間もない者は、当然のごとく八つ当たりの対象にされた。つい三日前にも変な男に難癖をつけられ、売り上げを奪われたばかりである。
「──エド」
頭上から声があった。エドは鐘つき堂の小窓を見上げた。
痩せた老人がこちらを見ている。ガルボである。
「どうだい、調子は?」
言葉が出てこなかったので肩を竦めて見せる。ガルボはしかめ面で笑った。
「適当にしとけ。そろそろ人が多くなる時間だぞ、また変な言いがかりをつけられる」
彼の言い分はもっともだった。何もない時ならまだしも、今の時期は殺気立った輩も多い。
そもそも注意してくるガルボ自身も不必要に外へ出なくなっている。彼もエルホルツの外からきた人間だ。村人の当たりの強さは身にしみているのだろう。
ただ、エドにとってもこれだけは死活問題である。一人も客が捕まらなくては食事に困る。
「……もう少し頑張ってみる」
「ほどほどにな」
「ありがとう」
そんなやり取りをしたすぐあとだった。
一度窓の中に顔を引っ込めたはずのガルボが、慌てた様子で「エド!」と鋭く声をあげた。
エドははっとして立ち上がった。危険を知らせる声だと思った。即座に紙看板を丸めてポケットに詰め、商売道具である工具もろもろを皮袋に流し込む。
目の前の鐘つき堂に駆け込むつもりだった。しかし、これが間に合わない。
「小僧!」
野太い怒鳴り声がびりりと響き渡った。
エドは絶望的な気分でそちらを向いた。
せめて初対面の相手であれば逃げることもできたが、その色白で太った──見るからに人相の悪い親父は、エドのことならば本当に良く知っている。所謂、商売敵というやつである。
村の時計屋ペジョーレ。
エドは思わず鐘つき堂を振り仰ぐ。ガルボは隠れたあとだった。しかもすぐに窓やドアに鍵をかける音も聞こえた。面倒事は外でやってくれ、老人が吐き捨てる声が思い浮かぶ。
孤立無援。悔しいが、これがエドの現実である。
見る間に距離を縮めてきたペジョーレは、エドに届く位置まで迫ると丸太のような腕を突き出した。
まともに胸を押される。ベンチに突き飛ばされつつも、エドは精一杯男を睨み上げた。
「何するんだ!」
「ハン! 何度言ってもお前が時計屋きどりでいるからだろうが! 安い金で下手な修理しやがって。お前のせいでこっちまで足元見られて大迷惑だ! 言葉もまともに話せないようなガキは、大人しく国へ帰って母ちゃんの乳でも吸ってろ!」
帰れるものならとっくの昔に帰っている。
エドは必死に身を沈め、ペジョーレの横をすり抜けた。
反撃したいのは山々だが、騒ぎを聞きつけた人々の目が集まり始めていた。エドはどこへ行ってもよそ者だ。相手が村人である限り、下手に反抗すればそれ以上の反感を買うことは目に見えている。
「オレはあんたの邪魔なんかしていない……!」
言いたいことは百もあるのに、言葉も追いつかないのだ。
エドのたどたどしい言葉遣いすらペジョーレは嘲笑う。
「何が邪魔はしていない、だ! そもそも商売で金もらっていいのは、きちんと税を納めている人間だけなのさ。ええ、おい? お前はどうだ?」
納税の義務があるのは村の戸籍を持っている者だけである。よそから来た人間が戸籍を手に入れようと思ったら、領主に願い出て土地を買い受けなければならない。
当然エドに買えるものではない。
「それは……」
言いよどむと、そらみたことか、と、太った男は腹を揺らした。
「だったらここで時計屋の真似事するのはやめてもらおうか! ああ、今すぐだとも! こっちは来週の期限までに揃えなきゃならないもんが山ほどある、客の一人だってお前にやるのは惜しいんだ!」
「でも……オレだって稼がないと食っていけない!」
「食わなきゃいいだろ」
ペジョーレは平然と返した。エドは殴りかかってやりたかったが、人の輪がいよいよ周りを取り囲んでいる。
どの目もエドに好意的なものではない。誰もが苛立ちの捌け口を求めている殺伐とした雰囲気があった。
ところが、ここに突如進み出て、人の目を逸らせた婦人がいる。
身なりの良い東洋系の女性である。
「二人ともお待ちなさい」
エドにとっては見覚えのない女性だった。
黒々とした髪を上品にまとめ上げ、トーク型の帽子を被っている。きりりと上がった眉と切れ長の目が理知的だった。彼女は、質素だが形の良いロングコートを着ており、その襟元には白木蓮のコサージュをつけている。
まごついたのはペジョーレの方だ。
「コウ婦人! な、何か御用で?」
エドはその名にも聞き覚えがない。
ところが周囲は違う。剣呑だった空気がまたたく間に退いていく。多くの注目を集めたまま、彼女は落ち着いた声で話し出した。
「私は話をずっと聞いておりました。失礼ながらペジョーレさん、あなたの言葉は人としての温かみの欠片もなかった。皆様の前でこういったことを申すのもどうかとは思いますが、あなたの言い分はこの少年に対する言いがかりにしか思えません」
「そ……それは誤解です、婦人。こいつは時計のことなんか何にも知らねぇくせに人様から金を取ってるんです!」
これにはエドも黙っていられなかった。
「時計のことなら良く知ってる!」
「黙れ、小僧!」
ペジョーレは今にも腕を振り上げんばかりだ。それを察した婦人はさり気なくエドの前へと回り、男の暴力を封じてくれる。
エドは声もなく彼女の背を見つめた。
彼女は静かに言った。
「ペジョーレさん、先日あなたに修理をお願いした時計を覚えていますか。あなたがこれは修理ができないとおっしゃった懐中時計です」
「お、覚えておりますが……青いガラス蓋のついた、美しい彫り物のある……」
「ええ、その時計です。私にとっては思い出の多いもので、動かなくなってもずっと身につけておりますの」
コウ婦人は振り返り、そっと笑顔をくれた。
「小さな時計屋さん」
彼女はエドにそう呼びかけた。
「修理をお願いできるかしら?」
ハンドバッグの中から、ペジョーレが言った通りの懐中時計が出てきた。エドは驚いて息を飲んだが、すぐさま「喜んで」と受け取った。
時計が手に乗った途端、機械の構造も思い浮かぶ。
特に変わった構造の時計ではない。これなら大丈夫そうである。
皮袋から、釘の先端を潰して作った、手製のドライバーを取り出す。エドは鐘つき堂前のベンチを作業台に、裏蓋のネジを慎重に外していった。
部品の一部が欠けたり、主ゼンマイの薄い銀版が切れたりしていれば、部品ごと作り替えるしかないが、バラして見る限り全てのパーツは揃っている。
エドはひとつひとつの仕組みを丹念に調べ始めた。
時計というものは、簡単に言ってしまえば、ゼンマイを巻き上げることで、歯車で構成された駆動機構を動かし、時を刻むものだ。
動力がゼンマイ。これにかかわる歯車が、チキ車、丸穴車、角穴車、香箱車。形はどれも大小様々、その歯の大きさをとっても同じものはないが、ひとつを動かせば全ての歯車が連動して動く。これらが動くことによって、次に一番車、二番車、三番車、四番車と、大きな歯車が動いていく。四番車まで伝わった力は、更にカンギ車、アンクル、テンプなどに伝わり、歯車、しいては時計の針が回転する速度を調節する。
本当に小さな中にいくつもの歯車があり、それが全部違った回転をするのが時計だった。
エドは歯車が動く瞬間が好きだ。単純に綺麗なことも理由だが、もっと良いと思うのは、ひとつが動けば全てがその動きに答えていくところである。
異常は、その歯車と歯車の噛み合わせにあった。
一箇所だけ、互いが食い込み過ぎて動かなくなっているところが見えたのだ。
接眼鏡もなしに細かな部分がわかるのかと訊かれれば、エドにも説明のしようがない。とにかく手に取り目で見ると原因が知れた。
歯車の中心を押さえた芯を抜き、もう一度正しい角度でさし直す。修理はこれで終わりだった。
はたから見れば、特に何をするわけでもなく、ただ裏蓋を開いてじっと眺め、最後にピンセットでひとつの歯車の芯を抜いて戻しただけである。
ペジョーレが堪えきれないとばかりに笑い出した。
「ハン! 見ましたか、コウ婦人。この小僧は──」
エドは黙ってネジを巻く。
時計は、罵りが終わらぬ間に動き出した。
規則的な秒針の音を耳にしたペジョーレは、途端にもの凄い形相でエドの手ごと婦人の時計を掴み上げる。
「…………」
男の顔色が青く変わっていくのがわかった。
「ありがとう、小さな時計屋さん」
コウ婦人がやさしく笑った。強張ったペジョーレの手から懐中時計を抜き取り、しっかりと時を刻む針を見つめ、もう一度「ありがとう」と繰り返した。
「あなたは村一番の時計職人ね。お礼がしたいわ、お代はいくらだったかしら?」
エドは多少恥ずかしいような気分で三五〇リルケと答える。
「ペジョーレさんのところの五分の一の値段だわ。少し安すぎないかしら?」
「……ちゃんとした店でもないから」
婦人はゆっくりと微笑み修理代を差し出した。それから彼女自身の襟を飾っていた白木蓮のコサージュを外し、エドの上着の胸元につけ換える。
「男の子なのにこんなものでごめんなさいね。でも本当に時計が動いて嬉しいの」
エドはぼうっとなって、ただでさえ不自由な言葉がますます浮かばなくなってしまった。この村に来てから、誰かから感謝されるというのが初めてだったのだ。
「あ……ありが、とう」
「お礼を言うのは私の方だわ。どうもありがとう」
婦人はやわらかな会釈をすると、来た時と同じように上品な素振りで去っていく。
これを黙って見送るしかなかったペジョーレはすっかり怒り狂っていた。しかし己の不手際の手前、エドに絡むこともできず、いくらか乱暴に人を突き飛ばして場を離れるくらいが精一杯だったらしい。
彼がいなくなるのと同時に人の輪も解けていく。
もう突っ立っているのはエドばかりである。
「コウ婦人は──」
と、どこからか小声の噂話が聞こえた。エドは思わず耳を澄ませていた。
「彼女は確か……領主さまのお城の家政婦をなさっている人だろう? よそ者を庇うところを見ると、あの人も外から来た人間なのか?」
「当たり前だろ、今の領主さまだってそうじゃないか」
「領主さまか……軍人だと聞いたがな。前の首刈貴族よりは大人しく暮らしているらしいが、どうなんだ?」
「さぁな、どちらにせよ今度の徴税で本性がわかるだろうさ。軍人ならば貴族より凶暴かもしれん、よそ者に期待すると碌なことにならんぞ」
嘲りと妬み、それから僅かに怯えの滲んだ声。
なるほど、コウ婦人が裕福そうに見えたわけである。
家政婦ならば、彼女は女性の使用人の長にあたる地位を持っているはずだ。男性使用人の長である執事と同じ地位である。しかも、この辺りで最も財のある、領主の城に住む家政婦だった。
エド自身は外から得ることのできる知識が極端に少ないため、やはりエルホルツを統治している領主がどんな人物であるか知りもしない。だが、伝え聞くところによれば、現在の領主は、本当に最近、この地域に赴任してきたばかりであるらしい。
前回の領主がひどい領主で、巷では「首刈城に住む首刈貴族」などと卑称されるほど残忍な男であった。金銭に対しては欲を出さなかったようだが、法を破った輩は些細な罪でも問答無用で処刑したそうだ。
実は、エルホルツは、長く善良な領主に出会っていない。村人が極端なよそ者嫌いになった原因は、根本を辿れば外から赴任してくる領主の鈍才さにある。
クス祭もまたそういった由来を持つ祭りだ。
昔、好色で我侭な領主に見初められた娘が、村の平和と税の安定を条件に、領主の妾になったらしい。彼女は涙に濡れた顔を隠すため、仮面をつけて城までの道を歩いたそうだ。
噂の「首刈城」は村の高台にある。
エルホルツからだと、遠くの森の中、煉瓦色をした三つの尖塔が天を貫いているように映った。
あんな場所に住む人物が、わざわざ村まで降りてくるものか──
改めて城を見上げたエドは、不思議な巡り合わせを感じずにはいられなかった。
03
婦人と別れたあとは、人通りもさっぱり途絶えた。
本日の稼ぎは三五〇リルケ。
金額的には特に懐があたたまったというわけでもない。それでも今晩のエドは晴れやかな気持ちでパン屋に行き、黒パンを二つとナッツ風味のジュースを一瓶、少しだけ贅沢をして氷砂糖の小袋を購入した。
鐘つき堂への帰り道では、子供たちに「よそ者」コールを受ける。今晩はこれにも腹が立たなかった。鼻歌混じりに気安く手を振り、野良犬にまで「よぉ」と声をかけてやる。
すみれ色の空に一番星が明るく輝いている。
エドはふと、己の上着に飾られたコサージュを思い出した。ずいぶんと草臥れてしまった布地の上で、その白木蓮は勿体ないほど白かった。
「……ずっとつけときたいけど、やっぱ危ないよな」
衆人の目に晒しておくと言いがかりの種にされるかもしれない。村には貧しい者も多い。相手が子供と見るや無理やり奪っていく連中もいた。
思い立ったエドは、鐘つき堂に帰る前に寄り道をすることにした。
そこはエドの秘密の場所でもある。
村に来て間もなくの頃、やはり悪漢に絡まれて身包みを剥がされそうになったことがあった。その時に大切なものはあらかじめ隠しておくことを学んだ。
そしてエドが目をつけたのは、鐘つき堂の外にある煉瓦置き場だった。小屋の形はしていたが、屋根の囲いも半分壊れかけているような雑な造りの場所だ。壁すら穴だらけで頼りないものである。
ところがこの穴が小物を隠すにはちょうど良かった。
元々が煉瓦置き場であるから、ストックもたくさん保管されていた。エドは煉瓦の内側だけを削って箱状にし、大切なものを入れて、普通に塀を作る要領で壁の一穴を塞いだのだった。
我ながら良くできた隠し場所だった。位置を知られなければ、外から見ても中から見ても全く見分けがつかない一煉瓦である。
もちろんエドはちゃんと覚えている。西側の壁の、下から四番目、左端から三〇番目の煉瓦。
エドは靴の先でその部分を押し、次いで塀の反対側に回って、かすかに壁から突き出ていた蓋なしの宝の小箱を取り上げた。
中身は、二年間こつこつ溜めてきた硬貨と、裏面にエドワード・エルリックの文字が刻まれた銀時計。それからもうひとつ。
本当に華奢で、力を入れて握ったら形すら変形するだろう、くろがねの指輪が入っていた。
この指輪もエドが目覚めた当初に持っていたものである。左手の小指にしていたのだが、慣れない感触が気になったので外してしまっていた。
銀時計とは違い、この指輪には過去の手がかりが見当たらない。ただ、つけていたのが小指であったことは気になった。約束のしるしに見えたのだ。
とりあえず、銀時計にしろ指輪にしろ、由来は忘れていても大切なものである。
エドは小箱の中にコウ婦人から貰ったコサージュも加え入れた。
「これでよし……」
煉瓦を再び壁に押し込む。
どうか誰にも見つかりませんように!
両手を組んで祈りを捧げ、人の目に触れぬうちにその場所から離れた。
ちょうど夕方六時の鐘が鳴る。
エルホルツ村の夜である。
04
おおよその店は六時の鐘に合わせて店じまいをする。遊んでいた子供たちにとっても、畑仕事をしていた大人たちにとっても、六時が門限の時刻であった。
エルホルツに夜間営業をする店は一軒もない。時を知らせる鐘の音を境に、村中の家がかたく扉を閉ざし、驚くほど静かな夜を作り上げる。
ただし、クス祭が開かれる一ヶ月前からは、毎晩交代で一軒ずつが小さな儀式を執り行うことになっていた。
この儀式がまたエドを悩ませているのだ。
エドは寝床にしている鐘つき堂の物置の中で、その時が来るのを戦々恐々と待ち構えていた。
物置はガラクタだらけだ。金属の道具は錆付き、木製の家具は破れ果て、紙製や布製のものは漏れなく変色している。エドもまたありったけの古布を身体に巻きつけて暖を取っているので、ガラクタの一部のようにしてその中にいた。
そろそろ八時を回る頃ではないだろうか。
エドは待ちきれず、耳を塞いで心の準備をする。
今か──今か──今か。
いつまで待っても時は来ない。そうなると次第に疲れてくるもので、せっかく耳に当てていた手がじりじりとゆるんでいく。
それは狙いすましたタイミングで聞こえた。
──パン!
「……っ……!」
おもちゃの火薬玉が破裂する音。
本当に軽い、景気の良い音だ。しかしエドはたまらずに身体を揺らしていた。
頭ではわかっている。
この音がただのおもちゃが響かせるものであることも、祭りの一環であることも。けれど音を聞くたびにどうしても身体中の筋肉が竦んだ。ひどい時には震えまで起こった。動悸は激しくなるし、目の前が暗くなる。
そしてじわじわと右肩が痛み出すのだ。
我ながら異常な状態だった。
何しろ、右肩が痛むとは言っても傷がない。もしかしたら記憶を失ったことに関係があるのかもしれないが、そうと断定するには、きっかけとなるものが不確定すぎた。
たとえば雷。焚き火で木が弾ける音。予知のきかない大音響には、シチュエーションを選ぶことなく翻弄される。
去年はクス祭自体が初めての経験で、夜毎火薬玉が鳴ることも知らず、全くひどい経験をした。
今年は前もって注意できるだけましではあるが、やっぱり肩は痛むし、息も詰まるのである。
エドは深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着ける。
「大丈夫……大丈夫だ」
この音さえやり過ごしてしまえば、夜はいつもの静けさを取り戻す。
エドは痛む右肩を庇いながら身を横たえる。
古布を掻き集めてじっと丸まった。一秒でも早く眠ってしまいたかった。