Y.
流川と、呼ぶ声は何度も聞こえていた。その中でまどろむのは、いたく気持ちがいいものだった。だから意識が完全に目を醒ましていても、流川はしばらくぼんやり目を閉じていた。
「てめー、いい加減に起きろよ! ああ、もう――何だよこいつ! 俺がどれだけ――ああ、ったく!」
怒鳴り声さえ気持ちよいなど、自分はどこかおかしくなったのだろうか。えらくくすぐったい気分で小さく身じろぐと、ぐいぐい身体を揺すられる。
「ルカワっ、ルカワっ、起きろ!」
心の中だけで笑った。騒々しいけれど、すごくいい感じだ。稀に見ぬ寝起きの気持ち良さである。
自分の名前を必死になって呼ぶ、この生き物の名前は桜木花道という。華やかな赤い髪を持つ人間だ。ヴァンパイアの流川に恐れもなく近づき、抵抗し、笑いかけた相手だった。
「ルカワっ、てめーいい加減にしねーと――」
しねーと何だ、やっぱり流川は寝たふりのままそれを聞いている。けれど次の台詞を聞いた途端、びっくりして目を開けずにはいられなくなった。
「――いい加減にしねーと泣くぞ!」
思わず目を開けた流川が見たのは、花道の心底ほっとした表情だ。
……本当に泣くのかと思ったのだ。人間は壊れやすい。昨日の花道の泣き顔を見てからは、特にそんな気がしている。泣くのは、人間が壊れる前兆だ。それは、流川にとってあまり喜ばしいことではなかった。
「何だよ、てめーは! 何でそんなに起きねーんだ!」
しかし、花道は壊れる気配もなくわめいている。流川はひそかに安心した。
「……俺は元からこうだ」
「げーっ、ほとんど病気じゃんか」
悪態をつく花道の、ラフに羽織ったシャツがふわりと揺れる。気づけば、あの赤い髪も風にあおられているではないか。
よく見ると、今まで一度として開けたことのない、この部屋唯一の窓が開いていた。薄絹のカーテン越しに、眩いばかりの光も射し込んでいる。
いつもは決して訪れることのない光と風だ。草木の匂いをほのかに漂わせる、全く透明な空気である。
「……どうかしたのか?」
流川がひそかに驚いていると、花道が不思議そうな目をしていた。半分ベッドに乗り上げた姿勢で、まだ枕に頭を埋めている流川を覗き見る。
「……窓が」
「ああ、あれ? 勝手に開けたけど、まずかったか?」
「いや……」
「何だよ、もしかして寝ぼけてんじゃねーだろーなぁ?」
花道の髪が風でなびく。くるくる落ち着きのない表情が、流川をまっすぐに見つめたまま、明るい笑顔に変わった。
胸を突かれた。流川はその時、この世で一番美しい生き物を見つけたと思った。
何も言葉にできず、ぼうっと見とれる流川に、花道はいぶかしげな顔をしていたが、
「なぁ、俺、腹へって目が覚めたんだけど」
素直な、無防備な声で話しかける。
「……ああ……下に、何かある」
機械的に受け答えしながら、流川は身を起こし花道との距離を縮めた。すぐそばであの赤い髪が揺れている。
「下って言われても……どこだよ?」
「……下りればわかる。迷うわけねー」
「どうして」
「ブラウニーが勝手に引っ張ってく……あいつは、ガキには親切な妖精だから」
「ガキって誰だ」
「てめー」
ぽかりと頭を殴られた。全然腹が立たないどころか、流川は何だか嬉しくなってしまう。
こんな朝が毎日続けばどんなに楽しいだろう。毎日花道の声で目を覚まし、一番初めに顔を見て、一番初めに話をする。そんな毎日なら、永遠に続いたって飽きることはないに決まっている。
「じゃあ勝手に食っていーんだな!」
「ああ」
「わかった、てめーもいつまでも寝てねーで、さっさと起きろよ!」
一言言い置いた花道は、怒った顔のまま背を向けた。けれど一歩も歩かないうちに急に立ち止まってしまう。どうかしたのか、と問おうとして、流川は口をつぐんだ。
「……あれ?」
花道が目をこする。何度も何度も。手のひらで、指で。
「おっかしーな……」
呟きつつも部屋を出て行く。ドアが閉まる。足音が遠ざかっていく。流川はベッドの背もたれに寄りかかったまま動かなかった――動けなかった。
流川は、自分がヴァンパイアであったことを唐突に思い出していた。
馬鹿な幻を一瞬でも本気で願った。頭がどうかしている。ケット・シーあたりが今のヴァンパイアの姿を見たら、大笑いして罵ったはずだ。
桜木花道は人間だ。
ヴァンパイアとは、寿命も価値観も趣向も、何もかもが違う。壊れやすい身体――まるで玩具のように、簡単にあちこちが傷む身体。インプみたいな、大した力も持たない小人の妖精に、影を盗まれたくらいで死んでしまう、脆い生き物である。
ただの今まで忘れていたのだ。あの人間は消えるだろう。いつもヴァンパイアが目にしていたように、影を盗まれ、翌日の今日にはもう目をおかしくしていた。明日になれば、機能の衰えた臓器や肉が腐敗を始めるだろう。いや、その前にヘル・ハウンドが肉を食荒らすかもしれない。どちらにせよ、ヴァンパイアの前にはいなくなる。これまでここに迷い込んできた全ての人間たちがそうであったように。
泣きも笑いもしない、ただの肉塊に変わる。
もしもそれが嫌なら、一声、だ。ヴァンパイアがインプを呼べばいい。それだけであの人間は、また短い命を取り戻す。今ならまだ間に合う。ヘル・ハウンドの気配もまだ感じない。人間は、この館のどこかをさまよっているはずだ。
……だがヴァンパイアが獲物を救ったとして、何が変わるのか。
人間はすぐに壊れる。
人間は必ずヴァンパイアを恐れる。嫌悪する。
ならば救っても何も変わらないではないか。
ヴァンパイアはベッドから起き上がると、未だ爽やかな風が流れ込む窓を閉め、壁にぐったりと寄りかかった。窓を閉めただけだというのに、全てがいつもと同じ朝になった。彼は、けだるく、孤独で、動かない空気にひっそりと身を隠し、今夜の獲物に思いを馳せようと努める。
――ああ、けれど。
もう、ヴァンパイアの名前を問うような獲物は、二度とやって来ないのだろう。
* *
一体どうしたことか、視界全てがモノトーンだ。花道は、何度こすっても元のように色を映すことのない目に、いささか手を焼いていた。
目を悪くする原因なんか思い当たらないから、きっと一時的なものなのだろうが、とにかく勝手が掴めない。この館の内装は、廊下や壁が濃い色で統一されているらしく、今の花道には、何もかもが真っ黒にしか見えないのだ。階段と廊下の境目の区別もつかなかったし、階段を下りるとなると、すぐにも足を踏み外してしまいそうになる。
手すりにしがみつきながら、やっとのことで一段一段をやり過ごしていた花道は、しかし、あと数段のところで、思ってもみない障害物に驚き、派手に転げ落ちてしまった。
幸い、あまり痛みも感じなかったし、怪我はしていないのだろう。何とか身を起こして座り込み、後ろを振り返ると、球形の黒い物体が階段の中腹にうずくまっている。
カーペットの色と同化してしまって、見分けることが難しい。花道が精一杯目をこらしていると、その物体は、生き物であることを証明するように小さく身動いた。
「ごめん、ごめん。転ばせちゃったみたいだね」
歌うような声だ。その声のおかげで、ようやく黒い物体がケット・シーであったことに気づく。よく見ると、黒の球体の中にもむらがあって、猫の目と口の部分だけが灰色になっている。
三日月の目と口だ。もしかして、笑われているのだろうか。
「大丈夫? 怪我はない?」
でもきっと気のせいだろう。普段と違う白黒の画面のせいで、ケット・シーの陽気さが際立って見えるだけだ。どこか悪意がちらつく気もするが、それだって気のせいに違いない。花道は、ケット・シーから嫌われるようなことをした記憶はないのだから。
「……ヘーキだ」
そう、笑って答えてはみたけれど、言葉が宙に浮いてしまった。
奇妙な空気である。こちらの戸惑いなどおかまいなしに、黒猫はひょいと飛び跳ねる。それから彼は、おもむろに花道の膝の上に前足のひとつを乗せ、気安い素振りでこちらを見上げた。
どきりとした。ほんの一瞬だったが、花道はケット・シーの小さな足の爪が、まるで短剣のように自分の肌を貫くのではないかと思った。
三日月の目と口が、楽しげに笑う。
「ふぅん。やっぱり、血、とられちゃったんだ」
彼は、花道の首筋に残っている牙の痕を心底面白そうに仰ぐ。悪気でやっているのか、そうではないのか、ケット・シーは台詞のたびに一々こちらの反応を試している。
さすがに良い感じは受けず、花道は黒猫から目を逸らした。
「……あいつ、朝日浴びても平気なんだな」
故意に話題を変えても、ケット・シーの調子はそのままだ。
「あいつって、ヴァンパイアのこと? へぇ、ずいぶん仲良くなったみたいだ。血とられてヤじゃなかったんだ。ふぅん、珍しい人間もいるもんだ」
さすがにかちんとくる。多分、黒猫はわざと花道を挑発していた。
「そうそう、朝日、ね。ここの太陽は偽物だから、光ってるだけのガラス玉みたいなものさ。ヴァンパイアに害があるわけがないよ。残念だった?」
どうして残念なのだろう。ケット・シーの微妙な含み方は、花道には理解できない。答えることができずにいると、猫はまた大げさに笑う。
「ヴァンパイアを殺すにはね、本物の太陽じゃなきゃだめさ。つまりここにいる限り、あいつは無敵だってこと」
「……別に、あいつの殺し方なんて知りたいわけじゃねーよ」
「そう? お前、あんな簡単に魔法かけられてたし。インプには遊ばれるわ、血抜かれるわ、これからヘル・ハウンドには会わなきゃなんないわで、俺は絶対ヴァンパイアのこと恨んでると思ってたよ」
ケット・シーの言葉は意味不明の単語が多い。花道は、彼の言う内容の半分も理解できないままだった。困惑して黙ると、黒猫は更に陽気に続けた。
「まぁ、だからって悲観するんじゃないよ、人間。お前も少しは幸福だったじゃないか」
人間――
流川もそうだった、決して花道に名前を訊こうとしない。自分の名を名乗ろうともしない。ケット・シーも同じである。彼は花道を人間と呼ぶのだ。
だが「人間」と呼ばれるべき存在なら百万といる。花道は確かに人間であったが、そんなふうに「どこの誰でもいい」という呼ばれ方は好きにはなれない。
「なぁ」
花道は、猫の三日月目をじっと見つめて口を開いた。
「俺、桜木花道って名前なんだ」
途端に、思ってもみないほどの顕著さで、ケット・シーの目が剣呑になった。彼は花道の膝に乗り上げていた前足を下ろし、用心深く後ろへ下がる。
「変なこと言うね、お前。人間は人間でしかないさ」
声までが硬くなった。さっきのからかうような口調が嘘みたいだ。
花道はそれを不思議に思いながらも、ゆっくり言葉を継いだ。ケット・シーは相変わらず睨みつけるような目でこちらを見ている。
「そりゃ俺は人間だけど……でも人間なんか、俺の他にもいっぱいいるだろ? 俺は、だから桜木っていう名前があるんだ」
「どうでもいいよ、そんなの」
「良くねーよ、何でだ? あいつも同じこと言ってたけど、どうして名前で呼ばないんだ? お前にだって、ケット・シーじゃなくって、ちゃんとお前を呼べる名前があるんだろ?」
瞬間、猫は言葉に詰まったようだった。
「……ないよ」
「嘘だ」
「ない。あっても別に必要ない。俺はケット・シー、それだけだ」
言い切ると、彼は牽制するように身を低くする。これ以上話を続けると飛び掛ってきそうな雰囲気だ。それでも花道は続けずにはいられなかった。ケット・シーの言い分に納得できなかったからだけではない。昨夜、流川と話している時にも感じたことだったからだ。
「名前って、すげー大事だと思う。考えてもみろよ、もし俺の目の前にケット・シーが百匹いて、俺はお前を呼びたくってケット・シーって声かけるんだけど、その百匹がみんな振り向くんだ。そんなの、冗談じゃねーと思わねぇ?」
「百匹のケット・シー? 悪いけど、変な集会でもない限り、ケット・シーが寄り合うことはないよ」
猫がかたくなに言う。話にならないとばかりに背を向ける。
花道は更に言い募った。
「だから、よく考えろって。お前は一匹しかいねーんだろ? 俺は一匹しかいねーお前を呼びたいんだろ?」
言い終わらないうちに、ものすごい威嚇の声を出し、ケット・シーは体毛全てを逆立たせた。
「お前、人間のくせに生意気だね? 俺の知ったことじゃないよ! 名前なんかどうでもいいことだ。ほっとけよ、どうせお前も俺のことなんざ呼べないさ」
「どういう意味だよ……?」
「ほんっと頭悪いね、人間って! お前はまだ生きてるつもりでいるかもしれないけどね、もう命なんかとっくに盗られてんだよ!」
ケット・シーは激しく言葉を吐き出すと、すぐさま身を翻す。黒い球体は、もう花道を見向きもせずに走り去っていく。
……しばらく、ぼんやりと座り込んでいた。
花道には、ケット・シーが怒った理由がよく理解できなかった。流川も名前については妙な反応を返していたが、決して気を悪くしたふうではなかったのだ。今朝だって昨夜と同じだった。花道が名前を呼ぶことを咎めることもしなかったし、それなりに返事も返してくれた。
だがケット・シーの様子はまるで違う。花道が名前を訊いたことにも怒っていたようだったが、それ以上に、何か悪意のようなものがあった。
もしも花道の予想が間違っていないのなら、あの悪意は、花道が「人間」であったためのものだ。それ以上に説明のしようがない。誓って言うが、花道は猫に対してどんな危害も与えはしなかった。顔を合わせるのさえ、まだ二度目である。
しかも彼は、ほとんど物質を見る目で花道を見ていた。気の向くままにからかったり、触ってみたりと、まるで人形扱いである。
……いや、人形なのだろうか、実際。
何しろここは人間がいない場所なのだ。妖精や、ヴァンパイアや、花道が今まで出会ったことのない、ありとあらゆる特異な生き物たちが闊歩する世界なのだ。果たして、何の力もない――ただ息をしているだけの生物が、彼らのような生き物にとって、どんな意味があるというのだろう。
本当に人形かもしれない。ケット・シーだって外見は黒猫だが、ひょっとしたら、その爪の一本だけで花道を殺せるような獣でもおかしくはない。
人形なのだ。疑うまでもなく、彼らにとって花道は、その程度の存在でしかないのだ。
そして、もしかしたら流川にとっても――
思い当たった途端、すうっと血が引いていく嫌な感覚があった。
気づいてはならないことに気づいた気がしていた。花道は茫然と立ち上がる。相変わらず、目は白黒の景色しか映さない。ふらつく足で、それでもまっすぐに立つと、裸足だった爪先が怪我をしていたことに気がついた。
痛くないのに。
それは全く奇妙な光景だった。
白い小指の爪が割れて、そこから黒い液体がどんどん溢れてくるのだ。一歩後ずさると、濡れているような湿った床を踏んでしまう。驚いて――いくらか予感はして――足の裏を見たら、黒いインクの水溜りを踏んだように、べっとりと濡れている。
……これは血なのだろうか?
花道の足の小指から流れた?
「……痛い……」
否、そんな感覚はちっともない。目を閉じてしまえば、花道の身体のどこにも異常は感じない。けれど目の前には、血の止まらない自分の身体の一部がある。
「……嘘だ」
否。本当はもう気づいてもいる。ケット・シーは意味のわからない言葉で、それでもヒントをばら撒いていった。だからこれが現実だとも区別できる。
彼は、花道は既に命を盗まれたのだと言わなかったか?
突然、頭の中が真っ白になった。全てが花道の中から消えた。呪文のように繰り返し思うのは、ただ流川のことだけだ。
流川は知っていたのだろうか、花道が命を盗まれてしまっていたことを。こんなふうに怪我しても、痛みも感じない身体になっていたことを、知っていたのだろうか。
「……嘘だ……」
じっと動かずにいることしかできなかった。ケット・シーを探して真相を訊くことも、二階の流川の部屋に戻って彼に訊くことも、今の花道にとっては、どちらも勇気のいることだ。
何かの気配を感じて、びくりと顔を上げる。
廊下の向こうに、それはいる。黒い、大きな何かである。やはり顔らしい場所に、目のような灰色のくぼみがあるので、生き物には違いない。
花道は逃げることすら考えつかずにいた。
生き物が、一歩、また一歩と近づいてくる。色の狂ってしまった目では形がはっきり掴めないが、まず鳥や猫ではない。しなやかな歩みといい、無駄のない身体の線といい、獣の印象がある。大型犬か狼みたいだ。普段は暗闇にひそんで姿を隠している、頭の良い肉食動物の息遣いをしていた。
ドーベルマンかもしれない。何にしろ、気配は不吉なものだった。おそらく花道にとっては危険な生き物なのだろう。わかってはいたが、もう動くことさえしたくない。獣に対する恐怖よりも、内心の失望の方が勝っていた。
花道は、ひどく悲しい気持ちで獣の目を見つめた。
「……てめー、誰?」
問いかけると、かすかに獣の耳が動いた。一瞬その歩みも止まったのだが、少しするとまた用心深く、足音も立てずに近づいてくる。
獣は花道の足元までやってきた。しばらく突っ立った花道と目を合わせたままじっとしていたが、首を静かにもたげ、床に鼻を擦りつけた後、酷薄そうな仕草で舌を出して血溜まりを舐める。
その仕草だけで、獣が何を目的にしているかわかってしまった。
「……うめー?」
だからそう言うと、獣は多少戸惑ったようだ。訝しげにこちらを見た。
花道は小さく微笑む。正常な感覚は当に麻痺している。ただぼんやりと獣に話しかけるのだ。自分の血は、流川がうまいと言っていたのだから、きっと獣にとってもうまいのだろうと考えながら。
「なぁ……血、止まんねー……死んでるからかな……」
答えはない。獣はケット・シーのように言葉をしゃべるわけではないらしい。それでも花道は口を開く。そうしていないと、自分が足元から壊れてしまうような気がする。
「……お前は俺を食いにきたんだろ……?」
花道は笑いながら、泣きたくってたまらなかった。
「……ルカワがそうしろって言ったのか……?」
いくら心が麻痺していようと、答えが返ってこないと知っていなければ、問うことはできなかったはずだ。
獣は花道の足元でじっとたたずんだまま、奇妙に静かな瞳でこちらを見ていた。
ふと溜め息が出る。身体中の力がどんどん抜けていく。花道は、またそっと笑って、黒く大きな獣に手を差し出した。
獣がぴくぴくと耳を動かした。まるで見たこともない生き物を見て当惑したような面持ちで、彼は花道を見上げていた。
「……なぁ……」
食えよ、と、そんな言葉が、今にも花道の口から飛び出そうとした瞬間だった。
派手な音をさせて、どこかの扉が開く。
花道が階段の向こうに視線を泳がせると、ひどく慌てたような流川の姿が手すり越しにあった。流川は、わき目も振らず花道を探し出すと、一声、インプ、と低く唱えた。
その声に応えるように、すぐさま花道の視界が色を取り戻す。全てが鮮明になる。黒塗りだった階段が、深い緑のビロード敷いた豪華な階段に。のっぺらぼうの壁や手すりが、彫刻を施された重厚な造りに。足元の獣が、真っ黒の洋犬に。爪先の黒い液体が真紅に変わった。
見れば、床の一角から滲み出てくるようにして、花道の足元に影が広がる。
命を盗まれたとは、こういう意味だったのだ。花道は今更ながらにそれに気がついた。
ぼんやり足元を見下ろすと、緑色の絨毯に黒っぽい血の染みが広がっている。それから影。何もかもが正常だ――いっそ滑稽なほど簡単に、全部が正常に戻っている。
大した感動もなく床に見入っている花道を、洋犬は静かに見上げている。
流川が階段を駆け下りてきた。
「どあほう、さっさと離れねーか!」
花道が目を上げると、怒った顔の流川がいる。彼は、ぼんやりしたままの花道の腕を引き寄せ、まるで危険から庇うように洋犬との間に立った。
何だか泣きたくなる。花道は何ともいえない思いで流川を見た。
「……てめーが言ったんじゃねーよな?」
声は囁き程度の大きさにしかならない。流川が訝しげな顔をしたが、もう一度はっきり問う勇気はなかった。代わりに洋犬を振り返ると、祈るように口を開いた。
「……違うんだろ?」
洋犬は何も言わない。ただ不意に歩み寄り、花道の怪我した爪先をぺろりと舐め、そのまま離れていく。
「……てめー、ヘル・ハウンドに何かしたのか?」
二人きりになると、流川が驚いたような顔をして訊いてきた。だが花道は、すぐに言葉を返すことができずにいた。まだ心の中がぐちゃぐちゃで、洋犬についても、他の何についても上手く気持ちの整理がつかないのだ。それでも何とか首を振れば、
「あいつは人間が好物だ、あんまり近づくな」
流川は心底安心したように息をつく。これが本当でなかったら、どれが本当なのかと疑うほど真剣な目で、花道の無事を確認する。
声が出なかった。一言でも言葉にすれば、全部が涙になって流れてしまいそうだ。一生懸命唇をかみ締めているのに、指が震えて仕方がない。
「……もったいねー」
ふと流川が身を沈めた。
彼の視線の先には、おそらく花道の血だらけの爪先があるのだろう。もうだいぶん血は止まりかけていたが、そこからは、ずきずきと鈍い痛みが立ち昇ってきていた。
流川は、おもむろにその踵を持ち上げた。バランスを狂わされた花道は、文句さえ言えずに壁に背を預ける。それでも目だけは、まっすぐに流川の一挙手一投足を追っているのだ。どこにも偽りなど見つからないようにと、懸命な祈りを込め、彼の端正な顔を見つめていた。
流川は、不安に張り詰めた花道の目の前で、恭しくひざまずき、先ほどヘル・ハウンドがそうしたように、血に濡れた爪先を一舐めした。
「……血が、ほしー……」
花道が何も言えないのをいいことに、彼はなおもその爪先に口付ける。
「……ルカ……ッ」
あんまりにも居たたまれないので、つい声が漏れた。流川が顔を上げる。しっとりと濡れた鉱石の瞳が、ひどく嬉しそうにまたたいた。
「もっと、呼べ」
腕をひかれて引き寄せられ、彼と向かい合うように座らされる。目が合うと、まるで当然のことをするように、流川の手が花道の髪を掻き上げる。
「呼べよ……もっと」
この手のやさしさは偽物なのか。囁きの熱さは偽物なのか。
花道には、判断などとてもできなかった。けれど、請われるだけ彼の名前を呼んでやらずにはいられない。するとどうしても苦しくて悲しい思いが声に滲んでしまうので、それに気づいた流川がまた、花道を慰めようとして、手を目をその唇を、際限なくやさしいものにする。
これが偽物のやさしさだとしたら、花道は一体どれを本物だと思えばいいのだろうか。
とても大切な壊れやすいもののように背中を撫でられる。たまらずに流川の肩に顔を伏せた。誰かに触られて、これほどせつない気分になったことなどない。
「……どうした……?」
問われて、子供のように首を振る。流川の指が髪をゆっくりとかき混ぜる。
「……桜木……?」
とても泣きたかった。
彼は花道を名前で呼んでくれる。それだけを覚えていられれば、後は何も知りたくはないのだ。こんな気持ちが、流川が最初に唱えた呪文のせいだったとしても、今感じている痛みは本物である。これ以上何も考えたくない。
花道が顔を上げると、流川は不思議そうに首をかしげた。
「……どうしてそんな顔するんだ?」
昨夜も同じことを訊かれた。花道は応える代わりにそっと笑う。流川は少しだけ困った顔をしていたが、問いを重ねることはせず、唇に触れるだけの口付けを落とした。
「……血がほしー」
「……ダメ」
「何で?」
「……腹減ってるから。それに痛そうだから」
「痛くねーよーにする」
「昨日と同じことするつもりなら、やだぞ」
「何で?」
「何ででも。あんなこと朝からできっかよ」
「……じゃあ痛くても我慢しろ」
「やだ。痛くしたら泣く」
花道が冗談まじりで言うと、流川は一瞬ひどくびっくりしたように口をつぐんだ。
「……痛くしたら泣くのか?」
一体どうしてなのか、彼はものすごく真剣にそれを問いかけた。
花道はさすがに肯定するのに躊躇したが、この際そういうことにしておいた方が都合が良い気がしたので、できるだけ重々しくうなずいておく。すぐに流川は、覚えておく、と、やっぱり真剣に誓いを立てた。変な感じもするにはするが、理由を問うことはやめておいた。
それでもしばらく、流川はどうやって承諾を得るか考えていたようだ。黙り込んだまま、指が名残惜しげに花道を辿っている。彼の指の温かさは、やはり誤魔化しようもなく心地よく、花道はされるがままに甘い溜め息をついた。
「……わかった」
そのうち流川が言った。
「痛くしねー。てめーが泣くようなこともしねー。その代わり口開けろ」
不穏な気配がする。花道が眉を寄せると、流川は熱心に言い募った。
「ヘーキ……キスするだけだ」
どうも嘘っぽいので最後まで睨んでいたのだが、結局流川に押し切られる形になる。強引に唇を合わせ、舌を絡めとられたと思った瞬間、あろうことか彼はその花道の舌に牙を立てた。
「……ウソツキ……っ!」
敏感な場所にそんなことをされては黙っていられない。痛くないどころか、滅茶苦茶痛いではないか。花道は彼を押しのけながら涙目で訴えたが、このヴァンパイアがその程度で諦めてくれるわけがない。
「ちょっと掠っただけだ……あばれるんな」
「嫌だ……っ、てめー離せよ!」
「ヤ」
短い主張の後の流川は、やっぱり自分勝手そのものだった。
「ほしー……口開けて、舌出せよ」
花道が首を振って拒絶する。しかしそれも長く続くはずがない。流川がぺろりと花道の唇を舐めただけで、くすぐったい感触にわななかずにはいられなかった。そのままあっさり深くまで侵入を許し、気づいた時にはもう、花道の舌は流川の餌食になっていた。
牙で傷つけた箇所からじわじわ滲む血液を、流川は丹念に舌ですくい、唇でやわらかく吸い上げる。
「……あめぇ……」
うっとりした声が聞こえた。薄く目を開ければ、ゆるく潤んだ流川の目とかち合う。
「……もう痛くねーだろ……?」
小さくうなずくと、彼はますます花道を懐へ抱き込んだ。
ヴァンパイアで人ならざる者であるはずの彼の腕は、花道がこれまで出会った誰のものより、花道が必要なのだと訴えているように思えた。
* *
朝食には遅く、昼食には早い中途半端な時間だった。
花道が腹がすいたとわめくと、流川も何か食いたいと言うではないか。ヴァンパイアのくせに普通の食生活もできるのかと訊いたら、彼は至極当然な顔をして横柄にうなずいたものだ。ヴァンパイアと一口に言ってもいろんな人種があるようで、どうやら彼はそれほど血に飢えた輩ではないらしい。おかげで、花道は何か作れとまで注文されることになった。
花道が台所とおぼしき場所へ行ってみると、立派な洋風キッチン兼食卓の上には、野菜や果物、肉類をはじめとする様々な食材が小山を作っている。驚いて流川を呼んできたら、彼は事もなげに、
「いつものことだ。近くに住んでるドワーフが持ってくる」
ドワーフというのは、あのインプと同じような小人の妖精らしい。普段は地価にこもっているそうなのだが、時々こうして流川に食糧を届けていくと言う。
察するに、ヴァンパイアはこのあたり一帯の大地主みたいなものなのだ。この世界に住む妖精たちは、誰も流川に逆らわない。特に忠誠を誓っているわけでもないが、何かがあれば流川に会いに来る。流川はもちろん彼らを助けることが務めで、その助けの見返りが、彼らの作った作物や、掘り出した鉱物や、珍しい書物だったりするようだ。
「……てめー、偉いのか?」
つい真剣にそう訊いてしまった花道に、流川はとても不思議そうな顔をした。
「強いんじゃねーの?」
訊き返されても花道にはわからない。偉いと強いが違うことなのか区別できなかったので、曖昧に返事をしておいた。
流川はそのままキッチンの食卓に腰掛けると、腕に顔を埋めて眠ってしまう。また起こすのが大変そうだと溜め息をつきつつ、花道は食事を作り始めた。
あらかた食事の準備が済むと、花道は書斎へ行ってみた。そこには、思ったとおりケット・シーの姿があって、黒猫はこちらに気づくと少し驚いたように目を大きくした。
「なーんだ、まだ生きてんじゃん」
言いぐさに笑ってしまう。花道も軽く「そーみてー」と返すと、ケット・シーは大儀そうに溜め息をついた。猫の溜め息を見たことのなかった花道は、会話の奇妙さをそっちのけで、また少しだけ笑った。
「メシ作ったんだ。もしてめーも食うんなら、下来ねーかなと思ってよ」
「へぇ、お前作れるの?」
「おう。俺、一人暮らししてっから……つっても、簡単なもんだけだけどな」
充分じゃん、猫が笑う。
「流川なんて、何もできないんだよ? 食糧は腐るくらいあるのに、いっつもダメにしちゃうんだ。ふぅん、そっか。お前がいると便利かも」
ケット・シーの独り言は相変わらず陽気である。稀に皮肉が混じるのが難と言えば難なのだが、慣れればどうということもなかった。かえって何もかもが開けっぴろげに感じるくらいだ。風通しが良くて良いかもしれない。
「ところでよぉ。あのでっかい犬も、この家に住んでんのか?」
「犬? ヘル・ハウンドのこと?」
「多分」
「住んでるよ、何で?」
「いや。あいつもメシ食うかなと思って」
言うと、ケット・シーが明らかに飽きれたような目をした。
「お前、つくずく変……。言っとくけど、あいつはどんな食べ物より、お前が腕一本でも差し出してやった方が喜ぶと思うよ」
「それはヤだ」
「じゃ、でっかい肉の塊でも用意してやったら?」
「そーする」
黒猫が楽しげに笑う。普通の猫がするように、花道の膝に頭をこすりつける。そっと毛並みを撫でてやると、彼はごろんと身体を横たわらせた。まるで気持ちいいからもっとしろと言われているようだ。花道は彼の顎の下を指でやさしく掻いてやった。
「……ところでさぁ、お前、簡単にもとの世界にも帰れるんだよ?」
幾分とろんとなった声で、ケット・シーが呟いた。
「そこの鏡……あれがお前の世界への入り口」
花道はそうかとだけ答える。彼もそれ以上は言わなかった。その代わり、思い出したようにこちらを振り仰いだ。緑色の目がふと真剣になった気がして、花道が手を止める。
「さっきの、名前の話……」
「……ああ」
「あれからいろいろ考えて……俺、やっと思い出した」
思い出した、と、ケット・シーは言う。つまり彼は今まで自分の名前を忘れていたのだろうか。花道は何となく黙り込む。黒猫は更に続けた。
「まだ俺が人間たちの世界にいた頃、ある女が俺に名前をつけた。そいつ……変なやつだった。一日中酒ばっかり飲んでて、畑仕事もしなかった。毎日笑ってたな、一人っきりの暗いボロ屋で……」
花道はケット・シーをじっと見つめていた。大切な話であることはわかっていた。どうして彼が話す気になったのかは知らないが、聞き逃すわけにはいかない。
緑色の目が、複雑な感情を浮かべて花道を映す。
「そいつさ、子供がいたらしいんだ。でも生まれてすぐに死んだか何かで、男にも捨てられて、ボロボロんなってたんだよね。それで、俺が部屋に迷い込んだ時も酔っ払ってて、見つけた途端、面白がって人んことぬいぐるみみたいに扱うんだ。それで勝手につけられた名前が――」
ケット・シーは苦笑するように目を細めた。
「アキラ。センドーアキラ。その女の死んだ子供の名前だから、本当は俺のじゃないんだけど」
黒猫が花道をじっと見上げた。花道は小さく笑う。
「……そんでも、それがお前の名前なんだろ。お前がお前でいることの証明じゃん」
「そっか。そーだよねぇ……」
「そーだぜ。忘れてんじゃねーよ、センドー」
呼ぶと、黒猫は恥ずかしそうに顔を逸らした。
「……アキラって呼ばれてたよ、俺」
「いーんだ。普通、最初は苗字で呼び合う。それで少しずつ相手のことがわかってきて、いろんな話ができるようになったら、名前で呼ぶようにするんだ」
「ふぅん。じゃあ……俺もお前のこと桜木って呼ぶんだな?」
「そう」
嬉しくなった。花道が笑うとセンドーがこちらを向く。それから彼は、半分照れ隠しのように花道の肩に飛び乗ると、頬に頭をこすりつけながら、
「腹減ったよ、桜木。早くメシ食おう」
「おう」
一人と一匹は、そんな言葉を交わしてヴァンパイアの待つ食卓へ向かった。