01
右肩を庇って身を丸め、かたく目を閉じ──
痛みをやり過ごそうとしてどれほどの時間が経ったのか。ふとエドの意識が浮上したのは、何度となく髪を梳かれていることに気付いたからだった。
部屋にはロイしかいない、つまり今エドに触れている相手はロイになる。心配と気遣いが溢れるやさしい手。気持ち良くて仕方がなく、つい自分から頭を擦り付けたなら、ほのかにやわらぐ気配がある。
ロイが笑ったらしい。
何だかエドもほっとしてしまった。雷がおさまるまでとは言ったものの、二人きりで沈黙しているには長い時間であったに違いないのだ。
目を開けてみる。
ロイはベッド脇にひざまずいた格好でエドを覗き込んでいた。
「……少しは楽になったか?」
顔半分が覆面で隠れていても、彼がどれほど心を砕いてくれたかは声でわかった。よそよそしいエルホルツの村人とは違い、エドのあるがままを受け入れてくれている声だ。
ずっと不思議に思っていた。
エドに対するロイの扱いは、会ったばかりの他人にするには親密すぎる。しかもエド自身も彼がそうすることに抵抗を覚えない。手を出されれば当然のように握ってしまうし、ついて来いと言われれば無防備について行く。エルホルツに来て嫌と言うほど学んだ警戒心が、彼の前ではすっかりなりをひそめてしまう。
それは、同じ言語で意思疎通できる相手だからということも一因だったのかもしれない。懐かしさもあった。彼の仕草や声、話しぶり、左手人差し指の指輪に、大佐の呼び名、それらは確かに覚えのあるものだった。
そして、今、決定的なことがもうひとつ増える。
ロイは、エドを「鋼の」と呼んだ。
鋼の。そう呼ばれる理由に心当たりはない。けれども自分を指した名だと直感した。
ロイはエドの過去を知っている。
「……大佐」
久しぶりに出した声はいくらか掠れて弱かった。
ロイが痛ましげな顔をする。頬を慰撫された。彼の手は本当に誰よりもエドにやさしい。
「大佐……」
「ああ」
「──…………」
「どうしたんだ? 痛むのか?」
これほどエドを案じてくれる彼だ。何もなければ、ロイは最初からエドに既知であることを話したのではないか。話さなかったのは、つまり話さないだけの理由があるのだ。
エドはためらいながらも、意を決して疑問を声に変えた。
「オレを鋼のって呼んだよな?」
ロイから表情が消える。
「それって、大佐は、オレがどこの誰だか知ってるってことだろう?」
エドが縋るように視線を合わせても反応しない。むしろ、彼の瞳を染めていくのは怒りではないだろうか。
「……君は、どうしても記憶が必要か?」
「どうしてもって言うか……知りたいと、思うけど」
「私は君が生涯困らないだけの援助を惜しまない。君がこの村を出たいと思うのであれば、旅立ちの準備にも協力しよう。私は君の髪一筋も拘束することはない。こういった条件を与えても、君は過去を知りたいか」
「あの……だから、大佐のそう言ってくれる気持ちは嬉しいけど、オレはただ──」
「記憶を取り戻せば、今目の前にある全てが失われるとしても?」
思わず言葉をのんだ。一方を取れば一方は壊れるかのような言い方をするロイに気圧される。
だがエドが悩むよりも早く、ロイは顔を背け、「すまない」と会話を打ち切った。
覆面された横顔からは意図を量ることが難しい。彼は故意にかそうではないのか、エドに表情を隠したまま続けた。
「君が望むのなら全て話そう。ただし、今すぐは無理だ、君には城の時計を修理してもらわなければならない。里心がついて仕事を放り出されても困る」
「それは、もちろん──」
「ならば、君の過去の話も、時計を全て修理してからの報酬ということでどうだろう?」
ぎこちない印象は残るが、ロイの提案を無視する理由もない。何と言っても、城にいる間の衣食住は保障されている。そして雇い主はロイだ。条件は彼が作るもので、エドが選ぶものではない。
「……わかった、それでいいよ」
「ありがとう。できれば、君の呼び名にも目こぼしがもらえると嬉しいのだが」
「鋼の?」
「ああ」
「いいよ、別に。嫌な感じはしないし」
軽く答えたならロイは苦笑った。
「君は前にもそう言った」
「えっ……」
「記憶を失っても君は君だ、自分の力で歩いていく。私はいつも見ていることしかできない。わかってはいるんだ、それでも──」
祈るように言って、再びエドのこめかみを撫でた手のひらは、ただやさしい。
「君を、少しでもしあわせにしたいんだ」
さすがに彼の言いように驚いた。
「あの、大佐とオレって……?」
もしかして自分たちは特別な関係だったのだろうか。
おっかなびっくりで問いかけたエドに、ロイはゆっくりと首を横へ振る。
「何か関係があれば良かったが、残念なことにただの知り合いだった」
「知り合い……で、そんなふうに言うのは変だろ?」
「そうだな、変に聞こえるかもしれない。しかし、友人というには中途半端で恋人にもなれなかったから、最も適切なのはやはり知り合いだと思う。私は恋人になりたかったんだが」
さらりと凄いことを言われた。
エドが目を剥くのにちらと笑い、ロイはなおも本気か冗談か判断のできないことをする。
「君もそれほど私を嫌っていなかったと思うよ……少し試してみようか」
片手を取られる。うっかり見守ってしまったエドは、次の瞬間、目に映った衝撃に硬直した。
指先に唇を押し当てられた──手の甲、手のひら、次は手首。
あんまり予想外で声も出なかったのだ。
ロイの唇は衣服の上から腕に移り、肩に移り、当たり前のようにどんどん親密になっていく。額にキスを受け、頬にキスを受け、いつの間にやら唇同士で触れ合うしかなくなっていて、結局寸前でエドを正気付かせたのは、行為を仕掛けたロイの方だった。
「……君はそんなに私を好きでいてくれたのか?」
唇こそ触れてはいなかったものの、目は近いし鼻はぶつかっているしで大慌てした。
顔が熱い、耳が熱い、首も熱い、胸まで熱い。
「へっ……変なことするなよ!」
「遅いよ」
「仕方ないだろ、びっくりしたんだよ!」
「驚いて硬直するのはやめた方がいい、私のような相手につけ込まれる」
「あんたが言うな!」
ロイは屈託なく笑った。彼の様子は悪戯が成功した子供のようで、エドは今起こったこと全部が冗談ではないのかと疑わなければならなかった。
そもそも相手は大人の男である。エドを本気で相手にするとも思えない。
「遊ぶんだったら他で遊べよ」
何とか冗談で納得しようと呟いたのだが、ロイはこれにもしっかり反論をよこすのだ。
「遊んでなどいない」
「…………」
「おいおい証明するさ」
楽しげに言うからまた混乱する。
難しい男である。エドが感じ取ることができたのは、彼が最初は怒っていたことと、途中いくらか本気でエドを口説いたこと、最後には悪さをしかけて全部を消し飛ばしてしまったことだった。
つまりうやむやにしたかったのか?
「……大佐ってさ」
「うん?」
「本当は時計の修理よりしてほしいことが別にあったりしないか?」
ロイからすぅっと笑みが退くのが見えた。何かを言いかけ、結局何も言わない。彼が見下ろした先にはエドの左手があり、意味はわからないがずいぶん長くそこに留まったままだった。
「……君は時々残酷だ」
彼はエドが問い返すより早く立ち上がり、もう付け入る隙もない朗らかな笑顔を向ける。
「──さて、そろそろ行かないか。もう肩の痛みはなくなったのだろう?」
「……そうだけど……」
「晩餐だよ、そもそも私は君を迎えに来たんだ」
言われて思い出した。ずいぶん時間が経っている。給仕係のメイドたちも待っているに違いない。
「すぐに用意する!」
泡を食って起き上がる。
その時のエドは、見事に目先のことだけで精一杯にさせられて、うつむいたロイが思いつめた様子でいたことに少しも気付かなかった。
02
晩餐と言うから畏まっていたものの、ロイが案内した場所は会食の間ではなく、たくさんの飾り窓があり小さな丸テーブルが並ぶ、かわいらしい雰囲気のダイニング・ルームだった。
料理も大皿で用意され、いくつかのテーブルを使って既に広げられている。大量に取り皿が用意してあるところを見ると、好きに選んで食べろということらしい。ちょっとした立食パーティーの様相である。
食前酒にしても、ロイが手ずから木杯に注ぐ気安さだった。空のテーブルにはキャンドルがともされ、絨毯や壁の美しい装飾とあいまって、部屋中が夢のようにやわらかな光で満たされる。
いつの間にか召使たちも姿を消した。
「なんか嘘みたいだ」
ぼうっとするエドに軽く笑い、ロイは早速酒の入った木杯を取り上げた。
エドも口をつけてみた。匂いで甘い酒であることはわかったのだが、飲んでみると飛んでもない。一口で喉が焼ける。
「……強烈だな」
「そうかい? この辺ではミルクに混ぜて赤ん坊に飲ませる風習があると聞くけれど」
「じゃあこれがトラジェディア?」
エドも話だけは聞いたことがある。悲劇という名の酒である。生まれたばかりの子供に飲ませ、あらかじめ悲劇を経験することで未来の悲劇を免れようという風習らしい。
「初めて飲んだ!」
素直に驚いたエドに、しかしロイは苦い顔をした。
「やっぱりそうなのか。村の食堂では無償でふるまわれる酒だというのに」
「そりゃ……だって、オレが食堂なんかに行けるわけないだろう? 入った途端に叩き出されるよ」
「そうらしいとは聞いたがね」
まぁ、食いたまえ。ロイは勝手にエドの皿を作って料理の小山を載せてくる。しかも皿が空けばまた次の皿を差し出す。食べるものは自分で取りに行くはずの席で、エドは立つ暇がない。
「……あのさ、自分でやるから。大佐も食えよ」
「私は適当につまんでいる。君は、何でもいいから詰め込みなさい」
「何だそれ?」
「ずいぶんやせた。見ていて悲しくなるほどだ」
切々と言うロイの前には、ちゃっかり新しい杯と酒差しが並んでいる。つまり彼はエドを肴に飲んでいるわけだ。
「それもトラジェディア?」
「いいや、あれは甘すぎる。それに悲劇はもういい」
「ふぅん。……その火傷?」
「自分の身に起こるものなら我慢すれば済むさ。そうではなく、手の届かない場所で起こるから、たちが悪い」
「ふぅん……」
エドが皿に視線を落とすのと、ロイのフォークがその皿からハムを掬い上げるのは同時だった。
仮にも領主が、と、目を丸くしたこちらに、ロイはいたずら好きの子供の顔で笑って見せる。
「私の話はいいよ、君のことが聞きたい」
「……あんたって誰に対してもこんなか?」
「まさか。君に対してだけだとも。君は?」
「え?」
「こちらへ来てから、こんなふうに誰かと同じ皿で同じものを食べたか?」
なぜそんなことを尋ねるのか。
「……オレ、ずっと一人だったんだけど」
「うん。だが、誰かと苦しみを分かち合ったりしなかったかい?」
「誰かって……ガルボ? でもガルボは違うよ、エルホルツじゃそんな相手もできるわけがない」
「村中敵だらけみたいな言い方だ」
「似たようなもんだ」
エドがしかめ面で答えると、ロイはまたこちらの皿からキッシュの欠片を取り上げる。今度はエドも驚かなかった。心持ち向こうに皿を寄せてやれば、ロイこそ苦笑う。
「では、その敵のことを聞かせてくれないか。もし心当たりがあれば味方のことも。それから、君の肩のことにも興味がある」
肩のことならエドだって知りたい。
エドはますます皿をロイ側へ寄せる。
「……これは君に取ってきたものだが?」
「いいからつまめ。エルホルツのことなら話すよ、オレも訊きたいことがある」
「過去の話なら先の報酬だろう?」
「そうじゃなく。肩の話」
ロイはしばらく無言になったものの、返事の代わりに、もう一欠片キッシュを取った。
それを見届けると、エドはやっと安心して話を始めることができた。エルホルツに来てからの長い長い話だった。
エドが今まで何に驚き、何に喜び、何に怒り、何に悲しんだか。ロイは話にじっと聞き入りながらも、時折細かく人の名を確かめたり、場所の確認をしたりした。
領主に告げ口するようで、人名を限定することはエドも戸惑ったが、詳しい情報があれば改善も楽になるというロイの言い分も尤もだった。結局一番つらく当たられていた時計屋の名も出してしまったし、不条理な制度を勝手に作っている市場の話や、よそ者に水を使わせない川守の話もしてしまった。逆に値引きしてくれるパン屋の話や、時々果物を分けてくれる老女の話もした。
取り留めなく話す中で、とうとう去年のクス祭の話になる。音が原因で痛むのだとわかったのが、クスの時なのだ。
そもそもは何が原因か全く知れず、肩にしてもたまに疼くくらいで──今思えば、焚き火の音や積み上げたものが崩れる音が原因だったのだろうが、特に気にもしていなかった。ところがクス祭が始まって、夜ごと村のどこかで火薬玉が破裂する音がした。エドは真剣に飛び上がった。
「音がさ、何となく拳銃っぽいだろ?」
臆病を茶化してもロイは深刻な表情を崩さない。
「エルホルツに来て少し慣れたくらいの頃で、周り全員が信用ならない相手なんだって、警戒してたせいもあったかもしれない。びくびくしてる時に派手な音が聞こえたもんだから、本気でオレへの嫌がらせかと思ったんだ。本当は全然違ってたんだけど、そんなこと訊ける相手はいないし、言葉も通じないし。しかも、あの音が鳴るたびに肩が痛んだ。それで原因が音なんだってわかって、耳塞いでたらどんどん怖くなって……痛みも、音を気にする前よりひどくなった」
ロイがフォークを置いた。置いたと言う表現は少し穏やかすぎたかもしれない、食器が派手な音を立てる。
エドは驚いて口をつぐんだ。ロイは真っ青だ。
「……どうかしたのか?」
「いや──いや、すまない。少し腹が立った」
「ええっと……」
「気にしないでくれ、君にじゃない」
彼は言うが、向かい合っていれば嫌でも相手の様子は目に入る。怒っていると自称したはずの彼の表情は、怒りというよりはむしろ悲しんでいる時のそれである。
エドはこれ以上を話すことを躊躇した。この話を彼に聞かせたのは、彼がエドの失った過去を知っているからである。肝心なのは、傷もないのになぜ肩が痛むかであり、ロイに原因の心当たりがあるかどうかだった。
結局クス祭の話は曖昧になり、二人の言葉も途切れがちになる。
晩餐も終わりそうだった。
エドは迷った末にロイへと問いかけた。
「……オレの肩のこと、どう思う?」
ロイは答えなかった。笑うことに失敗したような苦い表情で、いつか話すよ、とだけ返した。
ロイと別れ、一人になってからのエドの夜は長かった。
ベッドのやわらかさに慣れなかったせいだ。様々なことがあった上に酒も飲み、身体は休息を求めているのだが、眠れそうだと思ったら目が覚める。
漠とした思考の中で、エドはロイの左手の指輪を思い出す。
あの指輪は以前から彼がしていたものなのだろうか。
今晩はエルホルツでの経験談を語ることに躍起になって他を語ることを忘れていた。彼自身に懐かしさを感じたこととや、あの指輪に見覚えがあったことも話してみれば良かった。それにエドも指輪を持っていたのだ。鐘つき堂に置いてきてしまったあれも、もしかしたら重要なものだったかもしれない──
眠りの淵を行ったり来たりするエドの意識が、どうにか安息に溶け込んだのは、新しい朝陽が空の端をほの明るく変える頃だった。
03
いよいよエルホルツ村での徴税が始まったらしい。
この数日は、時計部屋に閉じこもっているエドでも、城に出入りする人間が増えたと感じている。パン屋の主から羊飼いの親父まで、入れ替わり立ち代り緊張した面持ちでやって来て、気落ちしたり喜色満面したりして帰っていく。
エドも城内を歩き回る許可はもらっていたが、見知った村人と顔を合わせるのが嫌で、結局日中の大半を時計の修理に当てている。
さすがにロイも多忙を極めているらしい。夕食には顔を合わせはするものの、最初のように二人きりで話し込む時間がなくなった。
しかし、コウ婦人の話によれば、それでもロイはエドと話すために時間を調節しているのだとか。
「実は、エドさん以外の誰とも食事をなさらないのです」
コウ婦人がそう打ち明けたのは、エドが城に来て五日目の昼のことであった。
作業に熱中するあまり度々昼食を忘れるエドを見かねてか、彼女は昼前には軽食を持ってきてくれるようになっている。その日は、ちょうどそのタイミングでエドの手が止まっていて、息抜きに温かい紅茶でもどうかという話になったのだ。
ところが、ここへ珍客が飛び込んで来た。
エドの目の前には今、コウ婦人ばかりではなく、神経質な様子でティーカップを傾けている青年がいる。
栗色の波打つ髪を後ろで束ねた、一見してやさしげな面持ちの青年だった。年齢はロイと同じくらいに見える。
執事のユリウス・ロッシュである。
「エルリックさまに尋ねたいことがあります。私もご一緒させていただきたいが、よろしいか?」
笑えばさぞ人好きするだろうロッシュは、しかしにこりともせず、そんなふうにやって来た。
ロッシュと向かい合うのは初めてだった。
挨拶だけなら初日に交わしもしたのだが、ロイは本当に些細な用件でもエドと直接話すことを心がけていて、人を介して何かを言付けることがなかったのである。
一職人の面倒全てを城主が手配するのは異常な状況だったのだろう。ロッシュが無愛想にしているのも、その辺が原因らしい。
実際、最もエドと懇意でいたコウ婦人には、気を遣わせていたようだ。
彼女は、ロッシュが硬い口調で用件を告げようとするのを遮り、「実は困っていることがあるのです」とやわらかく切り出した。ロイの食事についての話だった。
「城には多くのお客様がいらっしゃいます。主と同じく軍に属している方もいらっしゃるし、エルホルツに利益をもたらしてくれる行商の用向きの方もいらっしゃる。以前ならば、お客様をもてなすために会食を催すことも少なくはなかったのですが……」
「今は、そうじゃない?」
エドがエルホルツの言葉でたどたどしく尋ねると、彼女は控えめにうなずいた。
エドには奇妙な話であった。それがロッシュの苛立ちとどう直結しているのかわからなかったのだ。
コウ婦人が再び説明を足そうとする。しかし今度はロッシュの剣呑な言葉の方が早かった。
「恐れながら、エルリックさま。主は貴方以外の相手とも親睦を深める必要のある方です。毎日でも晩餐会を催して賓客をもてなす必要がある。ところが、貴方がいらしてからというもの──」
「ロッシュ、やめてください。エドさんに失礼です」
「婦人は黙ってください。エルリックさまはまだお若い、恐らく領主の立場を理解せず、あの人の時間を奪っていらっしゃるのだと思います。ですから、私は」
「ロッシュ! エドさんはそんな人ではありません!」
彼らのやり取りを聞くうちに、エドもロッシュが何を思って憤っているかを知った。
しかも驚くような事実まで飛び出す。
「そもそも、あの人がエルホルツのような片田舎への赴任を買って出たのもこの方のためだった! この方を探し出し保護するため、あの人が払った犠牲は決して小さくはないのです! にもかかわらず、この上まだ──」
「待ってくれ!」
エドはたまらず割り込んでいた。
「待ってくれ……大佐は、オレを探してエルホルツに来たのか……?」
ロッシュが片眉を跳ね上げた。
「探してって、いつから?」
「──…………」
コウ婦人までが気まずい様子で口を閉じている。
話の決着をつけたのはロッシュだった。
「……どうやら私の勇み足だったようです」
彼はティーカップに残った紅茶を一飲みにすると、立ち上がり慇懃に一礼した。
「失礼しました。主が貴方に打ち明けぬことを私が口にするわけには参りません。ただ、主には領主としての務めがございます、できれば今後は貴方にもご注意いただければ嬉しい」
「それは、わかったよ……でも」
「貴方の疑問に私は答えることができません」
取り付く島がない。
エドが言葉をのむと、ロッシュは機敏な動作で退出しようとした。しかし、いざ出入り口に立った時、急に思い当たったふうにエドを振り返る。
「ひとつだけお教えいただきたい、もしも貴方に理由がわからなければそれでも構いません」
「う、うん……」
「火薬と聞いて、何か思い当たることはありますか」
あんまり突飛な話題で驚いた。
「火薬。ええと……クス当日までの一ヶ月間、村で火薬玉を使うことなら……」
「主はそれを聞いて何と?」
ロイは何も言わなかった気がする。ただし、状況を正確に伝えるには、エドの原因不明の発作のことから筋道を立てて説明しなければならない。
ところがロッシュは気が短かった。エドがエルホルツの言葉を思い浮かべているうちに、それを沈黙ととって言葉を重ねる。
「無理に答えていただくこともありません。貴方の昼食を邪魔してしまいました。私も仕事がありますので、これで失礼します」
あとには肩透かしを食らったエドとコウ婦人だけが残された。
「……火薬って、何だろう?」
立ち入った事情とは知りながら問わずにもいられなかったエドに、婦人が苦笑する。
彼女は紅茶を取り替え、クルミを練りこんだパンをナプキンへ取り分けると、口外を許される限度内で答えをくれた。
「村から買い集めるよう指示があったそうです」
今度はエドが黙ってパンを一齧りする。
過去の自分とロイが既知であったと知ってから、村での出会いも偶然ではなかったと察しはついていた。しかし、それに伴う彼の犠牲など考えたこともなかったし、犠牲を払ってまでエドを探したロイの執着も想像できない。
恋人になりたかったと言った彼。あれはどこまで本気だったのだろう。そして、火薬。ロッシュは思わせぶりに言うが、本当にエドに関係していることなのだろうか。そもそもロイとは年齢差を超えてどんな出会い方をしたのだろう。
「──そうだ、コウ婦人」
「はい?」
「この言葉って、どこのものかわかる?」
使い慣れた言葉で簡単な自己紹介をする。
「エドさんと主が良く話されている言葉ですね」
「うん」
「けれども、すみません、私は無学なもので心当たりがありません」
エルホルツでは使わないという言葉を、ロイは極自然に話していた。だから彼自身にとってもそれが母国語か何かだと思ったのだが。
「近隣でも聞かない言葉に思えます」
謎は増えるばかりである。
もやもやした気持ちは、良い香りの紅茶を飲み干したあとも、喉元で長くくすぶり続けていた。
04
その午後は作業の手も止まってしまった。修理途中の置き時計を前にしても疑問が巡る。
エドの目は、機械を映しながら、全く別のものを探そうとしていた。
「……あーあ」
とうとう大っぴらに床に寝転ぶ。
時計だらけの部屋は床から見上げても壮観だった。
大小様々な文字盤が、人の顔を模した仮面のようにエドを見下ろす。
「これ全部かー……何ヶ月かかるんだか」
部品から揃えるものが出てきたとしたら数年かかってもおかしくない。エドの技術は所詮素人のものである。部品そのものを作るには、別の職人の手も借りなければならない。
エドは自分の二の腕を見つめた。痩せ細った腕だ、華奢とまではいかなくとも、肩の筋肉も薄く頼りない。
これに比べ、ロイの腕や肩は経験を窺わせる大人のものだった。
身体からこれほど違う。とどのつまり、エドはただの子供なのだ。ロイの気遣いにしても、子供だからエドが放っておけずに……。
考えたなら、ますます動く気力がなくなった。エドは腹の底から溜め息をつく。
外からのノックが聞こえたのは、ちょうどそんな時である。
起き上がるのと扉が開くのは同時だ。
姿を現したのはロイだった。しかも彼は、どこからか脱走してきたかのごとく焦った様子で内へ滑り込む。
「……何やってんの?」
問いかければ、すかさず「しーっ!」と指を立てた。
「ロッシュから逃げてきた、したくもないパーティーを開かされそうなんだ」
「……領主はそういうのも必要じゃないのか?」
ロッシュからはエドも注意を受けたばかりなのだ。だがロイは、聞くや否や大げさに嘆いて見せた。
「君までそんなことを言う!」
「いや、だって」
「だって? 私こそだってと言いたいね、君がいるのにどうして他の人間を呼ばねばならないんだ!」
言葉に詰まる。それは彼の本心か否か。
「オ──オレとなら明日も食えるだろ?」
「もちろん明日も一緒に食べるよ、しかし今晩も一緒に食べる」
思わず「オイ」と突っ込んだエドに、ロイは悲哀たっぷりの声音で言い募った。
「君は私の唯一の楽しみを奪う気か?」
「唯一って、大げさな」
「唯一だよ、心から! 徴税が始まってからと言うもの、同じ建物にいるのに全く会えないじゃないか!」
反論するとか宥めるとかいうより、彼の勢いに慌ててしまった。
「で──でも、大佐、忙しいんだろ?」
「忙しいよ、だから何だい」
「えっ……だから会えなくてもさ」
「仕方がないと? こんなに会いたいのに?」
結局エドは耳まで赤くした。とても演技で言っているようには見えない。
「とにかく一緒に逃げてくれ、私の居場所が知れるのも時間の問題だ。君にも息抜きは必要だろう、こんな部屋に閉じこもっていないで外に行こう」
「う……でも、大佐が逃げるとロッシュさんが」
「ロッシュと私とどっちが大切なんだ!」
焦れたロイは、とうとう強引にエドの手首を取り、身体ごと引き上げる。
「どうやら君とはじっくり話し合いが必要らしい。そうと決まれば場所を移そう──しっかり掴まって」
「え──ええっ?」
気付けば肩に担がれていた。それで歩き出すから不安定極まりない。エドは焦って男の上着にしがみつく。と。
「大変よろしい」
満足そうな声が聞こえた。
あとは喜劇みたいだった。
ロイは逃亡の出入り口に、扉ではなく窓を使ったのだ。
エドはちょうど部屋に入ってきたロッシュと目が合ってしまって、般若のような形相で睨まれた。
「──大佐!」
ロッシュは大声で咎めたが、当のロイは笑うばかりで振り返りもしなかった。
エドが再び地に下ろされたのは、すっかり建物から抜け出して、辺りに紅葉樹しかなくなった林の中である。
自分の足で立ってもなお茫然とするエドを前に、ロイは上着のポケットから何かを取り出す仕草をした。
「──手を」
「えっ……」
「手だ、両手を出して」
言われるまま受け皿を作る。
そこへロイが零したのは、パラフィン紙で包まれた手作りのキャラメルだ。同じくマドレーヌの包みを、クッキーの包みを、キャラメルの上に順々に積んでいく。
「これで最後、コウ婦人のとっておきだよ」
クルミとクランベリー入りのチョコパウンドケーキ。
エドの両手には、今やすっかり菓子の小山が出来上がっている。
「無理に連れ出したことはこれで許してもらえないか」
見上げると、今更ながらに殊勝な顔をする男がいる。
許すも何もエドは最初から怒っていない。
というか、頭に角をつけたようなロッシュには目もくれなかったし、賓客相手の晩餐会も勝手にボイコットしてきたのだろうに──なぜ真っ先に謝る相手がエドなのだ。
「……あんたって……ハハッ」
笑ってしまった。
両手は菓子で塞がっていて口を押さえもできなかったから、結局大爆笑だ。笑うエドを見て最初はぽかんとしていたロイも、途中からは一緒になって笑い出した。
05
二人で林を奥へ入って、色づいた葉が絨毯のように地を敷き詰めている場所に着く。
ロイは自分の上着を広げ、エドが遠慮する間もなく座らせた。そんな扱いは誰からもされたことがない。
「……なんか勘違いしそうなんだけど」
「ん?」
「オレ、ただのガキだよ?」
「君にとってはそうでも私にとってはそうではないよ」
エドの困った顔など歯牙にもかけず、ロイは続けて「菓子はその辺に置いてくれ」と言った。確かに両手が塞がったままだと不自由ではあったので、エドは素直に包みの山を脇に置く。
けれどもこれはロイの策略だった。菓子を退けた途端、男の頭がエドの膝に乗るではないか。
驚きは、再びエドの言葉を奪った。
「はー……疲れた」
一方のロイは呑気なものだ。大きく伸びをし、ごそごそと身動いて最も頭の座りが良いらしい部分に落ち着くと、満足げな溜め息をつく。
「聞いてくれ、鋼の。私は今日何人の村人に引き合わされたと思う? 五十八人だぞ、五十八人。その誰もが私を恐れた様子で卑屈に笑い、見え透いたおべっかを使うんだ。全くこの村ときたら……私は彼らに何かしたのか、この顔はそれほど化け物じみているのか」
彼の火傷のあとは今日も隠されている。横顔は相変わらず端正で、彼が言うほど奇異でもなかった。
要するに、本当に疲れたのだろう。村人のすさみ具合を嫌と言うほど知っていたエドは、結局膝に乗られたことに対しての文句も言えなくなった。
仕方がないので、彼の頭を撫でてやる。少しでやめようとすると、ロイは自分からエドの手に頭を擦りつけ、もっとしろと訴えた。彼は大型犬のようだった。
「……君は今日何をしていた?」
エドの手の下で目を閉じたロイが言う。
エドは修理の終わった時計のことを話した。置時計を二つと、古い振り子時計一台が今日の午前中の成果だった。
コウ婦人とロッシュに会ったのはそのあとだ。
「なぁ、ずっと前からオレを探してたって本当か?」
誰に聞いたとは言わずに切り出したのだが、ロイはすぐに察したらしい。
「あれは君のところへ行ったのか? すまない、やさしい顔立ちをしているが気性の激しい男でね、君を責めただろう?」
「まさか。コウ婦人も一緒だったし……オレ元々あんまり言葉もわからないから」
微妙に嘘が混じったが、キャラメルを口に放り込んで誤魔化した。キャラメルは、バターとアーモンドの香りが上品な素晴らしい味だ。
「んまい! 大佐も食う?」
笑って言えば、様子を窺っていたロイも追求を諦める。ただ、次に、雛鳥よろしく「あー」と口を開いた大人はどう扱ったものか。
「あんた子供みたいだ」
ぼやきすら知らん顔である。
結局エドが折れてキャラメルを放ってやった。
「……で? 前からオレを探してたのか?」
「それは重要なことかい?」
「重要かどうかが問題じゃなくって、単純にさ?」
「ふぅん」
「なんでそこまでするのかなって」
ロイが苦笑する。キャラメルを口の中でもごもごとさせながら、彼はエドの腹に抱きついた。
「……私の態度でわからないか?」
答えるのが恥ずかしい。しかも沈黙が落ちるのも恥ずかしい気がする。
エドはそそくさとキャラメルを飲み込み、別の菓子へ手を伸ばした。コウ婦人のとっておきだというチョコパウンドケーキの包みを取り上げたなら、「こぼさないでくれよ」とロイは笑った。
「屑まみれが嫌なら膝からどけよ」
恥ずかしくてつっけんどんに言うのだが、
「それはできない、ここはとても気持ちがいいんだ」
「オレは重いんだけど」
「どうにも苦痛になったら振り落としてくれ」
結局好きにさせるしかないのだ。
エドはケーキを口に入れながら、ロッシュから仕入れた情報を思い返した。ロイと話しているとすぐに話題が逸れてしまっていけない。
「……そう言えば、火薬を買い集めてるって」
「なぜ君がそんなことを? ロッシュか?」
「誰に聞いてもいいだろ。もしかしてそれもオレに関係するのか?」
「関係すると言えばしているような」
「うん?」
「していないような」
「はっきり言えよ」
ロイは仰向けになると、多少言葉を選ぶようにしながら説明した。
「私の拝領した土地の中には、エルホルツだけでなく一山越えた集落も入っていてね。これらを一度に統治しようとすると、どうしても人手を割かねばならないし、不便で仕方ないんだ。だから……まだ本当に計画段階の話ではあるんだが、山を削って集落をつなごうと思っている」
予想もしていなかった話で真剣に驚かされた。
「道を作るってことか……?」
「うん。道だけでなく、ダムや田畑もね。エルホルツだって、山がなくなればよそとの交流も簡単になる。外から来る人間を差別する悪習もなくなるだろう」
「それ、ほんとに……?」
声は震えてしまったかもしれない。
ロイが苦笑った。
「まだ計画段階だよ。火薬は山を切り崩すのに必要だと思ったし、準備なら早いに越したこともないだろう?」
彼は決まり悪そうにしていたが、エドは実現するなら願ってもない話だと思ったし、たとえ計画だけで立ち消えたとしても、領主がそういったことを考えていると村に伝わることこそ、変革のきっかけになる気がした。
「実現するといいな」
精一杯の気持ちを込めて言うと、「頑張るよ」とロイも真摯に答えてくれる。
「でも……少し安心した」
「うん?」
「窓から脱走するし、ロッシュさんには迷惑かけてるみたいだし、実は滅茶苦茶な領主なのかと思った」
「ふむ。確かにあまり真面目ではないな」
ロイはクッキーをつまむと寝転んだまま口に入れた。一般的に真面目と呼ばれるには程遠い仕草である。
彼はどこか子供っぽい部分がある。最初はエドに合わせているのかと思ったが、会うたびに加速して年が近くなっていく印象があった。
「なぁ、大佐って何歳?」
「二十九」
「けっこう違う」
「そのようだね。だが安心してくれ、私はこれ以上年をとることはない、いずれ君との差はなくなる」
「へぇ? 三十まであと何日?」
「ないよ本当に。私の時は止まったんだ」
ロイは二枚目のクッキーを齧りながらそんなふうに言った。冗談として聞き流せば良いはずのそれは、けれども小さな棘になってエドの心をざわめかせる。
「……君はいつか私の年を追い抜く」
それきり会話は途切れた。
目を閉じてしまったロイに、エドはしばらくの間声をかけることができなかった。
06
夜更け、既に半身をベッドに横たえた状態で、ロイはロッシュから領収書の束を受け取った。どれも村中から買い集めている火薬についての領収書だ。その日その日で成果を見せるよう言いつけていたから、書類もまた日ごとに集まる。
元々村で火薬を販売している場所を除いては、今やほとんどが個人との取引になっている。文字通り、民家の一軒に至るまで調べて上げ、ありったけの火薬を買い占めているのだ。売りを渋る相手には倍の買値を提示した。村の暮らしは貧しい。領主が高額で火薬を買い取ると噂が立てば、すぐに売りは殺到する。
今やエルホルツにあるほとんどの火薬がロイの元に集まった。まさしく、全てだった。クス祭で使う、たったスプーン一掬いの火薬もないほどに。
ランプの薄い光で紙面を確認したロイは、特に感慨もなくそのまま束をロッシュへと返す。
「……まだお続けになるのですか」
ロッシュが苦い声で言った。ロイは続ける、とだけ答えてベッドに入る。
「こんな無茶な買い占め方をされて……村では口さがない者たちが不満を言い始めています。領主はクスの祭りを台無しにする気かと」
「言わせておけばいい」
「大佐、あなたは一体……」
「ロッシュ、そう言えば君に話があった」
ロイは、年若い執事が何かを言いかけるのを、冷淡な声で遮った。
「明日クヴェレの方へ行ってみてくれないか」
ロッシュが声をのんだ。クヴェレは、ロイが統治する領土内にあるもうひとつの村の名だ。現在は人を雇って管理している村である。
「私はしばらくエルホルツに落ち着こうと思っている。クヴェレに関しては、以前から君に私の代理を頼むことができればと考えていた。さいわい、こちらは人手が余っていて、私一人でも動きやすい環境にある。クヴェレに信頼する君がいてくれるのなら、今よりも円滑に二つの村を統治することが可能だろう」
白々としたロイの言い分に、ロッシュはひどく傷ついた様子だった。
「……大佐は、私がお傍に必要ないとおっしゃりたいのですか」
動揺に波打つ声を、ロイは表情だけはやわらかく苦笑って聞いた。
「まさか。先日も話しただろう? いずれ二つの村を統合する。統合後の拠点はクヴェレに置くつもりだ。計画の進みを揃えるためにも、先に君がクヴェレを整えてくれればと思っているのだ」
「それは真実ではありませんね?」
「真実? 真実と言ったのか、君は?」
「ええ。今回の火薬のことにしても──なぜわざわざ村から仕入れるのですか? 祭り間際の村人たちの不満を買ってまで、なぜ? 本来の大佐であれば、もっと波風の立たない方法を取られたでしょう。しかも火薬だなんて! 村を統合するのはまだ先です、時間は山ほどある。本当に山の爆破を行う気なら、村で作られた拙い火薬よりも、都市にある優れた業者の火薬を仕入れるはずだ。大佐の真意はどこにあるのですか。それに納得できさえすれば、私は──」
「……ああ、なるほど。都市から仕入れるという選択肢もあったな」
「大佐! お遊びになるのはやめてください!」
小さく叫んだ相手を、ロイは無表情に見返した。
「ロッシュ、命令だ、クヴェレへ行け。行かないのであれば、この城を出ろ。他への紹介状ならいくらでも書く」
ロッシュは蒼白になって棒立ちした。
ロイは、長く勤勉に働いてくれた執事の顔を見た。ちょうどロイが大火傷を負って生死をさまよった直後から仕えている執事だった。優に八年、主の性格を見極めるには充分な時間だったはずだ。
ロッシュはロイが気まぐれに執事を解雇する人間ではないことを知っている。
「ロッシュ……私はこれ以上出世するつもりも、財を持つつもりもない。私がこれまで、ある一定の地位を得ようとしてきたのは、たったひとつのものを守るためだった。それを守るために金が必要だったから金を作り、権力が必要だったから権力を得た。それだけのことだ。私はずっと後悔していたのだ、なぜあの時──自分の持てる全てでそれを守らなかったのかと。私が本当に守りたかったのは、名も知らぬ民や、名ばかりの国家ではなかった。あの時の私にも──そう考えさえできていたら守れたのだ」
「……何を、おっしゃられているのかわかりません」
「ああ。ああ、そうだろう。わかっている、ただ私は他でこんな言葉を吐くことは叶わない。君は、だから聞き流してくれ、これが私の真実だった」
ロイは執事から顔を背けると、すっかり眠りの体勢に入って言った。
「……明かりを消してくれ。クヴェレを任せる。今晩限りで私を見限るも、引き続き支えるも君の自由だ」
ロッシュが迷いながらランプを持つ。彼の足音は、いつもの数倍も遅い間隔で遠ざかった。
「……おやすみなさいませ」
生真面目な声が聞こえた。
ドアが開かれ、また閉じられる。
静寂と闇が落ちた。ロイはゆっくりと火傷を負った顔を指で撫でる。
肉は、まだ朽ちない。