01
今日が徴税の最終日。そして、今晩からはもう村祭りだ。明日までは仮装と出店で賑わい、明後日には村人全員による行列行進<クス>が行われる。
ここ数日、徴税に訪れる村人が絶えなかった城内も、今日は静かなものである。
一般的に最終日が最もせわしない納税において、逆に人が少なくなるあたり、村人たちのクスへの思い入れの強さを示している。そもそもクスとは、領主への反発心が根底にある民衆の祭りだ。そのせいか、クスに関して、現在でも領主は不参加に近かった。前夜祭には賓客として招かれるらしいが、祭りの準備は、物資調達から財政面もすべて、村人が仕切っている。
エドは、時計部屋の窓から中庭を眺め、息をつく。
庭は閑散としている。村人が数人と、それを誘導し、城内の使用人に取り次ぐ門衛が一人。夕方までには人が増えているかもしれないが、これまでのように領主との接見を待って列ができることはないに違いない。
これでいくらかロイの不満も減る。毎日あんなやつが来たこんなやつが来たと渋い顔をしていた男を思い、エドはこっそり苦笑った。
背後で紅茶を淹れていたコウ婦人が手を止めた。
「……どうかしましたか?」
「ううん。ずいぶん人が減ったと思って」
エドは単純に納税に来た村人の人数のことを言ったのだが、それを聞いた婦人は、憂いを帯びた表情を見せた。
「そうですね、少し寂しくなってしまいますね」
「寂しく……? ああ、ロッシュのことか」
ロッシュが、ロイの領土内にあるもう一方の村へ旅立ったと聞いたのは、昨日のことだった。ロイと二人で城を抜け出したことを、いつ怒られるかと構えていたエドは、拍子抜けしたものだ。
しかし婦人はこれも否定する。
「ロッシュだけではなく、多くの使用人がクスの期間を利用して、この城から離れるのです」
「えっ?」
「主は、将来クヴェレを拠点にと考えているそうです。集落自体はエルホルツの方が大きいのですが……村と村を隔てている山を崩し、道を作ったあとは、新しい城をクヴェレに築くとも言っておられました。ですから、使用人たちも、クヴェレへの移動を急がねばならないそうです。クスが行われている間なら、行商人の行き来がある。彼らに同行すれば、比較的移動も容易くすむだろうと、主はおっしゃっていましたが……」
順序としては間違っていない。ただ、エドがロイから聞いていた話では、山を崩して道を作るには少なくとも五年以上必要であるらしい。
長期間を睨んで始める計画で、いくら準備を急ぐと言っても、明日から前夜祭に入るクスに合わせて動くこともないはずだ。
「なんか急な話だな……?」
コウ婦人は、紅茶の入ったカップをソーサーごと差し出しながら、エドの言葉にうなずいた。
「エドさんにこんな話をするのもどうかと思いますが、ロッシュがいなくなった今、おそらく最も主と話をされているのはエドさんだと思うのです」
否定はしない。ロイは徴税の間ですら、暇ができればエドの顔を見に来ていた。
城の使用人たちの移動を急ぐと聞いて、エドに思い当たることは、一口に隣の村と言ってもクヴェレが遠いことだった。
村と村を隔てる山は岩肌を晒した険しい山である。これを人が越えようとすると麓を迂回しなければならず、ロイが話すところによれば、馬で移動するにも五日以上かかる道のりであるらしい。
もうすぐ冬が来る。冬支度をするのは人や季節に限ったことでもない。山には獣の類も多くいた。今年中に移動を終えてしまうつもりであれば、今が好機と言えなくもない。
「……もしかしたら、大佐は冬になる前にって思ってるのかもしれない」
「冬、ですか?」
「うん。ただの予想だけど……」
エドはエルホルツの言葉でたどたどしく説明をした。
こじつけに近い理由であったにもかかわらず、婦人はひどく安心した顔を見せた。
「そうですか……良かった」
「良かった?」
「使用人の間でも戸惑っている者が多かったのです」
それを聞いて更に変な話だと思った。
エドは数日分のロイしか知らないが、弁が立つ上に人の心に聡い男だとは感じている。
もしも彼が使用人たちの不安を知っていて放置しているのであれば、むしろ情報を隠しておくことが彼の意図なのかもしれない。
「それはともかく」
婦人の言葉で引き戻された。
「動く時計が増えましたね」
話の矛先が逸れてほっとする。
「頑張ってるしね」
「ええ。この分だと、来年の春くらいには、全部の時計が動いているかもしれませんね?」
「どうだろ」
部品から作るものがあるなら別の職人の手も借りなければならないことを説明すると、婦人は意外そうにしていた。
「エドさんには直せない時計はないのかと思っていました」
真剣に言われてくすぐったい気分になる。
「そんなことないよ。オレ、ちゃんとした時計の修理って、誰にも教わってないし」
コウ婦人は目を丸くして驚いた。
「教わっていなくて修理ができるのですか?」
難しい質問だった。エドは言葉をつなぎつなぎ、時計を手に持つと中の構造がわかることを説明した。自分では、記憶を失う以前は、時計に関係する仕事をしていたと思っているとも付け足す。
「まぁ……それで」
彼女は何やら妙に納得したようだ。
「実は私の懐中時計を見てもらったのは、エドさんで四人目だったのです。誰に見せても原因がわからないと言っていたのに、エドさんはまるで魔法のように簡単に直してしまった」
「魔法は大げさだ」
「いいえ。手に持っただけで修理する箇所がわかるなんて、凄いことです」
最初からそうだったので自分では感動が薄かったのだが、コウ婦人に言われると本当に珍しいことの気もしてきた。
「もしかすると、昔のエドさんは時計を作る人だったのかもしれませんね?」
「そうだね……」
自分の両手を眺めた。隣ではコウ婦人も興味津々に覗いている。毎日工具を握っているのでマメができている部分もあるが、どこから見ても普通の子供の手だった。
しかし──と、エドは思い出す。
そう言えば、ロイがエドを迎えに来た日、彼はこの両手を見て不思議な感想を言っていた。
両手がある、と。
まるで両手が揃っていることが特別に聞こえたから、良く覚えている。
ロイはすぐに誤魔化したが、人の手を見て一番に言う感想にしては突飛だし、今考えてみるとなかなかに意味深でもある。
彼は、エドの原因不明の右肩の痛みにも心当たりがあるようだった。だとしたら、時計を持てば構造が見えることについても何か知っているかもしれない。
尋ねれば教えてくれるだろうか。
エドは己の両手を眺めながら新たな疑問に唸った。
02
疑問はなかなかエドの頭から離れなかった。
工具を持つ己の指から奇妙に見えて、時計の裏蓋を外し機械部分を剥き出しの状態にしても、作業が捗らない。
エドは胡坐をかいたまま、改めてしげしげと両手を見つめた。指を伸ばしたり折ったり、握りこぶしを作ってみたり。どの動作も当たり前のことなのに、奇妙と感じるのはなぜなのか。
奇妙と言えば、エドは利き手の区別がない。右も左も同じくらい器用に動くのだ。もちろん両手が使えること自体に文句はないが、あまり普通ではないと思う。
自分は過去に両利きになるための努力を積んだのか。
「……何のために?」
鐘つき堂にいる時は、その日生き抜くことに精一杯で余分なことを考える暇などなかった。だが城に来て以来、心底困窮することがなくなったせいか、それまで思いもよらなかった悩みに苛まれている。
恐らくロイが傍にいることに端を発しているとは思うのだ。彼は過去のエドを知っている。全てを打ち明けるのは仕事の報酬だと言いながら、エドが過去に触れることを禁じるでもない。
おかげで、こちらは日々新しい手がかりを得て迷うことになる。
「……大佐のバカヤロー」
八つ当たりだとは知りながら呟いた。壁を埋め尽くす大小無数の時計たちが、無言のうちに主への悪口を咎めるようだった。
でも、どう考えてもロイなのだ。話さないと言いながら、前も君はそんなことをしただの、同じことを言っただの、中途半端に情報を晒すロイが悪い。
「大体、オレに思い出してほしいのか思い出してほしくないのかはっきりしろってんだ。自分ばっかりわかってる感じだもんなぁ……コウ婦人だってロッシュさんだって大佐に振り回されてさ、オレだって──」
振り回されていると思う。
エドは修理途中の時計を放り出し、両腕を組んで考え込む。
──君を、少しでもしあわせにしたいんだ。
あれが一番反則だった。あんなことを本気で言われたら、過去の自分にとって彼がどんな存在であったのか知りたいと思わずにはいられなかった。
彼が敬意と親しみを込めて「鋼の」と呼ぶ自分。
どこかが鋼のように硬かったのだろうか、エドはぼんやりと思い浮かべる。
一方的に守られるばかりではく、何かに立ち向かったり戦ったり、人が寄りかかっても折れないほどに強靭なもの。鋼。ロイも寄りかかっていただろうか。
……今でも寄りかかってくれて構わないのに。
「……あれ? 寄りかかる?」
考えの脱線に、ふと正気に戻った。
「何考えてんだ、バカ!」
叫んで両手で頬を叩いた。痛かったが、どうせ赤くなるなら痛みで赤くなった方が恥ずかしくない。
「時計の修理、修理だろ!」
音がないのが嫌で空騒ぎする。放り出していた時計を掴み、工具を手繰り寄せる。と、手に取るつもりが指に引っかかって、逆に投げ出してしまった。
工具を追ったエドの目に、隅に追いやられていた大時計が映った。
「……そう言えば、この時計」
ロイが「頼むまでそのままにしておいてくれ」と言っていた時計だ。修理はいらないとも言われたが、やはり針は止まっているし、外から見ただけでは壊れているか壊れていないかもわからない。
何となくにじり寄る。
それは木製の振り子時計だ。天井から床板までぎっちりと壁に詰まった箱型で、てっぺんの文字盤はガラス戸で覆われている。
最近では、大型の時計と言えば時刻表示部分に様々なカラクリが施されることも少なくはなかったが、この時計は、極シンプルに十二までの数字が円形に並んでいる。胴体部分にも取り立てて装飾はなく、かろうじて振り子の動きが見えるよう質素な飾り扉が付いていた。
裾は安定が良いように末広がりの形をしている。
大きさはだけは立派な時計だ。しかし、城のコレクションルームにあるにしては華美さが足りない。どちらかと言えば貧相な時計に見える。
地味に見えて、実は名匠の作だったりするのだろうか。
エドは時計と向き合い、上から下までを検分した。
そうして気が付いた。振り子を見せるはずの扉の鍵穴が、粘土で塞がれているではないか。これでは内側を見ることができない。
ますます奇怪に思えたのだ。
エドは自然とその鍵穴に手を伸ばしていた。
指先が時計に届く──
ぎゅぅぅん、と、唐突に唸りを上げて収縮する何か。
三角や四角の幾何学模様、数式、化学式、文字とマーク、巨大な円陣、意味があるのかないのかもわからない、赤、白、黒。生き物さながらに、円周上から中心点へと渦巻くエネルギー。掴み挙げる、誰かの──
炎と火蜥蜴の紋章を持つ、白い手が。
「……っ!」
エドは慌てて手を引いた。
今脳を過ぎった情報は何だったのか。
数式は見覚えがある気がした。幾何学模様や文字も、見えた瞬間は、それらが持つ意味を知っている気がした。
エドは記憶に追い立てられるように辺りを見回す。工具の袋に飛びつき、中のものをばら撒く。
探していたのは白墨だ。
そこが城であることも思い出せない。分厚い絨毯を捲り上げ、現れた石組みの床に、思いつく数式を夢中で書きつづる。
「構成元素が……これで……分解、それから……」
化学式を書き、順序良く論理を組み立てていく。
全ての構築式を書き終えたエドは、そこで初めて、自分の手が、円と、それに重なる六芒星を描いていていることを知った。
心臓が高鳴る。
裏蓋を外したままになっていた時計を、円の中心に据える。ネジ一本を残し、他の部品全部を一緒に添えた。
この時計は、錆で歯車が上手く動かなくなっていた時計である。普通なら、細かく部品をばらして洗浄し、錆を取り、再び油を差して組み立てるという作業を経なければ正常に動かない。
けれども。
緊張を押し込めて息を吐く。エドは恐る恐る、最後の部品であるネジを、機械の小山の上に落とした。
光が飛び散った。円陣が脈動する。
一瞬ののち、バラバラになっていた時計は、新品同然の姿でそこに存在していた。
「……なんだ、これ」
エドはふらりと立ち上がる。
足が逃げ場を探していた。床に書いた円陣が、今にも獰猛な獣になって飛び掛ってくるかに思えた。
ひどくいけないことをしてしまった気がした。
エドはたまらず時計部屋から飛び出した。
03
どこをどう走ったものか。暗い通路に突き当たり、やっと周囲を見ることを思い出す。
えらく飾り気のない通路だった。床にはビロウドも敷かれておらず、落ち葉が積もっている場所まである。見れば窓には戸板もない。外は林で、地面も近く、どうやら別棟への渡り廊下か何からしい。
彼方には、これまた無愛想な鉄製の扉が見えた。
人々に「首刈城」の名で知られたこの城は、歴代領主の手で何度も増改築が行われたため、階や棟によって人に与える印象が一変する。
特に通路は改装がまばらだ。似た窓や扉、調度品などに惑わされて方向感覚が狂う。時計部屋と自分に割り当てられた部屋との往復しかしないエドですら、何度となく迷って使用人たちに助けられた。
また迷ったな、ぼんやりそんなことを思う。
思いながら、別の部分ではほっとしてもいた。帰り道など覚えていない、どんなに時計部屋から遠ざかろうと、道がわからないのだから仕方がないのだ。
エドはとぼとぼと歩き続け、ついに最奥の扉に突き当たる。
扉には簡単な掛け金があるだけで、向こう側への進入を禁じているふうには見えなかった。
ふと、例の大時計の鍵穴が頭に浮かんだ。
あれこそ開けるなと言わんばかりだった。
触って情報が流れ込んできたということは、時計の中にあれらの術式を使った仕掛けが施されているということにもなるが──
ロイは、知っているのだろうか。
あの時計だけはそのままにしておいてくれと言っていた。数式に化学式、最後には白い手までもが見えた。まさか人が入っているわけでもあるまいが、確かに人一人くらいなら入れる大きさではあった。
肩がわななく。
「……考えるな」
怯える自分が鬱陶しかった。
エドは苛立ちまぎれに、常ならば掛け金を取ってまで進もうとはしなかったであろう扉を、両手を突っ張って押し開いた。
ぎぃと軋む音。
まず見えたのは地面の芝生だ。
外なのか、と、顔を上げるや否や、思ってもいなかった場所に足が竦んだ。
中庭だったのだ。
時計部屋から見下ろしていた場所だ、納税のために村人が列をなしている。数日前に比べれば、たむろする人数は減っていたが、とにかく間近に村人がいる。
すぐに彼らもエドに気付いた。
驚きに声を上げる者、さっと顔色を変える者、別の者の肩を叩いて気付かせる者、反応は様々だ。しかし、どの男たちの顔にも、蔑みに捻じ曲がった意思は見てとれる。
立ち竦んでいる場合ではない。エドは扉の内へ逃げ込もうとしたが、判断は一瞬だけ遅かった。
「お前、ここで何をしている?」
一番近くにいた老人がエドの手を取った。振り払ってもまた別の手が襟首を掴む。
「……何だ、この服は? なぜきさまなんかがこんな上等なシャツを?」
あっと言う間に抑えられた。
髪を引っ張られ、背を小突かれる。大人の男たちに囲まれれば、エドは無力な子供でしかなかった。
しかも、その囲いに色白で太った男が割って入る。相手の顔を目に入れたエドは、ひゅっと喉を震わせた。
「小僧……!」
ペジョーレである。村で時計屋を営み、路上で時計の修理をしていたエドを、目の仇にしていた男である。
丸太のような腕がエドを突いた。
時計屋は最初から喧嘩腰だった。
「お前、どうしてここにいる? まさか領主さまに取り入ったんじゃないだろうな?」
「ちが……っ!」
胸を押された衝撃で咳き込みながら叫んだ。
コウ婦人との会話でいくらか慣れたはずのエルホルツの言葉は、しかしペジョーレの顔を見ると、やはり上手く口にできない。
「クソ……っ、放せ!」
服を掴む手はどこからともなく伸びてくる。
このままではペジョーレの好きになぶられるだけだ。エドはどうにか囲いを抜けようともがいた。無理に引っ張られシャツのボタンが飛ぶ。髪の三編みが解ける。
「放せ!」
真剣に揉みくちゃにされそうになった頃、やっと門衛が騒ぎを聞きつけて駆けつけた。
「エドさま!」
名を様付けで呼んだ門衛に悪気はなかったのだろうが、村の男たちの間に広まった憤りは、先までの比ではなかった。
「……小僧、きさま」
ペジョーレが憎々しげにうめく。
「そうか……きさまか! 道理でおかしいと思っていた、何度来ても税が合わないと言われる、あれはお前が領主さまをそそのかしたんだろう!」
何を言われているのかわからなかったのだ。
門衛が、今にも殴りかからんばかりに腕を伸ばす男からエドを遠ざける。必死の体で鉄の扉の内側へ押され、鍵をかけて離れるよう指示された。
エドは自分で動くこともできないまま、激しい憎しみに染まったペジョーレの瞳を見た。
「覚えていろ、いつかきさまを……!」
殺してやる、と、聞こえた気がした。
04
門衛には離れろと言われたが、エドはずいぶん長い間その場にたたずんでいた。鍵をかけることすらできず、陽が落ち足元を翳らせる頃になって初めて、固まった身体を引きずり扉から離れる。
もう夕方だった。
肌寒さを感じてシャツの前袷を掻き寄せた。髪をまとめていたゴムはどこかへ行ってしまった。視界を塞ぐ金髪を耳にかけたが、かけた傍から落ちてきて、何だか急にたまらなくなる。
何度も思うのだ。
エルホルツに来て、よそ者だからと蔑まれるようになってから、何度も。
「オレ、なんか悪いことしたか……?」
答えが返ってきたことはない。
エドは彼らに自分から暴力をふるったことはなく、どんなに食料に困っても盗みを働いたりはしなかった。確かにペジョーレにしてみれば商売敵ではあっただろうが、村の人間はよほどのことがなければエドに近寄らない。エドの客は一日に一人がせいぜいで、決してペジョーレの客を横から浚うなどといった状況ではなかった。
「何にも悪くないだろ……?」
喉がひくと震える。瞼が熱を溜める。
泣きたくない、エドはぐっと眉間に力を入れて息を止めた。
今日は不思議なことがあって、自分を疑うようなこともあったから、心が弱っているのだと思う──いつもであればこんなことなど気にしなかった、ペジョーレの捨て台詞も鼻で笑って終わりだ、ずっとそうしてきたのだから、今日もそうできるはずなのだ──エドは自分に言い聞かせる。
「大丈夫……間違ってやしない」
戸板のない窓の向こうの空が歪んで見えた。赤い夕陽はぐちゃぐちゃに潰れたトマトのようで、ひどく惨めな気分にさせられたが、どうにかこれもやりすごす。
エドは重い身体を石壁に預け座り込む。
もうすぐ夕食の時間だった。姿が見えなければ、ロイやコウ婦人が心配するかもしれないが、せめて普通の顔ができるまでじっとしていようと思った。
ところが、気を抜いて顔をうつむかせた時である。
「──確かに、迷った時はその場から動くなと言うが」
ロイの声だった。それに耳慣れた言語。どちらも無条件でエドを肯定するもの。
「せめて人通りのある場所で立ち止まってくれないか。おかげで私は城中の人間に声をかけた」
「……探してくれなんて言ってないぞ」
「そうだろうとも。私が傍にいたいと思う時、君は大抵一人になりたがる」
「一人でいたいからだ」
「私はそんなに我慢強い方じゃない」
「……何の話だ?」
「君を一人で放っておくかという話だ。忘れてもらっては困る、私は君の傍にいたくてエルホルツの領主になった男だよ」
エドは顔を上げられなくなった。
未だ瞼に溜まっているものが、じわりと嵩を増すのがわかった。
ロイほど弱っている時に傍に寄られるには不適当な相手もいない。弁は立つし、沈黙の使いどころも心得ている、程々に強引で、自分が動くことを厭わない。
目の前に彼の靴先が見える。
彼はエドの垂れ下がった髪を一掬いした。
「……下ろしているのも目新しいな、でも」
うなじに柔らかな生地が触れた。されるがままに動かずにいると、耳の下でゆるく束ねられ結ばれる。
「顔を隠すのは君らしくない」
唐突に腹が立った。この男がエドの何を知っていると言うのだ。
振り仰いで睨みつける。夕焼け色に染まったロイは、その時、ぎこちない表情で唇を歪めて笑った。
エドは、だから気付いてしまう。
わざと気に障る言い方を彼は選んだ?
「……そろそろ夕食の時間だ、立てるかい?」
ロイは言う。一人では動けなかったエドに知らぬふりで、まるで気障ったらしい言葉の延長のように手を差し出す。
その手は、払わせるための手だ。彼は、何かに反発することで自分を保つエドを知っている。
「……大佐」
胸に満ちてくるものがある。
彼の手を払うのが嫌だった。たくさんのやさしさが、そこには詰まっているのだ。けれど、エドの心は支えられることを善しとはしない。
「たいさ」
苦しくて名を呼んだ。声は震えた。
ロイがふと息を飲むのがわかった。
ロイはもう待たなかった。両腕を伸ばして、本当に身動きできなくなっていたエドを抱き寄せた。
身体は硬直したままどうにもならない。力を取り戻せば彼を押し退けなければならず、けれどもエドは今それをしたくなかったのだ。
「どう、しよう……オレ……」
「鋼の」
「どう、したら……?」
「鋼の……鋼の、大丈夫だ、落ち着いて」
鋼の。そう呼ばれていたエドなら、彼の手を振りほどいて立ち上がることができたのか。まるで大切に懐にしまわれるようなこの空間を、捨てることができたのか。
ロイは会話の成り立たぬ状態のエドにも、根気強く付き合った。そうして、こちらが落ち着き始めた頃を見計らい、ひそめた声を耳に落とした。
「……騒ぎのことを、聞いた」
エドはぎくりとする。身体も揺れてしまったのかもしれない、ロイの腕は更にしっかりとエドの背を支え、大きな手のひらは宥めるように何度も後ろ頭を撫でる。
「ペジョーレが君に掴みかかったことも聞いた。もしも、私がしたことでペジョーレが君を逆恨みし、乱暴したのだとしたら──私は君に謝らなければならない。けれども、どうか君自身には欠片も非がないことだけは知っていてくれ。そしてペジョーレのような男のことは、記憶から締め出してしまってくれ──あの男は不正な方法で顧客を騙していた。その調査をするために、私は納税を長引かせ、今日まで時間を稼いでいたんだ」
ロイの話はこうだった。
ペジョーレは、時計のことならば、修理も製造も販売も行うという、万能な時計屋を営んでいたが、店舗で売られていた時計の全てに、製作過程で故意に欠陥を作り、それを購入した客が、再び修理依頼をするよう仕向けていた。要するに、新しい時計を購入した客は、時計の代金と共に、一回分の修理代を必ずせしめられていたということである。
ロイ自身は、最初はエドを虐げていた男が憎くて書類のチェックを厳しくしたらしい。すると思わぬ場所から綻びが出た。少し調査すれば綻びは更に大きくなった、単純な話だった。
「ペジョーレには、戸籍を十年間剥奪する罰を下した。これから十年の間、あの男がエルホルツに一歩でも足を踏み入れたなら、斬首刑が決定する」
さすがにぼんやりと聞いていられる話ではなくなっていた。エドは顔をこわばらせてロイを見た。ロイも気まずい様子で目を逸らす。
「……私は、まだエルホルツに来たばかりで、法令の類を一切変更していなかったんだ、だから」
その答えを聞いて、前領主が首刈貴族と呼ばれるほど残忍な領主だったことを思い出した。
「即刻斬首刑という方法もあったんだが……それは君が嫌だろうと思って」
「当たり前だろ! そんな……そりゃ人を騙して稼いでたことも悪いし、オレもあんなヤツ大嫌いだけど、でも!」
ロイは苦笑った。
「そうだね。だが私はそうしても良いと思ったよ」
何の気負いもなく言われた言葉に、エドは再び身体を固くした。
「あの男を調査していくうちに、君にどれほどつらく当たっていたのかも聞こえてきた。君は私にはずいぶん控え目に話したのだな。初対面のその時から人を殴りたいと思ったことは初めてだったが、会うたびに殺したいと思ったことも初めてだった」
本気とも冗談とも判断できない。しかしロイは至って静かにそれを言う。
「この城には断頭台もある。処分しようと思っていたんだが、これでもう十年は必要になった」
本気、だろうか。
「大佐……?」
「うん? どうかしたかい?」
ロイは相変わらずエドの頭をやさしく撫でた。
「……だいぶ落ち着いたか。そろそろ日も暮れる、中に帰ろう」
穏やかに微笑む彼は、間違っても誰かを殺したいと平然と言う人間には見えなかった。
きっと、さっきの言葉もエドの落ち込みを気遣ってのものだったのだ。エドが弱い表情を見せていたせいで、余計に心配させたのだろう。
ロイはエドを抱き起こし、壊れ物のようにそっと立たせ、それから背を折って視線を合わせた。
「ここからの帰り道はわかるかい?」
「……全然」
「そう。良かった」
手をつなぐ理由ができたと笑う彼。早速指を取って、本当に嬉しそうにエドを先導する。
「さっき……君はつらかったのかもしれないが、私は少し嬉しかったよ」
夕陽に照らされた彼の横顔は綺麗だった。
「君は何でも一人で解決してしまう。たまには頼ってくれればいいと、ずっと思っていた。私のことは顎で使ってくれてもかまわないんだ、君が笑ってくれるならそれ以上望むこともない。つらかったら呼んでくれればいいし、腹が立ったら八つ当たりしてくれればいい、困ったらどうにかしろとねだってくれ。きっと私は嬉しくて仕方がない」
「……そんなの変だよ」
「そうかな、でもいいじゃないか」
ロイは目を細めて二人の繋がった手を見下ろした。
「私はずっと君を守りたかった」
言葉は反応に困るようなものばかりだ。エドはひねくれてそっぽを向く。
「あんたが守りたいのは鋼のだろ? オレじゃない」
「鋼のは君だよ」
「何も覚えてないオレは鋼のじゃない」
「君だよ」
ロイはいたく幸福そうに笑った。
「私が呼ぶのは、君の名だけだ」
それでも自分に自信が持てないことはどうしようもない。
エドはそれ以上の言葉をのんだ。時計を触れば中の構造が見えることや、放っておけと言われた時計を触ったこと、そしてそこで見たもの、自分がなしたこと、どれも一言も話せなかった。
ロイがかすかな敬意を込めて「鋼の」と呼ぶ者は、きっとその名に恥じないほど強く優れていたのだ。そうでなければ、彼ほど頭の良い男が、盲目的に今のエドを肯定してくれるわけがない。
鋼の名を持つ過去に嫉妬した。
エドは、ロイを幻滅させるのが怖かった。
05
月夜、星明かりも届かぬ林の中である。
カンテラの灯火を目印に、靴を引きずるように歩く足音が聞こえてくる。
時間通りだった。ロイは光を掲げて相手を確認した。
油で汚れた服を着た老人は、まぶしげにしながらも、卑屈な愛想笑いを浮かべて見せる。ロイは何も言わずに金貨の入った麻袋を差し出した。
「あ、あ、あ……ありがと、ございます」
老人は言葉がおぼつかなかった。
生まれつきの障害らしい。ペジョーレの工房では、散々笑いものにされ、いじめを受けたと話していた。
「……約束は覚えているか」
ロイは最低限の言葉で言った。
「今夜のうちに用意した馬でエルホルツを発て。そして二度と戻っては来るな」
「は、は、は……はい、わか、わか、わかっ、おります」
麻袋を懐にしまい、老人は深々と頭を下げた。
「で、で、で……では、こ、こ、これ、で」
「ああ」
不恰好に歩いていく後姿が闇に消える。
老人は、ペジョーレの時計屋で下働きをしていた男だった。製造の全工程が流れ作業で終わったあと、時計の裏蓋を閉ざす、最後の仕上げを行っていた人物だ。
この一週間、工房で作られた時計の全てに、衣服の繊維が混入された。精密な機械は、一ミリにも満たないひとひらの繊毛で簡単に故障する。
繊維を入れたのは、時計屋の主に恨みを持つ、下働きの老人だった。
その命令を下したのは――
「……明日はクス前夜祭、か」
ロイは呟き、ひそと笑った。
たった一秒。
その一秒が積み重なって、いつの間にやら八年近くも経っている。この世界がどんなふうに時を刻んでいるのか、ロイにもわからない。少なくともエドとロイの一秒の長さは違っている。
エドを探したロイにとっての八年は、エドの中ではエルホルツで過ごした二年である。そして、八年も二年も、全て一秒の間に起こるうたかただ。
止まったままの時間などない。あと一週間持つだろうか、それとも三日か、一日か。
火傷の痕がうずく。
ロイは布の上から左頬の感触を確かめる。引きつれた肉はやわらかく、未だ生きた人間の瑞々しさを留めているようだった。
まだ──腐り出してはいない。一秒は続いている。
迷いはなかった。
終わりは始まりを喚起する。ロイが手に入れるものが終わりであれば、エドに残るのは始まりになるはずだった。
同時刻、エドは、月明かりを頼りに時計部屋へと忍び込んでいた。
日中、作業を行っていた付近を手探りし、先端が尖った工具を取り上げる。
そうして向かったのは、例の大時計の前である。
どうしても気になって眠れなかったのだ。鍵穴に詰められた粘土を取り除けば、鍵がなくても戸板が開くかもしれないと思いついて、居ても立ってもいられなくなった。
この時計には秘密がある。その秘密は、エドの過去に関するものに違いない。
少しでも良い、過去の自分を取り戻したかった。過去と現在の自分が繋がっていることを確認したかった。
ロイが好きだと言う「鋼の」が、自分であると信じたかった。
エドは慎重に作業した。幸いなことに、大時計はちょうど月明かりに照らされる位置にある。
鍵穴から粘土を掻き出した。しかし錠の構造は単純なものではなかったようで、工具で探った程度では戸板は開く気配を見せなかった。
「やっぱり無理かな……」
駄目でもともと。鍵穴に目を近づけてみる。
何かが見えるわけはない。しかし、諦める間際、目を掠めるようなものがあった気がした。エドはますます顔を近づけ、中を覗く。
小指の先にも満たない隙間である。
目を凝らす。中は暗い。暗かったが、次第にぼんやりと浮かび上がるものがあるのがわかった。
部屋だ。
革張りのソファーがあり、どっしりとした執務机があり、分厚い本が並ぶ本棚が見える。
壁には軍旗がかかっていた。
見覚えのある図柄だった。頭は獅子だが、その前脚には水掻きがあり、尾も魚のものである。
どこで見たのかと考えて、己の持ち物にあった銀時計を思い出す。では、ここはエドの縁の場所なのか。
どこだ……、エドは知らず呟いていた。
と──
「誰だ」
声が。時計の中の部屋から。
「そこに誰かいるだろう?」
全く聞き覚えのない声だった。エドは泡を食って身を離した。
そうして現実に立ち返る。
目の前には大時計。
時計は確かに大きかったが、いくら何でも中に部屋があるわけはない。と言うか、エドが見たものは、ほとんど時計の中に広がる別世界だった。空間があって、時の流れがある、どこか別の次元である。
エドは再び鍵穴を覗く。
中は真っ暗だ。
「……夢だった……?」
そうとしか思えない。
奇妙な現象は、触るなと言われたものに触った報いか。
考えれば考えるほど混乱し、エドはすぐさま時計部屋をあとにした。
* *
「誰だ」
長く押し黙っていた相手が言葉と共に殺気を迸らせる。
自分に向けられたものと錯覚したマルコーは震え上がった。しかし男の目は全く別の場所を向いている。
「誰かそこにいるだろう」
まさか侵入者か。マルコーは更に怯えて身を縮める。男の容赦のなさは知っていた。本当に侵入者であれば、間違いなく一瞬で捕らえてしまうだろう。惨劇を予期して冷や汗が出る。目を開けていられず、ただただ事が早く過ぎ去ることを祈った。
ところがいつまで待っても誰も動く気配はない。
「……錯覚か?」
結局そんなふうに言ったのは、殺気を迸らせた本人だった。
恐る恐る顔を上げれば、男はやはり突拍子のない場所を向いている。マルコーは彼の視線を追った。そこにあるのは窓と壁である。壁には時計がかかっていたが、それだけだ。間違っても人が隠れる場所はない。
彼は笑った。
「あの気配は知っている……だが、まさかな。あの子供はアメストリスから脱出したと聞いた」
マルコーは良くわからないままに相手を観察した。
キング・ブラッドレイ。
この国の最高権力者であり、独裁者であり、憤怒の名を持つ人造人間。軍部で監禁されてずいぶん経つが、彼一人と面会するのは今晩が初めてのことだった。しかも手枷も足枷もない状態で牢獄から出され、執務室に招かれている。
いくら束縛するものがなかろうと、彼を前にして脱走を計るほどマルコーも無謀ではない。ただ目的の知れぬ面会だとは感じていた。こちらから話しかける決心もつかず、沈黙に甘んじていたのだが、そろそろ声を発するべきなのかもしれぬ──
「……私に何の用だ」
ブラッドレイが視線を戻した。
膝が震えそうになるのを耐える。覚悟ならとうにできている。あとは、何のために命をかけるか、マルコーにとって重要なのはそれだけだ。
だが、ブラッドレイは茫洋とした様子を崩さなかった。
「さて……何の用だろう。何の用があるのか、私にも見当がつかんのだ」
「ど……どういう意味だ?」
「わからん。お前はどう思う?」
マルコーは戸惑った。ブラッドレイは笑みすら浮かべてそれを言った。
「……お前の目には、私はどう見える?」
マルコーには答えられなかった。相手が何を問いたいのかわからなかったのだ。
そのまま沈黙が続くと、ブラッドレイは薄く笑って「まあ良い」と一人ごちた。
「問う相手なら他にもいる。お前にわからないのであれば他に問うしなかろう」
マルコーに背を向け、窓際に立ち、男は言う。
「今晩お前を別の研究所へ移す。移動は車だ、部下二名をつける。しかし、その車は、途中で戦闘に巻き込まれる。お前は別の部隊に保護されるだろう」
「な……?」
耳を疑うマルコーにかまわず、ブラッドレイは抑揚のない声で続けた。
「お前のなすべきことをなせ、ドクター」
背を向けた男が、懐から小さな瓶を取り出し月光に掲げる。中に入った液体が赤く輝いたことに、マルコーはただただ驚きに目を瞠った。
賢者の石。
男が話しているのは──まぎれもなく──マルコーの、脱走の手はずに違いなかった。