01
その日の空は、エドが外の水場に出てきた時にはもう、世界中からエルホルツに雲が集まったのではないかと疑うありさまになっていた。
数分もせぬうちに雨が降るかと思えたが、最初の一滴はなかなか落ちてこない。
ガルボが朝の鐘を鳴らしている。村人たちも動き出す。心配そうに頭上を見上げ、それでも畑に向かい、牧場に向かい、市場に向かう。
エドも動き出した。いつもと同じく道具一式を入れた皮袋と看板用の古紙を持って、鐘つき堂正面のベンチに腰掛ける。
暗い朝だった。雲の底面などは、民家の屋根の天辺すれすれの場所まで迫っている。
「今日は商売も厳しいな……」
エドは溜め息をつく。ひとまず看板を作り、雨が降る前に声がかかることを祈った。
肌寒い一日になった。
いつ雨になるかと思えば道を行く人の足も速くなる。呑気に時計の修繕を考える者は現れそうもない。
それでも稼ぎは必要だった。エドは氷砂糖で空腹をまぎらわしながら通りを眺め続けていた。
そうこうするうちに正午の鐘が鳴る。相変わらず立ち止まってくれる客はいない。
エドは手足を伸ばし、ベンチの背もたれに頭を乗せるようにして曇天を見上げた。
座りっぱなしで腰が痛かった。
「……退屈そうだな」
ふと、鐘つき堂から声がする。ガルボが出てくるところだった。
「珍しい……今日はこもってなくっていいのかよ?」
「なぁに。こんな日に老いぼれをいじめる余裕のある者もおらんだろ」
「小僧をいじめる余裕もないらしい」
「そういうことだ」
ガルボはエドの隣に腰掛けた。
彼の赤いハンチング帽姿を久々に見た。先日この帽子が元で絡まれたらしく、長く被っていなかった老人のお気に入りなのだ。
そのためか、こんな天気であるのに、ガルボの落ち窪んだ目は楽しげである。エドは苦笑って再び空を仰いだ。
「そう言えば……あれからコウ婦人と会ったか?」
エドは老人が尋ねた意味がわからなかった。
「味方についてくれそうな人だったじゃないか。見かけたら必ず声をかけておけ、さすがに首刈城の家政婦では村人も何も言えん」
「…………」
「上手く領主さまに気に入られるところまで行けば、ただで土地をもらえるかもしれんぞ」
エドはこっそり息をつく。老人の卑屈さは苦手だ。長年この村で生活していれば誰でもそうなるとは納得しつつ、自分もそうなって行くと信じたくない。
エドはいつかこの村を旅立つつもりでいる。
毎日の稼ぎを決して全部使わぬようにしているのは、その費用を貯めるためだった。たったの一リルケでも一年貯め続ければ四日分の食料になる。そうすれば、この村から四日分離れた場所に行けるのだ。
元々の自分が使っている言葉を母国語にしている国はどこなのか。そこまでの距離がどれだけになるのか、今は調べようがない。それでも、いつか、と思う。必ず、と思う。
「なぁ、もしも本当にお前が土地を持ったなら、わしを使用人に雇ってくれ!」
ガルボの話は聞き心地の良いものではなかった。エドは彼を遮る言葉を探しながら辺りを見回した。
暗い雲が大半を占める風景は相変わらず。しかし、彼方から立派な箱型四輪馬車がやって来るのが見えた。
馬車をひく黒毛の馬二頭は、遠くから見ても美しい体躯をしており、また馬車を操る御者にしても、シルクハットを被った清潔な身なりをしている。
「ガルボ、あれ」
指差すと、老人はぴたりと口を閉じてそちらを向いた。
ひそかにほっとしたエドをよそに、彼は驚きをあらわにして帽子を脱ぐ。
「ありゃあ……噂の領主さまじゃないのか?」
「まさか」
「いや、他にあんな立派な馬車を乗り回すようなお人は、この辺りにはいないはずだ」
ガルボはふらりと立ち上がった。
感動の薄いエドを振り返り、再び馬車に目を戻し。老人はそんなことを何度繰り返していただろう。
「……エド」
突然強く呼ばれた。
「エド!」
「……何だよ?」
「来るぞ……こちらに」
エドは「ふぅん」と返しただけだった。ところがそれを聞いたガルボは、恐ろしい勢いで慌て出し、エドの腕を引っ張って立ち上がらせる。
「来る。お前だ、お前に会いに──」
「そんなわけないだろう」
「いや。見ろ──見ろ!」
揺すり動かされることに困り果てた頃だ。
馬車が鐘つき堂につながる道へと入ってきた。しかもガルボの言う通り、御者はおもむろに手綱を調節し、馬もどんどん走る速度をゆるめていく。
最後には正面で止まってしまった馬車に、エドは何とも言えないまま棒立ちになった。
御者がきびきびした動作で席を降り、小窓のついた木製の扉を開く。
中から静かな足取りで進み出たのは男だった。
その男は、膝下まで隠れる黒い外套を羽織っている。顔は良く見えない。いや、意図的に隠していたのかもしれない。何しろ、外套の襟は彼の頬から口許を覆うように高く詰められていたし、また目許にしても、深く被った制帽のために陰ができて良く見えなかった。
男は、迷いのない足取りでエドの前に立った。
取り立てて長身の相手ではない。しかし彼を取り巻く気配には緊迫感がある。向き合っているだけで身が研がれていくような思いがした。
「……こんにちは」
最初の一声がかすかに揺れた気がしたのは、エドの錯覚だったのか。
「君が村一番の時計職人だと聞いてやって来た」
男はエルホルツの言葉で「直して欲しい時計がある、私と一緒に来てもらえないだろうか」と至極丁寧に続けた。
エドはやっぱり何も言えなかった。驚いたついでにエルホルツの言葉を忘れてしまったようで、簡単な受け答えも自由にならなかった、というのが真相である。
エドの沈黙に一番にしびれを切らしたのは、横でおどおどとなりゆきを見ていたガルボである。
「ど、どこへでしょう……?」
問う声は裏返っている。男は端的に「城へ」と答えた。
「じゃ……じゃあ、やっぱり、あなたが領主さまで……?」
「そうなる」
ガルボは激しくエドの肘を引く。
どうするんだ、早くしろ、何とかしろ、老人は言葉で急かせぬ代わりに動作でエドを急かしまくった。
「ええっと……」
エドも焦って言葉を探した。
ところが、口を開こうとするこちらを前に、彼はゆっくりと手を差し出すのだ。うっかり動作に見入ってしまったエドは、再び言葉を取り落とした。
左手。
右手ではなく、左手を差し出す男。
頭が冷えたのはその時だ。
どこかでこんなことがあったような気がした。
そう──
いつかもこんなふうに誰かの手を見て──見下ろしたその手の人差し指に、鋼色の指輪が──
指輪が。
あった、と記憶を思いながら男の手を見下ろしたエドは、咄嗟に息を詰めていた。
人差し指に、鋼色の指輪。
彼の顔を凝視する。いくら見ても制帽と外套の襟とで顔がはっきりしない。けれど。
「……一緒に来てくれるだろう?」
彼は言う。
エドはついにうなずいていた。おっかなびっくりの形相でいるガルボを振り返り、「行ってくる」とはっきりした口調で告げる。
男の手に己の手を重ね合わせた。
知っている温かさの気がした。
02
エドと男を乗せた馬車は見る間に村を通り抜け、小川にかかった橋を渡り、森の中へと入った。
ただでさえ曇り空の日だ。背の高い針葉樹の多い森では、馬車の中は夜のように暗い。エドは何度か隣にいる男を盗み見たが、やはり襟と制帽に隠れたその顔を見ることは叶わなかった。
男は一言も話さない。今は左手も袖の中である。自己紹介すら省いた沈黙は意図的なものなのか。測りかねたエドも、声を出せないままになっていた。
結局互いに無言のうちに森も抜ける。
小窓の向こうが明るくなり、エドは自然と外に目をやっていた。
辺りは人の手で美しく整備されている。土をならした本道の両脇には、白樺が規則的に植樹されていた。更に向こうは、すっかり紅葉しきった色鮮やかな林であった。
木々の隙間を縫って、時折建物らしきものも顔を出した。
どうやら城の壁らしい。エルホルツ村の人々が畏怖を込めて「首刈城」と呼んでいた建物だ。
エドは身を屈めて天辺を探した。一番先端までは見えないが、確かに尖塔型の塔を思わせる形をしていた。
ふと、男が御者のいる側面を内側からノックする。
あらかじめ決められた合図であったのか、前方では馬を制する声が聞こえた。車の動きが完全に止まってしまうのを待って、御者は窓辺に駆け寄ってくる。
「どうかされましたか、大佐」
大佐、と、男は呼ばれた。
エドが聞き耳をたてているのを知っているのかいないのか、彼は淡々と「ここで降りる」と宣言した。
「は……しかし、まだ城までは距離がありますが」
「ここでいい。外を歩きたい」
次にエドを振り返り、
「……少し私に付き合ってもらえないだろうか」
慌ててうなずいた。
御者が外から扉を開く。まず男が馬車を降り、そして再び向き直ってエドに手を差し出す。
当然のごとくなされた行為だったから断りそびれてしまったが、良く考えてみたらこれはおかしかった。
エドは女性ではなかったし、支えが必要な子供でもない。ついでに高貴な生まれでもなかった。おそらく常識的に考えても特異な扱いだったはずだ。傍でこれを見ていた御者も驚いた顔を見せていた。
それでも男は至極丁重にエドを先導した。
白樺の並木を横切り、城の周囲を取り囲む林に入る。
足元は落ち葉でやわらかい。頭上を仰ぐと、赤や黄色に色を変えた葉がさらさらと降ってくるところだった。
エドが葉に目を奪われている後ろでは、ようやく馬車が走り去っていく。
広大な庭の中に二人きり。
決して奇妙だと感じていないわけではない。ただ、手をつないでいると男の左手の人差し指が見える。鋼色の指輪も見える。懐かしいような温度もある。
不思議な気分だった。
彼は誰だろう?
「……君は、人見知りする方か?」
前を向いたまま男は言った。ひっそりとした声だった。
「違う……と思う」
「そのわりには声を聞かない気がする」
「そんな、つもりじゃ……ないんだけど」
答えながらも、こんなにたどたどしくては信じてもらえないだろうと思った。
エドは言葉を探す。未だに慣れない異国の言語がもどかしかった。
「だから、その……」
「…………」
「ええっと……」
男が足を止め、こちらへ向き直る。
「無理をさせたいわけじゃない」
困ったように言われてエドこそ困ってしまった。
「そうじゃない! だから……っ、オレこっちの言葉が上手く使えなくって……聞くだけなら……どうにかなるんだけど……」
「言葉?」
エドは一生懸命うなずいて見せた。
男は束の間考えたようだった。
「君の生まれはここではないのか?」
「うん……っ」
「だが、ここは極端によそ者を嫌うと聞く」
「だから! 言葉を教えてくれる相手がいなくて……っ」
男は再び沈黙した。しかし今度は明らかに色の異なった沈黙だった。何かをこらえるように、または憤ったかのように、エドとつないでいた手に力がこもる。
「……君はいつからエルホルツに?」
「二年に、なるけど」
「馬鹿な!」
突然怒鳴られて驚いた。男が何を怒ったのかエドには全くわからなかった。
「二年もこんな村にいるのか? なぜ?」
「な……なぜって……だって他に行くところなんか……」
「どうしてだ? 君の選んだ居場所はこの村なのか?」
そうではない。エドは必死で首を横に振る。
おそらく説明しなければならないのだろう。エドが記憶を失ってしまっていることや、村から出るために旅費を貯めていることなども。だが言葉が出ないのだ。
「だから……っ、だから……っ」
もどかしくてどうしようもない。
何度も言い直すこちらに男も察したらしい。
「……君の知る言葉でいい」
何だか泣きそうだ。話したところで理解してもらえなければ意味はないのに。
わかっていても他にやりようがなかった。エドは結局自分の言葉でぽつぽつと語り始めていた。
「二年前、さっきの鐘つき堂のところで目が覚めたんだ。それより前に自分が何をしてたのか、どこにいたのか全然覚えてない。覚えてたのはエドって名前だけで、金も持ってなかったし……言葉もわからなかったし……それで」
男を見上げた。相変わらず顔の半分以上が隠れていて、彼が何を思っているのか判別がつかない。ただ手はつながれたままだった。エドが口ごもると指に力がこもり、先をうながされる。
「……それで。とにかく村から出ようと思った。そのためには金がいる……オレ、時計のことだけは良くわかったから、まずはそれで稼ぐことにしたんだ。村の時計屋とはもめたし、ほとんど儲けのない値段にしなきゃ客も来なかったけど……自分で何とかしなけりゃ雇ってくれる場所もなかった」
好きで村にいたんじゃない。
最後に、エドは強く言ってうなだれる。
ほっと溜め息が出た。吐き出しただけでいくらかは胸のつかえが取れた気もした。
黙って聞いてくれた男には多分礼を言うべきなのだ。
気持ちを整理したエドが再び頭をもたげた時だった。
「そうか」
男の相槌は、エドが慣れた言葉と同じものだ。
すぐには自分の耳が信じられなかった。
「……がんばったな」
ぽつんと言われて鼻がつんとなる。
強がる余裕もなくしてうなずいた。男は、すっかり力が入って握り拳になっていたエドのもう一方の手も掬い上げ、ひどくしみじみと息をつく。
「両手がある……」
「…………?」
「いや。職人の手だと思って」
「そうかな。ああ、でもいっぱいマメができた」
「そのようだ、皮膚が硬い場所がある」
エドは改めて彼を見上げた。
「……オレの言葉、本当にわかるんだよな?」
「わかるよ。そのことで君が悲しむ必要はない、本来はエルホルツで使われている言葉こそ少数派だ」
「そうなんだ……」
そんなことは考えてもみなかった。
村で生活することに精一杯だったから知らず視野が狭くなっていたらしい。急に笑えてきて困った。エドが笑ったのを見て、男も少し笑ったようだった。
「行こう、そろそろ城を案内するよ」
また手を引かれて庭を歩く。
緊張が一息でほぐれてしまったのを感じた。エドは初めて自分から声をかける。
「なぁ、オレ、エド。エドワード・エルリック。あんたの名前を聞いていい? 領主さまの名前なのに知らなくって悪いけど」
「かまわない。誰も君に教えなかったのだろう?」
「うん」
「ロイ・マスタング。地位は大佐だ」
「マスタング……大佐?」
エドが復唱すると、彼は思わずといった具合で息をついた。
「君に呼ばれると不思議な心地がする」
「どういう意味?」
「うん……」
うなずいておきながら、ロイは長く答えなかった。
エドは名前のことばかりでなく、彼の左手の指輪のことや、故意に顔を隠しているのかなども確かめたかったのだが、なかなかタイミングが掴めずにいた。
歯がゆい思いをしていると、ぽつ、と、肩口に落ちるものがある。いよいよ雨が降るらしい。どうやら時間も経っている。空が暗いのは、もはや雨のせいばかりではなかった。
同じく日没に気付いたロイが、思い出したように言った。
「そう言えば私はまだ何も許可をもらっていなかったな。修理が必要な時計はあとで見てもらうことにしても、まず君にはしばらくの滞在を頼みたいのだが良いだろうか?」
「えっ……」
「食事や寝所、衣服については全てこちらで用意する。必要なものがあれば何でも言ってくれ」
「そりゃ……嬉しいけど、でも」
「変に聞こえるか。おそらく時計を見ればわかる、ひとつじゃない上に、どれもこれも壊れ方がひどい」
それに、と、ロイは続けた。
「君には私の話し相手になって欲しい」
聞いたエドは、思い切って彼の手を引っ張った。
小雨が強くなり始めていたがかまうものか。
「だったら──そろそろ顔くらい見せてくれてもいいんじゃないか?」
ロイは笑ったようだった。
「……それは失礼した」
言いざま、制帽を取り、外套の襟口をくつろげる。
途端にあっと叫びそうになるのを、エドは辛うじてこらえた。彼の顔左半分にはひどい火傷の痕があったのだ。怪我自体は完治しているようだが、表面は肉色を覗かせ、目すらも潰れて瞼ごと失せてしまっている。
不躾に顔を見せろと迫ったことを後悔した。しかし、ロイのもう片方の目は、エドが動揺しそうになる間も真っ直ぐこちらを見つめていて、それこそ自身に恥じることなどないと言っているようだった。
エドは喉まで出掛かった謝罪を飲み込んだ。
「……ずいぶん男前だ」
ロイは不敵に笑った。
「実は私もそう思っている。しかし見苦しく思う相手も多い、普段は布で覆っているよ。今日は君に会うと思ったからこのままでいたんだ」
「オレに会うならって……どうして?」
「目で見る印象は大切だろう?」
何も隠したくなかったのだと彼は言った。
エドの中に不思議な感情が蘇る。彼の言葉やそぶりには強烈に既視感があるのだ。
あんたは誰だ?
エドは声にせぬまま、その背に何度も問いかける。
03
城内に足を踏み入れるなり、使用人たちからは仰々しいほどの出迎えを受けた。エドが慌てふためくのを見かねてか、ロイはすぐに彼らに晩餐の準備を言いつけ、あとは必要になった時に呼ぶからと散らしてしまう。
遠目にコウ婦人を見た気がしたが、エドはそれどころではなかったので、自分から会釈することもできないままだった。
何しろ、城である。
絢爛豪華。己の足下の絨毯から、壁板、梁の装飾、シャンデリア、またその天井の高さ──エントランス・ホールだけでも目がちかちかする。
「……私もまだ赴任したばかりでね、何も触っていないから住みにくくて仕方がないんだ」
ロイは言う。聞けば、この城には、歴代の主がそれぞれ様々な趣向を凝らしてきたらしく、部屋によってごっそりと印象が変わるらしい。
「例えば、エントランスはいかにもな貴族趣味だが、庭などはそうでもなかっただろう?」
先ほど通ってきた林を思い浮かべる。
確かに、アプローチこそ白樺が立ち並んではいたが、林自体は紅葉樹でできていて、人の手もほとんど入っておらず極自然な印象を受けた。
「気が向いたら君自身で探検してみるといい。中にはおもしろい部屋もあるよ、エントランスのようにきらびやかな場所もね、ギャラリーもライブラリーも豊富だ」
「ギャラリーにライブラリー、ね……」
さすが城。何だか脱力しそうになるエドに、ロイは軽く続けた。
「あとは……そうだな、ずいぶんと悪趣味な部屋もあったよ。見て楽しいものではないと思うが退屈はしない」
「悪趣味?」
「この城が何と呼ばれているかは知っているかい?」
首刈城。
さっと表情を改めたエドに、ロイもただうなずいた。
「危険なものもあるということさ、探検は推奨するが注意もしてくれ」
「了解。そんな気になるかはわからないけど」
「まぁ、そのうち。仕事の合間にでも遊んだらいい」
深緑のビロードが敷かれた階段を上っていく。天井には美しい装飾画が描かれていて目を奪われた。
傍を通り過ぎる使用人が多くなったからか、ロイは外套のポケットから黒い布を取り出し、簡単に結びつけて左目と頬を覆ってしまった。
そうすると普通に端正な顔にしか見えない。傷は醜いものであったはずなのに、エドは覆面した彼の容貌を残念に思う自分に気がついた。
何も隠したくなかった──今さらながらにロイの言った意味が沁みた。
「……あのさ」
「うん?」
「オレ、ほんとに男前だって思ったよ?」
ロイが思わずと言った具合に振り返る。
「ほんとに。……嫌味じゃないからな!」
疑われている気がして言い張ったなら、彼は小さく吹き出した。
「ありがとう」
ついでにわさわさと髪までかき混ぜられる。子供扱いかとは思ったが、相手は楽しげにも見えたので不平は我慢しておいた。
美しいビロードが敷かれた通路をどれだけ歩いた頃か、ようやくロイがひとつの扉の前で足を止めた。
城の中を歩いているうちに気付いたが、その部屋その部屋で扉の装飾までもが違っている。城の奥に行けば行くほど派手さはなくなりシンプルな木戸が増えていく。
しかし、エドはその木戸にこそ好感を持った。派手さはないが遊び心のある扉なのだ。ちょうど人の目の高さに、中が何の部屋であるのかを表した薔薇のレリーフがはめ込まれている。
ロイが鍵を取り出した扉もそうであった。
レリーフには、薔薇に埋もれる形で古時計が彫刻されている。
「この薔薇の扉を取り付けた領主は、ずいぶんな収集家だったようだよ。ここは見ての通り時計の部屋だが、他にもオルゴールの部屋や人形の部屋、切手の部屋、卵の部屋なんてものまであった」
ロイは扉を開く前に「驚かないでくれ」と注意をする。
「そんなに変な部屋なのか?」
「変と言うか……数がね」
そして内部を見た途端、エドは何とも言えない気分を味わった。
時計──時計だ。時計。
壁という壁一面に時計がある。壁掛けタイプのものから置時計の巨大なものまで。部屋の中央にはガラス棚もあり、その中にも懐中時計などの携帯できるタイプがぎっしり詰まっている。
かち、かち、かち、かち。どこからともなく時を刻む音もする。
「これ……」
何をどう言えば良いのかわからぬままロイを見た。ロイはあさってを向いている。
「とりあえず修理を頼めるか」
「約束だから修理はするけど、でもこれ……」
「多分全部ではないと思うんだ。一応いくらかは時計の音もしていることだし」
エドはざっと見回す。数自体は既に数える気にもなれないが、もっと重大な事実は、ひとつも正確な時刻をさしていないということである。
つまり、ほとんどが止まるか狂うかしているということなのだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「……すまない、でも私のせいじゃない」
ロイはあさってを見たまま言った。エドがいくら視線で訴えても目を合わせもしなかった。
「そういうわけだから、しっかり部屋も衣服も食事も用意するよ。道具についても準備させる、どういったものが必要か書き出しておいてくれ」
道理で待遇が良いわけである。
エドは弱音を諦め溜め息をついた。
「──ところで、あの大きな床置き時計だが」
最後にロイが指差したのは、コレクションの中でもひときわ目を引く振り子時計だった。
大人の背丈よりもまだ大きい。ほとんど天井に届くかと思うほどで、エド一人くらいなら軽々と内に隠れられそうな頑丈な造りをしていた。
「あの時計だけは今のところ修理がいらない。どうしても目がいく大きさだから気になるかもしれないが、私が頼むまでそのままにしてやってくれ」
変な言い方をするとは思いながら、その時は膨大な数の時計に圧倒され、多くを聞かずじまいになった。
04
打ち合わせの結果、本格的に修理に取り掛かるのは明日以降ということで決着を見た。
今晩は休憩するようエドに言い置いたあと、ロイは城の家政婦であるコウ婦人を呼び寄せた。
「こちらはエドワード・エルリック氏、私の大切な友人だ。くれぐれも彼が居心地の良いように頼む」
晩餐には迎えにくると改めて約束しながら、彼は足早に離れていく。
徴税の期日も近い。準備が立て込んでいるだろうことは容易に想像できる。にもかかわらず、今日の彼は一日の大半をエドのために費やしたのだ。
ぼんやり心配していると、コウ婦人が進み出てドレスの裾を持ちながら頭を下げた。優雅なお辞儀だった。
我に返ったエドは慌てた。彼女に慇懃にされるのはひどく申し訳なかった。
「あ、あの……オレは別に……っ」
「いいえ、大切なお客様です。私はコウ・シャンシンと申します。のちほど部屋付きのメイドを連れて参りますが、何かありましたら私に直接おっしゃってもらっても構いません」
エドは更に動揺した。先日出会った時の彼女はもっと気さくに話してくれた。しかも、この上部屋付きのメイドである。自分が誰かにかしずかれると考えただけでも空恐ろしい。
「あ、あの……っ、メイドも必要ないです! ええと……ええと、本当に何にも構わないで下さい……っ」
コウ婦人は、たどたどしく頼むエドを、黒い瞳でじっと見つめた。
「何も……ええと、食べ物と寝る場所があるってだけで、本当にそれだけで充分だし……っ」
「……メイドがつくのは、エルリックさまにとって居心地が悪いでしょうか?」
静かな問いに何度もうなずいた。
「エルリックさまって言うのもちょっと……エドでいいです」
「エドさまとお呼びすれば?」
「そ、そうじゃなく……っ」
さまはいらないし、やたらな丁寧語もやめてほしいと思うのだが、例によって例のごとく言葉が出てこない。
あわあわと焦るエドを、しばらく婦人も控えめな様子でうかがっていたが、こちらがいよいよ涙ぐむほど困り始めると、ふっと口許をほころばせた。
東洋風の理知的な面差しが、その瞬間美しくほどけた。
「……では、エドさんでどうでしょう?」
「あ……っ、はい!」
エドは勢い良くうなずく。
婦人はますます微笑んだ。
「わかりました。では、エドさんにメイドは付けません。何かお助けできることがあれば、すぐに私を呼んでくださいね?」
「はい、よろしくお願いします……っ」
「よろしくお願いします」
お互いに深々と頭を下げて挨拶する。
コウ婦人の言葉遣いは相変わらず丁寧すぎるようにエドには思えたが、それ以外の部分ではくだけてくれたことが感じられた。
特に、笑顔のやさしさは、村の鐘つき堂前で「小さな時計屋さん」と呼んでくれた時のようだった。
客室に案内されながら、エドは改めて礼を言う。
「あの……この前はありがとう。すごく助かった」
「いいえ。私は何も。エドさんが大切な時計を直してくれたのは本当ですもの、私も嬉しかったのです」
「大佐にオレのこと話してくれたのも、コウ婦人?」
エドは極当然のことを確認したつもりでいたが、婦人は驚いたようにこちらを見た。
「エドさんは、あの方とお知り合いだったのでは?」
「違う、けど……どうして?」
婦人は束の間口を閉じ、それから場を取り繕うように「思い違いをしていました」と言った。
「先ほどエドさんを迎えに行った御者が、主とエドさんがとても親密な様子だったと話していたもので、そうなのだと思ってしまったのです。主は……ひどく人見知りをなさるお人ですから」
彼女の言い訳は取って付けたふうだった。けれどエドには、ロイが人見知りであるという評価の方が驚きだったのだ。
「人見知り? 大佐が?」
「ええ。主は戦いで火傷を負われました。傷を晒したまま人の目を見れば、相手が何を思っているのかがわかるのだそうです」
覚えのあるシチュエーションである。
とりあえず初対面で人を測るのは人見知りと言わない。エドは「性格が悪い」と笑った。呟き自体はエルホルツのものではなかったから、婦人には意味がわからなかっただろう。
「そういった主が、エドさんのことは大切な友人だと明言いたしました」
「リップサービスだ」
「どうでしょう。私には何とも申し上げられません」
婦人はゆったりと笑うと、ちょうど見えた扉を指して「あのお部屋です」と促した。
薔薇のレリーフがある木戸の部屋だった。
「こちらを用意するよう申し付けられましたが、もしもエドさんが気に入らなければ他を用意いたします」
扉の向こうは、こざっぱりとした造りの部屋だった。さすがにベッドは天蓋付きで華美さもあったが、絨毯やカーテン、シーツ、ソファー、テーブル、その他の家具も抑えた色合いが多く目にやさしい。
エドはほっと息をついた。
「ここがいい。どうもありがとう」
コウ婦人もうなずいた。
「お気に召されたなら私も嬉しいです。主にもそのように伝えておきますね」
それからバスルームやドレスルームの位置を教わり、使用人を呼び出すベルの使い方や、遊技場の位置なども説明を受けた。
特にドレスルームのクローゼットの中には、既に手触りの良い衣服が何着も並んでいて驚かされた。エドの背格好もコウ婦人が伝えていたということだったのか──
感心しているうちに、婦人はすっかり退出の準備を整えている。
「……では私はこれで失礼します。晩餐は主が迎えに上がるそうですから、どうぞこのお部屋でお待ちください。お湯はいつでも使えますので、良ければ湯浴みもどうぞ」
「あ……ありがとうございました!」
「いいえ。何かありましたらベルで呼んでくださいね」
再び優雅な一礼をして彼女は部屋を出て行った。
一人になっても安心するやら緊張するやらだ。エドは腹から息をつく。城に慣れるまでは時間がかかりそうだった。
唐突に感じた静けさも耳に痛く、エドは薦められた通りにバスルームへ直行する。
「せっかくお湯が使えるんだもんな!」
誰にともなく言い訳し、靴と衣服を脱ぎ散らかした。
と、何も入っていない上着のポケットに、鐘つき堂の煉瓦置き場に隠してきた宝物たちが頭を過ぎった。
銀時計にくろがねの指輪、それからコウ婦人の白木蓮のコサージュ、いくらかの硬貨──
「持ってくるんだった……」
本当は少しだけ心細かったのだ。何もかもが目まぐるしく変わりすぎて。
巡り遭わせが怖い、などと言ったら、ガルボあたりは贅沢なことを言うなと怒り出すだろう。
幸運なら喜べば良い。エドは自分に言い聞かせ、景気付けにお湯の蛇口を捻った。
05
すっかり温まった身体に真新しい絹のシャツは心地良かった。晩餐だと言っていたから、今夜だけ衣装を借りるつもりでクローゼットに入っていた中から飾りっ気のないものを選んだのだが、それですら襟と袖口に豊かなレースがあしらわれている。
こんなものを着慣れた日には勘違いした自分が出来上がりそうで恐ろしい。
改めて髪をまとめなおし身支度を整えると、エドは長々と息をついてソファーに腰掛けた。が、思った以上にやわらかな座り心地でかえって座りが悪くなる。
すぐに立ち上がった。反射的にベッドを見て、こちらもひどくやわらかそうだと思うと、また溜め息が出た。結局行き場を失い、出窓の張り出し部分に腰を下ろす。
尻の下の硬さに安心する自分がおかしかった。
気を取り直して外を眺めた。日も落ち雨粒の流れる窓からは、村の景色も判別がつかない。ところどころに滲む光に、あの辺に住む人々はまだ仕事をしているのだろうかと思いが巡った。
どれほどぼんやりしていただろう。
正気に戻るきっかけになったのは、不意の閃光だ。
稲光である。
「…………!」
エドは即座に出窓から飛び退いていた。
決して光に怯えたわけではない、もちろん雷自体を怖がっているわけでもない。
ただ耳を塞がなければ、と。音を聞けば肩が痛み出す。
しかし──遠雷。
耳を覆った手は一瞬だけ遅かった。
右肩がうずいた。次いで目が眩む。
雷鳴は続けざまに轟いた。どんどん間隔が狭まっていくようだった。
今やエドの右肩の痛みは身体中から冷や汗を搾り取るほどだ。関節は全く動かないし、指先の感覚もあやふやで、己の手とは思えなかった。
エドは叫び出しそうになるのを必死に堪える。
雷が聞こえる。鈍い音を立てて何かが壊れる音が──
何かが奪われていく音が──爆発する音が──
銃声、が。
そして。
「……の! 鋼の!」
呼び声に意識が浮き上がる。
気付けば、しっかりと抱き止められていた。エドはのろのろと視線を上げた。
すぐ傍に、左の目許から頬を布で覆った男の顔が見えた。
「た、い……?」
「どうした? どこかが痛むのか?」
やっとのことで「肩」とだけ告げる。彼の顔色は劇的に蒼白になった。絶望したようですらあった。
「……服を脱がせてもいいか」
押し殺した声音で確認を取られ、否を唱えるのも億劫でうなずく。
ロイはエドをかかえ上げるとベッドに下ろした。
シャツを取り払われる。
冷たい指が、エドが手で押さえた上から肩をなぞった。
「……どうしてだ」
ロイの呟きはまるで泣いているみたいに聞こえた。
「何ともなっていないじゃないか。君の肩は、腕は、ちゃんとここにあるのに……」
なぜそんな言い方をするのか尋ねたくとも声が出ない。
エドが重い瞼を開けると、彼はひどく悲しげに「鋼の」と呟いた。
ハガネノ。
エドを指してそう呼んでいるのだろうか。
聞き覚えはない。しかし不思議に耳に馴染んだ呼び名だった。
「……だいじょうぶ……かみなりが……おさまれば、これも……おさまるから……」
一生懸命言った言葉は伝わっただろうか。
ロイは他にどうすることもできない様子で、エドの肩へと唇を落とした。
彼の口付けはまるで祈りのようだった。
* *
砂漠の夜は寒いらしい。しかも今夜は風も吹いているらしい。
当初のアルフォンスにとって、直接気温や天候が感じられないことは、エドの看病をする上での最大の不安であった。
しかしいざ旅を始めてみると、同行しているシグがずいぶん気を遣ってくれている。こまめに毛布を足したり、簡易テントの隙間を塞いだりして、エドが冷えぬよう動いてくれた。イズミの看病で慣れていたせいかもしれない。エドの負傷を聞いた途端、シグに連絡を取ってくれたイズミには感謝してもし足りない。
アルフォンスが昏睡状態のエドとシン国への旅を始めてもう四日──
当初心配した傷口からの感染症も、どうにか防ぐとこができている。
それでもエドの肩口から覗く包帯は痛々しくてならなかった。
エドの容態は深刻だった。元々右肩に接合されていた機械鎧にしても、今は一切の部品が取り払われてしまっている。機械と神経を繋いでいた大元の場所が傷ついているのだ。処置が早かったために出血は最小限でとどめることができたが、それ以外は専門家の手なくしてはどうにもならない状態だった。
幸いなことに、ピナコとウインリィが一足先に難民街へと旅立っている。伝言は行っているはずなので、上手く行けば手術の準備を万全にして待っていてくれるかもしれなかった。
エドは一度も目を覚まさないままである。
それが、エド自身の抵抗力が落ちているせいなのか、麻酔がわりに飲ませている強い麻薬のせいなのか、アルフォンスには判断がつかない。麻薬を持っていたのはベックという軍人で、彼はロイの部下らしい。ベックとは初対面だったが、ロイが彼を信用してエドに付けたということは聞かされていた。
同行者には医者もいる。彼の話でも、やたらに苦しませて体力を消耗させるよりは、薬で眠らせ安静にしている方が負担も少なくて済むということだ。
結局、医療の知識のないアルフォンスは、周りがエドのために動くのを黙って見ているしかなかった。昼間はエドを背負って移動しているからまだ良いが、夜は本当に何もできない自分がつらかった。
シン国まであとどれくらいか。
見えるのは、血の気を失った青い顔──
思わず手のひらを兄の口許にかざしていた。熱も息の気配も、まるでわからないと知っていてもそうせずにはいられなかった。アルフォンスはエドの左手を握り、何度も兄さんと呼びかけた。
ふと、その小指にはめられていた、くろがねの指輪に目が向いた。
「……こんなの、いつからつけてたのさ?」
答えは返らない。アルフォンスは苦々しくうつむいた。
テントの外で話し声がしたのは間もなくである。
それ自体は珍しいことではない。アルフォンスたちの移動には、ベック以外にも数人の軍人がついてきていて、彼らは独自の方法でアメストリスと連絡を取り合っているらしいのだ。
だがその夜は様子が違った。
「──それは本当か?」
突然はっきり聞こえたベックの声は、不穏な気配がみなぎっていた。
テントの出入り口からそっと外を覗く。表にはベックも含めて三人の軍人がいた。
彼らの表情は一様に険しかった。アメストリスで何かが起こったに違いなかった。
アルフォンスはじっと聞き耳を立てる。
力を失った声が不吉な報告を繰り返した。
「……昨夜、マスタング大佐が負傷、意識不明の重体だそうです」
希望は見えない。
まだ、どこにも。