side EDWARD/01
ソーセージがあつあつだった。美味い。ケチャップとマスタード味になった唇を舐め、エドは改めてこぼれんばかりに具の詰まったホットドックにかぶりつく。
「座って食べられるものでも良かったのに」
前を行きながらアルフォンスが振り返った。
「いーんだよ、食いもんに時間使うの勿体ねーだろ」
お前にオレが食ってるとこ見せんのヤなんだ。本当の理由をジュースと一緒に飲み込んで、あっという間に腹へと消えたパンの包みをぐしゃぐしゃにした。次いでジュースパックの中身も飲み干し、ふたつの空カスをクズカゴに捨てる。最後に口を手の甲で拭って証拠隠滅。エドの昼食は、ものの五分とかからずに終了する。
こうして何事もなかったかのように兄弟は歩く。目的地は東方司令部だった。
例の地下施設の一件が原因でイーストシティに一週間も滞在している。どうも軍法会議所あたりにこだわりを持っていた人間がいたようだ。
元々公にはなっていない施設であったので、目立った処分を言い渡される気配はなかったが、エドを召集したがっているような話は聞かされた。今はロイが間に立っており、表向き、鋼の錬金術師はイーストシティに拘束中、ということになっている。
面倒な話ではあったが、軍属である以上、上からの決定を無視もできない。エドは事態が落ち着くまでイーストシティで様子をうかがうことにした。
こういった成り行きで、日中空いた時間のほとんどを東方司令部の資料室で過ごしている。
アルフォンスも似たようなものだ。資料室こそ一般人扱いで利用できないものの、図書室に行ったり、軍人たちからの頼まれごとを引き受けたりと、情報収集もかねた交流に勤しんでいるようだった。
今日もハボックの手伝いをするらしく、
「兄さんも来る? 倉庫の整理するんだって」
アルフォンスの言う場所は、資料室からも良く見える建物に違いない。
ハボックからはエドも声をかけられていた。倉庫のガラクタが溜まりに溜まっており、錬金術で使えるものを修繕してくれないかという話だ。エドが生返事だったものだから、結局アルフォンスに話を持って行ったのだろう。
「あー……と、オレは、別の約束があって」
でもすっぽかしてもいいんだけどな?、エドは何となく早口で答える。
アルフォンスが黙ったのはなぜだったのだろう。弟の顔には表情がないのでわからない。ただ空気で不機嫌にさせたような気がした。
「……約束なら守った方がいいよ」
それでも声は極普通の調子だった。
「兄さんがそんな言い方するってことは、相手は大佐だろう? なおさらすっぽかしちゃダメじゃないか」
「そうか?」
「そうだよ」
しかし本当に大した約束ではないのだ。だが、言い募るよりも早く、アルフォンスが何かを決心した様子でこちらへ向き直る。
「あのね、兄さん」
待っても続きはなかった。
「……やっぱり、いいよ。何でもない」
弟の飲んだ言葉が気にならないではなかったけれども、エドは問い詰めなかった。エドもロイのことを話したくなかったのだ。だからアルフォンスが不自然に話を切ったことにしても命拾いをしたとすら思った。
「……とりあえず司令部に行こう。手伝えそうならオレもあとでそっちに行く」
「うん……」
アルフォンスの声はぼんやりしていた。
エドはぎこちない自分が嫌になり、脇へとこっそり溜め息をつく。
東方司令部にはとにかく顔見知りが多い。既に門番から馴染みの憲兵だったりすることも珍しくはなく、敷地内に入れば本当に知った顔ばかりだ。
気軽に手を振られたり振り返したり。そんなことをしながら司令部に入り、仕官が詰めている大部屋へと直行する。
「こんにちはー」
声をかけると、ハボックが飛んできた。
「待ってたぜ、救世主さま!」
調子良くアルフォンスの肩を叩き、既に準備を終えていたらしい仲間を呼び寄せると「っしゃ、魔窟を大捜索だ!」などと奇妙な気合の入れ方をする。
ハボックの様子は熱かった。茫然としているエドをそっちのけ、一軍は工具やらツルハシやらを携え、意気揚々と大部屋を出ていく。最後にこちらを振り返ったアルフォンスだけが、エドを忘れず手を振ってくれた。
「……なんだ、ありゃ」
エドが彼らの背中を見送っていると、
「今朝、倉庫で落とし物をしたらしいのよ」
背後にホークアイが立っていた。
「落し物?」
「ええ。部屋の鍵を落としたらしいわ」
「はぁ?」
「倉庫には壊れた機材が放り込まれていて、その機材の中にね」
落としたのか。エドが呆れて繰り返すと、ホークアイも苦笑した。
「今晩は少尉の部屋で飲み会が計画されていたから、捜索隊が結成されたみたいなの。アルフォンスくんは鍵が出てくるまで、片っ端から機械の修理を頼まれるかもしれないわ」
事の顛末はわかった。多少くだらない労働の気がしたが、そういった理由の錬金術であれば何を練成しようと毒にもなるまい。そもそも、エドにはアルフォンスが楽しそうにしていれば文句はなかった。
「エドワードくんは、今日も資料室?」
「うん、多分……」
「そう、じゃあ大佐にも伝えておくわ。今は来客中なの」
伝えなくともロイは資料室に来るだろう。
エドはこのまま大部屋を離れるか迷い、結局黙っていられずに尋ねた。
「……なぁ、中尉。本当のところ、どうなってんの?」
「え?」
「大佐は大丈夫としか言わない。けど、あの施設は」
しっ、と、途端に咎める声がした。
「エドワードくん、大佐が話していることが全部よ」
嘘だということはわかっている。エドがじっと見上げれば、彼女は困ったように微笑した。
「……私には教えてあげられないわ」
「どうして? 大佐の事情を一番知ってるのは中尉だろう?」
「だからよ、大佐はあなたに知られることを望んでいない」
ロイとは、例のオアシスで過ごした夜以来、毎日顔を合わせている。エドが召集命令をどうかわすべきかについては頻繁に話をするが、ロイ自身の責任問題やら、施設が今後どういった扱いを受けるのかについての説明は全くない。尋ねてもロイは巧みに話を逸らしてしまうのだ。
だから絶対に変な方向へ捻じ曲がってしまっているのだとは、もう予測がついている。
「壊したのはオレだろ? オレに関係ある話を聞かせてくれって言ってるだけだ」
ホークアイは沈黙するばかり。彼女の瞳は静かで、エドの訴えなど微塵も届いていないことが明らかだった。
悔しくてならず身を翻す。ところが寸前で耳を打ったささやきに、駆け出そうとしていた足が止まった。
「あの人は……嫌な任務ほど完璧にこなそうとする。その任務がいずれ力になることを知っているのよ」
だからエドワードくんが気にすることはないわ。
振り返った時には、ホークアイの方が背を向けていた。
何とも言えない気分でエドはたたずむ。
大部屋にひしめく顔見知りの軍人たちが、ひどく遠い世界の生き物のように見えた。
02
あの夜に見たロイの楽園は綺麗だった。
エドの故郷であるリゼンブールと少し似ていた気がする。蛍の光を映して発光する水面に足をつけると、ひどく懐かしい気分になった。
エドの故郷では川原にホタルブクロという薄紫色をした花が咲くのだ。幼い頃はアルフォンスとウィンリィと三人で、釣鐘型の花の中に蛍を入れ、夜になると真っ暗になる森を探検した。
そんなことを思い出しながらロイの話を聞いていた。
苦い過去の話。多分幼かったエドがホタルブクロの光ではしゃいでいた夜も、ロイはどこかで戦っていたのだろう。
彼がどんな経験をして今の彼になったのか想像もつかない。ただ何となく思うのは、ロイは彼自身で選んだ道を歩いてきたのだろうということ。血まみれになったにせよ、泥を被ったにせよ、覚悟した上で彼はそうした。
だから今のロイにはあれほど迷いがない。
エドが羨ましいと思うのはそこだった。今のロイが持っているものは、エドこそがほしいと願った強さだ。
──多分、好きなのはその辺なんだ。
エドは分析し、息をつく。
東方司令部二階、最西端にある資料室の窓辺である。
射し込んでくる木漏れ日が良い感じにやわらかく、明るいのにまぶしくない特等席だ。エドは資料の束を机に乗せたまま、読むこともせず窓の外を眺めていた。
下には倉庫が見えている。
ハボックが鍵を落としたというあの倉庫である。何を騒いでいるのやら、さっきから軍人たちの出入りが激しい。アルフォンスも出たり入ったりを繰り返していたが、とりあえず楽しげにやっているようだった。
弟の様子を見るともなしに確認し、エドは再び考えに沈み込む。
このところこんなことが増えた。あまり考えたくないというのに、どうも上手くいかないのだ。上手くいかないから原因をどうにかしなければならず、原因をどうにかするために思索を続け、結局堂々巡りに陥っている。とりあえず原因はロイだった。それだけはもう動かせない事実であった。
ロイを思い、エドは深い溜め息をこぼす。両腕で頬杖をつき、頭を支えて目を閉じる。
どうもいけない──ロイのことは最初から嫌いではなかった、どちらかと言われれば好きだったのかもしれない。
けれども最近行き過ぎている気がするのだ。ロイがかかわると、エドはしばしば衝動的になる。最たるものが、例の地下施設の破壊だった。あれは不味かった。結果としてロイに負担をかけているのが更に不味い。
決して喜んで彼と関わりを持っているわけではないと思うのだ。少なくともこの瞬間は、顔を合わせるのを憂鬱に思う自分がいる。
ただし憂鬱なのは彼と会うまでのことだった。会ってしまえばエドは思い悩んでいたことを忘れる。いや、思い悩んでいることだけではない、他の大切なことも忘れてしまう。例えば、そう──アルフォンス、とか。
ではいっそ会わなければいい──
これで解決とならないのが悲しいところであった。対策は立てられても実行できる保障はない。
そもそもエドが誰の誘いも断って資料室にじっとしているのも、ロイの言葉が発端だった。
「イーストシティにいる間は毎日会えるだろう?」
オアシスからの帰り道でのことだ。砂漠を歩きながら他愛もない話をしていた。ついでのように尋ねられた言葉に勢いでうなずいたなら、ロイがひどく嬉しそうな顔をして「良かった」と言ったのだ。
こんなことで嬉しがるのかと思ったらもう駄目だった。わざわざ自分から「資料室にいる」なんて言葉を足して、「なるほど。あそこだったら邪魔は入らないな」と微笑むロイに、またわけがわからなくなった。
ただ、二人きりの方がロイは喜ぶ、という事柄がエドの頭に刻まれた。ロイを喜ばせる義理などないのに、実はそれを探していたらしい自分に驚いたものだ。
どんどんバラバラになっていく。
正直なところ、エドは自分が何を望んでいるのかわからなくなっていた。ロイといると他を忘れる、ならば会わない方がいい、それはわかっているのにそうできない。
ロイといるとアルフォンスを忘れる──
許されないことだ。
「……オレ、何やってんだろ」
エドは肩を落とし、机に突っ伏した。
会いたい。会いたくない。笑ってほしい。悲しまないで。喜んでほしい。怒らないで。どこにもいかないで。こっちを見て。やさしくするから──傍にいて。
これは一体何だろう。
何だか喉の奥が苦しい。エドは胸元を抱え込むように身を丸め小さくなった。
もどかしさを堪えて過ごしていると、ドアが開かれる音がした。エドは即座に顔を上げた。縮こまっている身体を伸ばして、普段通りの顔を作る。
「……どうかしたのか?」
しかし上手く間に合わなかったようだ。顔を見るなりロイに尋ねられ、エドはばつが悪くなって目を逸らした。
「何でもねーよ」
「だったらいいが。……今日は不機嫌そうだ」
「別に。あんたが隠し事してるからだろ」
「何の話だい?」
「結局何にも教えてくんねぇし」
「君に必要なことなら話しているつもりだ」
どの口でそんなことを言うのだ。むかっ腹が立って睨み付けたなら、絶妙のタイミングで彼の口元がほころんだ。
「本当だ、何も心配ない」
その顔は曲者だった。急速に火照る頬を手で擦り、エドは無理やりしかめ面を作って舌を出す。
「ヘーヘー。いーよ、もう。頼まれたって聞くもんか、勝手に苦労しやがれ」
「してないよ、苦労なんか」
「うっさい」
「本当だよ、していない」
「…………」
「していないから、安心してくれ」
──ああ、もうしかめ面が保たなくなる。
エドは最後の抗議でよそを向いた。その間にロイが隣の席に腰掛ける。
資料室には今エドとロイの他には誰もいない。元々静かな場所であるが、二人で黙っているとなおさら音のない場所に感じた。呼吸まで気を遣わずにはいられず、エドはロイに気付かれぬよう息を詰める。
と、目の端に置かれるものがある。
机の上。細長い紙の箱だ。
「さっきまで退役した友人と会っていた。長く西部にいた友人だったのだが、先日東部に越してきたらしい」
ロイが言う。箱の蓋をわずかに持ち上げる。
そのままでいると中身が見えなかったので、エドは自然とロイの方へ向き直っている。
図らずも目が合った。
ロイがゆっくりと笑う。その顔も好きなのだ。悔しいことにまた不機嫌が霧散しそうになった。エドはロイを見つめたがる目を何とか剥がし、机の箱に縫い付ける。
箱の中にあったのは卵形のグラスセットだった。赤、青、緑、黄色、紫、橙、無色。全部で七色。透明な色ガラスが美しい。形は極シンプルであるが、丁寧に作られたものであろうことは一目見ればわかる。
滑らかな曲線を描くガラスの表面がつやつやと光を弾いている。
「……いいもんだな」
エドが思わず呟くと、ロイも「そう思うだろう」と満足げにうなずいた。
「軍人だった頃はひどく不器用な奴だったんだ、ロープも上手く結べないくらいにね。だが今ではこれほどのものを作る。聞けば、近くに工房を構えたらしい。挨拶がてらに手製のものを持ってきてくれたんだが──」
ロイが息をついた。
「何だよ?」
「いや。もらっておいて何だが、使うあてがなくてね。司令部で使ってもいいけれども、それこそ無骨な手ばかりだ、いつ砕けてしまってもおかしくない。結局私が家に持って帰るべきなのだろうが……うちに客など来ないしなぁ。さてどうしたものかな、鋼の」
「オレに訊くなよ」
「じゃあ誰に訊けと?」
「いや、だから──」
ロイの困っている顔にも弱いのだ。演技だとは思うのに、どうしても放っておくことができない。
「ええと……、もう、面倒だなあんたは! 大佐んちってどこ?」
「大通りにある本屋の三階だよ」
「噴水の前の?」
「そう。階段を上って一番奥の部屋だ」
「わかった。暇だったら遊びに行ってやるよ、それでいいんだろ?」
エドが渋々を装って言うのとは反対に、ロイは本当に嬉しそうに目を瞬かせた。
「明後日が非番なんだ」
どう考えても遊びに来いと言われている。照れくさくて仕方がなく、つい「暇だったらな!」と天邪鬼な答えを返してしまったが、彼は変わらず嬉しげだ。
「約束したよ」
「だから、暇だったらって」
「約束だ、暇じゃなくても来てくれ」
いつになく約束の形を作りたがる。少し変だとはエドも思った。案の定、ロイは継いでこちらの知らなかった情報を話し出した。
「君が約束してくれて良かった。実は、例の地下施設の一件だけれども、処置が決まってね。鋼の錬金術師がイーストシティで待機している必要もなくなった」
どういった処置なのか。
エドが黙った理由を知っているだろうに、そこには触れぬまま、彼はやんわり笑って見せる。
「この話を聞けば、すぐに旅立つと言い出しそうだったから、少々姑息な手を使わせてもらった。明後日はどうあっても私に付き合ってもらうよ」
まるで施設の処置よりも二人で会うことの方が大切みたいな言い分だ。エドは返事をせずにまたそっぽを向く。
窓の外には、相変わらず、軍人たちの出入りが激しい倉庫が見えた。
「……鋼の?」
ロイが呼んでいる。
返事なんか絶対にしてやらない。
「……鋼の。こちらを向いてくれ」
寂しそうな声にも腹が立った。器用な男だから、きっと演技に違いないのだ。
エドは身体ごと窓辺にかじりつく。階下の様子がなおさら良く見えた。機材を運び出す軍人たちに混じっていたハボックが、倉庫の中に向かってしきりと手招きしている。室内からでは全く声が聞こえない。ただ次に倉庫から出て来たのはアルフォンスだったので、ハボックが呼んでいたのが弟であったということがわかった。
向こうは楽しそうでいいなぁと息をつく、その時だった。
背後から延びてきた手。
はっとした頃には既に目隠しされている。
ロイの手は大きい。片手でエドの両目を完璧に塞いでしまった。しかも、そのまま後ろに引き寄せられる。
「わ……っ」
痛みを覚悟したが、結局のところ背中も尻も打たなかった。エドはいつかのようにロイの膝上に抱き込まれたらしい。身動いた途端、両手もあっさり一まとめにされ、握り込まれた。痛くはないが、ひどく不自由な姿勢だった。
「離せ」
「嫌だ」
ロイの声は低い。怒っているのだろうか。もしもそうなら、理不尽なのはロイの方だと思う。
「何で大佐が怒るんだ、怒ってんのはオレだろ? どれだけ言っても何にも話しやしねぇし──」
「違う」
急にさえぎられて戸惑う。静かになったエドに、ロイは重ねて言った。
「違うよ、怒っているんじゃない」
では何だと言うのか。目隠しされているせいで彼の表情は見えない。エドは取られた腕を奪い返そうとしたが、これもままならないままだった。
一体何の意図があってのことか。相手に抱き込まれている体勢も落ち着かず、とにかく暴れるべきと全身に力を込める。と。
──見ないで。
それが本当に声だったのか自信がない。
確かにエドの耳を通して聞こえた気がした。ロイの声だったとも思う。だが本当にそうかと問われると違う気もした。何より言葉の頼りなさがロイに似合わなかった。
しかし、暴れるつもりで力を張ったエドの四肢は、たった一言でなす術を失った。
「……大佐……?」
呼んでも返事がない。
エドは見えない目を必死に凝らす。恐らくロイの顔がある方向へと己の顔を向ける。
小さく笑う気配がある。その笑いが楽しげなものではないことが更にエドを驚かせた。
「……大佐?」
錯覚、だろうか。
さっきよりも呼吸がずっと傍にある気がする。
目隠しで本当のところはわからない。しかし近い気がした。ちょうど唇あたりのところだ、熱を感じる。何も触れていないのに──熱い。
ロイの片手はエドの目を覆っていた。もう片方は両手首をまとめて掴んだまま。今、唇の近くにあるものは彼の手ではないことだけは明らかだった。
では、何が。
何が?
にわかに心臓が騒ぎ始める。まさかと疑う気持ちは、悪い麻酔のようにエドの身体を縛った。ロイの一言を予期した全身は、どこもここもむき出しの神経になる。
こちらの緊張は伝わっていたはずだ。それでもロイは、いたく淡々とそれを言った。
「……触れても?」
声は直接エドの唇を震わせる。
「ここは私が触れても良い場所か?」
いっそ断りなしで奪ってくれれば楽だった。
答えを忌避するエドの考えを見抜いていたのか、ロイはおもむろにこちらの両手を解放した。拒否するならすればいいと言わんばかりだった。エドはと言えば、その時まで選択肢がふたつあることにも気付いていなかったのに。
自由を取り戻したはずの手が動かない。
好きだと思った。あれはどんな種類のものだった?
「……鋼の」
その瞬間、何がどんなふうにエドの中で動いたのかわからない。
気がつくと滅茶苦茶に抵抗してロイから離れていた。
己の鼓動が頭の奥から鳴り響く。怒れば良いのか笑えば良いのか。どうにもできないまま、エドはずいぶん離れた位置からロイを見た。
ロイは何も言わなかった。ただ少しだけ傷ついたように瞳を揺らして、今までエドに触れていた両手を下ろす。
「……か、える」
もうそれしか言えなかった。
エドは怖くてならないものから目を逸らす子供のように、ただ闇雲に逃げ出した。
03
翌日のイーストシティには雨が降った。鉄道も全車運行休止になる大雨だ。エドは雨を言い訳に司令部にも出向かず、食事もとることをせぬまま、一日中宿のベッドでだらだらと過ごしていた。
アルフォンスは最初、エドが動き出さないのは、雨で機械鎧の接続面が痛んだためだと思っていたらしい。甲斐甲斐しく食料調達を申し出てくれたが、生返事ばかりで午後も過ぎれば、さすがに何か思うところがあったようだ。夕方にはエドばかりでなくアルフォンスまでもがむっつりと黙り込んでしまった。
おかげで部屋の中まで雨降りのような陰鬱さである。エドはますます意固地になって布団の中にもぐりこむ。
目を閉じても資料室での瞬間がよみがえった。
ロイの手がどんなふうにエドの目を覆ったかとか、その時の手の温度とか。声の調子や言葉ひとつまで、思い出すつもりがなくとも脳が勝手に繰り返す。
確かにロイのことは好きだった。今までのエドにはアルフォンスとウィンリィ以上に仲の良い友人はおらず、ロイは、エドの人生始まって以来、幼馴染み以外で初めて一緒にいて楽に息ができる人間だった。軍人だとか年が離れているとか、ロイとの間に違いは少なくはなかったが、一緒にいれば全て忘れてしまえたのだ。
友達だった、とは言わないが、エドの感覚はそれに近いものだった──多分。
多分そうだったと思うのだ。いや、思いたい。
実は良く区別できない。一緒にいて楽に息ができる、けれども不意にドキドキさせられる。指の長さに見惚れたり、声のやさしさに困ったり、眼差しを重ねることが難しかったり、そういうくすぐったいような一瞬は、一体どうして起こるものだったのか。
もうわかりかけてはいるのだ。
──触れても?
目隠しした上に両手を握り込まれ、混乱を極めていたエドには、ロイさえ本気でそうしようと思ったなら抵抗などできもしなかった。にもかかわらず、彼が尋ねた理由は何だったか。
そして、今、どうにもベッドから起き出せない理由も。
頭を整理したかっただけではない、本当はずっと後悔していた。
──触れても?
うなずけば、良かったのだ。
ロイに傷ついた顔をさせるくらいなら。
でも本当にそうして良いのか。ただでさえエドはロイといると他を忘れる。今この時もロイのことばかりだ。忘れてはいけないことがたくさんあるのに──
「……兄さん」
ふと、アルフォンスが呼んだ。
久しぶりに真っ直ぐに耳に入った声だった。エドは唐突に我に返った。今度は生返事ではいけないと、被っていた布団を頭から退ける。
弟は隣の寝台に腰掛けてこちらを見ていた。
「な、何だ?」
エドが慌てて答える様子をどう感じたのか。何も言わずじっとしている。
「……何だよ?」
間がもたないではないか。
しかしエドが戸惑っていられたのも束の間だった。アルフォンスは立ち上がる。動作はえらくゆったりとしていて厳かだった。が、次の瞬間、
「いつまでダラダラしてる気だっ!」
布団は盛大に吹っ飛ばされた。
「え、えええっ?」
「いいから早く起きて! 一体僕が何度声かけたか覚えてんの? 兄さん朝から何にも食べてないんだよ? そうでなくったっていつもまともな食事しないし、ベッドに入って寝るんだったらまだしも、夜は夜で僕に付き合ってできるだけ長く起きてようとするし! そんなだからずっとちっさいままなんだよ!」
「ち……っ、ちっさいって言うな、失礼な! どこもちっさくない!」
「ちっさいよ! ちっさいちっさいちっさいちっさい、超豆!」
奮い立ったのも束の間、ちっさいの連呼でエドは奈落の底に突き落とされた。おまけに超豆などと死にそうなことまで言われ、立ち上がる気力も生まれない。
ベッドに撃沈したエドを、アルフォンスは仁王立ちで見下ろした。
「まだ寝る気? もっと言ってほしいんだね?」
お前が言うから起き上がれないんだろう、エドは悲しく胸で呟く。
「わかった、起きる……」
「そうして。すぐに」
のそのそと頭をもたげる。編んですらいなかった髪が視界を塞いだ。エドは布団に座り込んだまま、重く長い溜め息をつく。
「起きたら顔洗って! さっさとご飯食べて!」
弟からは容赦のない叱咤が続いた。
身体は起こしても食欲など浮かびもしないのだ。エドは困りきってうなだれる。
そこが臨界点だったらしい。短い静寂のあと、アルフォンスが今度こそ怒りを爆発させた。
「ああああ、もうっ! ほんっと腹立つ人だな!」
驚いて肩を跳ね上げたエドと正面から顔を突き合わせ、一息でまくし立てる。
「僕は訊いてやるつもりなんかなかったんだ! なのに兄さんはあからさまだし、放っとけばいつまでもうじうじしてそうだし! 鬱陶しいのは外の雨だけで充分だ! わかったよ、結局僕しかいないんだから、僕が訊くしかないんだろ──わかったよ!」
「あ、アル?」
「うるさい!」
はい、すいません。すっかり兄の権威を失ったエドは身なりを正して正座した。
「いいかい、一回しか訊かないからね?」
「はい……」
神妙にうなずくこちらを眺め、アルフォンスは苦々しげに咳払いをし、それから言った。
「──大佐と何かあったの?」
エドの頭が真っ白になった。
たった一言の問いが、腹の底から物凄い勢いの渦巻きを作るのを感じた。ぐるぐると回るそれはエドの身体を上へと移動し、胸を詰まらせ、喉を圧迫し、最後に瞳の奥から涙を溢れさせた。
何を隠そう、突然の滂沱に驚いたのはエド自身である。
「うわっ……ちょっと待て、ちょっと待てよー……」
ぼろぼろと。本当にどこか壊れたのかくらいの勢いなのだ。こんな泣き方は、生まれてこのかた経験がない。
さすがにアルフォンスも向かいで脱力した。
「もー……だから雨は外だけでいいって」
「そんな言ったって……うわー……」
エドはシーツを手繰り寄せ、ひっきりなしに涙をこぼす瞼を押さえる。
「くそ……っ、お前が変なこと言うから!」
「変なことなんか言ってないよ」
「言った! お前は今一番オレに言っちゃならん名前を言った!」
「大佐?」
「また言った! 兄ちゃん、アルをそんなふうに育てた覚えない!」
アルフォンスが呆れ切った様子で溜め息をつく。
「もういいから。泣くようなことがあったんだろ、わかったよ。悪いのはどっち? 兄さん? 大佐?」
エドは洟をかみながら首を横に振る。
「わかんね……」
それは本当だ。突然あんなふうに言ったロイも悪かったのだろうし、答えることのできなかったエドも悪かった。どちらがより悪いかなどわからない。ただ、エドは猛烈に後ろめたかったのだ。
ロイを好きだということが。
ロイに笑ってほしい、喜んでほしいと思う一方で、ロイを一番大切にはしたくない自分を知っていた。一瞬でもロイだけでいっぱいになる自分は許せなかった。
──触れても?
多分、彼がわざわざ尋ねたのは、エドのそういった気持ちを知っていたからに違いない。
自覚してしまえば、ただの涙も自己嫌悪の涙へと変わる。
放っておかれれば放っておかれただけ落ち込んでいくエドに、とうとうアルフォンスも苦笑する。
「……これもあんまり教えたくなかったんだけど」
あのね。声をひそめ、弟は言うのだ。
「兄さん、僕以外のものも大切にしていいんだよ?」
まるで聞いたことのない異国の言葉のようだった。エドは呆然と弟を見上げた。
表情がないはずの鎧の面が、その時は確かに笑顔を浮かべているように思えた。
「兄さんがずっと様子変だったからさ。僕だっていろいろ考えたんだよ、大佐とも少し話した。大佐が僕のこと苦手なのは兄さんのせいだと思うよ」
それも初耳だ。
「誰と話してても一緒だろう?」
「違うよ全然。今度僕と話してるとこ見てみたら? 面と向かって言われたことはないけど、よっぽど悔しいんだと思う」
「何が?」
アルフォンスはそれ以上教えてはくれなかった。ただ、さっぱりしたように肩の力を抜いて、
「とにかく──せっかく泣いても平気な天気なんだから会ってきたら? 兄さんが謝ってくるのもいいし、大佐に謝ってもらうのもいいんじゃない?」
今更エドに否やもない。そもそもロイとは、イーストシティにいる間、毎日会うと約束したのだ。
「ついでにご飯も食べさせてもらいなよ」
最後に足された小言に何とか笑ってうなずいた。
出来の良い弟のおかげで、いくらか心が軽さを取り戻している。今なら上手くいく気がする。傷つけたぶんだけやさしくしてこよう、エドは決心して宿を飛び出した。
04
頬を打つ雨は痛いほどだった。
外に出た途端にずぶ濡れになる。コートは置いてきたので身軽ではあったけれども、上着は肌に絡んで動きを制限したし、ズボンはぴちぴちで気持ち悪い、その上ブーツの中は水が溜まって仕方がなかった。髪を編むのを忘れていたので頭も見れたものではない。
しかしエドは走った。
既に微妙な時間帯だ。通常であればロイは帰路についていてもおかしくなかった。自宅まで押しかけるのはどうかと思いもしたが、今行かなければいつ行くのだと、背中を押す思いがあった。
坂を上って石畳の道を大通りへと駆け抜ける。
町一番の繁華街は、雨天でもしっかりと盛況だ。宵の口、ほろ酔い加減の人々が、ずぶ濡れになって急ぐエドを気まぐれに囃し立てた。左右に割れる傘の群れ。雨で煙った店の明かりは眩くてならず、エドは盲目の魚のように光の中を泳ぎ行く。
荒い呼吸であえぎながら広場に着いた。
中央では石造りの噴水が鈍い水音を立てている。
煉瓦造りの建物がドーナツ状に立ち並んだ通りであった。一階が本屋である集合住宅もその中の一軒で、住宅部分へと向かう専用ポーチが、ガス燈の灯火にほのあかく照らし出されていた。
エドは息を整え、そのポーチへと歩みを進める。
通路にも階段にも、エドが進むたびに水溜りができる。今更ながらに服をしぼってみたり、髪を整えてみたりしたけれども、水溜りの大きさは変わらない。
そうこうしているうちに早速ロイの部屋に着いてしまう。だが中に人の気配がないのだ。試しにドアノブも回したが、施錠済の無情な音が響くばかりである。
エドはたちまち勢いを失い、戸口にうずくまる。
「……どーしよ……」
本音を言えば、どうしようも何もしばらくここから動く気力が浮かびそうにない。
ただ、じっとしている間に正面からぶつかる勇気が消えていくことが怖かった。そもそも何をどう伝えたいか計画していたわけでもないから、自宅に押しかけてしまったことにも自信がないのだ。
「どーしよ……」
再び涙を溜めそうになる瞼をかたく閉じる。
その時だった。
足音がした。
エドがはっと顔を上げる。
ちょうど通路の入り口とこちら側、図ったようなタイミングで互いの視線が交差する──ロイである。
「……た、」
呼び声は最後まで続かない。ロイがこちらを見るなり、怒りを隠さぬ形相で足早に迫ってきたからだ。
身を竦める暇すらなかった。彼は乱暴にエドの腕を引き上げ、立たせると、唸るように言った。
「──何をしている?」
「……っ……」
「何をしているんだ、こんなところで! こんな格好で!」
「ご、ごめ……っ」
「謝ってほしくなど……っ!」
否定したロイは、次の瞬間、他に選べるものがなかったかのように苦しげな表情でエドを抱きしめた。
途端に彼の軍服に大きな染みができる。
「あっ……あ──大佐、軍服っ」
聞こえているだろうに、ロイはエドを抱く腕を強くするだけだ。
「オレ、ずぶ濡れなんだよ!」
「見ればわかる、しかもまた冷たい」
いつかの会話が頭に浮かんだ。
「あたたかくしてくれと頼んだのに」
悲しげに言われて言葉が出なくなる。
「……君は少しも私の言うことをきいてはくれない」
謝るべきなのかとも思ったのだ。しかし「謝ってほしくない」と先に言われている。エドはロイと交わしたやり取りを思い出す。何か彼の気を逸らすことのできるような言葉があったはずだった。
そして急回転する頭にひらめくキーワード。
濡れた猫。
「……にゃあ」
声は見事にロイの虚を突いた。切実だった抱擁が緩む。
エドはその隙にどうにか向き合える距離を確保した。
正面から彼の瞳を見上げる。
「……濡れた猫にはあたたかいミルクくれるんだろ?」
軽く言ったつもりだ。
ただし不安は隠せず、距離をとったものの軍服の袖を掴んだままのエドに、根負けして緊張を解かせてくれたのはロイの方だった。
「……君がミルクをご所望とはね」
「なくてもいいよ。でも腹減った」
「せっかくの機会だ、ミルクもぜひ飲んで行きなさい」
と、言いたいところだが──、ロイが微苦笑する。
「うちに牛乳はないのだよ、残念だったね」
彼の声は相変わらずやさしく、エドはそれだけで緩みがちだった涙腺が復活しそうになり、慌てて笑顔を作った。
05
ロイの部屋は意外に片付いていた。と言うより、元々荷物が少ないのかもしれない。
しいて難を上げるなら、至るところに本の小山ができていることだろうか。壁際や床、棚や椅子の上など、空いたスペースに適当に詰まれているので、広さはあるにもかかわらず妙に動きづらかった。
そんな状態では、うっかり本を濡らしてしまわないよう気を遣う。部屋の有様を見るなり、錬金術で服を乾かすと言ったエドに、とにかく強固にシャワーをすすめたのはロイである。
「それでは服は乾いても君が少しもあたたまらない」
エド自身は水風呂に慣れていたし、水気がなくなるだけでも一向にかまわなかったのだ。しかしロイは真剣に言い募った。
「いいかい? バスタブに湯を溜めながら、ゆっくりと身体をあたためてくるんだ。もしもまた水浴びなんかをしたら、私が熱湯で君の身体を一から洗い直すから、そのつもりでいてくれ」
仕方がないのでおとなしくうなずいておいた。
ロイはエドを浴室に放り込むと、世話しなくリビングへと返って行った。エドの「腹減った」を真面目に受けてくれたらしい。以前に料理は不得手だという話を聞いた気がするのだが、我侭を許してくれる気持ちが嬉しく、そのままである。
何でも器用にこなす男が、エドのために苦労をすると言うのだ、止めるなど勿体ないではないか。
彼の苦労に免じて、エドの方でも今晩は習慣を曲げ、あたたかいシャワーを浴びることにした。
指示された通りに浴槽の排水溝に栓をし、温水を溜めながらシャワーを使う。
だが、本当に久しぶりに使ったもので、今ひとつ勝手が掴めなかったのだ。湯はひどく熱いような気がしたし、湯気も息苦しい気がした。ましてや「あたたまる」というのはどのくらいで「あたたまった」に変わるのか──
約束の手前、念を入れて熱めのシャワーを浴び、湯に浸かり続けていたエドは、次第に朦朧となる視界を不思議に思う。
「……まだ、かな」
ぐらぐらと。揺れているのは水面か己か。
すっかりふやけた肌が赤かった。そろそろ良いのかもしれない。エドはシャワーを止め、排水溝の栓を抜き、ふぅと一息、何だか恐ろしく重い身体を立ち上がらせる。
と、ぐにゃり、地面が融けた。
「あ、れ……?」
前のめりになる身体を止めようがなかった。エドは迫る床に無防備なまま倒れ込む。
機械鎧が派手な音を立てた。
すぐさま浴室に駆けつけたのは、もちろんロイだ。
彼はすっかり湯だってのびたこちらを声もなく眺め、継いで呆れきった様子で額に手をやった。
「確かにあたたまれと言ったのは私だがね」
「うう……」
「生きているか、鋼の。抱き上げるぞ?」
「うう……」
もはや返事も上手くいかない。ロイも問いを繰り返すようなことはしなかった。エドの両手を首に回させ、幼い子供にするように胸と胸を合わせる格好で抱え上げる。
エドは彼のシャツが肩からどんどん湿っていくのをぼんやりと見た。
「……大佐……また濡れる……」
「もういいよ」
「……ごめん……」
ロイは苦笑いながらエドをバスタオルでくるみ、頭にも小判のタオルを巻きつけ、そのまま寝室へと連れていく。
布団を剥いでマットレスだけになったベッドに丁重に下ろされた。
ひんやりとしたシーツが気持ち良い。
「……真っ赤だな、君」
「あったまれって言うから……」
「限度があるだろう?」
「忘れてたんだよ……」
濡れた前髪をそっと梳かれる。
彼の手も冷たくて気持ちが良かった。一度触れただけで離れようとしたそれを、エドは己の手を重ねることで引き止め、改めて額から目元に当てさせる。
「……濡れタオルでも持ってこようか?」
「ん……。これがぬるくなったら」
ロイが笑った気配がした。
その時、エドはふと、相手がいつもと変わりがないことを不思議に思った。昨日の別れ方から言って、もう少し気まずい展開を予想していたのだ。
本当はまだ何も解決していなかった。ロイのことであるから、エドが知らぬふりをしていれば、昨日のこともなかったことにしてしまうのかもしれない。
──触れても?
なかったことになる。あれほどエドを泣かせ、今この時ですら鼓膜に焼きついた問いが?
冗談ではない。
額を冷やさせていた手を持ち上げる。
「もうぬるくなってしまったか」
そんなふうに笑う男の手のひらに、目を閉じて唇を押し当てた。
途端に、すっと息を飲む音が聞こえた。
「……はがねの」
その呼び声は、多少の驚きも混じった、初めて聞く種類のものだった。彼の中のどこかへと確実に届いたらしい。勢いを得たエドは、目を閉じたまま真摯に告白する。
「……触ってもいいよ」
ロイが何かを言う前に言ってしまえ。
「ここだけじゃなくて、どこでも。あんたが好きなとこ触ればいい」
恐る恐る瞼を開く。久々に視線を合わせたロイは、途方に暮れた表情をしていた。
「……君、自分がどんな格好をしているか忘れているだろう?」
「どんな……?」
「君が忘れていようと、私も一応人並みには性欲を持った男なのだが」
意味がわからずに呆けていたら、ロイは、エドが捕まえていた手をそっとほどき、そのまま指で鎖骨から胸元までを一撫でする。
「わっ……」
突然身体が総毛立ったものだからびっくりした。そうして理解する。口付けたいほど好きな相手なら、セックスの対象にもなりえるわけだ。
思わずバスタオルを手繰り寄せていた。エドの肌色は元から赤かったし、動悸も早かったのだが、なおいっそう機能が暴走し始めている気がする。血が上りすぎて、目まで眩んできた。
よほど情けない顔を晒したのかもしれない。うろたえるばかりのエドに、ロイは短く息をついて立ち上がる。
「あんまり無防備なことを言わないでくれ」
彼が苦笑い背を向ける。
行ってしまう──思った瞬間、咄嗟に手が伸び、シャツの裾を捕まえていた。
エドは自分の行動に戸惑った。そして、もっと戸惑った顔をして振り返ったのはロイの方だった。
「……鋼の。そろそろ私は誤解するよ?」
誤解。
いや、誤解と言うよりむしろ正解だ。エドは彼を引き止めた自分の手を見て困ったものの、なるようになれと思い切る。
だって他に何もあげられない。
「……大佐、オレのこと好き?」
「好きだよ」
「オレ、あんたのこと大切にできないかも。それでも?」
「好きだね」
エドは握った裾を引っ張った。
「じゃあここにいて。どこにも行くな」
ロイはしばらく引きつった服の端を見下ろしていた。
表面上はいつも通りに見えたが、それ相応の葛藤があったに違いない。唐突にくしゃりと崩れた表情が笑っているのに泣いているようにも見えて、エドは一瞬矢も盾もたまらなくなるほど彼を好きだと思った。
「君に望まれて離せるわけがない」
服の代わりに直接指を絡められる。
ロイの指はいつもやさしい。この指と同じくらい、エドも彼にやさしくできればいい。
「ちゃんと……好きだよ、オレも」
精一杯を声にすると、ロイは「知っていたよ」と苦笑い、猫のご機嫌うかがいをするかのように、エドの頬からおとがいにかけてをくすぐった。
まずはキスから。
別に約束事ではなかったのだろうが、一度触れそこなったものにロイがこだわったのは当然だったのかもしれない。
唇を重ね合わせるだけから始まって、それこそ息継ぎを必要とするキスまで、何度も何度も繰り返し与えられ、エドは早速音を上げそうになる。
ところが、そこからがロイが経験豊富であるという噂を実感するところで、ぎりぎりまで触れ合っても決して限界を越える無理はさせない。
エドが息苦しさに震え出すと浅いキスに戻し、唇同士ではなく頬同士を擦り合わせたり、額で額を小突いたり、目が合えば視線で口付けるように微笑んでみたりと、ハチミツ掛けのデザートでも食べている気分にさせられる。
そうして呼吸が落ち着けば、また舌の根まで探るキスの再開だった。
その頃にはもう、口腔だけでなく全身がロイを追っている。粘膜を舐め上げられるごとに声が漏れるのだ。
恥ずかしさに押しやろうとしても、逆に舌先を小さく吸われ、なお甘いものが胸に募った。たまらず同じことを返せば、ロイまで肩を揺らしてエドを更に引き寄せる。
結局二人ともがキスの虜と化した。
長い時間をかけてぎりぎりの場所を行ったり来たり。確かなものはロイだけで、気付けばエドは、両腕のみならず立てた両膝すら使って彼に縋っている。
もちろん下肢は簡単にロイの手を許した。
キスを受けながら、昂ぶっていたものに指を這わされ、エドは喉の奥で悲鳴を上げずにはいられなかった。
どこかが狂ったのかと思うくらい感じた。
指のはらで先端をなぶられれば、もうキスにだって集中できない。相手の舌を噛み切ってしまいそうで、焦ってロイの胸を押す。
唇が離れた途端、己の喉からはびっくりするような嬌声が漏れた。
「やぁん……っ」
自分の声に泣きそうになった。
頬に血がのぼる。すぐ近くのロイの瞳が嬉しそうにまたたいた。
「ぁん……っ、こんな……っ」
「ん?」
「やっ……、ちょっ……」
抵抗するとか何とかよりも、とにかく過敏な反応が恥ずかしくてならないのだ。やんわり握りこまれただけなのに、もう濡れた音がするではないか。
混乱するエドを、しかしロイは救ってはくれなかった。
「……キス、気持ち良かったね」
続けざまに、もう一度舌を出してと乞われる。無理だと首を振っても、頼むからと更に甘く懇願する。
エドは逆らいきれなかった。口も閉じられず、舌先を吸われながら下肢を揉まれ、幼い子供のように泣かされる。
「ん、ぇっ……ん、ぁっ、あっ……あぁ……」
結局少しもしない間に爆ぜた。
ロイは羞恥で咽び泣くエドを抱き込み、また甘ったるいキスをよこした。しかも爆ぜたはずのそこを更に揉みくちゃにしながらの暴挙だった。
これ以上黙ってはいられない。エドは無体を繰り返す手を必死で押さえ、口付けから逃れる。
「も……っ、ちょっと待てってば!」
改めて見れば、ロイは服すら脱いでいないのだ。そりゃエドは風呂上りだったし、部屋から出て行こうとした彼を引き止めたのもエドの方だった。しかしあんまり一方的過ぎないか。自分だけ恥ずかしいのは嫌だし、自分だけ気持ち良いのも嫌なのだ。
「どこか痛くしたのか?」
ロイはちっともわかっていない様子で的外れなことを尋ねてくる。エドは奮起した。
「そんなじゃない! そんなじゃなくって、何でオレだけさせるんだよ!」
とはいえ、ぼろぼろと涙をこぼしながら言ったものだから、ロイは半分も聞いちゃいなかった。聞くよりもシャツの袖口で瞼を拭われ、足りない分はまたキスで吸われる。
「ああ、そんなに泣くな。驚いたのかい?」
「違う! オレの話を聞け!」
「聞いているよ」
言っている傍から下肢を探られる。やっぱり聞いていないではないか。
「も、ちが……っ、バカ、聞け……っ!」
悔し紛れに彼の唇に噛み付いた。さすがに痛かったらしく、ロイは素直に動きを止める。
「違うって言ってんだろ……っ、こんなじゃなくって、ちゃんとあんたも気持ち良く……っ」
ロイが目を瞠った。
「ちゃんと、こんなの着てないで……ちゃんと……!」
言葉足らずにシャツを引くエドを声もなく眺め、それからやっと我を取り戻した彼は、照れたような困ったような表情で下を向いた。
「……鋼の。君、ちょっとひどいよ」
「だって──」
「ああ、違う──君が思っているようなことじゃなく。そうじゃなくって、つまり」
ロイは言いよどみ、やっぱり困った様子でエドを抱き寄せる。
「君の気遣いは嬉しいが、私はちゃんと気持ち良いし、服は君を抱いていたくて手を離す時間を惜しんだだけだ。ひどいと言ったのは──」
生身の手を取られ、コットンパンツ越しのロイに触れさせられる。
熱くてびっくりした。
「……こういうわけだよ。君のせいで一気に余裕がなくなった、どうしてくれる」
どうするも何も。そんなになっているならなおさら。
「……んなの、オレで」
何とかすれば良いのだと言いかけて、あんまりな言葉に口をつぐむ。ロイが面映そうに苦笑した。
「君で、何だって? そういう言葉を聞かされる身にもなってくれ。私の心臓が持たない」
しかし、エドも一人で煽られるのは苦しかったのだ。
「だって知らねーもん! 大佐こそ経験者なんだから、もっとどうすればいいか教えてくれりゃいいんだ!」
だから必死で訴えた。それを聞いたロイは、とうとう盛大な溜め息をつき、
「あのね? それ以上私好みになってどうする気だい?」
もう話すなとばかりに噛み付くようなキスを受ける。
あとは嵐のようだった。エドがいちいち驚いたり怯えたり恥ずかしがったりしているうちに、ロイはちゃっかりと準備を済ませ、半ば強引に身体を繋がれる。
当然のごとく痛みは凄まじかったが、一人でこらえるよりも二人で痛いと騒ぎ合っていた方が楽ではあった。
その夜の情交は、結果として「気持ち良い」の定義からは大きく外れてしまったかもしれない。ただ、何度もキスを交わし、指も腕も足も絡め合って、今与えられる精一杯のものをお互いに与え合うことには成功した。
二人にとっては誰と過ごすよりやさしい夜になった。
06
「……つまり、君は弟に背中を押してもらってやっと私に会いに来たと、そう言うわけだな?」
翌日、まばゆい朝陽の射し込むダイニングで、パンをかじりながら昨日の顛末を話したエドに、ロイは苦い顔を隠さず言った。
「いや、そういう言い方するとさ……?」
「どういう言い方でも一緒だ。どうせ私は君に大切にしてもらえないらしいから、弟くんの力添えなくしては長く傍にいることすらできないさ。わかっているよ」
「拗ねんなよ! ちゃんとやさしくしてるだろ!」
「やさしく、ね。そう言えば目玉焼きを作ってくれたっけね」
少し白身の端が焦げた不恰好な目玉焼きが、今朝の二人の朝食だった。
食べる時はこちらが恥ずかしいくらいに嬉しげな顔をしていたくせに、アルフォンスのことを話した途端、ロイはすっかりへそを曲げてしまったらしい。目玉焼きのなくなった皿を行儀悪くフォークで叩き、余ったサラダをぐさりと突き刺す。
「なに、気にすることはないよ。私だって良い大人だ、君が私を大切にできないと悔いるような状況には絶対にさせないから。君は安心して弟を大切にしてくれ」
言葉では度量の大きいことを言っていても口調は棘だらけだ。そう言えばアルフォンスも言っていたっけ。よっぽど悔しいんだと思うよ、と。あれはこういう意味だったのだ。初めて気が付いた。
「もー……だからちゃんと大佐も大切にするって。大佐こそどうなんだよ、隠し事ばっかりで、オレのことなんか普通にないがしろだろ?」
「それは違う、大切にしているから隠すんだ」
「えー?」
「私のことはいいよ。話をすり替えたいところに申し訳ないが、そもそも私の隠し事ひとつで君が左右されるとは思わない。ないがしろが聞いて呆れる、それは私の台詞だろうに」
嫌に悲しげに言われて、どう見ても演技であるのに無視できない。エドは困りきって溜め息をつく。
ロイはただでさえ人の二手三手先を読む男だった。口で言い負かそうとするなら起死回生の一手狙い──
何か話のねたになるものはなかったか。エドは部屋の中を見回した。ところ構わず積み重ねられた本以外には、これと言って珍しいものもないロイの部屋。
ふと目がとまった。
積み上げられた本の上に、無造作に置かれている細長い箱がある。元々のエドは今日、この箱の中身のためにロイ宅を訪れることになっていた。
「……大佐、あれ」
エドが指差せば、彼は案外あっさりそちらを向く。
「あれか。いいよ、好きなだけ使ってくれ」
「水、飲む?」
「もらうよ」
どうやらやっと先の話題から逃がしてくれる気になったらしい。不機嫌そうな顔は相変わらずだったが、愚痴も嘆きも聞こえてはこない。
エドは安心して椅子から立ち上がった。動きに伴いあらぬ場所に痛みはあったものの、ロイに見咎められなければポーカーフェイスも上出来だ。
本の上にあった箱を取り、壁越しのキッチンへと向かう。とりあえず使うグラスだけを軽く洗ってしまうつもりで箱から出した。
するとどうだ。透明な色ガラスは、朝陽を斜めから受けて美しい光の影を作るではないか。
ちょっと感動した。
エドは残りのグラスも箱から出す。赤、青、緑、黄色、紫、橙、無色。なかなか素晴らしい色合いだ。試しに水を入れてみたら、水が凸レンズの役割を果たし、色が微妙に様変わりした。
「大佐! 大佐!」
一人で見ているのが勿体なくてロイを呼んだ。
すぐにキッチンに顔を出した彼は、エドが何に喜んでいるのか察したようだ。
「向こうの窓辺に飾ってみるかい?」
二人で水の入った七つのグラスを分け合い、光が一番良く当たる窓の縁にひとつずつ置いていった。部屋には瞬く間に美しい色の影が伸び、ふとした拍子で中の水が揺れるたび、影もゆらゆらと色を変えた。
「これ、ずっと飾ってたら?」
「それもいいね、だがやめておこう。君が来た時にだけ出すことにするよ」
気に入るかと思ったのだがそうでもなかったらしい。こちらが残念そうにしていると、彼はさらりと続けた。
「綺麗なものは一人で見ると寂しいんだ」
エドは驚いて顔を上げる。
「君が教えてくれたことだよ?」
そんなことを言って幸せそうに笑うロイに、エドの中のどこかで小さく軋む部分がある。
やっぱり全然足りていないのかもしれない、後ろめたい思いがよみがえる。
大切にしているつもり、やさしくしているつもり。それでも許されるのは、結局エドがロイに大切にされてやさしくされているということではないのか。
せめてあと少しだけでも──
好きだと伝える方法があれば良いのに。