火に近すぎる──肌が痛むのを感じながらも、フュリーは焚き火の前から動けずにいる。
明るさから離れることは怖かった。今晩はぞっとするほど暗いのだ。焚き火を三歩離れればもう足元が闇に融ける。
風も濡れた布のようにべったりと吹く。嫌な夜だった。いつもなら火の傍に集まってくる憲兵たちも薄気味悪がって出て来ない。
フュリーは一人だった。誰も話し相手がいないから、自分の心と話さなければならなくなる。
繰り返し思い出す光景があった。
繰り返し、繰り返し、望んでもいないのに戻る記憶。
巨大な炎に立ち向かう男。その手は確かに錬金術のためにかざされたのに、気まぐれのように力を抜いた。
薄い唇が弧を描く。襲い掛かる火の壁を無抵抗で受け入れる──
ああ、と、フュリーは眼前を覆った。眼鏡がきしむ。今になって目を閉じても遅いことはわかっているのだ。あの瞬間のフュリーは結局動くことなどできなかった。ただ炎に飲まれる上官を見ていた。彼の笑った口元に釘付けになった。
「──ホークアイ中尉はアームストロング少佐の作戦に乗るそうだ」
声に身体が跳ねる。
ファルマンだ。焚き火に向かって歩いてくるらしい。フュリーは姿勢を正した。
「私はまだ迷っているが……お前はどうする?」
口の中が乾ききっていた。すぐには声が出ず、何度か唾液を飲み込んで、フュリーはやっと口を開く。
「僕は通信士ですから。ベックの件もありますし、基地に残ります」
ファルマンは迷った上でそう答えたのだと思ったかもしれない。それならば都合が良かった。フュリーは相手の顔を見ることもせず、ただ焚き火に目を向けていた。
ファルマンが隣に立つ。
「……女性は強い生き物だな」
ホークアイのことを言いたいらしい。
いつかは泣き崩れ殉死を望んだと言う、それと似た状況で、今度の彼女は絶望しなかった。
「正直な話、私は自分がどう行動すべきかわからない。アームストロング少佐の情報が本当なら、大総統側にいるドクター・マルコーを奪還するチャンスだ。少佐は間に合うと言った、中尉もそう信じている。だが……本当に間に合うのだろうか?」
──間に合ったところで僕らに何ができますか?
嘲りが飛び出しそうだ。フュリーは歯を食いしばる。しかし、忍耐は次であっさりと砕けた。
「私は、あの人の傍を離れるのが恐ろしい……」
ファルマンの思いが痛いほど伝わった、フュリーこそずっとそうだったのだから。
でも、そうであるから。あの時のロイを見てしまった今は。
「准尉は大佐に生きて欲しいんですか?」
「なに?」
「大佐はこのまま死にたいのかもしれません」
冷ややかな声が出た。フュリーは自分の道化ぶりに笑いそうになった。自分は傷ついているのだ、そして捻じ曲がってしまった。同じ傷を仲間に与えてやりたいと思うほど、ロイの裏切りが悲しかった。
「どういう意味だ、フュリー曹長」
明らかに気色ばんだファルマンが、こちらをねめつける。
「今の言葉は、まるでお前があの人の死を望んでいるように聞こえた」
「ハハ……ッ、望んでいるのは大佐ですよ。僕は」
望んでなどいない、言葉にしようとしたら喉が引きつれた。
ファルマンの目が驚きに見開かれる。
いつの間にかフュリーは泣いていた。眼鏡の縁に涙が溜まる。
手は尽くした──血で汚れた診察台、全身を包帯で覆われた男を前に、軍医が苦く言った言葉を思い出す。切れ切れの呼吸音。聞いているだけで息苦しくなるから、彼を知っている者ほど長く傍にいられない。かつては精力的に動いた彼の何もかもが生き方を忘れ、死に片足を掴まれた無残な姿を晒している。
「……すみません、ファルマン准尉」
フュリーは泣きながら懺悔した。
「聞いてほしいことがあります、きっと聞けば後悔するようなことです。決して壊れることがないと思っていたものが壊れてしまうかもしれません、それでも聞いて欲しい」
ファルマンは戸惑ったようであったが、隣に立ち続けてくれていた。
フュリーは仲間のやさしさに感謝し、そしてあの瞬間のロイの微笑を思い、ますますうなだれる。
「僕は……あの時一番近くにいました。准尉も聞いたでしょう? 爆発が、通信機器に細工を施されたせいだったということは。大佐がどこから情報を掴んだのかは知りませんが、とにかく駆けつけてくれた。僕に通信士全員を出口まで誘導するよう指示して、大佐は一番危険な場所に残った。僕は……大佐が爆発を止めるのだと思ったんです、無条件であの人を信じていました」
爆炎に照らされたロイの横顔がフラッシュバックする。
「爆発は凄かった。実際、大佐が錬金術で食い止めてくれなければ、全員が死んでいたと思います。次から次に機器が暴発して……だから錬金術が追いつかなかったと言うのなら、そうなのかもしれません。でもあの時、僕は見たんです」
唸りを上げて襲い掛かる炎。
それを、まるで恵みの雨を受けるかのごとくふり仰ぎ、彼は陶然と微笑んだ。
「大佐は嬉しそうだった……! 少なくとも僕にはそう見えました」
吐き出せば、涙が溢れてレンズを曇らせた。フュリーは眼鏡を外しむせび泣く。
「だって焔の錬金術師ですよ、炎で傷つくなんて嘘だ。ずっと頭から消えないんです、あの瞬間の大佐は確かに笑っていた……! 教えてくださいファルマン准尉、大佐はどうして笑ったんでしょうか?」
ファルマンが声もなくこちらの肩を叩く。もう言うなと、彼はそう言いたいに違いない。しかしフュリーは話すことを止められなかった。これまで抑え込んでいたのは、その事実だけではないのだ。
「お願いします、教えてください──大佐は本当に嬉しかったんでしょうか? もしも本当に嬉しかったのだとしたら、あの人は望んで傷を負ったことになるのに……本当に? 僕らに生きろと言う一方で、あの人自身は死にたがっていたのですか?」
「フュリー曹長、もういい、わかった」
「いいえ! いいえ、どうか答えをください、ファルマン准尉! マスタング大佐は、この戦争の中に僕らを捨てたのではないのですか……!」
沈黙が落ちた。焚き火が木を焼く音だけが聞こえる。
沸騰していた心が急激に冷めていく。フュリーは恥ずかしくなった。こらえきれずに座り込み、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭う。
「……すみません」
今さら勢いを失ったこちらに、しかしファルマンは「いや」としか言わなかった。
話を聞けば誰もが激高するものと思い込んでいた。相手の冷静さが不思議で目をやると、彼は少しだが笑って見せさえもした。意外だった。
ファルマンもフュリーの驚きに合点がいったらしい。同じく焚き火の前に座り込み、ゆっくりと語り出す。
「思うに、この話を聞いたのがブレダ少尉やハボック少尉だったなら、曹長と一緒に怒ってくれたのかもしれない。しかし私は怒らない……そうだな、ホークアイ中尉も怒らなかったかもしれない」
「なぜですか?」
「簡単だ、私にとって大佐は別格だ」
それはフュリーにとっても同じである。ところがファルマンはそうではないと首を振り、噛んで含めるように言った。
「私は本を読むのが好きな子供だった。アメストリスで出版された本なら人より多く読んだと自負してもいる。その中には、実在の英雄の話があったし、神々に立ち向かう虚構の英雄もいた。嘘の中でもまことの中でも、英雄と呼ばれる者が手に入れる栄光は様々で、冒険の種類も千差万別だが、どの英雄にも共通して言えることがひとつある」
フュリーは茫然とそれを聞く。
「彼らは自分で死期を選ぶことができない」
ファルマンは苦笑っていた。
「戦場においての大佐は誰もが認める英雄だった。たとえ本人が姦計を巡らせ、わざとそのように見せかけていたとはいえだ。今更あの人自身が否定したところで、一度出来上がった偶像はどうにもならない。あの人は──もはや自分が死にたいと思った時に死ねる生き物ではなくなった。我々があの人の力を吸い尽くすか、時代が骨の髄までしゃぶって廃人にするか、どちらにせよボロボロになるまで死ねはしないだろう」
「……そんな……確かに大佐は凄い人だとは思いますが、でもそういうのは……」
何かゆがんで聞こえる。
ファルマンは気を取り直した様子で立ち上がった。
「理解しろとは言わないさ。ただ私は曹長の話を聞いてアームストロング少佐の作戦に乗る口実を得てしまった」
「えっ?」
「大佐が英雄なら、おそらくまだ死ねない。この国にあの人の力は必要だ。少佐の作戦は成功し、あの人は再び目を覚ます」
目の前を光が過ぎったような感覚だった。
フュリーは泣き濡れた顔を隠すことも忘れ、敢然と立ち上がった仲間の姿を見上げた。
「私は作戦に参加しようと思う。フュリー曹長はどうする?」
「……どうするって……」
「あの人は目を覚ますぞ。一番に恨み言を言うのは、お前の権利だと思うが?」
ファルマンがなぜそんなに自信たっぷりに言い切れたのかわからない。ロイが英雄であるから目を覚ます? フュリーには全くの詭弁に聞こえる論理だ。しかし仲間の中では真理であった。それを証明するかのように、彼の表情は希望に満ちている。
「たとえあの人が我々を捨てたのだとしても、我々があの人を見失わなければいい」
とどめだった。
希望はフュリーにも飛び火した。
「……僕も、行きます」
涙を袖で拭い、眼鏡をかけ直し、フュリーは立ち上がる。
今の時点でロイは裏切ったのだと思う心は変わらない。
ただ、もしもこの先、彼が死の誘惑を払い戦場へ還ってくるのであれば、フュリーはいっそうロイを信じるようになるかもしれない。いや、信じる。元より信じていたのは彼だけなのだ。
奇跡が起こるなら、それが神のわざでも、時代のわざでも、ファルマンの言うように英雄の宿命でも何でも良い、今この時をおいて他にはなかった。
奇跡の名は「未来」と言う。
闇に惑うアメストリス軍でそれを握っているのは、フュリーの知る限り、ロイ・マスタングだけなのだ。
「行きましょう、時間がもったいない」
「ああ、行こう。少佐も中尉も待っている」