01
翌日の時計部屋は荒れ放題だった。修理途中の時計は放置され、工具は投げ出され、絨毯は引き外され。床に見境なく書き綴った白墨による数式も、朝陽に照り出されて目に痛い。
エドは、コウ婦人に床用ブラシを借り、部屋の掃除から始めた。白墨のあとはなかなか消えずに苦労した。それでもどうにか済ませ、一息つけば、今度は仕事をする気が起こらない。
ただし、例の大時計は無視できず、何をせずとも時計の前には立ってみた。近づいて遠ざかって、少し突いてみたりもして。
何度行ったり来たりを繰り返した頃だったか。
突然扉がノックされ、エドは飛び上がる。
コウ婦人が昼食を届けに来るまでには時間があった。一体誰が、と動揺を抑えつつ返事をしたら、入ってきたのはロイだった。
しかも、彼はいつもの軍装ではなく、黒衣の騎士装束で身を固めている。
「その格好……?」
「似合っているだろう?」
ロイは、指差して驚くエドに悪い顔も見せず、足首まで届く優美なマントを片手で広げた。
黒い布地に金糸で刺繍を施した上着は、形はシンプルなものの、確かにロイに似合っていた。
「どっかで仮装パーティーでもするのか?」
「今晩はクスの前夜祭だろう?」
「あー……そっか、大佐も参加するんだ?」
「招待を受けているからね。軍服だとすぐにばれるだろうし、少々変装してみた」
変装しても、彼ほど身なりが良ければ、すぐに気付かれるだろうに。
指摘にもロイは楽しげにするだけだ。
「祭りだからね」
目立つことが嫌いではないらしい。
「それにせっかく同伴できる相手がいるんだ、着飾ってみるのも悪くない」
「誰かと一緒に行くのか?」
「そうだよ。見ての通り、私の準備は済んだ。君も早く済ませてくれ」
はぁ?、と、エドは本当に間の抜けた声しか出せなかった。
「ま──待てよ、クスっていうのはエルホルツの人間しか出ちゃいけない祭りで、オレは」
「私も外から来た人間だが?」
「大佐は領主! オレは──」
「私に雇われた時計職人」
わざわざ「雇われた」という言葉に重点を置いた発音の仕方を、彼はした。
エドは嫌な予感に顔を引きつらせた。
ロイはにっこりと微笑む。
「雇い主として、私は最高の条件を君に提示しているはずだと思うが、違ったかな?」
確かに待遇に文句はない。
「だろう? だったら少しくらい私の我侭に付き合ってくれるのも、仕事の一端だと思わないか?」
「でも、クスは……村の行事で……」
顔は仮面で隠せば良いが、万一よそ者が歩いているとわかった時が恐ろしい。
クス前夜祭は羽目を外す輩が多く、酔っ払いが道に溢れていて物騒なのだ。去年などは、一歩も外に出ず、ガルボと二人で鐘つき堂の中でじっと息を殺していた。ましてや昨日の今日である。エドが城にいると知った村人たちは、何を思っているだろう。
そうでなくとも障害は尽きない。祭りには火薬玉が使われる、爆竹も盛大に鳴り響く。
「ムリだ、絶対ムリ!」
エドが言い張ると、ロイはつまらなさそうに溜め息をついた。そして、簡単に言うのである。
「仕方ない、私もやめよう」
「へ? いや……大佐は呼ばれてるんだろ?」
「君は行かないんだろう?」
「だからオレは──」
「君が行かないなら私も行かない」
あんた領主だろう!、という突っ込みにもロイは知らん顔だった。早速マントを脱ごうとするので、エドは必死で言い募る。
「あんたは仕事、いいから行ってこい!」
「嫌だ。君が城にいるなら私も城にいる」
「常識で考えろってば! オレはよそ者で、祭りには参加できなくて!」
「悪習だな。私が領主になったからには、来年は必ず改正させよう」
ロイは真面目に批判した。うっかり流されそうになるが、今の論点はそこじゃない。
「村が変わるのは嬉しいけど、とにかく今年はムリだから! 昨日の諍いも聞いたんだろ? 今オレが顔出せばどんな騒ぎになるかわかんねぇし、それに火薬玉とか爆竹だって!」
「ああ、火薬については心配いらない」
「ええっ?」
「村の火薬は私が全て買い占めた」
そう言えばそんな話を以前に聞いた。しかし祭りであるのだ、爆竹の一つや二つくらいは──
「全てだ」
ロイはエドの反論を一切受け付けなかった。つまり彼は自信があるのだ。祭りのために売買を渋ったであろう村人から、ありったけの火薬を巻き上げた自信が。
エドは呆れた。
「……あんた、嫌われただろう?」
「なぜ?」
「だって祭りだぞ? みんな凄く楽しみにして、毎晩火薬玉鳴らす決まりごとまで作ってたのに」
言いながら、嫌な予感がした。祭り当日分の火薬がないということは、もしやそれまでの夜毎の火薬玉すら奪ったのだろうか。
夜毎聞こえるはずの音がないから、不思議には思っていたのだ。城と村には距離があるし、城の壁は分厚いしで、てっきり諸々の外的要因で音が遮られているのかと思い込んでいたが。
「……大佐」
「うん?」
「まさかと思うけど、火薬を買い占めたことって、オレの肩と関係あるか?」
ロイは人の悪い顔で笑った。
「一石二鳥だろう?」
エドは脱力した。道理でロッシュがエドに良い顔をしなかったわけだ。そんな理由で村人と摩擦を作っていたら、今に手痛いしっぺ返しを食らうに違いない。
「あのさ、あんたさ……」
「そんなことよりも、私は返事をずっと待っているんだが」
「返事?」
「前夜祭。一緒に来てくれるだろう?」
「まだ言うか」
「だって何にも問題ないじゃないか。村には火薬はないし、君は仮面で顔を隠せるし、隠せなくとも私と一緒なら文句は出ない。それとも、君には、私が君を守れないような間抜けに見えるか?」
何だかどんどん反論に疲れてくる。エドは押し黙り、ロイは高らかに宣言した。
「君が行かないのなら私も行かない」
さぁ、どうする?
02
エドに選択の余地はなかった。結局強引に押し切られ、衣装を選べと別室に連れて来られた。
初めて入った部屋は、普段ロイが使っているものらしい。日々使用人が整えてしまうのだろうから乱れはなかったが、エドの部屋と同じように、落ち着いた色調の調度品が選ばれているのはわかった。つまりは、領主の部屋にしては地味だった。天井や壁の装飾も最小限に抑えられ、壷や燭台、姿見の類も、きらびやかなものよりは機能的なものが多い。
嗜好品らしきものと言えば、テーブルの上に葉巻の箱を見つけたが、ロイがそういったものを嗜まないことは匂いでわかる。
辺りを見回すエドをよそに、ロイは両手いっぱいの衣服を長椅子の上に並べ出していた。
「本来は君の身体に合わせて仕立てるべきではあるんだが、召使たちの多くをクヴェレへとやってしまって、人手が足りない。直しが出るなら、あとでコウ婦人がやってくれるそうだ」
「別にオレこの格好でもいいけど?」
「君だと気付かれるのは嫌なんだろう?」
やっぱり変装が必要か。
エドは部屋の探索を打ち切り、ロイと一緒になって山とある衣服を広げ始める。しかし、広げていくうちに不安になった。なぜなら、衣装は本当にたくさんあり、全てがきちんとエドの身体に見合ったサイズであったからだ。
「……なぁ、この城にオレと同じくらいの背格好のヤツでもいるのか?」
「いいや」
「じゃあ、この服は」
「作らせた」
ロイは事も無げに言った。
半分予想していたエドは、また溜め息をつく。
「無駄使いするなよ……」
「私は楽しい、放っておいてくれ」
いいけどさ、とは思う。実際悪い気はしないし、何よりロイは本当に楽しそうだった。衣装を見下ろし、両手を組んで、形だけは熟考体勢を取っているものの、口の端は上がりっぱなし、目尻は下がりっぱなしである。
「さて、変装か。君は何になりたい?」
あんまり嬉しそうにしているから、エドまで楽しくなってきてしまうではないか。
「何がいいかな、大佐のオススメは?」
「おや。私の好みを聞いてくれるのかい?」
「あんまり変でなければね」
ふむ、と、束の間考えるそぶりを見せた彼は、迷わず純白の衣装を取り上げた。
ちなみにそれは女性がとある式典で着るものだ。真珠を縫い付けたオーガンジーが何枚も重ねられた、豪華でありながらかわいらしいドレス。
なぜそんな服が用意されるかとは、今更尋ねたくもない。
エドは冷静に「ふぅん」と言った。
「いいよ、別に。大佐も同じもん着てくれるんなら」
「……あまり美しくなさそうだな」
「そう?」
「わかったよ、真面目に選ぶよ」
「そうして。ぜひ」
やり取りはあっさり終わってしまったものの、エドは少しだけロイが真剣にそれを選んだのかと疑った。
純白の衣装は脇に除けられ、今の彼は全く別をとっかえひっかえ吟味している。
ドレスに付属していたベールを取ってみる。やわらかで軽い手触り。
「……大佐」
「んー?」
「オレに女装させたいのか?」
ロイが振り返る。エドが手にした薄手のベールに、彼はとても困った顔をした。
ロイが困ればエドだって困るのだ。落ちた沈黙は自然に気まずいものになり、二人はしばらく揃って相手の顔から目を逸らした。
「……女装、と言うよりは、ね」
言いよどみながらも、衣装を広げた長椅子からエドの傍へと返って来る彼。
すぐにベールが取り上げられた。
ふわ、と、重さを感じさせぬ布が頭に乗せられる。
頬をやわらく包むそれに、エドは戸惑って目を上げた。
「……病める時も、健やかなる時も」
ロイが小さく唱えた言葉には聞き覚えがあった。
「これを愛し、これを慰め、死が二人を分かつまで、他のものに依らず……」
「たっ──大佐!」
全部言われるのはたまらない。慌てて口を挟んだのだが、声は止まらない。
「このものに添うことを誓いますか」
エドは息を止めた。こちらを覗き込んだロイの目は真剣だった。
「……私が興味があるのはそちらの方だ」
茶化すでもなく微笑んだ男に、何を答えれば良いのだろう。
「よ──嫁さんが欲しいのか?」
「違うよ」
「だって、こういうことあんたとできんのは……っ」
「女性だけだね、だからしないことにした」
ロイはエドを引き寄せ、ベールの上から額に軽く唇を落とすと、さっぱりと笑った。
「──さぁ、時間がなくなってしまう。いっそ片っ端から着てみるか?」
まるで今のやりとりがなかったかのような切り替えの早さなのだ。
思えばロイはいつでもそうだった。一気に距離を縮めるくせに、エドの気持ちが追いつく頃にはもう背を向けている。
慌てるのはこちらだけ。
悔しい。
衝動は突然だった。
エドは己の頭からベールを外すと、ロイのマントの端を引っ捕まえた。「わっ」と声を上げて後ろに反った男の膝裏に蹴りを入れ、尻もちをつかせる。
ちょうど良い高さになった。
エドはロイの頭の上にベールを置く。ロイは目をまん丸にしてこちらを見上げた。
ザマーミロ。心の中で舌を出す。
「病める時も健やかなる時も──」
同じことを繰り返してやるのだ。
「これを愛し、これを慰め、死が二人を分かつまで、他のものに依らず、このものに添うことを誓いますか」
きつく睨みつけながら言ってやった。
せいぜい慌てろと思ったのだ。しかし、ロイは既に表情を崩しており、エドが言い終えるや否や、失礼にも大爆笑を始めるではないか。
「何で笑うんだよ!」
「だってね、君がね」
「オレが何だ、言ってみろ!」
ロイは両手で顔を覆い、しつこく笑いながら言うのである。
「……君が冗談にもならないことをするからさ」
「どういう意味だよ!」
何だか思っていたのと違って全然楽しくない。
ロイは未だに笑っている。しかも笑いながら目尻まで拭った。いくら何でも笑いすぎだ、エドはますます憤慨する。
「もういいっ! そうやってずっと馬鹿にしてりゃいいだろ!」
「馬鹿になどしていない」
「どこが!」
ロイは座り込んだ姿勢のまま、頬を膨らませたエドへと片手を伸ばして髪を梳いた。その表情はまだ笑っている、笑っていたが──少しだけ泣き顔にも見えた。
エドは不意にはっとさせられた。
「……誓います」
こちらの視線を釘付けにして、ロイは真摯に呟く。
「君を愛し、君を慰め、君に添うことを誓います」
自分で仕掛けたことにもかかわらず、その瞬間エドは震えそうになった。同じ言葉を言っても彼とエドでは重さが違う。
ロイの言葉はまさしく誓約だ。
頬をくすぐる指にまで気持ちが込められているようで、エドは一息のうちに頬を赤く染め上げた。
「……ほら。だから冗談にもならないと言ったんだ」
苦笑い、寂しげにする。エドに同じものを求めもせず諦めてしまう気配がある。
エドはもう一度気持ちを奮い立たせた。ロイと対等でいようとするなら、ここが頑張りどころなのだ。
「待てってば! ち──誓いのキス……っ」
気合を失わないうちに彼の額にキスをした。
ロイが固まる。信じられないように目を見開いてエドを見る。
彼の気持ちに追いついていないとは感じている。肝心なことはロイばかりに支えさせている自覚もある。
それでも毎日好きになる。昨日より今日、今日より明日。些細なきっかけが気持ちを変えていく。
精一杯でも全然足りていない、それでも自分で伝えなければ、ロイは強いてもくれないから。
しかし、エドが頑張ったのもそこまでだ。
「さ──さて、何着ようかな!」
ベールも取らずに座り込んで動かないロイを放り出し、衣装を並べた長椅子前にそそくさと移動する。
「……鋼の」
呼び声は聞こえていたが返事などできない。
「おっ、これいい感じ。これ着てくかな!」
試着してくる!、とにかく隣の部屋に駆け込んだ。ロイがついてくる気配がなくて心底ほっとした。
エドは無人の部屋でへたりこむ。赤くした頬はいつまでも熱いままだ。
少しは彼がくれるものに追いついたのだろうか。
次に目を合わせる時の相手の反応を思い、エドは落ち着かない溜め息を繰り返した。
03
その後はコウ婦人も加わって、結局エドが選んだ衣装は、彼女の故郷の民族衣装になった。
紺色のシルクで作られたカンフースーツだ。左の肩から胸にかけて、牡丹の花をかたどった刺繍がある。ついでに仮面も顔全体を覆う異国風のものにした。コウ婦人からは、どこからどう見てもエドとはわからないし、性別も判断ができないという心強い言葉までもらった。
ロイも似合うと言ってくれた。
ただ、エドはやっぱり彼と視線を合わすことができず、コウ婦人が来てからはコウ婦人とばかり話していたし、仮面を選んでからは、早速顔を隠してロイの目そのものから逃げた。
これではさっきの頑張りが無駄になるとは思いながらも、傍にいるだけで心臓が痛い。言葉にしたことで、本当に感情が前面に出てきてしまったらしい。自分でコントロールがきかない。
昼食の間も微妙な空気は続いた。
ロイにしても思うところがあったのか、いつもの半分も口数がない。そのくせ暇さえあればエドに目をやるものだから、エドは彼と目が合うたびに食べ物を喉に詰めたし、手は震えてフォークを落とすし、震えるからなお皿はかちゃかちゃ鳴るし、変なところばかり見られて恥ずかくてならなかった。
いっそ怒れば良かったのかもしれないが──いや、見るなとだけなら言ったのだ、言ったけれども、ロイもどこか呆けた様子で、うなずきながら聞いてくれなかったのである。
とうとう膠着状態のまま、村へと下る馬車に乗り込まなければならなくなった。
御者席には御者が座るが、四輪馬車の中は当然エドとロイの二人きりである。肩が触れるような狭さではなくとも、横に並んで腰掛ければやっぱり近い。
近い。絶対三十センチも間が空かない。
困った。エドは戸板に半身を押し付けるようにして、できるだけ距離を取った。
ロイは何も言わずに隣に腰掛けた。
ロイが座ると御者も馬を走らせ始める。
馬車の速度はもどかしいくらいで、エドには蹄のリズムが呑気に散歩しているようにしか聞こえない。
沈黙が恥ずかしくて仮面をつけた。
エドの仮面は、つり上がった赤目が顔の半分を占める猫の仮面だ。赤と黄色と白で派手に彩色された木製の仮面で、多少重さがあるため、頭の後ろで紐を結ぶようになっている。
一方、ロイの仮面は、エドのものとは違い、あまり実用的ではなかった。目と口の部分が半月系に開いた陶器の仮面である。顔を隠すというよりは、むしろ飾りに持ち歩くタイプのもので、今もサーベルなどと一緒にまとめて脇に置かれている。
元々火傷の痕を覆った布があるためか、ロイは更に顔を隠す必要は感じていないらしい。
と。
「……鋼の」
ぎくりとさせられる。
呼んでおきながらロイはそっぽを向いていた。
しかし、手が。
「…………」
「…………」
いつの間にそうだったのだろう、ロイの左手がエドの右手を握っている。彼の左手の人差し指には、相変わらず鋼色の指輪が見えた。その指輪を見ると、余計に触れているのがロイだと実感して頭がのぼせる。
エドは自分が仮面をつけていたことに感謝した。少なくとも今のエドの顔はロイには見えないのだ。
手をつなぐだけでどうしようもない気分になる。心で感じることと身体で感じることと違うと実感する。
触れることが嬉しい。
馬車の戸板ぎりぎりに座っていた身体を、心持ち彼に寄せてみる。相手ばかりに握らせている手の角度を変え、自分でも彼の指と絡めてみた。
途端に空気がたわんで、目を上げると、ロイがそっぽを向いたまま笑う瞬間だ。
もの凄く好きだと思った。
凪いでいたこれまでが嘘のように溢れてしまう。エドは己の感情を自覚した。
それは恋と名のつくものだった。
04
馬車に乗ってすぐは拷問のように感じた沈黙も、村に着く頃には、壊すのが惜しい静けさに変わっている。
御者が馬車を止める。いち早く離れた手が寂しかった。エドはどうすればもう一度繋ぐことができるかと考えて、考えながら馬車を降りた。
村はずれである。遠くでは歓声が聞こえているが、今エドたちがいる場所は閑散として人通りもない。
ロイは迎えについて御者と話していた。
エドは手ばかりが気になってならなかった。連想ゲームのように、マントの下の彼の腕を思い、彼の手を思い、彼の指輪を思う。
そして自分の持っていた指輪のことも思い出す。
城に招かれてからは村に下る機会がなくそのままになっていたが、鐘つき堂にはエドの持ち物が残っているはずだった。
いくらかの硬貨と、銀時計、くろがねの指輪、コウ婦人にもらった白木蓮のコサージュ。
せっかく村に来ているのだ。鐘つき堂は中央に位置しているから人通りもかなりのものだろうが、何とかできそうなら、あの隠し場所から持ち帰りたい。
「行こうか」
促され、歩き始めるのに、エドはまた手のやり場を考える。
彼の右側に立ってしまったのも悪かった。せめて左手の指輪が見えていたなら我慢も利いたはずだった。
多分本当に浮ついて手元ばかりを見ていたのだと思う。仮面の下からでは視野が狭くなっていて、見るとなると顔全体で対象物に向き合わなければならない。猫の仮面が丸ごとそちらを向くのだ。自分で自分を見ることができなかったエドは、自分の露骨さに気付かなかったが、ロイには明らかだったに違いない。
「……これがご所望か?」
苦笑付きで出されたのは右手である。
エドはうなずいて彼の左側に移り、マントの端を引いて左手をねだった。
さすがにロイは不思議そうな顔をした。
「君の好きでかまわないが、サーベルが邪魔にならないかい?」
確かにロイの左側には、サーベルやら仮面やらが腰のベルトに掛けられている。隣を歩くとなるといささか距離が必要だった。
「左手がいい」
それでも言うと、ロイは自分でも物珍しげに手のひらを眺めつつエドに差し出した。
「どうして左手なんだ?」
「どうしてでしょう?」
「形?」
「ううん」
「指の長さ、とか?」
「ううん」
エドはうきうきと指を絡める。何だか馬鹿みたいに嬉しくて仕方がない。仮面で顔も隠れているから、安心して笑うこともできた。
「どうしてだい?」
ロイはまだ不思議そうだ。仕方がないので、エドは種明かしをしてやった。
「指輪」
「指、輪……?」
「そう、指輪。好きなんだ、それつけてるあんたの手。初めて会った時から見覚えあった」
急にロイが黙り込む。見上げれば、どこかを痛めたような顔をしていた。
「……大佐?」
「ああ、うん……まさかそんな答えが返ってくるとは思ってなかった」
エドは自分の気持ちがしぼむのを感じた。
「……嫌だった?」
ロイは作り笑うだけだ。ただし彼の手はいっそう力を込めてエドを掴まえる。それこそ今にも消えそうなものを必死で留めているようである。
彼は今、何を考えたのだろう。
手をつないでいても心まではつなげない。
仮面の下、エドはもどかしさに唇を噛む。
05
集落に近づくにつれ、仮装した村人ともすれ違うようになった。
特に、ニハトリやヒツジなどの家畜をかたどった仮面をつけた人々が切り盛りする屋台は大盛況だ。
大きな嘴をつけたカラスの集団ともすれ違った。どこかの家の軒先では、トランプの絵柄とそっくりなキングとジャックがビールを飲んでいた。翼をつけた妖精風の子供たちも駆け回っている。年頃の少女はひらひらとした花のような衣装を身にまとい、目と口を薄手のスカーフで隠して騒いでいた。
様々な仮装が通りを行き来する中でも、ロイとエドの、黒衣の騎士と異国の少年武道家の組み合わせは目立った。
そもそもロイが目立つ。あからさまに身なりが良すぎるし、顔も普段通りに火傷の痕を布で覆っているだけで、全然隠れていない。村人は全員が親族のようなものだし、見覚えのない相手でクスに招かれ身なりが良いとなれば、誰にでも簡単に領主だと知れる。
当然、領主が伴っている子供にも人の目は向いた。
はっきり言ってエドは戸惑っていた。
エドとしては、できる限り注目を集めないよう立ち振る舞うつもりでいたのだ。だが、ロイは逆に見せびらかすようにエドの手を引く。まずは村の長を務めている老人に会いに行くらしいが、わざわざ回り道をして村中の通りを練り歩いていた。
エドは見覚えのある顔と出会うたび、気が気ではなかった。声で気付かれるのもまずいと思うから、村人の傍では話もできない。
酒場の前を通る。市場の前を通る。誰もがロイを見、エドを見る。
そして、次第に村の異変にも気付くのだ。
それまで酒を飲んで笑い合っていた人々が、ロイを見てさっと表情を険しくする。隣の人間と声をひそめ話し出す。中には、唾を吐いて顔をしかめる者もいる。
最初は、ロイが火薬を買い占めたことが原因かと疑ったが、良く考えなくとも、村人が敵意を剥き出しにするには口実が弱い。
エルホルツの民に領主を敬愛する習慣はないものの、従順ではあった。前領主の時も、首刈貴族と影でささやきながら、頭を垂れ続けた村なのだ。
ところが、ロイに対しては、明らかに反発を表している。更には、ロイも、険悪な目を向ける人々を全く見ていないかのようにすれ違う。
エドはだんだん平静ではいられなくなってきた。
引かれるばかりだった手をこちらから引き返す。ロイが目を向けるのを待って裏道を指差す。
周囲に人がいなくなるまで路地を入り、ようやく胸を撫で下ろした。
「……疲れたかい?」
ロイの声は軽い。
エドは彼を睨みつける。こちらは仮面を取ることもできないので、表情そのものが伝わることはなかっただろうが、ロイは雰囲気で苛立ちを察したらしい。
聡い男なのである。エドの苛立ちがわかって、村人の敵意に気付かないなどあり得ない。
「あんた、何かしたのか?」
「なぜ?」
「村じゅう変な空気だったじゃないか!」
「あれは仕方がない」
「仕方がないって……」
「これから村長と会って私が何を話すと思う?」
ロイは妙に楽しげだった。
「山を崩して村を開くこと、その人員はエルホルツの民以外から優先的に雇い入れること。つまり、私は彼らの嫌いなよそ者を率先して村に引き入れる計画を提案するわけだ、歓迎されるほうがおかしい」
本当に原因はそれだけなのか。エドが問い詰めようとすると、ロイは苦笑って付け足した。
「あとは……時計屋の話もある」
ペジョーレ?
思わず肩を揺らしたエドに、ロイは気遣わしげな視線をよこす。
「あの男は、村長にかくまわれていると聞いている。今日は、そのことについての申し開きも聞かされる。もし君があの男と会うのを嫌だと思うのなら、無理に付き合うことはないよ」
正直なところ、会いたくなかった。
ただ、前夜祭に誘った時は意固地だったロイが、簡単にエドを一人にする決断を下したことが引っかかった。だから、何とか付いて行く理由を探そうとしたのだが、彼は先回りして予定を立ててしまう。
「あとで待ち合わせしよう。待ち人がいれば、私も会合を早く切り上げやすい」
ロイは、エドに仮面を外さないよう言い置くと、裏通りから足早に出て行った。
待ち合わせは鐘つき堂前になった。
エドはどこへ行く宛てもなく、鐘つき堂への道を歩いていた。
改めて村を見回すと、ますます空気が物騒なことに気付かされる。特に村の男たちは異様な目つきをしていた。祭りで多くが飲酒していたせいでもあったのだろうが、普段は穏やかな老人でさえ荒い仕草を見せている。
中には、エドがロイと一緒にいた子供だと気付く者もいて、上から下までを苦々しい顔つきで観察してくる相手もいた。
エドは、時間が経てば経つほどロイが心配になった。
鐘つき堂が見える位置まで歩いてはみたものの、無理を言ってもロイについて行くべきだったと後悔する。考えてみれば、ロイは護衛もつけていない。いくら村長とは言っても、ペョーレをかくまう考えを持った相手だ、事が穏便に終わる保証はどこにもなかった。
じっと待っているのも限界だった。
鐘つき堂の煉瓦置き場から細工した小箱を引き出し、しまっておいたもの全てをポケットに詰め込んだ。何はともあれロイを迎えに行くのだ。無事な姿を見ないことには安心できない。
「エ──エド」
ちょうどそんな時に呼び声は聞こえた。
見れば、鐘つき堂の出入り口が薄く開いているではないか。
「エドだろう?」
声の主はガルボに違いなかった。
鐘つき堂は村の中心地にある。周囲には村人が大勢いた。呼び声はひそめられてはいたが、誰に聞き咎められるともわからない。エドはすかさず建物に寄った。扉を背にして立ち、極力何でもないふうを装った。
背後からはなおも囁く声が聞こえる。
「やっぱりエドなんだな……! 領主さまと歩いている子供がいたから、そうじゃないかと思っていたんだ。ずいぶん見違えた……その服だって素晴らしいもんじゃないか……!」
ガルボの声は興奮に満ちていた。
「お前が来たらずっと聞きたいと思っていたんだ──なぁ、この村が変わるというのは本当か? 山の向こうの村と合併するというのは? 山を崩す工事を、わしらにやらせてくれるというのは?」
声にして答えるわけにもいかず、小さくうなずくことで意思表示する。
ガルボは感極まった声を上げた。
「ああ! ああ……ああ! 夢のようだ……夢のようだ! 素晴らしい領主さまだ、わしらに生きる術を与えてくれる……! 村で隠れ住んでいるやつらに話したらきっと喜ぶだろう……! お前のおかげだエド、お前が領主さまに話してくれたんだな?」
これは否定した。ロイが村を開くことを考えた背景には、確かにエドのことがあったかもしれないが、エドは山を崩すことなど考え付きもしなかった。
「違うのか……? まぁ、どちらでも良い、素晴らしい話であることには違いない! だが……だが、気をつけろ、エド。村長たちの話はもうどこかで聞いたか? ペジョーレの話は?」
不穏な響きだった。エドは取り繕うことも忘れて大きく首を横に振った。
ガルボは早口で言った。
「村長が村の男たちを集めている。領主さまに意見書を書くとかで、昨日も集会を開いて、この鐘つき堂の傍で夜遅くまで話し込んでいた。……今度の領主さまはお若いだろう? それに、軍人だという触れ込みだったが、ずいぶんと穏やかな人物じゃないか。納税のために城へ行った者たちが、どこにも兵士がいなかったことに驚いたそうだが……」
エドは今更ながらに驚かされた。
確かに城に兵士はいない。少なくともエドは会ったことがない。門衛の仕事をしている者は数人いたが、警護というよりは城へ来た者に対する案内役に近かった。
ガルボは続ける。
「村長たちは、領主さまが大きな失態をやらかして一人で田舎に送られてきたのだと考えている。男たちを集めて脅せば、青二才など何とかできると──こういうわけだ。そこへ来てペジョーレの事件があった。ペジョーレは、全く身に覚えがないと村長に訴えたんだ。あの時計屋で下働きに使っていた男がいなくなっていて、工房で作った時計が故障したのは全部そいつのせいだと主張していた。本当のところはわからんが……村長たちは皆ペジョーレの意見にうなずいた」
なおさらまずいではないか。
ロイはそんな場所へ一人で行ったのか。
「エド──エド、お前の名も出ていた。気をつけろ、ペジョーレは──」
ふと、ガルボが声をのんだ。
ずっと背後の話に夢中になっていたエドは、目前まで村人が迫っていたことに気付かなかった。
急に目の前に影が落ち、危険を知った時には、ウシの仮面を被った男二人がエドの肩を押さえている。
「こいつか」
「ああ、こいつだ」
指が肩に食い込む。エドの仮面は剥ぎ取られ、ウシの仮面を被った男たちからは、口々に「よそ者が」と憎悪が吐き捨てられた。
「本当にこんな子供が役に立つのか?」
「わからん。ペジョーレの話では、あの領主はこいつの頼みを聞いてペジョーレを罰したと言うが……」
「あやしい話だな。まぁ、交渉の材料になるなら何でも良いさ、連れていくぞ」
「ああ」
エドは蒼白になった。はっきりした状況はわからないが、彼らの手に捕まることはロイの不利につながる予感がした。
ガルボから聞いた話を考えると、村の男たちは結託してロイに反旗を翻す計画を練っているはずなのだ。そんな場所で──まさに今、村長の邸宅では交渉が行われている、そこに村人に囚われたエドが姿を現せば、どうなるか。
「は、放せ……っ!」
めちゃくちゃに暴れた。
もう自分の身はかまっていられなかった。
「あ──暴れるな!」
「こいつ……っ!」
腕を捻られ、頬を張られる。それ以外にもあちこち痛んだが、大人しくなどしていられない。一度は二人の囲いから逃げ出すものの、走り出す寸前に再び髪を掴まれ、腕と首を抱え込まれる。
「……クソ……っ!」
なんと自分は非力なのだろう。
せめて大人の身体さえ持っていれば、相手が二人がかりでも簡単に引きずられるようなことはなかったはずなのに。
子供の力しか持たぬ両腕は、一まとめに手首を掴まれただけで白く色を失い、指の感覚をなくした。
ウシの仮面を被った男たちは、まるで重罪を犯した咎人さながらにエドを拘束し、突き飛ばしながら歩いた。
祭りで浮かれ騒ぐ人々が口々に囃し立てる。
エドは唇を噛みしめ、心ない中傷と身体の痛みに耐え続けた。
06
村長を務めている老人の邸宅は、鐘つき堂からも近い位置にある。
どうにか逃げる隙を窺っていたものの、どうにもできぬままに一際大きな萱葺き屋根が見えて来て、エドは絶望的な気分に陥った。
家の前には、布を張って屋根を作った寄り合い所が設けられている。常は子供たちや気の良い女たちがたむろするそこに、今日は屈強な男たちが肩を並べているのがわかった。誰が見ても物々しい雰囲気を感じるのか、前を通り過ぎる女子供の足は速い。
「村長!」
エドの腕を掴んでいる片方の男が声を上げた。
途端に寄り合い所に集った全員がこちらを向いた。
ロイの姿は一番奥にあった。小さな老人と机を挟み、丸太の椅子に腰掛けていた。
彼には謝らなければならないのに、エドは声が出せなかった。喉を押さえられ、息をするだけで精一杯だったのだ。口を開けばひゅうと変な音が出る。
「はっはぁ! 良いタイミングで来た!」
こちらを見て、まず歓声を上げたのはペジョーレだった。村長の後ろに立ち、太った腕を振り回し、飛び上がらんばかりになっている。
「……ご覧の通りです、領主さま」
小さな老人──村長が、事態に浮つくこともなく慇懃に頭を下げた。
「村には村の掟がある……それは貴方さまでも動かせぬこと。貴方さまが村を開く計画を取り消してくださるまで、あの少年は、わしらが預かりましょう」
エドはいっそ舌を噛もうかとまで考えた。
ロイが動いたのは、その時だ。
「……鋼の」
彼は静かに立ち上がり──こちらを向くと、にこりと笑った。
村人にとっては場違いな笑み。しかしロイの表情を見たエドは慄然とした。
なぜなら、エドの知っているロイは、そんな笑い方は一度もしたことがなかったからである。冴え冴えとした眼差しを朗らかな表情の下にひそませ、薄い唇を吊り上げた──まるで牙を隠した悪魔のような笑い方。
「私は待ち合わせに遅れてしまったようだね、迎えに来させてすまなかった」
声も氷のような冷たさなのだ。
鼓動が早くなる。
エドの中の何かが警鐘を発していた。
普段のロイは穏やかでやさしい人物だった。けれども、彼がそれだけの男ではないことを、エドはずっと知っていた気がする。
彼は──
「ダ、メだ、たいさ……っ」
上手く声にできたのかわからない。もがくエドを、男たちがまた押さえつける。
ロイは更に笑った。冷たい微笑だった。
「動いてはいけない、鋼の。じっとしておいで」
次の瞬間、彼は地を蹴っていた。
前を塞いでいた男たちが、手加減のない足払いと殴打であっと言う間に倒れ、道を開く。
こちらへ駆けるロイの手には、既に抜き身のサーベルが握られている。
エドは瞬きもできなかった。
きらめいた刃は、何の躊躇いも見せず、エドを掴んでいた男の腕を一刀のもとに切り落としていた。
悲鳴。怒号、悲鳴。そして血飛沫。
持ち主を失った腕が、べちゃりと肉の音を立てて地に落ちる。
エドの頬には血潮の一滴がこびり付き、しかし今やこちらの身体を包むほど傍に立ったロイに、強く擦り拭われた。
大佐、と、呼び声は息に消えそうだ。
それでもロイの耳には届く。彼は、誰のためでもなく、ただエドのためだけに、今の惨劇こそ幻のようなやさしい瞳を向ける。
「待たせたね。さぁ、帰ろう」
「大佐……」
「うん? どこか痛めたかい?」
エドは必死で首を横に振った。本当は身体のあちこちに青あざができているだろう。しかし、今のロイにそれを言えば、どんなことが起こるか見当がつかない。
ロイはエドの肩を抱くと、滅茶苦茶になっていた髪を梳き、留め金の外れてしまった衣服をゆっくりと直していった。
そうして最後に、恐怖で顔色を失い震えている村人たちを振り返る。
「前領主を首刈貴族と呼んだそうだが……私は何と呼ばれるかな。興味はないが、あまり芸のない名で呼ぶつもりなら、首刈の慣例を復活させよう、首刈領主と呼ばれるのも悪くはなさそうだ」
言いながら、彼は血に塗れたサーベルを投げやった。
「私に接近戦は通用しない、来るのならもっと頭を使ったほうが良い。それと、勇猛なる諸君のために、有益な情報をひとつ──」
ロイはおもむろに懐から白い手袋を取り出した。
最初わけがわからなかったエドは、その手袋の甲に描かれた炎と火蜥蜴の紋章に目を疑う。
彼の指から雷火が翔ける。直後だった、轟音と共に、村長の邸宅の萱葺き屋根が炎上した。
火の粉が花びらのように風に散る。
「魔法だよ」
ロイは笑う。